ポルトガルが新世界に初代総督を派遣したのは1549年のことだ。それから一世紀半ほど経ってミナスジェライスで金の大鉱床が発見された。本格的なブラジルの発展はその時点から始まる、と言える。
(1)大西洋沿岸部にほぼ限定された植民地
1530年代に最初の15(実際には14)のカピタニアを下賜されたドナタリオは11名いたが、経営失敗や撤収に追い込まれ、或いは死去した場合、没収され、国王の直轄領(王領)に変わった。代表的なのがバイアで、ここに1549年に初代ブラジル総督のソウザ(1502-1579)が派遣され、サルヴァドルが建設され、総督府が置かれた。
成功例に挙げたサンヴィセンテでも、東半分が放置され、1556年、ここにフランス人新教徒が入植地を拓いた。「南極フランス」として知られる。総督府から派遣された遠征隊が1565年に彼らを追放した後、そこにリオデジャネイロを築き、15番目の、且つ王領のカピタニアとなった。
北部のマラニョンにはカピタニアが2つあったが、早くに棄却された状態に陥る。十七世紀に入りフランス人が入植を始め、1612年に「赤道フランス」としサンルイスを建設、3年後にペルナンブーコから来た遠征隊に追放される。これが1621年のマラニョン植民地創設の引き金になった。2つのカピタニアを統合した新植民地の首府となったサンルイスに、サルヴァドルから独立した総督府が設けられることになる。
イベリア連合王国時代の1581年、オランダがスペインからの独立を宣言した。彼らはポルトガルをも標的とした。アフリカのアンゴラを奪取し、奴隷輸送を妨害、前述のピート・ヘイン艦隊は、スペインの護送船団襲撃に先んじて、ブラジル総督府のサルヴァドル襲撃を繰り返した。ほどなく、1630年に、やはりカピタニアのもう一つの成功例として挙げたエンジェニョで栄えるペルナンブーコなどを支配下に置いた。マラニョン植民地の南部も、一時的に支配した。エンジェニョ経営はポルトガル人に委ねたが、対立が続き、また奴隷の逃亡も顕著だった。
1640年、ポルトガルがスペインから独立した。49年、ブラジル沿岸部の交易独占権を担う「ブラジル総合貿易会社」(1720年まで活動)が設立されたが、同社は沿岸防衛も責務として負った。52年に始まった英蘭戦争が有利に作用、54年、オランダ追放に成功する。
お気づきの通り、以上の舞台は全て、沿岸部に限定される。前述の通り、経済は砂糖産業のモノカルチャーであり、交易上の必然、と言える。
(2)ポルトガルの植民地交易
前述したが、サンヴィセンテ、ペルナンブーコのいずれの初代ドナタリオも、エンジェニョを築いた。王領となったバイアでもエンジェニョが多く築かれた。フランス人新教徒の入植地(1556-65)を滅ぼした後、その地に、15番目の、且つ王領のカピタニア、リオデジャネイロが作られ、やはりエンジェニョが築かれた。
本国との交易は、
- リスボンからレシフェ(オリンダ)、サルヴァドル、リオデジャネイロ、後にはマラニョンのサンルイスとベレムに向け本国製品を輸送し、帰り船で砂糖などを持ち帰る、或いは
- 本国からアフリカへの物資輸送船で奴隷をブラジルに運び、植民地産品を本国、若しくはアフリカに輸送する
の、いわゆる三角貿易の形を採った。スペイン同様、自国船による。1595年にはスペイン植民地へのアフリカ人奴隷の輸送も正式に可能となる。オランダとの抗争時代、奴隷輸送には支障を来したが、本国との交易は続く。本国から軍艦も派遣されたが、交易に関しては、スペインのような護送船団ではなかったようだ。
下記の如く実効支配領域が拡大し、新たな交易商品が出現すると、交易体制も変化する。1682年、「マラニョン貿易会社」が設立されたのも、その一環だろう。
ブラジルの交易には密輸が多かった、とされる。海岸線が長く、本国との直接交易が認められていない港湾が多かったことが背景にあると考えたい。
(3)実効支配領域の拡大
セルタン(Sertão)と呼ばれる大陸奥地に実効支配領域を拡大するための探検は、勿論進められていた。「バンデイラ(Bandeira」と言う民間探検隊が知られる。旗を手で掲げながら辺境を駆け巡る冒険探検隊で、有名なのは、サンパウロを拠点としていた、所謂「パウリスタ」(サンパウロ人)だ。「勇敢な冒険家」のイメージが強く、英雄視される。ちょうど北米で西部開拓者たちを敬愛するようなものだろう。だが、負のイメージも強い。本来の目的が、先住民奴隷狩りである。労働を奴隷に依存する経済は変わらず奴隷需要は高まっているのに、オランダに輸送が妨害されていたアフリカからの奴隷を、先住民で穴埋めをさせよう、と言うものだ。こちらの方は、1648年のアンゴラ奪還で、理由からは外れる。だが、先住民奴隷を追い求めるバンデイラは続いた。
彼らの先住民奴隷狩りは恥ずべき行為とは言え、下記の通り歴史的功績は大きい。
- トルデシリャス線を越え、領域が四倍になった。
- 奥地への交通路が開かれ、沿岸部に限定されていた実効支配地域が伸びた。
- 遠征途中の各地に、彼ら自身の食料確保の観点から、農園や牧場を築いた。
- 交通路延伸の中で、1693年、ミナスジェライスでの大規模金鉱床の発見を皮切りに、貴金属発見が相次ぎ、次なる飛躍の元になった。
バンデイラは、イベリア連合王国時代に始まった。スペイン人には定住型先住民が不在で、エンコミエンダが築けない、或いは労働力が確保できないと、関心が希薄だった地域だったため、当初は大きな問題にならなかった、と思われる。
1637~39年、マラニョン植民地からアマゾン流域探検隊が出た。彼らは「川の道」をキトまで踏破、同地のスペイン植民地当局が打った手は、彼らの帰還にイエズス会士を同行させた程度だったようだ。探検隊はタバコ、カカオ、香辛料、綿花の生産適地をも発見した。入植者を招き、マラニョンの交易商品育成に繋がった、と言う。連合王国は、この直後に崩壊した。結果的に先住民奴隷化が進んだことから、これもバンデイラと考えて良さそうだ。
(4)ポルトガルの対英同盟の中で
1654年のオランダ追放後、ポルトガルは対英同盟関係の強化に邁進した。この年、本国と植民地との交易権を、イギリス船にも開放する。ただ奴隷貿易については、イギリス自体が北米及びカリブ海域に既に大々的な奴隷輸送を行っており、ブラジル及びマラニョンとアフリカとの輸送に関わったのかどうか、よく分からない。
ただ、これ以降、バンデイラによる実効支配領域の急拡大が実現して行くのを、スペインが座視せざるを得なかった点に注目しておきたい。
スペイン植民地交易のガレオネス(パナマルート)から最も遠い地、本国との交易は全て、アンデスを越えたリマを経由していたラプラタの大草原、パンパ地方は、放牧と原産のマテ茶で知られた。1580年、イベリア連合王国発足の年、ブエノスアイレスが再建された。これに対ブラジル直接貿易権が認められた。皮革とマテ茶を輸出、奴隷やヨーロッパからの物資を輸入した。決済には、ポトシの銀が使われた。ポルトガルがスペイン支配から脱すれば、非合法(密輸)、となる。だが貿易は続いた。
イエズス会などの布教集落は各地に存在し、そこでは先住民も農牧業に勤しんでいた。バンデイラには格好の標的だ。パウリスタらはラプラタ川近くまで到達し、同地の布教村襲撃を繰り返し、結果的に支配地域をこの地まで拡大、1680年、ブエノスアイレスの対岸にコロニアを建設した。密輸はさらに膨張した。
バンデイラの活動では、1693年のミナスジェライスの大規模な金鉱発見も特筆できる。トルデシリャス線は越えていないが、この地もセルタンだ。オランダ追放後、カリブ島嶼部で砂糖生産が本格化した。砂糖の国際相場が、大きく下落した。見切りを付けたエンジェニョ主らが、奴隷を伴い、入植して来た。後に鉱山都市、オウロプレトが開かれる。貴金属の採掘者に対し「5分の1(キント)」税を義務付けるのは、スペインと同様だ。王室のブラジルに対する注目度が一気に高まる。スペイン植民地同様、周縁産業も興る。本国からの入植者の急増が、漸く始まった。王立鋳造所を創設し、全量販売を義務付け、課税効率を高めた。1729年、ミナスジェライスで、今度はダイアモンド鉱床も発見された。ここは始めから王室が取り込む。
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