大土地所有-アシエンダとファゼンダ |
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大土地所有というのは、ラ米経済の宿痾(しゅくあ)と言う人がいる。スペイン植民地のアシエンダ(Hacienda)やブラジルのファゼンダ(Fazenda)にしても、規模は数千、中には数万㌶、と、その広さには圧倒される。イベリア社会に見られる大荘園(ラティフンディオ=Latifundio)が、とてつもなく広大で過疎の新世界にも移入されたのは、自然だった。 (1)スペイン植民地のアシエンダ 1502年、別掲コンキスタドル(征服者)たちで述べたエンコミエンダ制が開始され、コンキスタドルらは国王から委託(encomendar)された統治区間(エンコミエンダ)を治めるエンコメンデロになった。当該地区に住む先住民から、人頭税として生産の上がりの一部を徴収し、征服段階で獲た金細工などの掠奪品に加え、富を得た。また、もともとの先住民社会には属さない「空き地」を恩賜された。広さは、騎士(Caballero)にはカバリェリア(約40ヘクタール)、歩兵(Peón)にはその5分の1に相当するペオニア(8ヘクタール)が単位だったようだ。日本人から見てどうあれ、世界水準では決して広くない。だから、征服期の当初から大土地所有が一般的だったわけではない。 コンキスタドルらが新世界に持ち込んだ馬、牛、ヤギ、羊、ブタ、鶏は、急速に繁殖していった。野生化する馬や牛もいる。この過程で所有地の拡大が必要となった。 1591年、所有権が曖昧な牧畜地については、対象面積の土地代支払を条件に申請者の所有権を認めることが決まり、牧畜地が一気に拡大した。富を蓄えていたエンコメンデロに加え、資産家がヨーロッパから押し寄せた。食肉、獣脂、皮、羊毛生産が興り、急速な発展を遂げていった。かかる大牧畜地を「エスタンシア(Estancia)」と呼んだ。森もあれば川や沼もある。穀物、野菜、果物の種苗も持ち込まれ、これを栽培する巨大農園、即ちアシエンダへ発展していく。持ち主を「アセンダード(Hacendado)」と呼ぶ。 先住民のキリスト教化を目的に新大陸に到来し、彼らを集住させ布教村(misión)を築き、そこで大規模農牧業を経営したイエズス会のような宣教団も、アセンダードと言えよう。もともと先住民が非定住の狩猟採取型で、エンコミエンダには不適な、南米南部や現米国の西部地帯に多くみられる。 (2)ブラジルのファゼンダ 植民が進むのは、「エンジェニョ(engenho)」(砂糖プランテーション)が動き出してからだ。前述のソウザがサンヴィセンテでサトウキビを植え付けた1532年が最初、と言う説に従うと、スペイン植民地でのインカ帝国征服直前に、一定規模のブラジル入植が、漸く始まったことになる。 砂糖は、ポルトガル本国に商船で出荷される。どうしてもエンジェニョや周辺のファゼンダは、大西洋沿岸に固まってしまう。トルデシリャス条約に基づくスペイン領との境界線(以下、トルデシリャス線)までは、沿岸から2千km近くもの距離がある。面積にして日本の五倍の領土で、実効支配地域は極めて限定的だった。 スペイン植民地で農村部の肉体労働を担ったのは、基本的には先住民だ。彼ら自身の共同体(集落)のみならず、エンコメンデロの農場での農作業にも従事した。十七世紀にかけ先住民人口が減少し、その共同体も弱体化、或いは集落ごとの強制移住も進み、土地を手放していくのに反比例して、鉱山開発などで経済発展を招いた。入植者もクリオーリョも増え、新たなアシエンダが現れた。アセンダードらは、強制移住を拒む、或いは強制労働を課せられた鉱山から逃散する先住民を取り込み、住居と小作地を与え、常雇いとし、或いはメスティソを引き入れることで、その労働力を確保した。牧地で牛追い(北部ではVaquero、南部ではGauchoと呼ばれた)の仕事を担うのは、メスティソが多かった。
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