十八世紀の植民地経済

 
 1700年、スペインは国王をフランスのブルボン家から迎えた。「スペイン継承戦争」1700-13)により、フランスの属国とならない条件で、ヨーロッパ諸国はこれを認めた。だが、いわゆる「家族協定」を通じた同盟関係で、フランスの影響力は回避できない。一方ポルトガルの対英同盟は強化された。1775年に勃発した北米の独立戦争には、ブラジルが一大物資供給元としてイギリスに貢献、スペイン植民地はフランスに追随する形で、北米支援のため植民地軍を派遣する。
 この中で、スペイン植民地、ブラジルいずれも、経済規模が大きく伸びた。白人人口は前者で五倍増、後者で十倍増と見られることが、その証左と言える。

(1)植民地交易システムの変化

 1700年、ガレオネス(パナマルート)に限定された南米交易に、南米南端のホーン岬経由が追加され、これにフランス商船が参入した。つまり、スペイン船に独占させた植民地交易は、フランス船にも開放される。加えて、交易システムも変わり、減少していた交易量も回復した。1549年以来のスペイン植民地交易システム自体も、下表のように大きく変わって行く

1728

「王立カラカス・ギプスコア会社」設立

フロータス(メキシコルート)から切り離し本国との直接交易を認可したもので、以後カカオ産地として伸長していた現ベネズエラのカラカスが、一大交易港として発展

1740

ガレオネス廃止

南米南部交易はホーン岬経由に集約。南米北部は現コロンビアのカルタヘナなどに直接交易権を開放。南米南部でもブエノスアイレスが正式な交易拠点として台頭

1755

「カタルーニャ会社」設立

カリブ地域と本国バルセロナ間の交易が合法化。スペイン側の交易港カディス(1717年にセビリャから移る)の独占権に風穴が開いた

1789

フロータス廃止

全植民地に本国との直接交易権を開放

 この間、いわゆる「ブルボン改革」の一環で、1739年、ヌエバグラナダ(ボゴタ)、76年、ラプラタ(ブエノスアイレス)の副王府が開かれた。
 また英仏間「七年戦争(175663年)」最中の1762年、イギリスが一時的にハバナを占領、敵国以外の諸国との貿易が認められる自由港となる。スペイン返還後も、自由港の地位は維持される。加えて1797年、植民地全てが、中立国に限り、外国との直接貿易を認めるようになる。

(2)ブラジルの発展

 十七世紀を通じ下落を続けていた砂糖価格が、1710年を底に、上昇に転じた。ミナスジェライスで金の大規模鉱床が発見されたことと相まって、ポルトガル王室のブラジルに対する注目度が高まった。1720年、サルヴァドルの総督府が副王府に昇格する。
 金鉱山の発見は、172030年代にも、トルデシリャス線を越えて、マトグロソ、ゴイアスでも続いた。十八世紀を通し、ブラジルは世界で最大の金の供給者となった、旨が言われている。鉱山の有るところには、ブラジル内外からその採掘を筆頭に入植者が殺到し、周縁地域開発などで植民全体の経済力も上がる。スペイン植民地でみた通りだ。スペインはポルトガルの実効支配領域を正式に認めざるを得なくなっていた。 

1750

マドリード条約

トルデシリャス線より西部の領域に関し、スペインはポルトガルの実効支配領域を正式に追認(1777年のサンイルデフォンソ条約で今日の境界線がほぼ確定)

1763

副王府移転

サルヴァドルからリオデジャネイロに

1766

定期船団廃止

許可状取得を条件に、外国船を含む全ての船舶に、ポルトガル・ブラジル(マラニョン含む)間交易を開放

1774

マラニョン統合

マラニョン植民地をブラジルに統合し、副王管掌下に入れる

 その後の副王府移転、定期船団の廃止、マラニョン統合は、いわゆる「ポンバル改革」の一環だ。特にマラニョン植民地について付記すると、1775年の北米独立革命勃発に伴い、ブラジルが対英物資供給源となったが、その代表例がマラニョン産綿花とされる。北米産の綿花に依存していたイギリス軽工業の維持に貢献した。他にも十八世に入り急速に発展していた牧業から、機械の駆動部に使用される皮革、ローソクの原料だった獣脂、或いは保存食としての干肉などもあった。

(3)アメリカ人の形成

十九世紀初頭(スペイン植民地)及び1825年のブラジルの人種別人口に就いて、在マドリードのアメリカ博物館の推計をもとに、下表に夫々の数値を当て嵌めてみた。

白人

先住民

黒人

混血

スペイン植民地

338万人

744万人

 85万人

524万人

 1,690万人

ブラジル(1825年)

88

 32

 208

 72

  400万人

先住民は、スペイン植民地の場合は人頭税が課せられていただけに、人口は把握し易いと思われるが、ブラジルはアマゾンの奥地に逃れた人も多く、実態把握は難しい。ともあれ、大半の先住民はスペイン語やポルトガル語も解せず、アメリカ人形成とは趣旨が異なる。彼らについては、別掲ラ米の人種的多様性先住民(インディオ)を参照願いたい。

 植民地人口の十八世紀の変動は、分からない。
 前述のIBGE(ブラジル地理統計院)は、1700年までのポルトガル人のブラジル入植者数を10万人、1760年までにさらに60万が入植した、としている。それ以降のデータは1808年までは見当たらない。加えて、その時々の人口は不明だ。ただ、経済の発展に伴い白人入植者が十八世紀に急増したことは断言して良かろう。スペイン植民地では交易システムの変更で、従来の僻地、ベネズエラやラプラタへの移住者が増えた。
 黒人に就いては、前述のIBGE(ブラジル地理統計院)による奴隷のブラジル到着数が、1829年までの累計で319万人になっている。一部に自由身分を得た、或いはより幸運な奴隷が子孫を残した割に、多くが酷使により短期間に死亡していることを示す。スペイン植民地でも同様だが、前出の数字から見れば概ね輸入された人数と上表が偶々一致する。十八世紀の変動は分からないが、人口としては倍増以上、と思われる。
 混血には概ね白人と先住民及び黒人の他に、白人と混血、混血同士、稀ではあろうが黒人と先住民、黒人と混血もある(同、ラ米の人種混交)。その割合は分からない。ただ十八世紀を通じ、白人同様、かなりの増加を見たことは間違いあるまい。

 白人の中には本国から派遣された司法行政官僚、投資家の代理人、軍人なども含まるが、上記数のごく一部に過ぎずない。残りは人種間、或いは同人種でも社会的身分により立場は異にしても、全て植民地人、即ちアメリカ人と言って良い。スペイン植民地においては白人の、アメリカ人としての自我が、経済の発展の中で高まっていた。混血、及び黒人の一部についても同様だ。ブラジルの白人入植は、十八世紀に漸く本格化したばかりであり、アメリカ人として自我はスペイン植民地人よりかなり弱かった、と思われる。彼らの多くは、本国との社会的、人的繋がりを重視したとされる。

(4)夫々の改革

 上記「ブルボン改革」及び「ポンバル改革」のもとは、当時ヨーロッパ中に広まっていた啓蒙思想で、ここから教会権力減殺の発想が出る。1759年(ポルトガル)と1767年(スペイン)領土からのイエズス会追放は、その一環だ。同会は教育に熱心で、ラ米のアイデンティティー形成に大きな役割を担っていた。一方で、王権神授説をももとにしており、これが中央集権的な専制政治を志向している。植民地行政でみると; 

植民人への機会付与

ブルボン改革

ポンバル改革

植民地官職への任用

慣習上開放して来たもの剥奪

一層の開放

植民地での経済活動

ワイン、小麦、織物生産等禁止

綿花、コメ、カカオ増産

ブルボン改革は弱体化した国力の回復に、王室の歳入増を図った。その結果、アルカバラ(売上税)及び先住民への人頭税引き上げと、富裕層への戦争税(義務的寄附金)徴収、つまり植民地の富を本国に移す政策を進めた。本国に対する反発が強まり反乱も多発したことで、撤回された政策が多かった。
 ポンバル改革は、ポルトガルの対英貿易赤字を埋めるために不可欠、と、ブラジルの産業振興を図った。上表通り、官職の植民地人への一層の開放も図った。植民地にとってのメリットは大きい。ポンバルは先住民の同化政策も進めたが、奏功しなかった。
 1776年の北米独立革命が植民地側に波及しなかったのは、いずれの改革にしても、本国の状況を余所眼に、結果的に植民地経済の進展を妨げなかったことが大きい。



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