植民地の交易・物流商品


 大量の貴金属資源を有する新世界は、スペイン(先住民からの略奪を含めると、当初から)とポルトガル(十七世紀末から)にとって、富の源泉だった。その他にもヨーロッパ人が好む食料、嗜好品、染料、香料が有った。これらがヨーロッパ人(白人)の移住を呼び、その有効需要を見込んでさらなる白人移住者を呼び込んだ。ここでは貴金属以外に、植民地で開発された本国向け交易、及び植民地内流通の商品について述べる。

(1)砂糖 

 ポルトガルにとっては、南アフリカの喜望峰経由で行われるアジア植民地との交易がブラジルとのそれより遥かに金額が張り、重要だった。ブラジル原産の換金商品は、当初パウ・ブラジル(蘇芳科の木。染料に使用。地名の由来)くらいで、砂糖は他の植民地から持ち込んだものだ。十六世紀後半には世界最大となった、といわれるが、1585年段階で1万トンにも満たなかったようだ。それでも大半を本国に運ぶには、積載可能量が数百トンの商船が、延べ数十隻必要となる勘定だ。なお、この年のエンジェニョ(砂糖プランテーション)数130基、と言う数字が出ている。
 当時、スペインから追放された「ジュダイザンテJudaizante。隠れユダヤ人)」や新教徒がオランダに移住し、商業分野で活躍していた。オランダ商人は、昔よりヨーロッパで生産されていた根菜糖を精製し、ヨーロッパで売り捌くノウハウを持ち、当時では糖業はオランダが最も栄えていた、と言われる。ジュダイザンテはブラジルに砂糖生産機械の購入資金を融資し、ブラジルで集荷した粗糖をオランダで精製し、ヨーロッパの販路に流す仕組みを築いた。
 
 十七世紀に入ると、そのオランダがポルトガルと敵対関係に入り、最終的に砂糖の一大産地、ペルナンブーコを24年間に亘り支配したことは、前述の通りだ。この頃より、砂糖産業はイギリス領になったバルバドスを皮切りに、カリブ島嶼部を中心に生産地が拡散した。1654年にオランダがブラジルから撤退すると、ジュダイザンテや一部エンジェニョ主らがキュラソーなどのカリブ海小島嶼群に移住し、カリブの砂糖生産伸長に拍車を掛けた。一方でブラジル内のエンジェニョ数は増え続けた。結果は、砂糖の国際価格の下落だ。本国向け船積み量が分かれば有り難いが、金額面では1600年の280万ポンドが1650年に370万ポンドになり、その後下降し続け1710年の180万ポンドで底打ちした、との数字は出ている。 

 スペイン植民地にも、砂糖生産は広まった。だが十七世紀までは、植民地内重要を満たす量に留まっていたようだ。

(2)現産商品

1492年、コロンブス一行が植民を開始したイスパニオラ島の先住民タイノ族は、定住型の農耕民族だった。その後征服事業に向かった大陸部の先住民の多くが、農耕を営んでいた。新世界には白人も好む芋、マメ、トウモロコシ、トマト、カボチャなどが栽培され、日常的に食されていた。これらは種苗の形でヨーロッパにもたらされ、同地の食文化の発展に大きく貢献した。その他に白人が発見したものには;

  • 染料:コチニール、インディゴ藍
  • 嗜好品:タバコ
  • 食料:カカオ豆、香辛料

などがある。その他に、大規模牧場では皮革などが加わった。これらは交易商品としてスペイン本国に送られた。本国では外国貿易並みに関税をかけ、これを国庫に入れた。

 ポルトガル植民地でも、前述のバンデイラによるセルタン(奥地)探検の結果、タバコ、カカオ、香辛料、綿花などが交易商品に加わった。皮革も同様だ。

 密輸が横行したと言われる。ベネズエラは、年一回のフロータス(メキシコルート)が素通りし、合法交易には、その寄港地までの海上搬送が必要だ。カリブ海域に出没するオランダ、イギリス、フランスの船との密輸は、自然な流れだった。現コロンビアからメキシコまでについても海岸線が長く、密輸取り締まりは困難だ。スペインの制海権が弱まれば、植民地人として密輸の誘惑には勝てない。同じくラプラタは、ガレオネス(パナマルート)による合法交易にはリマまでの内陸輸送が欠かせない。前項で見たように、ブラジル経由の密輸に流れたことも自然だった。ブラジルも海岸線は長い。やはり密輸が盛んだった、とされる。

(3)周縁産業の発達

 スペイン植民地では、本国の凋落と植民地交易の減少の一方で、十七世紀後半から先住民人口が回復に転じ、白人、メスティソ、黒人、ムラート共々、人口増大が続いていた。植民地人を糊する食料、日用品などを生産し消費者に販売する産業は、植民地の貨幣経済の発達と相まって、自然に興った。本国からの家具、衣料、陶器、金属製品(武器を含む)、ワインなど物資供給の安定性の棄損により、代替物資生産を促した。

  • 基礎食料品。原産物のトウモロコシ、イモ、マメ、トマトなどに加え、ヨーロッパ人が持ち込んだ穀物、野菜・果物類、食肉、鶏卵など
  • 衣料(工場をオブラーヘObrajeと呼んだ。現エクアドルのキトやメキシコのプエブラが有名)。その原料として、綿花(現アルゼンチンのトゥクマンが有名)生産、及び羊毛のための羊飼育(現アルゼンチンのコルドバなど)
  • ワイン(現アルゼンチンのメンドーサ、ペルーのイカが有名)。その原料としてブドウ生産も増大
  • 家具、台所用品(陶器はメキシコのプエブラとグァダラハラ、ペルーのイカとナスカが有名)、工具類、獣皮、ローソク、皮革等
  • 金属鋳造品。ペルーのアレキパ、メキシコのプエブラが知られる。要塞や港湾、或いは各都市に備え付ける大砲まで製造していた。
  • 造船(太平洋岸航路の輸送船を作った現エクアドルのグァヤキルが有名)

 輸送手段としては、陸上ではラバが使われた。その飼育地としては、アンデス東麓一帯がよく知られ、現アルゼンチンのサルタはラバの市で賑わった、という。様々な物資は流通業者の隊商により運ばれた。植民地内で生産される船により、足の速い海上、河川航行での輸送も活発だった。これが植民地同士の繋がりを強める役割をも担った。

 ポルトガル植民地でも入植者増大に連れて、特に1693年の金鉱床発見以後、スペイン植民地同様の周縁産業が発達する。海岸線や河川に留まらず、バンデイラが拓いていたセルタンとの交通路も活用された。陸上物流には、やはりラバの隊商が活躍した。

(4)貨幣経済の浸透

 ヨーロッパ全体の貨幣経済の発展に著しく貢献したスペイン植民地の銀は、当初、大半がスペインに輸送された。バカニアの時代に交易船が減少、交易量は減少した。ところが、植民地における金、銀の生産は、寧ろ増えた。植民地でも貨幣は鋳造され、貨幣経済の発達と共に、生産量が伸びたことがある。その背景として言われるのが;

  • 周縁産業の伸びによる経済規模の拡大
  • 物々交換が慣習化されていた先住民社会への現金流入
  • もともと賃労働のメスティソ、ムラート、自由身分を持つ黒人の増大

農村部のみならず都市部の公共事業、鉱山でも、肉体労働を担った先住民への労働対価を貨幣で支給される雇用契約方式が広まって来る。鉱山労働に関しては、職業としての鉱夫になり、鉱山都市に残る先住民も増えた。給与は、強制徴用(ミタ)による賦役報酬の5倍だった、という研究者もいる。賦役から戻る先住民も、アシエンダでの労働力提供の際に、従来そこで生産される食品、衣類、工具などによる物品払いだったのが、賃労働に変わり始めた。物納が認められていた人頭税も次第に換金商品(カカオや砂糖など)、或いは現金払に変わり、先住民としても現金を稼ぐ必要が生まれるようになった。労働提供はメスティソや自由身分を得る黒人、或いはムラートも同様で、農村部のみならず都市部でも、或いは流通業でも賃労働に就いた。しかも増加の一途を辿った。

 ポルトガル植民地にも白人と友好関係を持つ先住民が存在し、マメルコも多く誕生したが、彼らも賃労働に就いた。自由身分を得た黒人やムラートも同様だ。ミナスジェライスでは金採取量によって自由となった黒人たちのエピソードはよく知られる。


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