ラ米植民地の経営 |
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(1)スペイン植民地の統治機構 十七世紀央までのスペイン植民地は;
の組織化された司法・行政機構により統治されていた。 この陣容は征服事業の拡大、領土防衛と植民地交易保護のためのインフラ整備、移住者の増加に比例して行く。ある研究者は、新世界への移住者数を十六世紀24.3万人、十七世紀前半で19.5万人という推計を出している。圧倒的に男性が多く混血が進んだのも、女性の移住者もあり植民地生まれの白人、クリオーリョ(Criollo)が多く誕生したのも、また十七世紀末、白人人口が1百万人を超えたのも間違いあるまい。 植民地財政の実態はよく分からないが、
などが植民地居住者に課せられていた。人頭税についてはエンコメンデロ(別掲コンキスタドル(征服者)たち参照)に対するもので、当初は彼らが徴収した。後には、本国任命のコレヒドール(Corregidor)による徴収に変わり、しかも一部は当局が吸収した。関税は、植民地では交易指定港役場(Consulado)や組合(Gremio)が徴収した。その他の税や寄附金の徴収は、原則として上記コレヒドールが行ったようだ。徴税を逃れるための密輸や不正が多発した、とされる。 (2)スペイン植民地の人種隔離 エンコメンデロは先住民を、自らの農牧場や、自らが居住する都市(Ciudad)の土木、建設の労働に徴用した。酷使は、ただでさえ白人が持ち込んだ疫病による人口急減に追い打ちを掛けた。実態を憂えた王室は、1542年、かかる徴用の禁止と世襲制限をうたった「インディアス新法」を出す。だが、そもそも先住民は国王の新臣民の扱いであり、保護すべき存在、との建前があり、白人による先住民虐待を防ぐため、として、人種隔離政策がそのずっと前より採られていた。 スペイン植民地に来る白人は、基本的に都市に居住した。エンコメンデロや彼らを含む大土地所有者、鉱山主、大商人及びその家族と関係者、行政官僚、聖職者、軍人、兵士、商人、手工業者、職人、技師、医師、法律家、教職員などが都市に集まった。 この政策にも拘わらず、人種間混交は進んだ。多人種共存の鉱山都市ができ、これに拍車を掛けた。時代によって大きな差があるが、新世界に到来する白人の7~9割は男性だった、と言われる。先住民貴族との姻戚関係を望む白人も多かった。その結果によるメスティソは、出自にもよるが、都市にも先住民集落にも居住した。 (3)ポルトガルの統治機構 スペイン領との境界線、いわゆる「トルデシリャス線」以東に陸地が存在することが分かったのは、十六世紀初頭のことだ。この地には非定住型(狩猟採取)の先住民と、換金できる現産物は染料として利用できるパウ・ブラジルと呼ぶ樹木程度しか見つけられなかった。
強大な権限を持たされながら、最初のカピタニアで成功したドナタリオは、ペルナンブーコ及びサンヴィセンテ(現サンパウロ)程度、と言われる。 後述するが、十七世紀末のブラジル(マラニョンを含む、と思われる)の人口は僅かに30万人だった、とされる。白人、黒人及び混血の総数で、先住民を除くものと思われる。 (4)奴隷について スペイン植民地では、エンコミエンダの先住民がもともと定住農耕型だった。上記のインディアス新法の前(隷従させる形で)も後(賃労働の形で)も、彼らが肉体労働に駆り出された。植民初期には奴隷化されており、先住民狩りがビジネスとして行われていた。先住民急減が凄まじかったカリブ島嶼や大陸の熱帯地域向けの、アフリカからの黒人奴隷輸入が行われるようになる。ある研究者によれば、その数は1760年までで55万人になり、1810年までにさらに30万人増えた。 ポルトガル人は、ブラジル先住民が非定住型であり労働徴用自体が困難と考え、奴隷として使役した。砂糖産業は、過酷な肉体労働を要した。通常のサトウキビの栽培と刈り取りだけではなく、今こそ機械に頼らねばできないような搾汁工程もある。砂糖産業が経済の基幹を成すブラジルには、白人の勝手な言い分だが、奴隷が不可欠だった。先住民は奥地へ逃亡した。結果として、ポルトガル人は大西洋を隔てたもう一つの植民地、アフリカから黒人奴隷を運んできた。その数は、IBGE(ブラジル地理統計院)によれば、同じく1760年までで147万人(内、十七世紀末までに51万人)、1855年までにさらに234万(内、十七世紀末までに51万)増えた。公的機関が出している数字ではあるが、特に上述の十七世紀末の人口を見る限り、正直言って、信じ難い。 イベリア連合王国時代の1595年、先住民奴隷の禁止と、ポルトガル商人に対するスペイン植民地への黒人奴隷輸入認可が、国王フェリペ一世(スペイン国王としてはフェリペ二世)から出された。前者は守られなかったが、後者はスペイン植民地の奴隷輸入の急増に繋がっている。
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