ラ米植民地の経営

 
 1494年に教皇アレクサンデル六世が主導した「トルデシリャス条約」で画定されたポルトガル支配領域は、 アマゾン河口より若干東側の地点から南はサンパウロまでの子午線の東側、今の広大なブラジル領土の五分の一ほどだった。アフリカ南端の喜望峰回りのアジア交易を優先させていたこと、ブラジル先住民が定住農耕民族でなく支配し難かったこと、などから、本国が植民地経営者たる総督を派遣したのは、スペイン(1502年)より半世紀近く遅れた1549年のことだ。スペイン植民地では既に副王制が敷かれ、大規模貴金属鉱山開発が進んでいた。 

(1)スペイン植民地の統治機構 

 十七世紀央までのスペイン植民地は;

副王

軍務総監

アウディエンシア

メキシコ

グァテマラ、グァダハラ

左記の他、サントドミンゴ、マニラ

リマ

ボゴタ

同、パナマ、キト、ラプラタ(現スクレ)、サンティアゴ

の組織化された司法・行政機構により統治されていた。

 この陣容は征服事業の拡大、領土防衛と植民地交易保護のためのインフラ整備、移住者の増加に比例して行く。ある研究者は、新世界への移住者数を十六世紀24.3万人、十七世紀前半で19.5万人という推計を出している。圧倒的に男性が多く混血が進んだのも、女性の移住者もあり植民地生まれの白人、クリオーリョ(Criollo)が多く誕生したのも、また十七世紀末、白人人口が1百万人を超えたのも間違いあるまい。

 植民地財政の実態はよく分からないが、

  • 人頭税:先住民が対象
  • 商品流通税:関税を含む
  • 教会への十分の一税(Diezmo
  • 強制寄附金:原則的に白人富裕層対象
  • 貴金属五分の一税(Quinto
  • アルカバラAlcabala。売上税)

などが植民地居住者に課せられていた。人頭税についてはエンコメンデロ(別掲コンキスタドル(征服者)たち参照)に対するもので、当初は彼らが徴収した。後には、本国任命のコレヒドール(Corregidorによる徴収に変わり、しかも一部は当局が吸収した。関税は、植民地では交易指定港役場(Consulado)や組合(Gremio)が徴収した。その他の税や寄附金の徴収は、原則として上記コレヒドールが行ったようだ。徴税を逃れるための密輸や不正が多発した、とされる。 

(2)スペイン植民地の人種隔離 

 エンコメンデロは先住民を、自らの農牧場や、自らが居住する都市(Ciudad)の土木、建設の労働に徴用した。酷使は、ただでさえ白人が持ち込んだ疫病による人口急減に追い打ちを掛けた。実態を憂えた王室は、1542年、かかる徴用の禁止と世襲制限をうたった「インディアス新法」を出す。だが、そもそも先住民は国王の新臣民の扱いであり、保護すべき存在、との建前があり、白人による先住民虐待を防ぐため、として、人種隔離政策がそのずっと前より採られていた。 

 スペイン植民地に来る白人は、基本的に都市に居住した。エンコメンデロや彼らを含む大土地所有者、鉱山主、大商人及びその家族と関係者、行政官僚、聖職者、軍人、兵士、商人、手工業者、職人、技師、医師、法律家、教職員などが都市に集まった。これを「スペイン人のレプブリカ」と呼んだ。建前は、植民地統治当局の隔離政策に従ったものだ。先住民で都市に居住したのは元王族などの支配階層、乃至は家事労働従事者に限られた。
 先住民社会は、スペイン人が到来する前から支配階層に対する貢納、兵役、労働徴発の義務が課されており、命令を下すのも白人の代理の形で、従来の支配層であり、違和感は無かった筈、とも言われている。先住民の集落(Pueblo)を「インディオのレプブリカ」と呼んだ。居住する白人と言えば聖職者と、アシエンダの管理者や在地の工房で働く職人、ごく一部でみられたフィンカ(Finca)と呼ばれる小農営者とその家族程度だった、とされる。 

 この政策にも拘わらず、人種間混交は進んだ。多人種共存の鉱山都市ができ、これに拍車を掛けた。時代によって大きな差があるが、新世界に到来する白人の79割は男性だった、と言われる。先住民貴族との姻戚関係を望む白人も多かった。その結果によるメスティソは、出自にもよるが、都市にも先住民集落にも居住した。
 カカオや砂糖のプランテーションなどは「インディオのレプブリカ」ではなく、「スペイン人のレプブリカ」に帰属した。ここでは主としてアフリカからもたらされた黒人奴隷が使われた。都市の白人家族での家事労働に就く女性奴隷も多かった。それだけの理由ではないが、白人との混血ムラート(Mulato)も多く誕生する。以上別掲のラ米の人種的多様性を参照願いたい。 

(3)ポルトガルの統治機構 

 スペイン領との境界線、いわゆる「トルデシリャス線」以東に陸地が存在することが分かったのは、十六世紀初頭のことだ。この地には非定住型(狩猟採取)の先住民と、換金できる現産物は染料として利用できるパウ・ブラジルと呼ぶ樹木程度しか見つけられなかった。
 1534
年、王室はこの地を大西洋岸に沿って15「カピタニア(Capitania)」に分割し、その開発特許権を貴族や高級官僚に「ドナタリオ(Capitaõ donatario)」として付与した。漸く、且つ不十分ながら、植民地として形が整った。

  • ドナタリオは領地を得て、農牧場や砂糖プランテーションなどを希望する有力移住者に「セズマリア(Sesmaria)」として委託。生産物に対し10%を取得、さらに本人も一定のセズマリアを取得し生産活動で収入を得る。
  • ドナタリオの権限は当該領地における司法・行政全てに及ぶ。
  • 王室は、パウ・ブラジル交易を独占する他、貴金属及び宝石類の生産にスペイン同様、五分の一税を得る。

 強大な権限を持たされながら、最初のカピタニアで成功したドナタリオは、ペルナンブーコ及びサンヴィセンテ(現サンパウロ)程度、と言われる。
 ポルトガルは、十五世紀からの東回り航路開拓に際して、アフリカの拠点網を構築し、西アフリカのアゾレス諸島やマデイラ諸島で砂糖産業を発展させ、また、奴隷供給基地として、アンゴラやギニアに拠点を築いていた。1532年に現サントス近郊に入植地を築き、サトウキビを植え付けたソウザ(1500-1571)は、サンヴィセンテのドナタリオになり、カピタニア制終焉の1753年まで続くドナタリオになった。ペルナンブーコのドナタリオになったコエリョ(1485-1554)には、1539年、アフリカからの奴隷輸送勅許が出たが、彼の家系は1718年までドナタリオを続けた。
 他の13のカピタニアは王室直轄になり、或いは時間を経て上記両カピタニアに吸収されたりした。1549年に総督を赴任させたのは、直轄カピタニアの一つとなったバイアのサルヴァドルである。北部のマラニョンや南部のリオデジャネイロも直轄となった。後者には十六世紀中に二度、別個の総督が派遣された。前者は1621年にマラニョン植民地(~1774年。ブラジルに再統合)として、1626年よりサンルイスに別個の総督が送られるようになる。なお1580年から60年間、スペイン国王がポルトガル国王を兼務する、いわゆる「イベリア連合王国(União ibérica)」の時代があったが、その間もカピタニア制は続く。

 後述するが、十七世紀末のブラジル(マラニョンを含む、と思われる)の人口は僅かに30万人だった、とされる。白人、黒人及び混血の総数で、先住民を除くものと思われる。 

(4)奴隷について
 
 ポルトガル人もスペイン人も、一般的に肉体労働を忌避した。

 スペイン植民地では、エンコミエンダの先住民がもともと定住農耕型だった。上記のインディアス新法の前(隷従させる形で)も後(賃労働の形で)も、彼らが肉体労働に駆り出された。植民初期には奴隷化されており、先住民狩りがビジネスとして行われていた。先住民急減が凄まじかったカリブ島嶼や大陸の熱帯地域向けの、アフリカからの黒人奴隷輸入が行われるようになる。ある研究者によれば、その数は1760年までで55万人になり、1810年までにさらに30万人増えた。

 ポルトガル人は、ブラジル先住民が非定住型であり労働徴用自体が困難と考え、奴隷として使役した。砂糖産業は、過酷な肉体労働を要した。通常のサトウキビの栽培と刈り取りだけではなく、今こそ機械に頼らねばできないような搾汁工程もある。砂糖産業が経済の基幹を成すブラジルには、白人の勝手な言い分だが、奴隷が不可欠だった。先住民は奥地へ逃亡した。結果として、ポルトガル人は大西洋を隔てたもう一つの植民地、アフリカから黒人奴隷を運んできた。その数は、IBGE(ブラジル地理統計院)によれば、同じく1760年までで147万人(内、十七世紀末までに51万人)、1855年までにさらに234(内、十七世紀末までに51万)増えた。公的機関が出している数字ではあるが、特に上述の十七世紀末の人口を見る限り、正直言って、信じ難い。 

 イベリア連合王国時代の1595年、先住民奴隷の禁止と、ポルトガル商人に対するスペイン植民地への黒人奴隷輸入認可が、国王フェリペ一世(スペイン国王としてはフェリペ二世)から出された。前者は守られなかったが、後者はスペイン植民地の奴隷輸入の急増に繋がっている。
 宣教団が経営する大農牧場の労働力は、スペイン植民地、ブラジルいずれも先住民だ。教化と「文明化」の一環とされた。だが、奴隷自体への抵抗は宣教団にもなく、黒人奴隷も抱えていた。

 なお、別掲ラ米の人種的多様性ラ米の黒人でも述べたが、黒人奴隷で自由資格を獲得し、農村部でも賃労働や聖職に就き、或いは都市を含む他所で転職し、職人などに成る人も多く出た。この割合は四分の一だった、と言われる。


ラ米植民地の経営 大土地所有 金と銀がもたらしたもの
ブラジルの変貌 植民地の交易・物流商品 十八世紀の植民地経済