別掲のコンキスタドル(征服者)たちでも触れたが、コンキスタドルを新世界に掻き立てたのは、エル・ドラド(黄金郷)への夢が大きかった。最初の植民地、イスパニオラ島で金の装飾品を付けた先住民と遭遇し、アステカ王国やインカ帝国などは貴金属の宝庫でもあった。後者を征服した後も、さらなるエル・ドラドを求め、征服は続いた。
ブラジルで初めて、オウロプレト(ミナスジェライス)で大規模な金の鉱床が発見されたのは1693年のことで、スペイン植民地でのポパヤン金鉱発見(1536年。現コロンビア)、ポトシ(1545年。現ボリビア)及びサカテカス(1546年。現メキシコ)両銀山発見から一世紀半程度遅れた。ここではスペイン植民地の金と銀がもたらしたものに焦点を当てる。
(1)スペインがヨーロッパ最強国に
金や銀は、夫々精錬され、本国に渡った。その量は、本国のみならず、前述した如くヨーロッパ全体の貨幣経済確立に資するほど、とも言われる。
大規模銀山はその後、1550年にグァナフアト、1592年、サンルイスポトシ(いずれも現メキシコ)、及び1610年、オルーロ(現ボリビア)などでも発見された。1570年代、銀精錬製法として水銀(アマルガム)法が確立した。必要な水銀はスペインから供給したが、1564年、現ペルーのワンカベリカに水銀鉱が発見されており、ポトシ銀山にはここから供給された。スペイン王室は;
- 鉱山投資家への二割貢納(「キント(Quinto。5分の1の意)」)の義務付け
- 王室直営とする水銀権益
で潤った。これがスペインをヨーロッパ最強国に押し上げたことは、史実として知られる。スペイン史上、十六世紀は「黄金の世紀(Siglo de Oro)」と呼ばれる絶頂期だ。1580~1640年のイベリア連合王国時代、スペインは文字通り「太陽の沈まぬ国」となった。ただ、巨額歳入を得ても、財政状態は逼迫していたと言われる。
貴金属鉱山が発見されると、採掘や精錬、さらには貨幣鋳造のための設備、機械、器具などの調達などに莫大な資金が必要となり、ここに内外投資家や技術・管理を請け負う人たちが殺到する。大勢の鉱山労働者が集められる。鉱山所在地のみならず、植民地にとっても基幹産業となり、衣食住やインフラ面での新たな需要が生まれ、周縁産業の発達、さらなる移住者到来に繋がった。
金銀は貨幣にされて、一部が植民地に残った。残留比率が年々高まる一方だったことは間違いあるまい。
(2)スペインの植民地交易
1503年1月、セビリャに「通商院(Casa de Contratación)」が設置された。文字通り植民地との物品交流、即ち交易を司る機関だが、実際には植民地との全般的な窓口機能を持たされた。植民地物産の搬入や、植民地向けの物資搬送、開拓遠征隊や移住者に関わる審査、管理、植民地情報の報告や現地への通達、などだ。現地総督府との窓口業務にも携わった。1790年まで続いた。
1543年、セビリャに植民地交易管理ギルド(Consulado)組成が認められた。ギルドが植民地交易を独占することになる。この権利は1592年、メキシコの商人組合、1613年、リマの商人組合にも付与された。本国にも出張し、植民地交易の活発化を促した。
植民地交易の基本は、スペイン船団による輸送である。金と銀が主要交易商品となった直後の1546年、メキシコ及びパナマの二つのルートを使う植民地交易体制も確立し、夫々年一回の、スペイン軍艦が護送する下記大船団によって行われるようになる。いずれもハバナに寄港し、越冬し、翌年早春、セビリャに向け出帆する。
- 「フロータス(Flotas)」(メキシコルート):ヌエバイスパニア副王領向け。ホンジュラスなどを経由、ベラクルス(現メキシコ)を結ぶ。1571年よりマニラ-アカプルコ間のアジアルートが加わった。「ガレオン(Galeón)」、と言う。年2往復した。ベラクルスでアジア向け商品を荷揚げし、アカプルコで積み、またアジア商品をそこで受け取り、ベラクルスで積んだ。
- 「ガレオネス(Galeones)」(パナマルート):ペルー副王領向け。現コロンビアのカルタヘナ経由ポルトベロ(パナマのカリブ側対面)を結ぶ。その先は太平洋岸航路を利用しリマと繋がった。ポルトベロで荷揚げされた商品はパナマ地峡の陸路を南下し、パナマで船積みされた。
商品の大半が金、銀、1570年代からはフィリピン征服により、メキシコ経由でアジアの香辛料、陶磁器、絹織物なども加わり、交易船はさながら「宝船」だった。
(3)海賊跋扈によるスペインの凋落
最強国となったスペインにも、広大なカリブ海域の防衛は、不可能だった。主役は十六世紀後半に活動した「私掠船(英語でPrivateer)」と、十七世紀のバカニア(同、buccaneer)で、ラ米史上、いずれも海賊、と片付けられる。極めて早かったスペインの凋落は、彼らの活動が元になっている。
1.私掠船
富の源泉とも言える上記「宝船」は、強国の一角を成すイギリスの怨嗟を呼んだ。同国は、敵国商船捕獲(商品は掠奪)できる公的許可を民間武装船に与えた。これが私掠船だ。船団長として、フランシス・ドレイク(1540-96)が有名で、1573年、現地の逃亡奴隷などを引き入れ、金銀を掠奪したノンブレデディオス(パナマ大西洋岸の都市)襲撃事件などを起こしている。彼のまたいとこ、といわれるジョン・ホーキンズ(1532-95)の名も知っておきたい。いずれも「卿(Sir)」の称号を得た。この二人は1588年の無敵艦隊を撃退する会戦にイギリス海軍将校として活躍した。
スペインは、無敵艦隊敗北で最強国の座から落ち始める。1604年のロンドン条約で、植民が手付かずだった北米を、事実上失うことになる。
十七世紀に入るが、「オランダ西インド会社」(1621年に設立)のピート・ヘイン
(1577-1629)艦隊も私掠船と見て良い。1628年、スペイン護送船団を襲撃、拿捕、掠奪する事件が起こした。オランダは1581年、スペインよりの独立宣言を発し、当時、スペインとは戦争状態にあった。
スペインは私掠船に備え、プエルトリコ、キューバ、現コロンビアのカルタヘナなどに要塞を築き、兵力の増強に当たった。ただカリブ海域で大アンティール(キューバ、ハマイカ、イスパニオラ、プエルトリコ)を除く島嶼群(小アンティール)には、英仏蘭が次々に入植していく。
2.バカニア
バカニア(スペイン語ではbucanero)とは、もともとスペインの最初の植民地、イスパニオラ島に入り込んで野生化した家禽類を捕獲し、その肉を炙って食していた人たちを呼ぶようだ。フランス人バカニアはスペイン植民地当局によって追放され、近接するトルトゥガ島を根城に、武装船で大アンティールと大陸部の都市を跋扈していた。1665年、イスパニオラ島の西部ハイチを占領する(1697年、正式にフランス領に編入)。 その10年も前の、1655年、イギリス艦隊がハマイカを襲い、これをジャマイカと呼んで支配下に治めた。前後して、ここに大勢のイギリス人バカニアが移ってきた。彼らは中米沿岸部などを襲撃したが、イギリス艦隊に保護されたことはよく知られる。ヘンリー・モーガン(1635-88)もその一人で、1675年、卿の称号とともに、ジャマイカ(1670年、正式に英領に編入)に帰還、3度に亘って総督代行を務めた。
ラ米史では、バカニアの活動と英仏蘭などのカリブ地域での領土拡大を、関連付けて述べる。十七世紀は、1640年のポルトガル喪失を含め、スペインの凋落の世紀、と言って良い。銀の生産も低迷するようになった。ある専門家は、交易船数も世紀央までに半減、世紀末には三分の一にまで落ちた、という。
(4)鉱山労働が生んだ植民地の経済・社会の変化
鉱山での労働には、やはり先住民が徴用された。例えばポトシでの採掘作業に充てるため、先住民共同体に、一定割合の成人男子供出を命じた。期間は1年とされた。先住民社会には、スペインに征服される前から、例えばインカ帝国では「ミタ(Mita)」呼ばれる強制労働の習慣があり、徴用はこれを真似たものだ。ある研究者によると、4,500人のミタ労働者が二週間置き三交代で鉱山労働に従事していた、という。家族を伴う人も多く、ミタ期間終了後、鉱山労働者として採用されポトシに残る人も次第に増えてきた、とされる。
鉱山労働が生んだ植民地での注目したい経済・社会面の変化を下記する。本国スペインの凋落の中でも、植民地は着々と発展し続ける。
1.
鉱山都市で人種の垣根を超えた社会の構築
都市行政のスタッフや専門家、医師、技術者他、多くの白人が居住するのは、他 の都市と変わらない。ここに労働を担う先住民が大挙して居住する。ポトシを例に取ると、この新興都市の人口は植民地最大規模の16万人に上った、と言う。
2.
アシエンダの拡大
鉱山都市は、一大消費地でもある。ここに基礎食品を供給すべく、近隣に新たなアシエンダが拓かれる。労働力となる先住民には、ミタ徴用から逃避した、或いは人口激減で自らの集落を失った人たちが多かったようだ。
3.
流通ルート開拓
生活用品や衣料品を鉱山に供給するための輸送網が不可欠だが、その途次に新たな集配、生産拠点ができる。
4.
貨幣経済の定着
ポトシに限らず、鉱山での労働対価は、貨幣によって支払われた。これがアシエンダ労働にも普及、白人人口の伸びと他産業部門の発展と共に、植民地の貨幣経済発達に大きく寄与した。
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