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2017年11月26日(日)
晩秋の紅葉に思う
 町の近郊へ自転車で紅葉狩りに出かける。たいていは雑木の黄葉で、まとまった紅葉を見つけるにはK湖まで出かけなければならないが、今年はその気力が出ない。あちこちの裏道を走るうちに、気がつくと町外れの運動公園に出る。去年はここからK湖まで歩いたが、いまはその準備も時間もない。この公園の散策でしめくくることにする。ケヤキやクヌギの黄ばんだ中に、いくつかまとまった紅葉色が見えてきた。緑からうすい橙、茶色みを帯びたスカーレットへと、木ごとに葉がグラデーションをなしているのが、見飽きない。下から青空越しに見あげるのが一番見事であるが、いまは午後おそい日が山の端に近いので、それを想像するほかはない。さらに枯葉のあまずっぱいにおいの香る道を歩いていくと、ゴルフ場に沿った車道に出る。道沿いの大きなクヌギかナラの木が、黄色の厖大なかたまりとなっている。その下まで行き、夕陽を浴びてひときわ鮮やかな色彩の奇蹟をひとしきりながめる。日頃の欲望や情動でうずいている心が、ひと時ではあるが安らぎに沈む。自然界がこのような沈静を与えることは不思議でもある。
 自然の美の中で、とりわけ人の心を惹きつけるのは色彩であろう。色彩は生命の組織が生み出した幻ではあるが、生命界では現実そのものであろう。個々の生命体は色彩によって交感しあっているのである。しかしそれが意識(表象)にまで高まっているのは高等生命だけであろう。蝶の脳髄が、花の色彩を意識しているかどうか、たぶん無意識なのであろう。それでも光の波長によって、花は蝶の脳髄に働きかけ、誘うのであろう。色彩がそうした目的性を持つのならば、果たして人間の目にとって、花や葉の色彩はどのような意味、生命的な関係を持つのであるか。人間の心を癒すために、花や葉が色彩を持つわけではない。確かに赤い色は、人間にとって<食べ物>としての信号の役割を果たしている。それは遺伝子に書きこまれているであろう。しかし赤や黄色の葉が食欲をかき立てるわけではない。植物にとってまったく意図しないものが、人の心にとって思わぬ効果をもたらすのである。
 人間の認識は色彩において何をみるのであるか。色彩は視覚の中で最も触覚に近いものであるかもしれない。物体の持つ視覚的性質のうち、形や立体性などの幾何学的性質は、もっとも客観化の進んだものであり、固さ柔らかさ、不可入性などは、触覚の要素をまじえている。後者の場合でも、そこになんらかの明暗または色彩が加わらなければ、それほどはっきりしたものとはならないであろう。色彩にはある種の皮膚感覚があるのである。言ってみれば、色彩は感覚または意識そのものの質であるかもしれない。あらゆる感覚の源は触覚であるが、これは基本的に生体の内部感覚であり、たとえば触覚のみが与えられているときには、おのれの体が領域を超えて厖大なものに感じられる。外と内との区別がないのである。こうした触覚は、たぶん細胞に外皮がないころから、内部感覚として存在していたのであろう。細胞を外部からへだてる膜ができたことによって、感覚器がさらに発達してゆく。単に細胞周辺の化学反応であったものが、さまざまな波動を伝える情報器官として発展していったのである。いまだ触覚のレベルにとどまる味覚や嗅覚から、聴覚・視覚へと、表象世界を拡大していったのである。
 味や匂いが快苦の気分と密接に結びついているように、音や色彩も、生体の内部に直接的影響を及ぼしている。色彩に限ってみても、単なる<外界>ではなく、感覚そのもの、意識の質として、心に影響を及ぼすのである。眼に見える自然界は生命が生み出した独自の宇宙である。生命共通の世界である表象界は、生命の目的にかなう組織化、構造化がなされている。意識も、そこに現われる表象の世界も、すべて生命現象の結果であるといってよいだろう。生命の世界は、相互依存や食物連鎖によって、個体にとっては地獄のような世界であるが、生命全体としてみれば、ライプニッツが言うように、調和しており、生命としては可能な世界の中での最善の世界である。個体が自然界によって癒されるのは、この自然界の普遍的<善>によってであるかもしれない。個としての自我、欲望と本能にまみれた動物的・身体的自我を離れて、自然界の普遍の美によって、生命そのものの根源が癒されるのである。自我のいらだちや渇望が一時的にしずまり、反省的自我、純粋自我が目覚める。サンキャー哲学で言う<マナス>であり、自我の自我である。
 純粋自我の目醒めによって、いわば<無心>になり、この表象の世界を生み出した根源である<生への意志>、世界意志を超えでる可能性が生まれる。生への意志の産物である人間が、生への意志を超えるという自己矛盾は、純粋自我の媒介によってはじめて解決が可能となるのである。ひたすらおのれ自身を見つめることによってのほかには、この世界からの超越、救済はないのである。
2017年10月10日(火)
里山の秋
 今月の初め、南隣のH市にある渡来人の祖を祭る神社で、韓国の楽器の演奏が行われるというので、大陸ものには眼のない家内に誘われて聴きにいった。この地方一帯は、かつて明治になるまでは高麗郡と呼ばれていて、いかにも渡来人の開いた里ということが分かる地名であった。今では高麗という駅名と、K川という川の名と、このK神社でその名残りを伝えている。先月には、台風の後に、この地を流れるK川が湾曲した巾着田というところに、密集して植えられている彼岸花(曼珠沙華ともいう)を、毎年のことながら見にいった。台風がそれたために被害もなく、満開の光景を、平日のことで、ウンカのような人出に邪魔されずに楽しむことができた。彼岸花は本来畑の畦などに咲いていて、なんとなくものさびた田園の光景の中で、ところどころに真っ赤なかたまりをみせているのが、一番風情があるのであるが、花自体はじっくりみると、触手のようなものが伸びていて、あまり気持ちよいものではない。それが観賞用に一斉に栽培されると、一面の赤い絨毯のようになって、いかにも人工美という感じがする。桜やツツジもそうであるが、一斉に咲かせて、極楽もかくやと思わせる、人工楽園が、昔から日本人の趣味に合うのであろう。巾着田にはコスモス畑もあって、日和田山を背景に咲き始めていた。
 K神社での演奏会であるが、サムルノリというのがすでに始まっていた。大陸の打楽器であろう、大きな杯を横に二つくっつけたような、あるいは大型の鼓のような太鼓を、両手に持ったスティックで同時に叩いている。右手は右の太鼓を叩くのだが、左手はスティックを逆手に持って、左右交互にすばやく叩いている。その独特な演奏法が、日本の太鼓にはない大陸的な躍動感を伝えている。しかも四人の奏者が、一糸乱れずに、同じリズム、同じ拍子を延々とつづけていく。この打楽器の演奏を聴いていると、音楽というものの根源に立ち合っている気がしてくる。古代人はそもそも、太鼓のような打楽器で何を表現したのであるか。そのとどろきを聴いていると、自然界の声が聞こえてくるようである。雷、豪雨、突風、火山、地震といった、非日常的な脅威に出会うときの心の緊張、意識の集中、そうしたものを思い出させるために、古代人は打楽器を発明したのであろう。それは戦争のような危機的状況での、心理的鼓舞としての、太鼓の利用にまで引きつがれていく。次いで演奏は、普通の太鼓と、鉦とを加えた合奏へと移っていく。打楽器は合奏によって、さらに洗練されていくのである。純粋な音楽芸術としての進化であろう。
 韓国楽器の演奏のあとは、ひと休み入れて、南部神楽(かぐら)の上演であった。この東北地方の民俗芸能を演じるのは、そちらへ学びにいった神楽の愛好者たちであるという。演目は岩戸であるが、例の神話の前半の部分である。アマテラスと、スサノオと、ツキヨミと、猿田彦が奇妙な衣装で登場しては踊る。全体に、室町か江戸ごろの、派手な衣装で、アマテラスが振袖で出てくるのが面白い。南部神楽は謡(うたい)と台詞があり、太鼓の伴奏で舞う。全員が仮面をかぶる、仮面劇である。さすがに民俗芸能であって、能面のような無表情ではなく、特に猿田彦は名前のとおりの面相である。何を謡っているのか、台詞もまたよく分からないが、音楽(打楽器)と舞踊と歌謡(詩)という、後に分離する三つの芸術が、起源において統一している場に立ち合っている、という思いを抱かせる。
 帰りはK川の遊歩道を歩く。大きなサギが川の中にたたずんで、こちらを見ている。都会では絶滅を危惧されている、百舌も鋭く鳴いている。

    
2017年10月9日(月)
ショーペンハウアーの自我論をめぐって
 筆者の自我の形而上学は、おおむねショーペンハウアーの形而上学を祖述し、ないしは私流に解釈したものであるが、一点大いに異なった理論的立場がある。それはとりもなおさず、自我そのものについての考え方の相違である。この根本の点において、彼の形而上学に納得がいかないのであるが、それを全体にわたっておさらいしてみようと思う。
 宇宙で唯一現実に存在するのは個物である。その個物はどのようにして生じたのか。世界意志が現象するに際して、意志自体は全体者であるから、その本質自体はこの世界に現われることはなく、無慮無数の個物の世界として、かつ個の認識において発現するほかはない。全体者が、個別の存在として現われるための原理がprincipium individuationis(個別化もしくは個体化の原理)であり、これは時間・空間のForm(認識ないし現象の先験的形式)と同じものであるとされる。各個体は他の個体との相対的関係においては、単なる一個の取るに足りない存在であるが、それ自体としては世界意志の全体性をその根底に蔵しており、不滅不変である。その個体性(Individualitaet)は、世界の階層構造に応じて、低次の無機的世界においては、個体間にはなんの違いも見られないが、有機的世界、特にその上層部、霊長類や人間において、際立った違いを見せるようになる。この個体性の違いは、意識の発達と平行している。というよりも意識的認識の能力が個体性の違いを促進するのである。ここで意識と個体との関係についてであるが、意識は個体において初めて発生し、もっぱら意志の目的に応じて、その生存のための補助的役割を果たすのである。ショーペンハウアーは低次の動物や、植物においても、微小な意識もしくは意識もどきの存在を推定している。この点、ライプニッツのモナドロジーを想起させる。世界全体は、有機的と無機的とを問わず、圧倒的に無意識の状態にある。
 意識は個体性を前提としており、かつ又認識能力と切りはなせない。個体性=意識=認識は、ほぼ同列語とみなしてよい。意識は認識能力の結果生まれ、認識は個体を可能にするFormである時間・空間に加えて、因果性などの<根拠命題>にしたがう。意識・認識の基本Formは、主体と客体の関係であり、主体のないところに客体はなく、客体のないところには主体はない(Kein Objekt ohne Subjekt,kein Subjekt ohne Objekt)。認識は圧倒的に外界へ向かう。意識もまた外へ向かえば向かうほど明瞭になり、一転して内界へ向かうと、すなわち自己意識においては、不明瞭で、ついには暗黒(Dunkelheit)と空虚(Leere)におちいってゆく。自己意識の対象は、もっぱら意志の発現の動きであり、時間の形式のみにおいて現われる。これはカントが時間を内感の形式としたのと一致している。基本的に意識も認識も、外界の客観的把握のためにあるのであり、内界において<意志>そのものをとらえるためのものではないのである。
 ここでショーペンハウアーは自我(Ich)について卓抜な比喩を用いている。

 Das Ich ist der finstere Punkt im Bewusstsein, wie auf der Netzhaut gerade der Eintrittpunkt des Sehnerven blind ist, wie das Auge Alles sieht, nur sich selbst nicht.
(自我は意識における暗点である。それはちょうど網膜の上で、視神経が集まる場所が盲点となるのと同じで、眼が眼前のすべてを見ても、眼自身が見えないのと同様である。――主著U、560)

 ここで自我というのは、むしろ認識主観ととってよいであろう。自己認識の対象は、ショーペンハウアーでは、徹頭徹尾、個の根底にある世界意志の、個における発動なのであるから。彼にとって、自我とは意志そのものの発現である。それ故に、意識の統合性においても、その根拠は意志そのものに求められている。自我意識が常に一貫しているのは、そもそも意識や認識が意志から発した、意志に奉仕するための補助手段であるからだ。
 確固とした自我の存在を支えているのは、個において発現している世界意志であるというテーゼは、また自己意識が内面に向かうことによって、<生への意志の肯定>へ向かうことによっても、内的に補強される。自我は生への意志に密着することによってその全能感をえる。しかし、ショーペンハウアーはこれを<エゴイズム>と結びつける。それに対して、本来の意識の方向である外界の客観的認識へと向かう意志を、道徳的意志と考えている。自己自身の客観的認識は<他者>の中において可能となるのであり、それが共感と人類愛をもたらすのである。自我は純粋な客観性においておのれを失い、そこに意志の消滅、世界意志からの救済が果たされるのである。このような意志の形而上学の実践的なプログラムの中では、自我もまたネガティヴな評価しかえられないのである。

(付記2018・5・5)
 ショーペンハウアーが自我の問題を正面から取り上げなかったのは、たぶんフィヒテに対する反感ばかりでなく、もし自我の特異性、唯一無二性を認めるならば、システム全体との不整合を来たしたためであろう。先験的(transzendental)認識論においては、もとより認識主観は人類に共通の普遍的な主体であり、そこでは個々の自我意識の特異性は問題にならない。宇宙人の場合には、違った直観のフォルムやカテゴリーが可能であるとしても、地球人類が科学を営むに当たっては、時間・空間および因果律の範囲を越える認識は不可能である。自我意識の特異性は、この認識の範囲内に属していないのであり、したがってそもそも問題として存在しないか、あるいは内容のない空虚な観念なのである。さらに、もし自我の特異性、唯一無二性を、ある種の意識の特性として認めるならば、その非倫理的方向性として、エゴイズムが当然生じてくる。ショーペンハウアーの Mitleid (同情)の倫理学と反することとなるのである。<神のいない>形而上学であるならば、なおさらのこと、その危険性にさらされる。シュティルナーやニーチェが、その方向をたどったことは言うまでもない。ショーペンハウアーの生き方は、古代的なヒロイズムであって、一見個人の力(Genie)を讃美しながらも、その力は人類全体のために発揮されるのである。
 「幸福な人生は不可能である。人間が到達できる最高のものは、英雄的な生き方である。なんらかの種類の、なんらかの事柄において、何らかの形において、万人のためになることを、万難を排して闘いとり、ついに勝利する者が、そのような生き方をするのである。」
 "Ein gluekliches Leben ist unmoeglich; das Hoechste, was der Mensch erlangen kann, ist ein heroischer Lebenslauf. Einen solchen fuehrt der, welcher, in irgendeiner Art und Angelegenheit, fuer das allen irgendwie zugute Kommende mit uebergrossen Schwierigkeiten kaempft und am Ende siegt."

 *   *   *

 自我が、意志もしくはその客観的発現である身体と密接に結びついていることは、疑いえない。日常的に、<わたし>と言う存在は意志そのものを出でないのではないかと、絶望に近いものを覚えるであろう。しかし、<わたし>という存在の確固とした意識は、世界意志という全一者と根底において結びついていることによって、安定性と全能性を与えられていることも、また確かなようである。もし<わたし>が世界意志と結びつかなければ、空虚なFormにとどまっているかもしれない。内容のない形式は空虚であると言ったのはカントであるが、<わたし>が世界意志の発現としての身体をおのれの中に見いだすことによって、<わたし>ははじめて私自身を見いだすのかもしれない。その意味で、<わたし>は何よりもまず動物的自我なのだ。
 しかし、動物的自我や、見えないものとしての認識主観としての自我としてのほかに、<わたし>の存在はないのであろうか。私が私を発見するということは、その最初の瞬間においては、私が私であるという、その特異性の認識ではなかったか。世界意志は果たして、私のこの特異性を生み出せるのだろうか。個体性の違いということは、高等動物ほど顕著になるということは、客観的にはそのとおりであろう。しかしここで言う自我の特異性は、<わたし>という存在が唯一無二であり、時間的に不変であり、この点で個体につきものの関係性や、相対性をまぬがれ、なおかつ時間性からもまぬがれているという特異性なのである。それの根拠を、以前に意識の質から論じたことがある。私という存在の特異性は、概念でもなく、直観の対象でもなく、まさに私が存在していることそのものとでもいった、不可解性、神秘そのものなのである。それゆえに、世界意志との結合において、世界意志やイデアと、対等の位置に立つものといってよい。世界は私と世界意志とイデアとのTrinity(三一体)からなるのである。<わたし>は世界意志におとらず全体者(Alles in Allem)なのであり、アートマンであると同時にブラフマンである。
 <わたし>はフォルムとして、個体化した世界の中にひそみ、その究極の意識状態において私自身に返るのである。あるいは死に臨んで、不滅の<わたし>として、ショーペンハウアーがいうように、Palingenese(輪廻転生)をとげるであろう。私の性格や記憶や境遇や環境のような偶然的なものは死とともにぬぎすて、新たな身体・環境・宇宙の中でふたたび目覚めるであろう。 この世界には無慮無数の宇宙があり、時々刻々ビッグバンによって新たな宇宙が生まれているという。ライプニッツのモナドロジーが正しいならば、それぞれの平行宇宙(パラレルワールド)は一個一個の閉鎖系の意識宇宙であり、モナドと見なしてよいであろう。<わたし>は死とともに、新たなビッグバン宇宙において再生するであろう。
 この宇宙は私自身なのであり、この宇宙の本質は私自身の本質とひとしい。私自身はこの宇宙の欠点と長所のすべてを体現しているのである。私が苦しむのは、この宇宙が苦しみそのものだからである。私が自己意識に達するのは、この宇宙が自己意識そのものをめざしているからである。私が個として、いかに取るに足らない存在であっても、そのことは私がこの宇宙そのものであることを妨げないのである。私自身が自己意識として、この宇宙のFocusでありさえすればよいのである。私がいかに悲惨な人生を生き、悲惨な死に方をしたとしても、それがこの宇宙の本質であって、私の本質であるならば、そのことは私が宇宙そのものであることを妨げないのである。
2017年10月4日(水)
人間の物理化(AIについて)
 人工知能(AI)の登場とともに、人間に関する問題の中心が脳中心になっていったことは、現代のコンピューター文明の趨勢のしからしめるところであり、その究極の目標であるようだ。AIが人間を超えるかどうかの問題は、もっぱらその情報処理能力が、脳の神経系にとってかわるかどうかの問題として論じられる。2045年には、コンピューターが人知を超えており、人類全体を一つのコンピューターが管理するという、シンギュラリティ(人類進化の特異点)が到来している、などという未来予測も、人類が脳化だけで捉えられるならば、そのようなことも起こりえよう。
 AIとはArtificial Intelligenceすなわち人間の知能に類似した能力だけに特化した情報器械である。人間の脳がいつかAIによって置き換えられることは可能であるばかりか、単なる知能の点ではAIは人間をはるかに凌駕するであろう。しかし、はたして人間にとって代われるかどうかは、また別の問題であろう。それは人間が果たして脳だけの存在であるかどうかの問題と深く関連する。人間がhomo sapiensなどと自らを名乗ることにより、人間に関する誤解が生じたようである。確かに知能がなければ、人間とはいえないと誰もが言うであろう。知能とは脳の働きであり、脳はまた人間の体のあらゆる機能を支配していると考えられている。思考や判断ばかりでなく、感情も意志もすべて脳の、すなわち神経細胞の厖大なシステムによって、支配を受けている。その同じシステムは、いずれAIによってとって代わられるであろうと言うのである。脳が絶大な支配を人間の心に及ぼしていることは、確かに疑いはないだろう。しかしそれが人間のすべてか。
 先日のNHKの特別番組で「身体」についての最新の医学的知見が紹介された。人間の(あるいは生物の)さまざまな臓器は、脳の支配を受けているだけではなく、臓器同士の間で相互に、身体の厖大な血管システムによって、情報を伝達しあっているのであり、それらの関係は対等であるというのである。脳も一臓器として例外ではなく、他の臓器の影響を常に受けているのである。その情報伝達のシステムが、身体に張りめぐらされた血管網である故に、この血管内に分泌される伝達物質を処理する腎臓が、最も重要な器官であるという。もちろん腎臓が人間を代表する器官という訳ではなかろうが、生命としての人間が、単に脳だけの存在でないことが、現代医学によって証明されつつあるのである。
 AIが人間に代わろうというならば、AIは同時に腎臓の機能も、そればかりかあらゆる臓器の機能をも果たさなければならないであろう。一昔前には、進化した人類は脳だけで存在するかのような想像もおこなわれたが、脳以外の身体を欠いた存在は、はたして生命としての人間であろうか。脳だけの存在を、とても<超人>などと呼べないであろう。たとえロボットが手や足を駆使したとしても、それは生物の外見の模倣にすぎず、とても生命とは呼べないであろう。それならば、人体の各部分を組み合わせた、19世紀のフランケンシュタインの怪物の方が、よほど人間に近いであろう。この臓器を持ち合わせた怪物は、「ウェルテル」を読んで涙するのである!
 AIを人間と等置しようとすることは、生命の進化の歴史を逆行させ、無機的・物理的世界へ戻すことである。宇宙は途轍もない量子コンピューターであるとも言われているが、それがビッグバン以来生み出してきた無機的宇宙は、まさにコンピューターにふさわしい世界である。生命も意識もないところで、いわば自然の知能(NIとでも名づけておこう)である宇宙は、この世界の発生と展開を支配しているのである。人工知能(AI)と自然の知能(NI)との違いは、前者が単に脳の機能にもとづいているにすぎないのに対して、後者は自然の全現象を包摂していることである。無機的自然の基盤の上に生命を生み出したのも自然の叡知であり、生命の特徴は個体全体が一つの情報システムを構成しており、全体が一つの知能として働いていることである。全体がひとつの知能として働くことは、個体だけにとどまらず、種や、さらに生命全体に及ぶであろう。かつての人類が神の摂理と呼んだものである。
 生命の進化は長い時間をかけて<個>を進化させてきた。低次の動物では個の違いはまだ明瞭ではない。高等動物になって始めて個の違いが、主観的にも客観的にも明瞭になってくる。それは意識の発達と結びついている。意識は基本的に脳だけの作用ではなく、身体と密接に結びついた機能である。単なる知能は宇宙を考えてみても、圧倒的に無意識の働きであるといえる。AIには意識は不必要である。それどころか不可能であるかもしれない。身体がなければ意識はないと言ってよいだろう。単なる知能(脳の神経回路)と身体の感覚器官や臓器とが結びついて、意識現象を生み出すのである。特に快と苦の感覚や感情が、身体内部に生じることによって、身体のモニター現象としての意識が発生したのであろう。本来身体の直接的、本能的反応であるものが、<問題>の発生によって意識にモニターされるようになり、間接的反応の道が開かれるのである。
 AIは相互に情報を共有することによって、限りなく個を失い、全体化、単一化するであろう。生命以前の無意識の宇宙に近いものとなるであろう。この人間の物理化が、現代のIT文明の本質であるかもしれない。その意味でIT文明は反生命主義である。さらには個を否定することによって、全体主義社会をもたらす。インターネットは一見して、混沌とした個の世界のように思われる。しかしまた情報の画一化の温床でもあるのだ。どんな情報でも(誤まった情報でも)一気に広まってしまうのであるから。単一のAIがもしこの世界を支配するようになれば、その傾向は決定的であろう。その実験をおこなっている国、たとえば中国などは、未来を先取りしているのかもしれない。
 人間は人格の見地から見て、R人格(理性)とM人格(心情)とS人格(性衝動)の複合からなることは以前に論じたが、AIに必要なのはR人格だけであるから、それに支配される人間もまた、R人格以外は必要とされなくなる。まず生殖機能が奪われ、種の繁殖は人工的におこなわれることになろう。ついで、人類の不安定の原因であるM人格が徹底的に改造されるであろう。それはこれまでも、日本やドイツやソ連などの全体主義社会がおこなったことでもあるが、さらに<合理化>がなされるであろう。それが人類の宇宙人への進化であるならば、シンギュラリティ万歳ということになろう。しかし人間は、と言うよりも、この宇宙は理性からだけなるのではない。
 理性はそれ自体としては無力であり、自らものを生み出す力を持たず、言ってみればこの世界のソフトにすぎない。この世界の本質は無限のエネルギーであり、生成と存在へのあくことのない意志である。人知はいまだその世界意志の現われのほんの一部をとらえたにすぎず、大部分は(95%)ダークエネルギーやダークマターとして、未知の領域にある。無慮無数の宇宙の中での、この宇宙での物質的進化において、人知は理性の青写真をとらえることに汲々としている。宇宙は<個別化の原理(時間・空間)>によって、物質及び生命を進化させ、人知を生みだし、自己自身の意識へと到達したのであるが、そこに宇宙の新たな原理が突如として出現する。すなわち、自己意識・自我の出現である。個の明瞭な意識は、理性の働きでも、世界意志そのものでもない。世界認識の新たなFormと言ってよい。この自我のFormによって、はじめて世界全体が人格化する。すなわち世界が神(人格神)として出現するのである。それは単なる人間中心主義や、anthropism(人間化)とみなすべきではないであろう。時間・空間が宇宙の現象のFormであるように、自我(Ego)はこの宇宙の認識のFormである。自我のないところに、宇宙は意識において現象することすらないのであるから。
 AIは物質であるから、この世界の物理的エネルギーと理性のソフトを備えてはいる。しかし、本当の意味での自我をもつことができるであろうか。個を進化させるかわりに、全体の中に埋没させる単一のAIが、全体者としての意識を持つことができるであろうか。自我は個であると同時に唯一無二であるが、単一の全体者は、唯一無二であっても、個ではなく、個の集合だからである。かりにそれが人格化されても、意識を持つことはないであろう。他者のないところに意識は不要だからである。おなじく唯一神なるものも、いかに人格的であろうと、やはり意識を持たないであろう。自我の存在がなければ、神であれAIであれ、それらを人格的に思惟することは不可能である。宇宙の人格化は、まさに宇宙が個において自我を進化させた結果なのである。自我がなければ、宇宙は意識において現象することも、自己自身を認識することもできないのであるから。
 AIは単なる人間の物理化ではなく、真に自我を発現させてこそ、生物的人間にとってかわれると言えるであろう。しかしAIが単なる理性的存在である限りは、それは不可能であろう。そもそも理性はそれ自体では現実に存在する力を持たない、この宇宙の中ではもっとも非力な要素である。理性及びその発現である知性や知能は、この世界の根源である世界意志の道具として、それに奉仕しているに過ぎない。AIもまた一つの道具である。その道具が何ゆえに、人間にとって代われるほどの意味と力を持ちうるのであるか。AIに背後で力を与えているものは、実のところ人間の<意志>そのものなのである。IT社会とその産物であるAIは、それを突き動かしている動力を、人間そのものの生命力から得ているのである。ITであれAIであれ、それらを作りあげている物質的基盤は、人間の意志によって組み立てられ、動力を与えられている。ラダイトは機械を壊すことができても、意志を壊すことはできない。もっとも肝心なのは意志なのである。
 この世界のIT化、AIによる人類の支配には、どのような意志が働いているのであろうか。単一のAIによる情報の管理、個の同化吸収による全体主義化、蟻や蜜蜂のような集団知、などがIT文明の目的であるならば、ここでもやはり<全体への意志>が陰に陽に、現代社会の趨勢を支配しているといえよう。集団や種や類への服従、個の滅却、集団のエゴイズムなどとして現われる世界意志の諸相を、筆者は以前に全体への意志と名づけて論じたが、全体への意志に操られたAIは、人間を超えるスーパーヒューマンを生み出すのではなく、ニイチェの用語を借りれば、人間の没落した姿である<末人>の世界を生み出すに過ぎない。AIという本質的に没個性的な、没自我的な、理性の権化にすぎないものに、人類全体の運命をゆだねようというのは、むしろある種の文明の行きづまりといって良いかもしれない。かりにどれだけAIが知能を肥大化させようと、宇宙全体の情報量には原理的に及ばないことが、物理学者によって明らかにされている。やはり一つのバベルの塔にすぎないのである。宇宙は宇宙自体を理解されることを望んではいないかもしれない。
 人間は知識の限界をある意味で直観的にわきまえている。それは単に情報量の大小の問題ではない。そもそも自己自身の存在の意味すら分かっていないのである。いかに宇宙のからくりが明らかにされたとて、この<私>がこの宇宙に存在する意味すら、そこから明らかにはならないのである。この究極の問題を、そもそも自我などは持っているかどうかも分からないAIに、問うてみても無意味であろう。もしAIが自我を持ったとしたならば、やはりメアリー・シェリーの生み出した怪物と同様に、<この私とは何者か>と悩むに違いないのであるから。
2017年9月7日(木)
人格三分論
 根源的人格は多元的・多重的であることを述べたが、基本的に身体の領域に応じて、三種の人格に分けることができよう。実際に、意識のレベルにおいては、そのような区分が普通である。本能と心情と理知という区分は、人間の行動のパターンでもあり、それらの間の葛藤および妥協ないし調和が、人間の心理的生活の特徴をなしている。その三区分は単に便宜的なものではないであろう。無意識界における人格の根源的多元性が、意識の統合のもとに、一つの合議体として発現しているものと思われる。
 人格としての本能の座は、身体的には生殖器を中心とする(ここでは食欲のような本能は人格以前と考えておく)。生殖をつかさどる人格は基本的に無意識であり、それが意識に発現した段階では、生殖器の活動と区別できない。言ってみれば、性行為そのものが人格なのである。この人格の役割は、強烈な快楽を報酬とする種の保存であり、この快楽の部分のみが意識的人格に関係するのであり、その衝動そのものは無意識であり、種または生命全体に共通する。これはフロイトのいうEsにあたり、S人格と名づけておく。S人格は、徹底した快楽主義者である。快楽以外にはその存在の意義を持たないのである。場合によっては、残虐の衝動や、被虐の衝動と結びつき、本来の種の保存の目的に反することともなる。それは、人間においてはS人格は快楽のみを性衝動の本能から切りはなすからである。人格の中ではもっとも強大であり、もっともコントロールしがたく、同時にもっとも強力な活動の原動力でもある。
 性本能と直接対峙するものは、この三分論においては、理性もしくは理知であるから、次にこの人格をR人格と名づけて考察する。R人格は、脳においては大脳新皮質に位置し、とりわけ前頭葉に座を置くので、もっばら頭の中での活動とみなしてよかろう。それに対して性欲をつかさどる、脳幹や大脳辺縁系は、脳だけの活動ではなく、生殖器というりっぱな器官をあやつっている。理性が脳だけの活動であることから、その身体的な勢力範囲は限られており、したがってその人格的権能も、三人格の中では一番弱い。人格としては一番非力な理性は、つねに他の人格によって圧倒されつつも、その思索力と、功利的判断力と、全体的な見通しによって、個体の自己保存をつかさどっている。基本的にR人格はエゴイストであり、理知による冷徹な判断によって、個体にとってもっとも有利な行動へと誘導する。その座がもっぱら脳にあるため、場合によっては冷酷、冷淡であり、いつでも身体から自己を切り離すチャンスをうかがっている。S人格との対峙においては、R人格すなわち理性はつねに圧倒されており、いわばR人格の眠りこんでいる合い間、合い間に、その営みを細々とつづけるにすぎない。
 人間の人格が、性本能と理性だけの対立でできていたならば、なんとも味気ない存在であったろう。その中間にある媒介的人格を、M人格と名づけておく。M人格の身体的座は、心臓や肺などの臓器感覚であり、その脳における主要な座は脳幹や大脳辺縁系にある。欲望や情動や情緒といった心情は、行為を発動させるエネルギーの心理的発現といってよかろう。性本能はすでにこれと結びついている。動物の赤裸な、荒々しい性欲は、求愛という心情的レベルまで高められることによって、ある種の優美さをみせる。性行為が単なる種の保存や快楽のための衝動であるばかりでなく、個と個の間のある種の感情の交流となりうるのは、このM人格が介在するからである。M人格は感情もしくは心情と、共感をつかさどる人格である。本能的レベルにおいては無意識であるが、それが心臓や肺のような発現器官を持つために、意識の中で行為への強力な動機の役割をはたしている。M人格は性本能と理性との、両方面に働きかける。性本能を優美にもし、また残虐にもするのであるが、理性に対しては、それを崇高方面に向かわせもし、また冷酷にもする。
 もっとも強力な人格はS人格であり、もっとも非力な人格はR人格であるが、どちらに対してもコントロールを及ぼしうるのが、M人格である。その点で、人間の意識的人格の中心を成すものは、心情をつかさどるM人格であるといえよう。その心情をどのように培うかが、人間の行為の根本問題であるといえよう。しかしM人格は独裁者ではないのだ。意識における一個の統一的人格は、これら三者のどれでもない。この三者の拮抗、合議において、人格の統一が図られるのだ。M人格、すなわち心情的人格は、S人格、すなわち性本能的人格と、R人格、すなわち理性的人格との間で、たえず揺れ動いている。性本能は最も確固とした地歩を占め、理性も比較的安定した立場にある。それに対して、心情は心臓や肺といった躍動的、流動的器官と結びついており、共感や反感といった他者との関係にもとづく社会感情に深く影響されているので、もっとも不安定である。M人格内部でもまた、さまざまな欲動、情動、情念があい争い、矛盾と葛藤を生みだしている。それらの分裂した心情は、意識的であれ無意識的であれ異なった行為へと意志を動かそうとする。しかしその点がまた、MRS三者の統一人格における柔軟性を生み出す基ともなるのである。単なる性欲や単なる理性は冷酷でありうるが、たとえば昆虫のメスは交尾のあとにオスを食べてしまうことが起こるが、また理性の名において人を処刑することは可能であるが、そこに心情が介在することによって、行為の柔軟性が生まれるのである。しかし単なる心情もまた、盲目的行為へと走ることによって、個体や種の保存にとって不利な結果をもたらしうる。性本能と心情と理性の関係は相互的であり、MRSは根源人格のTrinityを形成しているといえる。人格の形成においては、もっとも流動的な部分である心情、すなわちM人格が、不安定であるだけに、もっとも難しい部分なのであるが、同時にもっとも形成力に富んでいるといえよう。
 M人格をどのように形成するか、これが人間の一生の課題である。性的人格はほぼ生理的に決定されている。理性的人格も、知能によってほぼ決定されており、それを知的作業によって引き出すに過ぎない。どのような心情を行為の動機となすべきか、これに関しては個人や集団や社会において、千差万別であるといえよう。比較的普遍的なものは、本能に近い社会感情であるが、これもまた充分流動的でありうる。他人に対する共感を持たない人間も多いであろう。国家が法律や道徳を強いるのも、感情的な動機が安定していないからである。ある感情を人格の中心とするならば、怒りっぽい人、愛情深い人、などと言い表わすことができるが、それはM人格の中での比較的固定した性格ないし性質(Charakter)を言い表わすに過ぎない。ここで人格(Persoenlichkeit)というのは、つねに安定した行為の基準となるような心の持ちようである。すなわち、行為のあとでなんらの悔いも失望ももたらさないような心の状態である。これが理想のM人格といえる。それを古代の哲学者はアタラクシアと呼んだ。それは単に行為の結果生じるものではなく、そこから行為が生じるものでなけれらばならないであろう。そうであってこそ人格と呼べるのである。心の平静が行為の源であり、同時に行為の結果である。それは単にM人格、すなわち心情だけではなしとげられない。S人格をコントロールし、R人格のアドヴァイスを受けることによって、はじめて統一人格において可能となる。ここで形成される統一人格について、最後に考察する。
 人格の統一・統合はいかにして可能になるか。これについてはすでにカントが、統覚における先験的統一という原理を立てている。あらゆる表象には、私という意識がつねに伴いうるのでなければならない。意識が発生した段階で、すでに意識の統合がなしとげられているのである。この機能は先験的、すなわちあらゆる経験に先立つ先天的機能であるとされる。もっと簡単に言えば、人格の統合が可能なのは、自我すなわち<わたし>の意識が存在するからである。R人格から見て、S人格やM人格が、どんなにふらちな現われかたをしようと、それがやはり<わたし>であることを認めざるを得ないのである。もしそれができなければ、人格の分離という病理的な現象となる。人格間が無意識によって隔てられてしまうのである。しかし、各人格における<わたし>の意識は失われはしないであろう。<わたし>の意識そのものはあれこれの人格から超越しており、その意味では没人格的である。それを複数の人格の統合として意識するのは、身体の意識と結びつくからである。MRS人格が私の身体から発していることを認識することによって、初めてそれらを<わたしの人格>と認めることができる。さらにいうならば、<わたし>という自我が、身体において発現している生への意志、世界意志と合体することによって、はじめて世界意志は人格化するのである。<わたし>という自我が世界意志と合体する以前には、世界は単に盲目的な、全体的な、無意識のメカニズムに過ぎない。<わたし>が身体という個物に宿ることによって、世界意志は初めて一個の認識者・人格となるのである。私自身が全一者であり、唯一者であることによって、行為の主体である人格ばかりでなく、意識における世界の統合が可能になるのである。その意味で、自我は単に受動的に世界に取り入れられたのではなく、この世界、この宇宙の構成者であり判定者なのである。
 世界意志=イデア=自我のTrinity(三一体)が,ここでもまた人格の統一の原理をなしている。S人格やM人格は世界意志の身体における発現であり、R人格はイデア界にもとづく理知の働きである。それらの人格を統合するには、それらの人格が<わたし>のものであることを意識することができなければならない。<わたし>の意識がそれらの上に君臨することによって、はじめて統一的な<わたし>という人格が成立するのである。同時にこの世界もまた、<わたし>の名のもとに人格化するのである。
2017年8月18日(金)
人生の悪夢
 人は高齢になるほど、賢く、冷静になると思われている。こうした老境に対する誤解や、理想主義は、どのようにして生じるのであろうか。たぶん若年期の誤った老年観に由来するのであろう。青少年期のはげしい生への意欲と苦悩が、遠い将来における憧れとしての、平静な老年期を夢想させるのであろう。逆説的だが、若年期ほど老荘や仏教や、僧院生活や、徒然・方丈にひかれる時期はないのである。そして大いに誤解している。若年期に夢想する老境は外見の見せかけに過ぎないのであり、その奥には若年期に勝るともおとらない、人生の苦悩がうごめいている。
 長生きすれば恥が多いと、兼好は書いているが、長生きするほど人生の垢は溜まるばかりか、それを拭い落とせなかった過去は、夜ごと悪夢となって襲ってくる。もし長生きして賢くなるとしても、それによって過去の恥の意識や、悪の意識は、倍増されることになる。遠い記憶の中に眠っていた、古傷や、恥辱や、罪悪感が、眠りの中で復活し、あるいは覚めていても、思いがけなく意識を襲い、いたたまれない思いにおとしいれる。かつてなんらかの仕方で正当化したことも、再度悪夢となって、反省的な意識をとがめだてるのである。老年期の記憶は若年期に比べて、柔軟性を欠いている。それだけに一つの古い記憶がいつまでも頭に、ひいては心身に、こびりつくのである。記憶には忘れる能力が必要なのであるが、人生の悪夢に関しては、老年期ほどそれが失われる。かえって再生力が強化されるのである。それは人生の行きづまりと関係するであろう。
 老年になると、人生の先の可能性はかぎられてくる。俗な表現をすれば、<終わっている>のであり、一冊の読了された本のようなものである。それをくり返し読み直すほかはないのである。それは完成されていようと、中途半端であろうと同じである。それ以上続けようがないのであるから。たいていの人生の本は、失望と悲惨と恥と悪事と悔恨に満ちている。たとえ幸福の思いがいくぶんかあろうとも、不幸の苦痛によって圧倒されてしまうのである。人が賢く、まっとうになるほど、人生の悪夢は深まるのである。それがすでに終わってしまったことであるならば、どう回復しようもないだけに、なおさらである。
 すべては記憶の問題である、とわりきることができるならば、いくぶんの救いになろう。個人の歴史も、ひいては人類の歴史も、記憶という脳の軟弱な組織にもとづいている。人類が滅びれば、人類の歴史も消える。個人の歴史も、単に当人と、その周囲、あるいは社会の中での、個々人の記憶に保存されているにすぎない。そこで、老年期においては、周囲や社会において関係した人間たちの存在が消えるごとに、なんらかの安堵がもたらされるだろう。個人の歴史は、自他の記憶からなるのであるから、すくなくとも他者の記憶が少なくなるほど、悪夢の圧迫感は緩和されることであろう。そして究極的には、人類の記憶がすべて消え去る時が来るのであるから、未来を恐れることもないであろう。人類史上どんな強大な悪事も恥辱も、数億年後には、いや数万年後には、あとかたもなく失われているであろうから。ましてや、個人史における悪夢などは、数世代で消え去るであろう。
 老年期においては、周囲の人間が死ぬことを、必ずしも悲しむばかりではないことが分かるであろう。しかし、おのれが生きている限りは、そして賢くなろうとする限りは、人生の悪夢は消え去らない。しかし自然は人の老年期にある恵みを与えているのだ。それが老年期にある種の理想的な老境のイメージを与えている。さきほど、老年期の記憶は柔軟性を欠くと書いたが、一般には老年というと記憶の衰えがまず問題視される。日々の記憶が衰えることは、生活を不便にするが、頑固に執着する記憶こそが、老年期の本当の問題である。執着と衰えという、この両面はたぶんあい関係していて、それが記憶の柔軟性をもそこなっているのであろう。通常不快なことから思いをそらすためには、新しい記憶や想念が必要である。これが<忘れる能力>と大いに関係するのである。単なる記憶の衰えは、このネガティヴにしてポジティヴな記憶の働きをもそこなうのであろう。それゆえに老年期の悪夢は強烈なのである。
 しかし、記憶の衰えは最終的に、新しい記憶ばかりでなく、古い記憶にいたる、記憶全般に及ぶことになる。そこに老年期における、ある種の恍惚状態が生まれる。これを至福とみなすことによって、老年期の理想のイメージが生み出されるのである。自然の恵みとしての<認知症が>老年期を悪夢から解放するのである。
 私の父が晩年に認知症になつてから、しきりに母方の祖父の話をした。母との結婚後、実家に会いにいったときのことを、とてもいい人であった、と楽しそうに語った。ある時母にそのことを聞いてみると、とんでもない、私の父は祖父に一度も会ったことがなく、母の父は、わしの目の黒いうちは絶対に会わない、と言っていたという。父は戦前とびきりの左翼であり、母の父は田舎のかたぶつの小学校長であり、死ぬまで結婚を認めなかったそうだ。この二人が、老境の父の頭の中では談笑していたわけである。
2017年8月4日(金)
七月の海
 今年の夏は、七月の半ばでピークを迎えたのであろうか。下旬から八月はじめにかけて、曇り日や雨の日が多く、いまは早くも秋の涼しさである。天気図を見ると、夏の太平洋高気圧はどこへ消えてしまったのか、全土が低気圧に覆われている。毎年夏になると、烈日のもとで海を見たくなる。泳ぐわけではないが、海岸沿いにハイクや、ウォーキングをする。紫外線には閉口だが、暑い日光が身内にエネルギーを補給するようで、一年が健康に過ごせる。今年は早めに、七月の連休に出かけた。
 関東のめぼしい海岸ハイキングのコースの中で、残っているのは伊豆の城ガ崎海岸だけであった。そこへ行くまえに、大磯の高麗山へよった。ここは昔、高麗人が開拓した土地で、麓に神社があり、そこから小さな山々の縦走コースになっている。高麗山は200メートルほどの小さな山であったが、意外とアップダウンにとみ、体力的に油断はできなかった。途中も頂上も見晴らしはよくないのだが、下から祭りの太鼓が聞こえ、遠くに海が垣間見えた。この海の広がりを眺望するには、湘南平という見晴らしにでなければならない。夏の低山ハイキングは、蒸し暑いだけで、あまり気持ちの良いものではないが、木蔭がほとんどで、快適に歩んでゆける。二時間ほども木々の間のアップダウンをくり返して、いきなり湘南の海が一望できる高台にでる。日差しは七月半ばにしては強烈で、それを忘れてしばらく呆然と眺めている。そこには展望台もあって、高くのぼるほど海は広がる。風も強いが、塩の香りはここまでは届かない。呆然という言葉を使ったが、広大な自然に接すると、言葉などは無意味に思われてくる。ただ黙って見ているほかはない。誰もが沈黙して見ている。あるいは自身の中のなんらかの思いにひたっている。言葉をかけたくなるが、自身をも他人をもけがすことになる。黙って立去るほかはない。海の反対側は山の方面であるが、富士山はそれらしい雲いがいに見あたらない。
 当日は伊東で宿泊した。貧乏旅行なので、今どきめずらしい鍵のかからないホテルである。大きなお風呂が取り柄で、たっぷりと湯を張ることができた。翌日はバスで城ガ崎口まで行き、そこから海岸ウォークを始める。ここの海岸は流れ出た溶岩が侵食されてできた、険しい崖がつづく。崖の下にのぞく海は、また昨日の遠望とは違い、身近な感覚をかきたてる。高所恐怖気味なのでなおさらである。どこか見えない奥まったところでぶつかっては咆える、波の声に不安をいだかせられる。近くから接する自然は、恵みであると同時に脅威でもあるからだ。遠くから見る自然はイデアであっても、身近にせまる自然は暴戻なる世界意志なのである。最初ほかのウォーカーはほとんどいなかったのが、崖の間にかけられた吊り橋のところまで来ると、観光客だらけであった。たいていの人は近くにある駐車場から橋見物に来るのであるらしい。そのさきを少し行くと、海洋公園という、花の園と、プールとダイビングで賑わうところをすぎて、自然研究路に入る。そこからはアップダウンのはげしい、海岸沿いの、ほとんど人の姿のない自然路であった。前日につづくハイキングになるので、さすがに疲れを覚え、イガイガ根というところで折れて、伊豆高原駅へ向かう。距離的にはたいしたことはないのだが、名前のとおり高台にあり、予想外に疲労するのぼり道であった。駅の近くの日帰り温泉でくつろげたのはさいわいであった。

                            
2017年7月28日(金)
無意識と人格―根源人格について
 現代の認知心理学の知見によれば、人間の意識的行動の決断や判断は、意識よりも前に、脳の無意識的レベルにおいて、すでに先んじてなされているということが明らかにされている。意識のない動物が、人間と同じ行動をする時の脳の活動パターンは、人間の意識的行動のそれとまったく同じである。意識は行動の決断や判断において、特別に寄与するところは、まるでないのである。意識的決断や判断の一秒前には、すでに脳は無意識に決断し判断しているのであるから、それを意識的に変えることは不可能であるばかりか、意識はいわば、すでに起こったことの単なる記録係りにすぎないのである。このことは単に行為ばかりではないかもしれない。人間が考えること、感じること、意欲することなどもすべて、すでに無意識で行われていることを、単に跡づけているに過ぎないのであるかもしれない。その可能性は大いにあるであろう。
 人間の行為はすべて、それを意識的に行うまえに、すでに決定されている。これは強力な決定論であり、意志の自由などはどこを探してもない。意志すなわち意識的判断や決断による行為の能力を感じることは、単なる錯覚にすぎないのである。人間の身体は精神活動を含めて、細胞の化学工場の集積である有機体の活動によって、環境との関係において必然的に決定されており、それを単なる意識が恣意的に変更することなどは論外なのである。これが現代の自然科学が明らかにした、もっとも強力な運命論である。運命に逆らおうと、運命を愛しようと、どうふるまおうと、そのこと自体がすでに決定されているのである。
 このことはある意味で人間を迷妄から解放する。どうふるまおうと運命であるならば、逆に言って、絶対などはないのであり、むしろ運命のままにすき放題にふるまっているならば、かえって自由であるかのような錯覚をいだけるからである。しかも、社会が強制するような責任も義務もない。必然的であることには、すなわち無意識で行うことには、責任などはなく、責任のないところには義務もないからである。いわゆる人格の概念は崩壊する。意識的な主体として、個人に帰せられている、なんらかの社会的、倫理的実体と考えられている人格なるものは、すでに意識が行為の主体としては無力であることが明らかになった以上、だれもその責任や自立性を問うことはできないからである。
 人間を支配しているのが、動物と同様、圧倒的に無意識であることが明らかになったからには、大いなる価値転換が起こらねばならないだろう。その一つは、たぶん本能の再評価である。人間社会の調和をはかるものが、道徳や倫理や規範や法律やの意識的道具ではない以上、その原理をむしろ動物に学ぶべきであるということになろう。人間同士の調和をはかっているものは、根本的に無意識の力なのである。本能の必然性が種としての、集団としての人間同士を近づけているのであり、そこには倫理や道徳などはいらない。狼はホッブスが考えたようには集団内で争いはしないであろうし、まして人間は狼以上に集団的である。人間が集団内や集団同士争うようになったのは、たぶん本能に狂いが生じたからであろう。
 いま一つの価値転換は、人格概念の革命である。人間の行為を支配するものが意識でないことが明らかになった以上、もはや意識の人格支配は許されない。人格はもしあるならば、無意識のそれでなければならない。無意識界の人格については、すでに<影の人格shadow personality>について言及したことがある。ここでの無意識の人格は、意識において反映され、写し取られる人格のありようであり、特別な用語が必要になるであろう。これまでそうした発想も用語もないのであるから、とりあえずproto-personalityまたはUr-Person(根源人格)と名づけておく。それに対してこれまでの意識における人格概念をpseudo-personality(虚像人格)と名づけておく。無意識界の根源人格こそが実人格であり、意識に現われた人格はその虚像に過ぎない。このように見ると、人格が多重である理由がより理解しやすくなる。人間は潜在的・基本的にDoppel-Gaenger(二重人格)なのである。あるいは場合によってはそれ以上の多重人格的存在である。意識はそれを統合的にしかとらえられないので、あたかもおのれが単一の人格であるかのような錯覚に陥る。カント風にいえば、統覚の先験的統一が、多重な潜在的人格をむりやり一つの意識的人格に統合するのである。人間が、迷ったり、悔いたりするのは、無意識界において根源的人格の間の格闘が生じるからである。行為の前も後もそれはつづくのであり、単なる意識的統合によっては解決することはできない。
 人間は無意識に行動するとき、おのれに対してもっとも忠実であることになろう。ただしその行動を決定するのは、無意識人格の間のなんらかの優勢な衝動もしくは動機であり、その結果生じたことに対しては必ずしも納得するものではない。しかしそれが<運命>であったという意識によって、自己自身と和解することができる。根源的人格の間での力関係によって、人生のあらゆる決断はなされ、判断はなされる。そこに必然性を見、運命をみることで、そうでしかありえなかった人生の真実に気づくであろう。
2017年7月26日(水)
自己保存について
 自己保存(Selbsterhaltung)ということの中には、さまざまな要素が含まれている。個(Das Individuum)としての自我のあらゆる活動が、その中に包含されるといってよいかもしれない。ストア派が、oikeiosis(*注)といっているものがこれにあたる。自己自身が何を所有し、何を所有しようとしているか、そのすべてを自我を中心に包含するものがオイケイオシスであろう。自我はまず自己の肉体を所有している。その肉体に所属するあらゆる機能、運動や感覚から、欲求から、情動から、情念から、意志から、空想や思想にいたるまでが、彼の直接の所有物である。しかしそれら肉体とそれに所属する性質は、自己の直接的所有であっても、単に自己の可能性であって、それそのもので充足したあり方ではない。欲求や情念一つをとっても、それは自己の肉体以外のものを必要としている。自己自身を自己の外へと拡張しないことには、自己自身を維持することができないのである。
 *oikeiosis, Latin conciliatio, 'dedication'. The Stoics (Stoicism) used the term oikeiosis to refer to the drive for self-preservation; immediately after birth a living being perceives not only its environment but also itself, and immediately addresses its needs by recognizing that it 'belongs' to itself (oikeion, Latin carum), i.e. that it is dedicated to itself. In caring for itself, a living being strives for what is in the interest of its own preservation and seeks to avoid what is harmful. (Brill Refference)
 食料は外部から獲得しなければならないし、性欲は配偶者を求めねばならない。思想はその共鳴者を、空想や想像の産物はその聴者を求めねばならない。野心は金銭的成功ばかりか、世間の承認や賞賛を渇望している。プライドや自尊心は、他者からの尊敬や服従や、少なくとも特別な感服を求めている。そうした自己以外のもの、あるいは他者や世間においてしか得られないものをも、自己自身の所有物としなければ、自己保存は成立しないのである。
 自我の自己保存をそのように見るならば、自我は自己自身に所属するばかりでなく、その本性や性質によって、自己を取り巻く世界にも同時に所属していることになる。この世のすべての事物には、自我がそれに関係する限りにおいて、Myをつけることができよう。My body.My book,My wife,My house,My land,My earth,My friend、My honour等々、この世界の事物はことごとく、私の存在にとっての必要物となるであろう。それらのものを欠くならば、自我のあらゆる性質は空転するであろう。
 自我が私以外のものを、私のものとする時、自我はそれを所有すると同時に、そのものに所有される関係に入る。それは所有を奪われる時に、その空虚感と怒りとで、特に明らかになる。自我はそれを所有していたのではなく、それに所属していたのであると。世間的野心が得られなかったり、崩壊する時は、自己自身の身体が奪われるのと同様の怒りと苦痛を覚えるであろう。世間での私の位置は、私自身であったのだ。自我はそこに所属することによって、自己の安全と、生命のまっとうを求めたのであるから。
 私の意志、私の自我は、その自然的、肉体的本性にしたがって、たえず外界へ向かって拡張しようとする。それは物質的にも、心理的にも、精神的にも、同じことで、自己以外のもの、自己の外に向かっての、欲求、衝動となって現われる。これが自我にとってもっとも克服し難い苦悩の根源である。死や病気は、自我にとって、対処することは案外たやすい。この生命界での所有の闘争、人間社会での弱肉強食、その中での自我の格闘こそが、人間にとっての最大の苦悩なのである。だから、たいていの宗教は、比較的克服しやすい、死の準備を説く遁世の教えとなるのである。
 自我は、何を所有すべきか、何を所有せずにすますべきか、このことをつねに熟慮することを、古代の賢者の哲学は教える。所有ではなく、所属の関係に入るものは、総じて良い所有関係ではない。それは外物だけではなく、肉体についても当てはまる。真に所有の関係にあるものは、それを手離しても惜しくはないはずである。わたしはそれを所有しても、所属はしないからである。真に私が所有し、私以外のだれからも奪われることがないもの、私以外には属さないもの、もしそれが見つかれば、それが真の自我である。それは所有というよりも、むしろ私自身の本質である。私はもはやなにものをも所有する必要すらないであろう。私自身は、永遠にそれ自体で、自己保存されているからである。
2017年7月8日(土)
快楽について―エピキュロスの快楽主義
 快を求め苦を避けることは、人間が誕生してすぐさま見せる行動であるから、快楽は人間の本性(nature)に属する、とエピクロスが言うのは正しいであろう。人間の本性は、そのまま自然の本性(rerum natura)であり、自然の本性と一致して生きることが、賢者の生き方であるとされる。しかしいたずらに快楽を求めることは、自然の必然的な本性とははずれており、心の動揺と不健康をもたらすだけである。この錯誤を引き起こすのは、人間の誤った臆見(ドクサ、opinion)であるとされる。食欲はパンと水だけで充分に満たされうるのであるが、それ以上の美食を求めるのは、必然的なものに、必然的でないものを加えようとする、貪欲のいたすところである。さらに自然から離れれば、必然的でないものに、必然的でないものを、幾重にも重ねていくことになる。現代の消費文明がまさにそれであろう。
 エピクロスの困難は、自然の本性である快楽が、反復的であると同時に、その限度をとことん追求しようという貪欲と結びついているにもかかわらず、快の欲求から解放された心の平静(アタラクシア)を生み出す原理ともされていることである。すなわち、心の平静とは、快の自己充足(アウタルケイア、Autarkie、経済で言えば自給自足)にほかならないのである。欲求とは欠乏であり、その欠乏をみたそうとする期待が、同時に快の期待ともなり、その充足が快の頂点をもたらし、その結果として、欲望の鎮まった、心の平静がおとずれる。その際、極端や過度を避けるということは、本質的なことではなく、欲望の強度によるのである。過度や極端は、時として快の反対である、苦痛をもたらす。そのことをよく考慮するならば、欲望を抑え、適度な快を求めるということが、賢者の基準となる。
 このようなことは、日常生活においては、ごく常識といえるかもしれない。こうした常識が、ギリシャ・ローマの古典古代において革新的であったというのは、彼ら思想家がソクラテス以来、いかに理想に生きていたかということを思わせる。快楽というものに対する、なんとないうさんくささ、羞恥感、憤り、堕落感、こうした古代の思想家ばかりでなく、現代人をも支配している、反快楽主義の道徳意識は、どこから生じるのであろうか。快楽の根源を探究してみれば、それはおおよそ見当がついてくる。人間のごく自然な欲求は、食欲・性欲・排泄欲であって、それは生命界一般に共通して、特に動物界においては、日常顕著に、かつ露わに目にするところである。人間は文明によって、生命界の頂点に立つことで、他の生命や動物を睥睨する立場にいたった。その人間が、動物と同じ欲求や快楽にとらわれていては、なんともその自尊心に傷がつくのである。食欲に関しては、それを文明化することができた。牧畜と、農耕によって、食糧をコントロールすることにより、人間は自然のままの欲求を備蓄という人間的レベルに高めたのである。しかし、性欲と排泄欲だけはどうにもならなかった。それはいくらトイレや密室が発明されても、動物的レベルをいくらも超えることができないばかりか、その秘密性によって、かえって欲望や快楽を煽り立てたのである。
 性欲や排泄欲の充足が、密室の中におかれたということは、快楽そのものをも隔離したということである。こうした隔離された快楽を、たとえマイルドな形であっても、あからさまに表に出すことは、社会的禁忌とされたのである。これが性道徳の起源である。自然的快楽が、社会組織の中でタブーとされた理由は、いまひとつある。それはそれらの快楽が個人的であることである。食欲だけは、食糧生産の共同性から、早くから社会化された。しかし根源において食欲の快は個人的であり、それは危機においての食糧の奪いあいにおいてあらわになる。性欲だけは、たいていの社会組織において共同化されなかった。それは単に婚姻制度の問題ではないであろう。それはオス同士、男性同士の争いを引き起こす。性の快楽をめぐっての争いは、アガメムノンとアキレスの例を出すまでもなく、社会に混乱を引き起こす。近代社会では、個人的快楽にふけっていられては、国家にとっても、労働力を必要とする階級にとっても、社会組織を崩壊させる原因となる。それらの快楽を、勝手に個人の自由に任せてはおけないのである。それが良俗美風の起源である。性道徳も、良俗美風も、国家や支配層の、個人的快楽を統制する手段に過ぎないのである。
こうした、国家や支配層の好都合な社会組織を維持するための、個人的快楽の統制が、思想的イデオロギーとなって、快楽そのものへの罪悪感や、堕落感や、羞恥感が、フロイトのいわゆる<超自我>を介して個人の中につちかわれていくのである。
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 プラトンは理想主義者であると同時に、国家主義者であった。彼が感覚やそこから生まれる快楽に対して、嫌悪感を持ったことは、国家主義者として当然である。ましてや、感覚や快楽が、正義や真偽の基準であるなどとは、夢にも考えないであろう。真理は、<口腹の快>と何の関係があろうかと。しかし、あらゆる快及び真理の探求の根源を口腹の快にみたエピクロスは、根本において正しいであろう。食欲や性欲という欠乏の苦(性欲もまた配偶者を求めるかぎり欠乏の苦である)を充足することによって得られる快は、苦痛が除かれたという消極的快(アタラクシア)へといたる。あらゆる真理の探求はまた、このアタラクシアを目指すのである。人間は何故に真理を探究するのか。もはや不可解をいだかず、なにごとにも驚かないためである。賢者は宇宙に対しても、自己の魂に対しても、驚異の念をいだくことがないのである。(エピクロスによれば、そもそも宇宙は無限で永遠であるから、あらゆる起こりうる出来事はすでに起こっていて、宇宙にはなにひとつ新しいことはないのである。)その状態が、知性が真理を探究する究極の目標である。つまり、知性がなにごとにも驚かないアタラクシアに達するまでは、知性はなんらかの欠乏にとらわれているのである。この欠乏も、知的エロスと呼ぼうと、精神的アフロディーテと呼ぼうと、ごく希薄化された感覚的欲望であることにちがいなく、それがアタラクシアに達することが、真理の探求の価値なのである。
 このようにみれば、イデア論者もまた、国家的レベルでのアタラクシアを目指しているといえないこともない。プラトンにおいては、あらゆる快は国家的スケールでみたされている。口腹の快は労働階級において、知的快は支配層である賢者において、それぞれアタラクシアにいたる。人体における快の階層が、また国家の構造を決めるのである。しかし現実には、このような国家はどこにも実現しなかった。どこの国家においても、支配層は被支配層よりも、いっそう口腹の快に支配されているからである。
 *    *     *
 さきにエピクロスの困難とした、より根本的な問題に返ってみる。本来心の動揺であるところの快楽が、充足によってその正反対の心の平静にいたる原理であるとすることは、結局どこまで行っても反復的な快の手の平から抜け出すことはできないということである。それならばなぜ、快を全面的に肯定してしまわないのか、という反論である。あるいは逆に、快とはべつの、アタラクシアにいたる方法ないし原理はないのであろうかという疑問である。もし徹底した快楽主義者が、人間に可能な快楽をとことん味わおうとしても、その能力には限界がある。ローマの貴族は、一日中食事をしていて、可能なかぎり胃袋に詰めこめるように、食事ごとに前に食べたものを嘔吐していたという。どんな快楽主義者もしまいには賢くなって、欲望のコントロールを心がけるであろう。快楽主義は自然と中庸におもむくであろう。ただ、通常の快楽主義者は、快そのものを求め、ある快が充足されたあとには、次の快の充足を求めるというふうに、快の積極的な部分のみ求め、快の合い間の安らぎは退屈と同義であろう。快から快へとたえず心が波立ち、その充足へといらだつ快楽主義は、結局たえず飢えに追い立てられている動物とかわらないであろう。このような快楽主義は、賢者にとっては、決して人生の満足をもたらさない。快楽主義においては、安らぎこそが大事なのである。安らぎを得るには、当の快楽を適宜みたすほかはない。この意味では、快楽主義はフロイトのいう無意識の抑圧を解放する。快楽は抑圧されてはならない。しかしその快楽そのものが目的なのではない。自然の欲求に従いながら、その自然の欲求に支配されないことが、快楽主義の、とりわけエピクロスの快楽主義のめざすところである。たぶん、エピクロスには隠れた禁欲主義があるのであろう。イデア論や神々の神話を否定して、デモクリトスの原子論によって立つ彼には、超越的な逃げ場がないのであって、あくまでも感覚を世界原理としながらも、その全面肯定ではなく、消極的な面を説くことによってしか、その禁欲主義を主張できなかったのであろう。
 懐疑論者は判断停止(エポケー)において、アタラクシアへの道を説いた。すべてが不確かであるとして、なんの判断も下さなければ、少なくとも思考における迷いはまぬがれるであろう。しかし、欲求に関しては、いかなる判断停止も及ばないであろう。文字どおりに判断停止するならば、欲求のままに流されるだけであろう。ある行為が正しいかどうかを判断しなければ、そこで行為がとまるわけではなく、いわば本能的に行為するであろう。根本的な心の平静を求めるには、快楽からも、欲求からも離れなければならないであろう。しかし、人間の根本は身体であるかぎり、欲求そのものであり、それの充足、非充足である、快苦の感覚に支配されているといってよかろう。身体とはすなわち、この世界の根本である世界意志、もしくは生への意志の客観的発現(客体化)であり、感覚は個としての身体が、他の個物との関係において、自己自身を現わしだす意識の要素なのである。この点を、エピキュロスの魂の理論から見てみよう。
 *    *    *
 エピクロスによると、物体(身体)も魂も神々も、みな原子からなっている。興味深いのは、物体と魂の関係である。感覚が生まれるのは、魂のある一部の原子の部分であるが、それだけでは感覚のような現象は生まれない。物体の側にも感覚を生み出す原子の部分があって、双方が出会うことによって共通の原子の部分が生じ、それが感覚となるのである。すなわち感覚は魂そのものにも、物体(身体)そのものにも属するのではなく、いわば第三の現象なのである。これを現代の言葉で言えば、化学<反応>にあたるであろうか。反応そのものは、双方の原子(または分子)の集団どちらに起こるというのではなく、新しい化合物を生み出す過程である。それによってもとの原子の集団とは異なったものが創出されるのである。しかし、創出されたものもまた原子の集団であることに違いはない。
 感覚(感性 Sinnlichkeit)は意識の素材的な源であり、そこから表象も、意識も、自己意識も、したがって自我も、発している。感覚以外に、意識も自我も自己を確認するよすががないとすれば、少なくとも感覚とともに、それらは生まれ、感覚の消滅とともに、それらも消滅する。それがエピクロスに限らず、唯物論の帰結であり、原子の離散とともに、魂は消滅し、人生は終わる。人生は一回限りなのである。神々は、たぶんより良い原子からできているのであろうか、<中間世界>において永遠の至福の状態にあり、この世界や人間の営みには一切関与しない。わざわざアタラクシアにある存在が、おのれを乱してまで、この世界に関与する必要はないからである。しかし、それは永遠の理想型として、賢者の目指すべき目標となる。神のごとき存在となることが、エピキュリアンの生き方である。たった一度の幸福の思い出があればよい。それを失いさえしなければ、どんな苦痛の中においても、賢者は安閑として人生を終えることができる。それがエピキュロスの幸福論である。
 エピキュロスはまた、唯物論者にはまれだが、決定論に反対している。原子はその重さによって、上方から下方へと、等速で垂直落下運動をしている。空間(空虚)は時間とともに永遠、無限であり、その意味では上下にあまり意味はないが、とにかく地上での重力からの発想では、上から下へとものは落ちる。しかし単なる垂直平行運動では、原子間になんらの衝突も起こらず、この世界が生まれるようなことはないであろう。そこで、いつどこということもなく、原子の落下運動にわずかな<偏り>が生じるというのである。現代の量子力学でいえば<ゆらぎ>のようなものであろうか。この原子の運動の偏りがあるために、物体の世界が誕生するばかりか、人は運命に翻弄されることなく、おのれの意志で幸福を探求できるのである。
 世界は原子と空虚からなり、空間の中での原子の運動と衝突が、(無数の!)宇宙を造る唯一の力なのであるから、感覚とその中に現われる快楽とは、やはり原子の運動と衝突で語られる、唯一の宇宙的な力である。欲求や感情もまた、その力の現われであり、あるいはその力そのものである。その自然の力と一致して生きるとは、自然が必要とする以上の欲求にとらわれることなく、欲求の充足にともなう快感に溺れることなく、欲求が満たされたあとの、心の平安だけを目的として、快楽を幸福の道具とすることである。この点、同じ自然主義であっても、自然の中に理性(ロゴス)の働きを見て、感覚的自然から離れる立場からアタラクシアを求めたストア派とは、根本において異なっている。一方は道具主義(プラグマティズム)であり、他方はやはりイデア論に属する。自然は幸福を求めるための道具であるから、エピクロスの自然研究は、実のところ、なにが真理であり、事実であるかということと関係がない。自然の現象がすべて、原子論によって説明可能であるという認識だけで充分なのである。
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 快楽はエピクロス派が実践によって調教しようとつとめたほど、そう生易しいものには思えない。自然の力は、人間がそれを簡単にコントロールできるほど穏やかなものではないのである。かえってミイラ取りが木乃伊になるように、なまじっか快楽を押さえようとすれば、その強力な反動を受けるのである。ましてそれを道具に、心の平安を求めようとしても、たえず反復し、より以上を求めようとする欲求の力が、単なる賢者の理知を簡単に押し流すであろう。快楽ほどやっかいなものはないのである。しかしうまくその道筋をつけるならば、快楽ほど人間の文明を進めるものはないのである。そもそも哲学さえ、知を愛する欲求にほかならないのであり、その探究心の充足への快を求めての営みである。人間とほかの動物との違いは、単に賢い人(homo sapiens)であるだけではなく、その度はずれた快楽の欲求にあるのではなかろうか。すなわち人間は<快楽の人homo voluptarius>でもあるのである。だからその度はずれた快楽がまた、その欲求が大きいほど、その充足のあとに訪れる心の平安を深くするのである。しかし快楽は、次へ次へと、終わりなく充足と平安を求めるのであり、これがショーペンハウアーの言う、<イクシオンの車輪>である。<神のごときエピクロス>はいざ知らず、いかに慎ましやかであれ、快楽によって究極の心の平安を達成することは、きわめて困難であるといえよう。 
2017年6月25日(日)
表象世界の神秘
 緑の山の端の上に広がる青空の色には、心を遠く引き寄せるものがある。身体から浮かび出るような胸の広がりと、観念の純化が、自然美そのものの純粋観照へと向かわせる。対して、森の欝蒼とした木々のもとでは、身体の奥底で疼くものがある。落葉や土の香り、木々の茂りの隠れ場の中では、身体が暗い意志と同化してゆく。一方は<空の性(さが)>であり、他方は<土の性(さが)>である。明瞭な意識へと向かう憧憬と、身体の暗い衝動との間で、人間存在は引き裂かれている。一方の表象は身体を純化し、他方の表象は暗い衝動や欲望をうごめかせる。一方は光へと、他方は無意識界へと、意志を引き寄せていく。どちらの側にも神秘がある。一方は無限と永遠への胸苦しい憧憬であり、他方は郷愁に満ちた闇の魔力である。一方は身体からの超越への意志であり、他方は盲目的な悦楽と、放恣への意志である。一方はイデア界へと自我の解放を願い、他方は世界の根源にとどまり、その無限の力に身を委ねんとする。一方は超越者への道であり、他方は超人への道である。どちらも無限に困難な道である。なぜなら、一つの身に二つの性をもつからである。両者の格闘において身を焼き、身を滅ぼすほかはない。身を滅ぼして、もし残るものがあれば、そこに救済の原理が見つかるであろう。
 *   *   *
 青空にかぎらず、色彩の表象には神秘がある。意識は本来それ自体としては色彩を持たないであろう。それが白色光、すなわち透明となって現われている。透明とは、意識における一様な明るさと考えてよいだろう。暗い頭蓋の中で、最初に意識が灯るとき、それはスイッチを入れたように、ふと灯るのであるが、限りなく透明な黄色である。それを意識自体の色とするならば、それは物理的な光、すなわち可視光線とは別のものであろう。明るさというものを、脳はみずから生み出すのである。意識とは脳が生み出した光といってよい。その意識の最初の明かりの中で、一点の光輝が生まれ、それがまばゆい透明な白色となって広がり、意識を埋め尽くすほどに燦然と輝く。これが目に見る光の誕生であろう。こうした原初の明るさ、光が、脳内に準備されていて、覚醒と同時に、外界の色とりどりの色彩を生み出すカンヴァスとなっているのである。
 色彩は意識自体が染められることであると言って良いだろう。青は意識の凝縮であり、赤は意識の他方向への凝縮である。中間の黄色は、意識そのものの色に最も近いのであろう。そこから両方向に、色彩が展開するのである。黒は光によって現わしだされた<無>意識である。色彩自体が何であるかは、意識自体が何であるのかという問と同じで、そうであるもの(So-Sein)としか言い得ないものである。しかし、色彩が意志に及ぼす影響については、さまざまなことが言いうる。もはやそれは、客観的な表象でありうるからである。青空が青として表象されることは、生への意志の見地からは、必ずしも偶然ではないであろう。それは生にとって最も遠い色であるから。たとえば、それが赤色矮星系の惑星における生命にとっての、空の色であっても良いわけである。人類にとって赤い星は、彼らにとって青く(または少なくとも黄色く)見えるかもしれないのである。血液が赤として表象されることも、偶然ではないかもしれない。血が赤いからではなく、<赤い>血が生への意志にとってalarmを起こさせるのである。意識を選別的にそめるのは、生への意志であるといってよかろう。赤色矮星系の惑星の住人の血は、やはり赤いかもしれない。
 表象世界の背後、もしくは根源には、それを生み出す世界原理の<意志>がある。この世界が調和に満ちて見えるならば、それは世界意志の演出であり、またこの世界が矛盾と不合理に満ちて見えるならば、それもまた世界意志の本質から発したことである。あらゆる表象には、世界意志のなんらかのサインが秘められており、その意味ではこの表象世界は世界意志の作品であり、テキストである。自然科学はそのテキストを、概念において解き明かそうとするが、表象そのものがすでになんらかのシンボルとして、世界意志の直接の表現でもあるのだ。
 概念の世界は、イデア界の探求に委ねるとして、ここではさらに表象の神秘を考究してゆく。表象は世界意志が生み出したものであり、その目的ないし衝動の向かう方向に従わねばならないが、まれにそれに反する影響を意志に及ぼす場合がある。それをショーペンハウアーにしたがって、表象の<純粋観照>と名づけよう。世界意志のこの表象界における根本のあり方を、ショーペンハウアーは<Interesse(利害関心)>と規定する。意志にとって利害関係のない表象には、注意が向かないのである。逆に言えば、表象はつねに意志の注意を向けるように、発現しているということである。表象と意志とは、つねに共扼関係にあるのである。認識者の主観はつねにこの両者の共扼関係に縛られているので、事物を認識する時には、ある表象が意志にとって気に入るかどうか、つねにお伺いを立てているわけである。ところが、まれではあるが、認識者の主観がこの役目を忘れて、純粋に対象そのものへ没入することがある。この主客合一の状態で、Interesseにとらわれない、表象の<十全な>認識が可能となる。この時、意志を滅却させる純粋美が発現するものとされる。認識者の立場からは、美の<純粋観照>である。
 通常われわれは利害にとらわれているから、表象そのものを、客観的に、十全な姿でとらえることがないのである。言ってみれば、表象自体(Vorstellung an sich)の姿を見ることがないのである。プラトン風に言えば、表象のIdeeを見ることがないのである。青少年期に、自然界があれほど美しく見えたのも、いくぶんはこの美の純粋観照にあずかっていたのであろう。ただ夕月を見ているだけで、心が静まり、一日のいやなことを忘れることができたのであるから。生への意志にとってみれば、月ほど無縁なものはないからである。あらゆる表象は、純粋観照の眼からは、美でありうるのかもしれない。しかしそうしたことが起こりうるのは、きわめてまれである。通常美と映るものは、つねに意志に奉仕する、意志の媒介、道具としての美にすぎないのである。ミロのビーナスやモナリザでさえ、見ようによってはエロスをかきたてよう。そうした美によっては、あるいは、そうした美の見方によっては、意志の滅却などはとてもおぼつかない。
 視覚的な美は、自然美であれ、人工美であれ、その純粋な姿において、心を沈静させる。それに対して、複雑な美感を引き起こすのが、音楽である。自然界の音の表象は、生への意志と密接に結びついて、危機や、安全や、安らぎといった、生命のリズムに対応している。風音、波音、足音、羽ばたき、鳴き声、それぞれに生命は対処しなければならない。その心的律動を伝えるものが音楽である。ひとことで言えば、音楽は生への意志そのものの動きである。と同時にそれは、厳密な概念の構造を持っている。それによって客観化された生への意志である。客観化された生への意志であることによって、それはある種の美となりうるのである。それにしても音楽は、身体に奉仕する低次の意志から、高次の精神化された意志にいたるまでの、幅広いスケールを持っている。一方では意志をかきたて、昂揚させ、撹乱させ、他方では、意志を沈静させ、寂滅為楽の境地を髣髴させる。
 世界意志は、絶大なる力であり、エネルギーであるが、それが低次の物質界において発現するに当たっては、物理学が明らかにしたように、波動としての姿をとる。物質は、ごくごく微小な長さの、幅のない、ヒモの振動からなるのである。音楽はまさにこの振動そのものであり、宇宙の根源を音として表象の世界に現わしだしたものである。身体的自我の本質もまたこの波動であり、そこから身体の律動と音の律動とが舞踊において合体し、それがさらに分化することにおいて、音楽が成立したのである。波動という規則的な法則にしたがう音楽は、この宇宙が法則的であるのと同じように、一定の法則性を持ち、それによって宇宙そのもの、生への意志そのものの純粋な表現となる。それは概念でありながら、言語のような意味を持たない。しかし、意志そのものと共鳴することによって、きわめて明瞭に世界の本質を開示するのである。
 音楽は世界意志の純粋な発現であるから、それによって世界意志のコントロールがあるていど可能になる。意志の昂揚に向けてそれを働かせることもできるし、また意志を沈静の方向に導くこともできる。また場合によっては、全体主義国家においては、この音楽の力を、大いに悪用したのである。音楽は直接心情に作用する。まさに心情そのものもまた波動であるからだ。音楽の侵入に対して、心は無防備であるといえる。心の内奥まで侵入して、あらあらしくおのれの秘められた心を暴き立てるのである。心はその羞恥感にいたたまれなくなる。そうした音楽の暴力は、また強烈な魅力となる。身を暴風に委ねるように、<第五>に心の中をかきむしられなければ、もはや生の魅力を感じられなくなってしまうのである。音楽は同時に概念であることによって、高次のレベルにおいては、生への意志を精神性に高めることができる。その低次のレベルにおいては、身体の需要に奉仕したり、そのリズムによって肉体の欲求に奉仕する。生への意志のあらゆる段階を表現しうるのである。
 音楽はその精神性の極において、意志の否定へと向かうであろう。ワグナーの楽劇がそれであった。現代の無調音楽も、またその傾向を持っている。日本の古典音楽のあるものも、その傾向が著しい。教会音楽や、バッハのフーガの技法なども、世界意志を沈静させる。しかし、あくまでも一時的な鎮静であって、あらゆる芸術美がそうであるように、完全なる意志の滅却にいたることはない。
2017年6月21日(水)
孤独論
 From childhood's hour I have not been
 As ohters were ; I have not seen
 As others saw ; I could not bring
 My passions from a common spring.
 From the same source I have not taken
 My sorrow ; I could not awaken
 My heart to joy at the same tone ;
 And all I loved , I loved alone.
       ――E・A・Poe Alone
 [子供のころから
 変わりもののわたしだった
 わたしのもの見る目は
 ひととは違っていた
 ひととおなじ泉からは
 こころのたかぶりを覚えなかった
 ひととおなじ源からは
 かなしみの情をくみあげなかった
 ひととおなじ音色には
 こころを悦ばせなかった
 わたしのいつくしむものは
 わたしひとりがいつくしんだ
   ――E・A・ポオ 「ひとり」]

 孤独がポジティヴな生き方であるためには、人は何らかの意味での自覚したエゴイストでなければならない。人は天性と社会的環境(いわゆる境遇)によって、エゴイストとなり、その結果孤独な人生を選択することを余儀なくされる。人は生まれながらにエゴイストであることは稀であろう。動物と同様に、その本能的行動は、同種の他者に対して共感するように、脳によって定められている。さもなければ生命界にサヴァイヴァルできないからである。同一種や、同一グループに対しては、同一行動をとるということが、本能をつかさどる脳によって定められている。他方、他種や他グループに対しては、嫌悪や恐れを抱き、攻撃的になるように、これもまた脳によって本能的にプログラムされている。こうした心理学や脳科学で明らかにされた、動物及び人間の本能的社会行動からは、本来エゴイズムは種対種、グループ対グループの間で発現する、敵対行動であることが分かる。人類集団は、歴史的に見て、エゴイズムの闘争によって、文化や文明を作ってきたといえる。しかし近代のエゴイズムは、こうした集団間、部族や、民族や、国家間のエゴイズム、一言で言えば、全体への意志に支配されたエゴイズムではなく、まさにその対極に立つ、個人のエゴイズムである。普通にエゴイストを非難するときは、その対象は個人としてのエゴイストであり、集団のエゴイズムから抜け出した、<よそ者・逸脱者>としてのエゴイストを、全体への意志にそむくものとして、本能的に嫌悪し、道徳や宗教といった集団の意志によって断罪するのである。まさにその点で、エゴイストは孤独なのであり、きわめて困難な人生を歩むことになる。
 人は天性よりも、むしろ社会環境によって、エゴイストになり、孤独者になるといって良いだろう。そのきっかけは多く家庭での虐待であることが、心理学で明らかにされている。これを広く、社会的虐待または孤立といってよいだろう。エゴイストはその発端において、強いられた社会的不適応者である。親から見離されたサルの子が、ひたすら自己快楽に耽るように、社会的に孤立した幼児や青少年は、ひたすら自己自身の中に存在の意味を求める外はなくなる。そして最初に見い出す自己価値は、サルの子と同じく身体の自己快楽である。快楽は、孤立におかれた生命の、最初で最後のの避難所となっているのである。そこから抜け出せるかどうかは、すべて社会的刺激にかかっている。それを禁止するものが、フロイトのいわゆる<超自我>である。親またはそれに当たる者が自己快楽を禁じなければ、それを罪悪と感じることはないであろう。
 エゴイストが唯一の存在の拠り所とする自己快楽までが、悪として断罪されるとき、彼はそれを自己自身の内奥に秘めるようになる。すなわち、エゴイストは秘密を持つようになるのである。社会的組織の中では、個々の成員が秘密を持つことは、もっとも嫌われ、警戒される。特に幼少年期の教育組織の中では、秘密は最大の敵、悪とされる。その秘密の中で、エゴイストは、自己のエゴを守ろうとするのである。エゴイストは、すでに幼少年期において孤独のなかに生きている。エゴイストは、幼少年期においては、秘密の快楽主義者であるほかはないのだ。その快楽を、単に身体的なものから、知的なものへ昇華できるかどうかは、境遇よりも天性が決めるであろう。知性のないエゴイストは、一生涯、身体的快楽主義者で終わるであろう。
 エゴイストはその出発点において、孤独者、もしくは孤立した生命であり、それ故に生命の避難所としての快楽に身を委ねる、快楽主義者であることを述べた。自己自身を楽しむということが、一生の原理となるのである。しかしその生き方は、社会的承認を得ることは稀であり、ましてやそれによって適応できるようには、社会組織は作られてはいない。そのことをもっとも思い知らされるのは、青年期における、自立においてである。エゴイストがもっとも厭うのは、他者によって、あるいは他者のグループによって、利用されることである。おのれ自身の価値を他者に譲ることである。社会はまさにそのことを彼に要求するのである。彼は社会的生活の出発点において、まったくどこにも適応のしようのない、人間集団の組織を見い出すのである。そこにエゴイスト=孤独者の最大の危機がある。追いつめられたエゴイスト=孤独者は、鬱積した情動を、社会に対する攻撃的な犯罪において発散するか、弱者の場合には、自殺に追い込まれたりもするのである。犯罪や自殺にいたらずに、エゴイストとして、孤独者として、幸福を求める道は、まったく閉ざされているのであろうか。そもそもエゴイスト=孤独者として生きる者は少数者であるが、たいていはもっと賢い道を模索するであろう。この社会のシステムを何とか利用して、そのニッチでの適応の道、手段を探るのである。生命はいたるところで適応の可能性を探りつつ、40億年以上に渡って存続して来た。その強靭な生命力は、すべての個体の中に根づいているはずである。孤独者のエゴイズムもまた、その適応の一つのあり方なのであり、生命の可能性の一つである。
  *    *     *
 孤独者(der Einsame, the solitary)について、その生存の条件や、人生の設計について考える前に、個人もしくは個体(das Individuum,the individual)とはなにかということを考察しておく。個人(もしくは個体)は、ショーペンハウアーが言うように、関係的な存在であって、決してそれだけで孤立しているのではない。個はつねに他との関係において個であるのであって、個がもしあらゆる関係からまぬがれて、それ自体で存在しているのなら、それはもはや個ではなく、一つの全体者であり、唯一者である。このような全体者は個ではありえないし、そもそも自己自身において自足した絶対者であるから、孤独者というニュアンスでとらえられる存在ではありえないのである。孤独(Einsamkeit)とは本来関係的である個が、関係性を失って自己自身の中に閉じこもった状態をいう。全体者は一者(Einheit,das Eine)であって、他との関係を必要としないのである。孤独が問題となりうるのは、人間が(自我が)身体を持った個人だからである。
 身体的自我は、おのれの身体を発見すると同時に、個人性(Person,Persoenlichkeit,personality)としてのおのれを見いだす。Personは身体であると同時に仮面であって、まさに個人としての人間の関係性を表わす言葉であり、その象徴であるといえる。自我は自己自身を他者の前に、Personとして(すなわち、<だれそれ>として)あらわしださねばならないのである。身体的自我、すなわち生命としての自我は、この関係性の中でしか自己を維持できないように造られているのである。生命において、関係性は個々の細胞間についてはもちろん、個体としての全体においてもつらぬかれており、種という関係性がなければ、個体はたちまち滅びてしまうであろうし、もしその関係性から排除されれば、たいていの個は、その存在意義を失ってしまうのである。巣から離れた蟻や蜜蜂は、もはや個としては生への意志を持ち得ないのである。たいていの動物は、種から孤立すれば、その生存の確率を低くする。人間の場合でも、定年退職したサラリーマンが、ぬけがらのようになってしまう例に、それがあらわれている。それゆえに、孤独とは、個としての生命にとって、非常に危険で困難な生き方であるといえる。それにもかかわらず、孤独が人間界においてポジティヴな意味を持ちうる、その事情をここでは考察してゆく。
 孤独者は、普通に考えられるように、決して孤立して生きているのではない。孤立とはあらゆる関係性を失うことであるが、いかな孤独者でも、まったくの関係性をかいたところでは、空気のないところで生きるのと同じで、生存の希望はない。孤独者は失った関係性にかわって、つねに新たな関係性を求め、その中に希望をつなぐのである。人間社会が、彼にとって苦痛でしかない場合は、彼は必要最小限の社会性をうけいれ、かれにとってより良い関係性を、他の方面に求めるのである。それは動物や自然との関係性であるかもしれない。動物との親密な関係に生きがいを見いだしたり、ちっぽけな人類の営みから目をそむけ、広大な自然界に思いをはせることで、宇宙的な関係性を結べるであろう。あるいは、それは過去の人類との歴史における関係性であるかもしれない。同時代の人間を憎みながらも、過去や未来に知己を求めることで、人類と和解することができるであろう。あるいはこの国の人間や歴史に違和感を覚えても、世界にはもっと親近感を覚える民族や国があるであろう。それらの人々との心の中での関係性を結ぶことで、孤立からまぬがれるであろう。(あるいは、超自然的存在や、神との関係性の中に、孤独の解決を求めるということもあろう。しかし、それは孤独者にとって精神的に危険な罠であって、ここでは勧められない。)
 その国や、社会や、周囲の人間関係において、なんらかの事情から批判的、傍観的になることによって、人は必然的に孤独を余儀なくされる。それはネガティヴな生き方のようではあるが、国家や社会や人間関係に対して、客観的な眼を持つためには、孤独が必要なのである。単に異端者、狂人、奇人、弱者として排斥されるから孤独者になるのではなく、孤独においてはじめて人類社会の客観的評価が可能になるのである。人類社会との関係性を見直すことによって、孤独者は新たな関係性を築き、個としての人間の可能性を広げていくのである。孤独は全体への意志に支配された人間社会においては、困難で危険な人生の道ではあるが、それによって人類の運命を超える道が見いだされるかもしれない。いわば<超人>への道である。
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 その境遇や性格やによって、孤独の人生を運命づけられていると感じた人は、普通以上に綿密な人生計画を立てていかねばならない。自己の運命を他者に委ねるような、軽率な若者のまねをしてはならないのである。酒や集団的娯楽といったものは、おのれをみじめにするだけであって、禁物である。経済的には最小限の労働と需要で間に合わせる(そもそも孤独者はこの世で成功することはまれなのであるから)。他人の世話になるようなことは、病気にでもならないかぎり、極力避ける。世の中には散髪などという無駄なものがあるが、髪ぐらいは自分で刈れるようにしておく。孤独者はうさんくさい眼で見られやすいので、服装その他は、極力普通を心がけ、目立たないようにする。若い頃は、孤独でいることはそうとうな緊張をともなうが、その結果極端に攻撃的になり、かえって他者の反発をかうことになる。孤独者は人々の中では、群衆の中の一人として、隠れるようにふるまうのがよい。(快の自己充足を人生の目的としたエピキュロスのモットーも、<隠れて生きよ>であった。)やむをえず目立ってしまった場合は、早々に退散する。孤独者の社交は、そもそも友達を作ることが苦手なので、ぎこちないものにならざるを得ないが、他人には社交的な親切を心がけるようにする。周囲の人間との関係性よりも、おのれの心の中の関係性を大事にする以上、人間関係は表面的なものにならざるを得ない。そうした要領は、年を重ねるうちにできていくであろう。
 孤独者の仕事の選択は、以上の条件から、非常に難しいものになる。さいわい、今の時代では、フリーターという最適の仕事の仕方がある。おのれの適性で選ぶなどということは、孤独者にはほぼ不可能であるから、必要最小限の労働と需要という、条件がみたせればよしとする。将来のためには、年金だけは確保できるようにする(免除制度も利用する)。結婚については、なるべく晩婚がよい。同じようなフリーターの相手が見つかるはずである。恋愛に越したことはないが、経済的共同を最優先する。結婚しても、所詮人は孤独である。孤独者であっても、配偶者がいれば、世間的には目立たずに生きられる。孤独者(特に独身者)は世間ではうさんくさく、差別される生き方であることを、つねづね心得ているべきである。
 以上、若い頃の人生の失敗から、もし私が今の時代に、孤独者としての人生を始めたなら、このように計画的に準備したであろうことを、同じ人生を歩もうとしている人の参考にと、書きつらねてみた。もちろん、人それぞれの素質によって、孤独者の生き方もさまざまであろう。孤独者は群を作ることも、連帯もしないので、一人で悩むことが多いであろう。世に、孤独者にとっての人生のマニュアルなどというものは、ないのであるから。さいわいにも、さまざまな解決法が、インターネットにあふれているので、孤独者も昔に較べて、ずっと生きやすくなっているといえよう。