コンキスタドル(征服者)たち 本文へジャンプ




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 コロンブスの探検隊による
14921010日の「発見」の後、「新世界」には、スペインからコンキスタドル(Conquistadores)が続々と到来した。彼らの多くがイダルゴ(Hidalgo。郷士、或いは小領主階層、小貴族とも訳される)であり、彼らの遠征隊は当然ながら兵士と、少数の聖職者を伴った。
  世界史上、コンキスタドルたちには「黒い伝説」の悪役イメージが纏わりつく。先住民の世界に土足で上がりこみ、勝手に領土に組み入れ、先住民を虐殺し、あるいは隷従させ、貴金属で作った手工芸品を勝手に溶解し、建造物を破壊し、要するに文明そのものを棄却する。自らは先住民の上に勝手に君臨し、酷使し、その労働成果を収奪し、その結果当該地の先住民が激減すると他所の先住民を拉致し奴隷化する、というものだ。かかる「黒い伝説」は、イギリス、フランス、オランダなどで喧伝されたし、日本の西洋史家でも一般化されている。
 当のスペインでは、コンキスタドルに対する評価は異なるようだ。勇者として英雄化する向きもある。アステカ及びインカ両文明は人の生贄を習慣とする野蛮性があったし、それ以外は元々非文明社会だった。先住民は奴隷としてではなく、あくまでも国王の新たな臣下として保護し、キリスト教社会に導いた(法制上は、1512年に確立)。確かに当初は軍事衝突で多くの犠牲者が出た。だがそれは、718年以来のカトリック社会のイスラム社会に対する再征服(Reconquista1492年のグラナダ征服で最終的に終了)の時代背景は見て欲しい、と。

スペインのラ・マンチャ地方の西方、ポルトガル国境地帯まで、北のレオン地方と南のアンダルシア地方に挟まれた一帯をエストレマドゥーラと呼ぶ。再征服時代、イスラム軍との戦闘が激しかった地方でもある。全体として、土地は痩せている。コンキスタドルには、そこの出身者が多い。
 征服の対象は、先住民社会である。言語による意思疎通が困難で生活習慣も違う。戦闘に及べば、武器の質では圧倒できても人数では無勢であり、また地勢的、気候的知識も不十分な中では、伴う生命の危険は非常に大きい。著名なコンキスタドルの多くが戦死している。遠征費用は自ら負担した。人集めにも資金調達にも苦労した。だから、コンキスタドルが望む見返りは大きかった。即ち、富と栄誉(領主的地位、できれば爵位)である。新世界には金と銀の精錬、加工技術を持つ先住民が多く見られた。ドン・キホーテの時代のスペインだ。エル・ドラド(黄金郷)とラプラタ(銀)の新世界。そこで活躍を夢想するイダルゴで溢れており、富と栄誉を求め、文字通り命がけで新世界へと乗り出した。

新世界の征服は、イスパニオラ島から開始された。現在のドミニカ共和国とハイチから成る7.7万平方q、日本の4分の1ほどの島である。15年を経て、そこから他のカリブ島嶼部、南米及び中米カリブ沿岸部へと展開した。次の遠征拠点は、キューバとパナマに移り、前者からはメキシコへ、そしてそこから中米と北米南西部へ、パナマからは中米とペルーへ、そこからさらにチリ、エクアドル、コロンビア南部へと展開した。並行して、イスパニオラ島から南米北岸に、少し遅れて、スペインから直接ラプラタ水系流域に、遠征隊が繰り出された。
 ここではラ米地区に展開したコンキスタドル模様を記す。色々な名前を挙げるが、特に記憶しておきたい人名は、各項の人名表に掲げた。征服は、長い時間を伴った。この段階で、コンキスタドルも同行させたスペイン人兵士も多くが死亡した。どこも、先住民は激しく抵抗し、スペイン人以上に死亡した。一旦征服されたら、新たな征服地に兵士として駆り出され、やはり多くの死者を出した。加えて、コンキスタドルが持ち込んだ疫病は先住民の大半を死に追いやった。スペイン人同士の功名心や競争意識、さらにはスペイン王室の植民地統治政策の変更も、多くの悲劇を招いた。



征服と植民地制度
イスパニオラ島の征服と南米沿岸部への展開
キューバ島とアステカ王国の征服

メキシコ北西部及び中米の征服
南米北部とインカ帝国の征服
南米南部の征服