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2018年4月18日(水)
頭脳と肉体
 人間の好奇心や探究心の根源が、幼児期の性的好奇心から発していることを、喝破したのはフロイトであるが、それの超自我による抑圧によって、好奇心が知識一般に向うことによって、知性の発展が促される。現生人類が数万年にわたって、同じだけの頭脳を持ちながら、知識の発展において遅々たる歩みでしかなかったのは、原始の人類においては性的抑圧がなかったからであろう。社会が階層化され、経済的精神的抑圧が加わることによって、性的好奇心は無意識界に追放され、代わってそのエネルギーを代替的に満たすものとしての、知的探究心が芽生えたのである。幼児はその<のぞき>の衝動によって知られるように、性的好奇心が旺盛である。それが社会的に抑圧され、禁忌とされることによって、その衝動はあらゆる方面への知識への衝動として転化される。それを昇華などと称しているが、基本的衝動としては、性的好奇心と本質的違いはない。
 ガリレオ以来、望遠鏡の発明によって天体を<のぞく>ことが、人類の知的好奇心を代表しているが、世界の秘密を知りたいと言う衝動は、幼児が性的秘密を知りたいという、やみがたい欲求と、さして選ぶところはない(ちなみに、望遠鏡は男根の象徴であることは言うまでもなく、より大きな望遠鏡(勃起)への欲求はやみがたいものである)。一方は主として肉体の興奮を惹き起こし、他方は主として心情の興奮を惹き起こすという、質的違いは認められるが、どちらも同様な熱意と、生命の昂揚とを伴うのである。一方が恥ずべきこと、禁じられたこと、劣ったこと(いわゆる劣情)とされるのは、文明人の社会的偏見であり、生命自体に根本的に備わった、正常な好奇心であることに違いはない。それが常に正常に満たされれば、生命欲に発する根本の好奇心・探究心の満足となり、原始人の持つ正常な人格が形成される。その正常な人格の形成が、抑圧によって妨げられるとき、そのあふれる欲情は、知識欲や知的探究心へとふり向けられ、転化されざるをえないのである。しかしその知的好奇心は、あくまでも代用品であり、それでもって性的好奇心が究極に満たされるわけではない。だから知的好奇心は倦むところを知らず、貪欲で、果てしないのである。人類はどこまでも<知りたがり>であるのは、知的好奇心が、満たされざる性的好奇心の代用だからである。
 性的好奇心は抑圧されたまま存在しているのであり、それは決して知的好奇心や探究心によって、克服されたり、<昇華>されたりするものではない。いわば次元をことにする欲求であり、衝動である。知的好奇心が飽くことのない知識欲であるのに対して、性的好奇心は充足と復活との反復であり、その反復において果てしないものであるが、少なくともその充足には限りがある。その充足において、心身の平静がえられるのである。古代の快楽主義者や、シノペのディオゲネスが、性的快楽を肯定したのも、この点においてである。知的好奇心は、人知の能力に限界があるために、究極の満足を得られることはない。

 一体 この世界の奥の奥底で
 統べているのは何者か、それが知りたい。
 そこで働いている一切の力
 一切の種子は何か、それが見たい。
 それが判ったら よしない舌を弄んで
 えらそうに、しゃべり立てるにもあたらないものを。

 というファウスト博士の嘆きに代表されている(鴎外訳「ファウスト」)。ファウストに見られるように、人間は知と肉体との、二元的欲望を満たしていくほかはない。これらは相容れるものではなく、崇高と<劣情>という、人間の根源的二律背反、アンビバレンスをなしている。人類が肉体だけの存在に甘んじていた頃には、すなわち<楽園>に住まっていた頃には、<劣情>などと言うものは存在しなかった。人間の性的行為は、すべてが自然で、自然の好奇心によって欲望がかきたてられ、類の繁栄へと向ったのである。それが劣情を恥じるイチジクの葉を与えられ、性欲を知の木の実で代用することを覚えた時から、人間の人格の分裂が始まったのである。知が深まれば深まるほど、抑圧された<劣情>は無意識界に深く潜行して、人間の性行動を歪め、倒錯させていく。動物界で、これほど性的に倒錯した存在は、人間の他にはない。知の発展が支払った、あまりにも高い代償である。
 人類は、いまさら<自然に帰る>ことが出来ない以上、この性欲と知識欲という、二つの根本的欲求と、うまく付き合っていく他はない。両者は敵対関係にあるが、少なくとも互いに無関心であるならば、最も良い関係が築けるであろう。一方をコントロールするのは、男女間の愛情であり、他方をコントロールするのは、頭脳の理知的働きである。どちらもその究極の目的は、欲望の充足であり、一方は表象界から官能の刺激を受け、生命の根源を動かされることによって、その類の保存の意志を満たし、他方は表象界を概念として探究することにより、知的快感を刺激され、探究心として現われる自己保存の意志を満たす。性欲も頭脳も、同じ身体において存在しているのであるから、互いに撹乱し合うことが起こりうるが、相互に寛大であることが、その関係をうまく築き、調和のある生き方をするための必要条件である。とはいえ、これほど難しいことはないのであるが。

 「相変わらず 熱情の闘いだ。とっくに征服したと思った、欲情の反乱だ。
 神よ、いつになったら、私の心に平和が訪れる。
 私の理性は、なんとのろのろした闘い手なのだ。それが必要な時に、どれほど長く、理性を呼び立てねばならないのだ。わが哲学に、わが目蓋のなすことを要求する。埃が遠くからよってきたとたんに、それは閉じるではないか。」
  ――ヨハン・アントン・ライゼヴィッツ「夜の独白(断章)」より
(Noch immer Krieg der Leidenschaften, und Emp?rungen l?ngst besiegter Begierden! ? Gott, wann wird's Friede in meiner Seele!
Und meine Vernunft, was f?r ein langsamer Streiter! Wie lang mu? ich nach ihr rufen, wenn ich sie brauche! Ich verlange von meiner Philosophie, was mir mein Augenlied leistet. Es ist schon geschlossen, wenn mein St?ubchen von fern k?mmt.)

2018年4月16日(月)
四月の花の競艶
今年の春は気温の高い日がつづいたせいか(とはいえまだ朝晩寒いのだが)、四月中旬なのに、普通なら五月前後に咲く花々が、一斉に開いているそうだ。その代表が山吹である。うかうかしていると、盛期を過ぎてしまうので、平日の午後、ラジオで紹介された隣の町の、山吹の里に出かけてみた。途中すでに街路樹のハナミズキが満開であった。この花木は、花好きの家内の薀蓄によると、明治の頃、桜と交換にアメリカからわたってきたそうで、なんとなくハイカラで、しゃれた色合いである。山吹の里は結構賑わっていて、さすがに花好きは高齢者が多い。山吹は、花びらが五六枚のシンプルなものが、野生の感じがして良い。厚ぼったい七重、八重のものも、特に改良したわけではなさそうで、太田道潅の頃からあったようだ。ヤマツツジもはや咲いている。民家では藤も咲いている。川沿いの遊歩道には、ハナミズキの並木があり、花壇には菫や芝桜が盛りを迎えている。家内と別れて、山道を歩いていると、ささやかな白山吹も見つけた。山吹と称するが、属は別である。山の下のツツジ園ももう満開に近い。春は終わるわけではないが、自然はいち早く地球環境に適応するようだ。少し前までの芽吹いた山も、緑に変わっている。

 
  
 
(画像上:左から、ハナミズキ、山吹、山吹
 画像下:左から、山吹と水車小屋、ヤマツツジ、ハナミズキ、フジ、芝桜、山上より)

2018年4月5日(木)
相互主観について
 意識は自我(Ego)に固有の性質であり、自我以外には存在していない。私(Ego)の世界の外にはひたすら無意識の闇が広がっている。あるいは私という意識をとりまく、無限の暗黒の闇がある。それにもかかわらず、私はあたかも世界が私の身体を中心として、無限に近い意識につつまれているかのように表象している。私は私の意識世界をなんらかの仕方で客体化し、拡大することによって、私自身の意識の狭隘さから抜け出そうとし、絶対化しようとしているのである。そのじつ、私の前に現われてくる世界は、全くの無意識界の闇を背景にしており、意識に現われる世界はいわば実体のない幽霊のようなものである。それが表象としての世界の実相である。
 客体化された世界、すなわち私自身を一個の身体として、それを基準にした世界認識においては、あたかも全世界が意識につつまれ、あるいは意識に浸透されているかのように把握されるのであるが、そのじつは、単に客体に過ぎないものを、意識的存在である私と同等の存在として見なしているのである。客体から意識をすべて排除し、本来の客体をのみ考慮するならば、唯物論または自然科学の考察方法となり、その心理学への応用が行動主義(behaviorism)である。人間もまた意識を排除すれば、単なる物体の作用・反作用に過ぎなくなるのである。意識を持つのはただ一人の私であるから、真に客観性が成り立つためには、私の意識の排除をすれば十分である。それに代わる概念としては、意識とは切りはなされた普遍的主観(観察者)のようなものを考えればよい。ただしそれもまた相対的であることは、現代物理学が明らかにしている。
 この世界の客観的事象、物体や身体や他者の存在などを理解するためには、意識などは考慮する必要はないのである。私自身の身体でさえ、意識とは無関係に、その組成や構造を理解することが出来る。感覚・情動・意欲、意識ですら、そのような客観的理解が可能であろう。ましてや、他者の存在や物体や生命体については、無意識の闇を背景にした物質現象として理解しうるのである。これが意識的存在としての私以外の存在の実相なのである。あるいは少なくとも、それの認識のあり方の実相なのである。
 しかし、視点を唯一の意識的存在としての私自身に向けてみると、私は私自身を理解するために、いかなる客観的世界をも必要としていない。私は私であり、私以外のなにものでもない。この意識の究極の事実は、私以外のいかなる客体をも必要としないのである。私自身が主体であると同時に客体であるからである。この意識の究極の事実を、私は私以外の客体にも投影する。世界に私以外の身体を発見し、ある種の類比によって、そこにあたかも(als ob)私と同じ意識が存在するかのような意識の投影をおこなう。それを相互主観(das gegenseitige Subjekt)と名づけておく。この相互主観による表象界の理解は、上記の自然科学の方法とは根本的に異なったものである。魔術的・呪術的といってよいだろう。しかし人間や社会や、さらには自然界の日常的理解においては、圧倒的にこの相互主観による世界理解が支配しているのである。
 この相互主観によって、まず私は私自身を、無数の私の中の一つとして位置づけてしまう。あるいは具体的には、無数の身体や物体の中の一つとしての自己自身を見いだすのである。私は私の表象世界の中で、意識として<反応>する存在として私自身をとらえてしまう。意識自体が、ある種の客体として、世界の中に投げ出されるのである。このような私の相対化、私の<没落>を運命づけているのは、もちろん私自身ではなく、ストア的な言い方をすれば、他から私に与えられた制約であり、私の本質に属するのではない。その根本には私の身体、さらに言えば、この表象世界そのものを生み出す根源の力がかかわっている。その根源の力、ショーペンハウアーに従えば、世界意志(Welt-Wille)によって、相互主観が生み出され、個物・個体の根本における同一性が啓示されるのである。
 相互主観の根源が世界意志にあることから、この主観のあり方は単に主観の側にとどまらないのである。客体の側にもこの相互主観の意識は及んでいる。未開人のアニミズムや汎生命論に見られるように、意識は物体の側にも投影されるのである。私の意志が身体を動かすように、物体の側にもなんらかの意志があって、それらが物体の現象を惹き起こしているものと感知される。原子や素粒子のような目に見えない物体が、この世界の現象の本体であると思惟されうるのも、この根源的な相互主観の働きによる。
 この相互主観は、身体的・動物的エゴの基本的自我のあり方であるといえる。自我はまず他我に頼ることによってしか、存在を開始しえないのである。ひたすら他我の身体に依存し、他我の行動を模倣することによってしか、自己自身を保存できないのである。それの生命的基盤のひとつが、脳におけるミラーニューロンであるが、その衝動はもっと奥深いところにあるであろう。相互主観を生み出すのは、世界意志の類的本質である全体への意志であるからである。身体的・動物的自我は、まず他我のエゴをおのれ自身に映し出すのである。そこから他我にあわせて、おのれのエゴを形成してゆく。その過程において、自我であるとされるものは、実のところ他我と共有する相互主観に過ぎないものとなる。相互主観は、基本的に行為の共有である。猿たちが互いに身を寄せ合って生活するのも、彼らが共有する主観すなわち自我は、身体的共感や、共通の行為に過ぎないからである。認識において共有できないものも、身体的共有、行為の一致において、ある種の類的合一が可能になるのである。認識が拒むものを、行為が受け入れる。これが身体的・動物的自我の類的本質である。そこではもはや、独立した自我のようなものは存在しない。類的な相互主観の中にひたりきった、類的エゴ、あるいはさらにいえば全体への意志と化したエゴが存在するだけである。人間も基本的には、このレベルの類的自我から抜け出すことはおろか、むしろ積極的にそこへと回帰するのである。
 とはいえ、エゴイスト同士がなんらかの共同社会を作る事が可能ならば、そこにはやはり相互主観が前提とされてくる。それを国家や民族のような、全体への意志そのものへと類的に止揚することなく、個と個の間の利己的相互主観とする事が、エゴイストのいわば社会的課題である。おのれの自己保存のためとはいえ、他者のためになんらかの利他的行為をなすこと、それなしには共同社会は成立しない。そこに動物的・身体的自我を働かせる余地がある。究極的自我は決して譲ることのできないものであり、意識的存在においては原理的にもそれは不可能なのであるが(だれも私という存在に変わることはできない)、この世界に生存するためには、なんらかの相互主観を形成することにより、他我との共存を図らねばならないのである。それがこの世界での個のサヴァイヴァルの必要条件なのである。
 動物的・身体的・類的自我は、生まれながらに社会的存在たることを強いられている生命体としての自我の、基本構造をなすものであり、それの構成原理が世界意志に発する相互主観であることを述べた。私はあたかも他者の自我と交換可能であるかのように、私の自己意識を相対化するのである。そこに生の喜びや、悲哀や、悲惨や、一口に人生のあらゆる喜怒哀楽、有為転変が待ち受けている。生老病死、四苦八苦の世界である。このような世界に七転八倒する自我は、釈迦がアートマンを否定したように、無い方がよい自我である。その反省から生まれるのが、自己自身の内面へと向う、反省的自我であることは、すでに何度も述べた。英語ではEgoとSelfとを区別するようであるが、ここで言う動物的・身体的・類的エゴをSelfとしておく。セルフとは自己自身を身体的に見いだすエゴ、すなわち再帰的(reflexive)エゴである。セルフはその点で相互主観に属するエゴである。それに対して真のエゴは、自己自身を映し出す反省的(reflective)エゴであるといえる。自己自身を映し出すとは、身体としての自己から離れた自己の意識を持つことである。これは二重の意味において、自己を映し出すのであり、ひとつは自己とは異なった生への意志に支配された自己の意識、ふたつはそれを意識している自己の自己の意識、この二重の意識において、真の自我の存在が明瞭になる。この高みから自己自身とその身体とを見下ろしている自己の意識が、傍観者の境地に到達したとき、ストア哲学で言う<心の平静>が生まれるのである。この真のエゴは、すでに相互主観を超越しており、世界はあるがままの<対象>に過ぎず、その対象化された世界の<イデア>のみが、純粋なエゴ、すなわち純粋主観の、認識に発現してくる。これがプロチノスやショーペンハウアーの言う、世界の美的超越であろう。
 それ以上の超越が純粋自我にとって可能であるかどうかは、すでに形而上学の実践の領域であるから、単に論じてみたところで仕方がないであろう。最も困難な道が、そこに控えているのであるから。

2018年3月31日(土)
山の桜
 近隣は低山に接した町であるから、花の公園はたいてい山腹につくられている。染井吉野一色のところもあれば、さまざまな品種の競艶が見られるところもある。都会や町なかでは、どうも白一色が好まれるようである。どこの学校の校庭もそうである。かつて芭蕉や西行が愛でた桜は、そうまで単純画一化されたものではなかったはずである。あたかも染井吉野の白無垢のもとで、彼らがさまざまな思いに耽ったかのような錯覚を起こしやすい。明治以降の国粋主義が、そうした桜花のイメージを生み出したのであろう。それにしても富士山の単純さと、染井吉野の単純さとはどこかでつながって、この国の民の画一的美学を形成しているようである。いくら太宰治が嘆いても、やはり圧倒されてしまうのである。度しがたい全体主義美学である。

  

 

 

(下の三枚は、チューリップと花桃(民家)、レンギョウと桜、雪柳と染井吉野の競艶)

2018年3月26日(月)
自我と身体の無意識
 身体は基本的に無意識の機能である。細胞組織というある種の精巧な機械装置であり、細胞の化学工場なのである。感覚や意識も、それらのメカニズムや、化学反応に支配されており、それらの最終的生成物もしくは反応そのものといってよい。こうした物質的過程は、感覚表象や意識すなわち自我からは隠されており、ここで問題にする必要はないであろう。心という現象が物質的過程であるとしても、その過程そのものは全面的に意識外にあるので、問題とはなり得ないのである。自我にとって問題となる無意識とは、意識そのものをもつつんでいる、ある心的全体である。すなわち意識対無意識の関係における、無意識の存在の探究である。
 意識はある閉鎖的な、制約された存在であり、そのことの最も顕著な現われは、時間において現在に限られており、過去も未来も実在的には持たないことであり、また空間的にはある一点を中心とした視野しか持ちえないことである。しかしそのことからは必ずしも、心的全体が同じくそうであるとは言い得ないのである。自我が知ることは、単に意識が時空においてそのように制約されているという点だけである。この制約の認識によって、ある暗黒の認識が対立的に生まれてくる。<宇宙の鳥籠>という詩をとりあげてみる。

 見るものの情意とは
 無関係に見開かれる
 雉鳩の怯えた暗いまなこ
 星をめぐる黒い惑星の一つに
 わたしらの鳥籠がある
 それは滑稽で許されない光景ではないか
 こんな不条理に気づくためには
 天文学者であってはならない
 わたしは神の身になって
 わたしの鳥籠をのぞいてみたのだが
 見返される暗いまなこに
 囚人の夢よりもあさましく
 わたしの嘔吐は
 凍てつく空間に四散した

  ――夜男爵詩集「ネロポリス」より

 意識に対立する世界は、無意識の暗黒なのであり、そのダークマターやらダークエネルギーのさなかに、私という意識の鳥籠がおかれているのである。すでに身体の中にその暗黒はひそんでいるのであり、表面に現われた私の手や足でさえ、時にはその異様な相貌を見せることがある。意識の及ばない世界に取り巻かれているという意識、その戦慄と嘔吐の中に、自我は投げ出されているのである。独我論の絶望的な試みが常に頓挫するのも、この点においてである。自我は常に暗黒から身を守らねばならないのである。
 すでに「自我の階層」で述べたように、自我は発生段階においては、ほとんど情動・情念によって支配された自我である。この段階では未だ、無意識との対立はそれほど顕著ではない。植物的・動物的欲求と一致することによって、自我は無意識の本能と乖離することがないからである。フロイトの言う快感原則に従った自我である。この自然の本性に従った自我が、最も強力にして狭量な自我であり、いわば自我のホームグラウンドであり、自我は常にここに回帰する傾向を持つ。次の階層での自我は、理知による<現実原則>にもとづいた自我であるが、ここで初めて自然の本能・無意識界との乖離が発生する。ここでの心的メカニズムは、フロイトが言うように<超自我>による抑圧にもとづいている。超自我は、すでに論じたように言語そのものであり、言語とともに無意識界に貯蔵され、想起されることによって、自我を抑圧するのである。例えば、小児期におけるオナニーを止めるには、言語による叱責の他にはない。親に見捨てられた猿の子にはそのようなことがないので、死ぬまで止まらないそうである。
 理知的自我は表面の自我であり、それが人間社会において社会的人格として、すなわちペルソナ(仮面)として自我を代表するようになる。このことは先に人格の多重性として論じた。人間社会においては、人間とは客観化された自我にほかならず、それらは一種の物体として、あるいはせいぜい概念的操作の可能な個体として、集団の中に取り入れられる存在である。理知によって操作可能な存在としての人間が、いわゆる社会的人格なのである。アリストテレスの言うポリス的人間としての市民がこれである。それに対して奴隷や女は、単なる社会的道具であり、いわば社会の無意識層を構成しているのである。プラトンやアリストテレスにおいては、自然的必然と見なされている。これは理知の過大評価による社会的倒錯であることは明らかだ。現実には、こうした理知的人格による集団であるとされる国家(ポリス)は、絶えず本能による争いである戦争をくり返したのである。
 理知的人格が社会的要請であるのに対して、本来の人格すなわち根源人格である、情動や情念、および無意識界に根ざした人格は、絶えず社会に対して撹乱的要素となる。自我の根源の力がここにあるからである。いわば大地に触れることによって力を発揮したデメーテルの息子のように、絶えず無意識からのエネルギーを汲みとることによって、自我はこの世界での地歩をかためるのである。無意識の存在を強く感じさせるのは、記憶や想起よりも、思いがけない情動や情念の発生である。あたかも火山のマグマが地下からわきおこるように、心の深奥からふつふつとそれらがたぎってくる。一体どこにそのような情念や情動が隠されていたのであろう。しかもそれは私自身の情念であり、情動であることに間違いはない。私はそれをいわば私の第二の人格として意識するのである。しかもそれは、はるかに表面の私自身よりも力強い。あるいは、はるかに暴力的であり、破壊的である。この恐るべき無意識の深淵の存在を、古代人は自然の無機的力と同じように感じたのであろう。人間を超えた力を持つ神々として表象化した。ゼウスなどは天空の神であると同時に、性欲の権化でもある。あるいは、<運命>や宿命として、人間(神々でさえも)の力の及ばないものとした。
 意識は、すなわち自我としての意識は、この全自然界を貫く無意識の大海に浮かぶ泡沫のようなものであるかもしれない。意識はそのデフォールト状態においては、ある種の気分(Stimmung)または心的態度(Einstellung)にひたっている。そこにどこからともなく、表象が浮かんだり、変化したり、情意が動いたりする。それらは本来意識外から、すなわち意識の立場からは<無>から生じているのであるが、因果の連関の中にとらえることによって、あたかも当たり前のことのように思われるのである。これが基本的に(人間も含めた)動物的自我のあり方であるといえる。自我は無意識の働きを無反省に受け入れている。このような自我は、意識と無意識の境にある自我である。
 用語の混乱を避けるため、無意識(Das Unbebusste,the unconscious)とは原理的に認識不可能な心的、身体的、物質的力動の世界とし、無意識ではあるが身体の範囲に属し、かつ意識化可能なものを<前意識(UnterbewusstseinまたはVorbewusstsein,subconsciousまたはpreconscious)>としておく。日常的には、記憶や想起などの、意識化の機能を伴う精神活動や、情念などの無意識からわきあがる心の働きなどが、前意識と深く結びついている。思惟もまたその働きの半ばは無意識に行われる。これは計算能力や言語などに特に顕著である。むしろ意識が、それらの機能の速やかな働きを邪魔することさえある。楽器の演奏などはその典型である。この日常的範囲での前意識は、意識による統合の支配を受けているといえよう。意識はうまく前意識を使いこなすのである。前意識に欠陥があれば、すぐさま意識そのものに影響を及ぼす。記憶の病や、認知症や、精神病において、そのことは明瞭に現われる。この点では、身体的意識・動物的意識は、身体の全機能と一体となった働きであるといえる。すなわちこの段階での自我は、身体的前意識によって支えられている。精神分析で言う前意識(Vorbewusstsein)も、基本的にはここで言う前意識の範囲に属する。ただその機能が通常の記憶や想起のようにポジティヴではなく、ネガティヴに(すなわち抑圧的に)働くだけのことである。
 前意識から純然たる無意識界に考察を進めると、ここに私という意識に属さないなんらかの存在や働きが発現してくる。多元的意識すなわち多元的人格においては、人格そのものはすべて<私>と言う統覚によって、同一の私であることが確認される。それらを繋ぐのは基本的に記憶である。もし人格間に記憶の結合がなければ、例えば泥酔して意識のない私であるとされるものが、他者の語るところでは私として存在し、言語を発していたとしても、それを私と同一と見なす根拠である記憶が全く存在しなければ、私自身であるとは確定できないのである。この段階ですでに人格は無意識に沈んでいる。しかし他者の語る私の行動から、おおよそ私であることが認定できるであろう。ここまでは、私の自我の範囲としてよいだろう。
 さらに無意識界の奥へ進むと、そこから発現するものは、もはや私自身とは別の存在もしくは人格として、ある種の意識の分裂をひきおこす。そこへ進む前に、そもそも、意識において発現する表象界において、私以外の存在はすべて無意識界に属するといってよいのであるが、そのことをまず確認しておく。
 いわゆる物質・物体は表象界に属していないことは、バークレーが指摘して以来ほぼ常識であるが、それでは物質・物体はどこにあるのか。それが存在しないなどと言ってしまっては、バークレー流の観念論におちいるほかはない。普通にはそれは概念であるとされ、あるいは少なくとも概念的にのみ理解されうる世界であるとされる。物質の究極の姿である振動する超ヒモについては、誰もそれを見たわけではない。物質がそのようなものとして、概念的・数理的に理解されうるだけである。(*補説) 無意識界についても、基本的に同じことが言いうるのである。無意識界は、やはり概念として把握され、理解されるほかはないのである。しかしそれは単なる、存在しないものの概念ではない。超ヒモ理論が、万物の存在を説明し、かつその力動的構造を明らかにするように、無意識界の理論は、身体および身体に結びついた意識の力動的構造を明らかにするのである。
 私以外の存在はすべて無意識界に属する。この命題は、存在とは知覚されることである、というバークレーの命題と同様に、疑いえない。物質であれ、他者の存在であれ、それらの本質自体は、私の意識の外にあるのである。私はそれらの存在からの<サイン>を受けとるに過ぎない。夜の沈黙の中にひたっていると、私は物質からのさまざまなサインを<気配>として受けとる。低い音をたてているのはどうやら台所の冷蔵庫であり、そこで鳴っているのは陶器であり、その音からさらに他者の存在の気配が伝わってくる。部屋にとじこもっている私が気配として受けとるものが、部屋の外にある存在から来るものとして理解されるように、万物はすべて私の意識の<外から>来るものとして理解されるのである。
 私という意識は、万物を貫く、時空にわたって無限に近い広がりを持った無意識の海の中の、一個の孤島ににすぎないのかもしれない。少なくとも身体と結びついた意識はそのようなものであろう。意識は、すなわち自我は、たえず無意識からの浸透にさらされていると言ってよい。地球大気が常に宇宙線を浴びているように、意識は常に無意識からの影響にさらされているのである。地球人が、宇宙人の侵入を恐れるように、自我もまた、なんらかの無意識からの侵入を恐れている。それに備えて、意識は通常無意識界に対して、強力なバリアーを張っている。その一例が、知覚の経路であり、通常はいわゆる五感以外は閉ざされている。それ以外の経路から来るものは厳重に封鎖され、もしくは検閲され、抑圧される。いま一つは、カントの言う統覚の先験的統一であり、それによっていわば自我の城が築かれる。これは単に認識だけの問題ではなく、これが崩れれば<統合失調>いわゆる精神分裂を起こすことからも分かるように、人格全体が崩れてしまうのである。
 五感以外の経路から来る知覚は、いわゆるテレパシーや透視などの超常感覚であり、統覚の先験的統一をあやうくするものとしては、多重人格や意識の分裂、さらに神現象などがある。これらの<神秘体験>なるものは、自我にとっての危機をもたらし、人格の崩壊を起こしかねない。外なる世界に対しては、自我は少なくとも内的自由をもって、いかなる暴力や権力にも対抗しうるであろう。少なくとも心の自由までは譲る必要がないのである。しかし内なる無意識からくる勢力に対しては、自我の先天的バリアー以外には、ほとんど防禦のしようがない。それに対する最も有効な防禦手段は、本能的防禦である<不信>以外にないのである。こうした危機にさらされた時、最も手助けになるのは、科学的・合理的思考である。あらゆる神秘を排除することによって、合理的世界像を作りだすこと、これが科学の使命であり、同時に無意識界に対抗する最も強力な力となるのである。
 人類はおそらく、合理化への道を進むことによって、無意識界からの働きかけを排除する選択を行ったのであろう。魔術や宗教から科学への歩み、神聖国家から世俗国家への歩み、無意識から意識への歩みにおいて、文明を作りあげ、物質の支配の頂点に達した。その自然選択において、無意識界自体が抑圧され、強力なバリアー(すなわち防禦のための心的メカニズム)を備えた強力な自我が誕生したのである。いわば人類はシャーマンではなく、科学者になることを選んだのである。エクスタシーではなく、理性的認識を選んだのである。このことがまた、自我の不安定要素の一つとなることは、人類史の狂気の中に見てとれる。
 無意識界の探究が、精神的危機を伴うものであることは、以上のことから納得がいくであろう。ユングも発狂寸前まで行ったそうである。無意識界と和解しようとしたニーチェは、人格的に崩壊してしまった。たいていの人間は、<不信>の砦に閉じこもることによって、その危機から免れている。ここでは、これ以上の具体的記述はひかえることとする。いずれこの課題には、正面からとり組まねばならないであろうが。

(*補説)ショーペンハウアーの主著の冒頭に、「世界は私の目の中にある」といったような事が書かれているが、これは文字どおりにとってはならない。ここでいう世界は物質界の事であり、物も、そこから発する光も、光を受容する目も、すべて物体なのであり、すなわち、それらはすべて表象から抽象され、一般化された概念なのである。その概念同士の関係において、物体はそこから発する光が目に作用することにより、目の中で(あるいは脳の中で)表象界を生み出すという、因果的推論が可能となるのである。概念が概念の中にあるという、ヒュームの奇妙なパラドックスにおちいる必要はないのである。

2018年3月22日(木)
自我と身体
 言語は自我の客体化であり、ある種の身体に近いものであると述べた。ここで自我と身体の関係について、改めて詳しく考察したい。身体は感覚と切りはなせない。あるいはその表象は感覚そのものの表象化であるといって良いかもしれない。最も重要な身体の表象は視覚によって与えられる。人間の場合、身体は視覚において四肢および胴体を具えた存在として現われる。この空間における形体が、目を中心として、私の前に外化されているということが、身体の最も顕著な特徴である。いま私の手や腕が私のものと言いうるのは、それが物として、物体として、私の眼の外にあると同時に、それらの部分が他の感覚(特に触覚や運動感覚)との関連において、私に所属していると認められるからである。この視覚からの身体の立場が、基本的に自我の外化、自己疎外の最も顕著な意識をなしている。
 私は身体を所有しているが、それはなぜか私を私の外に押し出してしまう。私は私の身体そのものではないのだが、それが私に代わって、私としてふるまい、私として他者から扱われ、認識され、場合によっては攻撃を受ける。私はこのような身体を持ちたくないのであるが、私自身の意識に目覚めた時から、気に染まない身体によって私の意識は制約されている。逆に言えば、身体とは制約された私の意識、制約された自我なのであり、しかもそれが客体化された私として一人歩きするのである。自我はこの世界では、身体化の運命を与えられているのである。
 もし身体が内在的存在であったならば、私はこのような不自由を感じないであろう。身体が他の物体に対して外化されていることが、根本的な身体の問題なのである。視覚以外においてもそれは言いうる。聴覚は他在を告げるだけではなく、言語で述べたように、発声によって自己を外化する。触覚すなわち皮膚感覚は、対象との区別が視覚ほど明確ではないが、身体の境界を痛覚や圧覚で意識させる。そこに私の身体があることを告げ知らせるのである。味覚や嗅覚はさらに内在的ではあるが、やはり対象に対しての反応として、外物を意識させ、私自身がそれらにさらされていることを告げられる。
 最も内在的な身体は、臓器において感じられる、情動や情念である。しかし、情動・情念は自我意識において特別の位置を占めている。古来それらは肉体よりも魂・心に加えられている。身体の内奥にある、最も強力な感性であるといってよい。外的身体が、外部からなんらかの刺激や攻撃を受けるとき、真っ先に働く自我が、この情動・情念である。つまり、身体は身体をもって反応するのである。その意味で、情動・情念もやはり外化された自我であるといえる。それらは身体との関係において発現するのであるから。感覚表象から情動・情念に至るまで、それらは私の手、私の見る物体、私の聞く音、私の発する声、私の苦痛、私の味覚、私の嗅ぐ匂い、私の願い、私の欲望といったように、すべて私という意識に貫かれており、一くくりで私の身体と言ってよいだろう。私はそのようにして、私というものを世界の中に身体として投げ出し、客体化することなしには存在しえないのだ。この私の自己疎外、自我の自己疎外こそが身体の本質なのである。
 そのように私を身体として、世界に投げ出してしまうことから、私という自我のあらゆる苦悩が生まれる。身体のなかでも最も強力な部分、情動・情念が、必ずしも私の身体では満足しないのである。私はこのような虚弱な手足は要らない。醜い容姿は投げ捨てたい。外界から攻撃される身体自身が、私の敵となりうるのである。身体は私の弱さの徴表となってしまうのである。いかに私が強烈な意欲や意志を持とうと、身体として客体化された私が、それを阻む原因となる。身体にとらわれた自我は、たえざる苦悩の中でもがくほかはない。
 最も内在的な身体は、情動・情念であるとしたが、それでは、思考はどうであるか。情動・情念は自我のエネルギーであって、それがなければ、自我はこの世界に発現しない。そのエネルギーの余力が理知に向うとき、思考が生まれる。思考は自我の高い段階であるが、エネルギーにおいては、情動・情念とは比較にならない。情動・情念が安らいでいるとき、初めてまともに働き出す。すなわち、デカルト、スピノザが言うようには、理知によって情動・情念を抑えることは不可能なのである。この理知の無力が、一つには、考える実体としての魂なるものの観念をうみ、身体とは別のものとしたのである。思考について言えることは、それは情動・情念よりもさらに内在的であり、後者のように臓器に投影されることがなく、脳そのものの中の働きとして意識されるゆえに、なおさら特別視されるのである。だれも胸が痛むと言っても、胸が考えるとは言わない。ただし未開人においては、思考と情念が未分化であり、思考の座を腸に置いたりする。
 思考とは、基本的に主体と客体との関係においてなされる認識の操作であり、すでにこの主客というdichotomy において、自己外化としての身体の特徴が現われている。ここでの主体は、その関係をとらえるものとしての見えざる働きである。いわゆる純粋主観がそれにあたる。この純粋主観そのものは、いわば認識の機能であり、自我とは別物と考えてよい。自我はあくまでも具体的な実在であり、常に意識の同一性を伴うのである。思考はその点では、身体の消化や分泌に近い活動であるといえる。胃が食べ物の分子を分解するように、思考は表象を分析・綜合するのである。
 情動・情念は、動物において特に顕著であるが、顔や身体の様相や声において、さらに客体化を遂げる。むしろそれらを本来の客体化といってよい。動物同士、人間同士の間では、通常そのようにして情動・情念が伝わるのであるから。すでに身体という物体を持つこと自体が、自我の客体化なのであるが、内面の自我もまた、身体外部に向けて自己を客体化するのである。情動や情念のみならず、思考が音声や文字といった言語によって、自己外化することはすでに述べた。言語は物体化された自我・内的身体なのである。
 このように見てくると、自我とは身体そのものではないかと思われてくるであろう。それ以外の私などというものがあるのであろうか。すでに古代人が考えた魂も、デカルトの実体としての考える魂も、身体にほかならないとした。科学や唯物論が主張するように、それ以外に自我などはないのだと言うべきなのだろうか。その究極の自我については、すでに述べたことがあるが、ここではくり返さない。もっぱら身体のミステリーを探究したいと思う。

2018年3月19日(月)
三月の桜
 今年は梅の開花が遅れた割りに、急に暖かくなって桜の開花が早まるという。三月最初に見た桜は、たまたま閑散とした桜の山に見つけた一本だけ満開の河津桜であった。翌週、隣の市の川堤沿いに、一斉に寒桜が咲いているので出かけた。途中すでに満開になっている民家の白木蓮を見かけた。寒桜は薄い桃色で、八分どおり開いている。桃ほどの派手さはなく、染井吉野ほど密生して咲かないが、堤にそってどこまでも延びている眺めが良い。四月を待たずに、来週ごろは、あの枯れ山の桜も一斉に咲くことだろう。
  


2018年3月15日(木)
自我と言語
 自我を言語との関係においてとらえるとき、一つの誤解があるようだ。それは言語が思惟の基礎となっていることから、自我の発生もまた言語に求めることである。そこから、すなわち言語の社会性から、自我がなんらかの社会関係の中で発生したものとする誤解も生まれる。その点を解明してみたい。
 自我が言語以前の存在であることは、幼年期における意識の発生から言えることである。私が最初に私自身の存在に気づいたのは、赤子の頃這っていた私が、ある時障子のようなものにつかまって、はじめて立ちあがったときの、めざましい印象と結びついている。それは瞬間の記憶であって、すぐにまた無我におちいったが、その鮮烈な記憶は、その後の人生を通して、今になるまで残っている。また、やはり這っていたころ、濡れ縁から転げ落ちた時の、浮揚している不思議な感覚が、瞬間の記憶ではあるが、やはり鮮烈に思い出される。自我は、感覚の特異な変化において、強烈に発生するようである。その他にも、恐怖や、不安の体験などにおいて、幼年期の自我が、断片的な意識となって残っている。こうした幼年期の自我意識は、たとえ後年において記憶の改変が生じるとしても、擬似記憶などとはまったく別のものであることは、すでに幼少年期においてそれを回想していることからも確かである。
 もう一つ、言語と自我とが別物であることは、私自身が言語恐怖症であったことからも言える。私は幼稚園から小学初年までは、教師や周囲の生徒に対して緘黙をとおしたが、大人たちがそれを治そうとした。小学校では年老いた女教師が、特別に私を前に呼んで、文章を音読させた。私は萎縮しながら、ほとんど聞き取れない声で音読したものと思う。なかに先生という言葉がでてくるとき、とりわけ声に出しがたかった。なぜならば、それが目の前にいる女教師に呼びかけることと、同じに感じられたからだ。声に出すことによって、私は私自身を、女教師の前にさらけださねばならなかったからだ。たぶんそれはある種の防衛本能、個体保存の本能であったのだろう。私自身は、自ら発した言語によって攻撃されると感じたのである。
 音読だけではなく、それ以上に苦痛であったのは、文章、特に感想文を書くことであった。遠足の感想などを書かされると、まるで書くことができなかった。それでも書かなければ叱られたので、出来れば自分が書いたのではないと思わせる文章を書きたいと思った。特に、「ぼくは」と書くことは苦痛だった。そう書き出すことによって、自分自身の内面が、あられもなく外にほうり出され、その羞恥感にたえられない苦痛を覚えるのである。一言でいうと、言語は音声であれ文字であれ、私という自我にとっては敵であった。
 このことから、言語の本質について、いろいろなことが考えられる。言語は純粋な客観物ではない。単なる<もの>とはちがうのである。私がそれを音声として発し、または文字として表記するとき、私は私自身を客観物として私の外に投げ出している。それは客観化された私自身なのである。それゆえに、外界からの攻撃の対象となりうる。私の発した言語を媒介として、私自身に、身体的であれ、内面的であれ、害を受けるのである。
 これは言語の効用の、一方的見方であるという批判もなされよう。たいていの幼児は、言語を必ずしも敵視していないからである。むしろそれを積極的に利用して、自己にとって有利な立場を作るであろうと。その場合でも、言語が自己の内面を表わす、客観的媒体であることに違いはない。それが好意的に受け取られようと、敵意をもって受けとられようと、言語は自我の客体化であるという、言語の本質には違いがない。

 言語は、生命界では、群の間でしか発生しない。類人猿に発した、すぐれて集団的な生き物である人間は、自我以前の無意識の段階から、ルソーによれば、情念によるコミュニケーションをおこなっていた。脳の発達と自我の目覚めによって、自己の情念や考えを、分節的な音声によって外化することを発明した段階で、それは内面の表現手段となると同時に、集団の共有物ともなった。類人猿に見られる身体だけの関係から、外化された言語での関係への移行が、人間集団を特徴づける優越、言いかえれば、文明の原動力となったのである。
 こうした言語の文明における重要性から示唆され、また自我が、自己を言語において外化するという<自己疎外Selbst-Entaeusserung>において、客観的に見えるものとなったことによって、言語に自我の発生の起源を求めようとする考えもなされる。しかし、言語が集団間の現象であるからといって、自我もまた集団の現象に還元できるわけではない。たしかに集団の中で自己を表わすということは、人間社会においては言語以外にありえない。言語において客体化された存在としてのみ、人間は社会の成員となりうるのである。人間は<名>(もしくはなんらかの記号)を持つことによって、社会的存在となるのである。名は、それ自体が社会的に客体化された自我である。そこに自己自身の社会におけるあらゆる関係が凝縮されてしまうのである。私という自我そのものには、いかなる名もないのであるが、私が社会的存在として私を外化するとき、名はいわば私の客体化された幽霊として、誰の目にも見えるものとなる。しかし、私にとっては、私から離れて勝手に出あるく、幽霊以外のなにものでもない。名は、身体ですらないのであるが、時として私の身体のように扱われたりもする。そもそも、身体自体が、私のある種の客体化であるからである。
 いま身体についてはさておき、言語がこうして外界へと客体化された自我の姿であることが明らかであるならば、自我自体は依然として、言語のおよばない、主体自体に属していることは疑いないであろう。そもそも言語を自己の客体化として外界に投影するためには、自我自体が主体としての、対象に対する志向性の本体であることが、大前提となっている。この自我の志向性がなければ、言語はおろか、社会性も生まれないのである。こうして生まれた言語は、個々の主体によって積みかさねられ、集団の文化的遺伝子(ミーム)となることによって、いわば個々の自我を越えた<超自我>となる。言語こそが真の意味の<超自我>なのであり、幼少期の私が言語を恐れたのは、それが自己表出であると同時に、抑圧的存在であったからだ。
 人間は社会というエレメント(生息領域)以外には、生存の場所を持たない。単なる自然界は、魚が水に、鳥が空に暮らすという意味では、もはや人間の住むところではないのである。自然界は、社会を通じて、間接的に人間の棲み処であるに過ぎない。狩猟採集民であった頃の人間に与えられていた、自然の土地は、今日地球上のどこにも残されていない。だれもが、高度に文明化された社会システムに組みこまれて、そこでしか生きる場を見いだせないのである。こうした人類を作りあげた、大本の起源が言語であったと言えるかもしれない。自我の表出を言語的におこなうことによって、そこに客体化された集団の意志が現われ、それが集団の上に<超自我>として働くことにより、集団の結束を強めたのである。
 言語はまた、さまざまな自我の結晶として、それ自体が客観的な<もの>に近い存在として伝承され、教えこまれ、学ばれる。もし魂の観念の起源が、アニミズムのような漠としたものでないならば、言語こそが魂の客観的な存在を保証するものであったろう。言語自体が、自我の客体化であることによって、まぎれもない魂であるからである。人間同士の交渉は、類人猿の段階(もしくは子供のある段階)での身体的接触を越えて、もっぱら言語によるものとなったのも、この間接性が、すぐれて観念的存在である人間にとって、非常に有利であり、効率的であったからである。このようにして、自我とは言語的存在であるかのような錯覚が生まれたのである。
 たしかに言語によって他者と交流できるということは、言語の最大のメリットである。たとえどんな人間嫌いであっても、書物によって古人の声を聞くことまでも拒まないばかりか、むしろ積極的にそうするであろう。言語によって人間の交渉が、古今東西に開かれることは、人間の生存の可能性を、時空にわたって押し広げることである。これは単なる自我によってはなしえないことであり、さまざまな自我の結晶である言語が存在しての上で、可能になることであり、そこに文明として現われる<超自我>の積極的意義が認められる。しかし、それはあくまでも、自我の<自己疎外>の成果であることを忘れてはならないであろう。それは同時に、フロイトの言う文明のUnbehagen(不快)をもたらすのである。

2018年3月6日(火)
三月の梅
 今年は梅の開花が去年より遅れている。毎年気温や天候によって、開花の時期はずれるようだ。隣の町は梅園を始め、いたるところに梅林があるので、ウォーキングをかねた観梅にゆく。賑わいよりも、畑の中にひっそり咲いているいく本かの梅も良い。このようなじみな花も、一斉に枝についた時には一種の艶やかさを見せる。ほのかなピンクの花弁のものや、紅梅や黄色いろう梅の咲き残りも見かける。梅は古典文学では匂いを愛でるが、冬の終わりに遠くから匂ってくるのはろう梅である。梅は桜とちがって、数百年たった古木も花をつけているのがりっぱである。枝ぶりはどうやら人工的に作られているようで、自然に伸びれば、高木になって空高く白の天蓋を広げている。人間から遠いところで栄華をほこるのである。人はどうも自然をおのれに近づけたがるのだ。

  

  

2018年2月28日(水)
自我の階層
 自我は複合的であることは、すでに論じた。その階層的構造を、さらに詳しく見ていく。人間の心(Seele)の構造を、古代の哲学者は欲求(Begeheren)と情念(Affekt)と理性(Vernunft=Logos)とに分けた。欲求は広く見て、食欲・性欲といった、自己保存や種の保存の本能であって、このレベルでの自我は、ほぼ無意識であるといってよい。口腔や胃腸や生殖器は、意識しなくても機能するのである。欲求の充足、不充足には、快苦の感覚もしくは感情が生じる。その時点ではじめて、それらの欲求や感覚や情念がおのれの身体に属するものとしての、自己意識が発動するのである。情念は欲求に対する積極的または消極的反応といってよかろう。この段階では自我は漠然と意識されるだけであり、すなわち萌芽的な自己意識にとどまる。これを第一段階の自我といってよかろう。
 この段階もしくは階層では、自我はもっぱら身体の状況によって支配されている。この欲求・感覚・情念の段階での身体的自我は、古代では物質に対する、魂(Seele)のうちに加えられている。その実は物質である身体に属する現象であって、とくに物質と対立するものではない。あるいは物質の高度な現象である生命の機能なのであり、無機物に対する有機物という意味では、この対立は意味があるであろう。したがって、この段階での自我は、身体的・生命的自我として、種の保存・自己保存のメカニズムに、徹頭徹尾つつみこまれているのである。このような自我は、度しがたく、生命の欲求と一致して、その喜怒哀楽、苦痛と快楽に翻弄される外はないのである。この段階の自我は、場合によってはエクスタシー(没我)の中におのれを失い、生命的無意識の中に没入していく。いわば無用の自我と化すのである。
 身体的・生命的自我は人格の発展的多重性において、最も下層にある自我の発現であり、高度の自我からは、場合によっては果たしておのれと同一であるかどうか、という違和感さえ覚えさせる。しかし間違いなくそこには自我の同一性(統覚)が貫徹されていることは、記憶や知覚の共有において明らかであり、それが私自身であることを否定することができない。ただそれが、私の思いもよらない行為や言葉や、意図や判断におよび、相反する情念の葛藤を生みだすのである。この自己意識における二重の自我の対立は、私自身の意識のある部分を他者の視点で見ていることでもあり、自己客観化の原点であるともいえる。それは自我の第二の段階への飛躍をもたらすのである。
 身体的・生命的自我は、その世界内での苦悩において、自己客観化へと向かうことにより、新たな自我を生みだしていく。道具的理性の発見と応用が、自我の探究に新たな道を開いた。古代の哲学者は、宇宙にロゴスを見いだすと同時に、おのれの中のロゴスを発見して、そこに生命からの救済の可能性を求めたのである。ロゴスによって、生命的・身体的自我をコントロールすること、これが古代哲学の中心テーマとなった。これが第二の段階、もしくは階層での、ロゴス的=理性的自我である。この理性的自我は、道具的理性であることによって、情念をコントロールし、人生を正しく、幸福に向かって導くものとされた。いわば自己に対する叱責者、指導者としての、第二の上級審の自我を、おのれ自身の上に持つことになったのである。
 この理性的自我とは、どのような意識なのであるか。おのれが思いがけない行動をしているとき、あるいは何らかの悲惨な事態にあるとき、瞬時ではあるが、この理性的自我と生命的・情念的自我とが分離することがある。いわば不意を撃たれた理性的自我が、呆気にとられておのれ自身を眺めているのである。その時、その反省的意識の行為が、ほぼ無力でありながら、おのれ自身につぶやいている姿が、理性的自我の本体であるといえる。しかし、これは超自我のような、まったく他者のイメージではない。苦悩している生命的自我と、この客観的な眼を持つロゴス的自我とは、同一の自我であるという<統覚の先験的統一>で結びつけられているのであり、ある種の共通意識で結びついているのである。この点、自我意識の分離した多重人格の体験とは別である。
 理性的自我は、ある種の冷厳さ、sobernessでもって、生命的自我に対峙する。生命に酩酊することも、盲目的衝動にはしることもなく、計算高く、賢く、すなわち古人の言うWeisheitそのものであり、生命に対しては、ある時はきびしく、ある時はシニカルに、生命的自我を見下ろしている。生命的自我は強烈な劣等感をいだくのであるが、時に反抗し、時に冒涜し、しかしいざとなると、自己自身の内部には、理性以外に頼るものは見いだせないのであるから、懺悔してそのもとにもどろうとする。しかしまた、理性的生活のあまりの窮屈さに、長くは耐えられないのである。理性もまた、単なる道具的理知によっては、生命を克服するどころか、充分にコントロールすることすら、ままならないのを知っている。それでも、自らを生命のために利用されることを許しているのである。そもそも、道具的理性は、生命に備わった一種の機能なのであるから。
 理性そのものが、この物質界・自然界(mundus sensibilis)以外に存在する、いわゆる超越界をなしているのかどうか。この点、古代の哲学者は、唯物論者以外は、理性界の超越的存在を前提としている。人間理性が超越界である理性界(イデア界・叡知界 mundus intelligibilis)に連なるものならば、この第二の階層の自我であるロゴス的自我は、永遠の生命を保証されていることになる。生命は滅びるが、理性は滅びない。理性は宇宙そのものであり、生命を生み出した原理もまた、理性原理にもとづいているからである。しかし、何故に生命の理性原理に、理性そのものが対峙するのであるか。古代人は、その理由を、単に生命が極端にはしることとしている。理性は中庸を命じるのである。それならば、デミウルゴスは、はじめから生命を中庸で甘んじるように設計すればよかったはずである。生命=身体が物質であるから、はじめから劣った存在として生じた、と考えるほかはなかったのである。しかし物質界が精緻なロゴスによって組み立てられていることは、自然科学が明らかにしている。そこでは理性と理性がぶつかる必要はないのである。
 生命と理性とは別の原理であると考えて良いであろう。物質界=生命界の本質は、無限のエネルギーであり、ダイナミズムであり、存在へのあくことのない渇望である。理性は永遠の存在(eternal entity)として、そのような渇望も、エネルギーも持っていない。いわば自然界のソフトにすぎないのである。第二段階の自我である理性的自我は、そのようにして、生命的自我に取り入れられた自我のソフトに過ぎない。二つの異なった原理が、一方は無限の渇望と自己保存によって翻弄されている自我を生みだし、他方は、一種の制御装置としての冷ややかな自我を生み出したのである。理性的に生きることは、人生を導く安全な手段とはなりうる。しかし、ソクラテスやプラトンや古代の哲学者が考えたようには、永遠の生命や存在を保証するものではないであろう。
 身体的・生命的自我も、ロゴス的・理性的自我も、なんら自我の超越性を保証するものではない。しかし自我が反省的になることは、さらに上の層の自我へと探究をむけるよすがとなる。理性的自我は生命に対して反省的に働くことによって、生命界と関係し、具体的には個の生命をより良い生活、人生へと導こうとする。しかし基本的には、生命自らが、その教えを理性に請うことがなければ、理性は無きにひとしい。ここに理性の、ある種の傍観者的な態度が生まれる。生命の猛威から、完全に分離された自我の意識がそこに生まれる。それは静謐な、自己自身をのみ観照する自我の姿である。これを自我の第三の段階もしくは階層である、観照的自我もしくは純粋自我と呼んでよいであろう。
 この観照的自我において、イデアの純粋観照も可能になる。そこではイデアの美と自我意識とは合一して、一者となる。そこに静謐な喜びが生まれるが、それはもはや生命の渇望とは無縁である。諦念と心の平静へと、自我は沈潜してゆく。そこには自我以外の意識はなくなる。私自身であることの静謐な意識が、私と世界のすべてとなる。もしアートマン(自我)とブラフマン(世界霊)が同一であるという、古代インドの教えが真実であるならば、このような意識において、そのようなことが言えるかもしれない。
 この観照的な自我の段階は、ごく短い間しか起こりえない。たちまち生命の反動が、心身にわきおこって、もとの俗物へと自我を落としてしまう。しかし人生に一度でも、そうした体験を持つならば、自我に究極の価値を認めることに、やぶさかではないであろう。

2018年2月17日(土)
sentienceまたは感性直観について
 sentienceとは、感覚器官をとおして意識に働きかける自然界の作用であるとした。より具体的に言えば、感覚器における物質粒子と体外の物質粒子とが反応し、その情報が脳内に伝わることを契機として、脳内中枢の物質粒子が他の情報とを綜合して、脳内に生みだす反応もしくは相互作用である。外界の刺激が直接生み出した反応というよりも、その刺激を契機とした外界の模像(simulation)といってよいであろう。この模像が作られる過程そのものは、脳内の物質粒子の反応であり、外界とは直接的関係はない。しかし物質粒子そのものの現象であるから、本質において、外界の物質とは同一であり、どちらがより現実であるか、実在であるかという問題は、もともと不毛である。センシェンスまたは感性直観(Anschauung)は、物理的実在と同等の権利をもって実在する。
 sentienceが外界の物質粒子どうしの反応と異なるのは、この感覚的意識において、意識自体が主体と客体との二方向に分かれることである。このdichotomy(二項対立)がたぶんセンシェンスに独特の質的様相をもたらすのであろう。それには、このdichotomyはいわゆる相互作用ではなく、主体から客体への一方的方向性、すなわち志向性(intentionality)を持っていることが、関係してこよう。このdichotomyにおける一方向性が、意識における認識作用の基本構造であり、そこには空間が介入してくることにより、どうしても対象の質的性質、すなわちクオリア(qualia)が必要となるのである。対象化とは単なる相互作用(ジェイムズの言う主客合一)ではなく、対象を質化してとらえるプロセスなのである。これによって質的な空間的次元が開け、対象間の質的違いが、直観において与えられることになる。クオリアのないところに、意識も認識もないと言ってよいであろう。クオリアがどのような化学反応であるにせよ、かりにそれが明らかになったとしても、それを生み出す根源的志向性については、また別の考察が必要であろう。
 センシェンスは脳内の物質粒子の反応そのものであるから、物質界に属するといってよい。しかし、それは特殊な物質界であり、自然科学が探究する自然の真の姿ではない。視覚や味覚は物質現象であるが、それらを引き起こす物質粒子の反応は、それ自体赤いわけでも甘いわけでもない。そこにはさらに、赤い、甘いと感じる主体との反応が加わるのである。それが意識と称せられる物質粒子の間の質的反応であることは上に述べた。センシェンスはこの質的反応をおいては存在しない。この質的反応、クオリアの本質をなすものがなんであるか、これについては明確な解明がなされていない。脳内には二十ワットほどの発電能力があるという。おそらくは、クオリアの正体は電灯に近いものなのであろう。意識が灯ると形容するのもそのことを証している。脳はなんらかの仕方で、フォトンを発生するのであろう。フォトン(光量子)そのものは、粒子であると同時に波動であるが、脳内で発生することによって、エネルギーのこもった状態が生まれ、フォトンのやりとりによって、主体・客体の閉鎖系の質的世界が生まれるのかもしれない。あるいは、他の未知の素粒子が関係しているのかもしれないが、いずれにしても、これは単なる想像である。(この点に関して、量子力学的な観点から、波動の収縮という現象をクオリアに当てはめる考えがある。光は波動であるが、観測することによって粒子として収縮する。センシェンスすなわち意識は志向性を持った働きであるから、観測と同義であると考えてよい。脳の中の光の波動が、収縮することによって、感覚的意識、すなわちクオリアの世界であるセンェンスが生まれると考えてよいのかもしれない。)

 ここまで、自然科学の知見にもとずいて、センシェンスの考察をしたが、このような感性直観が生まれるには、たしかに物質及び生命の原理が必要であったことは疑いない。個体生命が自己保存及び種の保存のために、食物と敵と配偶者とを見分けるためには、認識はつねに外部へと向いていなければならず、感性直観もそれに応じて形成されたに違いない。自己自身の内部で、主体と客体との対峙からなる世界の模像を作りだす必要に駆られたのである。それが感覚器の発明へとつながり、最終的に意識の発現へといたるのである。このようにして生まれたセンシェンスの世界、伝統哲学の用語で言えば表象界は、世界を本質と現象、実在と仮象とに分かつことになる。どちらが本質・実在であり、どちらが仮象であるかは、哲学の長い論争の基であった。プラトンはセンシェンスを仮象とし、今日で言えば外界を実在界とし、それを超越界とした。個々の三角形は個物として感性界に与えられるが、<三角形そのもの>は概念(イデア、形相)として、超越界にある。実在するのはイデアとしての三角形そのものであり、個々の三角形はそれにあずかる、もしくはそれを分有する、ことによって、影のような存在を支えられているのである。バークレーは外界の実在(物質)を否定し、センシェンス(彼の用語ではidea)のみが存在するとした。センシェンスは独我論の根拠であるが、独我論はそれ自体としては(神以外の)誰にも否定できない。バークレーもマールブランシュも、神を大前提とすることによって、独我論からまぬがれている。カントは現象の背後にある<物自体>を、認識不可能であるとした。原因の観念を、現象以外のものに当てはめることはできないからである。しかしセンシェンスに先験的カテゴリーを当てはめることによって、世界の客観性を保証することができるとした。とはいえ、もし宇宙人が別の感性直観やカテゴリーを認識形式として持つならば、人間の認識する世界は、ごく主観的なものとなるであろう。
 純粋な認識能力においては、現象(表象)の背後にあるものはあくまでも、人間悟性の対象とはなり得ない。しかし、現象の背後にあるものについては、バークレーの用語を借りれば、ある種のnotionを持つことができるのである。このnotionは、概念作用といってよいだろう。ある種のアナロギーによって、センシェンスの背後にある世界を、思惟することは可能なのである。認識をカントのように規範的に考えるならば、物自体などを考えるのはナンセンスであろう。また概念の究極の保証を、経験論のようにsentienceに求めようとするならば、ヒュームが懐疑におちいったように、あらゆる科学も哲学も、足場を失い、宙に浮くほかはない。自然科学であれ、哲学であれ、ある種の自由な概念作用がなければ、思索も探究も成り立たない。
 概念作用のの究極に向かう方向は、一元的知性の探究である。次にセンシェンスと概念作用との関係を考察する。

 *   *   *

 プラトンから今日の自然科学にいたるまで、人間の意識の二元性、ディコトミーに基づいた、二元的世界観が一般的である。センシェンスそのものが錯誤や錯覚に満ちたものであることは、哲学のそもそもから批判の対象となっていた。確実な認識に達するには、センシェンス以外の原理を立てねばならなかった。それを古代人は理性(ロゴス)と呼んだ。唯物論であれ、観念論であれ、理性の働きと機能の探究が、哲学の中心課題となったばかりか、確固たる人生の基準ともなったのである。とはいえ、なんと言ってもセンシェンスは、人生の具体的内容をなしており、それを完全に否定するわけにはいかない。一方ではロゴスが、他方ではセンシェンスが、思索と行為の両極をなしていた。運動と時間を否定したパルメニデスやゼノンの説に対して、シノぺのディオゲネスは行ったり来たり歩いてみせたそうである。理性が肯定することを、感性直観が否定する。また逆に感性があやまつことを、理性が正す。この振子の間を、人間の理知は行き来しなければならない。これがセンシェンスの世界に閉じ込められた、人間の認識の宿命であると言える。言いかえれば、人間は根源的に二元的知性の持ち主なのである。このことを、今日の自然科学で考えてみる。
 自然科学は、個物をサンプルとした、帰納と演繹の方法論にもとづく物質もしくは自然界の探究であるが、その法則であれ理論であれ、概念なしには成立しない。概念によっていったん感性界を超越し、ふたたび感性界に戻って、感性界の理解と技術的改変をおこなう、抽象的であると同時に、実用的な学問である。原子や素粒子といった目に見えないものも、すなわち感性界には与えられないものも、量子論や、四つの力といった、数学的概念によってあつかうことによって、実在的対象として捉えることができる。感性界には与えられないものを概念としてあつかうことで、感性界に実際に与えられている事象そのものに働きかけることが可能となるのである。これは弁証法などの、単なる論理の思弁によっては、なしえないことである。この方法を徹底していくならば、この世界を理解し、支配するには、感性界そのものは必要なく、概念化された世界だけで十分であるということになる。実際、数学者の中には、この世界はすべて数式でできていると考える人もいる。センシェンスなどは幻であり、実在するのは数式だけである。この知性の概念的一元化は、本来自然科学の中にひそんでいた、究極の願望であったかもしれない。これを具体的技術として実現しようとしているのが、AI(人工知能)であると言えるかもしれない。この意味では、AIやロボットに意識すなわちセンシェンスを持たせようとするのは、余分なことであり、ナンセンスであると言えよう。一元的知性の究極の姿が、AIでありロボットであるはずだからである。
 自然科学が意識やセンシェンスやクオリアの問題を排除しようとするのは、この知性の概念的一元化の本性からして、当然のことであるといえる。もっぱら概念のモデルに頼るかぎりは、これらを探究する手がかりさえつかめないであろう。センシェンスはセンシェンスそのものとして、探究する外はないのである。センシェンスは生命が生み出した内在的な、閉鎖系の世界であると先に述べた。科学的解明は、生命の探究の一部としてなされるなら実り多いであろう。特に脳の量子論的解明が、多くのヒントを与えるようである。意識のクオリアが、確率的波動の収縮と関係しているかもしれないことは、大いなるインスピレーションである。生命が時間空間をどのように扱っているかも、解明されねばならないであろう。しかしセンシェンスの問題は、自然科学的解明だけにはとどまらないであろう。最大の謎である、自我の問題が背後にひかえているからである。志向性ひとつをとっても、その背後に自我がひかえている。自我のない志向性などは、現象学が仮定する幻であって、単なる作用、もしくはベクトルと、区別がつかないであろう。そのように自我を捨象したところで、自我の問題は解けないのである。
 自我の存在はなんらかの分析や綜合によって、解明も理解もできるものではない。そうした根源の存在があること自体が、問題そのものなのであり、それを説明し去ってもたいした意味はない。同じことはセンシェンス自体の存在、宇宙自体の存在、概念自体の存在についても言えるであろうが、そうしたいわば<無定義語>のひとつが自我なのである。自我はセンシェンスと密接に結びついており、その志向性において、センシェンスの世界を可能にしているとも言えるのである。その志向性自体を、ショーペンハウアーは<意志>と名づけたが、この世界意志とも自我は密接に結合している。意志自体は盲目の衝動であり、自我のような自己意識を持たない。言ってみれば、自我は神話の盲目の三姉妹のような意志の、やりとり可能な眼球となっている。
 ここでは問題をセンシェンスにしぼる。自然科学はセンシェンスを概念によって超越するが、センシェンス自体を探究することはない。感性直観において与えられた世界は、単なる概念の<内容>にはとどまらない。それ自体が実在界なのである。この実在界を生み出しているのは、物質そのものである。概念や数式としての物質ではなく、物質自体が脳内において反応している姿なのである。もし光が意識の本体であることが正しいならば、意識は光そのものを見ているのである。少なくとも、生命はそのようなものとして光を現出させているのである。意識は光としてのものの本体を現わしだす。意識に現われる対象は、すべて光としてのクオリアを持つのである。視覚において、光は最も明瞭にその本体を現わすが、あらゆる感覚意識は光からなると言ってよかろう。光は最も普遍的な宇宙のエネルギーだからである。
 センシェンスの世界、意識に現われた世界が、光そのものの姿であるならば、何故にそれは現象として、仮象(マーヤ)として、本質から区別されるのであるか。一つにはそれは、センシェンスの問題ではなく、この世界が流転極まりない、無常の世界だからである。この地獄のような世界からの救済願望が、この世界の真の本質を見あやまらせるのである。しかし、また一つには、このセンシェンスの世界が、すでに述べてように、概念ほどの確実性を持たないことからも来ている。生命は万能ではなく、この表象世界を生み出すにあたって、さまざまの省略や片手落ちをしている。それを補うには、理性が必要だったのであり、少なくともそれを、生命は人間の脳に備えさせたのである。そこから二元的知性が生まれ、感性に対する知性の優位から、概念的世界の優位が確立したのである。
 意識の本質が光であり、世界の普遍的エネルギーもしくは物質が光に還元されることから、本質においては、意識の世界と意識以外の世界とは同質であることが言えよう。プラトンも、感覚意識すなわちセンシェンスの世界を、外界の本質であるイデアの影とみなしている。アリストテレスは、センシェンス(ヒューレ=物質)の中にイデアそのものを見ている。プロチノスによれば、この世界は、絶対者である一者の光が、あふれるように流出してくる姿であり、本質においては一者と同一である。生命はこの世界の産物であり、生命の生み出したセンシェンスの世界もまた、この世界の産物であるから、センシェンスはまた、この世界の本質と同質であると言ってよかろう。であるから、このセンシェンスの世界に閉じ込められた苦悩する個としての生命もまた、センシェンスそのものの中に、世界の本質を見、救済の手がかりを求めることが可能になるのである。内在することが、同時に超越でもありうるのである。

2018年2月9日(金)
心の自由について
 人間の目の網膜の神経細胞は、赤と緑と青の波長しかとらえることができないそうである。この三色を脳の中で処理することによって、グラデーションに富んだ七色が意識に現われてくるのであるという。この三色は自然界で最も普遍的な色であろう。空の青と、草や葉の緑と、果物や実の赤とは、生命にとって最も重要な色である。同時に最も強力に、感性をとおして、心に働きかけてくるのである。色彩に代表される、自然界の意識における現われを、sentience(感性・感覚的意識)としておく。たぶん動植物にも共通した、感性のあり方であろう。このsentienceは、自然界が直接に動植物の感覚器を通して、神経細胞のあるなしにかかわらず、発現してくる現象であるから、生命とは密接に結びついている。単に生命の意志を触発するだけではなく、そこに自然界の最も微妙な神秘も隠されているのである。以下はそのささやかな例証である。

 窓から青空がのぞかれると、どこでもよいから戸外へ出たくなるのは、昔からの習性である。長く家にとじこもって読書をしていると、体も心もなまってくる。遅い午後ではあるが、自転車で出る。人家を避けて、冬枯れの田畑のあいだの道を走る。どこを見ても寒々としているが、ポツポツと歩く人がいるのは、高齢者の多い町だからであろう。隣町まで行き、ちょっとした山に登ることにした。日暮れまでにはまだ時間がある。駅近くの駐輪場に自転車を置き、徒歩にきりかえる。ふもとの桜の公園は、もちろんまだ枯れ木で、ひと気のない山裾を登る。冬の山は、枯れ木が見ものである。枯れ枝の間から、青空がすけて見えるのが、なんとも心地よい。離れた山に夕陽が当たると、黄色い毛布のような色彩、というよりも感触になる。山の頂には、無名戦士の墓碑があって、そこの誰もいないてっぺんで、広々とした眺望を前に、ひとり遅い昼食をとる。帰りは別の道からおりる。一時間ほどのささやかなハイキングであるが、午前に出ていれば、まだまだ歩けそうな気分である。
 帰りは川沿いに自転車を走らせる。ふと枯れ木から暮れていく青空を見あげたとき、痛いような胸の広がりがおこり、日頃蓄積されたしこりのようなものが、ほぐれていくのが感じられた。なんと多くのものに、心はとらわれているのであろう。過去や未来や、社会生活上のしがらみなどはもちろんのこと、知識や情報や学術といったものも、所詮は欲望の一種なのではないか。枯れ枝と青空とのコントラストが、瞬時に与えてくれるえもいわれぬ心の高揚感、自由こそが、存在することの最高の意味なのではないか。知識や情報や学問などではなく、sentienceこそが、心を束縛から解き放ち、自由へと羽ばたかせる源なのである。人間は実に不自然なことを日々行っている存在である。それが真の幸福や、心の平静をもたらすかどうかなどは、おかまいなしに。不安と、欲望と、目的意識に駆られて。

 NHKのモーガン・フリーマンという番組で、人の存在する意味について、いろいろな説を取り上げていた。人は目的的に生きる存在であるとか、情報の増大が進化の原理であり目的であるとか、家畜の飼育が人間そのものを家畜化し、社会化して、各人の技能を特化させたとか、基本的に物質・生命とその進化の観点から、人間の存在の意味が捉えられていたようである。そうした科学的観点でのみ見るならば、人間が目的的に生きるということは、生命進化にとって有利に生きられるということであり、生命であるかぎりでの人間にとっては、その生命原理に従うほかはないので、未来を想定(simulate)しながら生きるほかはないことになる。情報の増大が進化の原理であるというのも、同じく生存に有利であるということであって、人間の知識欲も、生命の貪欲な欲求の表われにすぎないことになる。また人間が社会的にいわば<家畜人>となったことで、野心や、権力欲や、名誉心や、承認願望や、虚栄心などといった、さまざまな社会的欲望が生まれたのであろう。
 人間がどこから来てどこへ行くのかという、紋切り型の問も、結局は、人間が目的的、知識的、および家畜的にしか思考できないという、生命原理にとらわれているからであろう。そんな問いを発するのは、人間だけだからである。たぶん宇宙人は、あるいは進化した知性は、もはやそのような問いを発しないかもしれない。動物のように自然にしたがって生きるからではなく、自然を超越して生きるからである。
 人間はどこから来たのでも、どこへ行くのでもない。純粋に存在することの明晰判明な認識がすべてであり、その認識によって永遠不滅な自己を見いだせるであろう。その認識が心を究極的に自由にし、とらわれのない心、心無ケイ礙(しんむけいげ)にいたらせるよすがとなるであろう。その認識へいたる道は、ほんらい困難な修行の道であるかもしれないが、少なくとも瞬時の心の解放を、ささやかな自然美の中に見いだすことは可能なのである。

 鷺のゆく
 夕空
 家なく
 ともなく
 おそれなく

   *

 木枯しの
 吹く方
 青みわたる
 北十字

   *

 椋鳥の
 空に宿借る
 冬木立

   

2018年2月5日(月)
人間のアレテー
 古典古代において良い生き方とは、あるいは物事の良いあり方とは、そのものの最もすぐれた特質、もしくは特長を生かすことであった。それをアレテー(arete)と呼んでいる。ナイフのアレテーは切れ味を持つことであり、あらゆる道具は、このアレテーによって評価される。これは道具にかぎらず、あらゆることに応用の利く価値基準であるといえる。人間の生き方、社会のさまざまな事象、社会関係に、この基準が応用されることによって、古代ギリシャの独特の倫理説も生まれる。後代の規範的な倫理・道徳とはまったく異なる、プラグマティックで実践的な、人間間の行動の最良のあり方が説かれるのである。
 古代ギリシャ人にとっての人間のアレテーは、必ずしも今日の人間のそれとは一致しない。あらためて、今日の人間の社会関係、文明の段階においての、アレテーを考え直すべきであろう。アレテーはそのもの固有のすぐれた性質ないし能力であるから、ほかのものと同等であったり同質であったりすれば、それはアレテーとは呼ばれえないであろう。すなわち、まず動物的存在としての人間は、その肉体の能力や、本能やにおいては、とても特有のアレテーを主張することはできないであろう。むしろほかの動物の方が、人間よりもすぐれたアレテーの持ち主なのである。この点で、性愛や家族愛(母性愛・父性愛)は人間にとってのすぐれた特質とはいえない。むしろそれを動物から学んでいるくらいである。身体の能力もまた、アスリートがいかに百メートルを9秒台で走ろうと、野生の動物にはかなわない。しかし人間社会の内部では、それは個人のアレテーとなりうる(この点については個のアレテーとして後述する)。一般的に言って、人間が動物に対してすぐれた点として誇れるのは、遺伝子が1.6パーセントしか違わないチンパンジーに対して、知性・理知において圧倒的優位を見せていることである。しかし道具的知性を持っていることはチンパンジーも同じであり、それが人間固有の特質というわけではない(人間にとっての理性も、それが言語によってしか表わしえないことからも、基本的に道具的理性であることが分かる)。しかし人間のアレテーを理性もしくは理知に見ることは、ソクラテス以来の伝統となっている。チンパンジーはある点では人間以上の知覚の能力を持っている。知能において、単に発展段階が遅れているに過ぎない。もし知能もしくは理知が人間のアレテーであるとするならば、人工知能(AI)は知能において人間を圧倒的に凌駕することによって、人間をチンパンジーの位置に置くことになる。
 古代ギリシャ人にとって理性は、単なる計算能力のようなものではなく、より良く生きるための必要条件としての、人間の内部での指導原理なのであった。理性によっての行動でなければ、良い行動とは言われえず、理性を欠いた人間は良き人とは言われえなかった。このような理性は反省的知性と言ってよいであろう。反省とはもっとも明瞭な意識の状態であり、もっとも純粋な自我のあり方である。チンパンジーはおのれの行為が正しいかどうかは、道具的知性によって、その効率によって、ほぼ無意識に判断するのであって、いわゆるtrial and error(試行錯誤)がすべてであろう。反省的知性は目的性をもった知性であり、意識的思索によってある目的に向かっての行為を組み立てることができる。これができるのが人間的理知のアレテーであるといえよう。しかし、それをもAIが、いわゆるディープ・ラーニングによってなしうると言うのならば、さらに人間的理知のアレテーを深めていかなければならないであろう。
 そもそも理知が動物にも、人間にも、AIにも共通の能力であるならば、人間に特有の性質をさらにちがった点に求めるべきではないだろうか。人間は理知を持っていることを反省的に知っている。動物は単にそれを道具として使っているに過ぎない。AIもまた人間によってプログラムされたものである以上、人間の道具としての意義以上のものを持ちえないであろう。いわば人間はおのれの理知のコピーをAIによって拡大的に生み出そうとしているのである。しかしAIにただ一つ欠けているのは、この理性に君臨しようとする人間の立場である。これをmeta-reason(理性の理性)の立場としてよいであろう。人間の究極のアレテーは、理性に関するかぎり、このメタ・リーズンであると言ってよかろう。
 ここまでは、人間一般のアレテーを問題にした。人間はたいての社会的動物と同様に、集団の中でしか生きる場を持たない。自然ではなく社会が、人間の生きるエレメント(領分)である。自然は社会を通じて、人間と間接的に関係する。社会はとくに人間にとってのアレテーではない。孤独者は野獣か神であるとアリストテレスは言うが、たいていの野獣も、少なくとも大人になるまではひとりでは生きられない。人間社会は人間固有のアレテーではないのである。さらに整然とした社会を求めるならば、蟻や蜂の社会のほうが人間社会よりもすぐれている。プラトンやアリストテレスが、理想社会として思い描いたポリス国家は、人間によっては実現不可能であった。人間が理性に従って、最も良い生活ができるとされた、それらの理想国家は、少しも人間のアレテーではないのだ。そもそも国家そのものが、人間だけに可能な、すぐれた特質を表わす制度なのであるか。国家の歴史をたどれば、とてもそうは思われないであろう。プラトンやアリストテレスが、善を実現する社会として構想した、理想の社会はいざ知らず、現実の国家は動物的欲望や、権力欲や、悪徳や不正のはびこる、悪の温床でもあったのである。いかに人間が理性を誇ろうとも、それをアレテーとして認識する少数者の理想社会以外には、それを現実の社会集団や国家において実現することは、夢のまた夢なのである。
 より良い生き方を可能にするものが、人間のアレテーであるとする、古代の思想家にならうならば、単なる理性は無力である。動物的本能から派生するものも、たとえそれが幸福をもたらしても、人間固有の善とはいえない。集団や国家の中では理性的善が実現できないのならば、非ポリス的(反ポリス的といわずとも)生活の中に、それを探求するほかはないであろう。キュレネ派や、キュニコス派がそれをおこなった。人間が強固な集団性、社会性の持ち主であることは、蟻や蜂に劣らないが、社会的動物のなかでも、とりわけ人間は群内部での争いが際立っている。戦争や内紛、党派や宗派や、あらゆるグループごとの対立、そうした争いが人類史をうめつくしている。こうした人間の激越な本性は、集団や社会や国家に対する懐疑を生み出した。蟻や蜂にはない個の意識が、強烈にめばえだしたのである。個の意識の目醒めと、理性の意識の目醒めとは、ほぼ並行していよう。もともと縄張りによって個の存在をいとなむ野獣の場合とちがって、人間における個の目醒めは、集団や国家からの自立を意味する進化的意義を持っている。集団や社会から離れられない未開民族や狩猟民は、その集団や社会での幸福を実現しているかぎり、そこから抜け出す必要はない。社会や国家が否定されるのは、それが個にたいして理性的善や幸福をもたらさずに、抑圧や生存の不安をもってせまるからである。元来が、サルの時代から集団的生活をいとなんできた人間は、はじめて個の存在の可能性とその価値とに目覚めたのである。それはこの地球上では、人間にのみ備わったすぐれた性質、特長であり、今日唯一人間のアレテーと呼べるものであろう。
 人間のアレテーは、今日においては個としての人間のアレテーなのである。これには必ずしも普遍性があるわけではない。むしろ、個々人においてのアレテーは、個の素質・能力・生き方において、多様性をきわめるであろう。それは個人が自ら見いだし、発展させていくものであり、それによって、自らにとっての最もよい生き方、まっとうな生き方を可能にするものでなければならない。個におけるアレテーは、他との比較ではなく、自己自身における素質、性質、能力における、最もすぐれた、最も発展の可能性のある要素であるから、それらを自覚し、探究し、鍛錬し、熟練させ、完成させることによって、個としての人生を、最もよい形で歩むことを可能にする。それができるのは、この地球上の生命で、個としての人間だけなのである。おのれを国家や民族や集団や家族などの、他に委ねることはたやすい。それは人間だけでなく、たいていの動物に見られるアレテーであるからであり、そのかぎりではアレテーと呼ぶことはできない。釈迦は法燈明・自燈明ということを、死にあたって説いたが、この宇宙の真理を知り、個としての人間のアレテーを知ることが、最も人間らしい生き方であるからだ。今日哲学というものが、個の人生にとって意味を持ちうるとするならば、古代の哲学者にならって、人間のアレテーを探究することが、単なる理論や思弁の領域から、実践へと導く案内となるであろう。

参考:Arete
Griech. "Vortrefflichkeit, Tugend": im weitesten Sinn die groestmoegliche Leistung eines bestimmten Vermoegens; in diesem Sinn kann der Ausdruck auch auf Tiere oder sogar Gegenstaende bezogen werden (beispielsweise kann die Schaerfe eines Messers als Arete bezeichnet werden). Auf den Menschen bezogen meint Arete die moeglichst vollkommene Entwicklung der dem Menschen eigenen Anlagen und Faehigkeiten, insbesondere der Faehigkeit, das Wahre und Richtige zu erkennen und demgemss zu handeln. Platon unterscheidet vier Haupt- oder Kardinaltugenden: Weisheit, Tapferkeit, Besonnenheit und Gerechtigkeit. Der Begriff spielt ausserdem eine zentrale Rolle in Aristoteles’ Tugendlehre (Tugend), in der zwischen den ethischen Tugenden (Tapferkeit, Besonnenheit usw., die eingeuebt werden muessen) auf der einen Seite und den dianoetischen[i.e.rationalen] Tugenden (die verstandesmaeig begriffen werden) auf der anderen unterschieden wird.
アレテー:ギリシャ語。優れていること、徳性。広義では、特定の能力の最大に可能な発揮。この意味では、この語は、動物やものに対しても用いられる(例えば、ナイフの鋭さは、アレテーと呼ばれる)。人間に対して用いられると、アレテーは、人間に固有の素質や能力の、可能な限り完全な発展を意味する。とりわけ、真であることと正しいことを認識し、それに従って行為する能力をいう。プラトンは、四つの主な、要となる徳性を区別する。賢さ、勇気、思慮、および正義である。アレテーの概念は、またアリストテレスの倫理説(徳性)においても、中心的な役を果たしている。それによると、一方では、倫理的な徳性(修練が必要になる、勇気や思慮など)と、他方では、理性的徳性(知性にしたがって把握される)が区別される。)
 Dianoetische Tugenden
Von griech. dianoetikos , "rational": Waehrend die platonische Tugendlehre auf einer Dreiteilung der Seele in ein Lernvermoegen, ein Eifervermoegen und ein Begehrungsvermoegen beruht, gruendet sich die aristotelische Tugendlehre auf eine Seelenzweiteilung. Dabei stehen die dianoetischen Tugenden der rationalen Seelenteile den ethischen Tugenden des irrationalen Seelenteils gegenueber. Die dianoetischen Tugenden als auf Verstand und Vernunft bezogene Tugenden verdanken sich Lehre und Erziehung, waehrend die sich auf Charakter und Willen beziehenden ethischen Tugenden das Ergebnis der Gewoehnung sind. Als Vertreter der dianoetischen Tugenden nennt Aristoteles Wissenschaft (episteme ), Klugheit (euboulia ), sittliche Einsicht (phronesis ), Weisheit (sophia ), Verstand (synthesis ) und Kunstfertigkeit (techne ).
理性的徳性:ギリシャ語のdianoetikos(理性的)より。プラトンの倫理説が、学習能力、熱意の能力、欲望の能力という、心の三分割にもとづいているのに対して、アリストテレスの倫理説は、心の二分割にもとづいている。その場合、、心の理性的部分の理性的徳性は、非理性的部分の倫理的徳性に対置される。知性と理性に関係する徳性としての理性的徳性は、教育によってはぐくまれるものであり、他方、性格と意志に関係する倫理的徳性は、習慣の成果である。理性的徳性の典型として、アリストテレスは、学術(エピステーメ)、賢明さ、倫理感、叡知(ソフィア)、理解力、および技術に巧みなことを挙げている。)
 ―――UTB Handwoerterbuch Philosophie より

2018年1月11日(木)
全体への意志と個の運命
 生への意志は根本において<全体への意志>であり、個の意志にはなんの考慮も払わない。個体の厖大な浪費、ムダによって、生への意志は全体的生命を維持し、存続させてゆく。生命全体が一個の有機的組織であり、個の生命はそれにつながれ、支配され、制御されている。海は一つの生命体であると考える科学者がいる。その生命のサイクルは海流の循環に応じて数万年というスケールであるが、一つその循環が狂えば、生命全体の絶滅を引き起こすのであるという。海もまた脳細胞のような組織を微小な生命体によって組織し、数万年というスケールで思考しているのであるかもしれないという。陸上の生命もまた、同様な全体的生命体を構成しているのかもしれない。そのメカニズムはまだ不明であるが、進化の微妙な適応の仕組みなどに現われている個もしくは種の生命体同士の共生や、共感を思えば、そこになんらかの生命全体の間の情報の共有があっても不思議ではない。
 生命は全体として始めて意味のある存在であり、その根源の衝動は全体への自己犠牲であるといえるかもしれない。個の存在ははじめから、その独自の価値においては無に等しいのである。それゆえに、生命が生命を食らうという、生命体同士の根源的な存在のあり方が成立するのである。食物連鎖が成立するためには、個の独自の価値などあってはならないのであり、個の存在意義は全体へ奉仕し、自己の生命を全体にささげることにのみあるのである。これが<全体への意志>の生命界における根本的あり方である。
 人類においてもこの生命界の掟である全体への意志は、その歴史や社会組織において貫徹されている。無慮無数の個人が、全体のために犠牲にされ、無数の部族や民族や国家が、支配欲や征服欲に現われる全体への意志によって滅ぼされ、単なる物欲や、唯物史観や、理念によっては解明できない、歴史の闇を現出しているのである。生命界においては人類は食物連鎖の頂点をなし、日々幾百万とも知れない家畜の生命を奪っているが、それによって家畜は種として繁栄し、短い命ながらも生命を謳歌している。ユダヤ人はナチスによって大虐殺を受けたが、今では国を持ち、近隣の民族を圧迫する国家へと繁栄をとげている。日本人は天皇制のもとで滅私奉公を強いられ、数百万の命をムダにしたが、戦後の復興がそれを補ってあまりあるほどである。全体への意志は、政治的に言えば<全体主義>は、その意味では歴史の原動力であったともいえる。そのことは人類の全歴史をとおしていえるであろう。歴史が進歩するためには、人類はつねに全体主義化する。ロシアも中国も、アメリカも日本も例外ではない。そこには生命界に通底する全体への意志が働いており、人類の歴史のメカニズムを制御しているからである。
 歴史ばかりではなく、社会制度、経済制度、宗教、道徳、倫理など、人類文明のあらゆる部門においても、全体への意志は、陰に陽にその無意識の影響を浸透させている。社会制度が全体への意志の直接表現であることは言うまでもないであろう。これは専制であれ、王制であれ、民主制であれ、社会主義であれ、変わりはない。全体主義と対置される民主主義であっても、多数者の専制であって、そこには全体の利益へと強要する意志が常に働いている。単なる社会契約などで社会は作られたのではなく、全体を失えば価値を失う個人の意志の無意識的傾向が社会構造を作り出すのである。生命活動そのものである経済は、その事情をもっともよく現わしている。もともと猿から由来する群れ社会であった人類の経済組織は、家畜の飼育と農耕によって、集団全体の運命と一体となった。群同士の間の、家畜と農地の奪いあいが、集団的エゴを形成させ、集団同士の間での弱肉強食が人類という種の間で発生したのである。集団はより大きくなることでその防衛力と攻撃力を強める。さらに大きな全体へと人類の意志は拡張してゆく。これが国や帝国の発生である。トロイアはギリシャの繁栄のために滅びねばならず、カルタゴはローマの繁栄のために、ペルシャは世界帝国のために滅びねばならなかった。アレクサンドロスの遠征は、単なる個人の意志ではなく、人類の全体への意志の発現であった。
 宗教はもっとも初期の全体への意志の理念化である。太陽などの自然崇拝によって、共通の理念を集団に与えることが、初期の人類社会にとって必要だったのである。それが人格的、さらに抽象的な神観念に移っていったのは、人類社会の発展とともに、自然界の支配者としての意識が芽生えることにより、人間中心的観念が必要となったからである。まず王や皇帝が神となった。彼らは不滅の存在として、来世において永遠の生命にあずかる者とされ、聖なる意志により自然界及び人間界の制御をおこなうことにより、さまざまな部族や集団の意志を一点に集めたのである。人類は単なる力だけでは、集団間の争いを克服する限界に達していたのである。道徳や倫理は、もっぱら全体への意志を強調するために、宗教と結びついてあみだされた。モーゼの十戒に見られるように、宗教自体、単なる神の崇拝ではなく、生命の本質にもとづく社会の基本的規則を定めるものであった。この点は、イスラムではさらに明白であり、宗教がそのまま社会規範となっている。全体への意志の道具である宗教が、その説く道徳・倫理において全体への奉仕を主眼とすることは当然である。宗教は全体への意志の理念的表現であり、実践であるといってもよいだろう。専制下における道徳・倫理は、支配層にとっては全体への意志につなぎとめるイデオロギーの道具であり、孔子の儒教がその典型である。個人主義的道徳・倫理というものもありうるが、そもそも道徳・倫理自体が全体への意志のないところでは成り立たないのである。ひらたく言えば、社会のないところに道徳も倫理もない。アリストテレスの言うように、孤独者は野獣にひとしい。
 このように、人間存在は、個人であれ集団であれ、どっぷりと全体への意志にひたって生きている。社会も個人も、つねに全体へと回帰する傾向に支配されているのである。全体主義と民主主義の対立の時代であったとされる二十世紀のあとに訪れた、現代の政治的・社会的情勢は、明瞭に全体への回帰を見せている。それはカントが言うような永遠平和を目指しての全人類の全体へ向かうのではなく、国家や民族や宗教やの集団的エゴの間での、全体性の強調である。それの契機は、単なる資本主義的な、利得を目指したグロ−バリゼーションの破綻であり、その終焉とともに、その反動である国家的、民族的、宗派的エゴの発動が、リージョナルな全体主義をもたらしているのである。カントやテヤール・ド・シャルダンが夢見たような、人類は一体であるという理念的全体主義はどこにも実現されないであろう。生命の掟は、理念によって実現されるのではなく、まさに生命そのものの原理である、個の犠牲の上においてなしとげられるからである。個々の国家は、相互に滅ぼしあわねばならないのである。人類も生命である以上、戦争やテロや革命は絶えないであろう。

 *   *   *

 人間は生命界の産物であって、その生命的な営みにおいては、生命の本質である全体への意志から逃れられないことを明らかにしたが、この絶望的な見とおしにおいて、個としての人間はどのように対処したらよいのであろうか。次にその点について、可能な処方を考えてみたい。
 全体への意志に対する個人の無力感は、まず諦念やペシミズムとなって現われる。歴史的にはっきりしたペシミズムはすでにシュメール人にみられる。ギルガメシュ叙事詩にその片鱗がある。それに対する対処法は、何よりもまず<快楽主義>となって現われる。生命の基本的原理の一つである快苦の、快だけをひたすら個において追及し、充足しようとする生き方である。飲食や性の快楽は、それ自体で充足できる、もっとも強力な快の源であり、それらは本来、個体保存と種の保存という生命に具わった持続のための報酬的道具なのであるが、それらをもっぱら自己自身のためにのみ享受しようというのである。いわば生命の裏をかくわけである。厳しい政治的社会にいたローマの貴人が、公務にないときは、ひたすら飲食と性愛の快楽に耽っていたことはよく知られている。
 快楽主義は、シュメール人や、ローマ人から、マルキ・ド・サドや現代の享楽的人種に至るまで、主として肉体的快楽を究めつくそうとするのであるが、必ずしも肉体的、身体的快楽にはかぎらない。精神的快や、芸術における快楽もまた、快楽主義に属する。エピクロスの快楽主義は、肉体の快と精神の快とのバランスを取ったようである。たいていの学者や読書人はエピキュリアンであると思われる。芸術における快楽主義は、芸術至上主義や、耽美主義に見られる。芸術においても、精神性と肉体性との両方の傾向が見られる。至上の美を求める芸術は精神性へと向かい、いわゆる耽美主義は肉体の快楽に傾きやすい。後者は、あらゆる肉体の快楽主義者がそうであるように、むしろ生の肯定へと向かいかねない。それに対して芸術至上主義は、ペシミズムの本領である、生の否定へと向かう。
 生への意志、とりわけ全体への意志を克服するためには、肉体の快楽主義者はなんとしても不利である。敵のふところで、盗みのようなことをするからである。いつの間にか生への意志の奴隷と化しているであろう。このような快楽主義を断固として否定して、生への意志を肯定したのはニーチェである。ペシミズムの克服がニーチェの課題であって、生を丸ごと手中にして、なおかつ全体への意志を克服し、個の力を昂揚しようとしたのである。敵の大将の首をとるようなものであるが、ニーチェ自身はその高揚感に心身が耐えられず瓦解した。生への意志を肯定しながら、その中核的原理である全体への意志と戦おうとすることは、なんとしても自己矛盾であり、神と戦うような多大のエネルギーを消耗させる。しかしニーチェが理想としたような、徹底したエゴイストは存在するであろう。それには強力な心身の持ち主であることが要求される。そしてつねに全体への意志に奉仕する、人類の多数を成す集団(ニーチェの言葉によれば市場のハエ)を敵として、敵にとりまかれ、戦っていなければならないのであるから、孤立と孤独が運命となる。それに耐えるには、文字どおりの超人でなければならない。(全体への意志の超克者である<超人>を説いたニーチェ思想が、全体主義のナチスに利用されたのは歴史の皮肉であるといえる。)
 全体への意志を克服するには、少なくともなんらかの<個のエゴイズム>が必要である。どのような快楽主義者であっても、彼は本質的にエゴイストである。個体保存とは別の純粋な意味での<自己愛>の持ち主であり、<利己主義者>である。小学校の頃から「利己主義はいけない」といわれて育っている世代には、<利己主義>は悪の代名詞のように聞きなされるであろう。selfishであることはよくなく、selflessであれと教えることは、あらゆる社会に共通している全体主義の道徳である。そのself(自己)のない人間が、生命界の基本単位であるといえよう。単位であって、独立した存在ではないのである。そうした単位をあつかうことは、社会にとっていかに都合の良いことであろう。単位であるからには数式化でき、徴税にも、徴兵にもつごうがよく、効率的である。国民という名で、<公益のために>、つまり全体の利益のために、どのようにも扱えるのである。こうして従順な、<滅私奉公>的な国民がつくられていくのである。
 とはいえ、全体への意志のより本質的な問題は、為政者や政治体制にあるというよりも、個々の人間そのものにあるのである。なんとしても人間は社交的動物であり、一人でいるよりも、集団を好み、その集団から排除されることをことのほか恐れるのである。個人の意志よりも、集団の意志に従うことを、より多くの喜びとする傾向があるのである。人間は個として、孤独に生きることが非常に困難な動物である。アリストテレスがポリス的と人間に冠したのも、その故である。一言でいえば、人間は全体への意志そのものである。それは人間が生への意志の産物であると言うのと同義である。蟻や蜜蜂と同様に、人間は社会がなければ生きてゆけないのである。水が魚のエレメントであり、空が鳥のエレメントであるように、社会が人間の生まれながらのエレメントである。その社会集団への、全体への根本的渇望があるかぎり、全体主義は人類の宿命である。全体の意志に奉仕する時の高揚感、崇高感、悲壮感に満ちた人々の表情は、決して個人からは生まれない。やっかいなことに、人間の感情の中でもっとも崇高な感情が、全体への意志の中で発揚されるのである。その時人々はもはや全体のために死をも懼れないのである。<悠久の大義>のために喜んで死地に赴くのである。「類がすべてであり、個は無である」(ショーペンハウアー)。これが生命が個体に対して仕掛けた、究極のトリックである。
 全体への意志を克服するには生命を超えるほかはない。しかし生命の産物である人間にそのようなことが可能なのであるか。この世界の本質を洞察するならば、その可能性も見えてこよう。東洋の宗教がそれをおこない、哲学ではショーペンハウアーがそれをおこなった。すでに芸術において、唯美主義においてみたように、美の存在がその可能性を開く。生命界は、個にとって地獄のような様相を呈してはいても、全体としては不思議なことに美に満ちている。戦闘に倒れた「戦争と平和」の主人公が、意識を失いつつ自然界の美に打たれたように、生きることにはなんらかの報酬が、生命によって準備されているのである。それをプラトンにならってイデア界と名づけよう。この世界は理想の世界であるイデアを<分有>しているがゆえに美しいのである。生命がどのようにしてそれを生命界に取り入れたのであるか、その形而上学的理屈はさておき、そこに一つの超越の契機が生まれる。アンドレが自然の美にうたれて回心したように、美は一つの救済の原理となりうるのである。唯美主義の芸術もまた、美による救済を目ざしているものと言えよう。どのような美も、官能美でない限りは、心の平静をもたらす。芸術美の中で独特のものは、音楽美である。これはショーペンハウアーの理論が名高いが、ここでは生への意志=全体への意志の克服の立場から考えてみる。音楽は生への意志の動きの理念的現われであるといえよう。それは直接意志に働きかけ、意志を昂揚させ、支配し、あるいは沈静する。物質の本体が<ヒモ>の振動であることが現代物理学で明らかにされているが、音楽はまさにその振動から生まれるのである。同時に概念としての意味をなさないとしても、ある種の理念的意味を、直接意志につたえるのである。ワグナーの音楽が<諦観>の表現であることは、音楽そのものによって伝わる。意志を沈静すれば、全体への意志も鎮まり、個の意志の反省的純化によって、純粋自我が生まれる。純粋自我は生命から離れ、理念に導かれてこの世を離れる。たとえ一時的ではあれ、生命からの超越が果たされるのである。しかし音楽は、そもそも世界意志の発現に近いのであるから、そのような諦観ばかりを誘うのではない。生を昂揚し、謳歌し、あまつさえ官能をかきたてたりするのである。当然ながら、全体への意志の昂揚にはもっともよく適している。学校での行進曲を思い出せば足りるであろう。モーツアルトを聞かせると栽培植物がよく育つというのも、あながち迷信ではないであろう。
 自然美であれ、芸術美であれ、それらによる生への意志=全体への意志の超克には限界がある。個人が自我の働きによって、世界意志を克服するには、ほかの手段によるほかはない。それはイデア界といった外からの誘引ではなく、自我そのものの中に見いだされねばならない。そもそも生への意志の本質は<類の生命>であり、自我もまたその類の生命によって翻弄されている。個の生命は類の生命に飲みこまれ、全体への意志の中で、昂揚と、陶酔と、感動の中におのれを<滅却>する。この強烈な心身の陶酔感の中では、単なる肉体的自我は、太陽の前のロウのように溶けさり、嬉々として無化し、全体の生に同化する。これが類的生が個体に仕掛けた強大なトリックであり、快楽の罠である。生への意志の肯定における全体への意志の克服が、いかに困難であるか、単なる自我によっては対抗不可能であることが、納得できるであろう。単なるself(日本語でいうおのれの分=自分)はself-sacrifice(自己犠牲)のためにのみ存在するようなものである。確かに強烈なEgoの所有によって、類的生命の陶酔に対抗するマルキ・ド・サドや、チェザレ・ボルジアのような人物は存在しよう。徹底したエゴイストは、<勇敢>である必要はない。むしろ臆病であり、卑怯であり、狡猾であり、抜け目なく、陰険で残酷である。あらゆる悪名をその身に負うであろう。個の生命に生きるには、類的規範である<善悪>の彼岸に立たねばならない。そうした人物は類的歴史の汚点とされてしまうのである。
 こうした悪名をものともしないのでない限りは、たいていのエゴイストは、おだやかに隠れた個人的生を享受するであろう。シュティルナーやニーチェで思想的に鍛え、防禦し、みずからの内なる敵である全体への意志を制圧し、回避し、状況に応じて、必要とあらば逃避し、逃亡するであろう。この生き方は単なる<個人主義>ではない。個人主義が全体への意志に対していかに無力であるかは、本家のイギリスの個人主義者が、いざ戦争となると、こぞって志願兵となることによく表われている。愛国や名誉などを重んじるのは、個人主義ではなかろう。エゴイストはエゴイストであり、個人主義者ではない。エゴイストがもっとも重んじるのは、あらゆる意味における<自由>である。エゴイストは徹底した<自由人>である。おのれの外なる不自由と、おのれの内なる不自由とに、我慢がならない人間である。エゴイストは、徹底して<わがまま>なのである。そうして生命を、もっぱらおのれのために享受するのである。
 こうしたエゴイストであるためにも、ある程度の心身の強靭さが必要とされる。たえずおのれの内と、外との、敵と闘わねばならないからである。生への意志を肯定しながら、生への意志の本質である全体への意志を克服しようというもくろみ自体が、そもそも困難の原因なのである。教養主義や、個人主義や、人格主義や、実存主義などは、すべて生への意志の全体への行進の前には、木っ端のように粉砕されてしまう。それらのあらゆる主義は、人類の宿弊である戦争をとめることが出来ないのである。そうであるならば、自我に残された最後の切り札は一つである。生への意志を否定するほかはないのである。
 生への意志の否定は、文字どおりの死や自殺を意味するのではない。それについては最後に考察することにして、ここでいう生への意志の否定は、その原理として自我の本質の直観と回帰とを契機としている。自我を単なる生の産物としてみるか、ある種の超越的存在としてみるかによって、人類の運命は分かれる。自我(アートマン)とはなんであるか、古来から探究されているにもかかわらず、その決定的な意味を解き明かした思想や学説はすくない。ウパニシャッドの<梵我一如>では、自我については何事も語ったことにならない。この自我が生命そのものや宇宙そのものでないことは、だれもが直観できよう。自我はこの宇宙に<投げ出された>存在だからである。フィヒテの<自我(das Ich)>は、個人的自我のおもむきを残していても、なにやら抽象的な存在であり、世界を生み出すとされる点、梵我一如のたぐいである。仏教のようにアートマンは存在しないと言ってしまえば、自我は現代の心理学が神経細胞の現象とみなすように、自我は幻のようなものである。自我はこの宇宙とそれが生み出した生命との産物であると考えるのが、現代の一般的な理解であろう。とりわけ、自我は身体現象と密接に結びつき、それとは容易に引き離せないために、生命現象の一部であると考えるのが、科学的であるとされよう。生命が、身体がなければ、自我は存在しない。自我は神経細胞のネットワークにもとづく、意識のなんらかの統合現象であると。そのかぎりでは、自我が生への意志から逃れることなどは、思いもよらないであろう。
 しかし釈迦が生命界すなわち生死界からの解脱を説き、それが真に生への意志の克服を意味するならば、その克服の主体はなんなのであるか。単なるアートマンでないことは、くりかえしアートマンを否定していることからも、確かであるが、主体のない釈迦が、どのようにして心身としての生命を克服できたのであるか。そして克服を遂げたときの釈迦の主体とは、どのようなものであったのか。それはやはりある種の<自我>であったに違いなかろう。その自我はしかし、生命としての心身の汚れから浄化された自我でなければならない。それを<純粋自我>もしくは<超越的自我>と名づけておこう。この純粋自我は、生命界からの離脱を可能にするからには、生命ひいてはこの宇宙から超越した存在でなければならないだろう。釈迦が超越者といわれ、<超えたもの>と言われるのは、この意味においてである。釈迦の発見したこの純粋自我は、どのようにして到達できるのであるか。その方法を説いたのが本来の仏教であるといえる。
 ここでは仏教ではなく、筆者の形而上学の立場から論をつづける。人間にとって、生への意志=全体への意志を根本において克服するよすがは、唯一純粋自我の覚醒にあるといえる。それを先ほど美との関係において説いたが、自我そのものに向かうことによって、それの覚醒を目指す修行が、ヨガであり禅であるといえよう。その究極の目標は、生への意志そのものの滅却であり、その消え去った状態(ニルバーナ)の達成である。それは生きながらの死といってよかろう。しかし死そのものではない。その状態では、生命界はただ美(イデア)を残して消滅する。釈迦が死の前に、世界の美を讃美して去ったのもその故である。プロチノスが生涯に数度しか達成できなかった、イデア界、一者の美の観照が、ニルバーナにおいて開けるのである。衆生の間で、極楽が美の世界と表象されるのもその故である。
 このようにしてのみ、個としての生命は救済の可能性を見いだす。しかし単なる死は救済ではないのか、最後にそれについて考える。人間の自己自身について唯一絶対の、譲れない権利は、自殺の自由である。生命界にはアポトーシスという原理があり、不要になった細胞は積極的に自殺してゆく。それは生命体全体の維持のための自死であるから、まさに全体への意志に服従する個の滅却である。その点でアポトーシスは個の権利ではなく、かつての切腹と同じように、ある種の強いられた死である。自殺の中にも、たいていのケースでは、環境や、人間関係や、社会的状況による、強いられた自殺である場合が多いであろう。切腹はもとより、苛めや貧困による自殺などがその典型である。かりに強いられた自殺であっても、生を維持するか、生を放棄するか、いずれかの選択の自由が、個人において存在している点で、それは譲れない権利である。その権利を否定しようとするのは、まさに全体への意志に支配された倫理・道徳であり、宗教である。子供に対して自殺をいさめる場合、たいてい口にするのが、「親を困らせるな」である。一番困っているのは、学校生活に悩んでいる当人なのであるが。逆に周囲を困らせないために自殺するケースが、日本のような国では目立つのだが、これこそまさに全体への意志によるアポトーシスである。
 理性的に考えて、死を選んだ方が賢明な境地に立たされた時、自殺せよと教えるのがストアの賢人である。その考えは安楽死や、延命処置の拒否において受けつがれている。それでは自殺自体は、生への意志からの究極の救済なのかどうか、ショーペンハウアーはそれを否定している。自殺は生への意志の倒錯であると。いわばやけくそになった生命が、自暴自棄の行為にはしるようなものである。酒や阿片に浸ることが、緩慢な自殺であるように、自殺は必ずしも一息にゆくとは限らない。自殺の思いにふけるとき、おのずとわきおこる悲哀感や自己憐憫やが、自殺とは自然の行いではないことを暗示している。生命が反撥しているのである。これを乗りこえるには、ある種の麻痺や、偶然の衝動が必要である。あるいは日本ではよくある、道連れが必要である。親と子、恋人同士、最近では見知らぬ自殺志願者同士が、なぐさめあい、はげましあって、死へとおもむくのである。個人の自殺にも全体への意志が必要なのである。
 自殺が救済であるかどうかは、死そのものが救済であるかどうかの問題と同じである。死は生命によってプログラムされており、個体にのみ与えられる有機体の消滅の現象である。生命自体は種として全体的に存続すれば、それで充分なのである。生への意志は種として、類として存続し、個体は切り捨てられ、消滅する。しかし、個の見地から見れば、死は生への意志から解放される瞬間でもある。それはむしろ喜ぶべきことであって、あるいは喜びということが生命の現象であるとすれば、解脱のチャンスであって、歓迎してよいのかもしれない。それを暗示する現象が、いわゆる臨死体験である。死に臨むとき、自我は、もしくは意識は、肉体への奉仕の任務から解放され、自由に飛翔しているのである。それは純粋自我に近い自我である。その時内面に現われる表象界は、意志の対象であることをまぬがれて、その純粋なイデアの面を現わしだしている。色彩あふれる美の世界がそこに現出するのである。死にゆくものはイデアを観照しつつ、無へと、あるいは自我本来の世界へとおもむくのである。それはいわば瞬間における生への意志からの解脱である。これがショーペンハウアーの言う死の秘儀(Mysterie)であろう。生理学的に動物の死の瞬間には、脳内の麻薬物質が分泌されることが確かめられている。食いつ食われつの、食物連鎖の生命界では、いかに残虐な、悲惨な死であっても、死の瞬間には麻薬物質によって恍惚として死んでいく。認識者である人間においても同様であり、どのような死に方をしても、最後の瞬間にはイデア界の美につつまれながら生を終えるのである。生命界が、個体の生命に与えた究極の<恩寵>であると言えよう。 

2018年1月5日(金)
世界の構成と構造化
 「最も単純な生物、たとえばアメーバが<もの>と異なるのは、その構成分子が<群>をなさず、内的団結、すなわち一種の<自己所有(auto-possession)>を課する全体的<構造(structuration)>によって支配され、方向づけられている点にある。自己所有は、人間では、<上空飛翔(survol)>という形をとる。この<意識(conscience)>と呼ばれる活動的支配は、もはや単に生命の構成要素を組織するばかりでなく、人間が接触する外界の要素をも組織する。」(グレゴワール「哲学入門」p.81 クセジュ 中村雄二郎訳)

 この世界の本質が何であるかについての思索が哲学の起源であるならば、その究極の答えはいまだ出されていないと言えるであろう。自然哲学に始まり、今日の自然科学にいたるまで、一方では<物の本質>の探究が、他方では自然崇拝に始まる宗教的思索や観念的形而上学による探究がもたらした成果は、いまだ決定的確信をもたらしてはいない。哲学はつねにプラトンやアリストテレスやデカルトに回帰して、思索をやり直しているようなものかもしれない。その理由の一つは、あるいはすべてであるかもしれないが、思索する人間が生命という条件のもとでそれを行っていることであるかもしれない。自然の産物である生命が、自然そのものを理解することなどが可能であろうか。そのことの反省がこれまでの形而上学や自然科学には欠けているのではないか。
 生命が単なる物体、<もの>と異なるのは、今日の科学で言えば三つの要素を具えているからであるとされる。一つは個としての組織を持っていることであり、二つは異化(分解)と同化(合成)という代謝の機能を持つことであり、三つは自己複製をおこなうことである。ウイルスは一の条件を満たしていても、代謝と自己複製は宿主においてしかおこなわないので、生命とはみなされていない。<もの>と生命との境は曖昧であるといえる。少なくとも物は二つ目までの条件に達している。そもそも<もの>は個物である。それが単純な個物(一個の陽子や電子などの)であろうと、なんらかの組織や構造をもった個物の集団(原子や分子や太陽系や銀河系)であろうと、個としてのまとまりをもたない物体はないのである。それ故に自然科学の対象は徹底して個物であり、個物をあつかわなければ帰納も演繹もないのである。
 個物の本質がなんであるか、それの究極を探究しても結局個物にしか行き当たらない。物理学では、いまのところ振動する極微のヒモであることが分かっている。そのヒモがさらに何からできているのかを探究しても、やはり個物に行き当たるほかはないであろう。古代の哲学者はこの難点とは逆に、世界の本質が水や火や空気であると考えた時に、原初において全世界が水であり火であり空気であり、それが個々の水や火や気体として、さらにそれらが変容したり、複合したりして、もろもろの個としての物体に分かれたものと考えたのであろう。いずれにしても、この世界は個物でもって構成された世界であることに疑いはないのである。(現代のビッグバン理論では、物質もしくは物体は、原初において限りなく小さな一点における莫大なエネルギーのかたまりであったとされる。物質全体でありながら、空間的な一点であることにおいて、やはり一個の宇宙としての個物であるといえよう。)
 個物は集まることによって、なんらかの組織もしくは構造を作る。これは生命に始まったことではない。全宇宙の泡構造に始まり、銀河や銀河団が構成され、それらは互いに合体離散をくり返す。極微の世界では、宇宙の晴れ上がりとともに原子や分子が形成され、それらがさらにまとまって恒星や惑星を形成する。恒星には誕生から死までの、一定のプロセスが仕組まれている。それは生命におとらず、物質の代謝といってよいのであろう。恒星は超新星爆発を起こして、大量の物質を空間に放出し、そこから次の世代の星が生まれる。これは比喩的以上に、自己再生産といってよいであろう。生命のパターンは、すでに無機的自然において確立しているのである。それでは生命の特異性はどこにあるのであるか。
 結局、生命とそれ以外の物体との違いは、無機物から有機物への生成の過程における複雑さの程度としか言いえないのではないか。それゆえに、生命の発生はこの宇宙では非常にまれであるとされる。生命の発生する偶然的条件が、あまりにも確率的に低すぎるのである。この銀河系には一千億の恒星があるとされるが、生命の生まれる条件を備えた惑星はわずかであり、人類ほどの文明にいたる惑星は各銀河に一つか二つであるという見込みもなされている(*注)。しかし宇宙は無限であり、無限の銀河や星があるのであるから、宇宙全体では生命はありふれているといえよう。自然の豊饒さ、途方もない無駄を考えるならば、生命もまた確率の産物としていくらでも生まれてくるであろう。
 (*注:最近の発見では、銀河系の星の三分の二を占める赤色矮星に、無数の地球型惑星があることが分かり、生命の誕生の確率は飛躍的に上がったようである。)
 人間が生命であることが特異なのではなく、この宇宙が生命を生み出しうる構造を具えていることが、同時に人間の特異性なのである。その構造の産物が生命であり、人間なのである。そのような条件のもとで、人間は思索し、科学的・哲学的探究をおこなう。宇宙の構造化(structuration)は、同時に人間の思索や探究が、つねにその構造化の中でおこなわれているということである。あまつさえ、生命全般や人間は、生命独自の構造化を世界に対しておこなっているのである。その最も顕著なあらわれが<表象としての世界>であるといえよう。表象界はまさに生命独自の世界認識であるといえるからである。
 生命の初期の段階からある種の微小な知覚が形成されたことであろう。それは物理・化学的反応と区別しがたいであろうが、個体が他の個体と関係する仕方の自己自身への反映が知覚の起源であるとするならば、まさに自己保存もしくは自己所有(auto-possession)が表象の起源であるといえよう。単一な物理・化学的反応は本来は無意識で自動的なものである。DNAや遺伝子のレベルでは、生命はまさにそのようなものであろう。そこには構造化はあっても、表象はない。表象はさらに複雑に組織された原子・分子レベルでの物理・化学反応であろう。しかし表象を物理・化学的に考えることにはあまり意味がない。表象そのもの(Vorstellung als solche)が問題なのである。表象は生命が独自に構成し、構造化した世界である。それ自体として世界そのものなのである。あるいは表象を夢のようなもの、幻影として考えることも可能である。それは世界の本質そのものではないのであるから。生命が発生しなければ、そのような世界は存在していない。数十億年にわたって、生命の夢見る長い幻なのであるかもしれない。しかし世界はそれが幻であろうと実体であろうと、世界自体が生成し滅びるものであってみれば、表象の世界ばかりが夢・幻であるとはいえないであろう。
 この色彩鮮やかな、さまざまな形態と音と香りと味覚と触感に満ち満ちた世界は、生命にとっては確固として実在する。生命にとってはそれ以外に生きる世界はないからである。そればかりか、まさにその表象界が生命の構築物であり、バベルの塔であり、この世界そのものだからである。この世界の本質が何であるにせよ、生命はみずからに可能な仕方においてのみ、それを表現する他はなかったのである。それが生命にとっての本来的意味での、世界への<適応>であったといえよう。その適応ははなはだしく能動的であって、万物を生命にとって都合のよい姿に構成し、組織し、構造化したのである。それは単に日常的な知覚の世界にとどまらないであろう。眼や耳や皮膚がとらえる世界が<色即是空>であることは、少し思索すればだれにも分かる。色彩が光そのものでなく、音が空気の波動そのものでないことは、科学的思考との二重意識において誰もがわかっている。しかし、それだけにとどまるだろうか。
 科学的真理について考えてみよう。自然科学は概念の世界であり、すなわちその法則や原理はすべて、いわゆる<二次表象>からなっている。日常目にする世界は色彩や音や形態やの、直観的印象からなっている。それらの想像力において抽象された表象がいわゆる概念であり、自然科学や哲学はそれを相手とする。自然科学の究極の概念は数式であり、世界の数式化が自然科学が究めうるこの宇宙の究極の姿である。しかし数式は、そもそも数学は、生命のこの世界に対する構造化をまぬがれているのであろうか。本当にこの世界の本質は、ピタゴラスが夢見たように数式で書かれているのであろうか。数学もまた生命の見る夢の一部ではないのか。たとえ生命がそれらの数式、概念を<イデア界>から借りてきたとしてもである。<イデア>こそ、まさに生命が構築した世界ではないのか。物の本質にイデアを読み込むことこそ、まさに生命のソフトに他ならないのではないか。
 同じことは概念で構成される形而上学についても言えようし、宗教についても、とくに神観念についても言えよう。宗教的自然観はとくに素朴であって、生命の世界に対する構造化を、最も明瞭に示している。生命の基本認識である表象界を説明するに当たって、人間は自然界を神としてあがめるという、独特の構造化をおこなった。天体や気象やの自然現象を、自分らの生命に強力な影響を与えるものとして、理解可能な形での摂取と組織化をおこなったのである。この段階では神は直観的な表象と結びついている。太陽崇拝が種としての生命の共通の課題となり、それが集団内や、集団間の儀礼を通じての社会的紐帯として意識されるようになった(例として<ストーンヘンジ>)。それが進むと、もはや神観念は真実であるかどうかの問題よりも、社会的組織と秩序の課題となり、種としての生命にとっての必要な構成物と化していった。人類は種としての自己保存にせまられて、神の観念を作り出したのである。神が存在するかどうかは、二の次なのである。神は生命が世界の構造化によって生み出したのである。
 この世界の本質は生命によっては解き明かされない、というのがこの論の趣旨であり、問題の提起である。かといって、科学以外の方法によってそれが可能であるという安易な主張をするわけではない。宗教も形而上学も、同様に世界の本質を究極的に説明することはできないであろう。この世界の一産物である人間とその知性が、世界そのものを根本において理解できるであろうか。神を信じることと理解することとはまったく別である。信じることは生命の特性であって、神を信じたからといって、それが世界の本質について、なにごとかを物語るわけではない。信仰は恩寵であるならば、その恩寵もまた生命の賜物である。それならば生命がすべてなのであるか。人間にとってはそのとおりであろう。生命はいわば釈迦の手の平であって、そこでいかに科学や哲学や宗教をいとなもうと、生命の範疇を乗り越えることはできないであろう。ここで生命の範疇というのは、とりわけて<表象としての世界>であり、いまだこの世界を乗り越えたものはいない。生死界を超えたとされる釈迦は一体どこにいるのであるか。釈迦もアルラーも目に見ることはできない。彼らは生命の領域を超えた世界の本質の象徴である。それ故になんらの具体的な性質をもたない<空>にすぎないのである。
 さきにプラトンの提起したイデア界は、この世界を超越したものではなく、すなわちこの世界の本質そのものではなく、生命の構成物ではないかという疑いを述べた。イデア論にしたがう形而上学は、アリストテレスからドイツ観念論にいたるまですべて釈迦の手の平に踊らされてはいないか。かりにイデア界が超越的概念もしくはこの世界のひな形の世界であるとしても、それを生命が純粋な形で応用するとはかぎらないのである。プラトンもまた、この表象の世界はイデアの影を映したようなものとみなしている。しかし純粋なイデアとこの世界とが、どのような関係にあるかは、生命の立場からは決して知ることができないであろう。生命はそれを構造化することによってしか知りえないのであるから。同じ難点は<自我>についても言いうるのではないかという指摘がなされよう。それについて、最後に考察する。

(以下2021・3・12改訂差し替え)

 自我の超越性をどのようにして証明できるのであるか。そもそも自我=自己意識は生命とともに発生する。生命がなければ、少なくとも自我は表象の世界においておのれを見いだすことはない。自我はどのような表象であろうか。すでに何度も論じたように、通常の自我は身体表象と密接に結びついている。<わたし>とは私の身体内外のさまざまな印象や観念の集まりであり、それ以外に私と呼べるものはない。これが身体的な自我意識である。端的に言えば私とは私の<意志>の発現であるといえよう(思考もまた思惟する意志において意志に含められる)。このような私は、生命すなわち<生への意志>の一構成物に過ぎないことになろう。さらに、私はたえず意志することにおいて、ここに現われるのであり、私自体についての端的な表象は、私の中のどこにも見いだすことはできない。これはすでにヒュームが指摘したことである。いかに表象を積みかさねても、そこにはつねに印象や観念と結びついた私以外には見あたらないのである。そうしたものの集合が私なのであるか。この難点を、不可視の認識主観によって解決することはできても、その認識主観は私の私である必要はなく、誰の私であってもよいのである。自我の自我たる所以の、私の唯一無二性は、そこには排除されている。認識主観こそ、まさに生命の構成物、構造化の基本機能であるといってよかろう。それによって私の認識は、つねに対象としての事物にむすびつけられているのである。
 <わたし>についての本質的表象が見いだされないならば、そもそも私の独自性、唯一無二性の意識とはなんであるか。独自の表象がないところに、なぜそのような意識が生じるのであるか。あるいは私の独自性、唯一無二性が意識されるとすれば、それはどのような内容なのか。私が私であるというのは、論理学でいう同一律にあたるが、同一律は単に言語上の主語述語関係に還元しうる、客観的な<思考の法則>である。そこには意識は関与しない。私が私であるのはA=Aの単なる同一律ではなく、私がわたしであることの<発見>であると言えよう。それは論理でもなく、思考でもない。私が私の身体と重なっているときには、この発見はない。私の身体から私が分離することによって、私は私である私を見いだすのである。このいわば自己分裂が、私の存在の独自性の意識であると言えよう。私として分離しているこの私は、私以外の何ものでもない私そのものなのだ。その意識内容は、これが私であるとしか言いようがない<わたし性Ich-heit>なのだ。それは何ものとも取り換えようがなく、何ものとも関連づけられない故に、唯一無二なのだ。それは対象ではなく、意識そのものである故に、もはや表象界に属してはいないであろう。それ故に世界意志の産物でもないのである。しかし意志と表象の世界において意識も発現するのであるから、自我意識の発現の場もどこかになければならない。意識だけが表象からはなれて存在することは考えにくいからである。対象の意識ではない意識が発現するには、対象としての表象であってはならないであろう。対象性からはなれた表象、いわば表象自体において発現する意識があるならば、それが純粋な自我意識であるといえよう。すなわち<純粋観照>において自我意識もまた発現するのである。
 ひるがえって、私の意識の独自性、唯一無二の特異性は、生命にとってどのような意味を持つのであるか。それはその主張が、どのような効果を生命にもたらすかを考えればよい。生命にとって最も重要なのは、その持続であり、種の保存である。個体の生命は種の存続のための戦略のこまに過ぎないのである。そのかぎりでの個体の独自性がゆるされているに過ぎない。たとえば個体が<利己的な遺伝子>によって、自己の遺伝子を優先的に残そうとする場合である。雄が他の雄の子を殺す場合などであるが、これは種のレベルにおいての個の役割である。
 そのような生命の絶対命令にとって、個体の意識に特異性を与えることは、二次的な意義しかなかろう。人間社会で<エゴイズム>がつねに排斥されるのもそのためである。すなわち私の特異性、唯一無二性は、生命にとっての敵対的、消極的な意味を持ちかねないのである。こうした反生命的な私の意識の存在は、かりに生命から発現したにせよ、生命とは別の次元にあるといえよう。古代人は、この世の生命ではなく、永遠の生命と結びついた魂を考えたが、古代においては、いまだ魂と肉体との分離が充分ではなかった。そもそも生命から切りはなすことができなかったのである。反生命的な思想としての<自我>が誕生するには、生命の本質についての洞察が必要であった。肉体から分離した自我は、もはや<世界意志>ではなく、かつ生命的世界を現出する<認識主観>でもない。それ自体で独存する、ある種の絶対者、超越的存在であることを自覚する。この自覚は上に述べたように表象自体(Vorstellung an sich)に与えられている。私が私として存在していることの直接的明証性は、疑いえないからである。
 さらに表象界との関係においては、自己意識のないところには、表象世界の意識はない。私が意識へと到達するがゆえに、この世界は表象の世界として発現するのである。さもなければ表象の世界は、無意識の構築物である。生命は何ゆえに私の意識を必要とするのであるか。生命界は圧倒的に無意識の世界であり、それゆえにはなはだしく効率的である。そこに私が意識として発現するのは、生命とは別の理由があるだろう。私はこの世界の観察者となり、場合によっては判定者となる。私は本来この世界にいなくてもよいものであり、この世界に自在に出入りするものでもある。その意味で、超越的であり、唯我独尊である。ある種の神のごとき存在であると言ってもよかろう。しかし私自身は世界の本質ではない。その一部として参与する、あるいは参与を要請されている、なにものかである。それ故にこの世界においては苦しみを受け、死すべき存在なのである。しかし私は私自身に返ることによって、この世界の苦しみも喜びも超えて、寂滅の世界へおもむくことができるだろう。それが自我の存在の究極の意味であろう。

2018年1月3日(水)
形而上学と量子論
自然科学の究極の理論の一つである量子論(量子力学)と形而上学(とくにショーペンハウアーの形而上学)の間には、ある種の親近性が見られる。いくつかとりあげてみよう。
 量子論の非日常的な考え方の中でもっとも特徴的なのは、粒子(量子)が個体性と波動性の両面を持つということと、運動(時間)と位置(空間)とは同時的に決められないという不確定性である。この問題の中心的概念となるのは、<観測者>というものの存在である。量子の存在の確率を表わす波動が、観測した瞬間に一個の粒子として現われる。この二面性を生み出しているのは、観測するものの存在であるとされる。これを意識の存在が、現実の宇宙、すなわち通常の力学にしたがう個物の世界、を生み出していると考える物理学者もいる。<意識>が宇宙を造っているのであると。
 ここで観測者ということを厳密に考えてみると、これをショーペンハウアーの表象論に当てはめてみるならば、個物の世界である宇宙は、対象すなわち客体・客観(Objekt)の世界に当たり、それの相関者は主体・主観(Subjekt)である。この主観なるものは、自己意識においては決して現われてはこないものであり、いわば透明な機能である。もし観測者が、この世界と波動方程式で表わされる世界とを区分けする原理であるとするならば、それは無意識の先天的、もしくは先験的働きであり、意識とは無関係なのである。量子論的に言えば、主観すなわち観察者は波動と粒子との世界を分かつ先験的Formである。この点で、観察者を意識から引き離し、粒子間の単なる相互作用とする物理学者の考えに近い。観測する装置さえあれば、この世界は波動から粒子としての変貌、もしくは相転換をとげるのである。
 ところで、<表象>の世界はショーペンハウアーによれば、principium individuationis(個体化の原理=時間・空間)によって、個物として現われた世界であるから、波動関数で表わされる確率の波としての世界は表象ではない。しかし波動の量子的世界はまた、表象もしくは現象の背後にあるとされる物自体(Ding an sich=世界意志)の世界でもない。波動の世界は、少なくとも速度(時間)か位置(空間)かのどちらかを定めることができるのである。時間・空間は表象のFormであるから、波動の世界は物自体と表象との中間にあると言えるであろう。物自体=宇宙意志は時空を超越している全体者(Ganzheit)であり、あらゆる認識のFormである<根拠命題 Satz vom Grund>によってはとらえることができない。
 量子的世界の粒子と波動との不可解な二重性を避けるために出された理論に、多世界解釈(いわゆるパラレルワールド)がある。観測者が観測したとたんに、波動が粒子に変身するのではなく、観測するごとに別の世界が分かれると考えるのである。世界は確率的に可能な数だけ、無慮無数に存在する。たまたまその一つの可能的な世界に、いまこの時この場所に、無数の私の中の一つとして存在していると考えるのである。ほんの数個の粒子が相互作用しただけで宇宙が分かれるのであるから、実に途方もない数の宇宙が時々刻々生まれていることになる。しかもそれらの宇宙間にはなんの相互作用も働かない、隔絶した世界なのである(その連絡路としてワームホールのようなものが考えられてはいるが)。
 しかしこの多世界解釈にはいくつか矛盾がある。もし私が何かの行為をするごとに、世界が二つに分かれていくとするならば(私がその行為をしなかった世界、あるいは私がその行為を失敗した世界、など)、私という存在は、誕生して以来無慮無数の世界に分かれて存在しているはずであるが、なぜこの世界のこの私でなければならないのか、その理由が明らかにならないことである。私としては、できればこの世界の私でないことを願うのであるが、何ゆえすべてが成功した世界の私ではないのか。私という自我が存在しなければ話は簡単であるかもしれないが。すべての世界は少しずつ違ったコピーに過ぎないであろうから。
 もし私が少し変わって私でなくなるならば、今も私は時間的に変化しているのであるから、すでに一瞬前の私とは異なっているはずである。パラレルワールドでなくても、私は常に私ではなくなっているということになる。しかし、やはり私は私である。このことは、もし多世界解釈が正しいならば、自我についての根本的洞察をもたらす。自我は量子力学的影響を受けないのである。自我は少なくとも、粒子でも波動でもない。個物でもなく波動方程式で表わされる存在の確率でもない。唯一無二であり、全体者なのである。その点では物自体にひとしい存在である。それでは、多世界として分岐していく他の私であるとされる、無慮無数の世界における私とは、一体どのようなものか。
 ここでライプニッツのモナドロジーを想起すべきであろう。この世界はそれぞれが隔絶した宇宙であると言える無慮無数の意識原子(monade)からなる。私は一つのモナドであり、他の存在物、物体、生き物、人間等、すべての他のモナドは、他者であり、他の宇宙であり、それらとの間には一切の関係がない。ワームホールすら存在しないのである。私が量子力学的確率の波にしたがって、時々刻々、無慮無数の併行世界を生み出しているとするならば、それらの世界は私自身の世界ではなく、他我の世界もしくは非我の世界であると言ってもよいのではないか。私自身の生み出した世界であるから、互いに隔絶した世界であっても、私はそれなりに他の世界を理解できる。特別に予定調和などは不要である。言ってみれば、他の世界、他のモナドは、私の少しずつ異なった分身に過ぎない。それぞれの宇宙が自我を持つであろうが、隔絶した世界であるために、もはや私自身としては意識されないのである。私は母なるモナドであり、世界意志と合体して宇宙を自己自身から生み出すものとしてのMatrixでありFormである。
 私という自我があり、そこからシャボン玉のように無慮無数の宇宙があわだち生まれる。措定したり定立しなくても、自我は波動関数の確率的可能性にしたがって、無慮無数の非我や他我を生み出していく。フィヒテやシェリングの観念論が骨折ったことが、いとも容易に実現していく。しかし自我は全能ではないであろう。あくまでもFormなのであり、その唯一無二の絶対性において、この宇宙の創造者であるに過ぎない。この無限の多世界的宇宙を生み出す根本の力は別の本質であり、それをショーペンハウアーにならって世界意志(Weltwille)と呼んでよかろう。さらにプラトンに遡るこの世界の理性的本質であるイデア界が加わり、三者のTrinitaet(三一体)が、いわばこの世界の<神>なのである。