2018年9月2日(日) |
自我とイデア界の接点 |
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自我と意志の接点については、すでに論じた。世界意志がその個別化において、個の存在者を必要としたこと、そして生への意志が、個体の存続をはかるために、自我の強化を行なったことを、自我のこの世界における存在の二つの根拠とした。自我自体が世界意志の産物であるかどうかは、世界意志が本来盲目的な、すなわち、認識のない、無意識の、無限にして、絶大なエネルギーであるという、形而上的本体論からして、意識的存在である自我とは、本質をことにすることから、両者の間には発生的関係はないといえるであろう。世界意志が自我の本体を生むことも、また自我が(フィヒテの学説のように)世界を生み出すこともないであろう。
世界意志(自然)とイデアとの関係については、古来から形而上学の中心問題であったので、特に論争史をたどる必要もないであろう。プラトン、アリストテレス、プロチノス、近くはショーペンハウアーの学説において、両者の関係は、超越的であれ、内在的であれ、一方だけでは世界が成立しえない関係として、探究されてきたのである。経験論のような立場においても、その唯名論にもかかわらず、論理や数学が、物質やエネルギーそのものではないことが、自明の前提とされている。そもそも概念がなければ、理論すら成り立たないのであり、たとえ概念の内容が起源的に経験、すなわち知覚から出でたとしても、概念を生み出す作用、あるいは思索そのものが、知覚の内容そのものとは別物であることは、否定できないであろう。
世界意志とイデアとの関係は、コンピューターのハードとソフトに例えるのが、もっとも分かりやすいであろう。世界は量子コンピューターであると考える、物理学者もいるそうであるが、この宇宙の発生において、根源的物理法則が同時に発生したと考えられている。インフレーションもビッグバンも、すでに宇宙発生と同時に、ソフトとして仕組まれていたのである。イデア以前の盲目の、絶大なる、潜勢的エネルギーである世界意志は、量子コンピューターとして発現するために、無慮無数ある可能性のなかから、確率的偶然によって、この量子宇宙というイデアの衣をまとったのである。イデア自体(ロゴス)は単なるソフトであり、何の力も持たない無力な存在であり、それ自体が宇宙を生みだすことはない。単に世界意志に目的性を与えるに過ぎない。世界は世界意志が偶然にまとう衣によって決定されるのである。
イデアは人間においては、思考として最も明瞭に現われてくる。概念がなければ、単なる感覚だけでは、自我の意識も生まれないであろう。概念の最初の形式は、自己と他の区別であるといえるのである。感覚に赤の表象が与えられただけでは、私はまだ赤の感覚そのものである。それはコンディヤックの言うとおりであろう。赤の表象を知覚している私の存在が意識されねばならないのである。この区別の知覚は、すでに概念の働きであるといえる。私を目醒めさせるものは、概念の働き、すなわちイデアのソフトによるものであるといえる。自我を目覚めさせるソフトが、この宇宙には具わっている、すなわちプレインストールされているのである。自我の発現がイデアとしてプレインスロールされているならば、自我そのものもイデアの産物、あるいはイデアそのものではないかと考えられよう。その点をさらに考察する。
イデアは実在論的に言えば、その本質において、単なる概念としての存在者である。宇宙は数や数式からなるとする、ピタゴラス派や現代の数学者の立場が、もっとも純粋なイデア論であろう。人間の思索や認識は、このイデア界に参与することによって成立する。またこの世界の万物も、設計図(形相因)としてのイデアの影を宿しており、それゆえに、人間の思索や認識の対象となりうる。自然科学が最も成功した学問であるのも、この故である。人間がイデアを概念として捉えることができるのは、すでにイデアのソフトが、人間精神に仕組まれているからであると述べた。自我の発現もまた、そのソフトに組み込まれているのである。しかしその自我の主たる働きは、イデアとの関係においては、もっぱら思索と認識の主体としての、先験的主観にあるといえよう。この先験的主観と、純粋自我とを、以前に区別したが、ここでくり返すと、先験的主観は、それ自体では認識の対象とはならない、無意識の機能的主体であり、あらゆる認識がなりたつための、先験的条件をなしている。それに対して、本来の自我とはあくまでも自己意識であり、意識そのものであり、存在者である。イデアにとって必要な自我は、前者の先験的主観としての自我であり、それによって個体の認識作用が、イデア界と結びつきうるのである。
イデア界にとって、自我が意識を持つかどうかは、本質的関係がない。人間の認識は基本的に無意識になされており、思索もまた、必ずしも意識が伴う必要はないのである。意識はただ単に、認識や思索の、モニターとして働くだけである。意識を伴う純粋自我の本来の役割は、別のところにある。意識とは自己意識であり、自我が自己自身へと反省的に働く時、そこに純粋自我が発現するのである。それはもはや概念でも、概念的に把握できるものでもなく、それ自体として独自の本質を持つものであることを、これまでにも強調した。ここにイデアを契機にして発現しながらも、イデアとは本質をことにする存在者が、自己自身に開示されるのである。この純粋自我としての<わたし>の存在の宇宙的使命については、以前に述べた。生への意志の否定または肯定における、この宇宙の存在の判定者としての資格を、純粋自我は与えられているのである。さもなければ、この宇宙についての価値的判断などはナンセンスなのである。
ここでイデア論との関連で、自我が脳の機能の産物であるという科学的見地の吟味をしてみよう。そもそも自然科学は、感覚もしくは知覚の<事実>をもとにした、概念的把握による世界認識の仕方である。単なる事実だけでは科学ではなく、事実を分類し、分析し、綜合する概念の操作によって、科学の知識体系が成立するのである。脳の神経細胞の働きや機能についても同様であり、そもそも神経細胞というのは、一つ一つの事実であると同時に、それらの事実を抽象した概念的構成物なのである。事実を概念化できるということが、科学の根本の前提なのである。それゆえに、もし意識や自我といった、<意識における事実>が、科学の対象となりうるならば、それらもまた概念としてとらえられねばならないのである。意識や自我が脳の機能の産物であるというならば、脳細胞とともに、意識や自我も概念として把握されていなければならない。しかし、意識や自我を単なる概念として、その構造や連関を明らかにした科学者はいないようだ。そもそもヒュームのような哲学者でさえ、意識や自我といったものが、単一な概念としては存在せず、単に概念をたばねたものとしているのであるから。科学によって、いかに脳の構造や機能が解明されようと、いろいろな認識作用が、脳の部位によって影響されていることが証明されようと、意識自体や自我自体といった、概念化し得ない意識の事実については、科学は何事も主張し得ないのである。今日におけるイデア論を代表する自然科学が、そうした限界を持つのは、そもそもイデア論自体に限界があるからである。
世界はそれぞれ本質をことにする、三つの要素からなることを、筆者は形而上学的自我の探究の中心命題とした。イデアと自我とは、おそらく最も根本的な要素である世界意志の絶大なる存在への意志の道ずれとして、この世界に発現を余儀なくされているのである。古代の哲学者はそれを<運命>と名づけたが、またそれを自然とも神ともロゴス(理性)とも呼んだ。それを自然と自我とイデアとに読み替えたのが、ここでの筆者の立場である。この<三一体>以外に、さらに超越的な存在もしくは原理があるかどうかは、たとえばプロチノスの<全一者All-Eines>もしくは<善一者>のようなものから、それらの三一体が流出するのであるかどうかは、もはや自我論の範囲を超えているであろう。自我が世界原理の一つであることを探究しえただけで、筆者の形而上学はよしとしなければならない。もし神という観念を、筆者が避けたことを不審に思うならば、それは次の探究の課題である、形而上学の究極の目的である、その実践に、神についての論究を委ねたからである。 |
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2018年8月25日(土) |
言語とは何か |
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言語とは自我の自己外化もしくは自己疎外(Selbst-Entaeuserung)であると、以前に述べた。この見地から言語の本質を探究してみようと思う。自我の自己外化(自己疎外)とは、私の身体のあり方であり、その意味で、言語は身体に近いものであるとも述べた。たとえば、私の身体の一部、私の手について例にとるならば、眼前にあるもの、あるいは触覚においてとらえるものが、私の手であると意識されるためには、その感覚もしくは知覚そのものが、私自身の意識を含んでいなければならない。すなわち、私は手という対象において、私の意識を客体的に見ているのである。私の意識を身体において客体としてみること、これがそもそも自我意識の発端であり、実のところ意識とはそれ以外のなにものでもない。意識とは対象において私を意識することなのである。自我のないところに意識はない。しかし特に自我を強調するために、自我意識と呼ぶことにする。
この自我意識は、自己自身を主客の関係においてとらえることであり、客体の中に自己自身を認めることである。感覚は本来、純粋な客観ではありえないであろう。「赤の感覚は私の存在そのものである」とコンディヤックが言うように、最初の感覚は主客が未分化であり、対象の客体化が生じるためには、私自身の対象化が必要なのである。それを可能にするのが、私の身体である。身体は客体でありながら、私以外の事物の客体化を可能にする原理なのである。この意味で、主観とはつねに私の身体であるといってよい。このことは自我認識においても貫徹されており、むしろそこにおいてもっとも明瞭に現われるといってよい。
身体はある限界をもったものとして現われる。この限界がなければ、対象化は不可能である。これはもっとも微妙な自己意識についても言えることであり、「考える我」もまたある種の限界をもった存在なのだ。「考える我」があるならば、「考えない我」もあるはずだからである。このような限界は、内面と外面とに押し広げていくことが出来る。今言語との関係で、外面にかぎるならば、感覚器官がそのもっとも外部の限界であろう。そのなかでも、音声器官と視覚とが、最も客観化を果たした外部身体であるといえる。音にはまだ主客未分化の部分がある。それだけに主観が触発され、意識されやすいのである。視覚は最も客観化を遂げた感覚であり、通常は、視覚の対象が私の意識を含むということはまれである(暗闇の中で遠近感が失われる時、対象が目に張り付いてくるように感じられることから、視覚もまた触覚の一部であることが知られる)。このように、身体における自己外化(自己疎外)とは、対象から段階を追って、自己自身の意識を排除することにあるといえよう。そこに客観としての外界、世界が生まれるのである。
さて、言語はストアの言語論によれば、外界にある指示物(Bezeichnende)と内界にある意味(Bedeutung)との二要素からなる(ソシュールのsignifiant と signifieにあたる)。指示物は基本的に音声であり、特定の音声を発することによって、それの指示する考えもしくは表象を、相手の主観に伝達することになる。ここではすでに相互主観が前提されているが、言語がそれの概念化を促進していることは疑いなかろう。今言語を発する立場から、このプロセスを考察するならば、なんらかの考えまたは表象が、それ自身にとどまらずに、なんらかの媒体で外界へと発出されるということは、本来他者から見えないものを、客体としてさらけだすことにほかならない。その場合最も客観化された客体である、音声または視覚の対象が、自己自身の内面のいわば憑依した存在として選ばれるのである。音声そのもの、叫びや歌は、私自身の客体化そのものとしてとどまりうるのであるが、すなわち私はそれらを私自身としてとらえることが出来、いわば私の身体の外縁とみなすことが出来るのであるが(たぶん鳥のさえずりはそのようなものであろう)、それが他者や他の存在にとって単なる客体として知覚の対象になる時、私の存在がそれによって現わしだされてしまうのである。私の声は私の声でしかないのである。私はそれを私の身体の延長とみなすことが出来る。(通常視覚によってとらえられる、形状や色彩などが、私の身体を代表しているが、単なる音声が同じように、私自身の存在を、そのありかを露呈することにおいて、やはり私の身体であることに違いはない。動物の赤子やヒナが、むやみに音声を発すれば、すぐさまその身体のありかを暴露して、餌食となってしまうのである。音声はいわば聴覚に対する身体である。)
この身体の延長である音声が、積極的に他者への伝達手段として用いられるようになる時、狭義の言語が生まれたと言えよう。私の声は単に私の声ではなくなり、私自身の内面を指示させる、客観物となる。その場合でも、その音声を発しているのは私であることが、直ちに知られるのであるが、それは通常は従属的な認知であって、私がその音声によってどのような概念を伝えようとしているのか、その共通の意味が言語を成立させる。言語が単なる主観的直知ではなく、概念的意味であることによって、主観の最も客観化された段階である、言語世界が生まれるのである。すなわち、言語は最も客観化された私の身体である。その意味で、もはや私だけの身体ではなくなっている。いわば、相互主観が身体を持つとするならば、それが言語である。相互主観の関係に入っていく、最も初期の身体的契機が言語なのである。
ここで言語における代名詞の働きを考えるならば、そのことがより明らかになる。<わたし>という代名詞は、実は私そのものではない。つねに他者に対する私なのである。その意味で、すでに客観化され、客体とされている私である。かつて、他者の存在、すなわち読者を考えずに小説を書くことができるか、実験したことがある。私という一人称を使う限り、それは不可能であることが分かった。ゆいいつ私にとっての客体であるためには、人称代名詞を一切使わないか、せいぜい<かれ>を使うほかはないのである。
「夢一つない深い眠りからのふいの覚醒は記憶があわただしく働き始めるまでの間怖れに似た空白の空間を持つ 意識の見つめるものが深夜の漆黒であろうと真昼のしらけた光であろうと一瞬間そこに妙によそよそしくかつふてぶてしい世界が凝視されることに違いはない それはあたかも意識の眼から不注意に仮象のヴェールが取りはずされたままに世界のあるがままの無意味さが垣間見られてしまったとでもいった当惑と不安に満ちた瞬間である 意識はそこに現われているものをおのれ自身の中に呼応する運動を見いだすことによってすでに親しいものであるとする安堵を求めようとする 意識と意識に侵入するものとはこうして馴れ合うことを学び あたかも認知することが存在のすべてを尽くしているかのような錯覚のヴェールをおのれと事物とに投げかけるのである 意識は物との共犯の中に生きる 事物を馴致することで事物に馴致される 物とおのれとの間の底なしの淵を一瞬でも意識することは世界が根柢から意味を失うような不安を覚えさせるのである 意識は覚醒しつつ夢見る 夜遊病者の崖ぶちを怖れることなく歩むように存在の深淵にかかる幻の橋を踊りつつ行く」(「公園」より)
このような無人称小説であっても、言語の機能は少しも損なわれていないのである。それは言語が私自身の身体であるからには、当然のことである。しかしこの身体は、その発生においてはいざ知らず、私自身から自発的に生まれたのではないのである。私はそれを相互主観の世界において見いだす。それは単なる動物的相互主観ではなく、概念を媒介としているところに、自我のもっとも客観的な自己外化である特長がある。このような、もともとの情動・情緒的な伝達から、概念の伝達が可能になったのは、どのような発生的メカニズムに基づくのか。言語が論理的思索から生まれたのではないことは確かである。むしろ後者は前者に依存している。言語がもとから概念的でありえた理由としては、エピクロスとストア派のProlepsis(前概念)の考えが参考になる。Prolepsisとは、
「エピクロスは概念に先立つ、ある一般的表象を考えている。それは持続性があり、一種の一般化によってえられる限りにおいて、概念に対応している。しかしその際に、概念の定義において、区別(種の特徴の確定)や結合(類への分類)によってなされるような、理論的正確さをもってする、真性の抽象が問題なのではなく、感性(Aisthesis)そのものを通じて行なわれる、心像の劣化や脱落にもとづく、固定化の過程を問題としているのである。絶えずくり返し、同じ仕方において、‘今において’現われる知覚像は、最終的に記憶において記憶像としてとどまる。・・・これまでまったくの流れ去るもの、はかないものと見なされていた身体的感性のなかにも、持続する存在者(ein im Sein Beharrendes)が形成されるのである。――すなわち記憶像として持続する‘馬’という一般的表象が。エピクロスはそれをProlepsisと名づける。それはいわば、概念の前形態もしくは先取り(Antizipation)であるから。・・・『たとえば、われわれが<人>という時、ただちに感覚の導きのもとに、人の外形(心像)が表象において現われる。そのように、各単語ごとに、その根底に本源的にある知覚が、記憶像として明瞭に現われる。われわれが探究しようとする物事は、それがすでに知られているのでない限りは、まったく認識できないのである』」(H.Glockner:Die Europaeische Philosophie, s.216-217,Reclam)
言語は何よりも感性的産物であることが、ここに強調されている。思索以前に、言語は感性的に、しかも前概念的に、形成されうるのである。思索が成り立つためには、まさに感性において、すなわち言語において、そのあつかう概念がすでに知られていなければならない。したがって、人間は、その感性においてすでに知っていることしか、思索し得ないということになる。それはさておき、言語は自我の身体であるという立場からは、音声という感性的存在物と、感性の産物であるProlepsisすなわち一般的記憶像とは、容易に結びつきうるであろう。一方は外界に向けて発せられ、他方は内面のプロセスではあるが、ともに感性的であることによって、内面の外化・客体化が速やかな連合によって行なわれることであろう。そのようになされる、内界と外界の合体した客体化は、いわば客観化された自我そのものであるといってよかろう。自我は身体という異様なものにつつまれている。その異様な関係が、そのまま言語においても実現されているのである。自我は意味と名を変え、それをつつむ身体は音声である。意味がどのような音声と結びつくかは偶然であり、それは自我がどのような人物を親とし、どのような身体を自己のものにするかが、偶然であるのと同様である。意味は音声から生まれないのと同様に、自我は身体から、もしくは親からは生まれない。意味が音声を偶然に選ぶのであり、自我は身体において偶然におのれを見いだすのである。
このような自我の自己客体化・自己疎外としての言語は、その根本の衝動において、自我の根底にある生への意志、とりわけ類への意志に支配されているといえよう。自己客体化を遂げた身体としての言語は、もはや私だけのものではないのである。そこに成立する相互主観が、私に代わって言語の主体となる。私の身体が他者にとってMerkmalとなるように、私の発する言葉は、私の内面のMerkmalとなる。他者が私を支配するために、私の身体を拘束するように、他者が私の内面を支配するには、私の言葉を拘束し、さらには、これが言葉の最も重要な働きであるが、私の内面を言葉に従うものに改造するのである。それが、すでに私の客体化を越えた、一般化された自我としての、超自我の役割である。言語は究極的にこの超自我を形成してゆく。超自我は類的意志そのものとして、人類の上に君臨する。まさに言葉が人類にとっての神なのである。歴史的にも、支配者はつねにその‘ことば’によって、その類的意志を知らしめたのである。この超自我としての言語については、神観念と並んで、自我論の最後の克服すべき課題となる。 |
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2018年8月21日(火) |
希望について(その2) |
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「希望がなければ、心は冬の泉のように凍りついてしまうだろう」(ホーソーン)
希望の根底には、今日あるごとくに明日も存在しているはずだ、という期待があると述べたが、この点についてさらに考察を進めてみる。この時間に対する手放しの信頼は、生命が数十億年むかしから連綿として続く化学反応であることに、その根底があるであろう。生命は未来への絶対の信頼に基づくものなのである。それは物質的であることによって、無意識のメカニズムであるが、それが意識に反映することによって、期待や希望という心的態度となって現われるのである。
生命は物質の化学的反応であると同時に、個体の保存、類の存続として現われる連鎖反応のメカニズムであることから、精神現象もまたそのメカニズムの根底の上に成り立つ以上、生命の法則にはずれることはない。時間と関係した意識のもっとも顕著な現象である希望は、、連鎖反応を可能にする時間的メカニズムにしたがう生命現象そのものの反映である。あらゆる欲望、願望、本能の充足、それらはすべて時間における実現を目指しており、それらが単なる欲求、願望として実現に至らない間は、それらの精神化した希望にとどまっている。もし生命現象に何の無駄もないとするならば、生命欲から生まれた希望もまた、なんらかの生命的必然性を持っているはずである。欲望や欲求を観念化することは、知的生命体にのみ可能なことなのであるが、希望が単なる願望にとどまるのではなく、未来に対するなんらかの計画や実現可能性に対する考慮を伴うことによって、それは未来のあり方を確実にする、生命にとっては好都合な能力となるのである。それを本来の希望と呼んでよいであろう。未来に対して何かを企てることのない単なる願望は、消極的な運命への服従であり、それに対して希望は未来を形成しようとする積極的意志であると言える。この積極的意志の働かないところでは、希望は何の意味もないのである。希望は同時に行為であり、あるいは行為へと動かす力である。どのようなささやかな期待であっても、明日を作ろうとする努力である。
今日あるごとくに明日もあるであろうという期待が、つねに裏切られる可能性にさらされているところに、また希望の希望たる、理念性がある。それを古代人は運命や宿命と呼んだ。個の存続が危殆にさらされている時、どのような希望が可能であるか。明日処刑されたり、なんらかの人生の破綻が生じる時、希望の反対である絶望以外にないのではないか。それでも、死の瞬間、破綻の瞬間までは、生命は時間に期待をかけ続けている。あるいは、死や破綻を超えた、新たな希望を生み出そうとしている。希望は死や苦痛そのものさえも、克服しようと願うのだ。死や苦痛が恐怖であるならば、その恐怖を恐怖と感じなければ良い。そう古代の哲学者は教える。今平静な心が生まれるならば、たとえどのような事態が生じたとしても、たとえ時間そのものが停止したとしても、それを克服する希望が生まれる。時間の中にある生命は、時間を超えて存続する可能性を生み出すのだ。そのことに気づいたのはソクラテスであり、プラトンであり、古代の賢人たちであった。彼らにとって、個体の存続は類としてのそれではなく、まさに個そのものにおける永続の可能性であった。
生命において永遠に存続するものは、類であって個体ではない。個の複製が類の存続であるが、複製された個体は、もはやもとの個の存続ではない。個体は限られた時間における存続を許されており、一定の期間ののちの消滅を運命づけられている。この生命における個体の従属性、無常(Hinfaellichkeit)が、個体の存在の時間における不安定性を生むのである。永遠なのは物質宇宙や生命や、人類や国家といった類であり、全体であり、時間もまた、この全体や類にとってのみ絶対の価値を持つものとされる。そこから、すなわち個体の無力感から、本来個体のものであるべき<希望>を、類的全体に譲り渡してしまうという、全体への意志への服従も生まれてくるのである。存在の意義は、個人ではなく、全体へ、神や国家や民族への帰属に求められてしまう。<希望>とは、本来人類や社会が存続することに置かれるのではない。個としての生命が、明日もまた今日のごとくあるのを願うのが、生命の根本の原理としての希望なのである。その個の生命を放棄したところに、希望は無いのである。米軍に追いつめられて、子とともに崖から飛び降りる沖縄婦人の、どこに明日への希望があるのか。
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未来はもっとも不確かな時であると、古代の賢者は教える。もっとも明証性があり、唯一の現実である現在に生き、おのれ自身の不安定な過去ではなく、いにしえの叡知の集積である過去の精神的遺産に最も価値ある時を見いだすようにせよと。そのもっとも不確かな時である未来が、実は最も生命にとって根本の意義を持った時なのであることが、希望の分析によって明らかにされるであろう。すでに述べたように、希望とは時間に対する絶対の信頼なのであり、これなくしては生命は存続し得ない。未来は不確かであり、基本的に見通しが利かないことによって、生命を未来へと押しやる少なくとも理念的動因となるのである。ここに意識における意志の自由の錯覚も生じるのであるが、すくなくとも人生は結果的には決定されていても(それを運命と呼んでよいだろう)、事前にはあたかも不確定で、自由な選択が可能であるかのように思われるのである。希望はこの不確定性に対する意識の反応であり、結果においては<運命>を見いだすのである。その意味で、希望とは良き運命への願望であるとも言えよう。人生の終りにおいて、おのれの人生を見渡す時、そこに見いだされるのはある必然性であり、環境的・境遇的・素質的条件によってどう変えようもなく決定されていたことに気づくであろう。その運命、ストアで言う<神慮>を、肯定しようと否定しようと、それを甘受するほかはないことに違いはない。人はどのように希望しようと、その希望自体が、実は運命的なのである。
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個体の生命には限りがある。希望はいつか裏切られる。それが個体の死である。個体の死を超える希望は、少なくとも個体が生命体である限りは不可能である。個体は個体を生むことによって、種としての生命の存続をになう。別の個体、次の世代に、種としての生命の存続に希望をかける。生命とともに、希望もまた次の世代にバトンタッチさせるのである。少なくともそのような希望を、個体は次の世代の個体にかける。そのようにして希望を持続させようとするのである。そのような種の未来にかける希望、類的希望は、果たして真の意味の希望なのであるか。子孫が繁栄したり、人類が発展したりすることを願う希望は、個体が明日の存続のために願う希望とは、生命のあり方において根本的に違っている。個体の希望はあくまでも自己保存にもとづいており、自我の完全なる展開を望んでいる。類的希望は自我の生命力の減退による、<自己犠牲>や自己否定にもとづいた、いわば絶望の反転なのである。自己自身の生命の価値をもはや望めなくなる時、人は身内の生命に、さらには民族や国家の存続に、価値を置くようになる。自己自身を生命的に無化することによって、類的生命の昂揚に預かろうとするのである。そこにはもはや個としての希望はないのである。もしあるとしても、それは名誉や名声といった、まったく個体とは別の次元にある、類的記憶や想像の世界に、おのれを永遠化しようとする、生者の最後の希望のあがきなのである。
純粋な希望は個としての生命にのみ積極的に表われる。それは明日といわず、今この時を生きるための生命力をかきたてる、個体の根本的願望なのである。その願望が未来へと個体の生命を躍動させる。死の直前まで、個体は未来的に生きつづけるであろう。それは決して死を受け入れないであろう。まして他者のために死ぬことなどはない。自我の不滅の信念も、まさにこの死を克服せんとする根本的な願望に支えられているのである。逆説的であるが、死を超えるには生命力が必要なのだ。そのことが可能になるのは、もともと自我と生命とは、この世界の根本原理として、抜き差しならない関係にあるからである。自我=個体=生命は、個としての現象において、すなわち個別化Individuationにおいて、初めて結びつきうる。自我が個体を離れ、生命を離れる時、その分離の原動力もまた、生命自体がネガティブに担っているのであり、自我はそのエネルギーをポジティブに用いるのである。自我の究極の希望は、そのエネルギーを用いて、おのれ自身の本質的存在に帰ることである。それが自我にとっての死の克服であり、この世界からの解脱である。
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希望は、今日あるごとくに明日もあるはずであるという、時間への絶対の信頼に基づいた信念であるという命題を、以上のように展開したが、それが状況によって様々なヴァリエーションを生むことも述べた。単なる現在的存在であっても、すでにそれは単一の現在ではなく、すなわち点でも断面でもない、連続であることを、生命の観点から明らかにした。生命は本来的に未来を志向するプロセスなのである。この観点から、現在と過去という時間について、その本性を考察するならば、希望という意識現象の時間におけるPrimatがさらに明らかになるであろう。
現在は感覚的意識、すなわちエピクロスの言うAeshtet(感性)においてのみ現実的に与えられており、人間の意識はそれ以外に実在の場所を持たないばかりか、感性がもっとも確実な存在なのである。この現在の安定性の根底には、個体の生命における物質的安定性、すなわち生理学で言うhomeostasis、あるいは心理学で言う<恒常性>が大きくあずかっていよう。個体は現在という時間的持続において、つねに同一であろうとする、物質的・生命的根拠を有しているのである。その現在にどっぷりとひたって、快や苦や、さまざまな欲求・情動・情念が現われては消える。その限りでは、人間はじめ動物は、徹底して現在的存在である。この現在的生き方では、苦へと導くものを極力抑えることが、人生のWeisheit(生きる知恵)となる。そこから生まれる快とは、その意味で消極的なものである。適度に欲望(すなわち快の欠如としての苦)を満たし、苦となる原因を排除する。これがエピクロスやストアの幸福論であった。快はもっぱら現在における充足であるから、現在が最も重要な時となる。
しかし現在によっては満たされる状況にない快も多々ある。その充足は未来に求めるほかはないのである。欲望が大きければ大きいほど、快は未来に先延ばしにされる。それは未来の不確かさによって、場合によっては愚かな延引となる。また逆に、期待によってより大きな快ともなりうる。簡単にえられるものよりは、苦労してえられるものの喜びは大きいのである。また、不確かな未来に備えて、未来の快を保障するものとしての、いわば快の備蓄がなされる。現在の快を抑えて、未来の快を保障するのである。このような現在の快の未来への投影をなさしめるものは、まさに生命の時間性にもとづく、実存主義の用語で言えば、未来へのEntwurf(企投)である。希望はその原理の一つなのである。
すべての快苦は現在にその場を持つ。その点では、現在が最も重要な時点であるが、その現在を時間において自在に移動させ、少なくとも観念的に投影すること、これが知的生命体の意識のあり方である。言いかえれば、知的生命体は現在に安んずることが出来ないのである。実のところ、現在的存在は、知的生命体にとっては退屈であり、ennuiをもたらす。一日中鎖につながれてのんびりと寝そべっていられる、犬の生活はうらやましくても、実際にはとても耐えられるものではない。それゆえに絶えずなんらかの快楽を、気晴らしとして求めるようになる。それにも肉体的・身体的限界がある。人間の胃の容量は決まっており、性欲にも無限の反復は不可能である。スポーツや娯楽にしても、やがて疲労がそれらを苦痛にかえる。今現在満たされる欲求や欲望には、限りがあるのである。その限度を越えようとすれば、快は苦に転じる。このことは肉体の快ばかりか、精神的快についても言いうるのである。一日中音楽を聞かされれば、やがてどんな音楽も苦痛になり、あるいは無感動になるであろう。刺激や興奮を求めれば、やがてそれらに対して鈍感になり、嫌気さえ覚えるであろう。これは肉体と精神の両方面に言えることである。快をセーブすること、それを未来にわけ残しておくこと、実はそれこそが節制の意義なのである。エピクロスやストアが言うようには、人間は快楽主義者であれ、禁欲主義者であれ、現在だけに生きることはできないのである。
過去についてはどうか。過去は単なる時間としては、、もはや現在として存在しなくなったあらゆるものを、その中に包含する総体としての時間を意味する。過去が過去として認識されるためには、記憶が最も重要な要素であり、それなしには時間意識そのものすらないであろう。その点では、未来は意識以前の生命のあり方であって、必ずしもイマジネーションを必要とはしない。リスはたぶん冬を想像せずして、どんぐりを貯めるであろうし、冬眠の準備をするであろう。生命そのものが未来を含んでいるのである。それに対して、過去は記憶されねば(少なくとも意識として)発現することはない。記憶においてはじめて時間意識が生まれるといってよいだろう。すなわちまず現在があり、そこから過去が発現する。過去の意識が未来に投影されて、未来の意識が生じる。
記憶とは記録であって、それは脳細胞であれ、石の上であれ、紙の上であれ、かつて起こったことの刻印である。脳における記録が、狭義の記憶であるが、いったん時間意識が出来上がれば、あらゆる過去の刻印が、記憶となりうるのである。この万物の記憶をとらえることが過去であり、時間における万物の復元が過去の想起である。過去は現在と較べて比較にならない厖大な時の記録を蔵しており、それはセネカの言い回しを用いれば、すでに確定したものであり、未来のように不確かなものではない。それを探究することはすでに与えられた対象を扱うことであり、同じく与えられていても、転変極まりない現在や、いまだ到来していない未来の事象を対象とするよりも、はるかに確実な知識が得られる。実のところ、人類の知識の大半は、過去の探究から得られているのである。人類がこの宇宙について知りうるのは、宇宙の現在の姿からではなく、宇宙に刻印された過去の記録からなのである。
過去はまた、生命にとって二重の意味を持つ。類的記憶と個にとっての記憶である。個にとって記憶の発生は、自己自身の存続の記録を脳細胞に刻むことである。これを個体発生の意識における記憶と言ってよかろう。個体の存在を時間的に記録もしくは記憶すること、これが個人にとっての過去である。これが最も根源的な時間意識における過去であると言って良い。一言で言えば、過去とは何よりも私の過去である。この意識がなければ、過去ばかりか時間意識そのものもないのである。私の存在の時間的記録の意識、すなわち私の人生の記憶は、私に何をもたらすか。それは私の現在との対比において、快よりも、より多く苦をもたらすのである。たとえ幸福な過去の追憶であっても、それがもはや過ぎ去ってないという意識において、苦の意識に変わるのである。快はつねに現在的であって、過ぎ去った快は、それが現在的でないことによって、もはや快としては、その反響のごときものでしかない。それが追憶のはかなさである。しかしながら、過去の幸福は、もし可能ならば、現在において再現しようという意志において、幸福の原点となりうるのである。たいていの場合、幸福の原点は幼少年期にある。幸福とは、もっとも幸福であった状態を再現しようという努力につきるのである。それが、個の人生における過去の究極的意味である。
もし個人の過去の記憶が、圧倒的に苦の記憶であるならば、忘却こそがそれに対して最も良い処置であろう。さいわい、記憶には忘れる能力が具わっているのである。現在的、さらには未来的に生きるためには、過去に対する防禦が必要なのである。もちろん、経験という意味では、過去は現在のあり方、未来の構築に対して、積極的な意義を持つ。しかしそれはたいてい苦痛に満ちた記憶なのであり、もし幸福が達成されたならば、何よりも忘却の対象とすべきものである。あの災い、あの不幸があったから、今の私があると、よく言われるが、幸福は不幸に対抗できるほど強力ではなく、不幸の記憶につねに対処していなければ、いつでも崩れ去るのである。
個にとっての過去、すなわち個体発生における記憶は、それがなんらかの外部記憶に記録されるのでない限り、もっぱら個人の脳細胞に記録されるに過ぎない。それは個人の人生以外には意味を持たないのである。それに対して、類の系統発生の記憶といってよい、類的過去は、なんらかの外物に刻まれた記録である。それらが個々の脳細胞によって解読されることによって、類の記憶となる。生命の連続が個体の存続によってになわれているように、類の記憶も、個体の記憶能力によってになわれているのである。類の記憶は、一言で言えば、自己以外の存在の記録である。生命が何故に自己以外の存在に対して、記憶の能力を持つか、それは個体としての自己の存在が、圧倒的に他の個体の存在によって制約されており、それらとの闘争または協力において、生命を維持するほかはないからである。それゆえに、たぶん記憶はまず類の記憶として始まったのであろう。その痕跡が本能と呼ばれる無意識の行為のパターンを生み出す、遺伝的記憶である。人類においては、言語が類の記憶の代表である。道具の使用、生活様式、風習といったものも、類の記憶そのものである。それらのミームと称せられる、文化的遺伝子は、個人の記憶の中で圧倒的な量を占めている。とりわけ言語が、まさに記憶そのものとも言える、類的遺産となって、脳細胞を支配しているのである。 |
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2018年7月26日(木) |
希望について |
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現在は自我の実在の場であることにまちがいはない。しかし生命にとって、現在とは単なる通過点に過ぎない。生命にとって本質的な時は、過程processなのであり、すなわち現在から未来へ向かう発展あるいは衰微が時間の意味なのである。生命は数十億年むかしから現在に至る、物質の連鎖反応であり、それがどこかの時点で途絶えれば、もはやその系列の生命はない。私の身体は数十億年の生命の連鎖反応の結果としてここにあるのである。種の中の個としての私の身体はそのようなものである。私の身体は繁殖によって、他の個に受け継がれていく。その連鎖反応が種の保存である。個はその途上で滅びる。もとの有機的・無機的物質に帰る。少なくとも生命としての個体はそこで終焉をむかえる。個の保存は、個体の一代かぎりのものである。
希望とは自己自身の時間における保存の欲求であるといえる。明日も今日のごとくに、おのれが存在していることを願うのである。もし明日私が存在していなければ、明日へのいかなる願望も無意味であろう。明日何かが実現する望みがあるということは、明日そのものが無条件に前提されているのである。このことは不治の病気にでもなれば、誰でも気づくことである。その時初めて、現在が唯一の実在の時であることに気づくのである。それでも、希望がなく現在を生きるということが可能なのであろうか。明日がなくても、やはりこの現在を明日のために生きるのではないか。それほど、希望というものは、生命の日常的習性となってしまっているのではないか。私はもし明日死ぬとしても、やはり語学の勉強をしているかもしれない。それが何の役にたつのかも考えずに、その面白さだけにとらわれて。
たしかに明日がなければ、人生において何が大事かということが、大胆な切り捨てによって見えてこよう。明日に期待する出来事や予定はすべて捨て去ることが出来る。それがどんな未練や執着を残していようと、諦観が勝るであろう。そして残されたものは、過去においても現在においても、もっとも心を静謐な悦びで満たしたものにしぼられてこよう。単に過去にすがるだけではなく、それが今に生きていなければならない。そして生きているということは、そこに希望があるのである。たとえわずかな瞬間でも未来があるのである。生命は最後の瞬間まで、時間を貪欲に味わいつくすのである。希望は生命の根本の原理なのである。 |
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2018年6月11日(月) |
梅雨のまのアジサイ |
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隣町の桜の山にアジサイが植えられているので見に行った。ほとんど知られていないので、土曜の明るい午後なのに、まるで人けがない独占状態。山下の方はまだちいさな莟の密集段階で、山を登るほど開花している。白から薄い桃色、青、紫と色彩を楽しめる。花弁は4弁が圧倒的で、よく見ると稀に3弁や5弁が見つかる。紋章にでもなりそうである。
これを書きながら聴いている、ヴィヴァルディーのリコーダ協奏曲ハ短調(YouTube)が、アジサイの花には似合いそうだ。
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2018年6月8日(金) |
善とは何か |
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人間が物事や行為に善と悪の区別を立て、たいていの場合善に加担し、善を希求するのは何ゆえであるか。善がなんであるかを確かに知らなくても、少なくとも悪をなしていると感じる時の、なんらかのやましさ、羞恥感によって、その存在が意識される。このやましさ、羞恥感は、たいていの場合、他者や社会集団に対する意識において表われるのであり、それ自体では善(das Gute)そのものということはできない。また古代ギリシャで言うアレテー(すぐれた点)もまた、あらゆる個物に存在しうる長所、美点という意味においては、善そのもの、すなわち絶対善というわけにはいかない。役にたつか立たないか、あるいは社会的に称賛を受けるかどうかということは、行為における相対的基準とはなりえても、善の本質とは次元をことにする。単なる有用性、功利性は、個人的、社会的に生活上の有利さを与えても、一般的、普遍的善ではない。またピレネーの向う側では別の風習や善悪の基準があるような、いわゆる道徳や倫理のような社会的、相対的、行為の基準もまた、一般的、普遍的善ではない。殺すなかれ、盗むなかれ、ギャンブルは悪であるといった、社会的にしか意味をもたない善悪の基準は、それ自体を絶対善ということはできないのである。それらが悪である基準は、また別のところになければならない。
善とは何かを根本的に探究するには、この世界の本質を探究する外はない。この世界の本質には、はたして善悪が存在しているのであるか。善悪をこの世界に投影した世界観や宗教は、はたして正しいのか。この世界の本質は、時空の制約のない無限にして絶大な、盲目の(認識のない)エネルギーであるという、ショーペンハウアーの真理性の高い形而上学にしたがうならば、元来この存在への無限の努力は善でも悪でもないのである。無慮無数の宇宙がそこから創造される。創造された宇宙は無限に多様であり、たまたまこの宇宙においては、確率的偶然の産物として、時間空間や物質が存在し、生命が存在する。現代の天文学では、知的生命体の生まれる確率は、各銀河系に一つか二つであるという(注)。言ってみれば、人類がこの銀河系を代表する知的生命体である。銀河の数だけの知的生命体が、この宇宙に存在する。この宇宙での知的生命以外の生命は、もっぱら生への意志に支配された生命体である。
(注)地球のような惑星に生命が発生するには、数多い偶然的要素がクリアーされねばならない。その確率は限りなく低い。まして生命が生じても、(たぶん火星のように滅びることなく)知的生命体に進化する確率は、さらに低いのであるという。
宇宙意志、特に生への意志の本質は、類の存続であり、そのための個の間、類の間の闘争が、生の絶対的条件となっている。そこでは、善といえるものは、適者生存、すなわち個および類におけるアレテーがすべてである。劣悪(schlecht)なものは滅び、適合性のあるものが生き残る。これが生命界の善悪の基準である。個は個を食らい、類は類を食らう。この食物連鎖が、生命界の掟である。ここではアフラマズダもアーリマンもない。どちらが善でも悪でもなく、互いが互いを滅ぼしあう。勝者が光であり、敗者が闇である。光と闇の戦いなどはないのである。
それでは何故に光と闇の闘争という観念が生まれるのであるか。世界意志そのものは光でも闇でもない。世界意志はこの表象世界を発現するという意味では、光を生み出すなんらかの根源的存在である。その光の世界で、万物が流転し、生成消滅をくり返す様から、はじめて光と闇の対比が生まれるのである。万物を流転させる根源の力は世界意志であるから、消滅したものはその根源へ返ると観想される点では、光以前の世界へもどることになる。しかしその世界は元来認識不可能であり、この世界におけるような光と闇の世界ではないのである。生命体にとって、生とは光(太陽)に向かう努力であり、死とは光から遠ざかることである。光は生をもたらし、死は闇をもたらす。生を妨げる闇を、悪と感じ、生をもたらす光を善と感じる、これが生命体の原初的善悪の観念であろう。光を神のもの、闇を悪魔のものとする観念の、原初形態がここにある。
光が生をもたらし、闇が死をもたらすのであるから、この光と闇の格闘、生と死の格闘を、この生命界の根本のあり方とする観念が生じるのは当然である。ゾロアスター教やジャック・ロンドンの「光と影」に典型的に見られる、善悪、神と悪魔の格闘の物語は、善悪を二項対立においてとらえる観念から生まれているのである。そのじつ、世界の本質においてはいかなる二項対立もない。絶対の善も絶対の悪もないのである。善なる神の観念を生み出したのは、生命界が必然的にはらむ、弱肉強食の食物連鎖の観念的反映としての、光を渇望する勝者の希求なのである。
宇宙は偶然の産物であり、さまざまな欠陥に満ちている。まったく空間も時間も物質もない宇宙もあり、たまたまこの宇宙は偶然の結果それらに恵まれたのである。この恵みを神のたまものと見、そこに善を見ることによって、宗教的善悪観が生まれる。神観念もこの宇宙の産物なのである。宇宙そのものは、神でも善でも悪でもない。宗教家がいみじくも言うように神は<生命>なのである。あるいは、生命自体が、神にして悪魔なのである。神や悪魔は生命界の反映としての観念的産物であり、もしそれが実在的影響を及ぼしたとしても、それは生命界の範囲にとどまるのである。神は生命を促進し(産めよ殖やせよ)、悪魔はその生命を脅かすものであり、神以上に相対的である。十字軍のクリスチャンにとってサラセン(イスラム教徒)は悪魔であって、滅ぼすべき存在であったが、サラセンにとっては侵略者のクリスチャンこそが悪魔であった。神は生命であると同時に、<永遠の>生命である。神を信ずるものは、永遠の生命にあずかる。これほど生命的な願望があろうか。生命の宿命である死を回避し、どこか生命界に似た世界で、その存続を願う。天国も極楽も、この万物流転、弱肉強食の世界を逃れた、生の延長としての空想界なのである。この空想界にはいるためには、<善人>でなければならない。あるいは少なくとも神の<恩寵>がなければならない。ここに宗教の巧妙な社会規範としての働きがある。こうなると、単なる社会道徳や倫理と選ぶところはない。宗教倫理においては、真の善の探究は不可能であり、ただその実践において学ぶところがあるであろう。
世界の本質においては善も悪もないことを明らかにしたが、それでは社会的道徳でも宗教倫理でもない、本質的善というものが存在するのであろうか。私はいかなる社会的考慮もない、いかなる宗教的畏怖もないところで、やはりある種の善の意識をもって行為することが可能なのであるか。私が悪を恥じる時、たいていは他者や社会への考慮にもとづいている。そのような考慮は、基本的に<超自我>によるものと考えてよいだろう。私は多くの物事を他者や社会から学んだ。それに対する依存心が、それに反する行為への躊躇を自然と生み出すのである。しかし私の学んだことのすべてが、本当に私にとっての善なのであるか、私にはそれに反する自由はないのであるか、それを知るには、上記のような探究が必要なのである。
悪とは私に不安や羞恥や悔恨をもたらすものであり、それらの根源に私自身の本質、または世界の本質にもとづくものがあるならば、その善の観念は本ものであるといえよう。いかなる悪も、生への意志は許すであろう。<わたし>は場合によっては<あなた>を食らって生きるかもしれない。<あなた>のものを盗んで生き延びるかもしれない。それは生への意志が命じる絶対命令である。<殺すなかれ><盗むなかれ>という律法は、私の生の中にはないのである。それにもかかわらず、私がそうした行為を避けうるとすれば、それは世界意志とは別のところから出ていなければならない。世界意志以外の世界原理には、<わたし>と、そして<イデア>の他にはない。私が悪を避けうるには、私以外のいま一つの原理である<イデア>に目を向けるほかはない。イデアの根源を善と見なすのは、プラトニズム以来の伝統であるが、イデアが善である、あるいは善のイデアが存在するとは、どのような意味であるか。イデア自体は善でも悪でもない、単なる観念的存在としての中立性をもつものとして考えるべきであろう。しかし世界意志が目的的に働くためには、イデアがその動機(Motiv)もしくは目的因(causa finalis)とならねばならない。イデアは私の個体的意志の指導原理となりうるのである。しかしそれはどのようなイデアであってもよいことになる。悪を目指すイデアであってもよいのである。ナチスにとっては、ユダヤ人絶滅が最高のイデアであった。イデアそれ自体には、善へと自動的に導く力はない。そのためには、それは善のイデアでなければならないのである。プラトンやプロチノスが言う善のイデアとはなんであるか。基本的にこの物質的世界から、精神界へと導くイデアのなかでも最高のイデアなのである。それは善にして、真であり、かつ美である。悪は物質界=生命界の産物である。世界意志の生み出した世界の欠陥そのものなのである。そのような世界は、元の世界意志に解消されるか、超越的な精神界であるイデア界への参入によって克服されるべきものである。その努力こそが、善の本質なのである。この本質的善の努力を怠り、あるいはその方向に反するものが、本来の悪なのである。この本質善への行為が、一般の倫理・道徳や、宗教倫理とたまたま一致することも、また背馳することもあるであろう。しかし常に自己自身に対する善の意識であることにおいて、それらとは根本において異なるのである。私は人をあやめることや、人の物を奪うことは、生への意志に無条件に従うことであるから、極力避けるであろう。私は社会や国家が戦争を要求しても、それが生への意志の本質である類への意志の発現であることから、断固として拒まねばならない。一方においては善のイデアが、他方においては純粋自我が、私を生命の興奮に囚われることから守るであろう。生への意志にとらわれない真の善は、生への意志の否定以外にはないのである。神秘主義者の言葉を借りれば、<死にながら生きる>ことが本質的善への道なのである。 |
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2018年6月6日(水) |
意志と自我―救済の原理 |
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脳がその固有性によって、固有な意識を生み出すのであってみれば、それぞれの意識が異なっているのも、それぞれの器官が少しずつ異なっているのとなんら違いはなく、単なる器官の固有性の反映に過ぎないということになる。意識自体が物質現象であってみれば、意識の固有性も、物質の構成の固有の違いというに過ぎない。それを意識するかしないかは、なんら本質的違いではない。自我意識が他者の意識と異なっていると感じるのは、私の身体が他者の身体と多かれ少なかれ異なっているのと同様なのである。私の脳の働きの違いが、私の自我の固有性に他ならない。私が他者の自我ではないのは、私の脳が他者の脳ではないからだ。もし脳を交換できるならば、私は他者の身体において、私の固有の自我を見いだすであろう。意識があるかないかは、その点に何の影響も与えないのである。意識自体が脳の機能であるからである。その機能の違いを、私は私の自我の固有性と感じるのである。
このような科学的見地からの自我論は、論駁しようがない。客観的な事実だからである。このように自我の固有性が説明しさられる時、私の自我は暗く沈んでいく。そこには生への意志が願望として現われているのである。自我の固有性が単なるメカニズムに解消されてしまう時、生への意志もまた何らかの挫折を覚えるのである。このことから、自我と生への意志とはある種の一体性を持っていることが分かる。自我の不滅、超越性の根源は、生への意志の根源と、本質において連なっているのである。自我の否定は、生への意志の否定なのである。
ある無力感、沈鬱な挫折感、生命力の減退、それと同時に自我の明証性、確信、不滅性も薄れてゆく。ある種の倦怠感、疲労感、無気力、眠りへの後退、一言で言えば死への衰退が、自我の解体とともに始まる。それは超越ではなく、単なる虚無への凋落である。無の安らぎこそが願わしいものになる。自我は生への意志とともに発現し、生への意志の衰えとともに没落する。そこには超越への自覚ではなく、悲哀に満ちた死への願いがある。自我は本来が空であるがゆえに、風船のように生への意志の息しだいで、膨張もし、しぼみもする。もし単なる無力感が生への意志の否定に向かうならば、自我は単なる無を志向する虚無的存在にとどまるであろう。酔生夢死のなかに己れを忘却しさるであろう。そのような自我の死は、決して死の秘儀にあずかることはなく、無の中に解消されることをひたすら願うであろう。
自我は無力感によっては自己超越を果たすことができない。それにはある種のエネルギーが必要なのである。プラトンが、魂のイデア界への飛翔に当たってはエロスが必要であるとし、プロチノスが、イデアの観照においては精神的アフロディーテが必要であるとしたように、自我が己れ自身に回帰するためには、単なる生への意志の否定ではなく、むしろ積極的に生への意志のエネルギーを取り込むことを必要とするのである。これは生への意志の逆説的本質であるといえる。単なる世界意志は盲目的な創造への衝動であり、それ自体では絶大なる純粋な力もしくはエネルギーであるとしか言い表わせない。もしイデアによって目的を与えられなければ、単なる潜勢態にとどまっている。イデア自体は、ウェーバーが言うように、それ自体で世界を創り出す力を持っていない。世界意志に対して、いわばレールを敷くだけである。自我はnatura naturans(能産的自然)である世界意志と一体化し、積極的にnatura naturata(所産的自然)である表象界をイデアとともに生み出していく。元来がこの世界の構成原理の一部として、この世界の創出に積極的に参画している自我であるから、それ自体は無力でありながら、イデアとは異なり、世界意志のエネルギーを自己自身のものとすることが、身体という構成物によって許されているのである。そのエネルギーを、自己自身の認識へと向ける時、はじめて自我の本質が開示されるのである。
自我はイデア界によって開かれる世界の概念的把握において、この世界の意義を問うことになる。それが自我意識を持った知的生命体の宇宙的使命だからである。そこに生への意志の肯定、または否定という、行為の選択が迫られるのである。その資格を自我が与えられているのは、この宇宙、この世界は、世界意志とイデアと自我とのTrinitaet(三一体)として成立しているからである。この世界の審判者としての役割を自我は与えられているのである。この世界が悪に満ちた不完全な世界であるとするならば、そこに生への意志の否定の立場が取られる。世界宗教のほとんどが、その真髄においては、この立場を取っている。この<涙の谷>から去ることが、たいていの宗教の究極目標なのである。それらを一括して、救済の宗教と呼んでよいであろう。そしてその救済の原理はさまざまである。ここでは、そうした<民衆の形而上学>ではなく、純粋な形而上学の立場から、救済の原理を考察してゆく。すなわち、単なる信仰や恩寵による救済ではなく、世界の根本原理にもとづく救済の原理を探究してゆく。 |
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2018年5月30日(水) |
理解VS共感 |
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自我の不可思議・不可解性について、全くそのような意識を持たないという人が多くあることは、それ自体が不可解である。これほど明瞭な意識の事実を認め得ないということは、根本において人間の認識にはかなりの差異があるということであろう。自我の不可解性は、それの根源を非概念性に求め、かつ生命的要素の排除に求めたのであるが、自我が不可解でないという主張には、概念と生命的身体という両面からの根拠があるのである。
自我の存在は誰しもが認めるであろう。ただしそれが身体と同一であるという認識の根拠においてである。私の身体、私の手足、私の脳、私の思考、私の感情という、身体との結びつきにおいて、だれもが<わたし>を主張しうるのである。そこになんら不可解さはない。さらに言語という概念的道具において、だれもが<私>という主語になりうるのである。私は私の存在を、音声および記号を介した<私>として概念化し、それを他者に伝えると同時に、他者もまたおなじ概念的<私>として、彼らの自我を概念的に伝達しうるのである。このような自我は、身体的・動物的自我であり、人間においてはさらに概念化された自我なのである。そこには共感が働くと同時に、概念的理解が可能になるのである。しかし、この共感と理解については、さらに立ち入った考察が必要であろう。それによって、何故に純粋自我の不可思議・不可解性が、共感においても、理解においても、受け入れられないかが明らかになるであろう。
動物はその生の根本において、ほぼ無意識に生きていよう。すなわち本来的意味での自我=意識をもたない、あるいは持っていても萌芽的な身体的自我にかぎられていよう。その点で動物の自我は、身体的個体性がすべてであるといえよう。人間もまた、その生のほとんどの営みを、動物と同じレベルで過ごしている。身体のないおのれなどは、まず考えることがないであろう。このレベルで働く認識は、ほぼ無意識もしくは先天的機能に支配されており、そこにはなんらの概念的理解は必要とされないのである。赤子は本能的に母親の乳房に吸いつき、成年男女はいやおうなく、互いの性的魅力にとらわれ、性行為へとおもむく。この認識の関係を、動物相互の間の<共感>と名づけておく。人間同士の間の関係は、ほとんどがこの動物的共感から成り立っていると言ってよかろう。その純粋な働きは、だれもが知っているように、人間とペットとの間で最も明瞭に現われる。そこではなんら概念が邪魔していないからである。さらには、人間とペットとの間は、生の根源における共感が働いており、それ以上でもそれ以下でもない、生命感の共有があるのである。共感はまた身体の接触において最もよく現われる。俗に裸のつきあいとか言われるのもそれである。動物はもちろん、人間の子供たちも、身体的にじゃれあうことで、互いの共感を確かめ合っているのである。
この無意識の、あるいは本能的な共感の関係においては、自我はきわめて曖昧な状態にある。場合においては、共感において成立した集団の中で、自我は集団の自我と一致する。集団が危機におちいれば、集団の自我は一致して怒り、集団の目的は同時に全個体の目的となる。すなわち、他者へと向う共感は全体への意志の一つの表われなのであり、全体のエゴを形成する本能的衝動なのである。この共感によって作られた社会は、必然的に全体主義社会となる。あるいは思想的要素を排除した言い方をすれば、<類社会>とでも名づけておこう。社会そのものは類的本能から成立するのであり、その点蟻や蜜蜂の社会と人間社会に違いはないのだが、特に類本能を強調するためにこの用語を持ちいることとする。類社会を作るのは、もちろん社会契約でも、経済生活でもなく、個体間の動物的共感にもとづく相互依存の本能、すなわち全体への意志である。この意志の肥大が、さらに国家や支配階級を生み、民族間の闘争を生み、あらゆる種類の戦争を生み出していくのである。
しかし平和的な共感もあるではないかと、反論がなされるであろう。平和は類社会のうちにおいては可能であるが、類社会どうしの間では、常に反目が支配するであろう。類社会は一個の個として、すなわちエゴとしてふるまい、他の類社会のエゴを敵対視するからである。ここではエゴとエゴとの間の共感が働かないのである。共感はエゴを弱め、全体へともたらす。それは類社会のうちにおいては効果的に機能する。それが類社会どうしの関係にまで及ばないのは、生命のいま一つの根本の原理である弱肉強食の掟がここでも働くからである。エゴは、生命が類の存続のために個体に仕掛けたトリックであると、既に述べておいたが、すなわち生命は根本的にエゴイストなのであるが、ここでも全体的類の存続のために、類社会どうしは滅ぼしあわねばならないのである。それは共感とは裏腹の生命の原理である。
単なる個体どうしの間でも、共感がすべてではない。動物はまず親によってその縄張りから追放される。親のエゴが共感に打ち克つのである。それによって類の存続が守られる。人間の場合、家族的結びつきは動物の場合よりも長いのであるが、そこには単なる共感とは別の、ある種の利害関係が集団を支配するようになる。イスラム社会では、ある年齢以上の親はもはや働かず、成年でなくても子供の労働によって扶養される慣習となっている。親自体が、その個体保存のために子の労働を必要としているのである。弱肉強食は、家族どうしでの間の競争となっている。その家族の頂点に立つものが支配者・統治者である王や、皇帝や、貴族や、専制君主である。この階級的構造において、弱肉強食は、より大きな集団の形成へと向うのである。ここでは敵対と共感とが、すなわち個が個を食む争いと、全体への意志とが、人類社会の文明を作りあげている。
個と個の間の共存を促すものが動物的共感であることは疑いないが、それには生命としての限界がある。その裏腹の原理としての、適者生存の法則があるからである。しかし共感が動物および人間社会の、最も強力な結合力であることは確かである。それにもとづいた社会は、もはや言葉を必要としないくらいである。以心伝心とか、阿吽の呼吸とか、空気を読むなどといった言い回しが、その社会を象徴している。言葉で説得することが不必要なのである。あるいはそれを極端に嫌って、腹のさぐりあいの世界となるのである。このような社会では、言葉の意義は軽い。嘘をつくなどは日常茶飯事であり、上は政治家や、総理大臣から、下は幼稚園児まで、嘘はお手の物である。文芸においても、「言い尽くしてなにかある」と芭蕉もいみじく述べている。ここで軽視されているのは、言語が本来持っている論理性であり、概念的思考である。これを<理解>と呼ぶことにする。
単なる共感は理解ではなく、あくまでも共感に過ぎない。何となく分かればよいのであり、分からなくても気分的に納得しているのである。このような共感的、動物的レベルの人間間の交通に、新たな次元をもたらしたのが、概念的<理解>の発見であった。これを可能にしたのは、言語を分析的に把握しようとしたギリシャ人に始まる、哲学的思考であった。ソクラテスやプラトンの執拗な概念の探究から、単なる曖昧な共感などというものは、そのまま真理の基準とはなり得ないことが明らかにされていった。真理であるためには、ことがらの概念的・論理的な検討が必要なのである。それを相手に言語によって伝え、<理解>をもたらすことが、真理の基本となる。概念は既に言語として客体化されており、そこには共感などの心情的要素の入り込む余地はない。言語による概念的伝達は、論理や論証によって、初めて相手を納得させうるものとなる。この論理的合理性を、共感に対して優位におくことによって、初めて学問や科学が成立するのである。
ギリシャ・ローマを自己の文明の濫觴とする西洋社会においては、この言葉による論理性、合理的思惟が、少なくとも社会の最も良い部分を形成してきた。真理は言葉による議論がすべてであり、以心伝心、阿吽の呼吸、<空気>などは問題にならない。それらは遅れた社会の風習である。たとえそれが、文芸においては良い効果をもたらしたとしてもである。今その例を「徒然草」とセネカの対比において見てみる。
「ひとり燈火(ともしび)のもとに文(ふみ)をひろげて、見ぬ世の人を友とするぞ、こよなう慰むわざなる。文は、文選のあはれなる巻々、白氏の文集、老子のことば、南華の篇。この国の博士どもの書ける物も、いにしへのは、あはれなる多かり。」(「徒然草」第12段)
「彼ら[賢者]はあらゆる時代を自己の時代に付け加える。彼ら以前に過ぎ去った年月は、ことごとく彼らに付加されている。われわれがひどい恩知らずでないかぎり、かの聖なる見識を築いてくれた最もすぐれた人たちは、われわれのために生まれたのであり、われわれのために人生を用意してくれた人々であることを知るであろう。他人の苦労のおかげでわれわれは、闇の中から光の中へ掘り出された最も美しいものへと運ばれる。われわれはいかなる時代からも締め出されることなく、あらゆる時代に入れてもらえる。またもし広い心をもって人間的な弱点の隘路を出て行きたいならば、そこには自由に過ごすことのできる沢山の時間がある。われわれはソクラテスと論じ合うこともでき、カルネアデスと懐疑を共にすることもでき、エピクロスとともに安らぎを得ることもでき、ストア派の人々とともに人間性を打ち破ることもでき、またそれをキュニコス派の人々とともに乗り越えることもできる。自然がどんな時代とでも交わることを許してくれる以上、この短くも儚く移り変わる時間から全霊を傾けて自分自身を引き離し、あの計り知れない、永遠な、またわれわれよりもすぐれた人々と共有する事柄に没入しないでよいであろうか。」(「人生の短さについて」14節より、茂手木元蔵訳)
同じテーマをあっさりと情緒的に記す兼好に較べて、セネカのくどいまでの論理的説得の文章こそ、西洋文明の真髄なのである。このような概念的理解に基づくならば、人間関係、社会関係の基本は、共感ではなく、合理的説得であることが肝要なのである。ここに西洋人の理想主義が生まれる。進歩の観念も生まれてくるのである。共感に対する理解の優位が、近代文明を作りあげたのである。社会や国家は<契約>による相互理解によって、新たに作り直されねばならない。戦争は、人類の平和理念によって、相互の理解を図ることで、回避の可能性を与えられる。たとえそれがいかに理想主義的であり、無力な理念であろうとも、相互理解以外には、戦争を避ける手段はないのである。共感に頼る限り、人類の諍いと戦争はなくならない。基本的に共感は盲目的だからである。
そして、自我意識の発生と、その強化もまた、この動物的生に対する、概念的・理性的理解の優位の産物であるといえよう。なぜなら、これまで単なる共感の中に朧(おぼろ)に認識されたに過ぎなかった自我が、そこに概念的思惟による理解の目が向けられた時、はじめて不可解な存在として現われてきたのである。自己自身を概念的思惟の及ばない存在としてとらえた時、そこにはじめて思惟は、おのれ自身の壁を見いだすのである。フィヒテはそれを逆手にとって、自我を世界の構成的絶対者としてしまった。これ自体は合理主義の行き過ぎである。そのように概念化しなければ、自我のこの世界における意味を見いだせなかったからであろう。
概念が、プラトンの用語ではイデアが、この生命界に対する独自の実在界(超越界)であるのに対して、自我は生命でも、概念でもなく、それ自体時空を超えた<無根拠>な存在者として、共感も、理解も及ばない、唯一無二のあり方において、自己自身を把握するほかはないのである。それはただ自己自身が見いだすほかはない存在なのだ。であるから、その根拠や理由を問われても、もし答えうるならば、それはもはや自我自体ではなくなってしまう。他者が、動物的自我はいざ知らず、不可思惟性としての自我をおのれの中に見いだしえないならば、それは理解させることも、共感によって伝えることも不可能なのである。たぶん人類の大多数は、このような自我の存在について考えることも感じることもないのであろう。それはプラトンのイデア界を見る人が稀であるのと同様であろう。洞窟の壁に映った影が唯一の実在である人類の大多数にとっては、自我とは身体であり、生命的現象であり、脳の機能であり、それ以上でも以下でもないのであるから。 |
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2018年5月16日(水) |
無根拠としての自我・生命と自我 |
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無根拠としての自我
自我の存在の最大の謎は、もし自我があらゆる知的存在に普遍的な機能であって、特に個における違いのようなものが存在しないとするならば、何ゆえに私はこの肉体という特定の個体に存在しなければならないのかという、不可思議性である。確かに、私はいわゆる感情移入などによって、他者の身体に私自身を移入することができる。特にそれは小説のような観念の世界において容易に起こりうる。子供時代には、他者がどんな内的存在なのかに、特に興味を惹かれることがある。他者の所作をすべて真似してみることによって、他者の気持なり心理が、私自身のものとならないかと思うのである。これは人間ばかりでなく、動物に対しても同じような考えを抱く。動物と同じような所作をして、動物が何を感じ、何を考えているのかを知りたいと思うのである。
このような自我における共感は、感情移入のような、心情の領域で起こりやすい。人や動物が喜べば、私自身も同じ感情がわき、人や動物が意図していることを、私自身も比較的容易に見抜くことが出来る。動物界ではおそらく、自我の共感はもっぱら、心情や意志や意欲や衝動の領域で果たされているのであろう。人間においても、基本的にはこの動物的レベルでの自我間の共感が、圧倒的に相互主観を形成しているのであろう。こうした共感においては、自我の存在は少しも不思議ではない。むしろ他の自我に向かう傾向そのものとして捉えられるのであり、自我は一種の空虚感であり、欠乏と感じられるのである。ここでは、自我は圧倒的に生への意志によって支配されているといってよい。生への意志の根本は、類の本能である<全体への意志>であり、これに個体保存もまた従属しているのである。
それでは、本来の自我はどのようにして生まれ、どのような存在感であるのだろうか。少なくとも、生への意志に密着した、動物的、身体的自我においては、おそらくどの個体においても、自我意識に大差はないであろう。大差はないばかりか、ひょっとして同一でありうるのである。私がもしライオンの身体や、カエサルの身体や、クレオパトラの身体や、カジモドの身体に、私自身を移入したとしても、身体に対する違和感があるにしても、<わたし>が私自身であることに何の違和感も感じないであろう。私は巨大な力を持ち、優れた肉体や知性を持ち、女性の体を持ち、不具な体を持ったとしても、私が私であることにとりたてて違いを覚えないことであろう。それほど私の意識そのものは身体とは無関係に同一でありうるだろう。私とは、さまざまな差異を持ったあらゆる身体において、同一でありうるのだ。このような私にいかなる唯一無二性がありうるだろう。自我はあらゆる身体的生命に普遍的な意識である、ということになろう。
しかし、最初に述べた、自我の最大の謎については、このことによって解決がもたらされてはいない。なぜならば、なぜ今私はこの私であって、道端に寝ているこの犬の自我ではないのか。あるいはあの人物でも、この人物でもないのか。もし自我があらゆる意識的存在に普遍のあり方であるならば、そこになんらの特殊性もないならば、決して私の唯一無二性の意識は生じないはずなのである。それなのに私はこの私以外のなにものでもない。このことを解決しなければ、自我の謎は解けないのである。
単に肉体という身体に分かれているという、個体性の問題ではないことは、私の臓器を、他人のそれと交換できることからも明らかである。私は私の自我を他人のそれと交換できなければならないのである。動物的自我においては、それは比較的容易に起こりうるだろう。身体同士が抱き合えば、その温かみがおのれのものであるか他人のものであるか、容易に区別はつけ難いであろう。動物はそのようにして、自我と自我との間の違和感を失うであろう。ここに解決の糸口がありそうである。自我の唯一無二性は、身体もしくは肉体からは生まれえない。そうならば、身体ではないものから発する自我とはどのようなものか。 身体のなかで最も身体らしくないもの、すなわち思惟もしくは思考から生まれる自我こそが、自我の特殊性の意識の起源であるといえそうである。
自我に目覚めるということは、己自身の存在に気づくということであり、それはある種の思惟なのである。デカルトが<考える私>というときに、その言葉を厳密に取るならば、想像や感情や気分や意志などを排除した、純粋に考える私でなければならない。そこに生まれてくるのが、唯一無二の存在としての私の意識なのである。この考える私は、私自身の存在を見つめる私であり、私自身を対象としながらも、そこに私自身の意識以外のなにものをも見ない私の意識である。それが思惟であるのは、そこに必ずある種の不可思惟性すなわち不可思議の感が伴うからである。思惟しようとしてもそこに思惟が及ばない、そのもどかしさが、自我の意識の根本の属性であるといって良い。思惟はなんらかの根拠に基づく、概念の働きである。ここに概念が働きえないのは、自我の意識にはなんらの根拠が見いだせないからである。すなわち自我は根本において無根拠(Ungrund)な存在なのである。無根拠な存在とは、幾何学で言えば公理にあたるそれ以上証明できないものであり、むしろ証明の根底となるものである。あるいはあらゆる論証の大前提となる、根本の無定義語であり、それ以上は遡ることができないものである。自我においても、認識の根底にある、無定義語が見いだされるといってよいだろう。認識はそこから始まるのであり、認識を根底から支えるのが、自我であるといってよいだろう。
このような無根拠としての自我は、しかしカント哲学におけるような先験的機能とは異なったものである。それは何よりも<存在>なのであるから。意識に現われた<わたし>の存在なのである。この私の存在は、私自身が見いだすほかはない。いかなる抽象や、概念によっても、それは見いだせないのである。これが私の存在の唯一無二性の意味するところである。私は私を一般化することはできても、その一般化によっては私を見いだせないばかりか、私自身を外化し、自己疎外することによって、私自身を世界に譲り渡してしまうのである。<世界内存在>というありがたくない存在の様式によって、私は私自身の唯一無二性を失う。これが世界における私の<没落>である。自我は<肉>となることによって、この世界に発現し、この世界のあらゆる苦悩にまみれねばならないのである。自我のこのような運命について、自我自身にその根拠を求めても無意味である。少なくとも、この世界の本質と自我の本質とは、根本において異なっていようからである。本質を異にするものが、何故に一つの世界を形成するのか、これについてはまた別の解答を求める外はない。一つだけ言えそうなことは、自我のこの世界からの救済は、自我自身に求める外はないということである。自我の唯一無二性、無根拠としての絶対性に、自己救済の可能性を求める外はないのである。
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生命と自我
本質を異にするものが、何故に一つの世界を形成するのか、という問に対しては、自我と生命との関係が、その解明の手がかりを与えるであろう。自我が唯一無二の存在であることの理由として、個体の自己保存に対する生命の戦略から、説明が出来るという考えがある。種の保存、類の持続の手段として、たいていの生命は個体に分かれることによって、全体的絶滅の危険の可能性を少なくしようとする道を選んだ。全体であると同時に個体であることによって、例えばチーターの子供は、百のうち十数頭が生き残る。魚類にいたっては、零コンマ以下の生存率で成体になる。個体の能力のわずかな違いが、サバイバルの可能性を高めるであろう。このことの反映が、知的生命体の意識においても当然現われるであろう。個々の意識は、唯一無二であることによって、その個体性の維持に有利な条件を与えられることになる。有利な個体性こそが、種や類を持続させていくのであるから、生命は積極的に自我を発展させたと見てよい。<わたし>と<あなた>とが同じ自我であっては、個体保存にとってははなはだ不都合である。ここに生命の根本のエゴイズムがある。<あなた>が<わたし>と同じであったならば、<わたし>は<あなた>を食らって、生き延びることはできないであろう。生命はそうしろと要求しているのである。
この考え方は、これまで解決できなかった問題、すなわち自我と世界意志との接点についての解明にヒントを与えてくれるようである。何故にこの世界に自我は存在しなければならないのか、この地獄のような苦悩の世界に、自我はなにゆえに引きこまれ、加担し、共犯者とならねばならないのか。一言でいえば、世界意志が自我を必要としているのである。少なくともこの生への意志として現われる世界において、生命の世界戦略の一つの手段として、自我をこの世界に呼び込んだのである。これが身体的自我、動物的自我の正体である。これが釈迦の言う克服すべきアートマンの正体である。この世界意志と一体化したアートマンは、さらに類的意志と一致して、集団のエゴとなり、集団間、人種間、国家間、宗教間の相互殲滅をくり返すのである。
生命が、その存続の手段として個体に相互に固有の価値を与え、個体間のサヴァイバルの闘争の有力な要素としたことによって、単なる個物とは違った、生命特有の個体のあり方が発生したのである。誤解を恐れずに言えば、「一つ一つ違ってみなよい」のである。それが類にとって、存続のチャンスを増やすならばである。生き残った個体が、類の生命をつないでいくのである。知的生命体においては、各意識の特異性、すなわち自我意識の強力な個体が、集団の長になり、多くの子孫を残したのである(ジンギスカンの遺伝子を受け継ぐものは、数千万人いるとされる)。シュティルナーが言うように、人類史においては、王や皇帝のみが真の<エゴイスト>であった。
このような生命体に固有の個のエゴイズムは、やはり生命体に固有の全体への意志とあい対するようであるが、個のエゴイズムが、全体への意志の副産物であることを思えば、そこに矛盾はない。エゴイズムそのものが類の存続へ奉仕し、類の繁栄をもたらすからである。個のエゴイズムは、知的生命体の意識においては、さらに微妙に分化して行き、わずかな民族的、文化的差異であっても、相互に殲滅しあうまでになる(バルカンの紛争など)。差異そのものがエゴイズムの価値であるのに、そこに全体への意志が類への衝動として現われることによって、他の集団への生き残りの闘争へと、あるいは征服による隷属化へと向かうのである。こうした人類史の絶え間ない闘争は、人類を最も繁栄した生き物へともたらしたのであるが、その根本の衝動が、個の生命に与えられた固有の自我の躍動なのであった。その意味で、人類史はヒーローの歴史であるといえよう。
しかしヒーローの歴史はすでに終わり、生命の歴史は人類において行き止まりに達している。生命の世界、さらにはこの世界そのものに、批判的反省が生まれ、自我そのものに内面へと向かう契機が生じる。この内面的自我について、それがどこまで生命的自我と関係し、それを克服できるかを次に考察する。内面的・反省的自我の発生は、その淵源が思惟にあることをすでに明らかにした。思惟は基本的に概念の世界であり、概念そのものは生命とは本質を異にしている。概念自体は非時間的、非空間的であり、生命のような発展や進化とは無縁であり、それらを思惟するに当たっての、単なる論理の道具であるに過ぎない。生命の発展や進化が、概念的に思惟され、理解されうるからと言って、それらが概念そのものであるのではない。ベルグソンに倣って言えば、生命は躍動し、概念すなわち思惟はそれを静止的にとらえる。この思惟によって静止的にとらえられた内面の自我が、唯一無二性の意識としての純粋自我である。しかし同時にそれは、概念ではとらえることのできない不可思惟性であることもすでに述べた。自我の唯一無二性は、生命が仕組んだものであることは考えられる。それは生命にとっても有利なことであるから。しかし自我の不可思惟性はどうであろうか。思惟は生命を、意志を、概念の関係においてとらえ、根拠づけることができる。内的自我が生命現象であるならば、同様に根拠づけることが出来るであろう。しかし<わたし>の存在の不可思議性が、それを拒むのである。確かに自我は生命の躍動とともにある。しかしそれを思惟すると同時に、自我はまったく別の顔を見せるのである。それは生命とはまったく違ったところからやって来たとしか、直観し得ないのである。そして生命とともにあることを喜びさえする。存在の幸福感でもある。しかしその幸福感は、少年期のわずかな期間に限られている。生命の実相に触れることにより、それは過去の至福の思い出と化してしまう。ただ自我の存在の不可思議感だけが、一生を通じて消え去らずに残る。
もし生命があらゆる苦悩の根源でなければ、自我は生命と一致したままに、その素性を自ら問うこともなく、幸福にその存在を謳歌することであろう。生命に対抗しうる、唯一の可能性として、自我は自己自身を探究するようになる。かりにイデア界が存在したとしても、そこに救済されていく<魂>そのものはイデアではない。プラトンの自我そのものなのである。イデアによって思惟が可能になるからといって、思惟そのものがイデア界におもむくわけではない。真の救済の主体は、あくまでも自我なのである。そしてこの自我は、生命からの救済を願っているのである。ここには自我と生命の関係の、最大の難問がある。果たして自我は、自己救済を<願う>ことができるのであろうか。意志が意志自身にそむくことが出来るのであろうか。生への意志の否定が、生への意志から出てくることは可能であるのか。自我がもし生への意志の単なる傀儡でなければ、このことは可能になろう。救済は<願う>のではなく、自ずと自我から発するのでなければならない。もはや何ひとつ願ってはならない。ひたすらおのれ自身を見つめることによって、自我は自ずと自己自身に返り、自ずと自己救済を遂げるのでなければならない。ショーペンハウアーがイデアの純粋観照においては、あらゆる主観性を排した純然たる客観性、Weltauge(世界の眼)を条件としたのも、同じことを言っているのであろう。この Weltauge としての純粋自我が、生命から離脱した状態の根源の自我の姿なのである。
このような自我が果たして世にいう自我(エゴ)であるかという疑問が生じよう。肉体でも、魂でも、生命でもない、理性でも概念でもなく、さらになんらの意欲すら持たない、この空虚そのものであるようなものに、どのような意味があるのかと。これは自らが空そのものになってみなければ体験できない、形而上学の最終的な実践の境地であろう。真理は自ら体得する他はないのである。体得してのちは沈黙するほかはないのである。何かを語っている限りは、まだ救済の境地にほど遠いのであるから。これはそこに到るためのメモのようなものである。 |
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2018年5月13日(日) |
死はなぜ暗黒なのか |
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夜中にふと胸苦しさを覚え、目覚めるとき、死の不安がきざし、心が暗いふちに沈んでいくような暗澹とした気持になる。死はそこに何があるとも知れない暗黒として現われ、どんな望みも救いもそこにはなさそうに思われる。単なる無ならば、まだましであるだろう。心の臓から発するこの暗い恐れは、一体何故に起こるのであろう。それはもとよりヘッド(理知)からではなく、ハート(心情)からわきおこるのである。この死に対する不条理な恐れは、たぶん生命の根源に発しているのであろう。
死が暗黒であるのは、それの反対である光への渇望が、生命の根底にあるからであろう。種子が地中の闇の中から、光を求めて発芽するように、たいていの生命は光(太陽)の恩恵によって存在している。死はその逆の過程であって、光を失い、地中の闇の中に解体されることである。あらゆる存在は光を目指し、死はもとの暗黒にもどることである。この宇宙はフォトンのエネルギーによって維持されており、宇宙の発展とはより多くのフォトンを生み出し、より多くのフォトンにあずかることである。そこに星が生まれ、生命が生まれる。その光への盲目の衝動が、世界の根源の動力なのであろう。存在とは光へ向かっての、無限の努力である。これが世界の本質であるならば、死は敗退であり、闇への後退である。死が暗黒であり、闇への恐れであることは、生命の宿命なのかもしれない。
この宿命との闘いが、知的生命体のこの宇宙に対する反抗であり、自らに課した宇宙的使命であるといえるかもしれない。死を闇から逆転して、あたかも光の世界であるかのように、<希望>を生み出すのである。少なくとも、心情的恐れを克服し、理知の働きによって恐れを<希望>に変える心術を生み出すのである。恐れているのは生命的根源から発するハートのおののきであり、そのような動物的自我から、おのれ自身の本体である反省的自我に返るならば、そこにはなんの恐れもないことに気づくであろう。心臓は痛んでも、頭脳は痛まない。「苦痛について思索することは苦痛ではない」(ショーペンハウアー)のである。
また、死の恐れ、暗黒の恐れは、人間に限らず、生命体を集団的に近づける。一人では克服できぬものを、集団で克服する。死は集団化することによって、恐れを盲目的な勇気に変える。生命の不可解な逆説であるが、集団化は死以上のものをもたらすのである。生命の死の宿命に対する戦略といえるかもしれない。鮭は集団で川を遡り、繁殖の行為の乱舞のなかで、死の宿命を忘れ去る。同様なことは、他の生物にも、人類においても、頻繁に見られよう。これらは、生命体の盲目的な死の克服のあり方なのである。だからと言って、死が暗黒であり、闇への消滅であるという、死の本質が失われるわけではない。ただそれを、生命的陶酔の中で忘れ去るだけである。
理知によるにせよ、集団的陶酔によるにせよ、死の克服が知的生命体の永遠の課題であることにちがいはない。そのことがを、夜半の目醒めにおける、死の暗黒への恐れとして、一人一人の胸に夢魔となって告知されるのである。 |
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2018年5月9日(水) |
世の中の不合理 |
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哲学のような合理的思考を旨とする学問や教養を、日頃心がけている者には、一歩世の中に眼を向け、足を向けてみると、その不合理さ、でたらめ加減、あいまいさに、めまいを起こすほどの頭の混乱を覚えるであろう。すべてが整然とした論理の世界である哲学や自然科学の世界に、どっぷりとひたっていると、この世の中の人間とその生活とが、実にいい加減で、効率を欠いた、あぶなかしいものに思われてくるのであり、思われるばかりでなく、実際にそうした危ない目に、うかうかすると遇わされるのである。
世界は合理的に、整然としていなければならないのに、人間の曖昧さ、いい加減さが、その合理性についていけないばかりか、そもそも世間一般の人はそういうことを考えさえしていないようである。思想というものが、世間的生活において、いかに無力であるかが、世間に一歩踏み出てみれば、たちまち実感されるのである。思想において、自己自身において、いかに合理性を好もうと、世間に踏み出したとたん、そうしたことは一切忘れねばならない。いつ不合理性に不意打ちを食らわないとも限らないのであるから、あたかも得体の知れない動物を相手にするかのような心構えで、世間に接しなければならないのである。
哲学は、その点では、合理的であるかぎり、世間とは無縁の学問である。現実的なものは不合理であり、理性的なものは非現実である。それ故に、理性は無力であり、無力であるゆえに、現実とは無縁の理性界において、ひたすら論証だけを相手に出来るのである。これほど清潔で、無機的で、理想的な学問はない。現実的であることから解放され、なおかつ、それが生き甲斐となっているのならば、homo sapiens にとって理想の人生かもしれない。しかし不合理性の根源は、生命そのものの中にあるのであるから、おのれの中の世間とも常に闘っていなくてはならないのである。そもそも、世間に眼が向き、足が向くこと自体が、すでに不合理な衝動なのである。自らが脱してきた不合理を、そうしたことを考えもしない世間の人々の間で、再確認するのである。
たいていの人間はいい加減に生まれ、いい加減に生き、いい加減に死んでゆく。それが世間であり、生命の、人間の本質である。理性的に生きようとするものだけが、その運命に逆らおうとする。当然世間からは嫌われ、煙たがれ、のけ者にされる。それが哲学者、愛知者の、運命に逆らったことの運命である。たぶんこの世界に何ひとつもたらさなかった学問の筆頭は、哲学であろう。何しろこの世界以外に目を向けているのであり、しかも宗教とは違って愚人禁制であるからである。愚人や悪人は、哲学とは無縁である。彼らは人間の本質そのものだからである。
哲学者あるいは愛知者であることは、非常に特殊な人間の生き方であり、苦難に満ちている。それ故に絶えず心の平静を求めるのである。人間の不合理、世間の不合理に背を向けて、ひたすら理知の可能性に賭ける理想主義者なのであり、克服者であり、超人を目指す者である。したがって、たいていは世間に知られることはないであろう。静かに、おのれ自身の人生をまっとうして、生きかつ死ぬのである。 |
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2018年5月4日(金) |
須賀川へ――芭蕉旅 |
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(画像:左から、芭蕉記念館内部、可伸庵、可伸庵の縁)
四月も末の連休の初日、奥への旅で心残りのあるという家内に誘われ、去年についで北へ向かった。須賀川には、芭蕉記念館があり、彼は何日か逗留して、地元の有力な人物と連句(歌仙)を楽しんだりしたようである。田圃や畑や野原が延々とつづく中を、何を好きこのんで、彼ははるばると旅をしたのであるか。<風流の痴れ者>と芭蕉自らが使った言葉が、俳諧を語るにふさわしい。
民衆文化というものがこの国に昔から存在していたとするならば、俳諧こそがその名にふさわしいであろう。芭蕉が旅した至るところにその拠点があるのである。下は放浪者や生活破綻者や、商人や職人や、上は須賀川での等窮のような名士や大商人や、下級および上級武士に至るまでを網羅した大衆性を、ある種の文芸が持ちえたということは、日本語と日本文化、日本社会の特殊性に発しているのであろう。
俳諧がその基本に、詩歌(和歌・漢詩など)の伝統をおいており、その伝統の教養をめぐっての文芸的社交のやり取りであるということは、ある種の囲碁や将棋のようなゲーム性を帯びており、人々を惹きつける大きな要素となっていよう。いわば文芸的ギルドのようなものである。そのギルドに支えられての、芭蕉の奥への旅なのである。ただこの場合旅をするのは徒弟ではなく、マイスターとしての師匠なのであり、至るところで歓迎され、手厚いもてなしを受けている。
須賀川で作った句、
「世の人の見つけぬ花や軒の栗」
は、この地の隠者の庵での歌仙の集いにおいて、発句となされたものである。この庵の主人もまた栗斎(可伸)と名のる俳人であり、いわゆる挨拶の句だったのであり、もとは、
「かくれ家や目だたぬ花を軒の栗」
であった。芭蕉始め、栗斎、等窮、曽良、等七人で連歌した(歌仙を巻く)のである。栗斎は、
「まれに蛍のとまる露草」と受けている。
芭蕉を蛍に、わが庵を露草に例えているのであろう。こうした連想的な応対の面白さが、社交文芸としての俳諧の妙味なのであろう。会のあとには、<そばきり>でもてなされている。
この可伸庵はNTTの大きな建物の裏手の路地に、一部がひっそりと復元されていた。栗の木は今はない。
須賀川には、芭蕉をもてなした相楽等窮のほかにも、江戸末期に市原多代女という女流俳人もいて、道端のとあるベンチで休んでいると、
「また一人来て座る団扇かな」
と図星を当てられてしまった。
この女性の立てた芭蕉の、同じく須賀川での作「奥の田植え唄」の大きな句碑と、自らの辞世の句碑が、十念寺の門内近くにある。
「風流の初めや奥の田植え唄 芭蕉」
「終に行く道はいづくぞ花の雲 多代女」
翌日は猪苗代湖へまわり、遊覧船から磐梯山(表磐梯)をながめ、小山の上の、明治初期に皇族の建てた、天鏡閣という洋館内を見物し、帰路についた。
(画像:左から猪苗代湖と磐梯山、天鏡閣) |
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2018年4月27日(金) |
記憶・確信・真理・自我 |
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記憶違いと思い込み
記憶が曖昧であるというのは、ある意味でそう悪いことではない。記憶に自信がなければ、判断や行動にあたってそれなりに慎重になりうる。記憶の問題において、むしろやっかいなのは、誤まった記憶を確信してしまうことである。それと同時に、自己への過信から、自己自身に問題があるとは思わずに、何かの不都合やいさかいが起こったときに、それの原因を他者のせいにすることが起こりやすい。邪推や疑心暗鬼はそうした場合に、自発的に起こるのである。
しかし自己の記憶を信用しなければ、日々の生活において自信がもてなくなってしまう。他人から、自己の明瞭な記憶をくり返し否定されると、相手の正気を疑いながらも、しだいにおのれ自身の精神状態に疑念が生じてきてしまう。それほど、記憶も自己の人格的自信も、不確かなものなのである。これがいわゆるマインド・コントロールのおなじみのトリックである。
かといって記憶に対する過剰な信頼は、妄想や妄念を生みやすい。そもそも記憶や知識といったものに、人間の自信が全面的にもとづいている訳ではない。記憶にないことや、知識のないことですら、あたかもすべてを知っているかのような、確信に満ちた態度をもってしなければ、この人生を独立した<おとな>として生きてゆけないのだ。それは動物的本能にもとづいた先天的自信といえるかもしれない。それは単なる知ったかぶりではないのであって、記憶だとか知識だとかを超越した、生物の根本的傲慢なのである。食いつ食われつの世界では、おのれをいかに強く見せるかが、生存の最大の条件なのである。
記憶の誤りが妄想や妄念に、さらには邪推や疑心暗鬼に変わるのは、そもそも記憶などは単なる生存の道具に過ぎないからである。自己自身に誤りを認めることは弱さであり、生存には不利である。あくまでも他者にあらゆる不利の原因を転嫁しなければならない。しかし、その誤りにふと気づく時がある。ゆえなく敵意を抱いていたり、過剰に被害妄想に陥っていたりすることに、気づかされるのである。こうした多くの勘違いによって、ちょっとしたきっかけで、人間関係がいっそう悪化したり、過大な憎悪におちいったりするのである。そもそも人間社会は、勘違いと邪推によって、日々闘争に明け暮れる、憎悪の坩堝の世界なのかもしれない。そこには正しい記憶も、正しい知識もないのだ。理念どころか、妄想や妄念が跋扈する世界なのだ。
ふと人類がおのれの誤りに目覚める時があるならば、この世界がなんと愚かに見えることであろう。
確信・真理・自我
そもそも、人が何かについて確信を持つということは、どのような心理なのであろう。記憶に関しては、それが確かに思い出せるという認知(recognition)の意識がすべてである。単に表象が存在するだけではなく、ほかの記憶表象とnexusをなしていることが、記憶の確信を強めるのであるが、単なる個別の表象としてみた時、その強度や明瞭さといったことが、その表象の存在の確かさの根底となっている。しかし、単に表象が鮮烈で明瞭であるからといって、それがすぐさま確信に結びつくわけではない。そのような表象が幻覚である場合には、かえって不信が生じるからである。表象について確信を持つということは、単に表象そのものの性質ではない。そこになんらかの意欲が働くのである。
存在(Sein)とは表象の知覚であるという命題は、表象そのものに関しては正しいであろう。表象が幻覚であろうとなかろうと、それがそこに存在していること自体に、疑いはない。しかし表象が現実存在(Dasein)であるかどうかに関しては、そこに確信の要素が関係してくる。表象が単なる表象ではなく、記憶と結びついて、存在の連関を作りあげているという確信が、そこに働くことによって、単なるSeinがその中に(da)あるものとして、Daseinとなるのである。Daseinすなわち現実の世界内での存在の確信は、表象そのものからは生まれない。むしろ表象を生み出す根源の力と関係しているといえよう。そうでなければ、現実と夢や幻覚との区別は不可能であろう。夢や幻覚は、そのさなかにおいても、それらであると疑うことができ、その疑いによって否定できるのであるが、現実とされる表象界は、理論的に疑うことは可能であっても、それによって醒めるということがない。最も強力な確信がそれに伴っているのである。もし同じ確信が、夢や幻覚に与えられたならば、それらはまさに現実そのものとなるであろう。
問題は、そうした確信が、果たしてどこまで真理と関係してくるかである。夢に現実と同じ確信が与えられたならば、夢は現実と同じ実在性を持つであろう。現実とされるものから、確信が失われるならば、それらは夢に近いものとなるであろう。最も確かだとされるもの、その確かだとする確信はどこから生まれ、どこまで真理と一致するのか。デカルトが考える我を最も確かな存在としたのも、そこに確かさの確信が伴ってのことである。その確信がもし揺らぐならば、いかに考える我の存在であれ、確かなものは何ひとつないことになる(デカルトも悪魔があざむいている可能性を考えている)。そもそも、真理は確信と同一である必要があるのであろうか。単なる推理、単なる概念は、そこに確信が伴わなくても、単なる論理操作において、真理とされうるであろう。理性とは本来そうしたものであり、人間が理解するかしないか、理解したことに確信を持つかどうかは、真理そのものには無関係でありうる。人間の理知が、そうしたことを要求するのは、全く別の動機に基づくのであろう。
確かであるという確信が、真理の基準となり得ないのならば、一体何故に確信は生じるのか。確信は常に錯覚と結びついている。錯覚は、生命にとってのある種の方便であるといえる。おのれに都合の良いように<現実>を作りあげるのである。その根本の衝動、生命力が、確信や信念を生み出すのであるとしたら、まさにプラグマティズムのいう単なるおこないの基準としての真理が存在するに過ぎなくなる。すなわち、確信することは単に行為にとっての真理なのである。この世界内に生存するためには、この世界が現実であるという確信を持たねばならないのである。このことは、この世界に当てはまるだけではなく、どのような世界にも応用がきく。宗教者が、あの世や天国や地獄を信じるのも、この生命の根本的な生存の意志の現われである現実性の確信の、誤まった応用であるといえる。しかし、そもそもこの世界の現実性の確信自体が、必ずしも真理ではないのである。
理性についてはどうか。いかなる確信をも必要としない真理が、理性によって探究しうるとしても、それが真理であるという保証を、理性自体は持ち得ないのである。ヘーゲルがいかに、あらゆる現実性を排除した論理の体系を築き上げようと、その真理性を保証するものは何ひとつない。いわば積み木の城が、城そのものでないのと同様である。理性的なものが真理であるという確信は、天体の運行や、幾何学や数の理によって、現実界から転化されたものである。理性界そのものがまずあって、それが確信を生み出したのではない。現実が保証するものを、理性界があらためて現実界に差し戻すようなことは、ナンセンスであるといえる。
単純な例をあげてみる。1+1=2という数式はどのようにして成り立つか。まず1というものが、個物の表象と結びついて、二個あるという考えを生み出す。これが通常の説明であろう。あるいは表象とは無関係に、概念上の約束ということもありえよう。いずれにしても1という概念は、表象界から抽象されている。子供は具体的に、おはじきなどの個物によって、その計算を教わるであろう。ところで、ある理性的存在において、1+1=1という数式がなりたっていた場合、それを否定できるであろうか。二個の個物が一個の個物となるという、表象界の事実において、この数式も成り立ちうるのである。どちらが理性的真理であるかは、理性そのものによっては決められない。生命に取ってどちらが有利であるかという、理性そのものとは無関係な事情によって、その真理性の確信が異なるのである。かりに理性界に独自の真理が存在したとしても、それはこの現実界と無関係である可能性が高いのである。
真理は真理であると確信することによって真理となる。これが確信と真理に関する考察の結論である。そうであるならば、その確信にもとづく真理性なるものは、どこまで真理として信じて良いのか。それは結局、その確信がどこから生じているかによるであろう。すなわち、すでに述べたように、真理への確信、現実性への確信は、<生への意志>から生まれている。生への意志のあり方が、真理のあり方を決定しているのである。それ故に夢は夢であり、現実は現実である。個として生きるためには、1+1=2でなければならない。理性は無力であり、それ自体で真理を生み出すことはない。カントが純粋理性の<理念>について述べたように、理性の真理は単なる<要請>であり、言ってみれば願望に過ぎないのである。
このように、確信や信念の本質を明らかにしてみると、そもそもこの世界や、この世界内での存在や、<自我>について、どこまで確実なことが言えるのか、まったくの懐疑におちいってしまうであろう。といって、古代の懐疑論者に倣って、判断停止(エポケー)をするわけにもいかない。少なくとも、生への意志=世界意志の産物である人間の知性や行動にとって、充分なだけの真理の探究は可能である。絶対を探究することの不可能を、これまでの哲学史が教えているのである。もちろん絶対精神などという、確信を越えた理性の盲信もおこなわれたが、それもまた生への意志の働きである<信ぜんとする意志will to believe>の誤用である。
最後に、<自我>について、同じ基準を当てはめてみる。自我は確信や信念と、どのような関係を持つか。自我の発生について、すでに論じたように、最初に現われる自我は、おのれ自身を見いだすことであり、そこにはなんらの確信も信念も伴ってはいない。自我はただ単に<そこにある>のである。その意味では、単なる表象の存在と同一である。唯一の違いは、その表象が私自身の意識であることである。単なる表象は対象の意識でしかないが、自我は対象の中の、あるいは対象に伴う、私の意識の意識である。これは確信や信念の以前であって、その点では、表象が現実であろうと、夢・幻覚であろうと違いはない。すなわち、自我は確信によって生み出される真理とは、別次元の実在であるといえよう。それは真理というよりも、経験の立場から、意識のTatsache(事実)もしくはdatum(所与)というべきものである。しかも、その事実は、確信とは無関係であるゆえに、疑いえないのである。だれも自己自身の存在を、信じる必要はないのである。
自我は真理とも確信とも無関係である。これほど独自の、特異な存在のあり方はないのである。自我は自我であって(Ich bin der ich bin)、真理の基準からした絶対者でも、魂でも、身体でも、物質でも、理性でも、神でもない。しかし、その唯一無二性において、絶対者であり、神のごとき存在であり、不滅である。あるいはこうした言い方が不遜であるならば、自我はその本質において、この世界とは異なった存在である。ゆえに、時間空間を超越し、理性界を超越し、どこか空としか表象しえない世界を故郷とする存在である。このことを確信したり、信じたりする必要もないであろう。私という存在は、この世界に存在するかしないかのいずれかであり、この世界に存在する私は、その本質において、この世界に属していないことを知り(すなわち世界内存在であると同時に、世界外存在であり)、この世界に存在しなければ、私は私の本質の世界に赴いているであろうから。このようにして、私は懐疑から逃れ、いわば真と偽とを超越した、平静の境地(アタラクシア)を、私自身に見いだしうるのである。 |
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