ラ米の人種的多様性 本文へジャンプ



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 ご周知の如く「アメリカ」と言うのはフィレンツェ生まれの探険家、アメリゴ・ヴェスブィッチ
Amerigo Vepucci1454-1512)の名前に因んだ名称で、十六世紀初頭には、「新世界(Nuevo Mundo)」を指す言葉として既に使用されていた。新世界は日本では「新大陸」で表記されるが、コロンブスが「発見した」のはカリブ海の島嶼部であり植民もそこから始まり大陸部へと展開した。

現在何気なく使っている「ラテンアメリカ」。どうも北米を「アングロアメリカ」と呼び、新世界のそれ以外と区別するために作られた表現のようだ。1862年にメキシコに侵攻したフランスのナポレオン三世がそう呼んだのが始まりと言われる。国際的には、我が国で普段使っている「中南米」という総称はない。 

近年、「ラテンアメリカ及びカリブ」と呼ぶのが一般的になってきた。国連の組織として1948年に創設された「ラテンアメリカ経済委員会(ECLA)」は84年にECLACと、最後にカリブの「C」を付け加えた。米国、カナダ抜きの米州33カ国首脳会議(200812月に発足)も「ラテンアメリカ及びカリブ首脳会議CALCCumbre de America Latina y de Caribe)」と呼ぶ。旧イギリス領(ジャマイカなど12カ国)とオランダ領(スリナム)はラテンとは呼びにくいからだとすれば、「ラテンアメリカ」は旧スペイン植民地諸国十八ヵ国とブラジル、及びハイチの二十ヵ国を指すことになる。

日本ではアメリカ、と言えばアメリカ合衆国(米国)を指し、中南米とは、さらにはカナダとも、明確に区別する。1853年の黒船来航以来、「アメリカ」という言葉が日本人に確りと根付いてしまった。1860年、咸臨丸を率いて渡米した勝海舟などが、帰国後、幕末の日本に伝えた最高権力者を入札(選挙)で決める合衆国の民主主義は、尊王攘夷で騒いでいた人々に、新鮮な衝撃を与えた。黒船と入札で、「アメリカ」の名前が浸透するのは速かった。日本だけでない。米国を含む世界の多くで「アメリカ」はアメリカ合衆国を指す。ついでながら、米国人が自らを「アメリカ人」と呼ぶ時、実に誇らしげだ。

ラテンアメリカでも自らを「ラテンアメリカ(América Latina)」として受け容れてはいる。だが単に「アメリカ(América)」、と称するケースが多い。その中の旧スペイン・ポルトガル植民地諸国を「イベロアメリカ(Iberoamérica)」と言うが、これに旧宗主国も加えた「イベロアメリカ首脳会議」などでは「我がアメリカ(Nuestra América)」という表現が多用される。そしてアメリカ合衆国を、単に「合衆国(Estados Unidos)」と呼ぶ。我々こそ「アメリカ」の本家、という意識が強いのだろう。イギリスのアメリカ植民は、スペインとポルトガルに一世紀以上も遅れた。

ラテンアメリカは、地勢的にも気候にも多様性に富む。温暖な高原地帯や南米南部、高峰が連なり交通を遮断するアンデス山岳地帯、高温多湿なカリブ沿岸の亜熱帯、パタゴニアの寒冷地帯、ジャングルと大河が連なるアマゾンなどの熱帯。また、人種的にも多様だ。その構成は地域によって大いに異なる。民族上「ラテン」ではない先住民とアフリカ黒人は、合わせても全人口の15%、つまり少数民族となっている。だが、マドリードにあるアメリカ博物館によれば、独立革命期の1820年代には過半数を占めていた(ただ、まだ植民地だったキューバと、ハイチに併合されていた現ドミニカ共和国は含まず)。その意味で民族的に「ラテンアメリカ」になったのは、独立後、と言えよう。

本項では、ラ米の多様性について、地勢的、気候上の多様性とも関連させながら、歴史上の背景を念頭に、人種面から概観する。


目次

ラ米人種分布
先住民(インディオ)
ラ米の白人
ラ米の黒人
ラ米の人種混交