先住民(インディオ)


 ヨーロッパ社会から見た新世界、アメリカには、アステカ、マヤ及びインカという高度文明を築いた先住民社会があった。スペイン人は新大陸で殺戮と掠奪と搾取以外の何物も残さなかった、という極端な評価を含め、欧米史観ではスペイン人の所業はまことに評判が悪い(別掲コンキスタドル(征服者)たち参照)。結果的に先住民人口が激減したことは間違いない。生き延びた先住民の多くが独自の言語と文化、生活習慣を、二十一世紀の今でも持ち続ける。
 

メキシコ中央部はナワトル人がサポテカ人らをも支配したアステカ王国、同南部からグァテマラにかけてはマヤ人の一大文明、エクアドル、ペルー及びボリビアはケチュア、アイマラ人らが形成したインカ帝国の版図だった。コロンビア中央部にもチブチャ人が開けた王国を築いた。現在の国土はいずれも高地、山岳地帯の占める割合が大きい。チブチャ人は広く中米沿岸地域一帯にも広がった。また広大な南米の他地域にはアラワク、グァラニ、など多様な先住民社会が展開したが、集権政府を持たず、且つ散在していた。

別掲の「ラ米略史」植民地時代でも述べるが、征服過程で先住民人口が激減した最大の理由は、天然痘や麻疹など、先住民に免疫が無かった疫病を白人が持ち込んだこと、とするのが近年の見方のようだ。特に亜熱帯の沿岸地域やカリブ島嶼部では壊滅的だった。アメリカ博物館では、先住民人口は1570年で850万人、とみる。それからさらなる減少をみたが、2.5世紀を経た植民地時代末期には1570年の水準に戻った。 

スペイン植民統治の第一段階でエンコミエンダ(Encomienda、先住民委託支配)」制が敷かれた。ヨーロッパ人「インディオ」と呼んだ先住民はスペイン国王の新たな臣下として位置づけられた。だが賦役と貢納の義務が課された。当初は「エンコメンデロ(Encomendero」がこれを執行した。彼らの個人所有地の大農園(アシエンダ)などの私的労働にも徴用された。エンコメンデロらによる先住民迫害については、自身征服者として新大陸に渡り、其の後聖職者となったラスカサス神父(Bartolome de las Casas14841566)の告発がよく知られ、次第にエンコミエンダ制は、地域によって時間差はあるものの廃止され、賦役と貢納は「コレヒドール(Corregidor」と呼ぶ王室官僚の手に移されていく。彼らの専横ぶりもことに有名で、先住民の待遇は寧ろ悪化したともいわれる。

これと前後してメキシコ、ペルー及びボリビアで大規模な銀鉱山が発見された。スペインを潤し、さらにはヨーロッパに貨幣経済を確立させたものだ。鉱山労働にも先住民が徴用された。在所から下手すれば何百キロも離れたところに、強制的に送られる。鉱山徴用期間は半年から1年くらいだったが、往復旅行期間を入れると、1年以上、在所を留守にすることになる。

酷使と遠隔地への徴用で、彼ら独自の共同体は次第にその規模が縮小し、メキシコなどでは「コングレガシオン(Congregación)」とか、南米では「レドゥクシオン(Reducción)」と呼ばれる強制集住も広く行われた。先住民を一箇所に集めて新たな集落を築かせるもので、多くの先住民が生まれ故郷を家族共々離れていった。中米や南米のカリブ沿岸などでは貢納と賦役を逃れるための共同体ごとの逃散も多かったようだ。 

スペイン王室は、先住民社会(República de los Índios。農村部)及び白人社会(República de los Españoles。都市部)を明確に分けた。先住民社会には原則として白人がおらず、使用言語は先住民のものが使われる。白人の宣教師らは教区司祭として先住民社会に教会を建設し、先住民語で宣教活動を行った、といわれる。またエンコメンデロにせよコレヒドールにせよ、徴税や労働徴用に当たってはカリブ島嶼やメキシコなどでカシケ(Cacique)、南米でクラカ(Curaca)などと称する首長を通して行った。一般の先住民が都市部での賦役や鉱山労働以外で白人と接する機会は非常に限られていた。

ブラジルでは先住民の多くが堂々と奴隷化された。ポルトガル王室は先住民奴隷の禁止勅令を何度も発してはいるが、先住民自体が広く分散し、半定住ないしは非定住型が多く、エンコミエンダの如く貢納、労働徴用ができる状況になかったことが奴隷化に繋がったようだ。奥地開拓とスペインの実効支配が手薄な領域まで支配地を拡大したことで有名なバンデイラBandeira。奥地探検)もつまるところは先住民の奴隷狩りだった、という事実もある。先住民は、白人が入り込めないジャングルに逃れた。或いは、スペイン植民地を含め、教会が散在する半定住型先住民を集め、定住農耕活動に当たらせ、且つブラジルの奴隷狩りから自衛させてもいた。 

独立革命後、先住民ゆえの徴税は解消した。多くが大農園主に雇用され、或いは伝統的な共同体を農村部に再形成した。ラ米独立期から180年経った今日、先住民人口は8倍に増えている。だが先祖代々の土地は大半が白人に収奪された、との思いは根強い。別掲の「ラ米の革命」メキシコ革命を参照願うが、メキシコ革命指導者の一人、サパタが掲げたのは先住民への土地返還だった。

1950年代のグァテマラやボリビアでも農地改革の一環として先住民への土地分配が実現したし、5060年代のペルーの農民運動は、68年に成立した軍政による同様の土地分配に繋がり、エクアドルにも伝播した。

だが、これら5ヵ国でも問題解決には至っていない。彼らの文化や生活習慣は観光客を呼び込んできたが、彼らの経済的な生活水準はどこでも最低であり、圧倒的貧困層を成す事実は認識しておくべきだろう。




ラ米人種分布  先住民(インディオ)  ラ米の白人  ラ米の黒人  ラ米の人種混交 

 

 

ホーム     
ラ米の政権地図  ラ米略史  コンキスタドル(征服者)たち  ラ米の人種的多様性 ラ米の独立革命 
カウディーリョたち  ラ米のポピュリスト   ラ米の革命 軍政時代とゲリラ戦争  ラ米の戦争と軍部 
ラ米と米国  ラ米の地域統合