ラ米の黒人


 先住民と同様、「ラテン」ではない人たちが、アフリカ人(黒人)だ。植民地時代、先住民労働力が不足すると彼らを奴隷として輸入した。ブラジルでは独立後も輸入を続けた。アメリカ博物館では、植民地末期の黒人人口を、スペイン植民地
37万人、ブラジルを208万、としている。だが、前者はキューバと現ドミニカ共和国の数字を含まない。Historia de EspanaEditorial Sintesis)のLa America Espanola1763-1898を覗くと、1817年のキューバの有色人種は34万人、となっており、大半を黒人と考えれば、ドミニカ共和国も含め、全スペイン植民地で大体80万くらいだった、と思われる。

180年経った今日、The World Fact Bookで判断すると、旧スペイン植民地諸国で10倍、ブラジルで5倍に増えている。

(1)奴隷貿易 

奴隷、というおぞましい身分は、征服者が被征服者を奴隷にするのは当然、という、考え方は、ヨーロッパやアフリカには古代からあった。近世のヨーロッパ人は、アフリカ社会の勝者から敗者を商品として買い付け、奴隷として新世界に海路輸送し、売却した。奴隷貿易だ。輸送途中で夥しい数の死者が出たと言われる。ヨーロッパ人がアフリカから新世界への奴隷貿易をほぼ公然と、且つ盛んに行った背景を挙げる。

  • 一般的にヨーロッパ人は、新世界で獲得する大農園、大牧場での肉体労働力を先住民、黒人、混血者に依存した(北米でも大農牧場の場合は同様)。
  • カリブ島嶼部では先住民が壊滅した。大陸沿岸部でも絶滅するか白人が入り込めないジャングル奥地に逃亡、先住民過少地域になっていた。
  • 先住民自体が、増加する白人の労働需要を満たせなくなった。加えて、亜熱帯低地での労働は黒人の方が適していると考えられた。
  • ポルトガル植民地は、当初沿岸部での砂糖生産を基幹産業とした。広大なサトウキビ畑の栽培、刈り取り、運搬、機械化されていない砂糖工場での搾汁など、重労働が必要で、これにはもともと奴隷が不可欠だった。

輸入された奴隷の数は、奴隷貿易の研究者として知られるカーティンの推定では累計で約930万人、この内ポルトガル領(ブラジル。米国同様、独立後も輸入)が365万、スペイン領155万となっている(増田義郎「物語ラテン・アメリカの歴史」。中央新書)。
 トルデシリャス条約でアフリカはポルトガル圏と定められた。従って正式にはアフリカから奴隷を輸送する権利は、ポルトガルが持つことになる。ポルトガル新世界植民地では、黒人奴隷輸入は植民期のかなり早い時期から行っていたが、十七世紀央に先住民奴隷が禁止された後、加速した。スペイン王室は、「アシエント」と呼ばれる奴隷貿易許可証をポルトガル商人に付与した。その後同条約は無視され、他ヨーロッパ諸国の海賊が奴隷貿易にも乗り出し、本来はスペインとポルトガルの領域の植民化も始まった。スペイン王室もアシエント付与相手を、イギリス人などに拡大する。

(2)奴隷としての黒人の社会

ポルトガル植民地では、砂糖生産に限らず、白人所有の大農園(ファゼンダ。スペイン語のアシエンダに相当)など肉体労働には奴隷を使った。バンデイラの成果として領域も拡大し、さらには大規模金鉱の発見などを経て経済規模が拡大、奴隷の需要も高まっていった。
 スペイン植民地での黒人奴隷は、概ね先住民が死亡、逃亡で居なくなったアシエンダでの労働力として必要とされたが、キューバのみで過半数に達する。他では大陸沿岸部の亜熱帯地域、特にコロンビア、ベネズエラ及びエクアドルに集中しているようだ。メキシコ、ペルーにも多く入った。

 黒人には先住民と異なりもともとの共同体社会が無く、奴隷主の言語を覚えさせられる。支配者側との人間的関係を持つ度合いは、先住民以上だった。スペイン植民地では物理的な生活の場が農村にあっても、白人社会(Republica de los Espanoles)に属した。 非人間的な待遇を受け、酷使に耐え切れず逃亡する奴隷もいた。ブラジルでは十七世紀央、逃亡奴隷が各地にキロンボ(quilonbo)と称する集落を築いたが、その1つパルマレスは数万平方キロに及び、人口も最大時5万人にまで達した、といわれる。メキシコでも同時期「サンロレンソ・デ・ロスネグロス」という逃亡奴隷の集落が形成され、当時の副王が共同体として承認する代わりに武力放棄を呼びかけたとの記録もある。
 ハイチの1791年の黒人蜂起、奴隷制廃止、この復活、そして1804年の独立という流れの中で、砂糖農園主でキューバに逃れた人も多く、キューバが砂糖の世界的生産地になった。スペイン植民地の奴隷輸入の過半数を占めるキューバの輸入は、実は大半がハイチ暴動後である。
 
(3)自由人になる黒人

 現地で出産させるため、女性奴隷も輸入された。現地生まれの黒人で自由権を得て社会進出を果たす人も出てくる。十八世紀のブラジルで金が発見されると、ここでの労働に駆り出された奴隷たちが、砂金の採取実績によって自由権を得た、とも言われる。
 ドミニカ共和国が1844年に独立したのはハイチからであり、以後、地続きのハイチから大勢の黒人が移ってきた。ハイチの脅威から一旦スペイン植民地に戻ったこともあったが、短期間で再独立したのは奴隷制(ハイチ時代には無かった)復活の恐れからだ。 
 スペイン植民地が独立を果たすと、
1820年代にチリ、中米、ボリビア、メキシコ、と奴隷制度廃止が続く。例外的に遅かったパラグアイ(1870年までかかった)を除く全ての独立国が、米国の奴隷解放に十年以上先んじ、1854年までには奴隷制度を廃止した。一方で、最後の植民地キューバでは1886年、独立国だが帝政のブラジルでは1888年まで制度は続いた。
 ニカラグア、ホンジュラスなどのカリブ沿岸一帯にイギリスが、またパナマ、コスタリカにも鉄道建設を請け負った米企業が、黒人奴隷や、自由人となった黒人労働者を伴って進出してきた。自由人としてそのまま残る人も多く、ニカラグアを始め中米の黒人の背景として記憶したい。パナマには運河建設にも黒人は駆り出された。

全体としては、奴隷身分であれ自由黒人であれ、白人との人間的関係の影響で白人社会への同化は先住民以上に進んだようだ。奴隷制廃止から一世紀以上経ち、アフロ・ブラジル、アフロ・キューバなどと呼ばれる音楽や芸術、或いは生活習慣で彼らはアイデンティティ復活に動いてはいる。だが、使用言語はポルトガル語やスペイン語であり、ラテンアメリカの一員という意識は強烈だ。 




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