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2019年9月12日(木)
形而上学の実践
 世界意志(物質・肉体)とイデア界(精神)と自我(私)とが、この世界・宇宙の本質であることが明らかになった以上は、その認識をおのれの人生に適用し、日々の実践において生かさなければ、たんなる思弁に終わってしまう。肉体の馴致については、すでに論じた。そもそも肉体を持った存在であることが、自我にとっての最大の不幸なのであるが、肉体を捨て去る決意でもしないかぎりは、肉体の悪夢と闘いつづけるほかはない。生まれた時から動物や人間は運動の欲求にとりつかれている。幼児が初めて戸外に出れば、自然と体を動かしたがるものだ。その欲求が抑えられれば、一生にわたって心身の関係が歪められてしまう。同じように、青年期に性欲が抑えられることによって、やはり心身関係が狂わされ、恥辱に満ちた人生に踏みまようことになる。そのことに気づいた時はもはや遅いので、日夜悪夢に襲われることになる。偽りの道徳や、家庭・学校・社会環境の圧迫による肉体の蔑視が、かえって大人になってからの堕落につながるのである。
 しかし、肉体に関しては、そもそも肉体をもって存在を始めたことが自我の不幸なのであるから、いまさら不平を言わないことにしよう。肉体との格闘によって、宇宙の真理がつかめたのであれば、それも真理のための大いなる犠牲である。自我は苦悩することによってのほかには、おのれに還れないのである。それにしても、人生を振り返ることは、肉体の恥辱と悪夢のほかにはない。自己の人生ばかりか、人類社会、人類史そのものが、悪夢以外の何ものでもない。そのなかで少しでも輝くものがあるとすれば、精神の歴史、精神的文化の歴史につきるのである。人類史ばかりでなく、個人の歴史でも同じである。もっとも心の安らぐいとなみの思い出は、少年期での知的いとなみである。もちろんそこにも肉体の欲望に由来するけがれはあるが、比較的純粋な思いでいられるのは、少年期に限るのである。青年期にはすでに性欲が精神に立ちはだかる。
 精神自体は肉体の働きであることを明らかにしたが、そもそもデミウルゴス(世界意志)が、この物質界を顕現するに当たって、イデア界の設計図に従ったことよりして、この宇宙には精神界への希求が潜んでいるのである。個人の肉体にも、イデア界への希求がある種のエロスとして存在することは、プラトンが明らかにした(*)。肉体から超越するには、まずこの精神的エロスの力によって、精神的いとなみに向かうことが、第一歩なのである。エロスがまだ性欲によって独占されていない少年期にこそ、もっとも純粋な精神生活があるのもその故である。そこで大人や、老年期になって、つねに少年期の精神生活をふりかえり、出来うべくんばそこに戻ろうとするのも、故なしとしない。むしろ、積極的にそこに還るべきである。ニーチェが精神の三転換の最後に、小児をもってきたのも、納得がいこう(駱駝・獅子・小児)。

(*注:プラトンはerosを語源的にpteros、すなわち翼からみちびきだしている。エロスは精神界へと魂が飛びたつための翼でもある。[パイドロス])

 確かに少年期の知識はたわいなく、その探究も浅い。しかし純粋な好奇心・探究心において、肉体を忘れ、われを忘れることは、その後の人生においてまず見られないであろう。いかに知識が深まり、賢くなったところで、大人の知識や認識はけがれており、ファウストではないが、いずれは倦厭にみちてゆく。知識に疲れはてて、帰るところは酒や肉欲では、結局廃残の身でしかない。むしろ小児に還るにしかないのである。肉欲を否定するわけではない。肉欲は馴致すべきものであるから。その欲求を精神的エロスに変えるためには、様々な手段があろうが、人生においてもっとも精神的であった時期の思い出に耽るのも、その一つであろう。
 人間は進歩するというのは、ある種の社会的に作られた迷妄である。肉体からばかりか、社会的に、<大人>になることを強制されるのである。社会人になってからは、何度も〈大人〉になれと言われたものである。大人になることで、何一つ良いものを見いだせなかったので、この言葉には反撥を覚えたものである。いまだに〈大人〉にはなりたくないと思っている。精神的にけがれろと言われるのと同じだからである。あるいはよく言って、けがれたくないならば、社会の常識、しきたりに従えと言うことなのである。いずれにしても、肉体的に成長するだけで、すでに精神はけがれているのである。それををキリスト者は original sin と呼んでいる。自我が肉体をもって存在していることの不幸である。
 後者の意味で大人になることは、確かに肉体の社会的馴致であり、暗黙のうちに肉体の欲求・欲望を認め合うことであり、ある種の妥協的な肉欲の肯定である。これを社会の基盤とするのが通過儀礼であり、結婚などの習俗であり、あるいは宗教的な世俗の戒律である。それらの習俗や戒律の範囲内において、肉欲は社会的にコントロールされるのである。しかし肉欲の社会的コントロールの中に安住することは、それなりの精神の安定をもたらしはするものの、肉欲との妥協において、すでに純粋な精神性を失っている。そればかりか、自我は社会性の中に安住することにより、すなわち類的意志の中に没することによって、その超越性を忘れるであろう。そもそも肉欲の根源は類的意志の中にあるからである。社会的コントロールではなく、自我自身のコントロールによって、肉欲から精神性へと向かうことによって、はじめて純粋自我の超越性の自覚が生まれるのである。 
 物質自体はなんら肉欲ではない。それ故に物質的宇宙は清潔であり、なんら肉欲と関わりはない。それ故に自然科学は、精神をひきつけ、自我の肉体からの解放をもたらしうるのである。肉欲を生むのは生命であり、しかもその物質的メカニズムそのものではなく、個としての生物の存在が、肉欲の根源なのである。個としての生命体は、他の個としての生命体を、食料として、あるいは繁殖のために欲する。生命体の個と個の間の争いが、肉欲のもっとも大きな動力である。個としての生命体は、自我を知情意にわたって肉欲の目的に奉仕させるのである。本来物質に対する好奇心や探究心も、物欲に発した関心ではあるが、知性の余剰なエネルギーが、イデア界に向かうことによって、精神による自我の解放の可能性が自覚されるのである。
 自我の究極の解放は、しかし、単なる精神によってはなされえないことは、すでに論じた。この無限の時空にわたって広がる物質宇宙の根底には世界意志(デミウルゴス)が、そして無慮無数の宇宙の形を偶然の確率によって生みだすイデア界がそのうちに潜み、さらに一見空とも思われるその暗黒の広がりを覆いつつむようにして<わたし>という自我が存在しているという、この三重の世界構造の認識において、自我の超越の意識がはじめて自覚されるのである。この自我はもはや肉体の自我ではないのである。精神そのものでもない。精神は超越的自我の意識が生まれるための、梯子もしくは渡し舟に過ぎないのである。純粋自我が生まれると同時に、もはや必要なくなる。それが肉体・物質からも精神からも超越した自我のあり方である。自我は物質や精神から見れば、ある種の<空>なのであるが、その存在は<わたし>の存在によって保証されている故に、単なる空ではない。世界意志が物質宇宙として顕現し、イデア界が形相として、あるいは概念として様々な宇宙の形となるように、自我は個としての意識のうちに顕現する。宇宙に意識が存在するためには<わたし>が必要なのである。<わたし>はいわば盲目のデミウルゴスの目となって、この宇宙に判定を下すのである。それが<わたし>の宇宙的使命である。
2019年9月8日(日)
文化的欲望について
 目的を持った行為は通常、達成と同時に充足が得られるはずである。特に肉体の欲求に関する行為は、欲求が満たされると同時に完結し、それ以上の欲望を生むことはない。空腹が満たされれば、食欲の目的は達せられたのであり、性欲が交尾によって満たされれば、それ以上の欲求が直ちに生じることはない。欲求の充足と目的の達成が一致しているのである。これが基本的に肉体の欲求と目的の達成との即時的関係である。
  ところが人間の場合、動物に共通しているこの欲求=達成の即時的関係が崩されている。なにかの行為がそれ自体で達成であることが、たいていの場合起こらないのである。それが起こるのは動物と同様、生理的行為に限られており、たいていの〈仕事〉においては、そのつどの達成は次々に次の欲求を生みだすのである。ある仕事をした場合、その成果がそれ自体で行為の充足を生むことはまれで、それに対する評価や価値といった、承認の欲求もしくは圧力がつねに伴うのである。商品を生み出した場合、それが売れなければ、それを生み出した達成感・充足は全くの無意味に帰する。文章を書いた場合、書き上げられた文章自体が作成者にとって、食事の満腹感を与えるわけではなく、それが人によって評価されたり、商品とならなければ、すなわちそれがなんらかの付加価値を与えられなければ、決して完全な充足感を与えないのである。
 行為がおのれ自身においてのみ留まらなければ、決して自己充足は生まれることがない。しかし、たいていの文化的行為は、それ自体には留まらないのである。芸術や文学やスポーツや遊戯やにおいて、行為自体が充足を生むことはまれである。たとえゲームのようなものであっても、ゲーム自体によって評価されなかったならば、あれほど熱中を生むことはないであろう。達成がつぎつぎに次の達成への欲求を生むように仕掛けられているのである。まして政治や社会活動やプロスポーツの観戦などは、他者への期待によってしか達成されない願望であるから、決して行為自体が充足をもたらすことはない。
 最も自己充足をもたらしそうな芸術や文学においても、事情は同じである。作品を制作しただけで満足する芸術家は少ないであろう。評価されてこそ、完全な達成の充足感が得られるのである。それは作品の製作そのもののもたらす充足感とは別のものであり、まさに人間に特有の文化的・社会的病態なのである。ビーバーはみずからが作ったダムを、他のビーバーに対して誇りはしないであろう。せいぜいみずからのテリトリーを守ることに精を出すであろう。ビーバー全体や、ビーバーの社会・文化のことなどを考えはしない。人間だけが、そうしたことに拘泥し、そうした意識の中でしか自己自身の行為の完全な充足が得られないという、不幸な存在なのである。
 人間の行為は文化によってがんじがらめに絡めとられており、その中でしか幸福や充足を感じることができないようにされている。生理的行為以外には、おのれ自身にとどまる行為には、ある種の虚しさを感じるように、文化的・社会的に操作されているのである。このことに気づいたのは老子であるが、老子自身もまた文化的存在であって、この虚しさを無為自然という行為しない行為の中に解消することを、唱道したのである(道の道とすべき{社会道徳}は常の道{不変の真理}にあらず)。犬儒派もまた、生理的行為の充足に真の満足を求めようとしたが、ディオゲネスにしても社会的活動は拒まなかったようである。キリスト者は、文化的産物をvanitasと名づけて、死と結びつけている。この世のすべては、生理的欲求のみならず、あらゆる文化的・社会的欲求も虚しいのである。この虚しさの逆転によって、キリスト者は神の中に真の自己充足を求めようとしたが、それにはすでに、そもそもの〈自己〉を失っていなければならないのである。自己(アートマン)を失うというのは危険な賭けである。自己を失う対象は、必ずしも神とは限らないからである。あらゆるカリスマは、信奉者の自己を失わせる。ヒトラーのために、天皇のために、自己を失った者の数は、キリスト者に劣らないであろう。梵我一如の陶酔もまた、文化的に仕掛けられた罠でありうるからだ。
 文化的欲望は、人間精神を不安定にする。これはあらゆる賢者が、多かれ少なかれ説いてきたことである。人間の苦しみは、生老病死がすべてではない。この世界が無常である以上に、人間の文化的欲望から生じる苦しみは深いのである。人類史はその悪夢の連続であるといってよい。さらに個人の歴史も、その苦悩の最たるものは、社会的・文化的に与えられたものである。それから免れるには、いったん動物にもどる他はないのであろうか。あるいは、なんらかのユートピアが可能なのであろうか。あるいは、人類文化・社会を克服する、究極の Nirvana に自我は到達できるのであろうか。もし人類の存在に何らかの宇宙的意味があるとするならば、これらの課題に答えを出すことであろう。
2019年8月26日(月)
知識とは何か
 なにかについて知るということは、本来生命体にとって本能的に与えられている情報である。これがなければ、誕生したとたんに生存の危機にさらされることになり、個体保存も種の存続もおぼつかない。海亀の子は生れたとたんに海へ向かって必死に歩き出す。誰によって教わった知識でなく、遺伝情報によって生体の行動が管理されているのである。しかし、それもある種の知識・情報にはちがいない。いわばソフトとしての先天的情報である。同じ知識的行動は、誕生したばかりのあらゆる動物や昆虫に見られる。大人になるまでの経験によって得られる知識は、たいていの動物ではほんのわずかであり、昆虫にいたっては皆無と言ってよいだろう。後天的ないし経験的な知識は、動物の一生にとって、まず無用なのである。あるいは、必要な知識はみずから探求しなくても、ほとんど親からの模倣によって与えられるのである(注)。草食動物の幼獣は、親の食べている草を食べさえすればよい。人間の子供の場合も、事情はほとんど同じである。

 鴨や雁などの幼鳥は、生まれた時に最初に見た動物(通常は親鳥)のあとに、とことん従う習性(刷りこみ)を持っている。それによって親の行動に従い、真似することによって、生存の保証を得るのである。同じことは人間の幼児についても言えるであろう。この成体(大人)に従うという本能的衝動は、以後の動物および人間の生涯の傾向を支配し、人間の場合には、あらゆる苦悩や心的異常の起源となるのである。

 人間の子供は、その後天的知識のすべてを親や大人から与えられる。みずから探求する知識は皆無といってよいだろう。食事その他の身体的必要に応じた知識は、動物の場合と全く変わりがない。親や大人や年長者の真似をするだけである。知識は動物の場合と同じように、真似から始まっている。しかし人間の場合、もっとも特徴的な模倣は、他の動物にはない言語である。言語は遺伝子によって伝わった先天的な部分があるようであるが(文法構造など)、その発話において、いわゆる母語によって支配されるのである。この母語の習得が、人間の子供にとって大きな知識の部分となるのである。
 人間のたいていの知識は、この言語の媒介によるものである。その他の感覚的知識は、動物と共通している。感覚的知識においては、むしろ動物の方が優れているといってよいくらいである。動物は人間よりもはるかに芸術的感性に優れていると言ってよいのかもしれない。ただ動物はそれを生存のために用い、芸術という遊びに使わないだけのことである。こうした感性的情報をも、知識としてよいのだが、ここでは狭い意味の言語的・観念的情報を知識としておく。いわゆる知識欲の知識である。
 生存にとって必要な知識のほとんどは、親や大人が与えてくれる。その段階で知識の役割は終わっているはずである。少なくとも動物ではそうであり、人間の場合もたいていはそのようである。もし生活環境や社会環境が安定しているなら、それ以上に何の知識が必要であろうか。イスラム社会のあるものでは、そのような状況において、女子には教育は無用とされる。男子もまた、場合によっては教育は無用とされるであろう。そうした社会では、一定以上の知識には、なんの価値もないのである。
 知識が価値を持つようになるのは、社会が不安定だからであり、その不安定のなかで、知識が有利な地位を保証するように思われるからである。その不安定社会をもたらしたのが、経済的競争原理に立つ資本主義であることは言うまでもない。そこでは知識は経済的・政治的〈力)をもたらすのである(Wissen ist Macht)。この力への意志が、知識と結びついた時、初めて近代的意味での<知識欲>が生まれたのである。明治の頃のこの国の知識人が知識欲に燃えたのも、ひたすらこの力を求めてのことであり、知識欲と国力の増大とは等価であったのである。その勤勉と刻苦とは、驚くべきほどのものである。それはそれとして、現代にいたっても未だに、この知識欲の亡霊は青少年ばかりか、たいていの知識人を悩ませているといえよう。大学受験には志望書を書かされる。何のための知識かを、常に問われているのである。
 なにかの知識について、知らないでいると恥ずかしいとか、社会の常識とかいわれる。その程度の知識ならまだしも、専門であれ学術であれ、ある知識を身につけるということは、必ずなんらかの競争意識を伴っている。すなわち他人よりも多くを知っていなければ、どうにも気持が落ちつかないのである。まだ他人から学んでいる場合ならまだしも、知らないでいることは愛嬌ともなりうる。しかしそれが専門とも学術ともなると、互いに侮蔑をかわすことになりかねないので、真剣勝負ともなるのである。歴史的にはニュートンとライプニッツの両偉人の、微積分をめぐる醜い争いが典型である。また知識が金や名誉になることからも、世界的に熾烈な知識競争がなされている。特にこの国やとなりの国では、N賞となると毎年大騒ぎをする。
 知識は社会や人類やのために、身につけたり探求したりするものではないであろう。たとえ真理であっても、それが社会や人類のために役立つものばかりとは限らない。アインシュタインの相対性原理は、自然科学や技術に大いなる発展をもたらしたが、同時に原子爆弾という大いなる不幸をももたらしたのである。広島や長崎の犠牲者にとっては、悪魔の真理であったと言えよう。原子雲の上にはアインシュタインの顔があるのである。もちろん苦渋にみちた顔であろうが。
 かつて真理は一部の人だけのものであって、場合によってはその一部の人々と共に滅びたこともあろう。数千年にわたって一部の人だけのものであった地動説を、コペルニクスはなぜ発表したのであろうか。それによって社会はなんの益も受けなかったのであるが。今でもたいていの人々には、天体は地球の周りを回っていると考えるだけで充分である。それどころか、星の日周運動さえ知らずにいても、日々の生活にはなんの支障もないのである。老子は民は無知であるほど良いと言っている。知識がかえって禍となるからである。中国人が杞の国の人の杞憂を笑ったのも、トリヴィアルな知識が生活の大本を損なうことを戒めたのである。たしかに、小惑星がニアミスを起こすことにセンセンとしている現代人には受け入れ難いであろう。自然界の禍は防ぎ難いものであり、滅びは常に可能として未来に控えている。それを知識でもって予防しようとするのも、知識の効用であり、目的であるかもしれない。しかし、人生は短く、人類の未来も不確かである。いま滅びようと、未来のいつか滅びようと、生命はもともとはかないものである。この宇宙は生命のためにあるわけではないからである。もし知的生命体になんらかの宇宙的使命があるとすれば、それはすでに数千年も昔に自覚されており、未来に期するところは何一つないのである。
 純粋な知識は、知識そのものの喜びの中に、そのいとなみの本質を見いだすであろう。知ることは自覚することである。それ以外の目的も効用もない。生活に追われている原始人はいざ知らず、知識には自己自身を拡大する働きがある。それをドイツ人はBildung(教養・発展・形成)と呼んでいる。Bildungは決して知識にあくせくすることではない。まして人から試されたり、試験されたりするものではない。おのずからなる興味と探究心が、知識欲の源である。そういう人を、ショーペンハウアーは、反語的にディレッタント(学芸愛好者)と呼んで、生活のかかっている専門家(Fachmann)と区別している。孔子が「古(いにしへ)の学者はおのれのためにし、今の学者はひとのためにす」と言っているのも、同じ意味であろう。
2019年8月24日(土)
肉体のない精神
 あの世または死後の世界への関心は、原始時代から見られる、人間特有の想像力の働きである。未開社会や古代では、肉体の他に霊魂のようなものが想像されたが、大体において肉体の観念を完全に離れるものではなかった。多かれ少なかれ、肉体的特徴を備えた霊魂なるものを想像したのである。幽霊や祖霊の観念に見られるように、夢の中、または幻視において、霊魂は肉体の形(Shape)を備えたり、肉体の情念や思いに動かされていると考えられた。死者の怨念や祟りや恩恵などという考えがそれである。古代エジプトや古代中国では、帝王はあの世でこの世とそっくりの生活を送ると考えられ、始皇帝陵に見られるように、この世の従者や事物を、土偶(俑)の形で墓に収めたのである。もとは生者の殉葬であったものが土偶などに代えられたのは、あの世での肉体・物体はこの世のものとは別レベルであると考えられたからであろう。この世とあの世とは、レベルを異にして、二重に出来ているのである。
 このような素朴な考えとは別に、インドなどでは、霊魂は死後ふたたび別の肉体に宿って、生まれ変わるという想像がなされた。霊魂は独立的存在ではなく、あくまでも肉体を必要としているのである。あの世ではおぼつかないので、この世に戻って肉体の生命を永続させたいという願望があらわれている。霊魂は時には生前の記憶を保っていて、それを思い出すことができるのだとされており、ダライ・ラマの例がその典型である。霊魂が記憶を保つかどうかは疑わしい。しかしたいていの宗教の死後の霊魂においては、それが当然のこととして前提されているようである。キリスト教でも、もし最後の審判の時に霊的肉体においてよみがえった霊魂が、記憶を保っていなかったならば、審判にもならず、精神障害者と同様、責任能力なしで無罪放免されるであろう。祖霊崇拝においても、祖先の霊に記憶がなければ、子孫になんの恩恵も祟りも及ぼすことがないであろう。
 しかし、死後の霊魂が記憶を持つというのは、単なる願望的想像であるか、宗教的に都合の良い考えである。記憶はもっぱら肉体の機能であり、肉体を離れた霊魂が、あくまでも記憶に煩わされるなどは、考え難いであろう。もっとも、ショーペンハウアーの言い回しを借りれば、この世で覚えたラテン語を、あの世へもっていくことが出来たなら、すばらしいことであるが、しかしあの世でこの世の知識など役にたつであろうか。
 霊魂はこの世での執着を残すのであるという考えがある。恨みや愛着が、霊魂の<成仏>を妨げるのであると。怪談にはそういう話が多い。それならば、霊魂はまだ肉体を離れていないのだということになろう。一種の肉体的霊魂となって、この世のどこかに、さまよっているのである。しかしそのような特別な物質の存在を検出した人も、証明した人もいない。この世に存在するのは、物質的・肉体的生者だけである。すると疑われるのは、生者の側であるということになろう。死者に対する強烈な関心が、生者の側に特別な想像や、超常現象を引き起こすのであるといえよう。幽霊は確かに、生者にとっては存在する。死者の記憶は、確かに生者が受け止めている。しかし死者にとっては、おのれの存在や現世の記憶などは、どのようなものなのであるか。死者の立場にたって、そのようなことを考察することが大事であろう。生者の勝手な願望や都合はどうでもよい。それらはすべてこの世に属しているのであり、生者の肉体や、肉体に支配された情念や思考にもとづいているのである。
 そもそも霊魂という特別な存在があるであろうか。もしあって、生きた人間の本質的存在をなしているならば、肉体があろうとなかろうと、なんの変化もこうむらないはずである。生きていようと死んでいようと、霊魂は不変でなければならない。霊魂にあらわれてくる様々な思いや、心情や情念や思考は、すべて肉体に属する働きであり、霊魂にはなんら直接的影響を及ぼさないはずである。もし肉体に影響されるならば、死後に霊魂は異なった存在となるであろうし、そもそも肉体と共に滅びても不思議はない。肉体に影響されながら、そのままに霊界におもむくと考えるのは、生者の勝手な想像である。あの世でも、肉体のふらちな欲望に相変らず左右されたり(スェーデンボルグも地獄でそういう魂を集めている)、懲罰をこうむったりするわけである。
 こうした粗雑な民衆の想像とは別に、霊魂を精神的なものと考えるのが、西洋哲学の伝統である。霊魂(soul,Seele,ame)と精神(mind,Geist,esprit)との区別は、ギリシャ哲学に始まり、現在に及ぶ。霊魂はどちらかというと生命的であり、精神は生命的である場合も霊魂の頂点に立つか、キリスト教やデカルトの場合のように、肉体的霊魂とは別の実体である。霊魂については、肉体の働きであるということはだれにも分かりやすいが(霊魂のことを肝とか腹とか心とか、臓器で表わすのが普通である)、精神とは一体なんであるか。精神を霊魂・魂と同様な意味で使うことも多いが(学校ではよく精神がたるんでいるとか言われたものである)、ここでは厳密に区別をたてることとする。
 精神(ヌース)を考える機能とするのは、ソクラテス・プラトンに始まるであろう。魂のなかでも思考する部分を特別とみて、精神と名づけたのである。これが肉体的魂から分離して、死後肉体の桎梏を離れ、精神だけの世界へおもむくと考えることによって、精神と肉体の二世界論(Zweiweltentheorie)が成立する。魂が肉体の形を持つのは単に比喩的であって、精神的霊魂は死後、純粋な精神界であるイデア界へとおもむくものとされる(「パイドン」「パイドロス」)。この肉体と精神の分離は、新プラトン派ではさらに徹底される。思考が肉体と異なって、特別な世界にあずかるとするのは、イデア論がその基礎にあるからであり、この物質界すべてを支配しながら、それとは本質を異にする理性界の存在を信じたからである。肉体・物質は影であり、その根底にある精神が真実在である。
 しかしながら、精神の本質的機能である思考そのものは、はたして肉体とは無関係な独立的働きであるのか。そこまでは、いかなる精神論者も肯定できなかったであろう。何らかの理由で精神は肉体と結び付けられているのであり、しかも肉体から大いなる影響を受けているのである。古代人はそれを魂の没落ととらえたのであり、キリスト教はそれを原罪と言いかえた。没落した魂は、さいど精神界へと上昇しなければならない。それには鈍重な霊魂である肉体の桎梏を断たねばならないのである。しかし思考のどこまでが肉体にもとづき、どこからが純粋精神のものなのか。肉体・物質に向かう思考と、精神のみの純粋な思考とに分かつことも出来ようが、そもそも思考のエネルギーはどこからもたらされるのか。肉体のない精神ははたして思考するのであるか。経験的に言って、肉体のエネルギーを借りずに思考することは不可能である。思考には脳に厖大なエネルギーを供給することが必要なのである。断食や肉体の酷使をしながら、哲学や学術に耽ることは不可能であろう。そもそもそれ自体でエネルギーを持たないものが、独立した存在もしくは実体であろうか。かりに真の実体(スピノザの神)からエネルギーを受けているとしても、物体も同じことであるから、精神と肉体の本質的区別は立たないことになる。
 このように、思考を精神の本質とし、肉体・物質と区別することには、大いなる難点がある。それでは思考以外に、精神の本質は考えられるであろうか。霊魂論では、精神は霊魂の頂点に立っている。それを特別視しないならば、その他の霊魂の機能はどうであるか。動物と共通する霊魂の機能、生理的欲求、情動、情念などは、だれもが肉体そのものと認めるであろう。情念の中でも、愛や共感といったものは、確かに宗教では特別なものとされるが、それが肉体と独立した働きであるという保証はない。共感すれば胸が痛むのであり、愛すれば心臓が踊るのである。愛や共感をあの世まで持っていける保証はない。愛は永遠ではないのである。しかし永遠のように思いこむのはなぜであろうか。
 この世界の本質はだれもが知るように物質であり、無常であり、永遠に変わらぬものは何一つない。しかし物体を動かし、肉体を動かすエネルギーのみは、常に変わらず働いており、物質のみはその本質において、永遠であるといえるであろう。この世では、精神とは異なり、物質が永遠のエネルギーなのである。その変化を無常と感じるのは、人間の精神が永遠ではないからである。では永遠のエネルギーである物質とはなんなのか。この宇宙空間では、物質粒子がたえずわきたっては対消滅している。生成への無限のエネルギーが物質である。これを形而上学的に表現するならば、ショーペンハウアーにならって、宇宙意志と呼んでよいだろう。この宇宙意志・世界意志はまた肉体の本質でもある。個としての存在のあらゆる活動、欲動、情動、情念、思考のすべてを動かしている根本の衝動が世界意志なのであり、世界意志はその本質において永遠不滅である。人間の情念が不滅に感じられるのは、この根本の世界意志にあずかっているからである。
 この世界意志の立場からは、個としての人間には死後の世界はない。世界意志は普遍者であり、そこには個の精神であれ魂であれを、入れる余地はないのである。個として生きた人間は、無として普遍者の海に消え去る。肉体も魂も精神も、そも世界意志の前には無に等しいのである。世界意志はふたたび新たな個を限りなく生みだすであろう。それが同じ個である保証は全くない。ニーチェがいだいた永劫回帰の希望も、56億7千万年後に弥勒の再来を期するよりも確率的に低いであろう。しかし世界意志は無限の宇宙を生みだすのであるから、確率的にわずかでも可能であるかぎりは、永劫の後に私が再生することもありえるのであり、しかも時間は現象的なもの、あるいは現象に付随するものであるから、永劫も瞬間も同じものでありうるのである。私は死んだとたんに目覚めているかもしれない。
 永劫回帰の思想は、あの世とも死後の世界とも無関係であり、この世が永遠に繰りかえされることになり、二世界論の否定の上に立った永世の探究である。当然ながら肉体と精神は仲良く共存している。精神が肉体を高め、純化し、肉体は精神にエネルギーを供給して支える。死はもはや恐るべきものではなくなる。むしろ生こそがすべてであり、永劫にくりかえされても悔いのない、恥や恥辱のない人生を送ることに努めねばならない。「汝の人生が永劫にくりかえされるものとして行為せよ。」これが永劫回帰の範疇命令である。
 永劫回帰の思想は一見生を肯定しながら、死の讃美につながる危険もはらんでいる。「悠久の大義」に生きることが大事なのであり、そのためには勇敢さや、忠誠心などの、<無私>の行いに陶酔し、死を死とも思わなくなることである。死によって永遠に生きるという、滅私奉公的な道徳に堕してしまうのである。生の絶対肯定が、あたかも死を克服するかのような錯誤におちいらせるのである。死はしかし、単なる罠であるかもしれない。死は何一つ生にもたらしはしないかもしれないのである。
 精神も世界意志も、あの世の存在を保証しないことを、ここまで述べた。精神は肉体に支えられ、たえず肉体に影響されている。世界意志は個の存続とは相容れない。肉体の働きの一部を、魂として天国や地獄のためにとっておく、宗教のドグマはいざ知らず、死後に残る肉体の部分はまずないであろう。もし肉体が滅びたのちにも残るものがあるとすれば、それは肉体と共存しながら、肉体の影響を受けずに、しかも一生に渡って変化しないものでなければならない。変化しないという点では、思考のパターンや概念に注目して、それらが普遍かつ不変であることから、物質界とは違ったイデア界を想定したプラトンが、イデアに参与する精神を不滅としたのもうなづける。しかしイデア界に向かうには、エロスという肉体のエネルギーが必要なのである。死によってこのエロスを欠いた精神が、どのようにしてイデア界に上昇できるのか。新プラトン派では、このエロスを精神化しているが。
 肉体の中にあって、唯一不変なものがある。これについては再三論じたが、死後の世界との関連でくりかえすならば、それは<自我 Ego>である。ここでいう自我とは、自己意識のことであり、かつ人生の体験の記憶から経験的に自覚される自我のことではなく、自己が自己自身に向かう、内在的な純粋自我のことであり、なんらかの体験をきっかけに意識される己自身の存在の認識である。この発端は幼児期にある。それ以後この純粋な自己認識自体は、いかなる体験の積み重ねにおいても変化しないのである。それを肉体の成長に伴う変化と混同してはならない。赤子の頃の写真に写っている私と、いまの私とは、天と地ほども違うであろうが、自己意識においての私は同一なのである。この認識論的に言う<統覚の先験的統一>は、肉体に一切影響されない。多重人格者でも、現われた人格においては同一である。この自我の同一性を単に記憶に還元することはできない。私が私であることの自明性、確実性は、単に記憶によって保証されるものではないからである。私は多くのことを忘れるが、私が私であることを忘れることはない。少なくとも、私が意識的存在であるかぎりは、すなわち動物のように本能的に行動するのでないかぎりは、(その場合でも私はそのことに驚いている私自身を見いだすのであるが、)私の同一性の意識は失われない。
 もし不変なもののみが不滅であるとするならば、純粋自我こそがそれに相応しいであろう。この自我そのものは不可解であり、精神の把握を超えたものである故に、精神界ともまた異なっているであろう。自我は唯一無二の存在者であり、普遍概念として、すなわちイデアとしてとらえることはできない。したがって、自我そのものはイデア界におもむくことはない。イデアとして存在するのは単に個(individual)の概念にすぎない。また無意識のエネルギーである世界意志とも、そのエネルギーを借りながら、意識の次元における存在である点においてばかりか、普遍者である世界意志に対して、個としての現象性をもって対峙する点においても異なる。それゆえに、これまで人類がこの世界の本質として見いだした、イデア界に対しても、物質界(その形而上学的本体である世界意志)に対しても、同等の自立的本質を主張できるのが自我なのである。自我が肉体の死後におもむくのはあの世ではない。物質は物質であることを持続し、イデア界は永遠不滅であるように、自我もまた自我であるより他の何ものでもなく、消滅も生成もないのである。自我は自我であることによって、生死を超越しているのである。このことに気づいた少数の神秘主義者たちは、「私が神である」と叫んだのである。
2019年8月23日(金)
肉体の快について
 肉体は何を求めてこの世に存在しているのであろうか。単なる知情意だけでは不充分である。知情意、すなわち知の働きや知識、情念や感情、意欲や野心なども、ある程度コントロールすることが出来るが、それでもって完全に肉体の欲望・欲求を断ち切ることが不可能であることは、だれもが知っていよう。瞑想法、呼吸法、自己催眠、禅などによる意識の集中によって、肉体の欲望を克服しようとしても、せいぜい知情意においてある程度の平静が得られるだけで、すぐさま日常の不安定な状態に返ってしまう。なにかが根本において欠けているのである。肉体の本質を見誤っているのである。
 肉体は単なる知情意からなるのではないであろう。肉体のこの世に存在する目的を、あるいは肉体の欲求の根本を知らねばならない。これは実に単純な事実であり、あまりに平凡であるが故に忘れているのである。すなわち、肉体の求めるのはただ一つ、〈快〉である。知情意をコントロールするとは、この快の欲求をコントロールすることなのである。それゆえに、知情意をコントロールすれば、常に水面下で肉体を欲求不満におとしいれることになる。肉体はつねに復讐の機会をうかがっている。単なる瞑想法では、肉体の快への欲求を一時的に眠らせるだけである。肉体を苦しめる苦行者は、快を別の方面に求めるか、あるいは山伏のように精進落しをして、肉体の機嫌を取るほかはない。
 肉体の最初の快は生理的な快であることはだれもが知っている。それによって生存の基本が保証される行為にともなう快である。食と排泄と、さらに運動の欲求の充足であり、長じては類の存続のための交尾の快である。これらの快が満たされた上で、さらに社会的快の充足が、動物及び人間に、欲求としてあらわれる。母子及び同類の間での接触の快、さらに進んで、人間社会での社交の快など、肉体の快は精神的快へと拡張されてゆく。精神も肉体の機能の一つであるから、快の追求が心身に及ぶことは当然である。これらの生理から精神にまで及ぶ快の追求が阻止されたり、挫折したりすることによって、低次のレベルにおいては肉体の苦痛が、精神においては煩悶や苦悩が、あるいは退屈や不満が生まれるのである。
 こうした肉体の快の欲求を無視したり、気づかずにいると、何とはない不快、欲求不満が日常において生じることになる。つねに肉体がどのような快を求めているのか、一日に一度は反省してみるべきであろう。それは飼い犬を散歩に連れていくのと同様の、肉体という伴侶に対する義務であろう。つまらない精神主義が子供時代を支配していて、肉体に対するメインテナンスや、セルフケアをないがしろにするような育て方がなされてきたために、肉体と精神の乖離が極端化してしまっている現代人にとって、肉体の飼育法を若い頃から心得ることが何よりも肝心であろう。AIなどにうつつを抜かしているよりも、まず何よりも人間という、このやっかいな肉体=生命体をどうにかしなければなるまい。
2019年8月20日(火)
肉体の馴致
 人は動物・生命であるため、圧倒的に肉体・身体に支配されがちである。これが人生において最大のやっかいであり、自立的精神にとって最大の困難である。生まれた時から、このやっかいな物質的存在は、自我をおいたて、みずからの欲望や必要のために酷使する。この主従の関係を一生にわたって継続しているのが動物であるが、人間もほぼその例にもれない。少し精神を働かせるならば、この本末転倒の不条理な主従関係に、たいていの理知的存在なら気づくはずである。肉体・身体はコントロールし、支配するべきものであり、あるいはよく言って、がえんぜないペットのようなものとして飼い馴らすべきである。禅でよく見る、十牛図(*)がその理想を描いている。肉体はしかし、牛のように鈍重なものではなく、神仙図で見られる、虎のようなものとした方がよかろう。下手をすると食われてしまうのである。

(*)禅では牛が象徴するものは真理(仏性)であるが、ここでは肉体のたとえとする。

 肉体・身体がやっかいなのは、精神活動そのものが、肉体のエネルギーなしには立ち行かないことである。霞を食う仙人や断食行者はいざ知らず、朝起きて一杯の牛乳でも補給しなければ、文章を書く気力も起こらないであろう。それはまだよしとして、物事に向かわせる意欲自体が、自らの内部身体を意識してみれば分かるとおり、腹部や心臓や肺やの活動から生じているように思われることである。すなわち思索でさえ、その原動力は身体にあるのである。肉体が疲れていたり、病気であったりすると、てきめん精神方面へのエネルギーの出し惜しみをする。むりをすれば肉体もろとも、共倒れである。
 とはいえ、精神活動は、純粋に肉体的な活動、食べたり、運動したり、色気を催したりすることとは、別に考えてよいだろう。後者はもっぱら肉体のためのいとなみであるが、思索などということは、本来の肉体にとって余計なことであり、むしろ肉体にとっては嫌悪の対象であろう。もっと快楽的なことに使いたい肉体のエネルギーを、精神的なことに費やすだけでも、ある種の肉体のコントロール・馴致はできているのである。肉体・身体・物質は、それだけが宇宙の全部であるならば、なんともつまらない宇宙である。それらのエネルギーをある別のものに向けさせることが、この宇宙では可能なのである。それを古代人は形而上学的思考において、イデアの希求としたのである。すなわちフィロソフィアである。
 イデアが何であるかは、ここでは深入りしない。単純に理念的なものとしておく。これを体感するには、良いクラシック音楽を聴くとよい。音楽は身体・肉体のないたましいと言ってよかろう。宇宙が音楽だけで出来ていたら、なんとも清潔で、面倒のない世界であったろう。しかしその音楽も演奏家の肉体が生み出しているのである。つまり、演奏家はイデア界を感性的に生みだすために、肉体のエネルギーを転用しているわけである。これが精神による肉体の馴致の良い例である。
 同じようなことが、実はたいていの物を造ったり、創造したりする営みにおいて行なわれているのである。アリストテレスは原因を作用因、質料因、目的因、形相因の四つに分かっている。そのうち目的因、形相因がイデア(形相)にかかわってくる。なにかの目的、もしくは設計図に従って、物を造ったり建設したりすることは、その営み自体が、たとえ肉体の目的のためであっても、ある種の精神的活動なのである。家を建てるということは、家の設計図がイデアとして予めなければならない。それに従って肉体を駆使する大工は、その意味でイデアに奉仕しているのである。それもまた肉体の馴致である。たいていの人間にとって、<仕事>が唯一の精神活動となるのである。
 人間社会においては相互的監視である法律や〈道徳〉やマナーによって、ある種の社会的肉体の馴致が行われる。しかし、それらは真の肉体・身体の精神的馴致ではなく、単なる他者に対する惧れから(フロイトの言う超自我から)発したものである。他者や権力の監視のないところでは、肉体はたちまち反乱を起こすからである。
 肉体は生まれながらに自我に伴っている、否応なしの<旅の友>なのであり、愛すべく、憎むべく、あたかも愚鈍ではあるが正直この上ないペットのごときものである。ペットがもし散歩にも出されずに、糞尿にまみれた不潔なところに縛られていたならば、とてもそれを飼い馴らすことは出来ないであろう。飼い主に噛み付くことになるであろう。ペットについてはその習性をよく知らなければならない。同じように、常に肉体の養生を怠らずにいれば、自ずと肉体は穏やかになるであろう。虎のような肉体は牛とも羊ともなるであろう。それに御すことによって、自我はより高次の世界を目指すことが出来るのである。
2019年8月8日(木)
夏の祭り
 梅雨の明けぎわから、関東の一円でいろいろな祭りがもよおされる。蒸し暑いなか、隣町のことであるから、夕方見物に出る。ふだんは開いているとも知れない閑散とした商店街に、山車が何台も繰りだして、年に一度の賑わいを見せている。太鼓を叩いているのはおもに少年少女だ。ひょっとこや翁が踊っている。ひっかわせというほどのこともないが、山車どうしが挨拶を交わすのは面白い。狭い駅前に勢ぞろいしたところが、一番の盛りあがりである。山裾のハイカー以外には知られないO神社の祭礼ということであるが、町の人の年に一度のコミュニケーションなのであろう。因みにどこの祭りでもそうだが、人の出は圧倒的に青少年と子供づれである。
 次の土曜日には、北の方の町の水天宮祭の花火を見にいった。歴史的には新しく、R川の岸に見つかった水神の石の祠にちなんで、水天の神社が作られ、河原でのこの祭礼として始まったという。水神は龍か河童であろう。水天とはインドの神(ヴァルナ)で、もと天空の神であったが、他の神に地位を奪われ、水の神となったものを、日本へ来て、もとの天空神として、記紀の最初の神(アメノミナカヌシ)と融合したのであるという。そこで舟山車と花火の組み合わせも納得がいく。とにかくR川上に浮かぶ、鉦太鼓を鳴らしたぼんぼりだらけの山車と、騒々しくも華々しい天空の火花とは、幻想的な見ものである。花火は川向うの崖の上の、戦国時代の知られざる城跡から打ち上げられる。二度目の見物であるが飽きない。見物客はやはり青少年と若いカップルと子供づれの独壇場である。

 

 
2019年7月26日(金)
憎しみの哲学
 愛については多くの思索がなされている。しかし憎しみについては、愛の相関者としてのほか、独立の情念として扱われることは少ないように思う。なにごとにも、ネガティヴなことには、正面から向き合うことがためらわれるのである。憎しみの根源は、生命そのものの中に胚胎している。生命の頂点に立つ人間は、とりわけこの情念に強く支配されているはずである。まさに生命進化の原動力でもあったのだから。このことを考察していく。
 憎しみの根源は、生命体の二重の本能、種の持続と個体保存とから発していることは、間違いないであろう。個体保存の本能は、たとえば幼獣や雛鳥に見られる、親からの乳や餌の奪い合いに、まず典型的に現われている。他の個体はすべてライバルなのである。親からの世話を独占するためには、他の兄弟姉妹は邪魔物であり、憎しみの対象となる。この憎しみを持たなければ、〈生存競争〉に負けて、個体は滅びる他はない。しかしこの憎しみによる争いを仕掛けているのは、まさに生命の種の存続の要求なのである。ここに憎しみの、二重のメカニズムが現われている。一つは、個体のエゴイズムに基づく個体間の争いから生じる憎しみであり、いま一つにはその争いをけしかけている、優良な種を残そうとする種の保存の原理、すなわち全体への意志に操られた憎しみである。後者と前者は、時に区別しがたいのであるが、原理的に分けることができよう。
 このように、憎しみは個体のエゴから発するものと、全体への意志から出でるものに分けることができる。個体のエゴから発する憎しみは、日常的にだれもが抱いており、ごく分かりやすい。それだけにコントロールする手段も、比較的容易である。すなわち、なんらかの心理的転換によって、愛に転化するか、または沈静化や忘却によって無関心や、無感動に陥ればよいのである。あるいは人間相互の利害関係、または社会的利害関係によって、憎しみを抑えこむことになる。上司や権力者の理不尽に対して、逆らえなくなるのも、この利害関係の意識(生活がかかっている)が強く働くからである。こうして憎しみは通常、表に出すことがさけられる。
 人間は誕生以来、親を始め、その他の他者、社会組織に依存しなければ、個として存続できなくなるような状況におかれている。いわゆる<世界内存在In der Welt-Sein>なのであり、この世界というのは、主として人間社会と置き換えてもよいであろう。アリストテレスの言うポリス的動物である。たいていの個人の人生は、他者から愛されるよりも、多く憎しみを受けている。また愛よりも多く、憎しみを他者に抱くものである。さもなければ、生命体の間での生存競争に打ち勝つことはできない。個体間に憎しみを動力とする競争が必要であり、勝者となることが要請されるのも、まさにこの社会において有利な立場に立つことが出来るためなのであり、そのためには個体は他の個体を憎むほかはない。人間に出来ることは、せいぜいこの憎しみの発現をフェアに行うルール(すなわち法律)の制定ぐらいのものである。社会もまた、社会が社会として成立するためには、個体間の無秩序な憎しみあいは、避けねばならない。こうして、整然とした憎しみの上に築かれるのが、人間社会であり、その秩序であり、制度であり、憲法である。
 奴隷制や封建制、絶対主義や資本と労働の争い、支配的官僚国家などなど、人類のあらゆる社会は、こうして個体間の憎しみを階層化し、階級化し、格差をつけることによって出来あがった、憎しみの構築物なのである。民主主義もその例にもれない。多数の専制によって、少数者の憎しみを抑えつける制度に過ぎないのである。こうして出来あがった社会集団や国家は、それ自体がそれぞれの集団的エゴを構成し、集団同士での間の新たな憎しみを醸成してゆく。これが本来の全体への意志(類的意志)に基づく憎しみの原理である。
 個体は個体であるかぎりは、みずからの憎しみの淵源が全体への意志に操られたものであることを知らない。人間は憎しみによって社会を築くのであるが、社会的存在としてみずからを確立することによって初めて、みずからが類的意志の産物であることに気づくのである。野心や志といったものによって、類的意志をあおられ、憎しみのかたまりとなることによって、個体間の生存競争を勝ち抜いたものが、社会の上層に到達できるのである。そうした立身や保身が社会の存立を支えており、その結果確立した制度の維持と存続が、その社会の上層部の至上命令となるのである。この段階では全体への意志は、一つの類としての社会体制や国家の安定と存続に向けられており、上層部の憎しみは、その存続をあやうくする、異端分子や破壊分子に集中する。他方、憎しみの相関物である愛の幻想を、類的意志とその産物に向けさせることによって、個人意識に目覚めた個体本来のエゴを懐柔するのである。
 類的意志より発する集団のエゴとその憎しみは、集団間の熾烈な争いをもたらす。これが戦争の心理的起源であり、小は学校やグループ内での<いじめ>から、集団競技、企業間の競争、国際紛争、世界大戦に至るまで、全体への意志に逆らう個人、あるい他集団に対する、集団的憎しみの発現が、異端者、競争者への排除と殲滅へと向かうのである。この強大な集団的憎しみに対しては、人類はほとんど打つ手を持たない。人類社会が社会として存在するかぎりは、その本質に根ざした宿弊なのである。社会の根幹が憎しみによって築かれているかぎりは、その憎しみを排除することによって、社会そのものが崩壊しないかぎり、集団的憎しみは消え去らないのである。
 国家のない社会というものを、共産主義者やアナキストは夢想するであろうが、人間の中から全体への意志を根絶することを、まず考えるべきであろう。そうしてこそ初めて、集団や社会や、国家の本質が見えてくる。そうしなければ、憎しみによる支配は終わらないのである。ヘイトスピーチによって露骨に表わしだされる、全体への意志に服従した個人の虚無的自己充足は、国家そのものの本質をも顕わにしているのである。国家は必然的に他の国家を憎むのである。国家が全体への意志の発現そのものであるかぎり、国家間の争い、民族間の憎しみあい、戦争はなくならない。憎しみを終わらせるには、国家や集団を終わらせねばならないのである。
 全体への意志は、個人をその中に呑みこみ、自己喪失と全体との一体感によって、強烈な陶酔感をもたらすことは、すでに何度も論じた。全体主義はこれまでの人類社会の宿命なのである。類がすべてであり、個人は無である。

 これまで人類社会は愛の幻想によって、自己欺瞞に陥っていた。と言うよりもそうした自己欺瞞によって、権力意志や、支配欲を美化しようとつとめたのである。愛とは、基本的に種の保存の本能の遂行において、生命が企んだ生理的・心理的快感に過ぎないのであり、一過的・一時的であり、それを持続しようとするのは、単に個体のエゴにすぎないのである。決して万有引力のような、普遍的な原理ではなく、愛によって戦争が収まった例はないのである。動物や人間の社交本能もまた、相互防禦という個体のエゴにもとづいたものであり、決して種の繁殖に見られるような愛他的な情動なのではない。ましてや全体への意志に操られた国家愛や、民族愛などというものは、単なる虚無的な陶酔感なのであり、つねに憎悪によって裏打ちされている故に、争いと破壊への原動力となり、生命を躍動させはするものの、決して調和と平和をもたらすことはないのである。
 単なる愛は基本的に無力である。愛は憎悪によって常に護られていなければならない。実のところ、愛はネガティヴな情念であり、人間をポジティヴに動かしているのは憎悪なのである。そうでなければ、母親は子を育てることが出来ないであろうし、国家は敵から自国を守ることができないであろう。憎しみをなくすには、愛もなくさねばならない。生命原理のもっとも根本的なものを、克服することなしには、調和も平和も訪れないのである。これを古代の哲学者は心の平静(アタラクシア)と称し、無為自然と称した。自然の摂理は、エンペドクレスが考えたようには、愛憎をもって動いてはいない。生命以前の無機界の法則こそが、生命をのり越えるための原理となるのである。生命はいわば自然界の癌のようなもので、その頂点に立つ、知的生命体を自称する人類も、このガン細胞の最たるものなのである。物体はそれぞれおのれの好きな道を歩む。そこに物体同士の自然の引力が交互に働き、調和した運動が生まれる(天行健)。それは愛でも憎でもなく、まさに無為自然の法則そのものである。個々人が好きなことをして、なおかつそこに自然の調和が現われるならば、それこそが愛憎を超越した、すなわち生命を超越した、極楽・天国の誕生であろうが。
2019年7月11日(木)
<ぼっち>
 ひとりでいられないという、この大いなる不幸 ―― ラ・ブリュィエール

 人出で賑わっている学校とおぼしきあたりを散歩していると、いつの間にか一人の少年が側に連れそっている。何となくどこかで知っているような少年で、体操着を着ていて、この学校の生徒らしい。学園祭であるか、体育祭であるか、あちこちで何かの催しやスポーツなどが行われている。学校時代を思い出し、懐かしいような、胸苦しいような気持になっていると、ダンスだか組み体操だかの演技が、男子だけで行われているところにさしかかる。すると傍らの少年が、おじさん、ダンスをしたことがある、と訊くので、フォークダンスならあると答える。少年は学校の中では、これといった活動に属していないらしく、その孤独な焦燥感のようなものが痛いほど伝わってくる。
 二人で脚を止めて、組み体操のようなダンスの演舞を見ていると、あの中に友達がいるのだと少年が言う。それなら一緒にやりな、と励ますと、ちょうど演舞の切れ目で、少年は少し高くなった土の舞台に飛び上がって、なにやら友達と交渉していた。どうやら相手をしてくれるようで、ふたたび見るからに乱暴な演舞が始まった。四五十人ほどが二人ずつ組になって、見方によっては格闘技のようなダンスをする。少年は相手に振り回され、たたきつけられて、いかにも苦しそうである。首に腕をまわされ、足先を絡まれ、烏賊のように引き伸ばされている。首を締めつけられて、少年の顔は苦痛にゆがんでいる。それでも耐えて、演舞から逃れようとはしない。見ると、全員が全く同じような、苦しめる者と、苦しめれれる者との、整然としたダンスなのだ。少年の苦痛の表情は、むしろ孤独から逃れた快感のようにも思われた。
 人は、特に若年期においては、集団から疎外されることをことのほか恐れる。たとえ集団が暴力や苦痛の温床であってもである。場合によっては集団は死を命じ、死に追いやりさえするのである。それにもかかわらず、一人<ぼっち>でいることの苦痛に比べれば、集団の与える苦痛は、死でさえも、物の数ではないのである。少年はひたすら暴力的ダンスの苦痛に耐えながら、そこから降りようとも、逃げようともしない。そしていつか苦痛を与える側に回るであろう。それ以外の快楽を知らなくなるのである。
2019年6月9日(日)
音楽と世界意志(デミウルゴス)
 「バッハの音楽の中に、非常に複雑で、理智的で、一種の音の数学といった要素があることも否定できない。同時代の大哲学者ライプニッツは、音楽のことを“魂の意識しない数的比例の計算”にたとえている。またバッハの友人で、親戚でもあったヨハン・ゴットフリート・ヴァルター(1684〜1748)は、一七〇八年ごろ著した『作曲法教程』の中で、こう言っている。<作曲とは数学的な知識である。それによって人びとは、美しい純粋な音の調和を作り上げ、それを紙に書きしるす。それが歌われ、演奏される時に、人びとの心は神への敬虔な思いに導かれ、それとともに耳と心のたのしみを得る。>
 しかし、音楽が人間の心の営みの中でもっとも抽象的で合理的な数学的思考を手本にして、神的な調和や秩序をこの世に映し表そうとつとめた時代は急速に過ぎ去っていった。数学的な思考は法則性と体系性を重んじる。鍵盤楽器の黒鍵白鍵の上のすべての調をひとつ残らず用いたバッハの《平均率》や、ひとつのテーマから対位法的な展開のあらゆる可能性を汲み尽くそうとした《フーガの技法》の世界は、この思想の音楽的な記念碑である。だが十八世紀もなかばに近づくと、人びとはもっと軽やかなもの、じかに心に訴えかけるもの、理屈ぬきにたのしめるものを求めるようになった。いわゆる啓蒙された市民社会は、宇宙の数学的な法則や神の定めた秩序によって生きるよりも、自分自身の理性と感情によって生きようとした。」(服部幸三「バロック音楽のたのしみ」p.130-131)

 音楽を宇宙の秩序としてとらえたのは、古代のピタゴラス派であるが、以来西洋では、音楽を特別の技芸として重んじるようになる。キリスト教と結びついて、カトリックのミサや、とくにプロテスタントの宗教音楽として発展し、うえの引用にあるように、バッハにおいて集大成を見る。同時に王侯のたしなみでもあって、王であれ王妃であれ、楽器を演奏することは、東洋のように決して下々のいとなみではなかった。
 そうした伝統の根底には、ライプニッツやヴァルターの言葉にあるように、音楽は単に感覚の愉しみではなく、一種の数の形而上学と結びついた深遠な学であるという思想があるからである。ヴァッケンローダーの「芸術を愛する修道者の心情の吐露」をつうじて音楽理論を展開したショーペンハウアーもその例にもれない。(*付説)音楽が宇宙の法則性すなわちロゴスとしてのイデアの発現であるならば、音楽の探究そのものが、同時に宇宙の本質を究めることにもなるのである。音楽は宇宙の本質の感覚的な発現であることになる。
 単に音を数の比例において作曲し、演奏するだけで、調和的なリズムやメロディーが発現するのであるから、たくまずして魂のさまざまな心情や情緒がかもしだされてくる。まさに<魂の無意識の数的比例>である。機械的につくられた音楽が、こうも人間や生き物の心情を直接にとらえることができるのは驚きでもある。ルネッサンス期のダウランドのリュート曲集を聞いていると、とても対位法に従って機械的につくられた曲とは思われず、あたかも作曲者が現代のフォーク歌手や抒情詩人のように思われてくるのである。
 もっとも調和や協和だけが音楽ではない。人間の心情が、不調和や不協和にみちているように、同じものが無調音楽や不協和音によって表わしだされてくるのである。ストラヴィンスキーの<春の祭典>などは不気味さにみちている。不気味ではあるがまぎれもなく人間の、あるいは生き物の暗い情念なのである。さらに西洋とは違った<数の比例>にもとづく音楽もある。日本音階にもとづいた武満徹の<november steps>は、生への意志の否定に向かう黄泉からの呼び声である。あたかも近松の浄瑠璃の道行の、尺八と琴による伴奏を聞くかのようである。
 人間および生き物は、暗い類的衝動と、意識に表われる心情と、悟性的・理性的判断との三層からなっている。音楽はこの三層を同時に表現できるのである。生命の根底であると同時に、生命よりもさらに根源的であり、デミウルゴスがイデアを設計図にしてこの宇宙を創ったとするならば、その設計図そのものなのである。さらにこの宇宙がデミウルゴス、すなわち世界意志、の発現そのものであるならば、音楽はまさにデミウルゴスの姿、すなわち神そのものの発現なのである。この神は音楽においてさまざまな姿をとりうるのである。バッハの<平均率>においても、ストラビンスキーの<春の祭典>においても、近松の道行きにおいても、同じ神が発現しているのである。神は野獣としてみずからに呪いをかけることもあれば、贖罪のために十字架にかかることもあるのである。
 音楽がなければ生きられない人間は、無音や沈黙を恐れるであろう。宇宙はBig Bangという騒々しいものから始まったという。以来騒音や音楽は鳴りやまないのである。しかし、時としてデミウルゴスがみずからの創造を悔いるかのように、休息を求める瞬間がある。それが静寂の美学である。静寂は音との対比で得られるが、そこに類的意志からのある種の安らぎが生まれる。静謐とは反宇宙的、反生命的であり、宇宙の創造の果てにある虚無を現わしだす。人が反省的になるのは、この静謐の時の他にはない。静謐の中で、おのれの中にある様々な騒音や、調和的であれ、不協和であれ、生命の音楽に気づかされるであろう。その音や音楽が鳴りやまないかぎりは、この宇宙から逃れることはできないのだ。
 人間の人格の中でもっとも調停的に働くのは、心情の層であると以前に論じた。音楽はこの心情に最も強く働きかけるのであるから、それによって、人間の類的意志を沈静させ、あるいは反省的・理性的にさせる働きを持ちうるのである。すなわち音楽は生への意志を発現させ、生命欲をかきたてるばかりでなく、生への意志を否定する方向へも作用するのである。これは音楽自体の持つ矛盾であるが、世界意志そのものに、ある安定への傾向が働くことから、すなわちシステムや調和といった要素が世界創造において顕著に見られることから、必ずしも矛盾ではない。音楽は心情をつうじて、三層からなる人格を調和的に調停することによって、もっとも強力にして暴戻である生への意志を、ある程度コントロールできるようになすのである。この作用をさらに強めるならば、生への意志を否定し、完全なる沈黙へともたらす音楽も可能となるであろう。音楽から静寂へ、音楽自体がもたらすのである。音が鳴りやむことによって、そこに相対的ばかりでなく、絶対の無が表わしだされる。それが音楽による究極の救済であろう。

*付説
 音楽と形而上学
「音楽は有理数と無理数の比例の関係を、算術のように概念の助けによって把握する手段ではなく、同じものをまったく直接的な、同時的な、感覚的認識へともたらす手段である。音楽の形而上的な意味と、音楽のこの物理的かつ算術的根底が結びつくのは、次のようなことにもとづく。われわれの覚知に逆らうもの、無理数的なもの、あるいは不協和音は、われわれの意志の自然の心像に逆らうものとなり、また反対に和音や、有理数は、われわれの把握に容易に適するために、意志の充足の心像となるのである。そこで、さらにこの有理数と無理数は、振動数の比例関係において無数の音程、ニュアンス、進行、乖離をゆるすのであるから、これによって音楽はそのなかで人間の心すなわち意志の動きが、忠実に映し出される質料となるのである。意志の本質的なものは、つねに無数の段階の満足と不満足とから出でるのであるが、意志の動きはそのごく微妙な濃淡や変容をあますところなく再現されるのである。これをなすのがメロディーの創意である。」(ショーペンハウアー主著U513−515)
 音楽と現象界の類比
「和声の最低音部、すなわち基礎低音において、意志の客体化の最低部の段階、すなわち、その上にすべてがもとづき、そこからすべてが発生し、発展する無機的自然、地球の実質が再認識される。低音と主導的なメロディーを奏でる声部との間の、和声をかもしだす総奏においては、その中で世界が客体化するイデアの全階梯が再認識される。低音により近い声部は、より低い、いまだ無機的な階梯であるが、すでにひんぱんに自己を現わす物体である。より高い声部は、植物界・動物界を表わす。メロディーにおいて、すなわち高い声部で、全体を指導し、ひとつの思想の意味深い連関において終始前進し、全体を表わしだす主声部においては、意志の客体化の最高の段階、すなわち人間の意識的生活と努力とが再認識される。メロディーは主音から離れ、さまようことによって、無数の仕方で意志の多様な形の努力を表現するが、つねに最終的に調和的な段階を、さらにそれ以上に主音を再び見いだすことにより、充足を表現する。」(主著T304−308)

 以上はフラウエンシュテット編 Schopenhauer Lexikon より。
2019年5月25日(土)
旅の偶感
 老年期においても若い頃の習性が未だに通用すると思いがちである。旅においてその誤りがもっともよく痛感される。若い頃の旅は行き当たりばったりで、たいした計画や目標がなくても、それなりに旅すること自体が楽しめた。その旅の自由とロマンを老年期になって求めようとしても、身体的にも心理的にも、苦行に近いむりが伴う。そもそも旅自体にロマンを感じることが、もはやないのである。人間(じんかん)いたるところ同じような風景があり、同じような人間が暮らしている。海外でよほど異なった風土にでも接しない限りは、そこにたいした感動がないのである。老年になると海外におもむくだけの体力も気力も失われている。
 要するに老年期にはいると否応なしにnihil admirariの境地に陥るのである。そこから無理やり脱するために、若年期のような旅をしようとしても、体力も気力も伴ってゆかない。まさに苦行そのものとなるのである。そもそも何のために旅をするのかという、目標すらはっきりしない。スポーツでも教養でも研究でも探究でもなく、けっきょく物見遊山の気晴らしのための散財に過ぎないことになる。そのためのもっともふさわしい場所が、神社仏閣や温泉と言うことになるのである。自然の光景も、国内に関してはたいして変わり映えがしない。畑と田と山地と湖と海岸と海といった、どこにでも見られる景観だ。かえって近隣の自然が見直されるくらいである。けっきょく老年期では全てに見飽きているのである。
 多少まともな旅の目的は、博物館や美術館を訪れることであるが、科学館は子供や家族づれの遊び場となっているし、けっきょく静かに過ごすには考古学か歴史学か美術の展示館ということになる。しかし旅にまで出て頭のなかを知識や教養でいっぱいにする必要があるのだろうか。旅の解放感、自由感はどこにあるのか。芸術や知識からも解放されたいという気分が、旅の魅力なのではないか。要するに心を空っぽにしたいのである。余計な好奇心や知識欲や、物見高さから離れて、とにかく日常の心のせせこましさから逃れたいのである。それがたぶん老年期の旅の唯一の意義なのであろう。しかし旅のスケジュールがそれをも許さない。そうしたせせこましいスケジュールの旅をしなければ良いのであるが・・・。
 若い頃とちがって、ある程度の計画性が老年期の旅には絶対に必要であるが、ただ放浪してみても仕方なく、呆然と自由の時間、無為の時間を過ごせることが旅の意義なのである。登山やスポーツはもはや論外である。芭蕉のようにひたすら歩く旅も無意味である。神社仏閣は立ち寄るだけでよい。人間いたるところ青山ありの心境になれることが、旅の意義である。そうして帰宅すると、それまでの日常が異様なものに思えてくる。住む町も住む場所も異様であり、あらためてその意味が問い直されることになる。生活そのものが少なくともなんらかの変化をこうむらなければ、旅をした意義はない。日常に対する新しい眼が開かれるのである。





写真:上左豊橋の庭園、上中・上右・安土城址/
中左・安土城博物館古民家、中の中・右・石山寺紫式部像、庭園/
下左・琵琶湖竹生島、下中・余呉の湖、下右・日本海(青海川)
2019年4月20日(土)
春の享楽

 春になって最初に咲く桜は、早咲きの安行桜である。隣の市の川堤に一斉に咲くのを今年も見に行った。淡いピンク色で、桃ほどの艶やかさも、染井吉野の厚ぼったいほどの純白さもない。しかしとにかく桜である。
 花ではないが、運動がてら山中の小さな滝を見に行った。なんども見ているが、この季節ほとんど訪れる人もないであろう。ひっそりとした中で、たゆまぬ落下をつづけている。その先にさらに小さな滝がある。単なる段差であるが、気づかれずに過ぎてしまうほどのものである。
パワースポットと称されているのもほほ笑ましい。

   

 染井吉野の時期になって、隣町の川堤を歩いた。その前にあちこち偵察をして、満開の頃をねらった。堤におおいかぶさるように咲く花は見事であった。地面には淡い紫の踊子草も、見る人なく咲き揃っている。

 *     *     *

 四月も半ばを過ぎた頃、S線のM駅からH山を目ざしてハイキングをした。駅からすぐ林道に入ると、季節のとりどりの花が咲き始めていた。早くも山吹の黄色が目に入った。道端には白いシャガも咲いている。杉の植林の間の、歩きやすい林道を暫く行くと、五常の滝というささやかな五筋の滝がある。昔は無料のはずだったが、真新しい木の門が作られていて、林業の人に聞くと5月1日から有料になるということであった。たいした名所でもない滝に、世知辛い利欲が絡んでくるのは、今の末世の政治経済のせいであろう。とにかく滝まで行ってみる。孔子で盛り上げようというのか、真新しい孔子一門の小さな廟が並んでいる。その先に滝がある。もともとの不動明王の古びた祠もある。修験道の滝だったのであろう。
 
 
   

 北向き地蔵を目ざしてさらに登る。途上、ダイコンの花であろうか紫のむらがりや、咲き始めた白山吹を見、山間の見晴らしを楽しみながらゆくと、一本の満開の花桃が道の先に現われる。桃源郷の入口なのであろうか。右手に小さな祠があったが、ハイカーがべンチに寝ているので通り過ぎた。しばらく行ってふと気づいて戻ると、その祠が地蔵さんであった。そこがH山とK湖方面への分岐点であった。林道と別れて山径に入る。杉また杉の典型的な人工林であるが、平日の午後のことで、めったに人に出会わない静かさの中で、数十年前に何度か歩いた思いにひたりながら、孤独が満喫できる。H山の近くでは早くもツツジが咲きだしている。山頂の手前からは峩峩(ガガ)として、こちら側からは歩き疲れた足には厳しかった。山頂からの眺めは相変わらずすばらしい。以前に足をくじいてリタイヤしたときのリヴェンジが出来たわけである。
  
   

2019年3月20日(水)
アンナ・マリア協奏曲
 ヴィヴァルディー(1678−1741)のあまり知られていない協奏曲集に、「アンナ・マリアのための協奏曲集」というのがある。初めて聴くと、「調和の幻想」や「和声と創意」に比べて、いつものヴィヴァルディーであるが、どちらかというとシンプルで、すぐには面白いと思わない。しかしくり返し聴いているうちに、その独特な曲想やリズムが、しだいに頭についてくるようになり、弦楽器についてはよく知らないのだが、さまざまな技法が駆使されていることが分かってくる。
 朝、寝起きにそれらの曲想が自然に鳴り響いてきて、聴きなおしてみるまでは消え去らないのである。クラシックの作曲家の中で、個性的で独創的な曲想にかけては、ヴィヴァルディーとモーツアルトが一番であろう。ある音楽好きな人に、ヴィヴァルディーとモーツアルトはよく似ているといったら、否定された。そのような発想で音楽を聴く人は少ないからであろう。いずれにせよ、呆気にとられるような曲想が、この二人の作曲家には共通しているのである。
 「アンナ・マリア協奏曲集」であるが、これを通して聴くと、ある共通のリズムや曲想が全体を貫いており、全体をまとまりのある長大な協奏曲とみなすことができるであろう。気分が沈んでいる時や、退屈している時は、この心地よいリズムと変化に富む曲想によって、たちまち生命欲があふれてくる。ヴィヴァルディーの音楽は、人によっては騒音としか聞こえないようで、「四季」などもうるさがられることがある。人間どうしのちまちました関係からはなれて、生命そのものの躍動に身を任せる時、最もよくヴィヴァルディーが理解できるであろう。もっともこの理解とは、共鳴の意味であるが。
 ところで、たまたまテレマン(1681−1767)の「ターフェル・ムジーク」を聴いていたら、ある曲が「アンナ・マリア」の曲にそっくりなのである。どちらがオリジナルなのであろうか。テレマンにしては珍しく活発な曲なので印象に残っていたのだが、たぶん調べるまでもなく、ヴィヴァルディーからの借用なのであろう。バッハ(1685−1750)もオルガンに編曲などして、ドイツ・バロック音楽へのヴィヴァルディーの影響は、よく知られたことであるから。どちらかというと鈍重なドイツのバロック音楽に、南欧の生命にあふれた躍動感をもたらしたのが、ヴィヴァルディーであったのだ。
 ヴィヴァルディーの音楽を千篇一律と見なす人も多い。いわばソネットを500篇書いたようなものである。しかし、そのどの曲にも必ずなんらかの曲想やリズムの変化や工夫が加えられており、協奏曲集を全篇聴いても、おうおうにしてテレマンやアルビノーニの場合のように、単調さに飽きることがないのである。たしかにベートーヴェンやブルックナーやマーラーに比べたら、ヴィヴァルディーはクラシック界の”ポップス”にすぎないかもしれない。しかし最良の詩は、短いのが良い。<音の抒情詩人>であるヴィヴァルディーに、叙事詩を求めるまでもないのである。
 昔、詩などというものを試みていた頃、「夜」を詩にしてみたいと思ったが、とても言葉では及ばないことが分かった。音楽は心情そのもので雄弁に語りかける詩なのである。このことをもっともよく分かっていたのが、<音の抒情詩人である>ヴィヴァルディーなのだ。
2019年3月7日(木)
今年も梅花
 毎年梅の花の時期になると、隣町の梅の里へ出かけていく。変わりばえのない季節の循環だが、その循環を感じなくなったら、人工的生活の中にある人生は終わりに近いのであろう。
 人や祭囃子でにぎわう梅園よりも、川沿いのほとんど人影の無い梅林に風情がある。これは個人的趣味であって、花は沢山咲けば良いというものでもなさそうだ。梅の木の根元には福寿草も咲いている。その周りには、だれも気をとめないオオイヌノフグリも。家内は毎年変わりばえのしない花の写真を何十枚となく撮る。そればかりか、花を見た記憶が薄いと嘆いて、二度梅園へ出かけていった。
 花は後で写真で見る方が、はるかに鮮やかな印象である。こんなに綺麗だったとは、その時には感じなかったものが、写真には現われる。思うに、人間の知覚はいい加減なもので、全体を見るか、一部に注意を集中するかの、二通りを使い分けるしかない。写真はフレームに収まることによって、その二つを同時に現わすのである。それが知覚の統合をもたらして、写真の方が綺麗に見えるのであろう。
 いずれにしても、花は遠くから全体として見るほうが、心が安らぐ。かりに細部を見ても、それは全体をフレームでとらえた写真には及ばないのである。たぶん絵画芸術もそのようなものなのであろう。

   
2019年2月28日(木)
超越的人生あるいは実践形而上学
 個の歴史は悲惨に満ちており、類の歴史もまたそれ以上に悲惨の連続である。記憶はもしありのままに直面するならば、毎日毎時が悪夢でもって心身を圧倒するであろう。適度な忘却が、人間の歴史と言わず、生命の歴史においては必要なのである。そのような果てしない悪夢の歴史が、この世界の、とりわけ生命界の実相なのである。
 人間はこの悪夢の海に漂う一介の生命体であるが、なまじ記憶を発達させたために、現実と精神との二重の苦を受けている。身体の苦は一時的であり、動物は一時の苦痛にさいなまれるだけであるが、人間は記憶においてそれを反芻する。それが歴史という一面愚かな行為なのである。それは個人の歴史と類の歴史とを問わない。とりわけ個の悲惨は自らの体験であるだけに、単に観念的な人類の悲惨以上に、強烈な記憶の苦となって魂をさいなむ。生きるとは記憶の苦に耐えることである。
 このような人生にどのような価値があるのであるか。モラリストはそこに教育的価値を認める。人間は賢くなるためには、記憶の苦にさいなまれることが必要なのである。宗教者もまた、受難の苦によって救済への希望を見いだす。賢者となり、救済の希望を持つことは、この生命、とりわけ人間的生命に対する、超越の願望が働くことである。単に賢いだけでは、この生命を乗り越えることにはならず、ただより少ない苦痛でこの人生をやり繰りする算段をするに過ぎない。それがいわゆる Lebensweisheit(生きる知恵)である。宗教者はより徹底して、この地上的生命そのものを、なんらかの啓示的世界において超越しようとする。それはある種の超越的空想であるが、北欧戦士のヴァルハラからイスラムの享楽的天国、キリストをとりまく霊交の世界や、仏陀の没生命的ニルヴァーナにいたるまで、どこかこの世のおもむきを残した別世界である。
 どのような超越的世界も、苦の記憶を極力排除して、何らかの意味で最も幸福であると思われる状態、すなわち至福をを実現しようとする世界であると言えよう。その世界の存在にはたいした根拠がないのであるが、苦を逃れようとする人々の<形而上的要求 metaphysisches Beduerfnis>によって、信じられた世界である。すなわち信仰の世界である。この<信ぜんとする意志 will to believe>が、唯一の根拠である。意志にはある形而上学的力がこもっているが、たとえ錯誤や錯覚であっても、意志すること自体に誤りはない。苦痛を逃れんとする意志が、生命の根本に発するものであることは、何としても疑い得ないのである。イスラムやクリスチャンのように、たとえ殉教の苦を受けるとしても、その苦をはるかに勝る至福によって報われるものとされるのである。
 人生は、すなわち生命は、それ自体では価値がないのであるから、それに価値を与える生き方をしなければ、この世界での存在の意味はないのである。すべてはあるがままに良しという考えがある。ある種のクリスチャンや、禅僧の言うことであるが、これほど不誠実な欺瞞はないであろう。神が創った世界なのであるから、何事も良いとしたり、心が平静であるならば、火もまた涼し、と言うような主張は、比喩的な誇張でない限りは、まったくの誤りである。単に苦痛に対して鈍感であるだけであり、麻薬や鎮静剤でもって、苦痛を鎮めるのと、原理的にさしたる違いはない。つまりある種の無感動・無感覚にもとづくLebensweisheit(処世訓)なのであり、形而上学的原理ではない。心が楽しければ、世界のすべてがよく思われるものであり、その愚かさには直ぐ気づかされる。しかし楽しいに越したことはないので、それを信念にするのもよいであろう。 この人生から根本においていやされるには、キリストや釈迦が言うように、この世界、この生命を離れるほかはないのである。

 ここで生命の価値について、全体主義の立場からの反論を予想しておく。個人の生命、人生には確かに価値も意味もないであろう。個人などというものはちっぽけなものであり、それだけで生きようとするところに無力感や虚無感が生まれるのである。なんといっても個人の存在は生命全体、人類、国家、民族、家族のたまものであり、それらなくしては無にひとしいものである。そのことはエゴイズムや個人主義に生きようとする時の困難さ、欠乏感、不満足、欲求不満に現われているではないか。他者があってこその私なのであり、私よりも他者の存在、すなわち人類や社会や国家や、家族や友人こそがはるかに大事なのである。おのれの存在に価値がないとするのはよし。しかし他者や人類や国家までも価値や意味がないとするのは、この上ない不遜であると。
 私が他者の存在を必要とすることと、そればかりか他者との交際や承認を求めているということと、私の存在の本来の価値や意味とは無関係である。私の存在がそのような生命的関係でしかとらえられないということこそが、私の苦悩の根源だからである。そのような生命的私には、すなわち快よりもさらに苦痛を生み出さざるを得ない生命的関係には、価値も意味もないというのである。その点では、私の価値は他者のそれとは別であり、唯一無二の価値でなければならない。それは生命的関係においては求めることができないのである。それが超越的の意味であり、キリストや釈迦が超越的であるのも、その意味においてである。
 生命の類的価値に内在することによっては、いかなる超越も不可能であり、せいぜい個の無化が類の価値へと転化されるだけである。すなわち、名誉や賞賛や名声といった他者の側からの価値付与によって、本来無であるものが虚の意味をあたえられるのである。このような個人の全体への内在的埋没によって、歴史すなわち他者の記憶にとどまることの価値は、個の本質的存在にとっては無価値に等しいのである。個にとってそのような生命とは個の無化にほかならないからである。とはいえ、個人が生きている間にそのような他者の間における価値評価に喜怒哀楽することは、たしかに一つの生き方ではある。というよりも、たいていの者はそのような生き方以外には出来ないのであり、それがまさに生命の仕掛けた類的生への衝動(すなわち全体への意志)なのである。
 超越的に生きるとは、したがって、個の存在の価値をもっぱら個の存在において求めることである。生命的段階 (Lebensweisheit)から、さらに進んで、個の存在の形而上学的原理を明らかにし、超越の根拠を探究し、そのうえで実践にのりだすことになろう。古代では実践があって形而上学へと進んだが、形而上学から実践へ進むことが、今日の理知的人間には必要であろう。すくなくとも人類の形而上学の種類は出つくしているので、実践と結びつくものを選び出せばよいのである。その際、内在よりも超越に力点をおく学説に注目し、古今東西の超越的実践、すなわち解脱の修行との関連を実践的に探求することになる。これを実践形而上学と名づける。
 実践形而上学(praktische Metaphysik)は通常“魔術”の意味とされるが、ここでは文字どおりに実践可能な形而上学の意味とする。もちろんいわゆる“超常現象”のようなものも、形而上学から帰結されることであるが、もっぱら哲学的には、存在の本質の探究から個の存在の意味を存在論的にとらえることであり、かつ、その意味を超越的世界に求めることである。その点では、実存主義のような内在的存在論ではない。とりわけ実践という点において、実存すなわち現実存在(Dasein)を超えていくことになり、いわば超越的実存(transzendente Existenz)を目ざすことになる。
 実践形而上学は個の存在の意味の探究を出発点としており、個の存在の救済がその最終の目的である。すなわち徹頭徹尾、個の哲学、自我の哲学である。魔術が自然を個人の意志によって支配しようとするartであるとするならば、哲学的な実践形而上学は、自然の支配から個の自由を獲得するartの探求であると言える。その意味では宗教に近いのであるが、宗教が集団のいとなみであり、ドグマの支配する実践であるのに対して、すなわちそれによって全体への意志に奉仕するものであるのに対して、ここでいう実践形而上学は、ファウスト的な個人の探究及び実践であり、すべての目的は自己救済にあるのである。
 自己救済とは、個体の生命が現実と記憶とにおいて二重の苦悩の中に生きており、日々それらにさいなまれるほかに生の現実はないという事態から、生命ひいてはこの世界からの解脱を願望するという、その願望自体においては形而上学的に疑いのない真実において、苦悩のないおのれ自身の世界へと探究の眼差しを向け、それによって少なくともこの生の苦悩を軽減し、できうべくんば、自己本来の世界へと回帰する実践のことである。その模範として、超人的な修行者や宗教者の例を歴史に求めることができる。それらの模範がなければ、単なる空想的な願望に過ぎないであろう。彼らは何よりもまず自己自身の苦悩の超克を求めたのである。生老病死は単なる人類への共感ではなく、何よりもその共感によって苦しむ自己自身の苦悩の超克へと向かわせるのである。
 自己自身に生きることと同様、自己救済はさらに困難な道である。しかし絶えざる苦悩のさいなみが、まさに教育的に、その道へと向かわせるであろう。この世界はある種の地獄であり、この世界の創造者はグノーシスやアルビ派が言うように、“劣った神(デミウルゴス)”なのである。そこからの救済が可能であるのは、私自身がこの世界とは本質を異にする存在であるからだ。この形而上学にもとづく信念がなければ、すべては無意味であり、幻であり、虚無である。さいわいにも超人的な先達の存在が、その信念を強めてくれる。たとえ迷信的なオーラに包まれているとしても。
2019年1月19日(木)
自足ということ―あるいは人生の星の時
 自己自身において満ち足りること、すなわち自足(self-satisfaction, Selbstgenuegsamkeit)は、幸福の第一の条件と言えよう。なにひとつ他に求めない、あるいは少なくとも、自己自身の存在に何ひとつ他者への顧慮をまじえないこと、その状態において、なんの苦痛もなければ、それが存在の最高のあり方であるといえよう。そのような理想の、究極的存在のあり方として、神学者は神を想定する。神は実のところ、この世界を創造する必要すらないのであるが、現に存在している世界を説明するには、神のその自足を破らねばならないことになる。それだけを考えても、神は存在しないといえるのであるが、あるいは少なくとも、神はこの世界とは無関係であるといえるのである。
 それはさておき、この究極の自足を、生命もまた知らないわけではない。しかしその自足は、無数の個の中の個としての生命体にとって、せいぜい一瞬の間の状態に過ぎない。たちまち、他の個体によってかき乱される。生命はつねに他者に対して気をくばっていなければならないのである。生まれた時から、他者に依存することによっておのれを維持する他はない人間にとって、自足は他者の存在の上に成り立っているのである。これを徹底するならば、日本人のよく口にする、「あなたまかせの私」ということになる。こうしたあなたまかせの自足では、自足という意識すらないであろう。
 真の自足は独立独歩(self-reliance)の自足である。他人の犠牲の上に、おのれ自身を確立してゆく、その他人が両親であれ、兄弟であれ、友人であれ、夫婦であれ、社会であれ、国家であれ、神であれ、そうしたものは私の自足のために存在しているのである。といって他人に対して残酷であれと言うのではない。誰もがおのれを確立するために、他者を必要としているということに過ぎない。この相互的エゴイズムが、人間というよりも生命体の本質なのである。そこに感謝があろうと、非情さがあろうと、さしたる違いはない。人間が幸福を求める限り、他者を拠り所として、おのれの確立と自足を図るほかはないのである。
 この自足を求めるエゴイズムの争いに敗北したもの、あるいはそうした相互的エゴイズムを理解して、うまく立ち回ることのできないもの、あるいはさらにエゴイズムそのものの相互性を理解せずに、ひたすら自己のエゴに拘泥するもの(世に言う普通のエゴイスト)は、この世界では失敗と不幸を運命づけられている。この相互的エゴイズムを早くから理解して、独立独歩の精神のもとにおのれの人生を築くものが、人生の可能的な幸福、すなわちおのれ自身にのみかかわる純粋な自足を実現しうるであろう。最終的には他者への依存を超えた、自己自身の可能性にのみもとづいた、人生の幸福の設計である。こうした幸福は、あなたまかせの無為自然では実現できない。自己自身の可能性にもとづいた、有為自然でなければならない。
  他者に依存しすぎることによって、自足はつねに傷つけられる。他者もまたエゴイストで、おのれの自足を求めているからである。子供は周囲の大人から、つねにそれを感じている。その欲求不満から、ある種の甘えや、人格崩壊が生じる。これは子供に限らず、大人もそうである。この社会でまがりなりにも自足を求めるためには、人格の妥協が必要なのであり、それが独立独歩を難しくしている。不幸にも、融通の利かない人格の持ち主は、社会において敗者となり、自足すらもそのルサンチマンによって損なわれることになる。挫折と敗北の後に、はじめて理想の人格が形成される。それは自己の人格を隠す人格であり、人格的にもまた、内なる人格において自足することが、幸福の条件となる。社会的人格と、自足する人格とを使い分けること、なおかつself-relianceを失わずにそれをおこなうこと、それが理想のエゴイストの人格である。 

 真の自足がどのようなものであるかは、だれもが幼少年期の体験から知っているであろう。幼少年期には、親の庇護が幸福の条件であることを、本能的に感じてはいても、明瞭に理解しているわけではない。それだけに、子供が物事に熱中する時には、すべてを忘れて自己自身の快感や満足のみを求めることになる。その極端なエゴイズムが、大人のエゴイズムと衝突することによって、子供はかしこくなる。子供は自己のエゴイズム、自足の願望を心の奥に隠すようになるのである。子供は自足に対して罪悪感を覚えるようにさえなるのである。それはあたかも、マスターベーションにひとしいものとなる。子供はこのようにして、独立独歩の精神を損なわれてゆく。あるいは、陰険なエゴイストとなって、相互的エゴイズムからなる社会において不利な立場におかれる。ひらたくいえば、人間関係においてうまくいかなくなり、不幸な人生を運命づけられる。
 しかしながら、このように、自足、すなわち一人で楽しむという、生命の根本の要求を心の奥に秘めるようになると、そのひそかな昂揚や満足が、子供にとって最高の幸福の時となるのである。それは秘密であることによって、誰にも破られないのである。これが幼少年期における幸福感の心理的事情であり、この体験が一生にわたって、幸福と言うものの原イメージとなるのである。不幸にして肉体的快楽がその原イメージである場合は、幸福の探求は性的快楽の飽くなき探求となるであろう。幸いそれが精神的イメージであるならば、心の究極の安らぎが、すなわちニルヴァーナが、人生の最終目的となるであろう。いずれにしても、人生の<星の時 Sternenstunde>は、幼少年期にあるのである。
 少年の頃、星座に興味をおぼえ、冬でも明け方には夏の星座が見られるということを知って、夜明け方にそっと蒲団をぬけ出て戸外に立った時、空に見知らぬ星座がきらめいているのを見て、驚嘆したことがある。その感動から朝まで起きていた。その時の美に満たされた静謐な心の状態が、少年期における最初の至福であった。これを人に語れば、至福をこわしてしまったことであろう。自足的幸福は、他者とは共有できないのである。ムンクに、「メランコリー」という絵がある。四五人の若者が、海辺で物思いに耽っている図である。そろって同じ思いに耽ることなどはありえないのであり、画家の思いの増幅である。幸福もメランコリーも、個人の内奥の思いなのである。
 少年期に知った至福は、長じるにつれ、青年となり、大人となることによって失われる。人生の嵐が、彼方にきらめく星明りを閉ざしてしまう。

 ああ、星にも似た望みよ、昇るとみえて雲におおわれ!
   未来より声のして叫ぶ
   “進め、進め”と――けれども目くらめく深淵 過去の上に
   わが魂(たま)はただよいとどまる
   声もなく 身を固くして、茫然と

 ――エドガー・アラン・ポー「天国へみまかりし人に」より
2019年1月2日(水)
昔を今に
 昔を今に返すよしもがな、と古人は言った。良い記憶はとどめておきたい、不快な記憶は出来るかぎり忘れたい。人間の、というよりも生命体の、都合の良い願望である。しかし、それだけではない。流転の中におかれている生命体の、究極の願望である、自己保存、種の保存とは、おのれ自身を永遠化することの欲求であり、時間がその最大の敵であることは、生命体にとっての根本の矛盾である。生命は時間的現象であり、物質の化学的連鎖反応を、とことん継続していく過程に過ぎない。時間がなければ、そこで生命体は停止し滅びるのである。しかしながら、この時間に抵抗することが、また生命体の普遍的本質としての自己保存、自己持続の欲求なのである。自己が所有するものを、何ひとつ失いたくない、おのれがあるがままの状態を、永遠に保ちたい、この欲求が現象界における生命の本質であるといってよかろう。その端的な現われが遺伝子、すまわちDNAなのである。
 生命が時間とともに流れてゆく時、あるいは時間のプロセスの中に身をおく時、生命はかえって時を忘れる。そのような現在的生命には、未来も過去もないのである。生命が自己自身を振りかえるとき、はじめて時間意識が生まれる。それは止められた時間であり、その止められた現在において、未来の見通しや希望、過去への回顧や執着が生まれる。それは同時に時間への抵抗であり、時間そのものを敵とする反抗である。生命は、少なくとも自己意識においては、生命であることに自足できないのである。生命は生命自体を超えようとする。生命は時間におけるおのれの存在を苦痛と感じる。時間における生成物でありながら、その時間の制約の中で生きることが我慢ならないのである。これが生命としての人間の根本の苦悩である。(注*)

 *古代の中国の皇帝の言として、「人生はなんと楽しいのだろう、死さえなければ」と伝えられている。

 生命は時間を超えておのれのすべてを所有しようとする。その空しい努力が人生のすべてなのである。宗教者は、せめて神の帳簿の中に、おのれの人生のすべてが記載されていることを願う。もっとも、不都合なことは、帳消しにされることを願うのであるが。そのような信仰による慰めの失われた現代においては、生命としての人間は、むき出しの時間と闘うほかはない。時間の子でありながら、時間に反抗する、その矛盾の苦しみが、人生なのである。すべては空であると割り切るのはたやすい。しかし生きている限り、その割りきりには無理がある。自己自身を保つことは、少しも空ではないからだ。自己否定しても始まらない。否定するものもまた、否定に追い込まれる自己だからだ。
 究極の救済は、動物に帰ること以外にないのである。すなわち、時間とともに生きることである。生命のプロセスそのものになりきることである。一匹のハエも、一個の人間も、生命としては同等の価値である。冬の蝿が自ずと生命をやめるように、人間もまた時がくれば、自ずと生命をやめる。そのわかりきった救済以外にはないのである。とはいえ・・・・・。
 昔を今に返すよしもがな、この嘆きは消えることがない。存在の根本にある願望なのである。人間は単に存在しているだけでは不幸なのだ。つねに最もよい幸福の時を求めている。それはたいてい過去のある一時期のほかにはないのであるが。人間が迷う時は、常に過去の最も良い時に、おのれの行為や思想の基準を求めるのである。人間は未来に生きているのではなく、過去のままに生きているのである。ただその素材が変わってゆくに過ぎない。
 しかしながら、求める過去はどこにあるのか。どこにそれを回復できるのか。それが単に記憶に過ぎないことが、過去のはかなさ、空しさの根本原因である。しかし、それなしには、生きることの意味が失われる。最も生命欲に満ちた一時期の記憶、それが全生命を支えるのであるから。生命の純粋な喜びは一瞬で良い。それが一生の記憶として、どのように悲惨な人生をも支えるのである。過去は今に返さなくても良いであろう。実のところ、過去は単なる記憶ではなく、今の中に生きているのである。今私が生きているのも、過去一瞬ではあれ、真の幸福と言うものを知ったからである。それが、ここまで私を支えてきたものであることを、つねに私は知っていたはずであるから。その幸福を、なおも私は探求しつづければ良いのである。この今において・・・。