ラ米の軍部―軍政時代を経て


 1   ラ米諸国の軍事力
更新日時:
2008/04/22 
 軍部の大きい存在感、というイメージが強いラ米の、では現実の軍事力はどうだろうか。ミリタリー・バランスをもとに兵力(陸軍=陸、海軍=海、空軍=空)、軍事予算、兵役の義務の順で下記する(1960年代から80年代までの軍政時代に民政を通した国は緑字で表す)。ラ米諸国の2008年4月現在の大統領で、革命戦争を戦ったラウル・カストロ(キューバ)、オルテガ(ニカラグア)を除くと、軍人出身者はチャベス(ベネズエラ)一人だ(敬称略)。
 
@ ブラジル:陸18.9、海3.3、空6.5、計28.7万人。有り。他に予備役134万人。161億j(06年)
A メキシコ:陸18.4、海3.7、空1.2、計23.3万人。短期徴兵有り。33.5億j(06年)
B コロンビア:陸23.3、海2.9、空0.8、計27万人。有り。27.6億j(04年)
C アルゼンチン:陸4.1、海1.8、空1.3、計7.2万人。無し。18.4億j(06年)
D チリ:陸4.8、海1.9、空1.1、計7.8万人。無し。17億j(06年)
E キューバ:陸3.8、海0.3、空0.8、計4.9万人。有り。13億j
F ベネズエラ:陸3.4、海1.8、空0.7、国家警備隊2.3、計8.2万人。有り。12億j(04年)
G ペルー:陸7.6、海2.6、空1.8、計12万人。無し。9億j(03年)
H エクアドル:陸3.7、海0.6、空0.4、計4.7万人。有り。5.9億j(04年)
I ドミニカ共和国:陸1.5、海0.4、空0.6、計2.5万人。無し。2.6億j(05年)
J ウルグアイ:陸1.5、海0.6、空0.3、計2.4万人。無し。2.3億j
K ボリビア:陸3.5、海0.5、空0.6、計4.4万人。有り。1.6億j(06年)
L エルサルバドル:陸1.4、海0.1、空0.1、計1.6万人。有り。1.1億j(05年)
M グァテマラ:陸2.7、海0.2、空0.1、計3万人。有り。1億j(05年)
N パラグアイ:陸0.8、海0.1、空0.1、計1万人。有り。0.6億j(05年)
O ホンジュラス:計1.2万人。無し。0.5億j(05年)
P ニカラグア:陸1.2、空0.1、海0.1、計1.4万人。無し。0.3億j
Q パナマ:警察を中心とした国家保安隊。1.2万人。1.6億j(05年)
R コスタリカ:常備軍無し。防衛・国内治安に1億j(05年)
 
上表で目立つのがブラジルの国防費の大きさだ。GDPの2%に相当する。人口当たりで見ても大きい。米国との対等関係を唱える国是、国境線の圧倒的長大さ、理由は色々考えられる。だが、軍部が国政に介入することはなくなっている。
 3万人とも言われる「行方不明者」を出す「汚い戦争」で厳しい国際的批判を浴びたアルゼンチンも、ラ米の中では軍事費が大きい部類に入るが、DGP比では1%を下回る。人口、GDPで半分以下、3千人を超える犠牲者を出す人権侵害で知られる隣国チリとは、兵員数、軍事費とも同水準だ。
 1980年代の「中米危機」で激しい内戦を経験したエルサルバドルグァテマラ及びニカラグアの総兵力は合わせて6万人、軍事予算は同2.4億j、GDP比で0.5%以下である。グァテマラ軍部も過去、人権侵害で国際的批判を受けた。
 キューバのドル換算GDPは把握困難だが、国防費はGDP比で見てラ米では突出していることは間違いない。
 
 軍政時代に民政を通した5ヵ国の内、メキシコの軍事費は、国が大きいだけにラ米第二位だ。しかしGDP比では中米諸国同様、0.5%以下だ。一方でコロンビアはGDP比2.5%にもなる。兵員数では総人口で2.5倍もあるメキシコを抜いている。ここは今なお左翼ゲリラとの戦争状態にある。本08年4月、最大ゲリラ組織FARC掃討のためのコロンビア軍エクアドル越境作戦を非難したベネズエラのチャベス大統領が、コロンビアとの戦争状態を宣言し、数日後撤回した。その後、北大西洋条約機構(NATO)に相当する地域防衛組織、南米条約機構(SATO)創設を提唱する。大統領の勇ましさに比べ、同国の軍事費はGDP比で言えば1%、アンデス六ヵ国(コロンビア、エクアドル、ペルー、ボリビア、チリ及びベネズエラ)の中では最も低い。兵員数ではコロンビアの3分の1以下だ。

 2   軍政時代以前の軍政
更新日時:
2008/04/22 
 奇妙なタイトル、と思われようが、ここで言う軍政時代とは、冒頭で申し上げたとおり、1960年代から80年代までの期間を指す。軍部が組織として国政を担う軍政は、しかしそれ以前にも登場した。以下、国名を赤字で記したところでは、定義通りの軍政を経験した。注意頂きたいが、南米南部でよく見られた。非民主的なカウディーリョ政治や、民主主義のルールに則って軍人個人が選挙で最高指導者(大統領)となって政権を担う体制は、軍政とは言わない。だが、軍人政権が常態化した国は、一応擬似軍政国として取り上げる(国名は緑字で示す)
 
 1914年2月、ペルーで労働者寄り政策運営を進めていたビリングルス政権に危機感を募らせた軍指導部が彼を追放し、1年半の軍政を敷いたことがある。オリガキー(寡頭支配)に利する軍政、といえる。5年後の20年7月、隣国ボリビアでは錫財閥の意向を汲んだオリガキーの自由党政権を若手将校らが転覆し、半年間の軍政を敷いた後、新興の共和党政権時代を演出した。24年9月にはチリでやはりオリガキーに反発する若手将校らによるクーデターが起き、半年間の軍政をみた。ただチリの場合、当時のアレッサンドリ大統領の改革路線が寡頭勢力の牙城、議会により阻まれている状況を変える意味合いがあった点が特異だ。25年7月、エクアドルでもグァヤキルの金融資本を基盤とする自由党政権が若手将校を中心にしたクーデターで崩壊(「七月革命」と呼ばれる)、9ヵ月間の軍政期間を経て、軍事評議会が学者で病院長のアヨラを大統領に指名した。ラ米で婦人参政権を初めて法制化したのは、エクアドルの彼の政権だ。
 
 大恐慌期の1930年代、ラ米各地がクーデターに見舞われた。下記5ヵ国では、その指導者らが自らの長期独裁政権に繋げた。
  • ドミニカ共和国トルヒーヨ*1、30年2月-61年5月)
  • グァテマラウビコ*2、30年12月-44年7月)
  • エルサルバドルエルナンデス*3、31年12月-44年5月)
  • キューババティスタ*5、34年1月-58年12月、44-52年に中断)
  • ニカラグアソモサ*6、36年6月-56年9月)
1930年11月のブラジルの「ヴァルガス革命」で生まれた文民のヴァルガス長期政権(〜45年11月)には、若手将校が背後に控えていた。ホンジュラスではクーデターは経なかったが、国民党の指導者カリアス(*4)将軍が33年2月から48年1月までの長期政権を築いた。
 
軍人の出自は、一般的に中間層以下の非エリートだ。寡頭支配(オリガキー)への反発がある。識字率が極めて低かった時代に、軍隊で教育も受けた。将校らは士官学校で高等教育も受けた。中米では、コスタリカを除くと、軍部が国政を担う政治文化すら育った。南米でもベネズエラはそうだった。かかる政治文化こそなくとも、社会秩序の守護を自認する軍人は多かった。1930年代に彼らが起こしたクーデター後、軍政の道を辿ったのは下記4ヵ国だ。ラ米域内最先進国で白人国家のアルゼンチンが入っている点に注目したい。
  • ペルー(30年8月-31年12月、33年4月-39年12月):1919年からのレギーア独裁に若手将校らが反発したもの。クーデター指導者のサンチェス・セロが軍政首班を経て31年10月の選挙で、アプラ党を設立したアヤデラトーレを制して大統領になり、33年4月にアプラ党過激派に暗殺され、軍政に戻る、という経緯を辿る。
  • ボリビア(30年6月-31年3月、36年5月-47年1月):共和党シレス・レイェス政権の民族主義急進政権を危惧したものだが、この軍政後に発足したサラマンカ政権がパラグアイとの「チャコ戦争」(32-35年)で敗退、軍政に戻った。36年5月-40年4月は左派、40年4月-43年12月は右派、43年12月-47年1月はパス・エステンソロ率いる民族解放運動(MNR)との共闘で民族主義派と変る。
  • アルゼンチン(30年9月-32年2月、43年6月-46年2月):16年にアルゼンチンに初めて中間層政党の急進党政権を築いたイリゴージェンの第二次政権の政策運営を危惧したもの。32-38年の大統領は軍人で、寡頭勢力を含むいわゆる「協調政府」が構築された。これに反発する若手将校に動かされた軍部が43年5月に再クーデターを決行したが、その一人だったペロンがアルゼンチン政界に台頭する。
  • エクアドル(31年8月-32年12月):「七月革命」後軍部が発足させたアヨラ政権に対するクーデター。軍政後ベラスコ・イバラを軸に政治混乱期に入る。
 
第二次世界大戦後の軍政としては、下記6ヵ国を挙げる。
  • ペルー(48年10月-56年7月):国情不安を理由にブスタマンテ政権を転覆するクーデター後に成立した軍政。50年6月の大統領選で、軍政首班のオドリーア(*7)が無投票選出となり、クーデターから都合8年近くの政権を担った。
  • ベネズエラ(1948年11月-58年1月):同国は35年、最後のカウディーリョと言われるビセンテ・ゴメスが死去、その後45年10月まで軍人政権が続いた。若手将校らがこれを転覆し文民のベタンクールを首班とする革命評議会政権下で行われた大統領選で初めての民選文民政権が誕生したが短命で、ペレス・ヒメネス(*8)の軍政が敷かれた。
  • コロンビア(1953年6月-58年8月):同国は48年4月のガイタン暗殺後「ビオレンシア」の時代に入った。保守党のゴメス大統領に司令官を解任されたロハス・ピニリャ(*9)が、この国では珍しいクーデターで政権を掌握した。
  • グァテマラ(1954年6月-58年3月):ウビコ独裁政権を倒したいわゆる「44年革命」で漸く同国で民主主義体制が整ったが、その二代目大統領で44年革命を主導したアルベンスが、その民族主義政策を容共的であるとの理由で、54年6月に追放された。軍政後も大統領には軍人が選挙を経て就任する政治体制となる。
  • アルゼンチン(55年9月-58年2月、62年3月-63年7月):55年9月、ペロン政権に反対するクーデターが起きた。ペロン党も非合法化された。だが58年に再合法化され62年2月の議会選挙で第一党に躍り出た。翌3月のクーデターは、これを嫌ったものだ。
 
軍政時代に数少ない民政国家だったベネズエラは事実上58年まで、同じくドミニカ共和国でも65年の内戦が終結するまで、民政の確立そのものは遅れていた。
 
人名表(独裁政権を担った、乃至は主たる軍政を主導した軍人)
 
(*1)トルヒーヨ(Rafael Leonidas Trujillo、1891-1961)、ドミニカ共和国。国家警備隊長官出身。表面上退陣した期間を含め35年間の最高権力
(*2)ウビコ(Jorge Ubico Castaneda、1878-1946)、グァテマラ。クーデター後議会により大統領に選出された将軍。連続再選を2度繰り返す。
(*3)エルナンデス(Maximiliano Hernandez、1882-1966)、エルサルバドル。それまでの寡頭支配に対して軍人が国政を担う体制を構築
(*4)カリアス(Tiburcio Carias、1896-1969)、ホンジュラス。軍人だが国民党の指導者。満を持して大統領当選、その後連続三選
(*5)バティスタ(Fulgencio Batista、1901-1973)、キューバ。軍曹時代、「1933年革命」に参加した。その後再クーデターで実権掌握。革命で失脚
(*6)ソモサ(Arnastasio Somoza Garcia 1896-1856)、ニカラグア。国家警備隊長官出身。79年までのソモサ家政権時代を始める。通称「タチョ」
(*7)オドリーア(Manuel Apolinario Odria、1897-1974)、ペルー。41年の対エクアドル戦争の英雄。ポプリスモ路線。退陣後アプラ党と連携
 

 3   軍政時代
更新日時:
2008/04/22 
 1962年1月にキューバが米州機構(OAS)から除名されたが、これと前後してラ米各地で反政府ゲリラが誕生した。これ以降の軍政成立を時系列で見ていく。軍政諸国名は赤字、いわば擬似軍政諸国は緑字で表示する。後者は4ヵ国だ。中米ニカラグアはソモサ家支配、エルサルバドルグァテマラは夫々31年と54年以降、全て軍人による政権が続いており、南米でもパラグアイでは、54年からストロエスネル(*10)将軍が超長期個人政権を率いていた。
 
1963年7月、ゲリラ制圧には軍が政府の前面に出る方が効果的、との考えでエクアドルが、同年10月には、曲がりなりにも文民政権が続いていたホンジュラスでも、キューバの影響を排除する理由で、クーデターによって軍政に入った。
 
1964年4月、ブラジルで当時のグラール政権の左派傾向に危惧を抱いたカステロ・ブランコ(*2)元帥率いる軍部がクーデターで政権に就き、キューバとの断交に踏み切った。65年央に内戦中のドミニカ共和国に米国の要請に基づきOAS平和軍が派遣されたが、彼はその総司令官と、米軍に次ぐ兵力を出した。彼は1年半で引退し、以後は大統領の資格要件を軍人に限定するだけで、公認の二大政党による議会や選挙人が3年、乃至5年の任期で強力な権限を持つ大統領を選出する仕組みを導入した。また、以後21年間に及ぶ軍政は、市場主義経済を信奉するテクノクラートに経済政策を委ねる、「ブラジルモデル」と呼ばれるスキームを構築した。「ブラジルの奇跡」と言われる経済成長は、このスキームの賜物とされる。一方で、他国同様、左翼ゲリラ組織も活動していた。
1964年11月、ボリビアでもバリエントス(*3)司令官がパス・エステンソロ大統領を追放した。ボリビア革命再建を標榜したが、同政権が3ヵ月前に断絶したキューバとの国交再開には至っていない。ただ、いわゆる「軍農協約」で農民層の支持を広げ、これが66年9月に大統領選勝利に繋がった。この頃、チェ・ゲバラが「第二、第三のベトナム」を求めて潜入していたが、農民層を動かせず彼のゲリラ闘争は失敗、翌67年10月、処刑される。
 
1966年3月、反軍政運動が激化していたエクアドルで、一旦民政に復帰した。ところが同年6月、アルゼンチンオンガニア(*4)将軍によるクーデターで軍政に入った。65年、再々合法化されたペロン党が議会選挙で第一党になった。これを危惧したものだ。特にキューバ革命後、労組を押さえている「ペロニスタ(ペロン主義者)」の活動が過激化し、工場占拠も頻発させていた。オンガニアが狙ったものはブラジル同様、市場主義経済体制の構築だった。
 
1968年10月、ペルーで起きたベラスコ(*5)将軍のクーデターは、国内外を通じ、それまでとは異なった軍政に繋がった。外資企業の接収、基幹産業の国営化、徹底した農地再分配などを断行している。かかる軍政を「ペルーモデル」と呼ぶ。また数日遅れて、パナマでもトリホス(*6)将軍がクーデターを起こす。労働法の整備や土地再分配も行ったが、国際金融センターを立ち上げたことからも、ベラスコのような左派軍政とは言い難い。同年7月には「ゲバラ日誌」が発刊され、世界中の若者に読まれた。メキシコの「トラテロルコ事件」という流血事件がやはり10月に起きているが、学生、労働者の反政府行動は、世界中で起きた。軍政下のブラジルでも大規模デモが打たれた。
1969年にはアルゼンチンで「コルドバソ」と呼ばれる労働争議から発展した流血事件が起き、ペロニスタの一部が「モントネロス」というゲリラ組織を立ち上げ、反軍政活動を過激化する。ボリビアでは、ペルー同様の左派軍政を見た(但し、71年8月の軍部内ク−デターで挫折する)。チリでは70年のアジェンデ政権誕生に繋がる「人民連合」が組成された。ペルーモデルの軍政は、エクアドルで翌72年2月、文民政権を転覆するクーデターで誕生した。アルゼンチン軍政は72年にペロンに対して恩赦を出し、翌73年3月に選挙が行われペロン党政権が復活した。
 
1973年6月、アルゼンチン民政移管の翌月、隣国ウルグアイが左翼ゲリラ組織「トゥパマロス」との戦争状態、を理由に事実上の軍政入り、9月にはチリでは国情混乱を理由にアジェンデ政権ピノチェト(*7)将軍によるクーデターで崩壊する。チリ軍政は経済政策面では、テクノクラートとして「シカゴ・ボーイズ」と呼ばれる自由主義経済学の信奉者を起用し、ブラジルモデルの市場主義を深化させたことで知られる。70年のアジェンデ政権発足時に、ラ米でメキシコに次いでキューバと国交を持つ二番目の国になっていたチリは、ここで再断交する。ただこの時点でペルー、アルゼンチンが国交を再開していた。チリ軍政は、社会党員を含む左派勢力を多く検挙し、拷問などで3千人を超える人たちが殺害されたと言い、人権侵害の国際的批判を受けた。
1976年3月にはアルゼンチンも再び軍政に戻った。ラ米軍政諸国数は、擬似軍政諸国を含め、13ヵ国と、最も多くなった。アルゼンチンの、いわば第二軍政は、モントネロス、労組幹部、それらの関係者らを次々に検挙し、3万人と言われる「行方不明者(desaparecidos。実際にはこの殆どは軍部の拷問で死亡した、とされる)」を出した、いわゆる「汚い戦争」で知られる。勿論、その人権侵害に対しては厳しい国際的糾弾を受けた。この軍政はキューバとは断交しなかった(大使は引揚げ)。この時点で、軍政諸国では殆どの左翼ゲリラが活動を停止していた。擬似軍政のニカラグア、グァテマラ及びエルサルバドルでは、活発だった。キューバと国交を持っていた軍政国家は、この時点でペルー、アルゼンチン及びパナマの3ヵ国だが、民政のコロンビア、ベネズエラが加わり、計6ヵ国だった。
 
政治体制面では大半が大統領制を敷いた。ブラジルでは議会が、ウルグアイでは国家評議会が大統領を指名した。アルゼンチンでも軍事評議会が国家元首を選出する形を採っている。エクアドル、ボリビア、ペルー及びチリでは、軍政時代の大部分を軍人個人が選挙や機関決定を経ずに(或いは軍内クーデターで交替する形で)政権を引っ張った。パナマではトリホス(また彼の死後暫くして実権を握ったノリエガ(*8)司令官)が最高指導者として君臨する一方で、83年までは別の文民を軍部(78年以降は人民議会という組織)が大統領に指名した。83年以降は民選大統領になったが、実権はノリエガが保持した。擬似軍政4ヵ国とホンジュラスは民選に拘った。
 
民政移管は、ソモサ独裁政権転覆のニカラグア革命(1979年7月)の翌8月、エクアドルが口火を切った。1年後の翌80年7月、ペルーが続き、82年に1月のホンジュラス、5月のエルサルバドル、10月のボリビア、12月のアルゼンチンと、4ヵ国で実現する。この時点では、ラ米は中米危機と、対外債務危機が進行中だった。アルゼンチンの場合は、巨額債務とハイパーインフレに加え、同年4〜6月の対英マルビナス(フォークランド)戦争敗退という不名誉な事件を経た。
1985年3月にブラジルとウルグアイ、翌86年1月にはグァテマラが民政に戻った。ラ米で民政移管が実質的に完了したのは、1990年3月、チリのピノチェト退陣による。
 
人名表(軍政に関った重要な軍人)
 
(*1)ストロエスネル(Alfredo Stroessner、1912-2006)、パラグアイ:1954年に事実上のクーデターで政権掌握、以後89年までの35年間、最高権力を行使
(*2)カステロ・ブランコ(Humberto de Alencar Castello Branco、1900-67)、ブラジル:1964年、グラール政権を転覆した国軍最高司令官、66年10月に交替
(*3) バリエントス(Rene Barrientos、1919-69)、ボリビア:1964年、クーデターを主導した副大統領兼国軍司令官。ゲバラを処刑した軍政で知られる。航空機事故で死亡
(*4) オンガニア(Juan Carlos Ongania、1914-95)、アルゼンチン:1966年、ペロニスタの影響力排除を狙いクーデター。70年6月に交替
(*5)ベラスコ(Juan Velasco Alvarado、1910-77)、ペルー:1968年のクーデターを率いた左派軍政指導者、75年8月に軍内右派により失脚
(*6)トリホス(Omar Efrain Torrijos Herrera、1929‐81)、パナマ:1968年のクーデターを率いた国家警備隊総司令官。パナマ運河返還で有名。81年航空機事故で死去
(*7)ピノチェト(Augusto Pinochet、1915−2006)、チリ:1973年クーデター時の国軍総司令官。大統領(74-89年)。その後も98年3月まで国軍最高司令官
(*8)ノリエガ(Manuel Antonio Noriega Moreno、1938〜)、パナマ:1983年に防衛軍最高司令官。事実上のパナマ最高権力者。89年12月の米軍侵攻で失脚

 4   ラ米諸国のゲリラ戦争
更新日時:
2008/08/08 
 国軍が関るものにゲリラ戦争がある。ゲリラとは、政府、ないしは社会体制に対する抵抗運動が武装化したものだ。ラ米には幾らでも出現した。
 
 ラ米のゲリラの中で革命政権を樹立したのは;
  • 1959年1月、カストロ率いる7月26日運動(キューバ。1956年、亡命先のメキシコで結成。以下、ゲリラ名は赤字で表記)
  • 1979年7月、オルテガ率いるサンディニスタ民族解放戦線(FSLN)(ニカラグア。62年6月、ホンジュラスで結成された民族解放戦線(FLN)が前身)
がある(別掲の「ラ米の革命」参照)。7.26運動は61年5月、「人民社会党(旧キューバ共産党)」との連合体、革命統合機構(ORI)結成、これが63年11月創設の単一政党、「社会主義革命統一党(PURS)」(現「キューバ共産党(PCC)」の前身)創設に繋がった。FSLNは政党名として残った。現在の政権党だ。
 
 ニカラグア革命後、グァテマラとエルサルバドルで夫々複数の左翼ゲリラが統合した。いずれも政府軍との内戦を経て武装解除に至る(中米危機。別掲の「ラ米の対外・域内戦争」の「二十世紀の内戦」参照)。
  • 1980年、エルサルバドルでファラブンド・マルティ民族解放戦線(FMLN)人民解放軍(FPL)(結成70年4月。以下同。日本では合弁企業インシンカの幹部誘拐、殺害事件で知られる)、「国民抵抗軍(FARN)」75年6月。大使館や政府機関選挙事件で知られる)などが統合。FMLNは92年12月に武装解除完了。現在議会第二党。
  • 1982年、グァテマラでグァテマラ国民革命連合(URNG)11月13日革命運動(MR-13)(62年2月。前年11月に反乱を起こした将校グループが結成、後に他ゲリラグループと「抵抗軍(FAR)」を組成)が主導し、他ゲリラ組織を統合。96年12月和平成立、合法政党となるが議会勢力としては小さい。
 
ニカラグアのFSLNもグァテマラのMR-13もキューバ革命の影響下に誕生した。同時期にやはり同背景で生まれたゲリラ組織を一覧する。
  • 国民解放武装戦線(FALN)(ベネズエラ。1962年)当時のベタンクール政権が進めていた左翼グループへの弾圧に反発する与党左派を含む左派系政党、学生、労組の過激派結成。政府軍の攻勢で60年代末までに消滅
  • 民族解放軍(ELN)(コロンビア。1964年)左翼学生らが結成、解放の神学を実践したことで知られるカミロ・トーレスが参加、戦死している。活動中
  • 左翼革命運動(MIR)(チリ。1965年)社会党急進派学生が結成。ゲリラ化は69年央より。73年からのピノチェト軍政により75年までに壊滅
  • トゥパマロス(ウルグアイ。1965年)社会党指導下の糖業関連労働連合が62年に党を離脱して結成した民族解放同盟が前身。89年に合法政党に脱皮、現与党の一角を成す。
  • コロンビア革命軍(FARC)(コロンビア。1966年)1950年代に農村武装共同体を展開していた自由党急進派と共産党武闘派で生き残りが結成。解放区形成が特徴で現在も活動中
 
 ラ米の軍政時代(1960年代央から80年代央)と不可分のゲリラ組織も、左翼民族主義と言う意味では思想的にキューバ革命と無関係ではない。
  • 民族解放行動(ALN)(ブラジル。1967年)。ブラジル共産党急進派が脱退しゲリラ化。69年に指導者が暗殺され、73年までに軍政により壊滅
  • モントネロス(アルゼンチン。1969年)。ペロニスタ(55年に追放されたペロンの影響下にあるグループ)急進派が軍部のペロニスタ敵視に抵抗して武装した。ゲリラ及び労組幹部、さらにはその関係者に対する弾圧(「汚い戦争」)で、3万人を超えるといわれる行方不明者(desaparecidos。殆どが死亡したとされる)を出した軍政により壊滅
 
1970年代以降に結成されたゲリラとしては、下記のようなものがある。
  • 輝く道(センデロ・ルミノソSL)(ペルー。1970年)。共産党毛沢東派とされる学生らが結成。武装活動は80年のペルー民政移管後に本格化、日本人駐在員にも犠牲者が出た。90年代のフジモリ政権期にほぼ消滅
  • 4月19日運動(M-19)(コロンビア。1973年)。53年より3年間軍政を敷いたロハス・ピニリャが60年代に創設した「全国人民同盟(ANAPO)」の急進派がを立ち上げた。ドミニカ大使館占拠事件など派手な活動で世界の耳目を集めた。90年までに武装解除、政党化する。
  • トゥパクアマルー革命運動(MRTA(ペルー。1983年)。複数の左翼政党急進派が結成、日本では96年12月〜97年4月の日本大使公邸人質事件で有名だ。これもフジモリ政権期に消滅
  • サパティスタ民族解放軍(EZLN)(メキシコ。1992年)。1991年の憲法改正で「エヒード」(共同体農場)所有の農地売買が認められたことに対する抗議運動が発展し、ゲリラ結成に繋がった。94年1月のNAFTA発効にあわせた武力蜂起が知られる。
 
 ゲリラ戦争が今なお続いているのは、ほぼコロンビアだけ、と言える。前述の「ラ米諸国の軍事力」を参照願いたいが、コロンビアの軍事力が対GDP比で他国から突出している背景の説明になろう。和平協議も何度か行われM-19はこれが成功している。だがFARCとは交渉決裂状態で、ELNとも成立にはなかなか至らず、戦争は続く。歴史的には、ゲリラ側としては各地にできた自警組織、とりわけ麻薬組織との抗争が日常化し、一方で政府側には麻薬犯罪撲滅が主要課題になるなど、問題が輻輳してきた。
 
 その内の麻薬組織は米国の強い要求と支援を受け、1990年代に麻薬カルテルは弱体化している。FARCとは98年に和平協議の場、非武装地域を設定、さらに99年、ELNを初めて和平交渉の場に引っ張り込んだ。ただゲリラと武力抗争を繰り返す各自警団への対応も必要だ。自警団は97年にその全国組織「コロンビア自衛連合(AUC)」を発足させていた。ゲリラは自警団の背後に国軍と警察がある、として、交渉中も武力衝突は繰り返された。
 2002年2月、政府はFARCとの和平交渉を中断、非武装地域に国軍を進攻させた。米国が「反テロ法」によりコロンビアに400名の部隊を派遣したのはウリベ政権発足3ヵ月後の同年11月だ。FARC及びELN同様、米国によりテロリスト組織に指定されたAUCは、政府側と2003年1月に武装解除を求める和平プロセスに入り、2006年末までに一応の武装放棄は成った。
 第三国でのELNの協議は、国内での戦闘の傍ら、08年8月現在、まだ続く。
 FARCは、国際機関や外国などの仲介も得て、何度か政府との間で和平協議を進めようと図ったこともあったが、現在は彼らが拘束する「政治的人質」の扱いだけが課題となっているようだ。2008年3月、コロンビア国軍がエクアドル越境に及び、幹部を含む26名を殺害する事件が起き、同国は主権侵犯で対コロンビア外交を中断した。一方でFARCの最高指導者が死亡している。
 
 


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