1962年1月にキューバが米州機構(OAS)から除名されたが、これと前後してラ米各地で反政府ゲリラが誕生した。これ以降の軍政成立を時系列で見ていく。軍政諸国名は赤字、いわば擬似軍政諸国は緑字で表示する。後者は4ヵ国だ。中米ニカラグアはソモサ家支配、エルサルバドルとグァテマラは夫々31年と54年以降、全て軍人による政権が続いており、南米でもパラグアイでは、54年からストロエスネル(*10)将軍が超長期個人政権を率いていた。
1963年7月、ゲリラ制圧には軍が政府の前面に出る方が効果的、との考えでエクアドルが、同年10月には、曲がりなりにも文民政権が続いていたホンジュラスでも、キューバの影響を排除する理由で、クーデターによって軍政に入った。
1964年4月、ブラジルで当時のグラール政権の左派傾向に危惧を抱いたカステロ・ブランコ(*2)元帥率いる軍部がクーデターで政権に就き、キューバとの断交に踏み切った。65年央に内戦中のドミニカ共和国に米国の要請に基づきOAS平和軍が派遣されたが、彼はその総司令官と、米軍に次ぐ兵力を出した。彼は1年半で引退し、以後は大統領の資格要件を軍人に限定するだけで、公認の二大政党による議会や選挙人が3年、乃至5年の任期で強力な権限を持つ大統領を選出する仕組みを導入した。また、以後21年間に及ぶ軍政は、市場主義経済を信奉するテクノクラートに経済政策を委ねる、「ブラジルモデル」と呼ばれるスキームを構築した。「ブラジルの奇跡」と言われる経済成長は、このスキームの賜物とされる。一方で、他国同様、左翼ゲリラ組織も活動していた。
1964年11月、ボリビアでもバリエントス(*3)司令官がパス・エステンソロ大統領を追放した。ボリビア革命再建を標榜したが、同政権が3ヵ月前に断絶したキューバとの国交再開には至っていない。ただ、いわゆる「軍農協約」で農民層の支持を広げ、これが66年9月に大統領選勝利に繋がった。この頃、チェ・ゲバラが「第二、第三のベトナム」を求めて潜入していたが、農民層を動かせず彼のゲリラ闘争は失敗、翌67年10月、処刑される。
1966年3月、反軍政運動が激化していたエクアドルで、一旦民政に復帰した。ところが同年6月、アルゼンチンがオンガニア(*4)将軍によるクーデターで軍政に入った。65年、再々合法化されたペロン党が議会選挙で第一党になった。これを危惧したものだ。特にキューバ革命後、労組を押さえている「ペロニスタ(ペロン主義者)」の活動が過激化し、工場占拠も頻発させていた。オンガニアが狙ったものはブラジル同様、市場主義経済体制の構築だった。
1968年10月、ペルーで起きたベラスコ(*5)将軍のクーデターは、国内外を通じ、それまでとは異なった軍政に繋がった。外資企業の接収、基幹産業の国営化、徹底した農地再分配などを断行している。かかる軍政を「ペルーモデル」と呼ぶ。また数日遅れて、パナマでもトリホス(*6)将軍がクーデターを起こす。労働法の整備や土地再分配も行ったが、国際金融センターを立ち上げたことからも、ベラスコのような左派軍政とは言い難い。同年7月には「ゲバラ日誌」が発刊され、世界中の若者に読まれた。メキシコの「トラテロルコ事件」という流血事件がやはり10月に起きているが、学生、労働者の反政府行動は、世界中で起きた。軍政下のブラジルでも大規模デモが打たれた。
1969年にはアルゼンチンで「コルドバソ」と呼ばれる労働争議から発展した流血事件が起き、ペロニスタの一部が「モントネロス」というゲリラ組織を立ち上げ、反軍政活動を過激化する。ボリビアでは、ペルー同様の左派軍政を見た(但し、71年8月の軍部内ク−デターで挫折する)。チリでは70年のアジェンデ政権誕生に繋がる「人民連合」が組成された。ペルーモデルの軍政は、エクアドルで翌72年2月、文民政権を転覆するクーデターで誕生した。アルゼンチン軍政は72年にペロンに対して恩赦を出し、翌73年3月に選挙が行われペロン党政権が復活した。
1973年6月、アルゼンチン民政移管の翌月、隣国ウルグアイが左翼ゲリラ組織「トゥパマロス」との戦争状態、を理由に事実上の軍政入り、9月にはチリでは国情混乱を理由にアジェンデ政権がピノチェト(*7)将軍によるクーデターで崩壊する。チリ軍政は経済政策面では、テクノクラートとして「シカゴ・ボーイズ」と呼ばれる自由主義経済学の信奉者を起用し、ブラジルモデルの市場主義を深化させたことで知られる。70年のアジェンデ政権発足時に、ラ米でメキシコに次いでキューバと国交を持つ二番目の国になっていたチリは、ここで再断交する。ただこの時点でペルー、アルゼンチンが国交を再開していた。チリ軍政は、社会党員を含む左派勢力を多く検挙し、拷問などで3千人を超える人たちが殺害されたと言い、人権侵害の国際的批判を受けた。
1976年3月にはアルゼンチンも再び軍政に戻った。ラ米軍政諸国数は、擬似軍政諸国を含め、13ヵ国と、最も多くなった。アルゼンチンの、いわば第二軍政は、モントネロス、労組幹部、それらの関係者らを次々に検挙し、3万人と言われる「行方不明者(desaparecidos。実際にはこの殆どは軍部の拷問で死亡した、とされる)」を出した、いわゆる「汚い戦争」で知られる。勿論、その人権侵害に対しては厳しい国際的糾弾を受けた。この軍政はキューバとは断交しなかった(大使は引揚げ)。この時点で、軍政諸国では殆どの左翼ゲリラが活動を停止していた。擬似軍政のニカラグア、グァテマラ及びエルサルバドルでは、活発だった。キューバと国交を持っていた軍政国家は、この時点でペルー、アルゼンチン及びパナマの3ヵ国だが、民政のコロンビア、ベネズエラが加わり、計6ヵ国だった。
政治体制面では大半が大統領制を敷いた。ブラジルでは議会が、ウルグアイでは国家評議会が大統領を指名した。アルゼンチンでも軍事評議会が国家元首を選出する形を採っている。エクアドル、ボリビア、ペルー及びチリでは、軍政時代の大部分を軍人個人が選挙や機関決定を経ずに(或いは軍内クーデターで交替する形で)政権を引っ張った。パナマではトリホス(また彼の死後暫くして実権を握ったノリエガ(*8)司令官)が最高指導者として君臨する一方で、83年までは別の文民を軍部(78年以降は人民議会という組織)が大統領に指名した。83年以降は民選大統領になったが、実権はノリエガが保持した。擬似軍政4ヵ国とホンジュラスは民選に拘った。
民政移管は、ソモサ独裁政権転覆のニカラグア革命(1979年7月)の翌8月、エクアドルが口火を切った。1年後の翌80年7月、ペルーが続き、82年に1月のホンジュラス、5月のエルサルバドル、10月のボリビア、12月のアルゼンチンと、4ヵ国で実現する。この時点では、ラ米は中米危機と、対外債務危機が進行中だった。アルゼンチンの場合は、巨額債務とハイパーインフレに加え、同年4〜6月の対英マルビナス(フォークランド)戦争敗退という不名誉な事件を経た。
1985年3月にブラジルとウルグアイ、翌86年1月にはグァテマラが民政に戻った。ラ米で民政移管が実質的に完了したのは、1990年3月、チリのピノチェト退陣による。
人名表(軍政に関った重要な軍人)
(*1)ストロエスネル(Alfredo Stroessner、1912-2006)、パラグアイ:1954年に事実上のクーデターで政権掌握、以後89年までの35年間、最高権力を行使
(*2)カステロ・ブランコ(Humberto de Alencar Castello Branco、1900-67)、ブラジル:1964年、グラール政権を転覆した国軍最高司令官、66年10月に交替
(*3) バリエントス(Rene Barrientos、1919-69)、ボリビア:1964年、クーデターを主導した副大統領兼国軍司令官。ゲバラを処刑した軍政で知られる。航空機事故で死亡
(*4) オンガニア(Juan Carlos Ongania、1914-95)、アルゼンチン:1966年、ペロニスタの影響力排除を狙いクーデター。70年6月に交替
(*5)ベラスコ(Juan Velasco Alvarado、1910-77)、ペルー:1968年のクーデターを率いた左派軍政指導者、75年8月に軍内右派により失脚
(*6)トリホス(Omar Efrain Torrijos Herrera、1929‐81)、パナマ:1968年のクーデターを率いた国家警備隊総司令官。パナマ運河返還で有名。81年航空機事故で死去
(*7)ピノチェト(Augusto Pinochet、1915−2006)、チリ:1973年クーデター時の国軍総司令官。大統領(74-89年)。その後も98年3月まで国軍最高司令官
(*8)ノリエガ(Manuel Antonio Noriega Moreno、1938〜)、パナマ:1983年に防衛軍最高司令官。事実上のパナマ最高権力者。89年12月の米軍侵攻で失脚
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