一般的にラテンアメリカ(以下、ラ米)では、アメリカ合衆国(以下、米国)の評判は好ましくない。歴史的に、米国から直接軍事侵攻を受けた国はメキシコと中米・カリブ地域にほぼ限定される。何度か繰り返された米軍侵攻による犠牲者数はよく知らないが、長い歴史の累積数で、第二次世界大戦の最後の数ヶ月で日本が犠牲者に比べても、ずっと少ないことは間違いない。だが、一般国民の対米感情は、米国に寛容な日本人との対極にあるようだ。対米感情の悪さは、軍事侵攻を蒙ったメキシコ・中米・カリブ地域(狭義の「米国の裏庭(Backyard)」)に留まらず、ラ米全体に共通している。この歴史的な背景を述べる。
ラ米にとって米国は、植民支配から独立し、当時の世界では稀有な共和政国家を建設した、と言う意味で、仲間であった。米国の独立革命はラ米のそれに数十年先駆けており、且つ成功したことから、建国後の国家運営のモデルでもあった。
1823年、米国のモンロー大統領が「ヨーロッパ諸国は、独立したアメリカ諸国を植民地支配の対象と見做してはならない」とする「モンロー宣言」を発した。世界史上、民主主義国家米国の「非干渉主義」として広く知られる。今でこそ、ラ米については米国に任せよ、という宣言、即ち、米国のラ米に対する野心、との解釈をする人もいるが、ボリーバルが1826年に主催した「パナマ会議(メキシコ、当時の中米諸州連合、同じくグランコロンビア、及びペルーが参加。現在に置き直せば11ヵ国)」では、同宣言を好意的に捉えていた。別掲の「ラテンアメリカの独立革命」で述べるように、この時点で、キューバを除くとラ米は旧宗主国からの独立を果たしていた。
当時の米国の領域は、現テキサス、ニューメキシコ、アリゾナ、ネヴァダ、ユタ及びカリフォルニアをも領土として抱えていた当時のメキシコとほぼ同じだ。1812年の対英戦争では互角の勝負をして自信を付け、交通網が整備され肥沃な国土に農業が栄え、工業も発展に向い、エネルギーに溢れていた。独立した共和国というだけではなく、ラ米の新興諸国が一目置く存在だった。
米国が、ラ米の反感を受けるようになる最初の動きは、「米墨戦争」によって領土の半分以上を米国に持っていかれたメキシコにおいて、である。