ラテンアメリカ略史
 
 ラ米では、北米同様、ヨーロッパ系人種(白人)が支配層の殆どを占める。「ラ米の政権地図」で述べた大統領も白人が多く、インディオと呼ばれる先住民のモラレス・ボリビア大統領は例外的存在だろう。メスティソ(ヨーロッパ人と先住民の混血)、ムラート(ヨーロッパ人とアフリカ系人種(黒人)との混血)の大統領も結構いるが、ラ米十九ヵ国全体から見れば少数派だ。
 
 十五世紀末にスペイン人が、彼らが呼んだところの「ヌエボムンド(新世界。日本の教科書では新大陸と表現)」に到来した時点の米州先住民の人口は、研究者によって1千万人台から1億人強まで推計値の幅が非常に広い。マドリードの国立アメリカ博物館は1,200万としている。推計値では最も少ない部類だろう。スペイン人の歴史的大罪として言われるのは、高度文明を誇るアステカ王国とインカ帝国が築いた都市と文化財を破壊したことだが、もう一つが、先住民征服、それに続く使役の過程で先住民を激減させたことだ。後者については、スペイン人が持ち込んだインフルエンザや天然痘などの疫病に対する免疫が先住民に無かったことが災いしたと言われる。激減の理由のひとつとして、「アングロサクソンと異なり、スペイン人には人種偏見が無く、結果として先住民との混血が進んだために純粋な先住民が減った」という点を強調する人もいる。確かにラ米には米国でヒスパニック系を除き滅多に見られないメスティソ及びその子孫が多いが、そう言い切られると抵抗があろう。
 スペイン人が最初に征服したイスパニオラ島(現在のドミニカ共和国とハイチ)やキューバなどのカリブ諸島では、先住民はほぼ絶滅した。後にはアフリカから奴隷を輸入し、労働力として使った。他地方でも先住民人口が減少する中で、肉体的な労働適性が着目されやはり輸入された。ポルトガル領のブラジルでは、先住民を奴隷とした。足りなくなると、アフリカ植民地から奴隷を輸入した。いずれも、女性も多く連れてこられた。ムラート及びその子孫も増えてきた。
 300年以上もの植民期を経て、十九世紀初頭に独立革命が各地で起こった。この時点でのラ米人口は約2千万人だった、と推定されている。全体として白人は20%を占め、大陸部のスペイン植民地では先住民が、カリブ諸島とブラジルでは黒人が過半数を占めた、とされる。残りがメスティソとムラート及びその子孫だ。それから二世紀経った現在、色々な推定を元に分けると、総人口5.5億人の内、白人2億、メスティソとムラート及びその 子孫2.6億、先住民6千万、黒人2千万、その他のようになろう。
 
 米国の独立革命は最初の植民地建設から170年近く経っていた。ラ米では、310年以上だ。この違いは地勢、政治、社会、経済面で説明できよう。
  • 北米は東部十三州、総面積で200万平方`以下、全体として平野部にあり交通利便性が高く、独立派のヨコの連絡も得やすい。ラ米は面積ではその10倍以上、南北東西の距離が長大、熱帯雨林、山岳に阻まれ交通不便
  • 北米は、ヨーロッパで最も議会の伝統が根付いたイギリスの影響で、自治権が強かった。ラ米では植民地統治体制が副王を頂点として堅固、自治形態はエリートの名誉職的性格
  • 北米では事実上先住民を追放し、そこにヨーロッパ人社会を形成することで始まった。ラ米では先住民の使役(スペイン植民地)、奴隷化(ブラジル)を通じ、白人、先住民、黒人、及び様々な混血から成るエスニック社会へと進んだ。
  • 北米は移民による開拓で経済基盤を作り出した。独立志向は醸成しやすい。スペイン植民地はカカオや貴金属などの原産商品交易、ブラジルは砂糖産業移植、後に貴金属交易が経済基盤で、労働力を先住民、黒人などに求めた。
 
 独立後、米国では大統領選挙の結果が尊重され、クーデターは起きていない。奴隷問題を争点として内戦(我が国では南北戦争と言う名で知られる)はあった。ラ米では、独立国家として米国の後輩でありながら、クーデターは枚挙に暇が無い。特に独立革命を経た建国期では頻発している。堅固な植民地統治時代の反動で、競争相手同士で最高権力者に対する正統性問題が提起され、或いは不正選挙を理由にした。選挙結果を尊重するという民主主義の根本は、確かに欠如していたようだ。米国に倣った自由主義(信仰や経済活動の自由。地方分権推進)と、社会秩序の維持を尊重する保守主義(教会特権、経済権益の保護。中央政府に行政権を集中)が真っ向から対立した。これが建国時代からの非妥協主義伝統の源流と言えよう。内戦や内乱は数え切れない。
独立後のラ米諸国が国内抗争や隣国同士の戦争にエネルギーを注いでいる間に、欧米では産業革命が進行していた。米国も工業国になった。その原料となる資源供給地として、欧米諸国はラ米に着目した。国内情勢が安定すると、欧米列強が資源開発のための投融資に踏み切るようになる。前提として、投融資及び貿易の自由が必要で、どのラ米諸国もこの経済自由主義を採り入れた。輸送の高速大量化を背景に、鉄道建設や港湾整備が進み、奥地開発、人口移動が本格化する。また都市基盤も整備される。こうしてラ米は欧米工業国に対する資源輸出と、彼らからの工業品輸入を基本とする経済構造を確立させた。先ずこの点が工業国になっていた米国と異なる。
 ヨーロッパ同様の肥沃な大地に恵まれた南米南部では、米国同様、ヨーロッパからの移民が増えた。ラ米全体として独立期からの一世紀でラ米人口は五倍増となった。産業振興無しでは雇用機会が追い着かない。経済自由主義は1930年代の世界恐慌(大恐慌)期前後から修正され始め、国家が経済活動の前面にでるようになり、以後半世紀に亘りこれが常態化する。この点も大恐慌期の短期間を除いて自由主義経済を維持した米国と異なる。それから一世紀が経ち、人口はさらに五倍増だ。
 米国企業がラ米投資を本格化させるのは十九世紀末からで、第一次世界大戦後には英国を抜いた。ラ米諸国への米国の政治・軍事介入が目立つのは、概ね同大戦前後からだ。この頃の投資は資源及びインフラ分野が主である。第二次世界大戦後、米州相互援助条約下で、ラ米諸国は米国の軍事システムに組み入れられた。ラ米諸国が国家主導型経済政策の中で、米国企業の製造業投資が進んだ。
 
 1959年のキューバ革命は、ラ米の反体制派勢力を勢いづけ、ラ米諸国の多くで民主国家米国の軍事システムが機能する中で、その軍部が組織として政権を担う軍政という非民主政権時代を招来したのは歴史の皮肉と言ってよい。一方で、民政、軍政いずれの体制であれ、ラ米諸国の産業振興は対外債務増大を来たした。これが1980年代からの対外債務危機を呼ぶ。軍政が終わり、ラ米は経済統合の時代を迎える。市場主義経済がもてはやされ、規制緩和と民営化がどこの国でも進められた。人口は、5億人時代に入った。一向に縮小しないばかりか、開く一方の貧富格差という現実の中、近年政治勢力では左派ないしは中道左派が増え、既に過半数のラ米諸国で政権を担うようになった。
 
 ここでは植民地時代から今日までのラ米の動きを大急ぎで見ていくことする。登場人物の氏名を生没年とともにローマ字表記した人名表を各項目の最後に入れるが、解放者(独立革命家)及び建国時の有力カウディーリョについては別掲の「ラテンアメリカの独立革命、及び「カウディーリョたち」、二十世紀央の有名なポプリスタについては、同「ラ米のポピュリズム」と重複するので省いてある。
 


 
 
1 + 植民地時代
日付:
2008/05/07
2 + ラ米形成期(1809-1870)
日付:
2008/06/05
3 + ラ米確立期(1870-1910)
日付:
2008/06/05
4 + 大恐慌前夜(1910-29)
日付:
2008/06/05
5 + ポプリスタたちの時代(1930-50)
日付:
2008/07/04
6 + 革命の時代(1950-80)
日付:
2008/06/05
7 + 対外債務と経済統合
日付:
2008/06/11

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