カウディーリョたち
ラテンアメリカ人の深層に「マチスモMachismo」の存在がよく指摘される。マチョ(男気、男らしさを持つ人)崇拝思想、とでも言えようか。マチョは、理屈抜きで家族や友人のために命をかけることを厭わない。また男尊女卑ではない。女性を敬い、護り、且つ立てるという響きもある。ラ米に限らず、スペイン、ポルトガル、イタリアなど、ヨーロッパのラテン民族によく見られる。「カウディーリョCaudillo」はある意味でその極地とも言える。
カウディーリョはラテンアメリカの独立革命に輩出した。ラ米の独立戦争は、副王(総監)軍が徴募した現地人から成る「王党軍」に対しする、独立派が徴募した「独立派軍」の戦いであり、前者の兵士が後者に乗り換えることはよく見られた現象だった。戦後復員した兵士は、一部は国軍で採用されたが、多くは武器を捨てずに大土地所有者らの自警団などに雇われ、或いは戦中に従った司令官を頼って行った。こうして多くの武装集団が生まれた。彼らを束ねたのは革命家、というより、革命家に従うカリスマ的な頭目たちだ。正規軍の軍人崩れもいたし、農園主、或いは大農牧場で牧童たちを束ねる人もいた。彼らの中で、一地方を支配できるような実力を持つ人たちをカウディーリョと呼んだ。独立後も一大勢力を率い、歴史の節々に時の権力者に対する武装蜂起を起こし、国家の最高権力を掌握、或いは他地方のカウディーリョらとの武力構想を起こす人たちが多く現れた。中には自らの兵力を使い、列強の侵攻に向かった人もいた。
建国期以外にも、カウディーリョは多く見られる。別掲の「ラ米略史」の「大恐慌前夜」に掲げたメキシコのオブレゴン、ベネズエラのビセンテ・ゴメスもカウディーリョと言われる。「民主的カウディーリョ」と祝える人や、「カウディーリョ的」軍人は多く出た。ポプリスタの中にもカウディーリョの性格を持った人がいる。
だがやはりカウディーリョが最も活躍できた時代は、建国期だろう。主権国家の成立には、政権の正統性が非常に重要な位置づけを成す。黎明期のスペイン系アメリカ諸国は大体において米国を見習った代議制民主主義を志向した。しかし、国政を目指すエリートらは政治路線を巡って妥協無き対立に陥った。一人の権力者が選出されると、選出手続きの不正を理由にその正統性を巡り、反対派がクーデターを起こす事件は多発した。その主人公が、カウディーリョたちだった。ボリーバルは、1815年に彼が書いた有名なジャマイカからの手紙で、自治制度が確立した米国の体制は参考にならないことを既に示唆していた。ボリーバルが作り上げたグランコロンビアは、彼らが解体を演出した。内乱の多くは、カウディーリョ同士の権力闘争だった。国家統合に向う黎明期のラ米諸国で、政情不安をももたらした。
 
カウディーリョの性格には、戦略・戦術に長け、部下の忠誠を受け、政治・経済支配層からの信頼が篤く、一方で地方単位、或いは国家単位で権力に就けば、家族、親戚、縁者、郎等、及び友人に対し、経済的、或いは社会的な便宜を図り、要職に登用する家父長的な傾向がある。いわゆるクリエンテリスモ(縁故主義)が育つ所以であろう。
勢力拡大を志向するために、内乱や内戦の元になるとして、カウディーリョ排除の必要性を訴えた人もいた。カウディーリョを、いわば「スペイン的後進性」の象徴の一つ、とさえ捉えた。
しかしそれから一世紀半近くなっても、ラ米の人たちの深層に彼らの何人かに敬愛の念を禁じえないものが厳として残っている、というのは言いすぎだろうか。
 
本項では、カウディーリョが輩出した建国期の時代背景を考察する。
 


1 + 建国期のカウディーリョたち
日付:
2008/03/04
2 + 建国期の社会経済状況
日付:
2008/03/04
3 + スペイン系諸国の建国
日付:
2008/03/04
4 + 建国期後期のカウディーリョたち
日付:
2008/03/04

| ホーム | プロフィール | ラテンアメリカの政権地図 | ラ米略史 | ラ米の人種的多様性 | コンキスタドル(征服者)たち | ラ米の独立革命 | カウディーリョたち |
| ラ米の対外・域内戦争 | ラ米のポピュリズム | ラ米の革命 | ラ米の軍部―軍政時代を経て | ラ米の地域統合 | ラ米と米国 |


メールはこちらまで。