ラ米の軍部―軍政時代を経て


 軍部の役割は国防だ。また、政権転覆を狙う武装勢力との内戦にも出動する。政権転覆に成功し社会構造まで変えてしまうのが革命だ。別掲の「ラ米の域外・域内戦争」「ラ米の革命」参照頂きたい。いずれも本来はその時々の政権に対する忠誠が前提となる。革命が成立すると旧政権側軍人は国軍から排除される。
 
 1980年代前半までラ米諸国に駐在した経験を持つ方々は、多くの国で軍部の存在感が強く印象に残っておられよう。外国軍からの攻撃の脅威があったためではない。中米を除くと、当時革命を目的とした左翼勢力との内戦状態に至った国は少ない。なのに、軍国を思わせるほど軍のプレゼンスが高い、というイメージである。
 歴史的側面からみると、スペイン人やポルトガル人が新大陸を征服し、先住民を支配したのは、一つにはキリスト教による教化もあるが、軍事力による強権支配があった。独立革命は、殆どの場合独立派と王党派の間の軍事行動を伴い、多くの戦死者を出した。独立達成後、従軍した人たちの多くが創設された国軍に配属されるか、復員してもカウディーリョ配下の武装勢力や大農園の守備隊(自警団)に入るかなどした。後者が、米国の独立革命と異なる点で、黎明期はカウディーリョ同士の権力闘争で内乱が多発した。そうでなくとも、複数国家誕生の結果、国境線を巡る隣国との戦争も起きた。幾つかの国では域外国からの武力侵攻も受けた。
 だが、独立後国家体制が整ってくると、軍制も近代化される。ラ米諸国の多くは、ドイツやフランスに近代軍制を学んだ。ドイツは第一次世界大戦を起こし、ナチズムを経て第二次世界大戦に突っ込む軍国化の道を歩んだ。しかし軍部に親独傾向が強い国でも、ラ米諸国のどこもドイツに味方しなかった。大戦後は、軍制自体が文民統制の思想が強い米国の軍事システムに組み入れられた。制度上、ラ米ゆえの高い軍部存在感、の説明は困難だ。
 やはりスペイン人やポルトガル人の血筋、との見方も強い。だが、これは余りにも一面的な皮相な見方だろう。
 
 二十世紀に入ると幾つかの中米、カリブ諸国に米軍が進駐するようになり、ドミニカ共和国、ニカラグア及びパナマでは彼らの指導によって国家警備隊が創設された。国防軍というより国家秩序維持を目的とする軍事組織だ。
 1930年代、軍事クーデターにより、米国の裏庭と言われる中米・カリブ諸国の大半を占めるニカラグア、グァテマラ、エルサルバドル、ドミニカ共和国及びキューバで軍人個人の長期独裁をみた。30年代の軍事クーデターは、米国から遠い南米でも起き、アルゼンチン、ペルー及びボリビアでは軍部が急速に政治発言力を高めた。ただ、軍人個人の長期独裁はみていない。
 第二次世界大戦を期に組み入れられた米国の軍事システムは、具体的には米国規格の兵器、1947年の「米州相互援助条約(リオ条約)」による集団防衛体制と50年代のラ米諸国の大半が結んだ米国との安全保障条約、パナマのアメリカ学校(The School of the Americas。84年、米本土に移転)での研修、合同軍事演習、などが挙げられる。東西冷戦も背景にあった。当時のラ米諸国の軍部は、自国政権の容共姿勢を危惧する。
 ラ米に軍政が広がったのは、1959年のキューバ革命が社会主義革命を宣言した61年からの時期と重なる。同年、ケネディ米大統領が打ち出した「進歩のための同盟」にCounter-insurgency(対ゲリラ作戦)支援が加わったことも記憶に留めて良かろう。この時期、多くの国で反政府ゲリラが生まれた。軍政諸国の殆どで、70年代に消滅するが、軍政自体は80年代央まで続いた国が多い。60-80年代をラ米軍政時代、として本項を進める。
 
1 + ラ米諸国の軍事力
日付:
2008/04/22
2 + 軍政時代以前の軍政
日付:
2008/04/22
3 + 軍政時代
日付:
2008/04/22
4 + ラ米諸国のゲリラ戦争
日付:
2008/08/08

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