ラテンアメリカの地域統合


 1   統合に関る歴史的背景
更新日時:
2009/01/04 
十六世紀から十八世紀にかけてのラ米のスペイン植民地は下記の通り;
  • ヌエバイスパニア副王領:コスタリカ以北とカリブ流域(現ベネズエラの一部を含む)を管掌
  • ペルー副王領:パナマ以南
  • ヌエバグラナダ副王領:1739年、ペルー副王領より分離され、現ベネズエラ、コロンビア、エクアドルを管掌
  • リオデラプラタ副王領:1776年、同じくペルー副王領より分離され、現アルゼンチン、ウルグアイ、パラグアイ及びボリビアを管掌
4つの副王領から成っていた。副王領は「王国」の扱いだった。加えて、ヌエバイスパニアにはグァテマラとハバナに、ヌエバグラナダにはカラカスに、ペルーにもサンティアゴに軍務総監が配置された。軍務総監が分掌する4つの地域も、「王国」の扱いだった。つまり、植民地時代に既に八つの王国ができていた。
 
 別掲の「ラテンアメリカの独立革命」を参照願いたいが、1810年5月、ブエノスアイレス市会が副王を罷免し植民地人による自治評議会を立ち上げた時には、その統治範囲はあくまでリオデラプラタ副王領全体が対象だった。サンマルティン(1778-1850)がチリの独立革命に参加したのは、ボリビアを制圧していたペルー副王の軍から同地を奪回する方策として、ペルーとチリをスペインから解放する戦術から来ている。その僅か1ヵ月前、遠く離れたカラカスで市会が軍務総監を罷免していたのは植民地人がその分掌範囲の自治権を確立するためだったが、その後ボリーバル(1783-1830)はヌエバグラナダ副王領全体を一つの共和国としての独立に繋げた。二人のラ米独立の英雄は、国家としての大小の違いはあれ、何も現在のような多数国家の成立は考えていなかった。
 
 1825年までに、旧スペイン領にメキシコ、中米諸州連合、グランコロンビア(ボリーバルが建国)、ペルー、ボリビア、チリ、パラグアイ、及びアルゼンチンの8ヵ国が成立していた。ハバナを除く旧7「王国」の内、ヌエバグラナダ副王領とカラカス総監分掌地の2つは1ヵ国になり、リオデラプラタ副王領は3ヵ国に、ブラジル・アルゼンチン戦争の結果として、イギリスの調停によってウルグアイが建国され4ヵ国になった。他の旧4「王国」はそのまま4ヵ国だ。
 1830年、ベネズエラとエクアドルがグランコロンビアから、その8年後、グァテマラ、ホンジュラス、ニカラグア及びコスタリカが中米諸州連合から分離独立した。旧7「王国」は、スペインからの独立革命が勃発して僅か20年弱の年月しか経ていないこの時点で、国の数で倍増した。ハバナ総監領がスペインからの独立を達成したのは、それから60年近く経った1899年のことだ。旧8「王国」は16ヵ国になった。それに1844年にハイチから独立したドミニカ共和国を加えると17ヵ国だ。1903年にはパナマがコロンビアから分離独立し18番目の国になったのには、運河を巡る地政学的な要素もある。
 
 旧7「王国」が15ヵ国になって122年経った1960年2月、ラテンアメリカ自由貿易連合(ALALC。英語表現のLAFTAが一般的なので、ここでもLAFTAで話を進める)創設を決めるモンテビデオ条約が締結された。同年12月、LAFTAに参加していない中米諸国が、中米共同市場(MCCA)創設のためのマナグア条約を締結した。3年前、ヨーロッパで「欧州経済共同体(EEC)」が発足していた(67年7月には「欧州共同体(EC)」に発展)。経済効率を高めるための地域経済統合の機運は先進地域もラ米も同様だ。LAFTAには原参加国を含め、EC発足の67年までにメキシコと南米10ヵ国が参加、先ず動いたのがアンデス諸国で、69年5月、アンデス共同市場(ANCOM)創設のためのカルタヘナ協定が締結された。MCCAもANCOMも多くの加盟国で左翼ゲリラ活動激化などによる国情悪化に陥り、具体化に時間を要した点ではヨーロッパとは異なる。
 
 1981年3月、LAFTAが改組され、ラテンアメリカ統合連合(Asociacion Latinoamericana de Integracion、ALADI)となった。11ヵ国は、そのまま残った。91年3月にはこの枠組みの中でのメルコスル発足のためのアスンシオン条約が締結され、95年1月に発効する。また96年3月のトルヒーヨ議定書によりANCOM改めアンデス共同体(Comunidad Andina、CAN)発足へと進む。93年10月にグァテマラにMCCA常設事務局が置かれ、組織体として完成した。
  MCCA、メルコスル及びCANいずれも、92年2月のマーストリヒト条約で創設された「欧州連合(EU)」同様、域外関税を共通化した関税同盟が基本で、事務局、司法裁判所及び議会を持つようになった。チリはメルコスルとCANの準加盟国だが、関税がいずれの共同体の対外関税より低いためだ。
 
 ALADIに参加するメキシコは、1994年1月発足の北米自由貿易協定(NAFTA)に加盟する。域外に対する関税自主権を認めたことが基本的な違いだ。91年にコロンビア及びベネズエラとの自由貿易協定を締結し、メルコスル発足と共同体としてのCAN成立に先行して、94年に発効させた(G-3と呼ぶ)。またCANとメルコスルにオブザーバーとして参加する。ALADI非参加国で上記いずれの統合体にも加盟していないパナマ及びドミニカ共和国は、米国・中米・ドミニカ共和国自由貿易協定(CAFTA-DR。米国、SICA諸国、ドミニカ共和国で構成)には参加している。
 
 1999年にALADIに参加したキューバは、同年より政権を担うベネズエラのチャベス大統領が打ち出した米州ボリーバル代替構想(ALBA。albaは夜明けの意)に参加する。ALBAも、ALADI枠組みの経済統合体と見做されており、参加国個別の経済事情を前提とした通商協定の推進をうたう。94年12月、マイアミにおける第一回米州首脳会議で、米国の主導で打ち出された米州自由貿易地域(FTAA)構想に対抗したものだ。2004年12月、ベネズエラ・キューバ間で締結された9.6万バレルの石油と2万人の医療スタッフ交換などを定めた人民間通商協定(TCP)が、ALBAに基づく最初の協定とされる。ALBAにはモラレス政権発足後のボリビア、オルテガ政権復活後のニカラグアも参加した。非左派政権ではホンジュラスのセラヤ大統領が関心を抱いていることも知られる。FTAA自体は2005年の第四回米州首脳会議でメルコスルとベネズエラが反対を明確にし、挫折した。
 
 別掲のラ米政権地図と一部重複するが、2008年現在の政権を経済統合体別に下記に纏めて見る。
 
  • NAFTA:  メキシコ。右派
  • MCCA :  右派はエルサルバドル及びコスタリカ。中道右派ホンジュラス。中道左派グァテマラ。左派ニカラグア。全て米国とFTA
  • CAFTA-DR:MCCA以外ではパナマ、ドミニカ共和国いずれも中道。米国とFTAで繋がる。
  • CAN   :右派はコロンビア(米国とFTA。米国議会が批准せず)。中道がペルー(米国とFTA)。左派はボリビア及びエクアドル
  • メルコスル:左派のベネズエラを除き、準加盟のチリ(米国とFTA)含め、全て中道左派
  • ALBA   :全て左派。キューバを除き、ベネズエラ(メルコスル)、ボリビア(CAN)、ニカラグア(MCCA)に重複
 
MCCA諸国は1991年にパナマを加えて中米統合機構(SICA)を、CAN及びメルコスル諸国はチリを加え2008年に南米諸国連合(UNASUR)を組成した。前者は元々一つだったものが分離してできた諸国による緩やかな再統合とも言える。後者は、米国への対抗心が強いブラジル、アルゼンチン、ベネズエラが中心となって形成された。EUの如き政治統合体に進むか、注視していきたい。
 

 2   中米統合
更新日時:
2009/01/04 
1960年12月、中米共同市場(Mercado Comun Centroamericano、MCCA)創設のための中米経済統合一般条約(マナグア条約)が調印された。中米経済統合銀行(Banco Centroamericano de Integracion Economica、BCIE。本部テグシガルパ)も設立された。LAFTA発足とほぼ同時で、これがラ米の地域経済統合第一弾となる。この時点で加盟を留保したコスタリカも62年7月に参加する。中米の場合歴史的背景が特異だ。
 
 中米とは、植民地時代のヌエバイスパニア副王領の内、グァテマラ軍務総監が分掌していた領域からメキシコに参加したチアパス州を除く範囲を指す。1823年7月、中米諸州連合として建国された。領域は概ね日本の1.2倍、当時のラ米独立国家の中ではメキシコ、アルゼンチン、グランコロンビア(現コロンビア、ベネズエラ、エクアドル)より遥かに小さい。概ね南米パラグアイ位の広さだった。この新興国家の統合に精力を傾けたホンジュラス人のモラサン(1792-1842)は、今も中米の父として敬愛される。1842年にコスタリカ指導者となった彼は、1838年に崩壊した中米諸州連合の回復を図り軍事行動を起こすが失敗し、処刑されている。しかし彼の再統合への夢は、実はその1842年、エルサルバドル、ホンジュラス、ニカラグアによる中米連邦創設で一部実現している。だが加盟国間戦争により3年で崩壊、その後もこの三国間で統合に向けた交渉は続き、1852年には憲法草案まで出されたものの、挫折している。1856年、ニカラグア大統領の座を簒奪した米人、ウォーカー(1824-60) 追放に中米諸国が結束して当たった(「国民戦争」)。これはしかし、再統合の動きには繋がっていない。
 
 モラサン死後43年経った1885年、グァテマラのバリオス大統領が中米連合実現を呼びかけ、エルサルバドルとホンジュラスが応じた。メキシコが、これをグァテマラへの事実上の併合、と注意を喚起した後、エルサルバドルが翻意、バリオスの侵攻を受ける。エルサルバドルはこれに備えて、ニカラグア及びコスタリカと軍事同盟を結んでいた。バリオスは戦死し、彼の構想は結実しなかった。その10年後の1895年、エルサルバドル、ホンジュラス及びニカラグア3ヵ国が半世紀ぶりに、今度は「大中米共和国」としての統合条約に調印したが、やはり同じく3年で崩壊する。今度はエルサルバドルでのクーデターによる。以後、この3ヵ国にグァテマラも加わった域内戦争時代に入った。1907年、中米五ヵ国の代表がワシントンに集まり和平条約に調印した。米国とメキシコがこの調停者となっている。この条約に中米司法裁判所の設立が盛り込まれ、翌年10年間の期限付きで開設され、18年に解散している。
 
 それから33年経った、1951年10月14日、「中米諸国機構(Organizacion de Estados Centroamericanos、ODECA)」が創設された。形を変えた統合が実現した。後年この日を「中米統合記念日」と呼ぶようになる。その2年後、ODECA憲章が改定され、中米司法裁判所の再開も謳われた。ところが、特にグァテマラとニカラグアで1959年に成立したキューバ革命の影響を受け活発化した左翼勢力の動きに神経を尖らせ、60年に締結したばかりの経済統合一般条約を含め、統合どころではなくなる。69年のエルサルバドル対ホンジュラスの短期間の「サッカー戦争」、活発化する左翼ゲリラ、79年のニカラグア革命、80年代のいわゆる「中米危機」、と激動の時代が続く。一方では、80年央より首脳会議が頻繁に行われるようになる。
 
 1991年10月、中米各国から民選議員20名ずつを派遣する一院制の中米議会が発足した。これにはコスタリカは参加せず、パナマが参加する。その2ヵ月後の首脳会議で、中米五ヵ国とパナマ(2001年にはベリーズも加盟)で構成する中米統合機構(Sistema de la Integracion Centroamericana、SICA)が、ODECAを改組して創設された。93年10月、MCCA本部(常設事務局)が漸く発足した。94年10月、32年間も棚上げ状態だった中米司法裁判所も開設されたが、コスタリカとグァテマラは参加していない。モラサンの夢である中米統合は、結局統合機構として実現した。加盟国の現状は下記の如く左派、中道左派、中道右派、右派、と分かれており、議会や裁判所への不参加もあるが、首脳同士の会合は頻繁で、中米としての纏まりは良好、といえよう。経済面では、EUと同じ関税同盟の実現もほぼ完成し、域内関税が砂糖、小麦、小麦粉及びエチルアルコールを例外として既に撤廃されている。モノとヒトの移動は非常に活発だ。
 
  • グァテマラMCCA本部(常設事務局)及び中米議会所在国。司法裁判所不参加。2008年1月、コロンの中道左派政権が半世紀ぶりに誕生
  • コスタリカ:中米議会、司法裁判所いずれにも不参加。域内随一の高所得国。中道右派の現アリアス政権は第二次(第一次は20年前)
  • エルサルバドルSICA本部所在国。域内では唯一米jを国内通貨とする。サカ政権は右派の位置づけ。議会は左派政党FMLAが議席数一、二位を争う。
  • ホンジュラスBCIE所在国。ニカラグアと並ぶ域内貧困国。中道に位置づけられるセラヤ政権は親左派傾向が指摘される。
  • ニカラグア司法裁判所所在地。ラ米最貧国。左派のオルテガ大統領は79年革命の指導者で2007年1月に17年ぶりに政権を奪還。
 

 3   アンデス共同体
更新日時:
2009/01/04 
1969年5月、ラテンアメリカ自由貿易連合(LAFTA)の枠組みの中でアンデス地域統合に向けたカルタヘナ協定(通称Pacto Andinoアンデス条約)が、ベネズエラ(73年2月に加盟)を除くアンデス5ヵ国(チリは76年10月に脱退)により調印され、同年10月に発効した。79年10月にはアンデス司法裁判所及びアンデス議会を創設することも条約化され、83年に前者が、84年に後者が発足した。ここまでの流れは前述した中米に比べ、大変スムーズだったように見える。だがこれが常設事務局を含む統合システム完成には、アンデス条約締結から28年の年月を要した。
 
 チリを除くアンデス五ヵ国は1819年から25年にかけ、全て、ボリーバルが解放した。サンマルティンがリオデラプラタへの奪回作戦を進めた地は、国名にボリーバルの名前を冠しボリビアとして建国された。ボリーバルが一国として纏めたのは、しかし旧ヌエバグラナダ副王領だけだ。いずれは解放した現5ヵ国も統一したいと思ってはいただろうが、実際に纏め得たグランコロンビア一国の維持すらできなかった。カウディーリョによる長期政権が武力で交代する歴史を刻むベネズエラ、中央集権と連邦主義の両勢力間抗争が続き建国後半世紀で国名を四度も変えたコロンビア、政治不安の末、最も保守主義色彩の強い憲法を作り上げたエクアドル、という政治状況、国土の広大さ、3ヵ国を分ける険峻なアンデス山脈などの要因もあろうが、中米と異なって再統合への動きは見られなかった。エクアドルで初代大統領となったフロレス(1800-64)は、政敵に追放された1845年以降、旧インカ帝国が支配したペルー、ボリビア及びエクアドル3ヵ国を一王国とし、国王をヨーロッパの王室から招く、という構想を説いて回った、と言われる。しかしこの3ヵ国が統合に進むこともなく、逆にペルーとエクアドルは1997年までの長きに亘る領土問題地を抱えていった。
 ボリビアは旧インカ帝国の一角にあって「アルトペルー」と呼ばれペルーとの民族的、文化的共通点が多かった。1836年、ここのサンタクルス(1792-1865)大統領がペルーを併合し、自らを終身護国官とする「ペルー・ボリビア連合」を樹立したが、チリとの戦争により3年で崩壊した。サンマルティンが解放したチリは、1833年の段階で中央集権と教会保護の色彩が強い保守主義憲法を制定し国家統合をひた走った。ペルー・ボリビア連合との戦争に勝っても領土割譲は求めず、寧ろ国内の実効支配地域を南部へ拡大、そこにヨーロッパ移民が入植していく政策を進めた。ペルー及びボリビアとは40年後の1879年、再び戦争に及び(太平洋戦争)、この時は領土を北方に拡大した。チリの新領土は国際的な需要が急増していた硝石の産地でもあり、経済発展は著しかった。その後、豊富な銅資源が基幹産業を形成し、図抜けた域内先進国となっていく。ボリビアは太平洋沿岸を失い内陸国となり、大西洋への出口を求める河川航行権の見返りに、1903年、ブラジルにも領土の一部割譲を余儀なくされ、反チリ感情が増幅する。
 
 1960年のLAFTA創設条約には、ベネズエラとボリビアの参加は夫々66年、67年、と遅れた。前者は、14年の油田発見後、世界有数の石油輸出国となっており世界最大の産銅国のチリと並ぶ域内富裕国だったが、一時的な例外期を除き、軍人による独裁政権が58年まで続き、この当時は民主主義体制の構築期にあった。後者は、52年のボリビア革命を経ても域内最貧国の状況は変わらず、経済問題への舵取りに苦悩していた。69年5月のカルタヘナ協定(アンデス条約)には、ベネズエラだけが73年2月まで参加を先延ばしした。そして、チリが76年10月に同条約から脱退した。各国の当時の状況を下記する。
  • コロンビア:二大政党の自由党と保守党による大連合、いわゆる「国民戦線」政権時代。民族解放軍(ELN)とコロンビア革命軍(FARC)などがゲリラ行動を活発化
  • チリ:翌70年の選挙によるアジェンデ社会主義政権発足の前夜
  • エクアドル:63年7月〜66年3月の第一次軍政を経て、68年よりカリスマ指導者のベラスコ・イバラ第五次政権
  • ボリビア:64年11月より軍政。国内でゲリラ活動を行っていたゲバラ処刑(67年10月)を経て、短期左派軍政に入る直前
  • ペルー:68年10月に発足した、左派傾向の強い民族主義ベラスコ軍政
  • ベネズエラ:68年12月、選挙による与野党交代が、独立後初めて実現
 1972年2月、エクアドルで成立した第二次軍政は79年8月で終了、南米で最も早い民政移管を実現させる。80年7月にペルー、82年10月にはボリビアが民政に移管した。この間、コロンビアではELN、FARCに続いて4月19日運動(M-19)の活動も激しくなり、麻薬組織も規模を拡大させていた。裁判所と議会の発足が成ったにせよ、アンデス条約精神の本格機能には至っていない。73年9月、ラ米随一の民主主義国チリで、ピノチェト軍政が発足した。民政移管は90年3月、南米で特殊事情があったパラグアイに次いで遅い。この政権が推進したのが市場主義経済政策であり、地域経済統合との矛盾が指摘されるようになった。アンデス条約脱退の背景として指摘しておきたい。
 
 1996年3月、条約締結から27年経って、チリを除くアンデス五カ国がトルヒーヨ議定書を調印する。アンデス共同体(Comunidad Andina、CAN)が創設され、翌年から常設事務局を設置することと、アンデス議会議員の民選方式と任期(5年)、人数(一ヵ国につき5名)も決まった。その前段階として、91年にアンデス首脳協議会立ち上げ(以後年1回の首脳会議開催)、93年に域内貿易制限の撤廃、94年域外共通関税が決定されている。90年発足したペルーのフジモリ政権は、彼の進める新自由主義経済政策に矛盾する、として、92年に事実上条約を脱退したが、トルヒーヨ議定書調印の翌年復帰した。2005年1月、加盟国の国民による旅券無し域内移動、06年1月、域内物流の完全自由化が始まり、五ヵ国間のヒト、モノの流れに限ると、統合がほぼ完成した。ボリーバルが五ヵ国を最終的に解放してから、凡そニ世紀かかった。だが直後の06年4月、チャベス政権下のベネズエラがペルー、エクアドル及びコロンビアの対米FTAに反発し脱退した。2008年11月現在の五ヵ国状況は下記の通りだ。
 
  • ベネズエラ:1999年以来14年間に亘る政権が確定しているチャベス大統領は、キューバを除くラ米左派政権の中で反米色が最も強い。「ボリーバル代替統合構想(ALBA)」を推進、また06年、メルコスルに加盟申請
  • コロンビアアンデス議会所在国。40年間、ゲリラ問題が未解決。ウリベ大統領は2002年以来8年間の政権を確定している。南米唯一の右派政権。親米だが対米FTAは米国議会の批准が得られず。
  • エクアドルアンデス司法裁判所所在国。2007年成立したコレア左派政権は憲法改定による長期政権を図る。対米FTAは棚上げ。国内のFARC拠点をコロンビア軍が攻撃したことで、同国と国境侵犯を理由に外交関係中断中
  • ペルーCAN常設事務局所在国。2006年発足の第二次ガルシア政権の政策はポピュリズム色彩が強いが対米FTAは重視。人権侵害に関る有罪判決を含め、フジモリ元大統領の裁判の行方が気に掛かるところ
  • ボリビア:2006年発足のモラレス左派政権は、有力地方政治勢力の攻撃に悩むが、憲法改正による政権長期化を図る。メルコスル加盟申請中
 

 4   南米南部共同体(メルコスル)
更新日時:
2009/01/04 
1960年のLAFTA創設条約は、調印されたウルグアイの首都を採って「モンテビデオ条約」とも呼ばれる。だが、この枠組みでの地域経済統合の動きは、南米南部では遅れた。85年11月、ブラジル・アルゼンチン両大統領が会談を行い、両国が現実的且つ漸次的な統合に向うことに合意した。「イグアス宣言」として知られる。これがLAFTA枠組みにおける経済統合になるのは、ウルグアイとパラグアイも参加した91年3月のアスンシオン条約による。
 
 アルゼンチン、パラグアイ及びウルグアイは、ボリビアと共に、1776年にペルー副王管掌地域から分離されたリオデラプラタ副王領を成していた。1810年に発足したブエノスアイレス自治政府への不参加を決め、その後独立国家に向ったのはパラグアイだ。1816年7月にリオデラプラタが独立を宣言した翌年には現ウルグアイがポルトガル(ブラジル)により武力で併合された。現ボリビアは1813年までにペルー副王軍の支配下に入っており、サンマルティンによる奪回作戦も結局挫折、中央政府支配が及んだのは現アルゼンチンだけとなった。ただ現ウルグアイから独立派の面々がここに避難していた。
 1825年10月に勃発したブラジル・アルゼンチン戦争は、現ウルグアイ独立派が帰国し開始した武力独立運動をアルゼンチンが後押しした、とみるブラジルの宣戦布告で始まった。1828年8月、イギリスの調停で戦争当事国の間に緩衝国家、ウルグアイの建国が決まる。ブラジルとアルゼンチンの不仲は、この戦争によって始まった、といえる。アルゼンチンの国家統合は1862年までかかった。一方、1822年の独立で帝政を採ったブラジルの国家統合は早かった。
 パラグアイはカウディーリョ支配が全土に及び強兵国家へと進んだ。だが1864年末から5年にも及ぶパラグアイ戦争で破滅的敗戦を喫した。ブラジルと共にこの戦勝国となったアルゼンチンとウルグアイは、ヨーロッパ移民の積極的受け入れを始め、ラ米では珍しい白人国家としての成長を遂げ、二十世紀始めには世界の富裕国の仲間入りを果たしている。1889年に共和制に移行したブラジルの移民受入れ本格化は、これ以降だ。
 
 ウォール街発世界恐慌が襲った1930年代初め、30年9月、アルゼンチンでは軍事クーデターで短期軍政が敷かれた。同11月、ブラジルでいわゆる「ヴァルガス(1883-1954)革命」が起きた。ブラジルの工業化が進み出すのは彼の15年間に亘る強権時代のことだ。32年から3年間のボリビアとのチャコ戦争を実質的に制したパラグアイでは、以後、概ね軍人が最高指導者に座るようになる。これら3ヵ国では、軍部の存在感が高まった。43年6月、民政復帰していたアルゼンチンで再び軍事クーデターが起きたが、ここで頭角を現したのが一将校だったペロン(1895-1974)で、46年から大統領になり9年間の政権を担う。52年3月、パラグアイはコレヒアードと呼ばれる執政委員会(9名で構成)による行政方式を導入、以後14年間、民選大統領制が中断される。54年5月、パラグアイでストロエスネル(1912-2006)将軍が35年間担うことになる政権を掌握、同年10月、51年より選挙で復権していたヴァルガスが自決、そして翌55年9月、ペロンが軍部により追放された。LAFTA創設条約調印は、その5年後のことだ。64年4月、ブラジルが、66年6月、アルゼンチンが、そして73年2月、ウルグアイまでもが長期軍政に入った。LAFTAがALADIに改組された81年、このパラグアイを含め、この4ヵ国は軍部支配下にあったといえる。
 
 1983年12月にアルゼンチンが、85年3月にウルグアイとブラジルで民政移管が実現した。それから半年後、冒頭のイグアス宣言が出される。いずれもハイパーインフレと巨額対外債務に苦しんでいた。89年2月、パラグアイでストロエスネル政権がクーデターで崩壊する。南部南米共同市場(Mercado Comun del Sur MERCOSUR。メルコスル創設のためのアスンシオン条約調印は、その2年後のことである。正式発足は95年1月で、前年、メキシコも加盟する北米自由貿易協定(NAFTA)が発効し、さらに米国が主導する米州自由貿易地域(FTAA)創設のための交渉が始まっていた。アルゼンチンが事実上国内通貨の対米j等価となる兌換法(カバロプラン。91年)を、ブラジルが米jペッグ制とするレアルプラン(94年)を採用し、インフレを克服、経済も落ち着いた頃に当たる。96年、チリとボリビアが準加盟国となった。チリの関税はもともと低い。関税同盟には不適だ。ボリビアはこの年創設されたアンデス共同体(CAN)加盟国だった。
 
 1998年、前年に東南アジアで始まった通貨危機が翌年ロシアに飛び火し、ブラジルにも伝播した。通貨の過大評価を呼び、輸出競争力が落ちる。ここで上記レアルプランを放棄し変動相場制に戻った。するとカバロプランに固執していたアルゼンチンの競争力が急落し経済危機に突入、メルコスル域内の景気も悪化した。2002年のカバロプラン放棄を挟み、03年まではこの状態が続いた。一方で、02年12月、メルコスル諸国と準加盟国の国民が自由に居住地を選択できる枠組みが決められ、03年、各国1名ずつの代表者常設委員会が設置された。この委員長は、各国の著名政治家の中からメルコスル首脳会合で選ばれ、域外に対してはメルコスルを代表する。その後仲裁裁判所(04年)、加盟国ごとに18人の議員を送るメルコスル議会(第一回開会は05年)も創設され、地域統合体としての形が整ってきた。05年11月に開催された第四回米州首脳会議において、FTAAをメルコスルがベネズエラと共に反対することで挫折させた。
 ベネズエラは2006年7月、メルコスル加盟議定書に調印、07年7月からの首脳会議に参加、またメルコスル議会にも9名の議員(他加盟国の半数)出している。だが、ブラジルとパラグアイでの批准が遅れており、拘束力のある決議への参加はまだ認められていない。ベネズエラが脱退したCAN諸国も、メルコスルとは経済補完協定や個別準加盟により一体感を強めてきた。コロンビアはFTAによりモノの流れは加盟国同様の地位を確保している。ボリビアはベネズエラに続きメルコスルへの正式加盟を申請中でもある。
 
 2008年末現在の、ベネズエラを除くメルコスル諸国の状況を下記する。
  • ブラジル:2003年1月より、労働者党を創設した親左派、ルラ(62歳)政権。昨今の金融危機でG20(財務相会議)主催。新興国側代表的存在
  • アルゼンチン:2007年5月よりペロン党左派のフェルナンデス(55歳)が、03年から政権を担った夫のキルチネルを引き継ぐ。
  • ウルグアイ本部(事務局)及び議会所在国。2005年3月より、それまで続いたコロラド・ブランコ両伝統政党の政権を終らせた拡大戦線のバスケス(67歳)政権
  • パラグアイ仲裁裁判所所在国。2008年8月、実に61年間政権を担ったコロラド党から野党連合、変革のための愛国同盟のルゴ(59歳)政権。
いずれも、概ね中道左派の位置づけだが、米国との対抗意識が強い。
 

 5   中米統合機構(SICA)と南米諸国連合(UNASUR)
更新日時:
2009/01/04 
中米は、元々中米諸州連合という一つの国家から出発した。1838年の五ヵ国への解体後も幾度と無く再統合への試みが成されたことは、前述の通りだ。1951年10月に、形を変えた再統合に向けた中米諸国機構(ODECA)が創設された。91年12月の中米サミットで締結されたテグシガルパ議定書でそれは中米統合機構SICA)へと改組された。同議定書は、経済社会統合と和平・自由・民主主義・開発を目的とする旨を明記した。中米五ヵ国に加え、パナマも参加した。93年にMCCA本部たる中米経済統合事務局(SIECA)がグァテマラ市に創設されたが、これもSICA枠組みに組み入れられている。SICA自体の事務総局(SG-SICA)はサンサルバドルに置かれ、SIECAの他、社会統合、環境開発などなど、多くの分野別事務局及び機関を統轄する。また、司法裁判所、中米統合銀行(BCIE)、中米議会も、加盟国で不参加の国もあるが、SICA枠組みの中にある。2001年、旧イギリス領のベリーズも加わって、加盟国は7ヵ国となり、03年にはドミニカ共和国が準加盟国となった。
 SICAは、欧州連合(EU)とは比較にならない規模だし、幾つかの機関に不参加の加盟国があり歪な面もあるが、それによく似た実体を示しつつある。
 
 2000年8月、SICA発足から7年、その前身であるODECA創設からほぼ半世紀経って、カルドーゾ・ブラジル大統領(当時)が、第1回南米サミットの場でスリナムとガイアナを含めた南米12ヶ国をメンバーとする「南米共同体」構想を提唱した。中米ほど統合に関心を寄せなかった南米諸国は、1969年5月のアンデス条約、91年3月のアスンシオン条約締結など経済統合に注力していたが、EUモデルとした南米統合には政治・社会面の一体化も必要、との認識が高まっていた。これが南米共同体(Comunidad de Naciones Sudamericanas、CNS)創設のクスコ宣言調印に至ったのは、2004年12月の第三回南米サミットにおいて、である。組織体としては、05年9月のCNS第一回サミットで、メルコスル及びCANの既存の枠組みを基盤とすること等を決めた。中米とは逆の発想の様にみえる。南米諸国連合(UNASUR)は呼称がCNSから変ったものだ(07年4月)。08年5月のCNS(UNASUR)第三回サミットにおける連合憲法条約調印で正式に発足した。1年交代の議長にはバチェレ・チリ大統領が初代に選ばれた。本部はキトに、議会はコチャバンバに設置することも決まった。
 2006年12月のCNS第二回サミットでうたわれた共同体構想は、インフラ・金融・産業部門の統合や環境分野での協力など盛り沢山だ。UNASURは誕生してまだ日が浅い。SICAほどの纏まりのある統合体にどう飛躍していくか、何よりEUの南米版が実現できるのか、これからの展開に注目していきたい。


● PrevIndex ● Next ●



| ホーム | プロフィール | ラテンアメリカの政権地図 | ラ米略史 | ラ米の人種的多様性 | コンキスタドル(征服者)たち | ラ米の独立革命 | カウディーリョたち |
| ラ米の対外・域内戦争 | ラ米のポピュリズム | ラ米の革命 | ラ米の軍部―軍政時代を経て | ラ米の地域統合 | ラ米と米国 |


メールはこちらまで。