ラテンアメリカと米国


 1   マニフェスト・デスティニー:メキシコ、パナマ、ニカラグア
更新日時:
2009/02/27 
 
 米国のミシシッピー川を越え100キロも西へ行くと、メキシコのテハス州に入った。オースティン率いる開拓団300家族が、メキシコ植民地政府から入植許可を得たのは、独立直前の1821年1月だ。この年の8月、メキシコが事実上の独立を達成した。1818年以来、イギリスとの共同統治下の太平洋岸オレゴン地区(現オレゴン、ワシントン、アイダホ)にも米人が移住を進めていた。
 1823年1月、米国政府メキシコの独立を承認する。イトゥルビデ皇帝の退位はその2ヵ月後で、メキシコも他旧スペイン植民地諸国同様、共和制に移行する(以上、別掲の「ラテンアメリカの独立革命」参照)。以後4年間で、黒人奴隷を含む1万人以上の米国人がテハスに入植した。
 メキシコは、共和国初代大統領ビクトリア・グァダルーペ政権(在任1825-29)下の1826年、入植者制限令(カトリック教徒に限ること)を出し、ゲレロが短期間の第二代大統領に就任した29年に奴隷解放令も出した。30年、ブスタマンテ(第一次。在任1830-32)の政権は、入植禁止令を出す。だがテハスは既に人口で米人が本来のメキシコ人を圧倒していた。ラ米史上代表的カウディーリョと言われたサンタアナ(別掲「カウディーリョたち」参照。第一次1833-36)政権期の35年11月、米人入植者らはテハスの分離独立を宣言した。理由としては、下記が指摘されている。
  • 不安定な中央政府への幻滅
  • サンタアナ政権による地方自治体への締め付け
  • 入植者の資格制限(奴隷禁止やカトリック教徒要件など)
大統領自ら、独立運動制圧のため、出動した。僅かな手勢で戦い全滅した「アラモ砦の英雄たち」の姿は、今も「リメンバー・アラモ」と、米国人の感動を呼び起こす。翌36年4月の「サンハシントの戦い」で、事実上の独立を獲得、37年、米国はその「テキサス共和国」を承認する。
 
 ラ米諸国が宗主国からの独立を勝ち取った後、建国期の混乱にあった最中、米国にはヨーロッパから移住者が押し寄せた。交通網はさらに整備され、蒸気船も航行するようになり、鉄道も敷設された。産業革命が進んだ。当然、それまでの未開地の開拓も進む。西部開拓は、多くの英雄を生んだ。上記のオースティンはその先駆者とも言える。1940年代ともなると、未開地「フロンティア」を更に西へと拡大することが、米国に与えられた明白なる天命、即ち「マニフェスト・デスティニー(Manifesto Destiny)」、という理屈が、米人の間で広まった。
細かい背後関係は省くが、米国は;
  • 1845年、テキサス共和国を「テキサス州」として併合
  • 1846年5月、対メキシコ宣戦(「米墨戦争」〜48年)
  • 1848年2月の「グァダルーペ・イダルゴ条約」、現ニューメキシコ、アリゾナ、ネヴァダ、ユタ及びカリフォルニアの5州を獲得
米墨戦争の頃には、米国は人口3千万ほどで、世界的に見ても経済・軍事両面で堂々の大国だった。一方のメキシコは8百万ほどに過ぎず、建国の動乱期にあった。米墨戦争を起こしたポーク大統領(在任1845-49)はマニフェスト・デスティニーの信奉者だったと言われる。戦争を率いたザカリ・テイラー将軍は、大統領(在任1849-53)になった。
 
 米墨戦争と前後して、下記動きがあった。
  • 1846年6月、対英オレゴン協定でオレゴン地区領有権を確立。
  • 1846年12月、モスケラ政権(1845-49)下のヌエバグラナダ(現コロンビア)と「ビドラック・マヤリノ(Bidlack-Mallarino)条約」締結。パナマ地峡通行の保護を米軍に求めたもの。48年7月に締結する平和友好条約で、米人へのパナマ地峡通行の自由化に繋がる。
  • 1850年、米企業家のアスピンウォール(William Aspinwall)が中心となり、パナマ地峡鉄道(Panama Railway Company)創設、55年1月に全面開通
オレゴン地区への交通は有名なオレゴン街道をミズーリから3千`、幌馬車で半年近く掛けて辿る時代だ。僅か77`のパナマ地峡に鉄道があれば、蒸気船との組合せでオレゴンに向うルートが、当時ではよほど効率的であり、以前から研究はされていた。だが、ビドラク・マヤリノ条約締結は対メキシコ宣戦の僅か7ヵ月後であり、この時点ではカリフォルニア獲得を既定路線、としていたと見てよい。米墨戦争の結果、マニフェスト・デスティニーは完成した、と言えるが、実際の完成はパナマ地峡鉄道開通によろう。
 
パナマ地峡鉄道全面開通から4ヶ月経った1855年5月、米人ウォーカー(William Walker)が、ニカラグアの自由主義派の要請で同国に入国し、米墨戦争従軍兵士から成る米人傭兵隊を率い、保守派との内戦を翌56年までに平定、且つ大統領を僭称する行為に及んだ。マニフェスト・デスティニーと無縁ではなかろう。中米五ヵ国による「国民戦争」の結果追放されて帰国した際には、英雄としてもてはやされた。その後も中米潜入を図り、最終的に挫折した。
ウォーカーがホンジュラスで処刑されて半年経った1861年4月、米国は「南北戦争(〜65年4月)」に入った。メキシコが、フランスのナポレオン三世が送った軍隊の侵攻を受け、占領され、オーストリアのハプスブルグ家から皇帝(メキシコ皇帝マクシミリアノ一世。在位1864-67)を据えられるという悲劇の期間に相当する。「モンロー主義」は、一切働かなかった。
 
 ラ米の知識層には、「米墨戦争は世界史上最も不正義な戦争」とする見方が一般的なようだ。ラ米の米国観にマイナスインパクトを与えたことは、間違いあるまい。メキシコ市のチャプルテペック公園の入り口に「英雄少年Ninos Heroes」と名付けられた6人の少年兵の像が立っている。1847年の米軍による首都占領に激しく抵抗し戦死した少年たちだ。これを見て、嫌米観が募らぬメキシコ人は、皆無だろう。カリフォルニアから大規模金鉱が発見されたのは、グァダルーペ・イダルゴ条約締結直前の48年1月のことだ。
南北戦争が終ったら、米国は1867年にアラスカ(ロシアから購入)、98年、ハワイ(併合)とプエルトリコ(自治領として編入)を獲得し、十九世紀中に現米国領域をほぼ画定させたものである。
 
(以上、別掲「ラ米の域内・対外戦争」の「米墨戦争」、「国民戦争」、「抗仏戦争」参照)

 2   中米カリブと「棍棒政策」
更新日時:
2009/02/27 
 
 南北戦争後のラ米との関係でよく言われるのは、1895年から始まったキューバの第二次独立戦争及び1903年のパナマ独立への介入と、中米を「バナナリパブリック」に仕立て上げていくユナイティッドフルーツ(UFCO)の創設(1899年)だ。
 1871年、米企業家メイグス(Henry Meiggs)はグァルディア政権下(在任は事実上1870-82)のコスタリカで、首都からカリブ海港湾都市リモンまでの鉄道建設を請け負った。工事自体は彼の死後は甥に当たるケイス(Keith)兄弟が引き継いだ。難工事で、完成したのは90年のことだ。この間、コスタリカ政府の支払不履行が起き、代償として鉄道沿線の広大な土地を得た。これがバナナ農園に変り、1899年、彼が米の果実会社と共同で創設したUFCOの基盤となる。二十世初頭には、UFCOはバナナの対米輸出を主事業とし鉄道、港湾、海運及び通信まで含む複合企業として、中米諸国に展開する。
 ここに登場するのが、「棍棒政策(Gran garrote、Big stick diplomacy)」だ。嫌な呼び方だが、共和党のセオドア・ルーズベルト大統領(在任1901-09)が推し進めた対ラ米強硬策のことを言う。彼の後任タフト(共和党。在任1909-13)も、さらにその後任のウィルソン(民主党。在任1913-21)、ハーディング(共和党。在任1921-23)、クーリッジ(共和党。在任1923-29)も踏襲しており、ラ米では主権国家に対する介入政策、として、まことに評判が悪い。
 1902年12月、英独伊三ヵ国がベネズエラの主要3港湾を封鎖した際に、ルーズベルトがこれを非難、最終的に封鎖を解除させ国際調停に持ち込ませた。棍棒政策を理論付けた彼の「モンロー主義系論(Corollary of Monroe Doctrine)」形成の元になった、と言われる。西半球(米州)の後進地域の問題に対し、米国の介入権を唱えたものだ。彼が公式にこの系論を表明したのは1905年のことだが、棍棒政策は既に実行に移されていた。
 
ルーズベルト政権(共和党)
  • 1898年4月、メーン号事件(ハバナ寄航中に爆沈)によりキューバ第二次独立革命戦争(1895年2月〜)に介入(→米西戦争)。ルーズベルトが義勇連隊、「ラフ・ライダーズ」を組織し、自らキューバに参戦、スペイン軍撃破の手柄を立てた。これがマスコミに大々的に取り上げられたことから、米国内で英雄になった。
  • 1899年1月、米国保護下でキューバ独立。以後02年まで米軍が統治。1900年、マッキンレイ大統領(共和党)がルーズベルトを副大統領に抜擢
  • 1901年5月、キューバ憲法に「プラット修正条項」を入れさせ、保護国化。同年9月、マッキンレイ暗殺を受け、ルーズベルトが大統領に昇格。就任時43歳、歴代米国大統領の中でも非常に若い。
  • 1903年2月、キューバの初代エストラダ大統領(在任1902-06)の政権と米・キューバ条約締結。グァンタナモ軍事基地の永久租借権獲得
  • 1903年11月、パナマコロンビアからの独立を軍艦派遣により支援。ほどなく「ヘイ・ブナウバリリャ協定」締結で、運河地帯の永久租借権と運河権益獲得(パナマ全権代表のブナウバリリャはフランス人運河技師)
  • 1906年9月、キューバ内戦に介入、再度占領統治(〜09年1月)
  • 1907年2月、ドミニカ共和国と関税管理条約。事実上の保護国化
中米でもニカラグア、ホンジュラスなどで隣国を巻き込んだ内戦が頻発しており、彼の政権は国家間紛争の調停にも当たった。1907年11月、中米諸国の代表者をワシントンに招き、域内和平条約締結を斡旋する。
 
タフト政権(共和党)
  • 1912年8月、米軍がニカラグアの首都に進駐。保守党ディアス政権(1911-16)に対する内乱を平定後、常駐(実質上の米軍統治。〜25年8月)
 
ウィルソン政権(民主党
  • 1914年4月、コロンビアと「トンプソン・ウルティア条約」締結。米国はコロンビアに対し、パナマ独立承認の引き換えに賠償金25百万jを支払う、というもの。批准は21年まで延びる。
  • 1914年4月、メキシコ革命の最中にベラクルス占拠(〜同11月)
  • 1914年5月、米軍がドミニカ共和国内戦を平定
  • 1914年8月、パナマ運河開通。運河を挟んだ東西16キロを米国の治外法権下に置き、何時でも海兵隊が派遣できる体制を構築
  • 1916年11月、ドミニカ共和国で米軍統治開始(〜24年7月)
 
ハーディング政権(共和党)
  • 1923年2月、再びワシントンに中米諸国を召集。第二回目の中米平和友好条約締結を仲介
 
クーリッジ政権(共和党)
  • 1926年7月、チアリ(在任1924-28)政権下パナマ「アルファロ・ケロッグ協定」締結。米国が交戦状態になった場合の防衛範囲をパナマにまで広げる、とするもの
  • 1927年1月、一旦撤収したニカラグアへの米軍再進駐(〜33年)
 
パナマ独立で影響を受けたコロンビアを除く南米9ヵ国は「棍棒政策」と無縁だった、と言える。ラ米全体からすれば、対米警戒感が強まっても、外国勢力としての存在感はイギリスなどのヨーロッパ勢の方が高く、経済はイギリス、文化はフランス、軍事はドイツの影響が強かった。
 1914年段階でラ米の海外投資引受額の半分はイギリスであり、確かに米国は第二位につけてはいたものの、シェアは15%程度にとどまり、しかもメキシコ、中米カリブ地域に集中、南米への投資額はラ米全体への総投資額の一割程度に過ぎない。フランスはメキシコ占領の悪印象にも拘わらず、ラ米知識人の憧憬の的だったと言われる。十九世紀末に進められた軍制改革では、一部はフランス、大半はドイツのそれを導入している。
 
 1914年、つまり米国はウィルソン政権下にあり、且つパナマ運河が開通した年に、ヨーロッパで第一次世界大戦が勃発した。米国が対独宣戦を布告したのは17年4月である。メキシコで1917年憲法が公布されたのはその翌月だ。ドイツ軍制を導入していたブラジルも同年10月、対独宣戦を行いラ米として唯一派兵までした。おりしも、ロシア革命で「社会主義ソヴィエト共和国」が成立、翌年にはドイツ帝国が崩壊し、事実上大戦は終結した。
 国内が戦場になることもなかった戦勝国、米国が、以後急速な経済発展を遂げていった。米国の存在は、南米でも高まる。経済的には、米国で他国に類を見ない消費文化(自動車、電機など)が急激に高まると、それまでに米企業が投資していた食料、金属、エネルギー分野への需要も急増し、対米輸出が急増した。例として下記を挙げておきたい。
  • 中米・カリブ諸国でUFCOが展開するバナナ始め果実類
  • メキシコやベネズエラなどの石油権益を確保した米系石油(スタンダード石油など)会社を通じた原油
  • 米系産銅会社(アナコンダ、ケネコットなど)を通じたメキシコ、チリ、ペルーの銅、亜鉛、鉛
 ブラジル、コロンビア、そして中米カリブの民族企業の手による砂糖(キューバには米企業も進出)、コーヒーなども対米輸出を増やしていた

 3   「善隣政策」
更新日時:
2009/02/27 
 
 フランクリン・ルーズベルト(民主党。在任1933-45)は米国で唯一、連続三期(三期目の最終年に病死)を務めた大統領だ。日本では「ヤルタ会談」の立役者として、米国では「ニューディール政策」で、そしてラ米では「善隣政策(Good Neighborhood Policy)」で有名である。「棍棒政策」のセオドア・ルーズベルトとは親戚関係にあるが、政治思想などは全く異なる。
 1933年12月に開催された第7回汎米会議で、「米州諸国間の相互不干渉」が宣言され、米国の国際公約となった。以後、ラ米諸国に対する米軍展開は30年以上起きていない。先ず、この経緯を見てみたい。
 
1929年のアメリカ発世界恐慌は、ラ米諸国を直撃した。国際相場に左右される一次産品に依存する輸出経済である。しかもその多くの産品が、米国企業の支配下にある。米国が恐慌の発信源、となれば、ラ米諸国の反感が反米に繋がるのを回避するためには「善隣外交」は当然の帰結だったのかもしれない。彼の前任者、共和党フーヴァー政権下の1930年、「モンロー主義の(セオドア)ルーズベルト系論」の放棄を明記した公的メモが存在している。従って、善隣政策自体は、フランクリン・ルーズベルトの専売特許ではない。だが、これが行動になって表れたのは、彼の政権時代だ。
  • 1933年1月、ニカラグアサカサ政権発足と共に、米軍撤収。彼は36年6月に辞任に追い込まれる(事実上のソモサによる無血クーデター)。
  • 1934年5月、キューバに対する「プラット修正条項」撤回。相手は33年革命で大統領になったグラウ・サンマルティンをクーデターで倒した軍曹、バティスタの政権(実質上の在任1934-44、52-58)
  • 1936年3月、アルモディオ・アリアス(パナマ政治上有名なアルヌルフォ・アリアスの兄。在任1932-36)政権下のパナマ「ハル・アルファロ条約」を締結。対パナマ干渉権を撤廃、運河主権のパナマ帰属を認める。
  • 1938年のメキシコカルデナス政権(1934-40)の石油国有化に対し、米国石油企業の訴えにも拘わらずこれを黙認。彼は、米国大統領がルーズベルトでなければ、国有化実現は難しかった、と漏らしたという。
  • 1940年6月、1930年にクーデターで実権を掌握したトルヒーヨ支配(1930-61年)下のドミニカ共和国で米国による関税管理終了
善隣政策に胡散臭さを感じる向きもあるようだ。ドミニカ共和国のトルヒーヨとニカラグアのソモサは、いずれも夫々の国で、米軍指導で創設された「国家警備隊」総参謀長の地位にあった。また、本来忌避される筈のクーデターだが、キューバのバティスタのクーデターを、米国が後押ししている。
 
 1941年12月の日本海軍によるハワイの真珠湾襲撃で米国が参戦に踏み切った第二次世界大戦に関し、ルーズベルト政権はラ米に対して;
  • カリブ海域及び南米大西洋岸の軍事基地
  • 資源(よく言われるのは水晶とゴム)確保
  • 米国との対枢軸(日独伊)共闘
  • 共闘がダメでも枢軸側の西半球の軍事拠点設営の拒否(中立)
を要求した。ラ米諸国は程度の差こそあれ、これに応じた。特に
  • 軍事基地使用権を提供:パナマブラジル
  • 米国に労働力を提供:メキシコ
  • 派兵:ブラジルがイタリア戦線(44年)、メキシコがフィリピン戦線(45年)。後者は45年2月、米州特別外相会議で米州の集団自衛権を採択した「チャプルテペック宣言」を主宰した。
の三ヵ国が積極的だった、といえる。
パナマは前述の「アルファロ・ケロッグ協定」の規定が活きただけだが他の2ヵ国は明らかに異なった。ブラジルのヴァルガス政権(第一次。1930-45)は、1930年11月の事実上野クーデターで成立したもので民主政権とは言い難いが、米国はここに対し近代製鉄所の建設プロジェクトを積極的に支援、且つ近代兵器の供与、軍事訓練の協力を進めた。チャペルテペック宣言まで旗幟を明らかにしなかった隣国のアルゼンチンとは対象的な扱いだ。善隣政策の胡散臭さの例にもなろう。一方で、米国と一線を画し続けたメキシコではアビラ・カマチョ政権(1940-46)が大戦下で対米関係修復を進めた。戦後、首脳交流も行われるようになり、両国関係は著しく好転した。
 
 米国のフランクリン・ルーズベルト時代、忘れてならないのは、米国の影響力が南米でも強まったことだ。特に大戦中、ラ米の食料輸出が、国内生産が停滞していた戦争当事国からの需要増により大きく伸びた。金属資源についても、特に米国の需要増で、やはり伸びた。一方では、物資の輸入が滞るようになり、その国内生産が必要になった。工業化が進む。米国は、工業投資を技術移転などの面で支援し、必要な資本財を供与した。
彼が死去するのは、チャプルテペック宣言の2ヵ月後である。
 

 4   東西冷戦初期の米国による米州イニシアティヴ
更新日時:
2009/04/01 
 
 フランクリン・ルーズベルトを引き継いだトルーマン大統領(在任1945-53)は、対欧復興のためのマーシャル・プランで知られる。大戦で無傷だったラ米には適用されなかった。一方、国際的には米国でソ連・東欧圏の登場と中国の建国による共産主義勢力への警戒が高まった。東西冷戦時代に入る。ラ米は、米国にとっていわばお膝元であり、米国は以下のような基本路線をとった。
  • ラ米諸国を民主主義ブロック化し、一党独裁主義の共産圏との顕著な違いを見せる。
  • ラ米諸国から共産党を非合法化、乃至は政権から排除する。
 
 民主主義ブロック化では、米国のイニシアティヴにより下記の重要措置が講じられた。それまでの独裁国家の多くが形の上では代表制民主主義に移行した(別掲の「ラ米の軍部−軍政時代を経て」の「軍政時代以前の軍政」参照)。
  • 1947年9月、「米州相互援助条約、リオ条約とも呼ぶ」締結。米州の一国が他国より攻撃を受けた場合、これを米州全体への攻撃と見做す、とする集団的自衛権を規定するもので、北大西洋条約機構(NATO)に先行する。ラ米の軍事面での対米一体化が進められる。50年朝鮮戦争勃発の後、52年から54年にかけて、米州諸国の多くが米国との安全保障条約を締結。
  • 1948年4月、「米州機構(OAS)憲章、ボゴタ憲章とも呼ぶ」採択。米州の政治的連帯を推進する一方で、相互不干渉をも規定したもので、政治的一体化を構築するOASが創設された。事務局は在ワシントン。コロンビアのリェラス・カマルゴ(その前後、臨時45-46、民選58-62と二度大統領を務めた)が初代事務総長(1948-53)に就いた。同国はラ米で唯一朝鮮戦争に派兵し、対米緊密度を深めた。
民主主義ブロック化についても胡散臭さが指摘される。ラ米では最も民主主義が根付いたチリで、共産党を含む「人民戦線」の政権が事実上続いていたが、48年2月、共産党を非合法化し、名実ともに終わった。共産党非合法化はラ米全体に広がっていく。米国の強い意志を受け入れたためだ。ラ米側では48年にコロンビアがビオレンシア(暴力)時代(〜64年)入りし、同年10月にはペルー、11月にはベネズエラ(46年、建国後初めて民選の文民政府が発足したばかりだった)で軍事クーデターが起きている。ニカアグア及びドミニカ共和国の実権は相変わらずソモサとトルヒーヨにあった。
 
 1948年2月、OAS発足直前に、国連の下部組織として「ラテンアメリカ経済委員会(英語名略称でECLA)」(現在の「ラテンアメリカ・カリブ経済委員会ECLAC)」が創設された。この第二代事務総長(1950-63)に就いたアルゼンチン人のプレビッシュ(Raul Prebisch、1901-86)は、ラ米は長期的には価格が低下する資源を輸出し、価格が安定した工業品を輸入する貿易構造で、結果工業国に従属する経済を余儀なくされており、「輸入代替産業振興策」は不可欠、との考え方を公表していた。後年、「従属論」として知られるようになる。輸入代替産業振興は、国家主導で行われる。経済への国家の介入を否定し、自由競争を基本とする市場主義経済を奉じる米国の価値観にはそぐわない。ECLA事務局は国連所在地ではなくチリのサンチアゴに置かれた。OAS事務局がワシントンに置かれたのとは対照的だ。
 
 1953年、米国の大統領はアイゼンハワー(在任1953-61)に代わり、20年ぶりに共和党政権になった。ラ米干渉で有名な事件として、54年6月に起きたグァテマラのクーデターが必ず指摘される。44年のウビコ独裁崩壊(グァテマラ革命)で、この国で建国以来続いた独裁政治に終止符が打たれた。民主化後二代目大統領のアルベンス(在任1951-54)が、ホンジュラスを基地にしていたアルマス将軍に追放された事件で、これに関与したものだ。52年の共産党合法化を含むアルベンス路線が「共産主義的」と断定、54年3月のOASで「国際共産主義干渉反対」の決議が採択されたことを理由、とするが、背景には、この政権が行った農地改革対象がUFCOに拡大されたことがある。
 彼の政権下で副大統領だったニクソンと民主党ケネディの大統領選終盤の1960年10月、対キューバ貿易(食糧、医薬品を除く)禁止を発表した。ここに至るまで、革命を成立させたカストロの農地改革(砂糖キビ農園の多くが米企業の所有)を発端として、米国による制裁とキューバの米企業接収の報復が繰り返された結果だ。亡命キューバ人をグァテマラに集めて革命転覆ための軍事訓練をCIAが行ったことはあまりにも有名だ(このことで、2009年2月、コロン・グァテマラ大統領がキューバに対して謝罪している)。そしてケネディ就任前の1961年1月、外交関係を断絶した。
 
 ただ、上記二点に関し、ラ米諸国から特段の反発があったわけではない。アルベンス追放劇の時点ではコロンビアでほぼ一世紀ぶりの軍政(1953-57)が敷かれ、ブラジルではヴァルガスが自殺、パラグアイではストロエスネル独裁政権が発足、アルゼンチンでは政情不安(翌年ペロン追放の軍事クーデター)など、夫々に自国のことで手一杯だったこともあろう。キューバとの断交の時点は、一般的にラ米為政者自身がキューバ革命に鼓舞された左翼勢力の動きに警戒を強めていた時期に当たる。インテリ層や労働者層は概ねナショナリズムや社会主義思想に親近感が強くなっていた。チリでは1958年、社会党と非合法下の共産党(この年再合法化)が人民行動戦線(FRAP)を結成し、マルクス主義者のアジェンデが同年の大統領選に初めて出馬し、敗退したが30%近い得票だった。
 なお1959年、OASはラ米の社会経済開発を支援する米州開発銀行(IDB)の設立に関る決議を行っている。本部はワシントンに置かれた。
 

 5   キューバ革命と「進歩のための同盟」
更新日時:
2009/02/27 
 
 キューバ問題や反共路線については、民主党のケネディ(1961-63)も、共和党政権時代の政策を踏襲した。だが、キューバ革命の背景にラ米の貧困がある、と考え、各国の社会的近代化と産業の発展で国民所得の嵩上げが必要、と考え、その是正を米国も一緒になって図っていこう、と呼び掛けた点が、前政権と異なった。手当てすべき必要資金は、その当時の貨幣価値で、10年間で1,000億j、と見積もった。米国は200億jを引き受ける、と言明する。1961年3月に彼が提唱したもので、「進歩のための同盟(Alliance for Progress)」と呼ばれる。
 その中身だが、産業基盤整備に加え、農民への土地の再配分(つまり、米国のグァテマラのアルベンス追放や対キューバ断交の原因となった農地改革)が堂々と打ち出された。この点は皮肉だが、重要なのは各国の経済発展に国家の役割の重要性が、しかも米国が具体的な資金支援を得る形で打ち出されたことだろう。この頃には米国の価値観と離れた輸入代替産業への批判は、見られなくなった。ラ米側で「進歩のための同盟」の受益者としてよく引き合いに出されるのは、中米よりも下記のように南米の政権が多いようだ。
  • コロンビアリェラス・カマルゴ、1958-62、及びリェラス・レストレポ、66-70両政権)。「ショーケース」とまでいわれる。
  • ベネズエラベタンクール、1959-64)。64年7月、対キューバ全面禁輸・断交を決議するOAS会議を主宰。
  • ボリビアパス・エステンソロ第二次、1961-64)。人口一人頭で最大の受益国といわれる。ボリビア革命与党の左右分裂を招いた。
  • アルゼンチンイリア、1963-66)。国内のペロニスタ(親ペロン勢力)による反政府行動が激化。
  • チリフレイ、1964-70)。64年選挙で右派が中道の彼を支持。FRAPのアジェンデ(40%近い得票)政権阻止が目的。
  • ペルーベラウンデ、1963-68)。農地改革対象地区から漏れゲリラ化した農民層への弾圧で知られる
 
 ケネディ政権は、キューバに対しては厳しく臨んだ。1961年4月のピッグズ湾事件(別掲「ラ米の革命」の「キューバ革命」参照)では、確かに米軍の直接侵攻こそなかったが、前政権下に始まった亡命キューバ人へのグァテマラでの軍事訓練は継続されたし、彼らの侵攻作戦に戦闘機を貸与し武器も供与した。カストロが社会主義革命と宣言したのは、この後だ。62年10月に全世界を核戦争の恐怖に陥れたキューバ危機の前哨、として記憶すべきだろう。
 ピッグズ湾事件に前後して、ラ米ではキューバ革命に鼓舞された左翼ゲリラが活発化した。また、63年11月のケネディ暗殺後に政権に就いたジョンソン(民主党。63-69)の時代には、ラ米が軍政時代に入っていった。ラ米を民主主義ブロックとすることで共産主義の砦に仕上げるという、トルーマン政権以来の米国の基本構想から外れる動きだ(別掲の「ラ米の軍部―軍政時代を経て」の「軍政時代」と「ゲリラ戦争」参照)。ペルーでは左派軍政、パナマでは反米的民族主義軍政も誕生する。
 
 ジョンソン政権は、ベトナム戦争を拡大させたことで知られる。「進歩のための同盟」は次第に変質し、米国による対ゲリラ戦(Counter-insurgency)への軍事協力が増強された。米軍のプロによる軍事訓練(実戦部隊派遣も含む)と、各国の軍及び警察治安部隊に対する武器供与を行うもので、これが各国の軍事力強化にも繋がった、とされる。
 また、1965年4月、ドミニカ共和国に海兵隊を上陸させた(5月央までに3万人、といわれる)。33年の善隣政策言明以来、一度も無かった米国の当該ラ米国への軍事進攻である。63年に発足したボッシュ政権は対キューバ宥和政策が危険視され、在任9ヵ月で軍部のクーデターで崩壊していたが、彼の復帰を訴える反軍政デモに、軍部の一部が呼応し内戦に発展、これに介入したものだ。後日、OAS外相会議での決議により、前年軍政に入ったばかりのブラジルから総司令官を出し、OAS平和維持軍が展開し、9月までに内戦は終結した。だがOAS軍の主体は米軍だったし、ラ米全体にはドミニカに対する米国による軍事介入、というイメージが強い。
 1967年10月、ボリビアの軍政によって、同国でゲリラ活動を進めていたゲバラが処刑された。このゲリラ活動殲滅を目的に米軍特殊部隊が派遣されたことはよく知られている。ジョンソン政権の末期、68年に世界中で学生や労組を中心とした反政府行動が激化した遠因として記憶される。
 

 6   東西緊張緩和と対外債務
更新日時:
2009/05/13 
 
 ウォーターゲート事件で悪名高いニクソン大統領(在任1969-74年)は、国際的にはベトナム戦争を終わらせ、対中、対ソ緊張緩和をもたらした功労者だ。ウォーターゲート事件で退陣した後のフォード大統領(在任1974-77)と合わせた8年間、ラ米は軍政時代の頂点にあった(別掲「ラ米の軍部―軍政時代を経て」の「軍政時代」と「ゲリラ戦争」参照)。
 1970年11月、チリアジェンデ社会主義政権(1970-73)が民主的に発足した。米国が不快感を示したのは当然だが、対チリ制裁で目立ったのは一面的には米系産銅会社国有化に対抗した米輸銀、IDB及び世銀の融資停止程度だ。だが、73年9月の軍事クーデターを呼んだ経済混乱と社会不安の一原因にはなった。この年、ウルグアイですら軍政入りしていた。「ブラジルの奇跡」やチリの「シカゴボーイズ」に見られるように、国によって一時的な、或いはペルーのベラスコ軍政の如き例外はあるが、軍政は市場主義経済体制を前面に出し、この点については米国の高い評価を得た。
 一方で軍政は民主ブロックという観点から外れる。加えて、米国が忌避する人権侵害が行われた。左派勢力など3千人以上の犠牲者を出したチリ、「汚い戦争(Dirty wars)」と呼ばれるが、学生、労働組合幹部ら3万人といわれる行方不明者(desaparecidos。大半は当局拷問で殺害されたという)を出したアルゼンチンなどが、国際人権団体によって厳しい批判を受けた。ブラジル、ウルグアイ、パラグアイなども同様だ。独裁下のホンジュラス、軍人が交代して大統領になったグァテマラやエルサルバドルでも人権弾圧が非難された。非民主的なラ米状況の是正に米国は役割が果たせていない。
 
 彼らを継いだカーター大統領(民主党。1977-81)は、人権外交で知られる。今でも世界各国を回り、様々な立場の要人らと交流を続ける。彼の政権時代には、確かにエクアドル、ホンジュラス、ペルーが民政移管に成功していたし、ボリビアも動き出した。1979年7月にはニカラグア革命で同国のソモサ家支配が終った。一方で77年9月、パナマの最高指導者トリホス将軍(実質1968-81)と新運河条約を締結し、99年12月31日夜12時に運河をパナマに返還する、ことも決めた(「カーター・トリホス条約」)。さらに、対キューバ雪解け(在米キューバ人のキューバ渡航、家族送金解禁、漁業協定締結、相互の利益代表部設置など)も進んだ。確実に、ラ米側からは米国を見直す空気が出てきた。
 一方、1970年代後半からラ米諸国には、先進国民間銀行から経済発展に注目した巨額融資が、メキシコのような民政国であれ、ブラジルやアルゼンチンの如き軍政国であれ、入るようになった。79年の第二次石油危機後の金利上昇と相まって、巨額対外債務の返済負担が重くなっていく。
 
 彼の後には新自由主義(市場原理)経済で知られるレーガン(共和党。1981-89)と湾岸戦争を断行したブッシュ父(同。1989-93)の政権が続いた。この間、アルゼンチン、エルサルバドル、ブラジル、ウルグアイ、チリ、パラグアイの順で民政移管が進んだ。つまり両政権時代は、ラ米民主化時代と重なる。東欧諸国が民主化に動き、1991年にはソ連が解体、名実ともに東西冷戦は終結した。一方で、大半のラ米諸国は82年8月のメキシコによる対外債務返済猶予要請を発端とし、債務危機に陥った(別掲「ラ米略史」の「対外債務と経済統合」参照)。
 
 レーガン政権期の1982年4月、マルビナス(フォークランド)進攻のアルゼンチン軍に対するイギリス軍反撃を、米国は自らが主導した47年のリオ条約を発動せず、逆に容認(フォークランド戦争)してしまった。結果的には国際的非難を浴びていたアルゼンチン軍政の終焉を早めることに繋がっている。
 また彼の政権期は中米危機の時代と重なる。1981年、ホンジュラスのソト・カノ空軍基地に米軍常駐体制を敷き、ニカラグア反革命勢力(コントラ)基地化を支援し、後年発覚した「イラン・コントラゲート」事件と呼ばれる物心両面の対コントラ援助も行った。キューバがエルサルバドルの左翼ゲリラを支援している、という81年2月に出された「エルサルバドル白書」をもとに、同国政府軍へのテコ入れも行うなど、中米危機に関しては、解決に積極的仲介を進めたラ米域内諸国と際立った違いを見せた。
 債務危機では、IMF出動でワシントン・コンセンサスで知られる経済構造改革(財政赤字是正、補助金カット、為替レート是正、規制緩和、公営企業の民営化など10項目)に沿った政策変更を余儀なくした。1987年3月、ブレイディ・プラン(事実上の債務削減)を打ち出し、債務国救済にも当たるが、輸入代替産業策からの決別、即ち米国が持つ価値観に沿った市場主義経済路線の導入に追い込み、規制緩和と公営企業の民営化の流れがみられる。
 
 ブッシュ父政権初年の1989年12月、米軍がパナマに侵攻した。83年以降の事実上の最高権力者、ノリエガ将軍の捕縛と米国移送を目的とするもので、四半世紀ぶりの直接軍事行使だった。同将軍の麻薬取引関与がその理由で、米国はコロンビア麻薬組織と自国密輸ルートの撲滅に取り組み、コロンビア政府には麻薬犯の対米引渡しを要求していた。
 また、ソ連解体などで経済苦境に陥ったキューバに対し、1992年10月、「トリチェリ法(キューバ民主化法)」を法制化し米企業の在外子会社によるキューバ取引禁止を17年ぶりに復活させるなど、制裁を強化した。同年12月、国連総会で米国のキューバ経済制裁非難決議、以後年中行事となる。
 債務危機を乗り切ったメキシコに対しては、1992年12月、カナダと共にNAFTA調印に漕ぎ着けた。経済統合の形で市場主義経済圏をラ米に拡大するものだ。南米南部ではメルコスル創設条約を、その1年前に実現していた。米国とは地続きでないこともあろうが、寧ろ米国流の価値観とは一線を画す経済統合で、欧州連合(EU)方式に倣った(別掲「ラテンアメリカ地域統合」参照)。
 

 7   米国一極化の中で
更新日時:
2009/02/27 
 
 1992年11月の大統領選挙で、民主党クリントン(在任1993-2001)が連続再選を狙うブッシュ(父)を破った。対ラ米政策は、新自由主義経済路線と共に、殆ど継承されている。2001年に彼を継いだ共和党ブッシュ(子。2001-09)は「テロとの戦争」を前面に出し、ラ米問題の優先順位は低かったようだ。本項は、「ラ米略史」最終項「対外債務と経済統合」と併読願いたい。
 
 クリントン政権は、1994年12月、第一回目の米州サミット(キューバ以外の米州諸国から成る)をマイアミに主宰した。ここで同年1月に発効していたNAFTAを米州全体に拡大する米州自由貿易圏(FTAA)構想を提示する。93年10月に中米共同市場(MCCA)、96年3月にアンデス共同体(CAN)が実効性のある機構として発足する一方、95年1月にはメルコスルも発効していくが、これらをも全てFTAAで包含する意欲的なものだ(別掲「ラテンアメリカ地域統合」参照)。
 1995年1月、発足したばかりのセディヨ政権(1994-2000)下のメキシコ通貨危機に対する528億jの多国間支援を主導した。新自由主義で資金の動きに対する規制が排除されると、一国の資本市場が他国投資家による巨額の資金流出入に晒される。反NAFTAのゲリラ蜂起や社会不安を嫌い投資が流出し、メキシコ通貨は売り浴びせられた。この救済は新自由主義とNAFTAの国際的信認を維持するためにも必要だった。1998年11月、カルドーゾ政権(1994-2002)下のブラジル通貨危機に対しても415億jの国際支援を主導した。こちらは97年のアジア、次にロシアの通貨危機が伝播したもので、やはり巨額投資資金の引き揚げによる。アルゼンチン始め他の南米諸国にも波及した。
 新自由主義経済は、ラ米では次第に貧富差拡大、というマイナス面で捉えられるようになったが、通貨危機は不信感をさらに高めた。反ワシントン・コンセンサス政策(貧困対策、貧富差是正のための財政出動、民営化見直し)を叫ぶ声が高まり始め、1999年1月、ベネズエラチャベス政権が誕生、ラ米諸国の政権左傾化が一足先に始まった(別掲「ラ米の政権地図」参照)。
 
 対キューバ政策では硬軟両面の動きがある。1996年3月、第三国企業に対する制裁を規定した「ヘルムズ・バートン法(自由・民主キューバ連帯法)」が制定された。明らかな域外適用(WTO違反)との国際的非難を受ける。一方では、在米キューバ人の里帰りや送金に関る規制を緩和する動きもみせ、2000年1月、36年ぶりに食糧、医薬品輸出を解禁した。
 麻薬撲滅については、1999年9月、パストラナ政権(1998-2002)下のコロンビアに対する75億jの国際支援プログラム、「プランコロンビア」を主導した。国内で麻薬消費の急増に悩む米国にとり、麻薬犯引渡し要求に加え、供給源断ち切りのための対コロンビア支援は重要政策だった。さらにこの一環でマワ政権(1998-2000)下のエクアドルと、麻薬組織によるテロ活動に対応させるため、米軍部隊のマンタ空軍基地使用契約を締結している。パナマへの運河地帯返還にあわせ米軍基地も返還した後、米軍南方総司令部(97年にパナマからマイアミに移転)管轄のラ米内基地は、マンタ以外ではグァンタナモ(キューバ)とソト・カノ(ホンジュラス)だけとなる。
 
 クリントンを引き継いだ共和党のブッシュ(子)大統領は、ベネズエラチャベス大統領が国連で「悪魔」呼ばわりされた人だ。2002年4月の政変(チャベス追放。但し2日後に復帰)、及び12月から翌03年2月までのゼネストに関与(米政府は否定)した、とチャベスは断定している。03年4月、ブッシュ政権はキューバをテロ支援国家に指定し、渡航、送金規制を再強化(但し、食糧・医薬品輸出は認める)した。
 彼の政権時代には、2003年1月のブラジルを皮切りに、ラ米に左派乃至中道左派政権が次々に誕生した。彼固有の政策によるものではなく、貧富差拡大と経済混乱を招く、とする新自由主義経済への反発が、彼の時代になって噴出したためだろう。一方では、彼の政権にとり、ラ米自体がイラク問題などに比べ優先順位が低かった。FTAA構想は、メルコスル諸国の強力な抵抗と南米共同体構想の推進で挫折した。一方では、中米・カリブ諸国(左派政権下のニカラグア及び中道左派政権下のグァテマラを含め)は対米自由貿易協定(CAFTA-DR)を通じ、経済面での対米一体化が進み、また、南米でもチリ、ペルー、コロンビアでは対米自由貿易協定が締結された(一部米国の批准待ち)。
 


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