ウォーターゲート事件で悪名高いニクソン大統領(在任1969-74年)は、国際的にはベトナム戦争を終わらせ、対中、対ソ緊張緩和をもたらした功労者だ。ウォーターゲート事件で退陣した後のフォード大統領(在任1974-77)と合わせた8年間、ラ米は軍政時代の頂点にあった(別掲「ラ米の軍部―軍政時代を経て」の「軍政時代」と「ゲリラ戦争」参照)。
1970年11月、チリにアジェンデ社会主義政権(1970-73)が民主的に発足した。米国が不快感を示したのは当然だが、対チリ制裁で目立ったのは一面的には米系産銅会社国有化に対抗した米輸銀、IDB及び世銀の融資停止程度だ。だが、73年9月の軍事クーデターを呼んだ経済混乱と社会不安の一原因にはなった。この年、ウルグアイですら軍政入りしていた。「ブラジルの奇跡」やチリの「シカゴボーイズ」に見られるように、国によって一時的な、或いはペルーのベラスコ軍政の如き例外はあるが、軍政は市場主義経済体制を前面に出し、この点については米国の高い評価を得た。
一方で軍政は民主ブロックという観点から外れる。加えて、米国が忌避する人権侵害が行われた。左派勢力など3千人以上の犠牲者を出したチリ、「汚い戦争(Dirty wars)」と呼ばれるが、学生、労働組合幹部ら3万人といわれる行方不明者(desaparecidos。大半は当局拷問で殺害されたという)を出したアルゼンチンなどが、国際人権団体によって厳しい批判を受けた。ブラジル、ウルグアイ、パラグアイなども同様だ。独裁下のホンジュラス、軍人が交代して大統領になったグァテマラやエルサルバドルでも人権弾圧が非難された。非民主的なラ米状況の是正に米国は役割が果たせていない。
彼らを継いだカーター大統領(民主党。1977-81)は、人権外交で知られる。今でも世界各国を回り、様々な立場の要人らと交流を続ける。彼の政権時代には、確かにエクアドル、ホンジュラス、ペルーが民政移管に成功していたし、ボリビアも動き出した。1979年7月にはニカラグア革命で同国のソモサ家支配が終った。一方で77年9月、パナマの最高指導者トリホス将軍(実質1968-81)と新運河条約を締結し、99年12月31日夜12時に運河をパナマに返還する、ことも決めた(「カーター・トリホス条約」)。さらに、対キューバ雪解け(在米キューバ人のキューバ渡航、家族送金解禁、漁業協定締結、相互の利益代表部設置など)も進んだ。確実に、ラ米側からは米国を見直す空気が出てきた。
一方、1970年代後半からラ米諸国には、先進国民間銀行から経済発展に注目した巨額融資が、メキシコのような民政国であれ、ブラジルやアルゼンチンの如き軍政国であれ、入るようになった。79年の第二次石油危機後の金利上昇と相まって、巨額対外債務の返済負担が重くなっていく。
彼の後には新自由主義(市場原理)経済で知られるレーガン(共和党。1981-89)と湾岸戦争を断行したブッシュ父(同。1989-93)の政権が続いた。この間、アルゼンチン、エルサルバドル、ブラジル、ウルグアイ、チリ、パラグアイの順で民政移管が進んだ。つまり両政権時代は、ラ米民主化時代と重なる。東欧諸国が民主化に動き、1991年にはソ連が解体、名実ともに東西冷戦は終結した。一方で、大半のラ米諸国は82年8月のメキシコによる対外債務返済猶予要請を発端とし、債務危機に陥った(別掲「ラ米略史」の「対外債務と経済統合」参照)。
レーガン政権期の1982年4月、マルビナス(フォークランド)進攻のアルゼンチン軍に対するイギリス軍反撃を、米国は自らが主導した47年のリオ条約を発動せず、逆に容認(フォークランド戦争)してしまった。結果的には国際的非難を浴びていたアルゼンチン軍政の終焉を早めることに繋がっている。
また彼の政権期は中米危機の時代と重なる。1981年、ホンジュラスのソト・カノ空軍基地に米軍常駐体制を敷き、ニカラグア反革命勢力(コントラ)基地化を支援し、後年発覚した「イラン・コントラゲート」事件と呼ばれる物心両面の対コントラ援助も行った。キューバがエルサルバドルの左翼ゲリラを支援している、という81年2月に出された「エルサルバドル白書」をもとに、同国政府軍へのテコ入れも行うなど、中米危機に関しては、解決に積極的仲介を進めたラ米域内諸国と際立った違いを見せた。
債務危機では、IMF出動でワシントン・コンセンサスで知られる経済構造改革(財政赤字是正、補助金カット、為替レート是正、規制緩和、公営企業の民営化など10項目)に沿った政策変更を余儀なくした。1987年3月、ブレイディ・プラン(事実上の債務削減)を打ち出し、債務国救済にも当たるが、輸入代替産業策からの決別、即ち米国が持つ価値観に沿った市場主義経済路線の導入に追い込み、規制緩和と公営企業の民営化の流れがみられる。
ブッシュ父政権初年の1989年12月、米軍がパナマに侵攻した。83年以降の事実上の最高権力者、ノリエガ将軍の捕縛と米国移送を目的とするもので、四半世紀ぶりの直接軍事行使だった。同将軍の麻薬取引関与がその理由で、米国はコロンビア麻薬組織と自国密輸ルートの撲滅に取り組み、コロンビア政府には麻薬犯の対米引渡しを要求していた。
また、ソ連解体などで経済苦境に陥ったキューバに対し、1992年10月、「トリチェリ法(キューバ民主化法)」を法制化し米企業の在外子会社によるキューバ取引禁止を17年ぶりに復活させるなど、制裁を強化した。同年12月、国連総会で米国のキューバ経済制裁非難決議、以後年中行事となる。
債務危機を乗り切ったメキシコに対しては、1992年12月、カナダと共にNAFTA調印に漕ぎ着けた。経済統合の形で市場主義経済圏をラ米に拡大するものだ。南米南部ではメルコスル創設条約を、その1年前に実現していた。米国とは地続きでないこともあろうが、寧ろ米国流の価値観とは一線を画す経済統合で、欧州連合(EU)方式に倣った(別掲「ラテンアメリカ地域統合」参照)。
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