ラテンアメリカの人種多様性


 1   ラ米における人種分布
更新日時:
2009/05/30 
 
 米国CIAによるThe World FactBookの2008年人口見通し(現在2009年の見通しも出ているが、敢えて08年の数字を使用する)をもとに、下記する。同書が明記しない4ヵ国分の人種構成は、他文献を参考にした。
 
先住民が国民人口の4分の1以上
   国        比率  人口      使用言語
  • メキシコ     30%  33百万人  ナワトル語、マヤ語
  • グァテマラ    40%   5       マヤ語
  • エクアドル    25%   3       ケチュア語  
  • ペルー      45%  13       ケチュア語、アイマラ語  
  • ボリビア      55%   5       アイマラ語、ケチュア語
上記5ヵ国は総面積で470万平方キロ、ラ米全体の24%、総人口で1.75億人、同32%に相当するが、先住民59百万人だけをとれば95%にもなる。
 
メスティソ(白人と先住民の混血)が4分の1以上
   国        比率  人口    主要先住民 
  • メキシコ     60%  66百万人  ナワトル、マヤ、サポテクなど
  • グァテマラ    57%   7      マヤ
  • エルサルバドル 90%   7       ナワトル系ピピル、マヤ
  • ホンジュラス   90%   7      チブチャ系レンカ、ミスキート
  • ニカラグア    69%   4      チブチャ系ミスキート
  • パナマ      70%   2      チブチャ
  • コロンビア    58%  26      チブチャ、アラワク系ワユ
  • エクアドル    65%   9      ケチュア
  • ペルー      37%  10      ケチュア、アイマラ
  • ボリビア      30%    3      アイマラ、ケチュア
  • パラグアイ    97%   7       グァラニ
上記11ヵ国は総人口で2.5億人、同45%に相当し、ラ米全体のメスティソの93%を占める計算だ。総面積では660万平方キロ、33%となる。パナマとコロンビアを除くとムラート(白人と黒人との混血)も含むので要注意。
 
アフリカ系人口が多い国々
                黒人       ムラート(白人との混血) 
      国         比率  人口    比率  人口           
  • ブラジル:       6%   11.9百万  39%  73.9百万 
  • ベネズエラ:       10%   2.6     不明
  • コロンビア:      4%    1.8      14%   6.3
  • パナマ         不明         14%   0.5
  • キューバ*:      11%   1.3      51%   5.8
  • ドミニカ共和国:    11%   1.0       73%   6.9
  • ニカラグア:      9%   0.5     不明       
パナマを除く上記6ヵ国で、ラ米における黒人人口の96%を占める。コロンビア、及びニカラグアを除く4ヵ国の人口は大国ブラジルを含むにしても2.4億人、同43%、総面積958平方キロは48%に相当する。ベネズエラ(66%が混血。ムラートの数字は上表では不明とした)の過半数は、メスティソと思われる。
 
ヨーロッパ人種(白人)の多い国々
  国        比率   人口    
  • アルゼンチン   97%   39.5百万
  • コスタリカ      94%   3.9    
  • ウルグアイ     88%   3.1
  • ブラジル      54%  103.0
  • キューバ*    37%   4.2  
アルゼンチン、ウルグアイ、コスタリカ及び、上記には入れていないが感覚的に白人国のチリを含めた4ヵ国の人口は6,500万人、全体の12%で、面積は375万平方キロで19%。白人人口だけでみると4ヵ国合計約5千万は全ラ米の4分の1以上。先住民はケチュア系マプチェ(チリ及びアルゼンチン)、グァラニ系(ブラジル、アルゼンチン及びウルグアイ)、アラワク系(ブラジル)及びチブチャ系ブリブリ(コスタリカ)などがいる。
 
*最新のThe World FactBookでは、キューバの白人比率65%、ムラート比率25%、と大幅に変更した。2002年のCensus、とする。私個人の実感もこれに近いが、一般的には2008年見通しでの比率が通っている。
 
 

 2   先住民(インディオ)
更新日時:
2009/05/30 
 
 ヨーロッパ社会から見た新世界、アメリカには、アステカ、マヤ及びインカという高度文明を築いた先住民社会があった。スペイン人は新大陸で殺戮と掠奪と搾取以外の何物も残さなかった、という極端な評価を含め、欧米史観ではスペイン人の所業はまことに評判が悪い(別掲の「コンキスタドルたち」参照)。結果的に先住民人口が激減したことは間違いない。生き延びた先住民の多くが独自の言語と文化、生活習慣を、二十一世紀の今でも持ち続ける。
 
 メキシコ中央部はナワトル人がサポテカ人らをも支配したアステカ王国、同南部からグァテマラにかけてはマヤ人の一大文明、エクアドル、ペルー及びボリビアはケチュア、アイマラ人らが形成したインカ帝国の版図だった。コロンビア中央部にもチブチャ人が開けた王国を築いた。現在の国土はいずれも高地、山岳地帯の占める割合が大きい。チブチャ人は広く中米沿岸地域一帯にも広がった。また広大な南米の他地域にはアラワク、グァラニ、など多様な先住民社会が展開したが、集権政府を持たず、且つ散在していた。
 別掲の「ラ米略史」の植民地時代でも述べるが、征服過程で先住民人口が激減した最大の理由は、天然痘や麻疹など、先住民に免疫が無かった疫病を白人が持ち込んだこと、とするのが近年の見方のようだ。特に亜熱帯の沿岸地域やカリブ島嶼部では壊滅的だった。アメリカ博物館では、先住民人口は1570年で850万人、とみる。それからさらなる減少をみたが、2.5世紀を経た植民地時代末期には1570年の水準に戻った。
 
 スペイン植民統治の第一段階で「エンコミエンダ(Encomienda、先住民委託支配)」制が敷かれた。ヨーロッパ人が「インディオ」と呼んだ先住民は、スペイン国王の新たな臣下として位置づけられた。だが賦役と貢納の義務が課された。当初は「エンコメンデロ(Encomendero)」がこれを執行した。彼らの個人所有地の大農園(アシエンダ)などの私的労働にも徴用された。エンコメンデロらによる先住民迫害については、自身征服者として新大陸に渡り、其の後聖職者となったラスカサス神父(Bartolome de las Casas、1484−1566)の告発がよく知られ、次第にエンコミエンダ制は、地域によって時間差はあるものの廃止され、賦役と貢納は「コレヒドール(Corregidor)」と呼ぶ王室官僚の手に移されていく。彼らの専横ぶりもことに有名で、先住民の待遇は寧ろ悪化したともいわれる。
 これと前後してメキシコ、ペルー及びボリビアで大規模な銀鉱山が発見された。スペインを潤し、さらにはヨーロッパに貨幣経済を確立させたものだ。鉱山労働にも先住民が徴用された。在所から下手すれば何百キロも離れたところに、強制的に送られる。鉱山徴用期間は半年から1年くらいだったが、往復旅行期間を入れると、1年以上、在所を留守にすることになる。
酷使と遠隔地への徴用で、彼ら独自の共同体は次第にその規模が縮小し、メキシコなどでは「コングレガシオン(Congregacion)」とか、南米では「レドゥクシオン(Reduccion)」と呼ばれる強制集住も広く行われた。先住民を一箇所に集めて新たな集落を築かせるもので、多くの先住民が生まれ故郷を家族共々離れていった。中米や南米のカリブ沿岸などでは貢納と賦役を逃れるための共同体ごとの逃散も多かったようだ。
 
 スペイン王室は、先住民社会(Republica de Indios。農村部)及び白人社会(Republica de Espanoles。都市部)を明確に分けた。先住民社会には原則として白人がおらず、使用言語は先住民のものが使われる。白人の宣教師らは教区司祭として先住民社会に教会を建設し、先住民語で宣教活動を行った、といわれる。またエンコメンデロにせよコレヒドールにせよ、徴税や労働徴用に当たっては、カリブ島嶼やメキシコなどでカシケ(Cacique)、南米でクラカ(Curaca)などと称する首長を通して行った。一般の先住民が都市部での賦役や鉱山労働以外で白人と接する機会は非常に限られていた。
 ブラジルでは先住民の多くが堂々と奴隷化された。ポルトガル王室は先住民奴隷の禁止勅令を何度も発してはいるが、先住民自体が広く分散し、半定住ないしは非定住型が多く、エンコミエンダの如く貢納、労働徴用ができる状況になかったことが奴隷化に繋がったようだ。奥地開拓とスペインの実効支配が手薄な領域まで支配地を拡大したことで有名なバンデイラ(Bandeira。奥地探検)もつまるところは先住民の奴隷狩りだった、という事実もある。先住民は、白人が入り込めないジャングルに逃れた。或いは、スペイン植民地を含め、教会が散在する半定住型先住民を集め、定住農耕活動に当たらせ、且つブラジルの奴隷狩りから自衛させてもいた。
 
 独立革命後、先住民ゆえの徴税は解消した。多くが大農園主に雇用され、或いは伝統的な共同体を農村部に再形成した。ラ米独立期から180年経った今日、先住民人口は8倍に増えている。だが先祖代々の土地は大半が白人に収奪された、との思いは根強い。別掲の「ラテンアメリカの革命」を参照願うが、メキシコ革命指導者の一人、サパタが掲げたのは先住民への土地返還だった。
 1950年代のグァテマラやボリビアでも農地改革の一環として先住民への土地分配が実現したし、50〜60年代のペルーの農民運動は、68年に成立した軍政による同様の土地分配に繋がり、エクアドルにも伝播した。
 だが、これら5ヵ国でも問題解決には至っていない。彼らの文化や生活習慣は観光客を呼び込んできたが、彼らの経済的な生活水準はどこでも最低であり、圧倒的貧困層を成す事実は認識しておくべきだろう。
 

 3   ラ米の白人
更新日時:
2009/03/29 
 
 ラテンアメリカとは、繰り返すが、アングロアメリカと比較した地理上の表現のようだ。だから、何もヨーロッパからの移住者が全てラテン民族、というわけではない。イギリス系もいればドイツ系、東欧系、中東系も多い。メスティソもムラートも、ラテン民族以外との混血であっても、立派にラテンアメリカ人である。別掲の「ラ米の政権地図」に現れる大統領は確かにラテン系だが、ラ米史を読むと、指導者の祖先の出身が多岐に亘ることに気がつく。
ラ米の白人は、180年前は僅かに4百万(但し、キューバとドミニカ共和国を除く。アメリカ博物館)だった。今日約1.9億人、45倍にまで増えた計算になる。先住民が8倍増なので、その急増ぶりには目を瞠らされる。だが、メキシコ、ボリビア、ペルーは、全ラ米の先住民増加率と同じ8倍増だ。一方で、アルゼンチン(142倍)、ブラジル(117倍)の伸びは物凄い。ラ米は植民地時代と独立後とでは、地域的に劇的な社会変化をみたことが分かる。
 
 1494年、ローマ教皇アレクサンデル六世の裁断で、アフリカ西方約2,000キロの子午線をスペインとポルトガルの境界線と定められた(トルデシリャス条約)。概ねアマゾン川河口から引かれた子午線に相当する。
 
 スペインの新世界征服期は十五世紀末から十六世紀央にかかっている。この時期、イダルゴ(hidalgo。郷士と訳される)と、聖職者たちが到来した。先住民をスペイン国王の臣下に加え、キリスト教化するのが表向きの目的だった。イダルゴたちは征服後、エンコミエンダ制で事実上小領主化して定住し、自らも大農園を営み(労働は先住民徴用や雇用)、故国より一族郎党を呼び寄せた。その後行政、司法官僚が送り込まれた。いずれも多くが定住した。十六世紀では9割方が男性で、現地生まれの白人、クリオーリョ(criollo)が急速に増えるのは十七世紀以降のことだ。本国から穀物などの種、ブドウなどの苗木、牛、馬、羊、鶏などを持ち込み農園、牧場を営む他、鉱山に出資した。先住民労働力が得られる地域に集中したのは自然だった。また、本国との交易ルート、カリブ地域には軍隊が派遣された。
 ブラジルは征服事業自体が無かった。植民も当初は大西洋沿岸部程度だった。ポルトガル王室が新領土を高位貴族に配分するカピタニア制を見直し、先住民教化を含め、直接植民地統治体制を整えたのは十六世紀央のことだ。砂糖生産を基幹産業に据え、労働力は奴隷化した先住民と黒人奴隷に依存し、自らは砂糖プランテーションの主人として、また大土地所有者として、一族郎党を伴い定住した。十七世紀にオランダに東北部を占領された経験から、軍隊も充実した。
 
 アメリカ博物館では1570年の白人人口を30万人とみる。この内、ブラジルは1、2万程度ではなかろうか。
 2.5世紀過ぎて、スペイン植民地の白人は320万、10倍強増えた。銀産地のメキシコ、ボリビア、ペルーだけで200万を超えたようだ。鉱山都市自体にインフラ整備のビジネスがあり、その周辺にはアシエンダが広がり軽工業も発達、運輸業も展開する。経済規模の拡大はヨーロッパ人を呼び寄せ、クリオーリョに新たな機会をもたらした。労働力を提供するメスティソ、黒人奴隷、ムラート(後述)の増加がこれを支えた。クリオーリョには官職が開放され、軍隊にも登用されるようになっていた。
 ブラジルは少なくとも50倍増の90万にまでなった。バンデイラにより奥地踏査が進み、実効支配地域がトルデシリャス条約による境界線を越え、奥地にまで拡大したこと、金の発見、その後のコーヒー景気などが大きい。十八世紀に入ると、カリブ海域に出張るイギリス(ポルトガルとは同盟関係)への物資供給地にもなり、ブラジルの経済規模が拡大した。官職はクリオーリョに開放されていたが、十九世紀初頭に王室自体が官僚ごとリスボンからリオデジャネイロに移り、軍隊も一層強化されたことも影響した。
 ブラジル南部からアルゼンチン、ウルグアイへと続く広大で肥沃、且つ気候が温暖な大草原、パンパは、米国のプレイリー同様、穀物と畜産に適している。だがスペイン人には先住民も過小で、鉱山も無い、宗主国からは遠隔の地だから魅力も少なかった。ポルトガル人にも同じだったようだ。
 
 十九世紀に入り、ヨーロッパ先進国は産業革命による工業資材、及び国内農業停滞と需要増に対する食糧の供給先を求めていた。ラ米も注目された。鉄道と蒸気船による大量高速輸送の実現で、遠隔地にも可能性が高まった。海上交通の向上で、人的移動が容易になったことで、一大穀倉、牧畜地帯となり得るパンパを抱えた南米南部は移住希望者を引き付けた。だが、独立後の建国期はカウディーリョ(別掲「カウディーリョたち」参照)の抗争時代に当たり、落ち着かない状況では、移民は来たがらない。
 ラ米新興国が安定を見る十九世紀後半に入ると、南米南部での鉄道敷設が始まった。農牧畜地帯は一気に広がった。それへの直接労働力だけでなく、港湾、建設、次には関連商業部門にも需要は一気に高まってきた。それまでのアングロアメリカ同様、年季労働者として先ず入り、契約完了後、新たな職を得て定住するヨーロッパ人移民が本格化した。アルゼンチンの場合、ロカ将軍(後の大統領)による「荒野の征服」(先住民を居留区に追放)など、アングロアメリカとよく似た展開もあった。冷凍技術の確立で牛肉輸出も可能となった。
 勿論、産業革命は南米南部(食糧、綿花、羊毛、皮革への需要)だけでなく、ラ米のもつ金属資源にも着目した。特にメキシコ、ペルー、ボリビア、チリの非鉄金属資源には欧米企業からの投資が急増した。だが、ヨーロッパ移民には繋がらなかった。独立が遅れたキューバには、砂糖の大市場たる米国を背後に抱える地理的メリットに引き寄せられ、二十世紀に入って殺到した。
 
 移民が殺到したのは寡頭勢力(大農園主や大商人のファミリー。概ね植民地時代に到来した)による、いわゆる寡頭支配(オリガキー)の時代だ。ところが、十九世紀終盤から新大陸に渡ったヨーロッパ移民は、労働者の権利意識をも持ち込んだ。ラ米全体として、後年、労組を支持基盤とし寡頭支配に対抗したポプリスタ(別掲「ラ米のポピュリズム」参照)の輩出を招くようになる。

 4   ラ米の黒人
更新日時:
2009/03/29 
 
 先住民と同様、「ラテン」ではない人たちが、アフリカ人(黒人)だ。植民地時代に、先住民労働力が不足すると彼らを奴隷として輸入した。ブラジルでは独立後も輸入を続けた。アメリカ博物館では、植民地末期の黒人人口を、スペイン植民地37万人、ブラジルを208万、としている。前者はキューバと現ドミニカ共和国の数字を含まない。Historia de Espana(Editorial Sintesis)のLa Amrica Espanola(1763-1898)を覗くと、1817年のキューバの有色人種は34万人、となっており、大半を黒人と考えれば、ドミニカ共和国も含め、全スペイン植民地で大体80万くらいだった、と思われる。
 180年経った今日、The World Fact Bookで判断すると、旧スペイン植民地諸国で10倍、ブラジルで5倍に増えている。
 
 アフリカから輸入された奴隷の数は、奴隷貿易の研究者として知られるカーティンの推定では累計で約930万人、この内、ポルトガル領(ブラジル。米国同様、独立後も輸入)が365万、スペイン領155万、となっている(増田義郎「物語ラテン・アメリカの歴史」。中央新書)。
 トルデシリャス条約でポルトガル圏とされたアフリカから奴隷を輸送する権利は、ポルトガルが持っていた。スペイン王室は、「アシエント」と呼ばれる奴隷貿易許可証をポルトガル商人に付与した。その後、他ヨーロッパ諸国の海賊が奴隷貿易にも乗り出し、同条約は無視され、各国の新世界植民化も始まった。スペイン王室もアシエント付与相手を、イギリス人などに拡大する。
 
 黒人の奴隷化が公然と行われた背景として、下記を挙げる。
  • 一般的にヨーロッパには奴隷制を当然視した歴史がある。
  • 一般的にヨーロッパ人は、新世界で獲得する大農園、大牧場での肉体労働を先住民、黒人、混血者に依存した。
  • 当初は沿岸部で砂糖生産を基幹産業としたポルトガル植民地では、広大なサトウキビ畑の栽培、刈り取り、運搬、機械化されていない砂糖工場での搾汁など、重労働が必要で、これにはもともと奴隷が不可欠だった。
  • カリブ島嶼部では先住民が壊滅した。大陸沿岸部でも絶滅するか白人が入り込めないジャングル奥地に逃亡、先住民過少地域になっていた。
  • 先住民自体が、増加する白人の労働需要を満たせなくなった。加えて、亜熱帯低地での労働は黒人の方が適していると考えられた。
ポルトガル植民地では、黒人奴隷輸入は植民期のかなり早い時期から行っていたが、十七世紀央に先住民奴隷が禁止された後、加速した。砂糖生産に限らず、白人所有の大農園(ファゼンダ。スペイン語のアシエンダに相当)など、肉体労働には奴隷を使った。バンデイラの成果として領域も拡大し、さらには大規模金鉱の発見などを経て経済規模が拡大、奴隷の需要も高まっていった。
 スペイン植民地での黒人奴隷は、概ね先住民が死亡、逃亡で居なくなったアシエンダでの労働力として必要とされたが、キューバのみで過半数に達する。他では大陸沿岸部の亜熱帯地域、特にコロンビア、ベネズエラ及びエクアドルに集中しているようだ。メキシコ、ペルーにも多く入った。
 
 現地で出産させるため、女性奴隷も輸入された。黒人には先住民と異なりもともとの共同体社会が無く、奴隷主の言語を覚えさせられる。支配者側との人間的関係を持つ度合いは、先住民以上だった。スペイン植民地では、黒人は物理的な生活の場が農村にあっても、白人社会(Republica de Espanoles)に属した。現地生まれの黒人で自由権を得て社会進出を果たす人も出てくる。特に十八世紀のブラジルで金が発見されると、ここでの労働に駆り出された奴隷たちが、砂金の採取実績によって自由権を得た、とも言われる。
 非人間的な待遇を受け、酷使に耐え切れず逃亡する奴隷もいた。ブラジルでは十七世紀央、逃亡奴隷が各地にキロンボ(quilonbo)と称する集落を築いたが、その1つパルマレスは数万平方キロに及び、人口も最大時5万人にまで達した、といわれる。メキシコでも同時期「サンロレンソ・デ・ロスネグロス」という逃亡奴隷の集落が形成され、当時の副王が共同体として承認する代わりに武力放棄を呼びかけたとの記録もある。
 
 ハイチの1791年の黒人蜂起、奴隷制廃止、この復活、そして1804年の独立という流れの中で、砂糖農園主でキューバに逃れた人も多く、キューバが砂糖の世界的生産地になった。スペイン植民地の奴隷輸入の過半数を占めるキューバの輸入は、実は大半がハイチ暴動後である。ドミニカ共和国が1844年に独立したのはハイチからであり、以後、地続きのハイチから大勢の黒人が移ってきた。ハイチの脅威から一旦スペイン植民地に戻ったこともあったが、短期間で再独立したのは奴隷制(ハイチ時代には無かった)復活の恐れからだ。
 一方でニカラグア、ホンジュラスなどのカリブ沿岸一帯にイギリスが、またパナマ、コスタリカにも鉄道建設を請け負った米企業が、黒人奴隷や労働者を伴って進出してきた。パナマには運河建設にも駆り出された。そのまま残る人も多く、ニカラグアを始め中米の黒人の背景として記憶したい。
 
 スペイン植民地が独立を果たすと、1820年代にチリ、中米、ボリビア、メキシコ、1854年までにはパラグアイ(1870年までかかった)を除く全ての独立国が奴隷制度を廃止していくが、最後の植民地キューバでは1886年、独立国だが帝政のブラジルでは1888年まで同制度は続いた。ブラジルでは1830年に奴隷輸入は禁止されたが、密輸は続いていた。
 全体としては、奴隷身分であれ自由黒人であれ、白人との人間的関係の影響で白人社会への同化は先住民以上に進んだようだ。奴隷制廃止から一世紀以上経ち、アフロ・ブラジル、アフロ・キューバなどと呼ばれる音楽や芸術、或いは生活習慣で彼らはアイデンティティ復活に動いてはいる。だが、使用言語はポルトガル語やスペイン語であり、ラテンアメリカの一員という意識は強烈だ。
 

 5   ラ米の人種混交
更新日時:
2009/03/29 
 
 我々がイメージする「ラテンアメリカ」とは、「アングロアメリカ」では少ない人種混交、ではなかろうか。The World FactBookから判断出来る2008年のラ米の混血は2.7億人で、概ね総人口の半分に相当する。白人と先住民の混血をメスティソ(Mestizo)、白人と黒人との混血をムラート(Mulato)、先住民と黒人の混血をサンボ(Zambo)などと呼ぶが、実際にはメスティソ同士、ムラート同士、サンボ同士、或いは白人や先住民、或いは黒人とメスティソ、ムラート、との混血と、非常に多様な人種混交が行われている。先住民、白人、黒人として前述した多くも、実は純血と言い切れないようだ。
 前記アメリカ博物館は180年前の人種構成(キューバとドミニカ共和国を除く)も、白人、先住民、黒人、及び混血という別け方で表し、合計520万人とした。全体の4分の1という見当で、先住民を3割以上下回り、白人を4割近く上回り、黒人の2倍以上となっている。それから180年後の今日、対白人ではさほど変っていないが、対先住民では5倍近くに、対黒人では13倍になった。しかしこれも、地域的には大きな差異が見られる。
 
 スペイン植民地では、前述したように白人社会と先住民社会が、制度上切り離されていたが、メスティソは生まれた。下記を指摘しておきたい。
  • 一般的に先住民区域には彼ら独自の共同体に加えて、彼らが労働力を提供する白人や教会の大農園(アシエンダ)が存在。大農園主の白人代理者は遠隔地であれば常駐したし、教会には白人神父らも居住した。
  • 白人社会(Republica de Espanoles)には、先住民支配階層も混在。一部ではお互いに親戚関係を求めた。白人家庭の家事手伝いに雇われる先住民婦人もいた。また新世界への移住者の大半が男性だった。
  • 鉱山都市では白人と先住民が混在した。
メスティソは、白人の父親の社会的地位、先住民の母親の社会的地位、嫡出か私生児か、などで、立場や経済的環境が天と地ほども違った。ただ、スペイン語と先住民の言語が話せる人が多かった。嫡出の場合は白人社会に居住し、父親の庇護を受けた。感覚的には白人であり、母親を介して先住民社会(Republica de Indios)への同化も進む。私生児の多くは母親とともに先住民社会に居住したが、貢納や賦役の義務が無いため、浮き上がった存在となる。白人所有の農園などに雇用され、或いは都市に出て下働きに就いた。底辺にあって貧しいなりに、やはり白人社会文化に同化していく。独立革命は、参戦し、英雄になっていくメスティソが輩出した。大統領になったメスティソも多い。
 この180年間、メキシコではメスティソ人口が35倍増えた。一方ペルー、ボリビアは12倍。白人と先住民が前者は8-9倍増、後者は9-10倍、つまり混交率は前者のほうが確かに高い。個別の伸び率は不明だが、パラグアイとエルサルバドル及びホンジュラスはメキシコ以上に混交率が高く、感覚的にはグァテマラがボリビア並みに低い。
 
 スペイン植民地では黒人は白人社会に属した。従ってムラートが生まれることは自然の流れでもあった。だが先住民ほどの混交率には至らなかったのではあるまいか。スペイン植民地の倍以上の奴隷を輸入したブラジルでは、180年前、ムラートの数は黒人の3分の1で、白人数を15%ほど下回っていた。メスティソが先住民の半分だが白人を上回っていたスペイン植民地に比べ、混交率は低かったといえる。先住民とは異なり奴隷身分の黒人が多かったこともあろう。奴隷輸入の大半が1791年以降、というキューバはもっと低かったと思われる。
 ブラジルではこの180年間に100倍にまで増えた計算だ。キューバでも同様ではなかろうか。奴隷解放前のキューバの第一次独立戦争でも、多くのムラートが参戦し、英雄が生まれた。
 ムラート人口がブラジルの次に多いドミニカ共和国は、地続きのハイチからの黒人が建国時には大勢移り、且つ始めから奴隷制度もなかったことが特徴的だ。それに次ぐのはコロンビアだが、感覚的には実数はベネズエラの方が多い。
 
 スペイン植民地では白人社会に属する、とは言え、白人同様、黒人も先住民と交わる機会は多く、サンボが生まれた。コロンビア、ベネズエラ及びエクアドルはサンボが多いことで知られる。またニカラグアを中心とした中米カリブ沿岸一帯のガリフナ(Garifuna。アラワク系先住民と黒人との混血)も知っておきたい。多くの黒人奴隷が入ったメキシコやペルーにもサンボは多い。
 
 ラ米は、本項冒頭に述べたように、様々な混交を経た多様な人種の坩堝だ。広大で、地勢も天候も多様なだけに、人種構成にも地域的多様性がある。
  • メスティソが多数派のメキシコ・エルサルバドル・ホンジュラスは、アステカとマヤとスペイン文明が宥和し、先住民に独自性を持たせている度合いは、グァテマラやボリビア、ペルーより少ない。
  • パラグアイは感覚的にはメスティソ社会というより白人社会に近い。さらに白人社会といえるのがチリだ。
  • キューバとドミニカ共和国は明らかなムラート社会を構成するが、実は白人が多数派を占めるブラジルも似ている。明らかに白人国のアルゼンチン、ウルグアイ及びコスタリカとは異なる。
 中米南部から南米北部にかけて、白人、黒人、先住民が様々な組合せで織り成す、非常に豊かな混交社会が展開している。


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