コンキスタドル(征服者)たち

 
 

 1   征服と植民地制度
更新日時:
2009/05/26 
 
 本項より、コンキスタドルの名前が最初に出た場合、青字で示す。私の独断で重要人物のみ人名表に略記する。
 
 コロンブス(1。スペイン語名はコロン、以下同)はご存知の通り、都合4回も探検隊を率いた。この偉大な「探検家」も、「コンキスタドル」の一人に加えねばなるまい。その第二回目航海(1493年9月〜96年3月。隊員数は第一回目の時の20倍)はカリブ島嶼部の探検で知られるが、その後イスパニオラ島に戻り実弟のバルトロメ(2)と共に、武力で先住民社会を征服し、彼らの富を奴奪した上で奴隷化して生産活動を行わせ、その成果も収奪する、いわゆる征服事業に当たった。2年半で帰国したのは、先住民虐殺に関る弁明のためだ。この間、96年にバルトロメオが征服拠点となるサントドミンゴを建設している。第三回航海(1498年5月〜1500年10月)は南米大陸沿岸の探検が知られるが、やはりイスパニオラ島に戻り、征服事業を遂行した。先住民虐待で、今度は逮捕され、弟と共にスペインに送還され、協約書は破棄された。
 征服には、許可が必要だ。征服が成った地の支配権も予め得ておかねばならない。正式な協約書(Capitulacion)の有無で征服の正統性が決まった。コロンは、1492年4月17日にフェルナンド、イサベル両王から、「サンタフェ協約書」を貰った。世襲としての「海洋遠征隊提督(Admirante)兼インディアス(新世界)副王(Virrey)兼総監(Gobernador General)」に任じるものだ。
 ご存知の通り、コロンはその後免罪となり、1502年5月から1504年11月までの第四回航海を行い、中米沿岸地帯を探検している。コロン家の名誉も回復され、彼の息、ディエゴが引き継ぎ、サントドミンゴに赴任した。
 
 一定の新領土を統治する(スペイン語のgobernar)権限を付与された人を総督(Gobernador)と呼ぶ。コンキスタドル当人は、先遣総督(Aledantado。以下アデランタードと表記)と称する。但し、直接スペイン王室からその旨の協約書を入手する必要があり、一旦アデランタードになれば、インディアス総監はもとより、既存総督の管轄下に組み入れられた領土でも、独立した総督権限を行使できた。インディアス世襲総監である筈のコロン家は、事実上、全ての権益を喪失することになる(ただパナマからニカラグアにかけた一帯であるベラグアが表面的に残され、同家はベラグア侯の称号を得た)。
 征服対象地には、その拠点が設けられる。征服の進展に伴い、サントドミンゴ新領土全体の首府の機能を持つようになるが、同地より出発した当該コンキスタドルがアデランタードとなり、さらなる領土に拠点を建設すれば、そこが独立した領土の首府になる。
 
 1502年、有名な「エンコミエンダ(Encomienda)」制が導入された。コンキスタドルが征服した先住民を勝手に支配するのではなく、支配体制を体系化しようとするものだ。王室はコンキスタドルに対し、国王に代わり先住民からの納税と賦役義務を遂行させることを、「委託(スペイン語でencomendar)」する、とする。「エンコメンデロ(Encomendero)」(エンコミエンダを得た人)は先住民に貢納させ(そのまま収入になる)、また自ら得た私有地での作業や自らの住宅での家事に彼らを徴用した。富と栄誉(事実上の領主権)の実現だ。
 ただエンコミエンダ制は、イスパニオラ島では文字通り、先住民奴隷化と同意義でその虐待振りは宣教師らによって告発された。1512年12月に公布されたブルゴス法令により、先住民は国王の臣民であり、キリスト教化を施すべきであり、保護すべきものと規定された。
 
 植民地の法治体制も進んだ。1511年、サントドミンゴに「聴訴院(Audiencia。
司法行政院。以下、アウディエンシア)」が設立され、その長官は王室に直接任命された。これはコンキスタドルがアデランタードであろうと、司法行政面でアウディエンシア長官の下に置かれることを意味する。だが実効力を持つようになるのは1524年の「インディアス枢機会議(Consejo Supremo de las Indias)」発足の後のことだ。国王に対する諮問機関のようなもので、議員は高位貴族だったという。植民地統治体制の確立に向けた動きの一環として捉えたい。
 アウディエンシアは、1527年にはメキシコ市に(サントドミンゴから独立)、38年にパナマ(同)、43年にリマ(パナマから移転)、グァテマラ(メキシコから独立)などと広がっていく。さらに副王制(Virreinato。常駐し、且つ交代する制度上の役職と言う意味でコロンが任ぜられた副王とは異なる)が敷かれ、1535年にヌエバイスパニア副王、44年にペルー副王が着任した。また、1541年、エンコメンデロによる先住民使役の禁止や世襲制限をうたう「インディアス新法」が公布される。こうして、コンキスタドルの既得権も弱まっていく。
 
人名表(青字はコンキスタドル
(1) コロン(Cristobal Colon、1451-1506)インディアス副王兼総監。カリブ海島嶼部と南米、中米沿岸部を探検。イスパニオラ島征服。
(1) バルトロメ・コロン(Bartolome Colon、(1461-1515)コロンの第二航海に参加しイスパニオラ島征服に当たる。
 

 2   イスパニオラ島の征服と南米沿岸部への展開
更新日時:
2009/05/26 
 
 コンキスタドルとしてのコロンの業績は、イスパニオラ島征服における先住民に対する収奪と虐待、と不名誉なものだ。同島に派遣された査問官により兄弟とも逮捕され、協約書が破棄された。そして、王室はオバンド(1)をインディアス総監に任命した。コンキスタドルではない総監としては、初代だ。1502年、移住者を含む2,500人を引き連れて着任した。エンコミエンダ制は彼が王室に提言し実現した制度である。
 オバンド在任期間は、コロン兄弟が成し得なかったイスパニオラ島平定期に相当する。この島には金の鉱脈があり、それなりに魅力があった。先住民は、現コロンビア、ベネズエラ西部沿岸地帯同様のアラワク系タイノ族と、ベネズエラ東部沿岸地帯同様のカリブ族だったといわれる。お互い反目しあい、スペイン人はタイノ族を味方したが、その後はエンコミエンダ制のもと、先住民全体が酷使の対象となる。これに疫病が加わり、激減した。定量的な信用に足る資料は無く極めて大雑把だが、コロン到着時数十万だった先住民は、オバンド任期終了時数万だった、というのが常識的な見方のようだ。近隣諸島で先住民狩りが行われ、或いはアフリカから黒人を輸入し、労働力を補強していた。スペイン人は、エンコメンデロかその一族郎党か、兵士、聖職者、行政官、医師、技師、商人などで、農牧業や土木事業など肉体労働は忌避した。
 
 オバンドの後任候補は、コロンの嫡子ディエゴ・コロン(1476-1526)の他に、オバンドに仕えてイスパニオラ島平定に尽くし、且つ出自が名家でもあるポンセデレオン(2)だ。だが、王室はコロン家名誉回復を優先した。彼がプエルトリコ征服に専心したのにはこれへの反発がある、とも言われる。新総監着任1年前の1508年にはサンフアンを建設していた。1513年、フロリダを探検、その後帰国し、同地のアデランタードに任じられている。
 1509年、ディエゴが着任した年、オヘダ(1468-1515)が南米のヌエバアンダルシア(コロンビアのウラバ湾より東の地域)、またニクエサ(?-1511?)がベラグア(同湾から現ニカラグアに至る中米地域)に向け、夫々の遠征隊を率いて出発した。それ以前、ガルバン・デラ・バスティダ(1460-1527)、及びオヘダ自身らが探検していたが征服への着手が遅れていた地域だ。
 
 南米遠征隊が現パナマとコロンビアの国境に近い場所に、1510年に建設したダリエンが大陸部の都市第一号、とされる。これに関ったのが、バルボア(3)である。彼は、1502年にイスパニオラ島に移住、09年のオヘダ隊に参加した。オヘダ自身は遠征から離脱した。ダリエン自体は、実はベラグアにある。11年、彼はニエクサを追放した。
 彼を世界史上有名にしたのは、1513年9月の太平洋(彼は「南海Mar de Sur」と名付けた)発見だ。これを王室に報告する際に、正式総督に任命するよう運動した、と伝えられる。コロンブス同様、「探検家」として知られるバルボアも先住民を征服し、富を収奪したと言う意味で、「コンキスタドル」である。王室は、彼を南海沿いの新領地のアデランタードとし、ベラグア総監にはペドラリアス(4)を任じた。バルボアが南海沿岸の新領土獲得に乗り出す前、太平洋までの地峡交通に適している、として総督府のあるダリエンから離れた地にアクラという町を建設、ここに大勢を同行させて移り、活動を開始した。これがベラグアにおける総督の職権侵害、と見られ、1519年1月、ペドラリアスにより処刑された。43歳だった。
 なお、「太平洋」とは1520年10月にマゼラン(5)が南米陸地の南端沿いに西に通過した時にEl Mare Pacificumと呼んだことから来ている。
 
人名表(青字はコンキスタドル
(1) オバンド(Nicolas de Ovando y Caceres、1460-1511)行政官としての最初のインディアス総監。
(2) ポンセデレオン(Juan Ponce de Leon、1460-1521)プエルトリコ征服。後にフロリダ遠征を試みるが失敗。
(3) バルボア(Vasco Nnez de Balboa、1475- 1519)オヘダ南米遠征隊に参加し、パナマを征服。地峡横断で太平洋に出た最初のヨーロッパ人。現在のパナマの通貨は彼の名前に因む。
(4) ペドラリアス(Pedrarias Davila、若しくはPedro Arias de Avila、(1460?-1531)行政官として派遣されたベラグア総監。
(5) マゼラン(Hernando de Magallanes、1480-1521)スペイン国王にモルッカ(香料島)までの西回り航路開拓を進言、船団を率いたポルトガル人航海士。本人はフィリピンで殺害されるが、生き残り組は海路世界一周成功
 

 3   キューバ島とアステカ王国の征服
更新日時:
2009/05/26 
 
 1511年、ベラスケス(1)がサントドミンゴから出発し、キューバ征服に着手した。現グァンタナモ県にあるバラコアを建設、ここで主たる遠征メンバーを召集してカビルドと呼ばれる会議を開き、自らをサントドミンゴのインディアス総監から独立したキューバ総督とした。この旨は王室に請願され、1518年、正式にアデランタードに任命された。これで、サントドミンゴのインディアス総監支配下からは独立した。
 征服開始時点でのキューバ島の先住民人口は、イスパニオラ島同様、判然としない。島の大きさから考えて、同島より少なかったとは思えない。部族的には同じタイノ族、及びやはりアラワク系のシボネイ族で、全島制圧には相当な年数を要したが、イスパニオラ島ほどにはかからなかった。ジャマイカ征服にも関ったナルバエス(2)が副官だった。彼にラスカサス(3)も同行し、先住民虐殺事件で強く非難したことが知られる。
 
  キューバの先住民も、やはり激減の一途を辿った。1517年2月、サンティアゴデクーバ(1514年建設。バラコアから総督府が移るのは1522年)から西方に向ったコルドバ(1475?-1517)率いる100名の遠征隊の目的は、先住民狩りだったとも言われる。翌月、ユカタン半島に到着した。遠征そのものはユカタン先住民(マヤ人)との幾度かの戦闘で隊員の大半を失った上で退却し終わった。コルドバは帰還後ほどなくして死去するが、同地の高度文明が報告されキューバでは色めき立った。ベラスケスはグリハルバ(1490-1527)率いる第二次遠征隊を翌18年にも出した。この時も失敗したが、グリハルバ隊はメキシコ湾岸を北上したことで、「アステカ王国」の存在も知る。
 
1519年2月、コルテス(4)率いる遠征隊がハバナ(1515年、カリブ海側の海岸に建設。現在地になったのは19年であり、コルテスが出たのはカリブ海側だろう)を出帆した。兵力は500人、と言われる。ベラスケスは遠征許可を取り消したが、これを無視した。
 ユカタン半島に近いコスメル島で、8年前に座礁したニエクサの遠征隊に参加してそのまま取り残されていたスペイン人のアギラル神父が、コルテス隊と合流することになる。彼はマヤ語を解した。ユカタン半島に沿い航行、3月央に現タバスコで上陸、ここでマヤ族との戦闘を経て、マヤ語とナワトル語(アステカ王国の言語)に通じる女性、マリンツィンを引き入れた。以後、アギラル神父とマリンツィンの二人で通訳を務めることになる。
 同年5月、現ベラクルスの地に征服拠点を建設、7月、カビルドを召集し、自らを前年アデランタードに任じられたばかりのベラスケスからは独立したスペイン国王直属の地位にある旨を宣言した。キューバでベラスケスが行ったやり方に倣った。以後2年余りの動きにつき主要事項を下記する。
 
  • 1519年8月、アステカ王国首府、テノチティトラン向け進軍開始
  • 途中、戦闘を経て同盟関係を結んだトラスカラ人数千人、進軍参加。
  • 同年10月、チョルラでの大虐殺。
  • 同年11月、テノチティトラン着、モクテスマ二世と面会、ほどなく彼を人質にとる。
  • 1520年4月、上記ナルバエスの軍勢がベラスケス命で到着。コルテス、テノチティトランを副官に託し、引き返す。
  • 同年5月、テノチティトラン神殿祭事を巡り暴動。一方でナルバエス隊との戦闘でコルテス隊勝利、兵員増強の上、再びテノチティトランへ
  • 同年6月30日、「Noche triste(悲劇の夜)」。人質から解放したモクテスマ二世がアステカ側に殺害され、スペイン軍退却。大量の死者
  • 1521年2月よりテノチティトラン包囲戦術開始。湖上に小型砲艦を配置した上で、湖外に繋がる通行路を封鎖する食糧攻め
  • 同年8月、テノチティトラン入城
 
 コルテスは、チョルラの大虐殺でも悪名高いが、国際的に厳しく糾弾されるようになるのは入城後の徹底的なテノチティトラン破壊だ。アステカ王国そのものが消滅し、スペイン領「ヌエバイスパニア」となり、廃墟となった旧王都跡にメキシコ市建設が始まる。この年、スペイン国王はコルテスをヌエバイスパニア軍務総監兼最高司法行政官に任じた。36歳の若さだった。
コルテスは、1524年のインディアス枢機会議発足、26年ヌエバイスパニアへの査問官派遣の流れの中で、実権を喪失していくが、大エンコメンデロのオアハカ侯として天寿を全うした。
 
人名表(青字はコンキスタドル
(1) ベラスケス(Diego Velazquez de Cuellar、1465-1524)キューバ征服。インディアス総監の頭越しにアデランタードとなる。
(2) ナルバエス(Panfilo de Narvaez、1470-1528)ベラスケス副官。後年、フロリダのアデランタードに任じられ、1527年征服に赴き、同地で死去。
(3) ラスカサス(Bartolome de Las Casas1484-1566)エンコミエンダ制を批判し、後にドメニコ会士となり先住民保護に尽力。
(4) コルテス(Hernan Cortes、1485-1547)アステカ王国の征服。ヌエバイスパニアの最高権力者としては5年間のみの在任。
 

 4   メキシコ北西部及び中米の征服
更新日時:
2009/05/26 
 
 1521年にコルテスが征服したのはアステカ王国であり、現メキシコ領域の約3分の1程度である。北西部は主としてチチメカ人が、またユカタン半島以南にはマヤ人が、さらにその南にはコロンビアから広がっていたチブチャ系先住民らが夫々の伝統的社会を営んでいた。コルテスも、またパナマ市にあったペドラリアスも、エンコミエンダの対象となる先住民人口の急減と、新世界におけるスペイン人の増大を眼の前に、さらなる征服を進めていく。
 
 1522年早々、ゴンサレス・ダビラ(?〜1543)遠征隊がパナマを出帆、現ニカラグア太平洋岸に沿い海路、及び陸路で今のフォンセカ湾に到着した。パナマ帰還後ペドラリアスから疎まれ、一旦サントドミンゴに移り、今度はカリブ海岸のホンジュラスからニカラグアに入った。
 1523、24年にかけ、コルテスはメキシコからアルバラード(2)を、ユカタンの西側からグァテマラとエルサルバドル、及びオリード(1487-1524)をホンジュラスに侵攻させた。オリードはほどなく謀反を起こす。 
 ニカラグア支配権確立のため、ペドラリアスが送り込んだコルドバ(1)は1524年、グラナダ及びレオンを建設する。
以上のような流れの中で、ホンジュラスとニカラグアにおいては、スペイン人同士の錯綜した事態に陥る。
  • グァテマラ及びエルサルバドル:グァテマラ高原では1524、25年にかけ、カクチケル、キチェ両マヤ系先住民同士の抗争に乗り、アルバラードが征服を進めた。エルサルバドルではピピル人と一進一退の戦闘を繰り広げる。1526年に帰国、グァテマラのアデランタードに任じられる。
  • ニカラグア:エルサルバドルのアルバラード隊が現実にニカラグア征服を進めていたコルドバに同調。ゴンサレス・ダビラはホンジュラスに退却。1526年、レオンに異動していたペドラリアスがコルドバを処刑。
  • ホンジュラス:ニカラグアから退却したゴンサレス・ダビラが、コルテス派遣のオリード討伐隊と組み、25年、オリード処刑。コルテス自身もホンジュラス入りしたがメキシコ市に査問官到来、という流れの中で引き返している。また、サントドミンゴのアウディエンシア任命の総督が着任。
 
 かつては中米の一角を成したユカタンの征服は、コルテスがメキシコでの実権を剥奪され、一方でアルバラードがグァテマラ総督に任じられた1526年、王室がモンテホ(3)をアデランタードに任じることで始まった。マヤ人の抵抗は激しく、結局彼自身は寧ろホンジュラス総督権をアルバラードと争う展開を経て、ユカタン平定は子息らの活躍で漸く40年代になってからのことだ。
 メキシコ北西部の征服は、1528年に創設されたヌエバイスパニアのアウディエンシア初代長官、グスマン(1490-1544)自身が翌29年から開始した。残虐さで知られ、メンドーサ(4)がヌエバイスパニア副王として着任した翌36年に逮捕され、後にスペインで獄死する。アルバラードが戦死した41年のチチメカ人一斉蜂起を招いたのは、何も彼らの勇猛さによるものではなく、グスマン征服時代に根付いたスペイン人に対する憎悪による、とも言われる。
 
 コスタリカの征服も手間取った。パナマからの遠征隊は、エンコミエンダに欠かせぬ先住民が多く、且つ金の取れるニカラグア征服を優先し、コスタリカは後回しにした。1561年にグァテマラから入った遠征隊が一定の成果を上げ、その後コロナド・イ・アナヤ(1523-65)が平定し、王室からアデランタード任命を受けるべく帰国途中で死亡している。
 
人名表(青字はコンキスタドル
(1) コルドバ(Francisco Hernandez de Cordoba、?〜1526)ニカラグア征服。現ニカラグア通貨は彼の名に因む。なお1517年にユカタンに到着したコルドバとは別人。
(2) アルバラード(Pedro de Alvarado、1485?-1541)コルテス副官。グァテマラ及びエルサルバドル征服。1527年、グァテマラのアデランタード。後年キトにも遠征する。またメキシコ北西部制圧にも参加、戦死。
(3) モンテホ(Francisco de Montejo、1479-1553)1518年のグリハルバ遠征隊に参加。コルテス隊にも参加した。ユカタンのアデランタード
(4) アントニオ・デ・メンドーサ(Antonio de Mendoza、1495-1552)ヌエバイスパニア初代副王(在任1535-50)。後にペルー副王を務める。
 

 5   南米北部とインカ帝国の征服
更新日時:
2009/05/26 
 
 1509年、サントドミンゴから出た遠征隊は、南米については成果を挙げられなかった。ペドラリアス・ベラグア総監は中米征服に乗り出すだけでなく、現コロンビアにも探検隊を送り出していた。一方では、はるか以前にマグダレナ川を発見し、また中米に上陸した最初のヨーロッパ人として知られる前出のガルバン・デ・ラ・バスティダが25年、現コロンビアにサンタマルタを、また29年にはドイツ人フェーダマン(1505-1542)隊が現ベネズエラにコロを建設し、征服拠点とする。ピサロ(1)がインカ帝国征服に乗り出すのは、こんな時代だ。
 
 ピサロは、1522年にコロンビア探検隊がパナマに帰還した時、高度文明を持ったインカ帝国の存在を聞かされた、といわれる。丁度コルテスによるアステカ王国征服が喧伝されていた時期だ。出身地が近いコルテスより10歳ほど年長で、新世界移住は2年早かった。19年にペドラリアスからパナマ市のアルカルデ(alcalde、市長に相当)に任じられたが、バルボア逮捕の論功行賞とも言われる。彼が行ったインカ帝国征服までの主要事項を下記する。
  • 1524年9月、80人で第一回遠征に出発。現コロンビア北部沿岸で先住民の攻撃を受け引き返す。
  • 1526年8月(総監交代の翌月)、160人で第二回遠征。27年4月、現ペルーのトゥンベス上陸、さらに南下航行した後、帰還。
  • 1528年、帰国。王室よりアデランタードの協約書を得る。
  • 1531年12月、180人で、パナマからは最後となる第三回遠征に出発。トゥンベス上陸後内陸に進む。32年7月、拠点都市ピウラ建設。
  • 1532年11月、カハマルカでアタワルパ(皇位継承戦争の勝者)と面会。人質に取る。またこの際に大量虐殺。33年7月、アタワルパを皇位継承の敗者たる弟の謀殺を理由に処刑。最終的にマンコ・インカを皇位継承者に立て、表面的に帝国を存続した上で、同年11月、皇都クスコ入城。
  • 1534年までに王室は新領土の総督権をピサロ(南緯1度〜14度)とアルマグロ(2)(南緯15〜25度)に分轄。
  • 1535年1月、軍略面、及び交易上のメリットを考慮し、太平洋岸に新都市リマ建設、ペルー総督府とする。
ピサロは、「黒い伝説」の代表格だろう。コルテスと比較して、より残忍とのイメージが強い。だが、共同遂行者たるアルマグロとの分担、計画実行に関る用意の周到さ、踏破した距離の凄まじい長さ、インカ皇位継承戦争に乗じた征服と、総督府としての海岸都市建設、など高度な戦略性の方にこそ、注目したい。彼も侯爵に列されたが、仲違いしたアルマグロの一派に暗殺された。ペルー内乱を惹き起こした弟ゴンサロ(3)など、ピサロ家には暗い陰がつきまとう。
 
 1534年、帝国の第二皇都たるキトに戻っていたインカ軍の討伐を進めたのは、ニカラグア征服から2年前にピサロ隊に合流していたベナルカサル(1480-1551)、及び、グァテマラ総督の前出、アルバラードだった。これにアルマグロも合流した。征服は成り、アルバラードはグァテマラに戻り、アルマグロは南下して北部ペルーを平定(途中建設した拠点都市を、ピサロの出身地に因みトルヒーヨと名付ける)した上でクスコに戻っていった。ベナルカサルは北上し、コロンビア南部を平定しパストやポパヤンを建設している。
 1536年、ケサダ(4)がスペインから直接、大遠征隊を率いサンタマルタに到着、陸上隊とマグダレナ河川航行隊とに分かれ、先住民同士の敵対関係に便乗しつつ、比較的文明度の高いチブチャ王国を平定した。38年にはその首府バカタ再建を兼ねた現ボゴタの建設に取り掛かる。39年、南部から北上したベナルカサル、コロから入った前述のフェーダマンと遭遇し、コロンビアにおける三人の支配地域を取り決めた、とされる。
 
 1541年2月、キト総督に就いたピサロの弟、ゴンサロ(前述)がエルドラド(黄金郷)探検隊を繰り出した。その副官となったのがオレヤーナ(1511-46)である。キトから現ペルー北部を東南に進んだ。ゴンサロ本体は1年後キトに戻るが、オレヤーナは探検を継続しアマゾン水系に至り、42年8月にはアマゾン河口に出た。アマゾンを初めて航行したヨーロッパ人、として記憶される。後に帰国し、王室よりヌエバアンダルシアのアマゾン地方アデランタードに任じられ、45年にスペインからの遠征隊を率いたが、結果的には失敗した。
 
人名表(青字はコンキスタドル
(1) ピサロ(Francisco Pizarro Gonzalez、1476?-1541)インカ帝国を征服。アデランタードとしては41年に暗殺されるまで。
(2) アルマグロ(Diego de Almagro、1475-1538)ピサロと共にインカ帝国征服。34年にペルー南部以南のアデランタードとなる。
(3) ゴンサロ・ピサロ(Gonzalo Pizarro y Alonso、1502-48)ピサロの異母弟で、実父から見れば嫡子。現エクアドル及び北部ペルー征服を率いる。後のペルー内乱の反乱側中心人物。
(4) ケサダ(Gonzalo Jimenez de Quesada、1495-1579)チブチャ王国を征服。エンリケ航海王の子孫、ドンキホーテのモデル、ともいわれる。
 

 6   南米南部の征服
更新日時:
2009/05/26 
 
 1535年、キト征服後ペルー北部を平定してクスコに帰還していたアルマグロが大隊を率いチリ遠征に出立した。だが先住民マプチェ(アラウコ)人との苦戦、留守中のクスコで起きたマンコ・インカによる実権奪回のクーデターなどで37年早々に帰還、その後クーデターを転覆していたピサロ派(Pizarristas)との抗争に発展、彼自身は38年7月に処刑された。
 1540年、勝ったピサロ派に属するバルディビア(1)が、チリ遠征を再開した。41年6月、アルマグロの遺児を中心とするアルマグロ派(Almagristas)がピサロを暗殺した時は、4ヶ月前に建設したばかりのサンティアゴを拠点に、新領土平定に尽力しており、リマ帰還はしていない。勇猛なマプチェ人による襲撃が繰り返され、チリ征服は多大な時間と犠牲を伴う大事業になっていた。
 1544年、メキシコに9年遅れて、パナマ以南を管掌する副王府がリマに創設された。それ以前にエンコメンデロの既得権を侵害するインディアス新法が公布され、キト総督のゴンサロ・ピサロを旗印にしたエンコメンデロの反発が高まっていた。こうして、46年、ゴンサロの乱(ペルー内乱)が起き、初代副王は戦死したが、バルディビアは翌47年にペルーに帰還、二代目副王のガスカ(2)に付いた。ガスカが掲げた恩赦と新法不適用はエンコメンデロ側の態度を軟化させ、ゴンサロ処刑で乱は収束する。
 1549年、バルディビアはチリのアデランタードに任じられ、チリ征服に復帰、50年までにコンセプシオンまで支配地域を拡大したが、いわゆる「アラウコ戦争」は続き、彼自身は53年に捕虜となり処刑された。チリ征服は彼の副官たちによって継続される。
 
 その半世紀前の1500年に、ポルトガル人カブラル(1467-1520)が漂着してヨーロッパに知られるようになったブラジルだが、その後20年ほどは大西洋沿岸のごく一部にパウ・ブラジルと呼ぶすおう種の木材伐採のための植民が細々と行われる程度で、先住民とは牧歌的な関係だった、という。
 ブラジル沿岸をさらに進み、1516年にラプラタ河口に到ったのは、ポルトガルの航海士、ソリス(1470-1516)が率いる探検隊である。当時のフェルナンド・スペイン国王により派遣された。彼自身は同地で死亡し、生き残りの隊員は帰国した。次にこの地に着いたのは、アジア行き南米沖西回り航路を開拓中のイタリア人航海士マゼランで、その4年後の1520年だった。
 
 ピサロがインカ帝国を征服した1530年代、スペインでは、ペルーに至るにはパナマ地峡を通り抜けるよりも、ラプラタ水系を遡行するのが効率的、との見方も生じていた。1534年央、高位貴族の出であるメンドーサ(3)がラプラタ一帯のアデランタードに任じられ、ソリスやマゼランと同じ航路を使い、同地を征服する役割が課せられた。彼の、十数隻の大船団から成る遠征隊がラプラタ河口に到着したのは36年1月のことで、丁度アルマグロがチリ征服に乗り出した頃だ。グァラニ系先住民との戦いはラプラタ流域でも同様で、メンドーサ自身は37年4月には帰国へと引き返す。
 メンドーサ隊の残留部隊が、ラプラタ水系を遡行しチャコ地帯に至り、同年8月、アスンシオンを建設、以後の征服拠点としたものの、結果的に、ラプラタ河口からペルーまでの、いわゆる「銀(La plata)の道」開拓は、南米南部の広大さとアンデスの峻厳さに阻まれる。アスンシオンはペルー副王管轄に組み入れられた。実効支配地域は現パラグアイのみで、まさしく僻地だった。
 ペルー内乱収束後の1550、60年代にアンデス東麓の地が平定され、多くの都市が建設された。トゥクマン征服やサンタクルス建設に関ったガライ(4)がアスンシオンに移ったのは1568年のことだ。その後もサンタフェを築き、1580年には、メンドーサが要塞を築きながら先住民の襲撃に耐えかねて棄却していたブエノスアイレスの地に行政都市を建設する。漸くラプラタ河口に実効支配を及ぼせることとなった。
 
 チリも現アルゼンチンも、夫々マプチェ系、グァラニ系先住民の抵抗が激しく、スペインによる征服は困難を極めた。コンキスタドルたちは、それなりにエンコミエンダを得たし、インディアス新法も適用されなかったが、征服地の先住民人口自体が急減、銀産出もなく、魅力に乏しかった。結局チリの南半分、及びアルゼンチンの内陸部やパタゴニアの征服は、先送りされることとなる。
 
人名表(青字はコンキスタドル
(1) バルディビア(Pedro Gutierrez de Valdivia、1500 -1553)アラウコ戦争に代表される困難さで知られるチリ征服に生涯をかけた。
(2) ガスカ(Pedro de La Gasca、)第二代ペルー副王(在位1546-51)。ゴンサロの乱を制圧し、植民地統治の正常化に成功。
(3) ペドロ・デ・メンドーサ(Pedro de Mendoza y Lujan、1487-1537)ブラジル沖航路を経て南米征服を試みた初めてのスペイン人。
(4) ガライ(Juan de Garay、1528 -1583)ブエノスアイレス建設で知られるが、アンデス東麓平定に実績多いコンキスタドル
 


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