ラテンアメリカの独立革命


 1   解放者たち
更新日時:
H20年3月12日(水) 
1807年11月、本国ポルトガルにナポレオンを皇帝に抱くフランス・スペイン合同軍が侵攻した。宿敵イギリスの孤立戦略には同盟国ポルトガルを屈服させる必要があった。ポルトガル王室は、女王マリア一世以下が、イギリス艦隊の護衛で、廷臣らともどもブラジルに移動した。翌08年3月、リオデジャネイロが王府となる。ここに、総勢1万人以上とされる政府官僚も移ってきた。「ポルトガル・ブラジル王国」がこうして成立した。つまり、ブラジルの地位は植民地ではなく、本国そのものになる。ブラジルにとって、少なくとも経済実利面では、独立の必要性はなくなった。
ナポレオンは、1808年6月、同盟国スペインの王位を当時のフェルナンド七世から簒奪する。イスパノアメリカ独立革命は、1808年6月、フランスのナポレオンがスペイン王位を簒奪したことで、本来の国王の復位を求めて、スペイン人が各地に「フンタ(自治評議会)」を成立させ、対仏武力抵抗闘争(スペイン史では「独立戦争」と呼ぶ)に入ったことが直接の契機になっている。植民地が忠誠を尽くすべきは国王たるナポレオンの実兄か、抗仏のフンタか。この理論は、植民地である続けることへの疑問に発展していく。
 
ベネズエラのチャベス大統領が最も尊敬する人は、我が国でも南米の解放者として世界史に登場するボリーバル(*1)であるが副官として存在した。1819年8月(コロンビア)から1825年4月(ボリビア)までの5年半で、500万平方キロの解放を実現した。1776年の独立宣言時の米国(東海岸の、フロリダを除く13州のみ)の面積に比べると倍以上だ。足と馬と小船で駆け抜けた距離は、1819年だけで4千キロはあったそうだ。その後ボゴタからカラカスへ、またボゴタに戻って今度はキト、リマ、ラパスへと転戦した。彼は1810年4月のカラカス市会による軍務総監罷免と自治政府樹立にも関っており、独立革命への参加歴は15年にも及ぶ。
 
ラ米史で言う解放者にはもう一人、サンマルティン(*2)がいる。スペイン人でありながら生地アルゼンチンの独立を助け、チリを解放し、ペルーに独立宣言をもたらした。ラプラタ副王領は現アルゼンチン、ウルグアイ、パラグアイ及びボリビアを包括する。総面積で450万平方キロを超える。1810年5月、ブエノスアイレス市会が副王を罷免し自治政府を樹立した。ところがモンテビデオには副王軍の拠点がありウルグアイは分離した状態だ。アスンシオン市会は翌年自治政府参加を拒否、独自の動きを始める。最も遠いボリビアには、いつしかペルー副王軍が出張っていた。彼がスペイン軍人の職を捨て、現アルゼンチンに戻ったのは1812年3月で、先ずはラプラタ副王軍撃退作戦で軍功をあげた。ボリビア回復のためペルー副王領とサンティアゴ総監領をも解放する、という壮大な構想を実行した。最終的に、ここでエクアドルまで解放していたボリーバルにペルー、ボリビア解放を委ね、10年強も携わってきた南米解放事業から退場する。
 
メキシコのイダルゴ(*3)及びモレロス(*4)は解放者というより革命家、それも絵にかいたような革命家、と言えよう。前者が進めた闘争を後者が組織化し、理論化して引き継いだ。彼らはいずれも聖職者だが地方の教区司祭で教会全体への影響力も無く、ボリーバルの如く植民地人としてエリート層に属するわけでもなく、サンマルティンの如く軍事ノウハウも持っていない。ただ大衆を糾合できるカリスマ性を持つ。数万の先住民、メスティソら被支配層を武装させ、犠牲者が20万人とも言われる大規模戦争に発展させた。二人ともヌエバイスパニア(メキシコ)副王軍に捕縛され処刑されており、その意味で挫折を見るが、彼らに従った独立派によるゲリラ戦は継続された。
 
「ポルトガル・ブラジル連合王国」の国王ジョアン六世(1816年、マリア一世死去)は、ナポレオン失脚後も帰国を渋った。1820年8月、リスボンで軍と市民による立憲君主政への移行を求める革命が起きた。翌21年3月に発布された憲法で、立法府に当たる王国議会の議員数は、本国130議席、ブラジル70議席とされた。ブラジル側は、これを植民地に引き戻すもの、ととった。各地で独立派が動き出していた。翌4月、国王はリスボンに帰還した。しかしブラジルが植民地ではなく、ポルトガル王国の重要な一部であることを示すため、ペドロ皇太子(*5)をリオに残した。ところが、ポルトガルの議会が強硬で、国王の意思に反し、同年10月、皇太子召還令を出す。1822年1月、皇太子はポルトガル不帰還を宣言した。皇太子自ら、独立派の拠点に赴いたと言う。その一つ、サンパウロの郊外にあるイピランガで、ブラジル帝国の建国を宣言した。
 
旧8「王国」で植民地のまま残ったのがハバナ総監領である。1764年、ヌエバイスパニア副王管掌地域の内、カリブ諸島及びベネズエラ東部(後、1777年創設のカラカス総監領に統合)を分掌するために創設された。
この内サントドミンゴ(イスパニオラ島東部)は1795年から1814年まで、支配権をフランスに譲渡する。スペイン領に復帰したサントドミンゴの独立派は、当初ボリーバルの動きに同調し、彼の建国に参加することとしていた。ところが1822年、彼の新国家誕生の年に、イスパニオラ島西部の独立国、ハイチに併合された。ここの独立(1844年)はハイチからの分離の形で実現する。
残ったのがキューバとプエルトリコだ。ラ米の新興独立国からスペイン人の多くが移ってきた。世界最大水準の砂糖生産国だったハイチで糖業が壊滅状態に陥った後、新たな砂糖大生産地となる。隣国米国の発展が砂糖の輸出及び生産を大きく伸ばし、経済は飛躍的に伸びた。1837年には、ラ米で飛び抜けて早く鉄道も敷設される。キューバの独立は大きく遅れることになる。
 
人名表
  • (*1)ボリーバル(Simon Bolivar、1783-1830):ベネズエラ人。現コロンビア、ベネズエラ、エクアドル、ペルー及びボリビアを解放。南米の解放者として敬われる。
  • (*2)サンマルティン(Jose de San Martin、1778-1850):スペイン人(アルゼンチン生まれ)。チリ解放。ペルー独立宣言。護国官として敬われる。
  • (*3)イダルゴ(Miguel Hidalgo、1753-1811):メキシコ人の教区司祭。独立蜂起呼びかけ。自ら武力闘争指導。人種戦争の色合い強めるが、本人はクリオーリョ
  • (*4)モレロス(Jose Maria Morelos、1765-1815):メスティソの教区司祭。イダルゴの独立闘争に参加、彼の死後、闘争指導者。議会開催で共和国憲法制定
  • (*5)ペドロ皇太子、(Dom Pedro、1798-1834):ポルトガル王国の皇太子でありながら、ブラジル独立を指導し初代皇帝となる。
 

 2   独立革命の前夜
更新日時:
H20年3月12日(水) 
 南米ではポルトガルがバンデイラ(私的奥地探検隊)の活動などで、十五世紀末に決められたトルデシリャス線を西に遥かに越えて拡大した実効支配領域を、友好国イギリスの後押しを受けて、スペインにポルトガル領と認めさせてきた。1777年、ポルトガル・スペイン間で締結された「サンイルデフォンソ条約」で、最終的にブラジルのスペイン植民地に対する境界線がほぼ現在の姿になった。それでもイスパノアメリカ領域はブラジルに倍した。人口は四倍した。加えて、現テキサス以西の現米国からチリ南端まで、最大1万2,000キロの長大さである。フロリダもスペイン領だった。現ドミニカ共和国の領域は1795年から1814年までフランス領だった。
 
 スペイン植民地統治は下記の勅任役職者により行われていた。
 
  • 副王:言うなれば、スペイン国王を代行する在地高位貴族。4人おり、夫々ヌエバイスパニア(現メキシコ、中米・カリブ地域、フィリピン及び現米国テキサス以西)、ヌエバグラナダ(概ね現コロンビア、ベネズエラ及びエクアドル)、ペルー(同、現ペルー、チリ)及びラプラタ(同、現ボリビア、アルゼンチン、ウルグアイ及びパラグアイ)を管掌する。
  • 軍務総監(以下、総監):副王支配地域の一部を分掌する。グァテマラ(ユカタンから現コスタリカまでを担当)、ハバナ(同、現キューバ、フロリダ及びプエルトリコ)、カラカス(同、概ね現ベネズエラ)及びサンティアゴ(同、概ね現チリ)の4人が配置された。
  • アウディエンシア(王立審問院。聴訴院という邦訳もある)長官:いわば行政司法長官。この時期マニラ以外で11都市に配置され、上記4副王、4総監以外が不在の都市キト(概ね現エクアドルを管轄)、現スクレ(同、現ボリビア)及びグァダラハラ(同、メキシコ北部)に3人いた。
  • インテンデンテ(勅任監察官):いわば地方知事。28ヵ所に派遣された。
 
 現地人で就ける公職は上記役職者指揮下の行政官、司法官、軍人くらいだった。就いたのは殆どクリオーリョ(現地生まれのヨーロッパ人種)だが、スペイン人への対抗心が深層にあったという。
 
ポルトガル領アメリカの植民地統治体制にスペイン領のそれと近い副王制が導入されたのは、1720年のことだ。スペイン領に185年も遅れた。副王府はブラジル東北部バイアにあるサルヴァドルに置かれた。1549年に初めて総督府が開かれた場所だ。1763年にリオデジャネイロに移された。
イスパノアメリカと異なり政庁の要職は現地人(ブラジル人)にも開放され、実質的な支配階層は現地生まれのヨーロッパ人種には、イスパノアメリカでいうクリオーリョ意識は希薄で、本国人との一体感が強く、自らは地方のポルトガル人、という意識だったという。
 
1776年7月、ヨーロッパ列強のアメリカ植民地の一つ、北米13州による独立宣言が発せられた。直接の切っ掛けは宗主国イギリスが植民地に課した税、貿易上の規制によるが、それには当時フランスを中心に広まっていた自由、平等を説く啓蒙思想があった。明らかに当時一般的だった絶対君主制へのアンチテーゼだ。フランスは独立軍を支援した。同じブルボン家を王室に抱くスペインも一緒だった。イスパノアメリカのクリオーリョを中心とする知識層にも啓蒙思想は伝播したし、宗主国スペインが支援したことで北米独立への関心も高かったが、自らの行動には結びついていない。
一方ブラジルは、この影響で繊維工場の原料となる綿花の重要な供給源を失ったイギリスへの重要供給者となり、農業部門が発展しそれまでの金依存型経済から脱却、経済繁栄に向う。
かかる状況下、下記のような事件が続いた。
 
  • 1780年11月、ペルーで「トゥパク・アマルー二世(メスティソのコンドルカンキ(*1)がインカ王室の末裔として自称)の反乱(〜81年5月)」。先住民を中心に6千人の軍勢となり、一部が暴徒化し、農園略奪、白人層の虐殺、に発展。ペルー副王軍が増強され、最終的に反乱鎮圧
  • 1781-82年、現ボリビアで「トゥパク・カタリ(先住民のアパサが自称)の反乱」。上記の別働隊による抵抗運動。ラプラタ副王軍が制圧
  • 同、現コロンビアで「コムネロス(民衆自治会)の乱」。増税に抗議し、クリオーリョが組織。最終的に2万人の抗議運動に発展。ヌエバグラナダ副王が増税撤廃で解決
  • 1788-89年、ブラジルで「ミナス人の陰謀」。ミナスジェライスの上流層、弁護士や聖職者らが参加、共和国樹立の蜂起を企画。事前に発覚し、首謀者の一人、抜歯技師(Tiradentes)のシルバ・シャヴィエル(*2)が見せしめのため処刑される。「ティラデンテスの反乱」とも言う。
 
 1789年7月、フランス革命が起こる。自由、平等、博愛を前面に出した人権宣言も、ラ米の知識層に伝播した。フランス領の現ハイチも同様だ。1791年に起きた奴隷の大暴動は、1804年1月のハイチの独立へと発展する。この年の12月、ナポレオンがフランス人皇帝になり、欧州制覇を本格化させる。スペインはこれに追随し、ポルトガルはフランスの宿敵イギリスの友好国のままだった。
上記トゥパク・アマルー二世の乱で先住民への、またハイチ独立によって奴隷への警戒で、イスパノアメリカ支配階級の一角を成すクリオーリョは独立革命どころではなかったようだ。世紀末前後の事件を幾つか列記する。
 
  • 1795年、コロの反乱。ベネズエラ沿岸部の町コロで黒人及びムラトの共和国建設を図り蜂起。ハイチの暴動に連鎖。短期で鎮圧されている。
  • 1798年、「バイアの陰謀」。ブラジルのサルヴァドルで、職人、兵士、小商人など1,000人近くが、フランス革命のスローガンを受けた民主的共和制を掲げて蜂起、自由黒人や奴隷も参加し食料品店の略奪、といった暴動に発展。鎮圧され首謀者は絞首刑の上、公衆に晒し首に処された。職人たちが独立計画の企てた、ということから、「仕立屋の陰謀」とも言う。
  • 1806年6月-8月、イギリス海軍がブエノスアイレスを支配(副王軍は退去)。現地人民兵によって撃退された。イギリス海軍は翌1807年に再襲来し、やはり民兵の抵抗で撤収した。
  • 1806年8月、ミランダ(*3。亡命ベネズエラ人)がコロ侵攻、失敗。彼は、1779年、スペインが参戦した北米独立戦争にスペイン軍将校として、ハバナから独立軍支援活動に携わった。1783年から1年半ほど、独立後の米国を回り、84年末にロンドンに向けて出発、そこを活動拠点としてヨーロッパ各地に出向きフランス革命にも参加した。ロンドンの彼の拠点にラテンアメリカ独立を志向する多くの志士が訪れるようになる。
 
人名表
  • (*1)コンドルカンキ(Jose G. Condorcanqui、1741-1781)ペルー人。トゥパク・アマルー二世を名乗り支配層を震撼させる反乱を起こす。
  • (*2)シルバ・シャヴィエル(Joaquim Silva Xavier、1748-92)ブラジル人。「ティラデンテスの反乱」。ブラジル独立運動の先駆者とされる。
  • (*3)ミランダ(Francisco de Miranda、1750-1816)ベネズエラ人。コロ侵攻。南米独立革命の先駆者と呼ばれる。
 

 3   独立革命の年表
更新日時:
H20年10月21日(火) 
ここでは独立までの動きを簡潔に年表形式で追って行きたい(重要事件は下線付き濃茶色字。独立記念日は赤字、人名は最初に出てきた場合青字で表す)。
 
1809年
  • 5月 チュキサカ(現スクレ)の乱。自治政府を求める学生運動。失敗
  • 7月 ラパスのカビルド(市会)がインテンデンテ(王室監察官)追放、自治宣言。ラプラタ副王軍がこれを解散させる
  • 8月(10日。エクアドル独立記念日)キト市民が自治評議会結成、アウディエンシア長官追放。副王軍が制圧
1810年
  • 4月 カラカスのカビルド、総監を罷免。7月に召集された議会がイギリスに使節団派遣。ボリーバル(27歳)も参加、ミランダ(60歳)の故国復帰実現
  • 5月 ブエノスアイレスのカビルド、ラプラタ副王罷免、自治政府樹立
  • 7月(20日。コロンビアの独立記念日ボゴタのカビルド、ヌエバグラナダ副王罷免「クンディナマルカ共和国」独立宣言
  • 9月(16日。メキシコ独立記念日イダルゴ(57歳)が「ドロレスの叫び」。教区のドロレス村でスペインの圧政に抗議しメキシコ独立を呼びかけ
  • 9月(18日。チリ独立記念日)サンティアゴのカビルド、総監罷免
  • 11月 アスンシオン民兵軍、ラプラタ自治政府軍撃退
1811年
  • 2月 アルティガス(*1。46歳)が現ウルグアイ独立闘争開始。モンテビデオはラプラタ副王軍(王党軍)の拠点
  • 5月(15日。パラグアイ独立記念日)アスンシオンのカビルド、独立宣言
  • 7月(5日。ベネズエラ独立記念日)ベネズエラ独立宣言。第一次共和国
  • 7月 イダルゴ処刑、モレロス(45歳)が独立革命引き継ぐ
  • 11月 現コロンビアでボゴタ地方を除く「ヌエバグラナダ諸州連合」結成
1812年
  • 3月 サンマルティン(34歳)がラプラタ独立革命に参加
  • 7月 ベネズエラ共和国軍がスペイン軍に敗退し、第一次共和国崩壊。ミランダはスペインに移送(後、獄死)
1813年
  • 8月 ボリーバル、ヌエバグラナダ諸州連合軍支援でカラカス凱旋。第二次共和国
  • 11月 モレロスがチルパンシンゴに召集した議会がメキシコ独立宣言
  • 11月 ラプラタ自治政府軍をペルー副王軍が現ボリビアから撃退
1814年
  • (3月 ナポレオン失脚でスペインのフェルナンデス七世が復位)
  • 5月 パリ条約によりサントドミンゴが19年ぶりにスペイン領復帰
  • 6月 王党軍増強でベネズエラ第二次共和国崩壊
  • 10月 「ランカグアの戦い」。王党軍がサンティアゴ制圧。独立派軍最高司令官、オヒギンス(*2。36歳)らはラプラタに避難
  • 10月 モレロスが「アパツィンガン憲法」(代表制、三権分立、全人種の法の前の平等)
  • 12月 敗残のボリーバル部隊を含むヌエバグラナダ諸州連合軍、ボゴタ入城。クンディナマルカは諸州連合に統合される。
1815年
  • 2月 スペイン、独立派制圧軍をベネズエラ、コロンビアに派遣
  • 9月 ボリーバル(3月に脱出)のジャマイカからの手紙。独立後のラ米は米国型ではなく立憲君主制に近い共和制を採用する構想を披瀝
  • 12月 モレロス処刑、以後独立革命は敗残部隊によるゲリラ戦に
1816年
  • 5月 ヌエバグラナダ、スペイン軍により崩壊
  • 7月(16日。アルゼンチン独立記念日)ラプラタ独立宣言。アルティガス外されたことで、ラプラタ水系諸州がボイコット
  • 12月 帰還したボリーバルが、アンゴストゥーラ(現ボリーバル市)に拠点設営
1817年 
  • 1月 ブラジルがモンテビデオ占領、発足して間もないラプラタ中央政府はこれを黙認。現ウルグアイがブラジルに併合される。
  • 2月 「チャカブコの戦い」。サンマルティン率いるラプラタ軍(「アンデスの軍隊」)がオヒギンスらと共にアンデス越えでチリ駐留副王軍を急襲、勝利。サンテァゴ入城実現
1818年
  • 2月 改めてチリ独立宣言、4月、「マイプの戦い」で副王軍撃退。(チリ解放)
1819年
  • 8月 「ボヤカの戦い」。ボリーバル軍がサンタンデル(*3。27歳)との共闘でアンデス越え。スペイン軍急襲、勝利。ボゴタ入城。(コロンビアの解放)
1821年
  • 6月 「カラボボの戦い」パエス(*4。31歳)を中心としたボリーバル軍、スペイン軍撃破。(ベネズエラの解放
  • 7月(28日。ペルー独立記念日)リマ入城のサンマルティンを護国官として、ペルーが独立を宣言
  • 8月 「コルドバ協定」イトゥルビデ(*5。38歳)とオドノフー副王で締結。事実上、君主制国家としてのメキシコ独立を認める、とする、(メキシコの独立達成。無血革命)
  • 9月(15日。中米五ヵ国の独立記念日グァテマラ総監領(現グァテマラ、ホンジュラス、エルサルバドル、ニカラグア、コスタリカ、及びメキシコのユカタン)がメキシコ(9月28日)に先んじて独立を宣言
  • 9月 ボリーバル、サンタンデルを正副大統領に、現コロンビア、ベネズエラ、当時未解放のエクアドルを含むグランコロンビア(国名はコロンビア共和国)発足
1822年
  • 1月 中米がメキシコに併合される
  • 1月 ポルトガルのペドロ皇太子、ブラジルからの不帰還宣言。各地での独立運動の動きを見たブラジル政庁の宰相、アンドラダ・エ・シルヴァ(*6)が懇請
  • 2月 ハイチが現ドミニカ共和国(スペイン領)を併合
  • 5月 イトゥルビデがメキシコ皇帝に即位
  • 5月 「ピチンチャの戦い」。ボリーバルの副官、スクレ(*7。27歳)指揮下のコロンビア軍が、エクアドル王党軍を撃破。(エクアドルの解放
  • 7月 ボリーバルとサンマルティンのグァヤキル会談。独立後のラ米体制を巡り、共和制志向の前者と君主制容認の後者が対立。
  • 9月(7日。ブラジル独立記念日ペドロ皇太子「イピランガの叫び」。12月、ブラジル帝国ペドロ一世(在位1822-31年)として即位。
1823年
  • 3月 イトゥルビデ退位。メキシコ帝政が崩壊。共和制移行
  • 7月 ユカタンを除く中米がメキシコ連邦より離脱
  • 9月 ラ米独立革命から退場したサンマルティンに後事を託されたボリーバルがペルー入り
  • (12月 モンロー宣言。アメリカ問題に欧州列強は介入すべからず、というもの)
1824年
  • 8月 「フニンの戦い」。ボリーバルを総指揮者とし、ペルー独立派軍が結集、スクレ指揮下で副王軍に勝利
  • 12月 「アヤクチョの戦い」。スクレ指揮下の独立派軍が副王軍を撃破。(ペルーの解放
1825年
  • 3月 スクレ軍が副王軍残党を最終的に撃滅。(ボリビアの解放
  • 8月 サンマルティン構想のラプラタ帰属、ボリーバル構想のペルー帰属いずれも拒否した支配層が、ボリーバルの名に因む「ボリビア」という国名で独立を宣言
  • 8月 ブエノスアイレス避難中だった現ウルグアイの独立派が帰還し、対ブラジル独立を宣言。この支援を理由に同年末、ブラジル・アルゼンチン戦争に発展
1828年
  • 8月 リオ講和条約。イギリスの調停でブラジル・アルゼンチン戦争終結。ウルグアイ独立
1838年
  • 4月 グァテマラが中米連邦から離脱
  • 4月 ニカラグアが中米連邦を分離独立
  • 7月 サントドミンゴでドゥアルテ(*8)らが「ラ・トリニタリア」結成
  • 10月 ホンジュラスが中米連邦から分離独立
  • 11月 コスタリカが中米連邦から分離独立
1841年
  • 2月 エルサルバドルが発足。中米連邦首府所在地が連邦崩壊を正式に認め、新国家として発足したもの
1844年
  • 2月 (27日。ドミニカ共和国独立記念日サントドミンゴ、ハイチから独立宣言
1861年
  • 3月 ドミニカ共和国、ハイチの脅威を理由にスペイン植民地に戻る。
1863年
  • 8月 ハイチの支援でドミニカ共和国独立派が蜂起
1865年
  • 3月 スペインがドミニカ共和国再植民化を無効、とする。再独立
1868年
  • 10月(10日。キューバでの独立記念日に準じた扱いセスペデス(*9。49歳)による「ヤラの叫び」。武力独立闘争を呼びかけるもの。第一次独立戦争
1878年
  • 2月 「サンホン協定」。キューバの独立派軍降伏
1892年  マルティ(*10。39歳)がニューヨークで「キューバ革命党」結成
1895年
  • 3月 マルティらが独立宣言キューバ第二次独立戦争
1898年
  • 2月 メイン号事件。ハバナ停泊中の米艦船爆沈、
  • 4月、米西戦争突入(〜8月)。12月のパリ条約でキューバ独立承認
1899年
  • 1月 キューバが米国の保護下で独立
1903年
  • 1月 米国がコロンビアとパナマ運河権益に関する「ヘイ・エラン条約」締結。同年10月、コロンビア議会がこの批准拒否
  • 11月(3日。パナマ独立記念日パナマ革命委員会、コロンビアからの独立を宣言。パナマ沖出動中の米艦隊との交戦回避のため、独立派鎮圧部隊撤収
 
人名表(前項「解放者たち」に重複する人物は除外)
  • (*1)アルティガス(Jose Gervasio Artigas、1764-1850):ウルグアイ独立革命を開始、ブラジル併合後、退場に追い込まれる。
  • (*2)オヒギンス(Bernardo O’Higgins、1778-1842):チリ人。同国の独立革命家。父親はペルー副王に上り詰めたアイルランド系スペイン人
  • (*3)サンタンデル(Francisco de Paula Santander、1792-1840):コロンビア人。同国の独立革命家。グランコロンビア副大統領としてボリーバルの南米解放事業を支える。
  • (*4)パエス(Jose Antonio Paez、1790-1873):ベネズエラ人。ボリーバル副官
  • (*5)スクレ(Antonio Jose Sucre、1795-1830):同上。エクアドル、ペルー及びボリビア解放の司令官。「アヤクチョの元帥」
  • (*6)イトゥルビデ(Agustin de Iturbide、1783-1824):クリオーリョだがメキシコ副王軍司令官。コルドバ協定を主導
  • (*7)アンドラダ・エ・シルヴァ(Binifacio Andrade e Silva、1765-1835):独立を挟み、ブラジル政庁の宰相。ペドロ皇太子を独立に動かす。
  • (*8)ドゥアルテ(Juan Pablo Duarte、1813-76):配置支配下のサントドミンゴで独立運動組織、ラ・トリニタリア結成。ドミニカ共和国の独立の父
  • (*9)セスペデス(Carlos Manuel de Cespedes 1819-1874):キューバ独立革命開始
  • (*10)ホセ・マルティ(Jose Marti、1853−1895):キューバ革命党。独立の父

 4   ラ米独立革命のまとめ
更新日時:
H20年3月12日(水) 
年表を見ながら、事件の背景と共に下記纏めてみた(解放者は赤字で表す)。
 
(1)独立革命の勃発(1809-10年):
 
1809年、つまりスペイン本国でナポレオンがスペイン王位を簒奪した1年後、現ボリビアのチュキサカ(スクレ)で自治権を求める学生らが反乱を起こし取り押さえられた。その後ラパスで、及びエクアドルのキトで、植民地人による自治政府が樹立され夫々のインテンデンテ及びアウディエンシア長官を追放する事件が起きた。この時は夫々の副王軍により自治政府は解散させられている。
 1810年、2副王、2総監をカビルドが罷免した。カビルドを構成する参事は、自治権が大きく規制されたスペイン植民地では、現地人名士のいわば名誉職に過ぎず都市ごとに数人しかいない。それがいきなり社会秩序の頂点にある副王、総監罷免に出た。さすがにかなりの数の有力者を動員する「公開カビルド」で決議した。この4人の復権は無かった。ヌエバイスパニア(メキシコ)副王領では植民地人が自決を主張して立ち上がった。非常に重要なこれらの事件は、4月から9月までの短い間に相次いだ。道路は未発達、海路はまだ帆船の時代で、夫々の植民地人が相互に示し合わす時間的余裕は無い。広大且つ長大なスペイン植民地で、一斉に、ともいえる短期間で起きたことに驚く人は多い。
 
(2)独立革命の挫折(1813-15年)
 
 カビルドによる副王罷免や植民地人による独立への蜂起が無かったのは、副王直轄領ではペルーだけだ。エリート植民地人にはトゥパク・アマルー二世の反乱による余韻が残っていたことが大きな理由の一つとして挙げられる。ペルー副王は有能だったようで、彼の副王軍によって自治政府はチリ(崩壊)とラプラタ(ボリビア分離)の挫折に向かった。
 メキシコではエリート植民地人の動きには繋がらなかった。ベネズエラとコロンビアには1815年にスペイン本国から独立派鎮圧のための大軍が派遣された。
 翌年央までに、ラプラタ(現ボリビアを除く)以外の独立運動は、一旦全て挫折する。背景として、ヨーロッパでナポレオンが失脚し、スペイン国王が復位したことを挙げておきたい。
 
(3)サンマルティンとボリーバルによる解放(1817-25年)
 
1817年2月のサンマルティンによるチリ駐留ペルー副王軍襲撃成功で、独立革命が新段階に入った。前年末よりベネズエラ南部アンゴストゥーラ(現ボリーバル市)を拠点に反撃準備に取り掛かっていたボリーバルは、1819年6月、同じような襲撃作戦で、先ずコロンビア解放を実現する。
 1821年に入ると6月、ボリーバルによるベネズエラ解放、7月、サンマルティンのリマ入城とペルー独立宣言、翌22年には5月、エクアドル解放へと続く。
 一方、ペルー独立宣言後も地方に展開していたペルー副王軍を押さえられずにいたサンマルティンは1822年7月、ボリーバルと会談し、結果南米独立から退場することにしていた。ペルーの解放は1824年12月、そしてボリビアのそれは翌25年3月に、ボリーバルによって実現する。逆に、ラプラタ統合の一環としてのボリビア解放、というサンマルティン構想は挫折した。
 
(4)メキシコ及び中米とブラジルの独立(1821-22年)
 
1821年8月のイトゥルビデとヌエバイスパニア副王との「コルドバ協定」により、事実上のメキシコ独立が成った。植民地人による革命闘争は夥しい流血を招いたが、実際の独立は無血革命である。独立宣言としては、中米がメキシコに先行した。メキシコ独立が副王管轄地全部に及ぶことを懸念したものだが、結果的には翌22年1月から1年半、併合されている。
 ブラジルの独立は1822年9月のペドロ皇太子の事実上の独立宣言による。その意味では、ここも無血革命といえる。
 
 こうしてブラジルとキューバを除くスペイン植民地の全てが、それまでの夫々の宗主国から独立を果たした。年代順に、パラグアイ(成立年1811年。領域面積は)、アルゼンチン(同、1816年)、チリ(同、1818年)、メキシコ及び中米連邦(同、1821年)、グランコロンビア及びブラジル(同、1822年)、ペルー(同、1824年)とボリビア(同、1825年)の9ヵ国が誕生した。
 この間、スペイン植民地では植民地人が独立派と王党派に分かれて戦闘を繰り広げ、夥しい犠牲者を出した。国土も荒廃した。また、王党派から独立派への転向も多く見られた。兵卒は被支配層である。彼らを統率する頭目的な指導者、カウディーリョが輩出した。
 
(5)ウルグアイとドミニカ共和国の独立
 
 1825年12月、8年前にブラジルが併合していたウルグアイの独立を巡り、ブラジル・アルゼンチン戦争に突入した。三年間の戦争の結果、イギリスの仲介により10番目の国家、ウルグアイが誕生する。
 1844年2月、イスパニオラ東部が島部ドミニカ共和国としてハイチから独立した時点で、上記のグランコロンビアはベネズエラ、コロンビア、エクアドルの三ヵ国に、中米連邦はグァテマラ、ニカラグア、コンジュラス、コスタリカ、エルサルバドルの五ヵ国に分かれていた。だから、同国はラ米の独立国としては17番目、ということになる。
 
(6)キューバとパナマの独立
 
キューバの独立運動は事実上1868年10月からの「十年戦争(第一次独立戦争)」で始まった。これは挫折したが、1892年、ホセ・マルティが亡命先のニューヨークでキューバ革命党を結成し、「祖国Patria」と言う機関紙を発行、その上で1895年2月、第二次独立戦争に突入した。彼自身はその初期段階で戦死したが、彼の「祖国」という概念がキューバの植民地人に浸透し、激越な戦争が3年間続けられた。その最中の1898年1月、米国軍艦メイン号がハバナ港で爆破し、260名の犠牲者が出た(「メイン号事件」)ことで米国がスペインに宣戦(米西戦争)、キューバでは米軍が独立派軍とともにスペイン軍との戦闘に及んだ。ラ米18番目の独立達成は1899年1月1日だが、米国の保護国としての歪な形だった。
 
ヌエバグラナダ副王領、独立後コロンビアに組み入れられたパナマには、もともと独立機運が高かった。事実、1840年11月から翌12年まで「パナマ地峡共和国」として事実上独立していた時期もあった。コロンビアでは2年前から3年間に亘る内戦の最中だった。コロンビア復帰後も、パナマには幅広い自治権が認められた。コロンビアで中央集権化を図って制定された1886年憲法に対して、パナマの反発は強かった。だが結果的に、ラ米で19番目になる1903年11月の独立は、もろにパナマ地峡の運河建設とその権益を欲した米国の国益が絡んだ。
 



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