年表を見ながら、事件の背景と共に下記纏めてみた(解放者は赤字で表す)。
(1)独立革命の勃発(1809-10年):
1809年、つまりスペイン本国でナポレオンがスペイン王位を簒奪した1年後、現ボリビアのチュキサカ(スクレ)で自治権を求める学生らが反乱を起こし取り押さえられた。その後ラパスで、及びエクアドルのキトで、植民地人による自治政府が樹立され夫々のインテンデンテ及びアウディエンシア長官を追放する事件が起きた。この時は夫々の副王軍により自治政府は解散させられている。
1810年、2副王、2総監をカビルドが罷免した。カビルドを構成する参事は、自治権が大きく規制されたスペイン植民地では、現地人名士のいわば名誉職に過ぎず都市ごとに数人しかいない。それがいきなり社会秩序の頂点にある副王、総監罷免に出た。さすがにかなりの数の有力者を動員する「公開カビルド」で決議した。この4人の復権は無かった。ヌエバイスパニア(メキシコ)副王領では植民地人が自決を主張して立ち上がった。非常に重要なこれらの事件は、4月から9月までの短い間に相次いだ。道路は未発達、海路はまだ帆船の時代で、夫々の植民地人が相互に示し合わす時間的余裕は無い。広大且つ長大なスペイン植民地で、一斉に、ともいえる短期間で起きたことに驚く人は多い。
(2)独立革命の挫折(1813-15年)
カビルドによる副王罷免や植民地人による独立への蜂起が無かったのは、副王直轄領ではペルーだけだ。エリート植民地人にはトゥパク・アマルー二世の反乱による余韻が残っていたことが大きな理由の一つとして挙げられる。ペルー副王は有能だったようで、彼の副王軍によって自治政府はチリ(崩壊)とラプラタ(ボリビア分離)の挫折に向かった。
メキシコではエリート植民地人の動きには繋がらなかった。ベネズエラとコロンビアには1815年にスペイン本国から独立派鎮圧のための大軍が派遣された。
翌年央までに、ラプラタ(現ボリビアを除く)以外の独立運動は、一旦全て挫折する。背景として、ヨーロッパでナポレオンが失脚し、スペイン国王が復位したことを挙げておきたい。
(3)サンマルティンとボリーバルによる解放(1817-25年)
1817年2月のサンマルティンによるチリ駐留ペルー副王軍襲撃成功で、独立革命が新段階に入った。前年末よりベネズエラ南部アンゴストゥーラ(現ボリーバル市)を拠点に反撃準備に取り掛かっていたボリーバルは、1819年6月、同じような襲撃作戦で、先ずコロンビア解放を実現する。
1821年に入ると6月、ボリーバルによるベネズエラ解放、7月、サンマルティンのリマ入城とペルー独立宣言、翌22年には5月、エクアドル解放へと続く。
一方、ペルー独立宣言後も地方に展開していたペルー副王軍を押さえられずにいたサンマルティンは1822年7月、ボリーバルと会談し、結果南米独立から退場することにしていた。ペルーの解放は1824年12月、そしてボリビアのそれは翌25年3月に、ボリーバルによって実現する。逆に、ラプラタ統合の一環としてのボリビア解放、というサンマルティン構想は挫折した。
(4)メキシコ及び中米とブラジルの独立(1821-22年)
1821年8月のイトゥルビデとヌエバイスパニア副王との「コルドバ協定」により、事実上のメキシコ独立が成った。植民地人による革命闘争は夥しい流血を招いたが、実際の独立は無血革命である。独立宣言としては、中米がメキシコに先行した。メキシコ独立が副王管轄地全部に及ぶことを懸念したものだが、結果的には翌22年1月から1年半、併合されている。
ブラジルの独立は1822年9月のペドロ皇太子の事実上の独立宣言による。その意味では、ここも無血革命といえる。
こうしてブラジルとキューバを除くスペイン植民地の全てが、それまでの夫々の宗主国から独立を果たした。年代順に、パラグアイ(成立年1811年。領域面積は)、アルゼンチン(同、1816年)、チリ(同、1818年)、メキシコ及び中米連邦(同、1821年)、グランコロンビア及びブラジル(同、1822年)、ペルー(同、1824年)とボリビア(同、1825年)の9ヵ国が誕生した。
この間、スペイン植民地では植民地人が独立派と王党派に分かれて戦闘を繰り広げ、夥しい犠牲者を出した。国土も荒廃した。また、王党派から独立派への転向も多く見られた。兵卒は被支配層である。彼らを統率する頭目的な指導者、カウディーリョが輩出した。
(5)ウルグアイとドミニカ共和国の独立
1825年12月、8年前にブラジルが併合していたウルグアイの独立を巡り、ブラジル・アルゼンチン戦争に突入した。三年間の戦争の結果、イギリスの仲介により10番目の国家、ウルグアイが誕生する。
1844年2月、イスパニオラ東部が島部ドミニカ共和国としてハイチから独立した時点で、上記のグランコロンビアはベネズエラ、コロンビア、エクアドルの三ヵ国に、中米連邦はグァテマラ、ニカラグア、コンジュラス、コスタリカ、エルサルバドルの五ヵ国に分かれていた。だから、同国はラ米の独立国としては17番目、ということになる。
(6)キューバとパナマの独立
キューバの独立運動は事実上1868年10月からの「十年戦争(第一次独立戦争)」で始まった。これは挫折したが、1892年、ホセ・マルティが亡命先のニューヨークでキューバ革命党を結成し、「祖国Patria」と言う機関紙を発行、その上で1895年2月、第二次独立戦争に突入した。彼自身はその初期段階で戦死したが、彼の「祖国」という概念がキューバの植民地人に浸透し、激越な戦争が3年間続けられた。その最中の1898年1月、米国軍艦メイン号がハバナ港で爆破し、260名の犠牲者が出た(「メイン号事件」)ことで米国がスペインに宣戦(米西戦争)、キューバでは米軍が独立派軍とともにスペイン軍との戦闘に及んだ。ラ米18番目の独立達成は1899年1月1日だが、米国の保護国としての歪な形だった。
ヌエバグラナダ副王領、独立後コロンビアに組み入れられたパナマには、もともと独立機運が高かった。事実、1840年11月から翌12年まで「パナマ地峡共和国」として事実上独立していた時期もあった。コロンビアでは2年前から3年間に亘る内戦の最中だった。コロンビア復帰後も、パナマには幅広い自治権が認められた。コロンビアで中央集権化を図って制定された1886年憲法に対して、パナマの反発は強かった。だが結果的に、ラ米で19番目になる1903年11月の独立は、もろにパナマ地峡の運河建設とその権益を欲した米国の国益が絡んだ。
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