カウディーリョたち


 1   建国期のカウディーリョたち
更新日時:
H20年3月4日(火) 
通常、ラ米史上でカウディーリョの代表例として挙げられるのは、メキシコのサンタアナ、アルゼンチンのロサス、ベネズエラのパエスの3人だが、もう少し広げよう。
 
メキシコサンタアナ(*2)は、1836年2月、アラモ砦の守備兵を全滅させた将軍として米国でも有名だ。テキサスを失い、46年5月には国境問題で米軍侵攻を呼び(米墨戦争)、対米敗戦で領土の過半を米国に割譲させられる元を作った張本人として、今日のメキシコでもえらく評判は悪い。それでも、33年に初めて就いた大統領職は、55年の最終的な失脚まで、臨時、暫定を含めて9回(11回とも言われる)繰り返した。1822年12月、反イトゥルビデ帝政で蜂起、共和制移行後の節目に何度も登場する。
 
アルゼンチンロサス(*3)は1829年12月にブエノスアイレス州知事になった。3年前の25年1月、漸く成った基本法により、ラプラタ諸州連合(旧ラプラタ副王領を引き継いだ新国家)大統領不在時には、ブエノスアイレス州知事に国家元首としての職務を認める、とされていたことで、アルゼンチンを実質支配することになる。この新国家はパラグアイ、ウルグアイ、ボリビアを失った。残る現アルゼンチンすら、カウディーリョ割拠で分裂状態だったが、これを収めた。対外的にはパラグアイ封じ込めを狙ったラプラタ水系河川の航行規制により、英仏艦船の長期干渉などを招く。また、連邦大統領不在が常態化し、国家統合の未完状態が続き、反ロサス派が増殖、52年に失脚することになる。
 
ラプラタ諸州連合が最初に喪失した国がパラグアイである。1813年10月、その終身最高指導者となったのがフランシア(*1)である。連合が採ったラプラタ水域の航行規制の影響で、鎖国政策を余儀なくされた。その分国家、国民統合が進み国情は安定する。
もう一つのラプラタ国家ウルグアイでは、親ブラジルとされるリベラ(*8)と親ロサスのオリベ(*9)の両勢力の抗争が続いた。前者の勢力を「コロラド党」、後者を「ブランコ党」と呼んだ。これが2005年まで政権を担った二大政党の発祥である。
 
ボリーバルが建国したグランコロンビアから、1829年11月(宣言ベース)にはベネズエラが、翌30年5月(同)にはエクアドルが分離独立した。これを主導したのは前者がパエス(*4)、後者がやはりベネズエラ人のフロレス(*5)である。パエスはもともと強力な私兵団を配下に持ちボリーバルの独立革命推進に早くから貢献してきた。ボリーバル後のベネズエラでは最大の独立の英雄だったが、それでも47年には失脚、60年に一度復権している。フロレスはボリーバルによりキト軍政官に任命された人で、ここを任されたスクレ(ボリーバルの副官)の死後、エクアドル統治を任され、分離独立したものだ。45年まで最高権力を行使した。後日亡命先で、ラ米独立国家は君主制が相応しいと行脚したことが知られる。
 
ボリーバルの副官、スクレ(前出)の活躍で解放されたペルーボリビアにも強力なカウディーリョがいた。ここではボリビア人のサンタクルス(*6)とペルー人のガマラ(*7)を挙げる。前者はペルーの国家評議会議長としての経験を持ち、ペルーへの影響力もある。後者は1828年4月ボリビアに侵攻して終身大統領だったはずのスクレを追放、その後に前者が就いた。ところが35年10月、前者が後者を追放し、翌36年6月までに「ペルー・ボリビア連合」を宣言、これでチリとの戦争に発展し、39年1月までに敗退となり失脚、後者が復権したが、41年10月にボリビアに侵攻して敗死した。
 
以上8ヵ国の独立時の人種構成を述べると、メキシコ、ペルー、ボリビア、パラグアイは先住民が全体の過半数を占める。当時のアルゼンチン、ウルグアイでも先住民の割合は高かった。ベネズエラやエクアドルではメスティソの割合が高かったようだ。富裕な大農園主、大牧場主を中心とした武装勢力が生まれる素地があった。出自が下層でも、独立革命や内戦で軍功を挙げた人にも、十分カウディーリョになれる時代背景もあった。
独立後、住民の保護者でもあった既存の権力者が消滅し、自助努力が必要とされ、住民が武装した。これを束ねる実力者が必要とされた。何しろ広大な面積を持つ独立国で、いきなり国家最高権力者を選挙で決める政治体制に変わると、その選挙自体の公平性が証明できない中では、被選出者に対する正統性が必ず問題となってくる。主義主張の異なる人が為政者となると、それに反発する勢力が出現し、武力による政変に繋がり易い。実力、才覚に優れたカウディーリョが、国政に登場する素地も生まれる。
コロンビアでもカウディーリョ的な軍人が何人か出た。中米連邦、ドミニカ共和国にもカウディーリョは輩出した。チリは、かなり早い時期に立憲国家としての統合を進めたことから、カウディーリョの退場も非常に早かった。
 
人名表(別掲「独立革命」に登場した人名は除く)
(*1)フランシア(Jose Gaspar Rodriguez de Francia、1766-1840):パラグアイ。早い国家統合。17年間、最高権力者。鎖国政策
(*2)サンタアナ(Antonio Lopez de Santa Anna、1794-1876):メキシコ。スペイン人追放。アラモの戦い。フランス軍撃退。米墨戦争敗北
(*3)ロサス(Juan Manuel de Rosas、1793-1877):アルゼンチン。先住民追放。23年間、ブエノスアイレス州知事としてアルゼンチン支配。英仏軍艦介入
(*4)パエス(Jose Antonio Paez、1790-1873):ベネズエラ。独立革命の英雄。17年間、最高権力行使
(*5)フロレス(Juan Jose Flores、1800-64):エクアドル。ベネズエラ人でボリーバル副官の一人。15年間、最高権力行使
(*6)サンタクルス(Andres de Santa Cruz、1792-1865):ボリビア。インカ王室末裔とされる。ペルー・ボリビア連合樹立
(*7)ガマラ(Agustin Gamarra、1785-1841):ペルー。スクレ追放。後日サンタクルスと敵対
(*8)リベラ(Fructuoso Rivera、1785-1854):ウルグアイ。コロラド党
(*9)オリベ(Manuel Oribe、1792-1857):ウルグアイ。ブランコ党
 

 2   建国期の社会経済状況
更新日時:
H20年3月4日(火) 
2008年1月現在、ラ米十九ヵ国の人口は、国連による06年の推定を含め5億4,380万人、となっている。建国時はどうであったか。
 
私が2005年に訪れたマドリードのアメリカ博物館では1825年時点の人口として以下のように示していた。
  • メキシコ:   700万。白人20%、先住民54%、混血26%(2006年、国連推計で1億650万、で1825年比15倍)
  • 中米:     260万。同、12%、69%、19%(同、3,740万、15倍)
  • ボリビア:   110万。同、23%、54%、23%(06年国連推計950万、8.5倍)
  • アルゼンチン:  63万。同、44%、40%、16%(06年、同国統計局4,100万、65倍)
  • ブラジル:   400万。同22%、8%、18%、黒人52%(08年1月、同国人口時計で1億8,596万人、47倍)
  • コロンビア:  180万。同、14%、39%、41%、6%(08年1月、同国人口時計で4,406万、24倍)
  • ベネズエラ:   85万。同、24%、12%、46%。18%(08年1月、同国統計局数字で2,770万、33倍)
  • ペルー及びチリ:270万。同、19%、44%、33%、同、4%(ペルーは06年、国連推計、チリは同年自国統計局の数字で、計4,450万、16倍)
 
大著“Cambridge History of Latin America,1992”には1810/25年推計表でメキシコがブランクになっており、ブラジルを500万、としている。また、
  • 中米計123万で、上表の半数。これを基準にすると今日30倍
  • コロンビア110万、エクアドル50万。この合計が上表のコロンビアに近い。2008年段階の両国人口の合計は5,860万で、1810/25年比36倍
  • ペルー125万、今日2,790万なので、22倍
  • チリ100万、同、1,660万で、17倍
”La Poblacion en America Latina,1994”, N.S.Albornoz”による1850年の人口は
  • ウルグアイ13万。国連推計の06年330万で、25倍
  • パラグアイ35万。同610万、17倍
  • キューバ120万。同1,130万、9倍
  • ドミニカ共和国15万人。同980万、65倍
 
各方面から当時の人口を推計しているので、研究者によって数字はバラバラだが、はっきりしているのは一部を除き、現在の数十分の一程度しかいなかった点だ。1820年代の、あまりに広大、長大な領土の、あまりに人口過小な建国時ラ米諸国の経済規模を推察頂きたい。
 
大陸部で独立革命が始まった頃、キューバには世界最大の砂糖生産国ハイチから多くのサトウキビ農園主が移住、砂糖立国キューバが誕生した。発展著しい米国を消費地に、キューバの成長は目覚しく、1821年以降ハイチに併合されたサントドミンゴ、また、独立後は大陸部、さらに本国から大勢のスペイン人が移住した。このため1850年時点でラ米ではメキシコ、ブラジル、コロンビア、チリ、ボリビアに次ぐラ米第五位の人口を抱えるようになる。
 
植民地時代、メキシコペルー及びボリビアは銀の生産国として繁栄した。宗主国が得た植民地の富の殆どは、ここから出た。独立戦争で鉱山が大きな被害を蒙る。スペイン人資本家の引揚げで過小資本に陥ったことも大きい。人種的には先住民が過半数を占めた。これは中米にも言える。被支配層の彼らにとって、独立革命は支配階級をスペイン人からクリオーリョに代えるだけ、という側面が無視できない。中米の場合は経済の基本は原産のカカオを始めとする農業だ。グァテマラの農民蜂起が連邦解体に繋がっていく。
コロンビアは産金地だったが、この頃は植民地時代の前半、中米から南米北部一帯にも移植されたカカオが重要な換金商品だった。ベネズエラエクアドルも然り、である。前者は、畜産が栄え黒人やムラート(黒人系混血)が多く、後者は山岳部に繊維産業が根付き先住民及びメスティソが多かった、という経済構造的、人種構成上の側面も分離に繋がった理由だろう。
 
畜産業が基幹産業で皮革、塩漬け肉を主要換金商品とするアルゼンチンウルグアイには、いわば英語で言うカウボーイ気質の強い社会文化があった。彼らは広大なパンパに点在する。常に、ここの先住民は概ね半定住民で、牧場や農園の襲撃を繰り返した。新国家の国民意識が育つのに時間がかかった要因のひとつだろう。パラグアイは、先住民比率は高かったようだが白人との混血化が進んでいた。畜産に加えマテ茶など特産品を持っていながら鎖国を余儀なくされたものの、これで却って自給自足の教育水準の高い社会が形成できた。
 
チリは基本的に先住民を南部に追いやり、穀物などの農業生産で栄えた中部平原部にクリオーリョらが集中していた。彼らの中で国家意識は早く育ち、加えてチリより強国のペルー・ボリビア連合に勝ったことでプライドも高まる。育つのに激しい独立戦争の穀物生産植民地時代から銀鉱山が開発され、一方で中部平野部では穀物生産が盛んだった。
 

 3   スペイン系諸国の建国
更新日時:
H20年3月4日(火) 
独立革命は建国事業へと続く。それまではスペイン国王、副王、総監という絶対的権威の下で統治され、それなりに秩序が保てていたが、以後は君主制か共和制、後者の場合は中央政府に権力が集中する中央集権制か、地方分権の連邦制か、根を下ろした教会の役割をどうするか、決めねばならない。勿論、誕生した「国民」によって、である。
政治・経済路線は、フランス革命以降のヨーロッパ自由主義や、米国の政治体制を国家の基本理念とする勢力と、植民地時代から続いてきた伝統的価値観を重要視する勢力との対立があった。ラ米史では一般的に中央集権、教会特権温存を唱える勢力を「保守派」、連邦制と教会特権廃止を唱える勢力を「自由主義派」と分類しているようだ。
一部前々項と重複するが、スペイン系諸国の1820年代までの建国を以下のように分類してみた(カッコ内は旧植民地支配体制)。国内の両勢力の対立に加え、属人性の強い問題も絡み、独立国家は4副王領、4軍務総監領には収まらなかった。
 
イ) 副王罷免で立ち上がった自治政府の延長アルゼンチン(副王直轄領)
  領土から副王領からパラグアイ、ボリビア、ウルグアイが抜けた。残った現アルゼンチンも事実上の国家統合に半世紀かかった。
ロ) 自治政府不参加で別国家建設パラグアイ(インテンデンシア)
  フランシアを終身最高指導者に、イベロアメリカで以後続く独立国としては最初に発足。アルゼンチンによる制裁が、逆に、国家統合を早めた側面がある。
ハ) 副王軍を撃退
ペルー(副王直轄領)及びボリビア(アウディエンシア)。トゥパクアマルー二世の乱(1780-81、前出)などの影響でクリオーリョの独立志向は他に比べ当初希薄。最終的解放にはベネズエラ人ボリーバルスクレが貢献。建国後、相互軍事介入が繰り返され、ボリビア人サンタクルスが樹立した「ペルー・ボリビア連合」(1836-39年)が対チリ戦争での敗退を見るなど、混乱が続く。40年代央に漸く落ち着く。チリ(総監領)。サンマルティンが貢献。独立革命指導者オヒギンス失脚後一時的な混乱あったが、1833年5月、ポルタレスの尽力で保守的憲法が制定され、加えてペルー・ボリビア連合軍との戦争勝利が国家統合進展に貢献した。
ニ) 副王軍+本国からの大規模援軍を撃退:グランコロンビア(副王領)。ボリーバルサンタンデル及びパエスが貢献
1830年、ベネズエラ(総監領)、エクアドル(アウディエンシア)が分離。両国は前者がパエス、後者がフロレスによる強権で1840年代後半まで政情的には一応の安定を見る。残ったコロンビア(副王直轄領)ではサンタンデル派(後に「自由党」に発展)とボリーバル派(同、「保守党」)の抗争が続き、内乱もあったが、大統領は60年まで概ね順調に選挙で選ばれていく。
ホ) 副王と協定メキシコ(副王領)
協定を本国が認めず、クリオーリョのイトゥルビデが皇帝となったが1823年3月に挫折、共和制に変るが、テハス(テキサス)分離独立(1836)、内乱、米墨戦争(1846-48)、抗仏戦争(1862-67)と、大混乱期を経る。建国事業が本格化するのは抗仏戦争後
ヘ) 共和制移行後のメキシコから分離:中米連邦(総監領)
ホンジュラス人で自由主義者のモラサンという卓抜した指導者を持ったが、1837年よりグァテマラ(総監直轄領)、ホンジュラス(インテンデンシア、以下同)、コスタリカニカラグアが順次分離、残ったのがエルサルバドルで、夫々が主権国家として建国に入る。
ト) ブラジルより独立ウルグアイ
リベラの流れを汲む「コロラド党」とオリベの「ブランコ党」の抗争で、十九世紀央まではアルゼンチン情勢に引き摺られる形で政情混乱。1870年代初めに安定。

 4   建国期後期のカウディーリョたち
更新日時:
H20年3月4日(火) 
独立革命直後のカウディーリョ輩出で、スペイン系諸国はその強権により却って国家統合が進んだ国、彼ら同士の権力抗争により混乱に陥った国、それ以前のこととして、メキシコのように列強介入や侵攻に苦しんだ国、などと、夫々の異なった建国期が見られた。
 
ガマラ死後のペルー混乱を1844年に収め、以後62年までの最高権力者の座にあったカスティーリャ(*1)を掲げておきたい。独立革命世代の人で、ガマラ政権下では国防相だった。この頃ヨーロッパで有機肥料としてペルー国有地に飛来する海鳥の糞(グァノ)に注目が高まった。この輸出収入はそのまま国庫に入る。財政が落ち着き、且つ南米最初の鉄道建設を含め、国土開発に漸く本腰を入れられるようになったのが国情安定に寄与した。
 
パラグアイフランシアが死去した1840年に最高権力者となったのがカルロス・ロペス(*2)である。独立国家として大統領制導入は不可欠、憲法も同様、との判断で、44年に独立後初めて憲法を制定、自らが大統領に就任、且つ、開国へと国策転換を図った。これがアルゼンチン内外の反ロサス運動を後押しすることに繋がる。ロサスが維持するラプラタ水系の航行規制は、パラグアイのみならず水系沿岸諸州も不満を募らせていた。1852年2月の「カセレスの戦い」で反ロサス諸州軍を指揮したのが、その一つエントレリオス州知事だったウルキサ(*3)である。翌年5月、2008年現在も有効な「1853年憲法」を制定したが、ロサス追放後のブエノスアイレス州をも含めた最終的な国家統合は1862年のミトレ大統領就任までかかった。この年、カルロス・ロペスは死去する。彼の息、ソラノ・ロペス(*4)が後を継いだ。パラグアイを国家的破局に追い込んだ「パラグアイ戦争」(1864-70年)責任者である。だが同国では、後世、英雄の一人として敬われる。
 
エクアドルフロレスは、1860年に再登場する。ガルシア・モレノ(*5)という、有名な保守主義者が蜂起した時の反乱軍を指揮するため帰国した。ガルシア・モレノはローマ法王庁との協約を結び教会特権を復活させるなど、この当時としては逆行気味の保守政策で知られる。75年に暗殺されるが、エクアドルの政治的保守主義は世紀末まで続いた。ベネズエラパエスは連邦戦争(1859-63年)と呼ばれる内戦で復権を果たした。だが、戦後失脚した。同国が安定するのは1870年にグスマン・ブランコ(*6)が権力を掌握した後のことだ。こちらの方は以後自由主義が根付くことになる。
 
メキシコはサンタアナ失脚後、フアレスを指導者とする自由主義勢力が「レフォルマ戦争」(1858-60年)、「抗仏戦争」(1862-67年)を戦い抜き、漸く建国事業に入れるようになった。最初の鉄道開通が1873年、とラ米では非常に遅かった。ここで登場したのが抗仏戦争の英雄、ディアス(*7)である。1876年にフアレス死後の大統領を追放するクーデターで政権を掌握、以後35年間もの超長期に亘って、メキシコの最高権力者として君臨した。この間国情は落ち着き、社会基盤整備が進み、米国資本が押し寄せ、経済発展期に入った。
 
(*1)カスティーリャ(Ramon Castilla y Marquesado、1797-1967):ペルー。独立戦争に参戦。事実上18年間の最高権力者。グァノ時代。南米最初の鉄道
(*2)カルロス・ロペス(Carlos Antonio Lopez、1790-1862):パラグアイ。22年間の最高権力者。大統領制導入。開国
(*3)ウルキサ(Justo Jose de Urquisa、1801-70):アルゼンチン。ロサス追放。1853年憲法。ブエノスアイレス州を除く諸州を統合。1861年ミトレにより失脚
(*4)ソラノ・ロペス(Francisco Solano Lopez、1827-70):パラグアイ。ラ米史上初めて親子間最高権力引き継ぎ。パラグアイ戦争
(*5)ガルシア・モレノ(Gabriel Garcia Moreno、1821-1875):エクアドル保守政治開始。クーデターで政権掌握。15年間、最高権力行使
(*6)グスマン・ブランコ(Antonio Guzman Blanco、1829-99):ベネズエラ自由主義確立。18年間の最高権力者。退陣後も政治路線は継続
(*7)ディアス(Porfirio Diaz、1830-1915)、メキシコで1876年より35年間、最高権力者。国情安定と経済発展をもたらした功労者、との評価もある。



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