ラテンアメリカ略史


 1   植民地時代
更新日時:
2008/05/07 
 1492年10月のコロンブス(*1)による新世界発見の後、1494年、スペインとポルトガルがローマ法王アレクサンデル六世の裁定で、アフリカ大陸沖西370レグア(約2千キロ)の子午線をもって両国の境界線となす、とする「トルデシリャス条約」が結ばれた。国家体制が整っていない場所は両国が支配できるとする、いわば世界分割条約だ。アマゾン川河口とブラジルのマラニャン州サンルイスの中間点からサンパウロ南東にあるサントス辺りを結ぶ南北の線が、いわばトルデシリャス線となるようだ。そのブラジルは、1500年にカブラル(*2)によって発見されたが、独壇場となっていたアジア交易の方を重要視していたポルトガル王室の関心は、長い間低かった。
 
 スペインの植民地支配は、スペインのイダルゴ(hidalgo)と呼ばれる郷士階級の人たちを中心として、先住民社会を征服することから始まった。彼らをコンキスタドル(征服者)と呼ぶ。
 1502年に最初の植民地イスパニオラ島のサントドミンゴ初代総督が着任したが、この時から「エンコミエンダ制」が設けられた。特定の地域と先住民を割り当て、税を取り立てる制度で、割り当てを受けたコンキスタドルをエンコメンデロと呼ぶ。彼らも独自に土地を確保し、牛馬や他の家畜、穀物の苗などを本国より持ち込み、その生産や飼育に、もともとの食料生産に携わっている先住民を動員した。エンコメンデロやその一族郎党は実際には総督の居る都市に住み、その都市建設にも先住民を使役した。先住民に対するキリスト教の伝道を目的とする宣教師も渡来した。1511年、サントドミンゴに司法と行政を担うアウディエンシア(聴訴院)が設けられ、統治体制も整い始めた。征服地も拡大していく。
 1522年8月までにキューバからの遠征隊を率いたコルテス(*3)が、メキシコのアステカ王国を征服した。これに前後して中米一帯の征服も行われる。1533年11月までにパナマからの遠征隊を率いたピサロ(*4)が、インカ帝国を征服する。南米の他地域の征服も進んだ。
 1535年11月、メキシコ市(コルテスがアステカ王都テノチティトゥランの地に建設)に副王が着任した。高位の貴族である。1544年3月にはリマ(傀儡ながら皇帝がいたインカ帝都のクスコを離れ、太平洋岸に建設した)にも別の副王が着任した。アウディエンシアもメキシコ市やリマ、さらに征服が進展していくにつれ各地に置かれるようになる。1560年にはグァテマラとボゴタに軍務総監が派遣された。こうして、スペイン植民地は副王が夫々の地域を管掌し、軍務総監が分掌し、アウディエンシアが行政を担い、都市ごとに総督を置く体制が確立する。交易で換金できる商品は、原産のカカオやタバコ、染料などだったが、1545年に現ボリビアのポトシ、翌年メキシコのサカテカスに大銀山が発見され、以後ヨーロッパの貨幣経済自体に革命的影響を及ぼしたとされる大量の銀が、スペイン植民地から運ばれるようになる。現コロンビアのマグダレナ川上流域でも金を産出した。移民も増えた。 鉱山、農園、商業、手工業などを営み、政庁に登用されるようにもなっていく。エンコメンデロ家は何世代かで資格を喪失するが、名家として大農園(アシエンダ)や鉱山を営み、カビルド(市会)の参事として影響力を維持する人もいた。
 
 ポルトガル王室は、1536年までにブラジルを大西洋岸に沿って15分割し、夫々の内陸部開発の特許を、特定の貴族らに、司法権、徴税権、土地分与権付きで与える、スペイン植民地と異なる「カピタニア制」を導入し、植民地経営を彼らに委ねる形を採った。1549年、東北部のサルヴァドルに初めて総督が派遣される。当初はブラジルという染料の木材を伐採し、またサトウキビの苗をアフリカから持ち込んで栽培、精製し換金商品とした。労働力には、スペイン植民地同様、当初先住民を充てた。彼らは狩猟採集型で、スペイン植民地のようなエンコミエンダ制は成立しない。酷い話だが、だから奴隷化した。
 砂糖生産が増大する一方で先住民が減少したことから、労働力確保のため、エントラダ(公営)バンデイラ(民間)奥地探検を進めた。それでも不足したので、ポルトガルが支配していたギネアやアンゴラなどアフリカ西岸部から、アフリカ人(黒人)奴隷を導入するようになる。
 
 1580年から60年間、ポルトガル国王はスペイン国王が兼ねるようになった。スペイン植民地の先住民人口は急減していた。マドリードの国立アメリカ博物館は、1570年時点での先住民人口を850万人と見る。500-600万人、いやもっと少ない、と見方は様々だ。その後も半世紀に亘って減り続けた。先住民減少に伴い黒人奴隷を輸入していたが、1595年にポルトガル商人にアシエントと呼ばれる奴隷輸入許可が付与されてから急増した。1607年になって漸く、スペイン植民地のアウディエンシアに相当するレラサンがサルヴァドルに設置される。
 この間、トルデシリャス条約なぞまるで埒外になっていく。イギリスが北米東岸で植民を開始した。オランダは十六世紀初頭よりスペインの支配下にあったが十六世紀末に独立を宣言、十七世紀になるとスペインの実効支配が及ばなくなっていた。一方でブラジルの砂糖産業はオランダ商人の手で捌かれる部分が大きかった。1621年オランダが西インド会社を設立、ブラジル東北部への侵攻を繰り返し、1630年からペルナンブコなどを占領した。スペイン植民地にもオランダの西インド会社が銀を積んだスペイン商船隊を奪取するなど襲撃を続け、またカリブ諸島に植民地を築き始めた。イギリス、フランスもカリブ諸島植民化に乗り出す。その後ポルトガルもスペインから独立した。
 スペインの凋落に合わせて銀生産は落ち込み、カカオなどの交易量も減った。1665年までに、カリブ諸島でスペインの支配地はキューバとイスパニオラ島東部、及びプエルトリコだけになっていた。また、ブラジルのエントラダやバンデイラが、スペイン人の実効支配が及んでいない地域に入り込み、アンデス東麓まで踏破した。
 
 スペイン王室は、十七世紀後半、アシエントをオランダ、イギリス、フランスの商人にも与えるようになり、1700年、国王がフランス王家から来て、ブルボン朝に代わった。十九世紀初頭までのアフリカからの輸入奴隷数は80万人にはなったようだ。ヨーロッパにおける英仏対立が植民地統治上の影響を及ぼすようになるが、銀生産は回復し、従来に比べ交易港が植民地、本国とも増やされ、十八世紀末には敵国以外の諸国との直接貿易も認められるようになる。
 一方、ポルトガルはイギリスとの友好関係を深めていた。砂糖産業はカリブ諸島との競合で価格下落が続きブラジル経済を脅かしていたが、1693年にミナスジェライスで大規模金鉱が発見されると回復する。以後ポルトガルから、ブラジル東北部から、奴隷を含めた大勢の人たちが流入してきた。周囲には農園や牧場が発達していく。1729年、ミナスでダイアモンド鉱山も発見された。十八世後半に入ると北米植民を失ったイギリスに向け、綿花輸出も本格化する。アフリカからの奴隷輸入は増え、十八世紀末までで200万人にものぼった。
 
人名表
(*1)コロンブス(Cristobal Colon、1451-1506)、1492年の新大陸発見後、四回に亘って探検航海
(*2)カブラル(Pedro Alvares Cabral、1467-1520)、ポルトガルのアジア航路船団長。1500年、ブラジル発見
(*3)コルテス(Hernan Cortes、1485-1547)、1522年、アステカ王国征服
(*4)ピサロ(Francisco Pizarro、1475-1541)、1533年、インカ帝国征服
 
*十八世紀後半から十九世紀初頭までは「ラテンアメリカの独立革命」2.独立革命前夜参照

 2   ラ米形成期(1809-1870)
更新日時:
2008/06/05 
 1809年から25年までの独立革命期(1)と続く70年までの建国期(2)について概観する。(1)に関連し、激越な革命戦争や解放者たちの活躍ぶりは、外人だろうがラ米に携わる人たちは、それも担当する国のみならずラ米全体について、学んでおくべきだろう。その概要は、独立前夜を含め、「ラテンアメリカの独立革命」で別掲し、ここでは省略する。(2)では国家分裂を含め、カウディーリョと呼ばれる豪腕実力者たちが割拠した内戦と内乱の時代だが、国によって動きはマチマチだ。別掲の「カウディーリョたち」を併読願いたい。
 
 1809年に現在のボリビアとエクアドルで始まった独立運動は、翌10年には現ベネズエラ、アルゼンチン、コロンビア、チリでの副王、軍務総監罷免やメキシコでの大衆蜂起に発展し、挫折を経つつ1822年までに現ペルー、ボリビア、キューバを除くラ米全域が、スペイン及びポルトガルからの独立を達成した。独立の先輩である米国のモンロー大統領が、列強によるアメリカ独立国への非介入を訴える「モンロー宣言」を出したのは翌23年12月である。この時点では、どこも旧宗主国からの承認は得ておらず、ラ米新興諸国にとって同宣言の意義は大きかった。25年までにペルーとボリビアも独立した。旧宗主国に残る植民地は、キューバだけとなった。
 
 チャベス現ベネズエラ大統領が最も尊敬する南米の解放者、ボリーバルは、1826年6月、彼が大統領を務めるグランコロンビアのパナマで、ラ米独立国会議を開催した。集合したのは開催国以外ではメキシコと中米連邦、及びペルーの4ヵ国である。ここで決議されたのは夫々の国家主権の承認や上記モンロー宣言などにとどまり、彼が目標とした複数国による強力な連合国家つくりで先ず挫折した。
 このパナマ会議の直前、ブラジル・アルゼンチン戦争(1826-28。ウルグアイ建国を斡旋したイギリスの仲介で終戦。これを含め、緑字で表記するラ米の戦争・内戦については別掲の「ラ米の対外・域内戦争」参照)が勃発する。戦争当事国のブラジルとアルゼンチンは会議参加どころではない。そもそもラ米統合など、この頃の為政者の念頭には無かった。ボリーバルの名前を冠したボリビアも、パラグアイ及びチリも欠席した。
 ボリーバルは、1830年のグランコロンビア解体すらも止められず、死亡する直前に、ラ米を治めるのは海を鋤と鍬で耕すようなもの(統治不能)、と嘆いたことが伝えられる。1838-40年、「中米の父」として今も敬愛されるモラサン(*2。生国はホンジュラス)が心血を注いだ中米連邦も5ヵ国に解体した。解体はせずとも、旧スペイン植民地諸国でカウディーリョ同士の権力抗争が続いた。背景に米国をモデルとした選挙制度が十分機能せず、権力者の正統性が反対派にとり提起しやすかった点がある。自由主義と保守主義の国家路線を巡る対立が拍車をかけた。建国期、ラ米諸国の経済基盤だった鉱山も農業も、生産は落ち込んでいた。国税の大半は貿易関税だったこの当時、どこも財政難に苦しんだ。ポルトガル王国の皇太子が建国した帝政ブラジルには正統性の問題はなかったが、摂政政治時代(1831-40年)には各地で反乱が起きた。
 
 チリは、アルゼンチンとは別国家の道を選んだパラグアイに次いで、例外的に国家統合が早かった。ポルタレス(*1)という保守的な政治家が出現し、92年間に亘って効力を持つことになる「1833年憲法」を作り、国内固めを進めた。国力に勝る「ペルー・ボリビア連合(1836年に発足)との連合戦争(1837-39)を制し、これが国民意識を高めた。その後南進し、先住民追い払いで実効支配権拡大に繋げた。後にドイツ人移民が押し寄せた。敗戦で解体したペルーとボリビアは内乱期を経たものの、それでも強力なカウディーリョがそれを収め、十九世紀前半に国家安定を迎えている。
 中米諸国ではニカラグアが建国以来保守、自由両派の抗争が続いたが、他は保守派支配下で概ね安定していた。ニカラグア保守派と中米4ヵ国が共同して進めたウォーカー戦争(1856-57。国民戦争とも呼ばれる)での戦勝で、保守派政権による安定期は70年初頭(ニカラグアは93年)まで続いた。
 ベネズエラとエクアドルはグランコロンビアからの分離を断行したカウディーリョによる支配下で一定の安定期を経たが、彼らの失脚後に内乱期を見た。安定までには、後者は1861年、前者は70年までかかっている。コロンビアでは連邦派と中央集権派の抗争が続き内乱も頻発した。だが、他2国と異なり武力による政権転覆(クーデター)は少ない。パラグアイとボリビアが参加しない連邦国家アルゼンチンはウルグアイを失った後、カウディーリョ割拠時代及び現在も有効な「1853年憲法」制定を経て国家統合を達成したのが1862年のことだ。
 
 独立後、最も不幸だったのがメキシコだろう。独立後、スペイン、フランス、及びイギリス各国の海軍上陸が繰り広げられた。1840年代、米国で「マニフェスト・デスティニー」が叫ばれるようになり、米墨戦争(1846-48)敗戦で領土の半分以上を米国に譲渡させられる。54年からの自由主義勢力による「レフォルマ(改革)運動」の結果制定された「1857年憲法」が保守派勢力とのレフォルマ戦争(1858-60)に繋がり、さらにこれが62年からのフランス軍侵攻とハプスブルグ帝政(1864-67)で抗仏戦争を余儀なくされた。建国事業が漸く本格化できたのは皇帝のマクシミリアン(*4)を処刑した67年になってからだ。この間、先住民のフアレス(*3)が自由主義勢力を一貫して率いた。
 パラグアイ戦争(1864-70)が起きたのは、こんな時だった。直接の原因だったウルグアイのカウディーリョ同士の抗争時代は、この戦争を切っ掛けに終った。独立後半世紀以上に亘り、僅か3人のカウディーリョによる強権支配で安定していたパラグアイには、人口の半分を失う破局をもたらした。
 
 この頃になると、ラ米諸国も落ち着いてきた。貿易が増え財政状態も好転した。鉄道について述べる。十九世紀後半は、国内治安回復と産業革命が進む欧米先進国からの需要増で、資源開発が進んでいくようになるが、これには輸送の大量・高速化を伴った。1851年のペルーを皮切りに、各国で鉄道建設が行われる。貿易量の増加で港湾や都市機能も整備される。ラ米諸国が国家路線として全般的に自由主義を確立していくようになった。
 
人名表(ボリーバル「ラテンアメリカの独立革命」参照)
 
(*1)ポルタレス(Diego Portales、1793-1837)、チリ。1833年憲法。国家統合の功労者
(*2)モラサン(Francisco Morazan、1792-1842、生国はホンジュラス)、中米連邦維持に尽力
(*3)フアレス(Benito Pablo Juarez Garcia、1806-72)、メキシコ1857年憲法。レフォルマ戦争、抗仏戦争
(*4) マクシミリアン(Maximiliano I、1832-67)、メキシコ、ハプスブルグ帝政

 3   ラ米確立期(1870-1910)
更新日時:
2008/06/05 
十九世紀末、ラ米は産業革命の成熟期を迎えていた工業先進国が必要とする鉱業資源及び食糧の供給と工業製品の市場として、彼らの注目を集めた。資源輸出と製品輸入の貿易構造が確立されると、資本力のある先進国は当然、その資源に対する開発投資を進めることになる。前提だったのが、政治と国内治安の安定、及び、自由主義経済体制だ。
政治面で自由主義時代に入っていたメキシコで1873年、最初の鉄道が開通した。ラ米では遅れていた方だ。76年から以後35年間も続くディアス(*1)政権時代、彼の強権による国情安定と地方部の治安維持で欧米の資本進出が始まった。鉄道延伸により地方部の開発が進み、工業国向けの非鉄生産が伸びた。中米諸国も十九世紀前半から始まったコーヒーの生産が欧米の需要増により著しく伸び、70年代、保守派政権下にあったニカラグアを含め、経済体制は自由主義を採りいれていた。
1880年、保守・自由両党間抗争が続いてきたコロンビアでヌニェス(*2)政権が発足、以後半世紀間に亘る保守党政権時代を迎えた。86年、彼の政権下で四度目の国名、現在の「コロンビア共和国」に変わっている。しかし、経済政策は自由主義だった。隣国のベネズエラは70年以降本人死後の二十世紀初頭まで、グスマン・ブランコ自由主義時代にあった。
パラグアイ戦争の勝者、アルゼンチンとウルグアイには、特にイギリスが鉄道、電力、通信、貿易、金融、及び冷凍肉分野で積極的投資に打って出た。奥地開発が進み、両国にはヨーロッパ人が大量移住して来た。パンパ(大草原)は、工業用原料としての羊毛と皮革産地のほか、北米の大草原(プレーリー)同様、大穀倉地帯としての潜在性がヨーロッパでも脚光を浴びた。アルゼンチンでは、内陸部の治安回復のため、として、ロカ(*3)将軍に率いられる国軍を投入し、1879-80年、パンパからの先住民追討作戦が展開された。「荒野の征服」と呼ばれる。彼は英雄となり、二度にわたり、計12年間、大統領を務めている。アルゼンチンがラ米域内の強国になったのはこれ以降、といえる。もう一つの勝者、ブラジルにヨーロッパ移民が殺到するようになるのは、1889年11月、フォンセカ(*4)元帥による無血革命で、漸く共和制に移行した後だ。この頃サンパウロを中心とするコーヒーの興隆期にあり雇用機会は多かった。これで、ラ米全域が共和国となった。
チリが再びペルーとボリビアを相手に、太平洋戦争(1879-84)を起こし勝利し、それまでペルー、ボリビア領内だった硝石資源産地を自国領土に組み入れた。硝石は、火薬と肥料の原料として先進国からの需要が急増していた。チリの経済発展は、硝石に負うところが大きい。敗戦国ボリビアは太平洋への出口を失い内陸国になり、計り知れない経済的打撃を蒙った。
 
十九世紀末までに、ラ米諸国は全て、自由主義経済体制を確立していた。これは欧米先進国経済の周縁化を意味し、後に喧伝されるラ米経済の従属論の拠り所となる。
 
ラ米における唯一の植民地となったキューバは、十九世紀に入って独立後のハイチで壊滅状態に陥った砂糖産業を引継ぎ、米国の旺盛な需要に支えられ経済繁栄期にあった。1837年、ラ米では飛び抜けて早く鉄道も敷設されていたが、その独立は第一次独立戦争(1868-78)、第二次独立戦争(1895-98)、そして米西戦争(1898年)を経て1899年1月、米国の保護下で漸く実現する。ラ米にスペイン植民地は無くなった。
コロンビアの1880年からの保守党政権下では、何度か繰り返された反政府武力闘争でも政権奪還はならなかった。ただ1899年のそれはいわゆる千日戦争に発展する大規模なものだった。和解が成ったあとの1903年11月、パナマが分離独立した。背景にあったのが、パナマ運河権益を狙う米国の思惑だった。ここにも米国の陰が透けて見える。パナマの独立で、ラ米の現十九ヵ国が確立した。
 
米墨戦争後半世紀に亘って対ラ米関係で平穏を保っていた米国に対するラ米の警戒が再燃したのは、1898年の米西戦争、と言われる。米西戦争に参戦し英雄となりその後米国大統領に上り詰めたセオドア・ルーズベルトは、ラ米では「モンロー主義系論」と呼ばれるいわゆる「棍棒政策」で悪名高い。二十世紀初頭、米国は下記のような対ラ米介入を行った。
  • キューバ:1902年、共和国としてスタートしたが、「プラッツ修正条項」という米国のキューバ外交介入権を定めた憲法を条件とした。米西戦争以来駐留していた米軍は撤収したが、ほどなく米国はグァンタナモ市海軍基地の永久租借権を獲得している。また、06年から3年間にわたり、国情不安を理由に米軍が介入し、再び米国による統治をみている。
  • パナマ:パナマの分離独立宣言から2週間後、米国は「ヘイ・ブラウバリリャ条約」という運河権益に関るパナマとの二国間条約を締結した。全長80キロ、運河を挟んで8キロずつ(計16キロ)を租借した上で運河を建設する米国にその運営権を与えるものだ。翌04年には建設に着工している(運河開通は14年8月)。国防は米軍に委ねる、として、国軍を創設しなかった。
  • ドミニカ共和国:1907年、米国の管理官が関税収入の振り分けを決め、実行させる、いわゆる関税管理権を獲得した。当時ラ米のどこでも国家歳入の大半は関税に依存していたわけで、中央政府には打撃となるが、対外債務履行を巡り緊張していた欧米諸国との関係修復の一助だった。同国も事実上の保護国になった。
前後するが、1899年、有名な米国企業「ユナイティッドフルーツ社(UFCO)」が設立され、二十世紀に入ると中米各国でバナナ生産と鉄道の権益を獲得し、それまでの主力産品だったコーヒー、カカオをバナナが輸出高で凌ぐ、いわゆる「バナナ・リパブリック」時代を到来させた。
米国企業はまた、メキシコでは鉱山及び石油開発を本格化させた。キューバにも砂糖産業を含む多方面の経済分野、及びインフラ事業にも進出した。だが、二十世紀初頭までのラ米への投資活動は、ペルーとチリの銅山開発などを除くと、メキシコ及び中米、カリブ地域に偏在していた。インフラ部門を含むラ米の食料・工業資源への開発投資は、全体としてイギリスが突出し、米国は大きく差をつけられ、フランスとニ、三位を争う程度だった。ドイツ企業も活発だった。
 
人名表
 
(*1)ディアス(Porfirio Diaz、1830-1915)、メキシコ。35年間の強権で国家安定
(*2)ヌニェス(Rafael Nunez、1825‐94)、コロンビア共和国成立。半世紀の保守党政権確立
(*3)ロカ(Julio Argentino Roca、1843-1914)、アルゼンチン。「砂漠の征服」で国家発展
(*4)フォンセカ(Manuel Deodora da Fonseca、1827-92)、ブラジル。共和制移行を実現

 4   大恐慌前夜(1910-29)
更新日時:
2008/06/05 
本項が対象とする期間は第一次世界大戦を挟む僅か20年間である。二十世紀到来時、ラ米諸国は経済社会構造が大きく変っていた。先ず、鉄道建設が進み輸出用原料(金属、硝石、綿花、羊毛、皮革、ゴムなど)と食料(穀物、食肉、砂糖、コーヒー、カカオ、青果物など)の生産地が拡大し、生産も急増した。海運も大量・高速化しており、港湾、通信他のインフラ整備が進み、貿易に不可欠の銀行、保険業務も拡大していた。以上全てが都市中間層と労働者層の急増に繋がっている。政治体制は、殆どの国が寡頭支配(オリガキー)時代にあり、自由主義経済を基本とした政策運営が行われた。
一方で、メキシコ革命(別掲の「ラ米の革命」参照)が起きている。注目したいのは、農民と労働者層が革命に大挙して参加する、いわば大衆革命に発展した点である。大規模な労働争議は域内先進地域とされた南米南部諸国で頻発したが、UFCOなどの労働者を含め、中米やコロンビアでも起きていた。メキシコ革命に前後したロシア革命の思想であるマルクス主義は世界中に広がったが、ラ米諸国でも各国に共産党が設立され、労働運動にも深く関ることになる。さらに、オリガキーに反発する都市中間層や軍部の若手将校らの台頭で政情不安化する国も出てきた。内乱の危機を理由にニカラグア、ドミニカ共和国(及びハイチ)に米軍が進駐したが、ここでは反米ゲリラが出現している。
ただ暗い時期だったか、と言えば、大戦の戦場にならなかったラ米諸国は、米国経済の急速な成長を背景に、おしなべて繁栄の時代だった。人口も増えた。
 
第一次世界大戦が勃発したのは、パナマ運河開通直前のタイミングである1914年7月のことだ。米国が大戦に参戦したのは17年4月だが、それ以前からカリブ海域がドイツの影響下にはいることを警戒した。下記のような米国のラ米に対する介入事件は、その流れで見たい。
  • ニカラグア:1911年、ドミニカ共和国に続いて関税管理権を獲得し、翌12年から25年まで、及び26年から33年まで二度に亘り米軍を駐留させた。
  • ドミニカ共和国:1914年、米海兵隊が内乱鎮圧のため、として上陸した。16年から8年間、米軍が同国を占領する。なお隣国ハイチも15年から34年まで米軍に占領されている。
  • メキシコ:メキシコ革命最中の1914年5月、米軍が1年半に亘ってベラクルス占領。ドイツからの武器輸入を監視するためだったという。また、16年3月から10ヵ月間、米国領内で無法行為を行ったメキシコ人追跡を理由に米陸軍が越境展開した。
  • キューバ:1917年から5年間、米国は、グァンタナモ基地とは別に駐留軍を派遣する。
 
 1917年2月、メキシコ革命指導者、カランサ(*1)は、労働基本権、未使用土地の国家による再分配義務、教会活動の規制と外人の地下資源保有禁止を盛った、当時では斬新な「1917年憲法」を公布した。最後の項目は、メキシコ石油開発に乗り出していた英米の石油メジャーにとって致命的で、両国の断交に発展する。やはり革命の英雄であるオブレゴン(*2)が20年に彼を追放した。対米修復は喫緊の課題と考えていたが憲法自体は残る。23年、憲法公布前に確立していた資源に対する外人権益への不適用を取り決め、これで対米修復が成った。
 1914年、ベネズエラのマラカイボで大油田が発見されていた。08年にクーデターで実権を握ったビセンテ・ゴメス(*3)は、対米協調を政策の基本とした。クーデターを起こしたのも、時の大統領の欧米敵対言動に危惧を抱いたためという。メキシコ革命後、新たな行き場を探していた石油メジャーが殺到し、ベネズエラは世界有数の産油国となる。最後のカウディーリョと言われる彼の強権時代、この国は政変とは無縁だった。
 この頃になるとラ米各地では労働運動に加えて、大学で社会改革を叫ぶ学生運動も頻発した。革命気分が横溢する24年のメキシコでAPRAを立ち上げたペルーのアヤデラトーレ(本項から次々項までは著名ポプリスタを赤字で表記)はその代表的指導者だった。ベネズエラのベタンクールもAPRAに深く共鳴した学生運動家である。いずれも長期強権下の自国から追放されラ米の他国に亡命していた(「ラ米のポピュリズム」を参照願いたい)。
 
 ヨーロッパ人移民で十九世紀末からの人口急増を見ていた南米南部に目を移すと、先ずウルグアイでバッジェ(*4)が、自らの大統領任期中のみならず、この国を一気に世界に冠たる福祉国家に変えるために尽力していた。1915年の8時間労働の法制化はメキシコの1917年憲法に先行した。労働運動の高まりに機先を制した格好だ。大統領権限を外交、防衛、治安に限定し、他の国事は行政委員会に一任する、「複数行政制度」導入(1917年)に奔走したことでも知られる。
 1916年10月、アルゼンチンでイリゴージェン(*5)急進党(現在も主要政党)政権が誕生した。オリガキーから離れた都市中間層を基盤とする、初めての政権だ。労働立法を進め、さらに、大学の自主権を認める18年の大学改革令を出したことでも知られる。後者は他国の学生運動の高揚を呼び、上記アヤデラト−レ(ペルー)やベタンクール(ベネズエラ)らを輩出した。22年、ラ米では最も早く国営石油会社を設立、同国最大油田での操業を独占させる資源ナショナリズムの政策を実現した。
 ブラジルでは、1889年の共和制発足後、ほぼ一貫してサンパウロ州かミナスジェライス州の推す大統領による政権が続いた。夫々コーヒー産地と畜産で知られていたため、「ミルクコーヒー(Cafe com leite)体制」と揶揄される。ブラジルは第一次世界大戦に参戦したラ米唯一の国で、軍部若手将校らのプライドは高くオリガキーへの反感は高まっていた。1922年7月、コパカバナ要塞の守備隊長自ら要塞を占拠した事件を皮切りに、各地の駐屯地で反乱が起きた。殆ど短期間で収束したが、24年10月に蜂起したリオグランデドスル諸部隊は25年から27年までに亘り、内陸部でのゲリラ闘争を展開した。これを率いた将校は、後日、ブラジル共産党指導者になっている。
 
チリには上記3ヵ国のような移民による人口急増は見ていない。太平洋戦争で硝石産地を新たな領土に加え潤った同国だが、1891年に議会の乱が起き、行政府の権限が弱体化していた。それでもヨーロッパの権利思想が根付き、労働争議も頻発した。1920年12月、チリにも都市中間層を支持基盤とするアレッサンドリ(*6)政権が発足した。25年10月、労働権を盛り、合わせて行政権の回復を図った「1925年憲法」制定で知られる。社会改革が議会勢力に阻まれ進展しない状況が続き、憲法制定までには24年の反オリガキー感情の強い軍部若手将校によるクーデターを経る。
反オリガキーを標榜する政変は、1920年にはボリビアで、25年にはエクアドルでも起きた。後者ではチリ同様、若手将校が参加している。
 
人名表(本項で赤字表示のポプリスタは別掲「ラ米のポピュリズム」参照)
 
(*1)カランサ(Venustiano Carranza、1859-1920)、メキシコ。革命を起こしたマデロが暗殺された後の革命指導者。大統領(1914-20、臨時政権時代を含む)。1917年憲法。
(*2)オブレゴン(Alvaro Obregon、1880-1928)、メキシコ革命の英雄。大統領(1920-24)
(*3)ビセンテ・ゴメス(Juan Vicente Gomez、1857-1935)、ベネズエラ最高権力者(1908-35)
(*4)バッジェ(Jose Batlle y Ordonez、1856-1929)、ウルグアイ。大統領(1903-07、11-15)。福祉国家建設。複数行政制度
(*5)イリゴージェン(Hipolito Yrigoyen、1852-1933)、アルゼンチン急進党政権開始。大学改革令。大統領(1916-22、28-30)
(*6)アレッサンドリ(Arturo Alessandri、1868-1950)、チリ。1925年憲法制定。大統領(1920-25、32-38)
 

 5   ポプリスタたちの時代(1930-50)
更新日時:
2008/07/04 
1929年10月、ニューヨーク証券市場が暴落し世界恐慌(大恐慌)が始まった。大恐慌は国際相場商品でもある金属及び食料資源の輸出に頼るラ米諸国には大打撃だった。ポプリスタ(赤字で表記。別掲「ラ米のポピュリズム」を参照)が国政に登場するのは、これ以降である。1930、31年だけでラ米諸国の半数にあたる下記9ヵ国で事実上の軍事クーデターが起きた(別掲「ラ米の軍部―軍政時代を経て」の「軍政時代以前の軍政」参照)。
 
  • 30年2月、ドミニカ共和国:政権を掌握した国家警備隊司令官のトルヒーヨ(*1)は、以後暗殺されるまでの31年間に亘り、同国の最高権力者として強権を行使した。
  • 同6月、ボリビア:短期軍政後、一旦民政復帰するが、32年6月、「チャコ戦争」に突入、事実上の敗戦で、国政は軍部右派、左派間抗争と相まって流動化する。
  • 同8月、ペルー:短期軍政中にアヤデラトーレが帰国、アプラ党を立ち上げ大統領選出馬し敗退。アプラ党過激派が勝者の軍人大統領を33年に暗殺、軍部とアプラ党と永年の敵対関係始まる。
  • 同9月、アルゼンチン:短期軍政後、寡頭勢力を交えたいわゆる「協調政府」時代に入る。
  • 同10月、ブラジル:大統領選でミルクコーヒー体制候補に敗退したヴァルガスの出身地リオグランデドスル州駐屯地の若手将校が彼を担いで蜂起。いわゆる「ヴァルガス革命」。彼は37年11月の「新国家」宣言などの強権で、15年間政権を担う。
  • 同12月、グァテマラ:クーデター後、ウビコ(*2)将軍が議会により大統領に選出され、以後13年半、最高権力を行使
  • 31年1月、パナマ(国軍は無く、警察が治安維持担当):指導者アリアス(*3)はナショナリズムが強く、以後、パナマ政治の節目に登場する。
  • 31年8月、エクアドル:短期軍政後、34年9月、初めて大統領になったベラスコ・イバラを含め、短期間に政権交代を繰り返す政治流動化が進行
  • 同12月、エルサルバドル:エルナンデス(*4)将軍が以後13年に亘り最高権力を行使。1万人以上の犠牲者を出した大暴動の弾圧で知られる。
 
クーデターは無かったコロンビアでは1930年8月に半世紀ぶりの与野党交替が実現、以後46年までの自由党政権時代を迎えた。チリでも31年7月、時の大統領が社会不安を抑えきれず亡命、1年半の政情混乱期をみた。ホンジュラスでは、国民党指導者、カリアス(*5)将軍が、33年2月より16年弱、連続で政権を担うことになる。ウルグアイでは、33年3月、時の大統領が憲法停止、議会解散を断行(「アウトゴルペ」と言う)、翌34年5月、複数行政制度(17年にバッジェが導入)を廃止したが、独裁には至らず、18年後にはもう複数行政制度をさらに深化させている(大統領そのものを廃止し、国政は「コレヒアード」と呼ばれる行政執行委員に委ねられる制度を導入)。
 
1933年3月、米国大統領に就任したフランクリン・ルーズベルトは米国史上唯一連続三期政権を担った人だが、ラ米史上「善隣政策」で有名だ。30年代は米国ですら経済活動に国家が指導的介入を行っているが(ニューディール政策)、この時期の対ラ米施策では下記が知られる。
  • 33年1月、ニカラグアからの駐留軍撤退。但し、政権発足前
  • 34年5月、キューバに強いていた「プラッツ修正条項」の破棄
  • 36年3月、パナマと、上記アリアスの兄の政権下、運河地帯主権のパナマ帰属合意
  • 38年3月、カルデナス政権下のメキシコ石油国有化を黙認
 
 1933年8月、キューバで当時の独裁政権がゼネストによって退陣した。その後成立した革命政権を、翌34年1月、バティスタ(*6)大佐が転覆する。彼はその後キューバ革命まで、一時期を除き最高権力の座に君臨することになる。
 1936年2月、チャコ戦争の事実上の勝者パラグアイでは、同戦争の英雄によるクーデターが起きたが1年半で追放された。軍人政権がこの国で常態化する。
 1936年9月、ニカラグアで事実上のクーデターにより国家警備隊のソモサ(*7)総司令官が政権を掌握、以後、暗殺されるまでの20年間、最高権力を振るった。
 1938年12月より、チリで人民戦線政権が発足している。共産党が社会党他革新系の複数政党を糾合する政治運動である。フランスやスペインなどでも誕生したがどこも短命で、チリでは事実上46年9月までの8年間続いた。
 
 第二次世界大戦が勃発したのは1939年11月のことだが、米国が参戦したのは41年12月の真珠湾攻撃の後だ。ラ米は米国のイニシアティヴでどこも枢軸側に付かず、ブラジルとメキシコは連合軍の一角で大戦に参加した。開戦以降45年までのラ米の主要な動きを下記する。
  • 41年7月、ペルー・エクアドル国境紛争が交戦事態にまで発展、翌42年1月、リオ議定書で一旦和平したが、以後も両国間国境問題は燻り続ける。
  • 43年6月、アルゼンチンで若手将校団による軍事クーデターで、協調政府時代は終わった。このメンバーの一人がペロンで、3年後大統領になり、9年間の政権を担う。
  • 44年7月、グァテマラでウビコが反政府運動で退陣、民主化がスタートする。
  • 45年3月、米州共同防衛に関わる「チャプルテペック宣言」
  • 45年10月、ベネズエラで「ゴメス無きゴメス時代」と言われた軍人政権が若手将校団のクーデターによって崩壊、文民のベンタンクールによる革命政府を経て48年2月、直接民選政権が発足した。だが、9ヵ月後、ペレス・ヒメネス(*8)大佐らによるクーデターで崩壊する。
  • 45年10月、ブラジルではヴァルガスが一旦退任し後任者は選挙により政権に就いた。彼は50年に復帰するが、彼の政権としては初めて選挙を経たものだ。
 
ラ米は戦場にはならなかったが、輸入に頼っていた工業製品が入手難に陥った。加えて、どこでもナショナリズムが高まっていた。国によって時期的な差異はあるが、経済政策は1930年代中盤より伝統的自由主義から輸入代替工業化へと大きくシフトする。
東西冷戦時代に入ると、米国は対ソ戦略上、米州の結束強化に腐心する。ラ米諸国の兵器は米国式に変えられ、上記米州学校での軍事教練を通じ、ラ米諸国との軍事関係が緊密化されていった。一方で、共産主義勢力のみならず、ナショナリズムに対しても、米国は露骨な不快感を示すようになった。ラ米諸国の多くで共産党が非合法化される。
  • 46年、米国がパナマに「米州学校」前身を設立、ラ米軍人教練引き受けが始まった。
  • 47年9月、「米州相互援助条約(リオ条約)」の締結。国際的軍事ブロック化の先駆けとなる。
  • 48年3月、コスタリカ内戦。結果的には平和憲法が成った。
  • 48年5月、「米州機構(OAS)」設立。この直前にガイタンが殺害され、コロンビアが「ビオレンシア(暴力)」の時代に突入した。
 
人名表(本項で赤字表示のポプリスタを除く)
(*1)トルヒーヨ(Rafael Leonidas Trujillo Molina 1891-1961)、ドミニカ共。31年間独裁
(*2)ウビコ(Jorge Ubico Castaneda、1878-1946)、グァテマラ。13年間の長期政権
(*3)エルナンデス(Maximiliano Hernandez、1882-1966)、エルサルバドル。13年間の長期政権
(*4)カリアス(Tiburcio Carias、1896-1969)、ホンジュラス。16年間の長期政権
(*5)アリアス(Arnulfo Arias Madrid、1901-88)、パナマ民族主義指導者
(*6)バティスタ(Fulgencio Batista、1901-1973)、キューバ。1934-44、52-59年の最高権力者
(*7)ソモサ(Arnastasio Somoza Garcia 1896-1856)、ニカラグアで20年間独裁
(*8)ペレス・ヒメネス(Marcos Perez Jimenez、1914-2001)、ベネズエラで9年間独裁
 

 6   革命の時代(1950-80)
更新日時:
2008/06/05 
1950年代に入ると、ラ米諸国は次々と米国と相互防衛条約を締結、軍事に関しては米州一体化が進んでいくようになる。一方で、革命やクーデターが頻発する(別掲「ラ米の革命」参照)。
 
  • 52年4月、ボリビアで国民革命運動(MNR)が正規軍との内戦を制した(ボリビア革命)。鉱山国有化や労組代表の政府機関への取り込み、農地改革などでメキシコ革命に似た側面はあるが、MNR指導者パス・エステンソロは文民政治家で、カランサやオブレゴンのような革命戦争を指揮した革命家とは色合いが異なっている。
  • 53年6月、コロンビアでクーデターが起きた。一向に収まらないビオレンシアへの保守党政権の対応に軍部の不満が高まっていた。自由党と保守党が74年まで、4年ごとに両党間政権交代を行うことで合意した「国民戦線」によってこの軍政は58年に終るが、ビオレンシアは64年まで続く。
  • 54年5月、パラグアイで13年ぶりに出現していた文民政権がクーデターで崩壊した。42歳だったストロエスネル(*1)将軍が以後35年間に亘る超長期政権を担うようになる。
  • 同年6月、グァテマラでもアルベンス(*2)政権が軍事クーデターで崩壊する。彼の政権はそれまで非合法だった共産党を合法化し、UFCOを始めとする米国企業占有地も接収再分配の対象にした。米国議会は「共産主義政権」と見做し、CIAはクーデターを支援した。
  • 55年9月、アルゼンチンでペロンがクーデターにより追放された。以後軍部とペロニスタが敵対関係に入り、民政移管後もペロン党合法化を巡ってしばしば軍部が介入する。
  • 58年1月、ベネズエラのマルコス・ペレス(前出)軍政がゼネストにより崩壊し、ベタンクールが復帰した。この国に本格的な選挙制民主主義が確立された。
  • 59年1月、キューバで弱冠32歳のカストロ率いる革命軍がバティスタ政権を転覆した(キューバ革命)。米企業農地接収を伴う農地改革が発端となって、米国政府との制裁、報復の応酬が繰り返され、61年1月、米国が国交を断絶した。ただCIA支援による反革命勢力のキューバ侵攻作戦が失敗したことがカストロの強力な実権が確立した。且つ、彼の社会主義宣言に繋がった。62年10月の「キューバ危機(ミサイル危機)」の背景として記憶したい。これはご周知の通り、ケネディがソ連のフルシチョフとの交渉によって核戦争瀬戸際で解決される。
 
 キューバ革命はラ米各国で、特に労働者層やインテリ層に共感を呼び込んだ。革命の伝播を懸念する米国で、1961年3月、ケネディ政権が「進歩のための同盟」政策を打ち出す。ラ米の貧困解消に社会構造の改革が必要、と判断し、社会資本整備と土地の再分配のために活かそうと200億ドルの資金援助が骨格となっていた。米州諸国が豊かで、民主化が進めば第二、第三のキューバが阻止できる、と考えたものだ。62年1月、OASがキューバを除名、64年9月までにメキシコを除くラ米諸国はキューバとの国交を断絶する。
 1961年5月、ドミニカ共和国のトルヒーヨが暗殺された。63年2月、初めて民選大統領となったボッシュ(*3)は、その急進的政策で同年9月、軍部に追放され、これが65年のドミニカ内戦に繋がる。米国が素早く2万人もの海兵隊を送り込んだのも、キューバ革命の伝播を恐れたためだ。
 「進歩のための同盟」の思いに反し、ラ米は民主政権が次々に崩壊し、軍事政権が成立する「軍政時代」を迎える(別掲「ラ米の軍部―軍政時代を経て」の「軍政時代」参照)。キューバ革命の影響を過大視する必要はないし、親キューバ軍政すら生まれている。しかし各国に左翼ゲリラが続々生まれた時期と軍政時代が重なっていることは事実だ。60年代に下記7ヵ国で軍政が成立した。軍を背景としたソモサ家支配のニカラグア(42年間)とパラグアイ(ストロエスネル。1954年より35年間)、及び大統領が軍人で占められるグァテマラ(1954年より、一時期を除き86年1月まで)とエルサルバドル(31年12月から84年6月まで)を加えると、11ヵ国になる。
 
  • エクアドル(63年7月〜66年3月、72年2月〜79年8月)
  • ホンジュラス(63年9月〜82年1月)
  • ブラジル(64年4月〜85年3月):開放経済で「ブラジルの奇跡」と呼ぶ経済成長。左翼勢力に対する厳しい弾圧
  • ボリビア(64年11月〜82年8月):軍内左右両派の抗争を経る
  • アルゼンチン(66年6月〜73年5月、76年3月〜83年12月):労働運動家などへの弾圧による国際的批判に加え、82年4-6月のマルビナス戦争敗退で求心力失墜
  • ペルー(68年10月〜80年7月):外資企業の接収、基幹産業の国営化、徹底した農地再分配など民族主義左派傾向のベラスコ(*5)軍政で出発
  • パナマ(68年10月〜90年1月。事実上):トリホス(*6)民族主義軍政から出発。77年9月、「新パナマ運河条約」(1999年大晦日正午をもって米国からパナマへの運河完全返還)を締結。トリホス後の最高権力者は89年12月の米軍侵攻で失脚
 
 1967年10月、チェ・ゲバラ(*4)が、「第二、第三のベトナム」を掲げてゲリラ戦を展開したボリビアで処刑された。翌68年7月、「ゲバラ日記」が発行される。68、69年、日、米、欧で学生らが反政府運動を激化させたのはこの時期である。ラ米ではメキシコ、ブラジル、アルゼンチンの学生、労働者大規模デモと政府治安部隊による鎮圧のための実力行使側が知られる。
 
 1970年10月のチリ大統領選で、共産党と「人民連合」を結成した社会党のアジェンデ(*7)が、決選投票で前政権党の支持も得て当選した。ウルグアイでは67年にコレヒアードが廃止され大統領制が復活していたが70年代に入ると社共両党を中心とした「拡大戦線」(現在の政権党)が伸張していた。民主主義が根付いたこの二カ国でも73年、軍政に入る。いずれも激しい左翼弾圧で知られる。
  • ウルグアイ(事実上73年6月〜85年3月):軍政本格化は76年6月
  • チリ(73年9月〜90年3月):ピノチェト(*8)軍政。市場主義経済で経済発展
 
 世界的には1970年代に二度のオイルショック(73年及び79年)が起きている。いわゆるオイルマネーが経済発展の潜在性の高い途上国に回り始めた。70年代後半に石油輸出国となったメキシコのみならず、ラ米諸国が先進国の民間銀行から巨額資金の借入を本格化させる。また、民政諸国と左派軍政諸国により、キューバの米州内孤立が解消に向い始めた。
 
 1979年7月、ソモサ家支配を終らせるニカラグア革命が成立した。これに参加した左翼ゲリラのサンディニスタ民族解放戦線(FSLN)指導者のオルテガ(現大統領)が革命政府首班となった。彼は資本主義体制に社会主義要素を採りいれる、いわゆる混合経済路線を公約した。
 
人名表(本項で赤字表示のポプリスタ、及び青字でも現存者を除く)
(*1)ストロエスネル(Alfredo Stroessner 1912-2006)、35年にわたるパラグアイ最高権力者
(*2)アルベンス(Jacobo Arbens Guzman、1913-71)、1944年グァテマラ民主化実現
(*3)ボッシュ(Juan Emilio Bosch y Gavino 、1909-2001)、ドミニカ共和国民主運動指導者
(*4)チェ・ゲバラ(Ernesto Che Guevarra、1928-1967)、キューバ革命の英雄、ボリビアで処刑
(*5)ベラスコ(Juan Velasco Alvarado、1910-77)、ペルーの左派軍政指導者
(*6)トリホス(Omar Efrain Torrijos Herrera、1929‐81)、パナマの民族主義軍政指導者
(*7)アジェンデ(Salvador Allende、1908-73)、チリ。民選を経た社会主義大統領
(*8)ピノチェト(Augusto Pinochet、1915−2006)、アジェンデ追放後のチリ軍政指導者
 

 7   対外債務と経済統合
更新日時:
2008/06/11 
 南米の解放者ボリーバルの見果てぬ夢が、イベロアメリカ(旧スペイン・ポルトガル)の統合である。独立革命から四半世紀は分裂の時代だった。中米を除いて再統合の試みは為されなかった。その中米も統合の試みは挫折の連続だった。それでも1961年12月に発足した中米共同市場(CACM)で経済統合の枠組みが固まった。69年5月、ボリーバルが解放した5ヵ国とチリの経済統合、アンデス共同体(ANCOM、現在のCAN。当初加盟したチリは76年脱退、当初非加盟のベネズエラは73年に加盟)も発足した。これらの共同体で実効性が高まるには90年代の到来を待つことになる。
1990年代は正しく経済統合の時代、といえる。中米の場合は93年3月、議会や司法などを統轄する「中米統合機構SICA」が発足し、政治統合も進む。これにはパナマも参加する。94年1月には北米自由貿易協定(NAFTA)が、95年1月には南部南米共同市場(メルコスル)が発足した。二十一世紀に入って、CACM五ヵ国にパナマとドミニカ共和国を加えた7ヵ国は米国とのNAFTA型域内経済統合、自由貿易地域(CAFTA-DR)に至った。CANとメルコスルを統合する南米共同市場構想も進む。その前哨が、80年代の債務危機と軍政時代の終焉である。
 
 1982年8月、メキシコが先進国民間銀行に対して返済猶予を要請、これが発火点となって、ラ米各国が文民、軍政を問わず同様の要請に踏み切り、あるいは正式要請をせぬまま、事実上のモラトリアム状態に陥った。「債務危機」である。背景には、勿論身の丈以上の借入もあるが、79年の第二次オイルショックの後、先進各国で採られた緊縮財政による大幅な金利上昇がある。ともあれ、多くのラ米諸国に対する融資は停止された。先進国企業の追加投資、或いは新規投資も止まった。引き揚げるところも出てきた。多くの国が三桁、四桁のハイパーインフレに取り組むようになる。ラ米諸国は、1980年代を通して一人当たりの経済成長が全体としてマイナス、という「失われた10年」に入った。それまでの軍政から来るラ米の暗いイメージは、債務問題によって続いた。
 
 その軍政は、1979年のエクアドルを皮切りに、変則的なパナマとピノチェト軍政のチリ、及びストロエスネル超長期政権下のパラグアイを除き、1986年までに終焉を迎える。マルビナス戦争の大失態を犯したアルゼンチンや、「ブラジルの奇跡」の実績を誇ったブラジル、左派軍政のペルーのいずれも、対外債務問題とハイパーインフレを民政に引き継いだ。エクアドルやボリビアも同様だ。
 グァテマラとエルサルバドルでは左翼ゲリラとの内戦を激化させ、民政移管後も続いた。ニカラグアでは旧ソモサ軍が革命政府との内戦を展開した。軍政とは無縁のコスタリカや民政移管後のホンジュラスにも反政府勢力が拠点を置いたことから、中米五ヵ国全てが巻き込まれる、いわゆる「中米危機」を招来している。90年にニカラグア、92年にエルサルバドル、96年にグァテマラで和平が成立したが、これにはラ米域内諸国の外交努力と国連による調停、中米5ヵ国首脳の努力があった。
 パナマは1978年、間接選挙ながら文民大統領が選任され一応の民政化が実現していたが、83年国軍最高司令官になったノリエガ将軍が最高権力を行使する体制に変わる。これが終わり本格的な民政移管に至ったのは、89年12月、彼の身柄確保を目的(理由は在留米人保護)に、パナマ駐留軍を含む米軍2万人による首都攻撃を経て彼を逮捕、マイアミに移送した90年1月のことといえる。
パラグアイでは、1989年2月、ストロエスネル大統領がロドリゲス将軍によるクーデターによって追放され、同将軍が選挙を経て立憲大統領に就くことで民政移管が始まった。またチリでは90年3月に漸く民政移管が成り、故アジェンデの社会党を含む「諸党連合」政権が発足した。
 
 民政が続いていたコロンビアでも今なお活動を続ける左翼ゲリラ「民族解放軍(ELN)」や「コロンビア革命軍(FARC)」などに悩まされていたが、80年代になると麻薬カルテルが動きを活発化させ、ゲリラと麻薬の国のイメージが定着した。ただ対外債務については、返済不履行がなく「中南米の優等生」として知られる。民政復帰後のペルーでも、二つの左翼ゲリラ、「センデロ・ルミノソ」「トゥパクアマルー革命運動MRTA」が活動を本格化させた。
 
 1989年、ラ米対外債務危機解決策として当時のブレイディ米国財務長官が、いわゆる「ブレイディ・プラン」を打ち出した。債権銀行による債権償却、長期債への債権組換え、若しくは低金利によるニューマネー供与の3選択肢を呼びかけるものだ。この適用第一号が90年のメキシコであり、コスタリカが続き、95年のペルー適用でラ米の債務問題がほぼ決着を見た。だが、この適用にも拘らず、さらに各国で進んだ民営化によっても、ラ米全体の対外債務額はその後も膨らんでいく。ニカラグア、ホンジュラス及びボリビアが「重債務貧困国」に指定され、大半を返済免除されるが、三ヵ国の債務絶対額はラ米全体からみれば小さい。
 
 債務危機の教訓から、1990年代になるとラ米諸国の多くで市場主義経済、即ち規制緩和と民営化政策が一般化した。ペルーのフジモリは、これで経済混乱を収めた。チリのエイルウィンから諸党連合政権はピノチェトの経済政策を踏襲した。メキシコではサリナス政権時代の80年代後半より市場経済に転換していた。アルゼンチンのメネム政権とブラジルのカルドーゾ政権は、これに加え前者は事実上の通貨の対j等価政策(カヴァロ・プラン)と、後者は対jペック制(レアル・プラン)でハイパーインフレを収束させた。ラ米全体が、経済統合へと進み始めた。
 順風満帆だったわけではない。1994年末にはメキシコを、98年8月にはブラジルを通貨危機が襲った。前者は94年1月のNAFTA発足と「PRI独裁」に反対し、農民生活権を訴える「サパティスタ民族解放軍(EZLN)」武装蜂起、同3月のPRI次期大統領候補暗殺などの政治、社会不安に嫌気したこと、及び通貨ペソの大幅切り下げが不可避の思惑から、巨額資金が国外に逃避したことから起きた。米国の動きは迅速で、95年2月、米国主導の巨額の多国間支援によって通貨が安定、危機は解決している。後者は97年のアジア通貨危機、98年のロシア通貨危機が伝播したもので、ブラジル対外資金収縮をもたらすほど巨額の短期投資資金の対外引揚げを呼んだ。これにはIMFが動き、レアル・プラン放棄(変動相場制へ移行)で一時的通貨下落を招いたものの収束は速かった。アルゼンチン通貨が一気に過大評価となり、資金収縮が飛び火し、経済混乱の中で政情不安も来たした。通貨過大評価の原因であるカヴァロ・プランの放棄は2002年のことで、ブラジルに3年も遅れた。
 
 米州における唯一の共産主義国家キューバでは、1980年、12万人の大量出国者を出した「マリエル事件」が起きる。ただこれは不満分子の排除にも繋がり平穏は保たれた。これがソ連・東欧圏崩壊により、著しい経済苦境に陥った。同年米国が施行した米国企業の在外子会社による対キューバ取引、及びキューバに寄港する船舶の米国寄港を禁止する、いわゆる「トリチェリ法」が拍車をかけ、経済苦境の進行で再び大量出国者を出すようになる。ラ米域内は市場主義経済体制が一般化している当時、キューバも経済の一部自由化と外資導入や観光振興による開放は進んだ。隘路に入った経済苦境を脱するための方策だった。96年、米国は、第三国の企業が革命後接収された米国資産が関係する取引を行った場合は、当該企業への制裁を課す、という、いわゆる「ヘルムズ・バートン法」を制定した。これが、外資の対キューバ投資へのブレーキとなり挫折する。
 1998年12月、ブラジルに通貨危機が襲った直後のベネズエラ大統領選で、チャベス元空軍大佐が勝利した。カストロを師と仰ぐ彼の政治志向が、経済苦境からの立ち直りに躍起だったキューバに大きな救いをもたらしたのは間違いない。その後ラ米では左派乃至は中道左派政権が陸続と発足した。
 
二十一世紀になってからのラ米の動きの一端は、別掲の「ラ米の政権地図」を参照願いたい。
 


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