本項が対象とする期間は第一次世界大戦を挟む僅か20年間である。二十世紀到来時、ラ米諸国は経済社会構造が大きく変っていた。先ず、鉄道建設が進み輸出用原料(金属、硝石、綿花、羊毛、皮革、ゴムなど)と食料(穀物、食肉、砂糖、コーヒー、カカオ、青果物など)の生産地が拡大し、生産も急増した。海運も大量・高速化しており、港湾、通信他のインフラ整備が進み、貿易に不可欠の銀行、保険業務も拡大していた。以上全てが都市中間層と労働者層の急増に繋がっている。政治体制は、殆どの国が寡頭支配(オリガキー)時代にあり、自由主義経済を基本とした政策運営が行われた。
一方で、メキシコ革命(別掲の「ラ米の革命」参照)が起きている。注目したいのは、農民と労働者層が革命に大挙して参加する、いわば大衆革命に発展した点である。大規模な労働争議は域内先進地域とされた南米南部諸国で頻発したが、UFCOなどの労働者を含め、中米やコロンビアでも起きていた。メキシコ革命に前後したロシア革命の思想であるマルクス主義は世界中に広がったが、ラ米諸国でも各国に共産党が設立され、労働運動にも深く関ることになる。さらに、オリガキーに反発する都市中間層や軍部の若手将校らの台頭で政情不安化する国も出てきた。内乱の危機を理由にニカラグア、ドミニカ共和国(及びハイチ)に米軍が進駐したが、ここでは反米ゲリラが出現している。
ただ暗い時期だったか、と言えば、大戦の戦場にならなかったラ米諸国は、米国経済の急速な成長を背景に、おしなべて繁栄の時代だった。人口も増えた。
第一次世界大戦が勃発したのは、パナマ運河開通直前のタイミングである1914年7月のことだ。米国が大戦に参戦したのは17年4月だが、それ以前からカリブ海域がドイツの影響下にはいることを警戒した。下記のような米国のラ米に対する介入事件は、その流れで見たい。
ニカラグア:1911年、ドミニカ共和国に続いて関税管理権を獲得し、翌12年から25年まで、及び26年から33年まで二度に亘り米軍を駐留させた。
ドミニカ共和国:1914年、米海兵隊が内乱鎮圧のため、として上陸した。16年から8年間、米軍が同国を占領する。なお隣国ハイチも15年から34年まで米軍に占領されている。
メキシコ:メキシコ革命最中の1914年5月、米軍が1年半に亘ってベラクルス占領。ドイツからの武器輸入を監視するためだったという。また、16年3月から10ヵ月間、米国領内で無法行為を行ったメキシコ人追跡を理由に米陸軍が越境展開した。
キューバ:1917年から5年間、米国は、グァンタナモ基地とは別に駐留軍を派遣する。
1917年2月、メキシコ革命指導者、カランサ(*1)は、労働基本権、未使用土地の国家による再分配義務、教会活動の規制と外人の地下資源保有禁止を盛った、当時では斬新な「1917年憲法」を公布した。最後の項目は、メキシコ石油開発に乗り出していた英米の石油メジャーにとって致命的で、両国の断交に発展する。やはり革命の英雄であるオブレゴン(*2)が20年に彼を追放した。対米修復は喫緊の課題と考えていたが憲法自体は残る。23年、憲法公布前に確立していた資源に対する外人権益への不適用を取り決め、これで対米修復が成った。
1914年、ベネズエラのマラカイボで大油田が発見されていた。08年にクーデターで実権を握ったビセンテ・ゴメス(*3)は、対米協調を政策の基本とした。クーデターを起こしたのも、時の大統領の欧米敵対言動に危惧を抱いたためという。メキシコ革命後、新たな行き場を探していた石油メジャーが殺到し、ベネズエラは世界有数の産油国となる。最後のカウディーリョと言われる彼の強権時代、この国は政変とは無縁だった。
この頃になるとラ米各地では労働運動に加えて、大学で社会改革を叫ぶ学生運動も頻発した。革命気分が横溢する24年のメキシコでAPRAを立ち上げたペルーのアヤデラトーレ(本項から次々項までは著名ポプリスタを赤字で表記)はその代表的指導者だった。ベネズエラのベタンクールもAPRAに深く共鳴した学生運動家である。いずれも長期強権下の自国から追放されラ米の他国に亡命していた(「ラ米のポピュリズム」を参照願いたい)。
ヨーロッパ人移民で十九世紀末からの人口急増を見ていた南米南部に目を移すと、先ずウルグアイでバッジェ(*4)が、自らの大統領任期中のみならず、この国を一気に世界に冠たる福祉国家に変えるために尽力していた。1915年の8時間労働の法制化はメキシコの1917年憲法に先行した。労働運動の高まりに機先を制した格好だ。大統領権限を外交、防衛、治安に限定し、他の国事は行政委員会に一任する、「複数行政制度」導入(1917年)に奔走したことでも知られる。
1916年10月、アルゼンチンでイリゴージェン(*5)急進党(現在も主要政党)政権が誕生した。オリガキーから離れた都市中間層を基盤とする、初めての政権だ。労働立法を進め、さらに、大学の自主権を認める18年の大学改革令を出したことでも知られる。後者は他国の学生運動の高揚を呼び、上記アヤデラト−レ(ペルー)やベタンクール(ベネズエラ)らを輩出した。22年、ラ米では最も早く国営石油会社を設立、同国最大油田での操業を独占させる資源ナショナリズムの政策を実現した。
ブラジルでは、1889年の共和制発足後、ほぼ一貫してサンパウロ州かミナスジェライス州の推す大統領による政権が続いた。夫々コーヒー産地と畜産で知られていたため、「ミルクコーヒー(Cafe com leite)体制」と揶揄される。ブラジルは第一次世界大戦に参戦したラ米唯一の国で、軍部若手将校らのプライドは高くオリガキーへの反感は高まっていた。1922年7月、コパカバナ要塞の守備隊長自ら要塞を占拠した事件を皮切りに、各地の駐屯地で反乱が起きた。殆ど短期間で収束したが、24年10月に蜂起したリオグランデドスル諸部隊は25年から27年までに亘り、内陸部でのゲリラ闘争を展開した。これを率いた将校は、後日、ブラジル共産党指導者になっている。
チリには上記3ヵ国のような移民による人口急増は見ていない。太平洋戦争で硝石産地を新たな領土に加え潤った同国だが、1891年に議会の乱が起き、行政府の権限が弱体化していた。それでもヨーロッパの権利思想が根付き、労働争議も頻発した。1920年12月、チリにも都市中間層を支持基盤とするアレッサンドリ(*6)政権が発足した。25年10月、労働権を盛り、合わせて行政権の回復を図った「1925年憲法」制定で知られる。社会改革が議会勢力に阻まれ進展しない状況が続き、憲法制定までには24年の反オリガキー感情の強い軍部若手将校によるクーデターを経る。
反オリガキーを標榜する政変は、1920年にはボリビアで、25年にはエクアドルでも起きた。後者ではチリ同様、若手将校が参加している。
人名表(本項で赤字表示のポプリスタは別掲「ラ米のポピュリズム」参照)
(*1)カランサ(Venustiano Carranza、1859-1920)、メキシコ。革命を起こしたマデロが暗殺された後の革命指導者。大統領(1914-20、臨時政権時代を含む)。1917年憲法。
(*2)オブレゴン(Alvaro Obregon、1880-1928)、メキシコ革命の英雄。大統領(1920-24)
(*3)ビセンテ・ゴメス(Juan Vicente Gomez、1857-1935)、ベネズエラ最高権力者(1908-35)
(*4)バッジェ(Jose Batlle y Ordonez、1856-1929)、ウルグアイ。大統領(1903-07、11-15)。福祉国家建設。複数行政制度
(*5)イリゴージェン(Hipolito Yrigoyen、1852-1933)、アルゼンチン急進党政権開始。大学改革令。大統領(1916-22、28-30)
(*6)アレッサンドリ(Arturo Alessandri、1868-1950)、チリ。1925年憲法制定。大統領(1920-25、32-38)
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