ラテンアメリカの革命


 1   メキシコ革命
更新日時:
2008/04/08 
 メキシコ革命の発端は、1910年6月の大統領選にある。抗仏戦争(1862-67年)の英雄で79歳のディアス(*1)に、36歳の大農園主マデロ(*2)が挑んで、動乱煽動の罪で逮捕され、サンルイスポトシ市の刑務所に収監され、その後恩赦で釈放された。彼が亡命先のテキサスで出した「サンルイスポトシ綱領」の日、同年11月が革命勃発日になる。ディアスを選出した大統領選挙は不正が有ったので無効、当面自分が臨時大統領に就き、反ディアス武装闘争に入る、というものだ。これに一般大衆が呼応した。
1911年5月、マデロはチワワ州の米国との国境の町、フアレス市に入り、ここに臨時政府を作った。これより前、米国が2万人の兵力を国境地帯に配備した。実質的に、ディアス政権を牽制し、臨時政府を後押しする行動と見られる。ディアス政権を支えてきた勢力も彼に見切りをつけ、マデロ臨時政府と「フアレス協定」を結び、ディアス辞任とやり直し選挙を引き換えに、革命軍の武装解除を取り決めた。ディアスは辞任後、フランスに亡命し、4年後、85歳で死去した。
1911年10月、マデロが大統領選で勝利した。だが彼の政権時代、議会も政府官僚も軍も、ディアス政権時代から変わっていない。打ち出す政策は旧ディアス派には急進的過ぎる、と捉えられるし、一気に社会革命を目指す勢力にすれば物足りない。同年11月、先住民の多いモレロス州で強力な農民軍を組織し、マデロ革命の一翼を担ってきていたサパタ(*3)が、先住民への農地返還実施を求める「アヤラ綱領」を発し、事実上反マデロ活動に踏み切った。加えて、ディアスの甥などの反乱も起きる。革命当初よりマデロに従っていたビヤ(*4)は反乱軍追討に参加していたが、12年、連邦軍への命令不服従を理由に死刑宣告を受け、マデロにより禁固刑に減刑され、同年末に脱獄した。
 
 1913年2月、軍のメキシコ市駐屯部隊が決起し、収監されていた反乱軍指導者らを解放、以後軍司令官のウエルタ(*5)将軍自身がこれに合流し、最後にはマデロ大統領を逮捕、彼が大統領に就任し、マデロは暗殺される、という、メキシコ史上「悲劇の10日間」として知られるクーデターが起きた。数百人の犠牲者が出ている。メキシコ革命の特徴の一つが犠牲者の異常な多さ(人口1,500万人ほどの国で、150万、という、まともには信じられない数字が語られる)だが、血生臭い内戦はここから始まった、と言える。
 1913年3月、マデロの出身地、コアウイラ州知事を務めていたカランサ(*6)が「グァダルーペ綱領」を発し、「護憲軍」と名付けた反乱軍を組織した。ウエルタ政権は違憲である、これを廃することで、合憲政権に復帰しよう、という、単純なものだ。オブレゴン、ビヤらが呼応した。マデロと決別していたサパタも、反革命のウエルタ政権とは対立する。メキシコがほぼ全域にわたり、内乱状態になった。
1914年2月、後世に「タンピコ事件」として知られる事態が起きる。石油生産地で米人が多いタンピコに上陸した米軍の水兵が逮捕された。釈放はされたが、その際米軍艦長が「星条旗への敬礼」をメキシコ政府に要求した、という事件だ。次に米国はベラクルスに大西洋艦隊を派遣、港と税関を占領した(1914年4月〜11月)。当時米国はメキシコへの武器禁輸政策を採っていたが、その監視を目的としたもの、という。この際に砲撃が加えられ数百人の死者が出た。当然、政府側のみならず、護憲軍側も米国を非難する。ただ結果としては、これが護憲軍への側面支援になる。関税収入と武器補給の道を閉ざされた政府側には、大きなダメージだった。1914年7月、ウエルタは政権を放棄し、国外に亡命した。翌8月、カランサがメキシコ市入城を果たした。
 
1914年10月、アグアスカリエンテス市に護憲軍の司令官らが集合、会議を主導したビヤが、欠席していたサパタの「アヤラ綱領」の採択と、カランサ政権の否認に動いた。オブレゴンは会議には出席したが、カランサ側に付いた。ビヤは12月早々首都郊外でサパタと会い、その後、共に首都入城を果たした。カランサはこれに先立ち、危険回避のため、米軍が撤退したばかりのベラクルスに暫定政府を移した。翌15年1月、カランサ政府が、未利用地の農地分配を記した農地改革を公表、続いて2月、労働立法を提示し、労働者勢力の支持を獲得した。ビヤとサパタが首都に居座る理由はなくなった。同年4月、メキシコ市近くのセラヤというところで、カランサ政府のオブレゴン軍がビヤ軍を潰走させた(セラヤの戦い)。5月、カランサ政府が首都に再入城、政治秩序はこれで回復した。
 
1916年9月、カランサは制憲議会を招集した。結果、新憲法が、翌17年2月に公布された。「1917年憲法」と呼ばれる。同年3月、これに基づいた大統領選挙が実施され、カランサが新憲法下の初代大統領として選任された。この憲法では以下の項目が注目される。
  • 教会の政治介入の禁止
  • 教育権と資源の国家帰属
  • 土地改革。未利用私有地の接収と再配分
  • 労働基本権(債務強制労働の禁止、8時間労働制、団体交渉権、罷業権など)
彼の政権は、先ず対米関係で躓いた。米国投資家は、非鉄金属開発や、この頃急速に重要性を高めていた石油開発に投資していた。ところが、憲法で資源の国家帰属を明示した。米国投資家の権益問題が起きるのは必然だった。米国は領内を侵犯した、として、ビヤ軍を追いメキシコに軍隊を展開していた(1916年3月〜17年1月)。米国は憲法公布直前、対メキシコ断交に踏み切った。
 
1919年4月、サパタが暗殺される。ここで勢力を急速に高めたのがオブレゴンである。彼から叛旗を翻されたカランサは、翌20年5月メキシコ市を脱出、途中で殺害された。代わって大統領になったオブレゴンが以下のような政策を進め大衆的人気を得る。
  • 土地払い下げ:土地収用、再配分事業。受益農家は40万に上った。
  • 教育改革:国家歳出の15%を教育に充当。以後の政権もこれに倣う。
  • 壁画運動:歴史的建築物にメキシコ史をテーマとする壁画を施す。大衆啓蒙事業
1923年7月、ビヤが暗殺された。革命の英雄では、オブレゴンだけが残った。1923年8月、彼は米国と「ブカレリ合意」(米人所有地の国家接収に関わる補償、及び「1917年憲法」公布以前に取得した石油採掘権認定を記したもの)を取り決め対米国交回復も実現する。
 
1924年12月、オブレゴン政権で内相を務めていたカイェス(*8)に大統領を交代した。26年7月、宗教教育などに関わる犯罪への罰則や、聖職者の登録制などを規程した、いわゆる「カイェス法」が制定された。教会側の反発は強い。半年後の翌27年1月、「クリステロス」と呼ぶ信徒の一部がゲリラ戦に入った。28年3月、米国のカトリック教会による仲介で一旦収束したが、同年7月、オブレゴンが彼らの一人に殺害されている。
1929年3月、カイェスは「全国革命党(PNR)」を結成、自身がその総裁となった。大統領の任期は終えていたが、PNRという革命政党を通じた「革命の制度化」をスタートさせた。
 
人名表
(*1)ディアス(Porfirio Diaz 1830-1915):35年間(1876-1911)最高権力者として君臨、メキシコ国情安定で一定の評価を受ける。
(*2)マデロ(Francisco Madero、1873-1913):メキシコ革命を開始
(*3)サパタ(Emiliano Zapata、1879-1919):農民の土地回復運動を推進。革命で「アヤラ綱領」を掲げ、武装農民を率いる。
(*4)ビヤ(Francisco Villa、1877‐1923):護憲軍司令官の一人。大衆的ヒーロー
(*5)ウエルタ(Jose Victoriano Huerta、1854-1916):国軍総司令官。マデロ追放
(*6)カランサ(Venustiano Carranza、1859-1920):対ウエルタ内戦指導。1917年憲法。革命後の初代大統領(事実上1914-19)
(*7)オブレゴン(Alvaro Obregon、1880-1928):護憲軍司令官の一人。革命後の第二代大統領(1920-24)。壁画運動
(*8)カイェス(Plutarco Elias Calles、1877-1945):革命後の第三代大統領(1924-28)。但し退任後も34年まで実質的最高権力者

 2   キューバ革命
更新日時:
2009/04/01 
1933年8月、学生、労働組合などによる大規模ゼネストが打たれ、独裁化していたマチャード(*1)大統領が退陣、亡命する。その後も砂糖工場などの占拠や、親マチャード派への襲撃などの暴動が頻発、翌9月、反政府勢力がグラウ・サンマルティン(*2)ハバナ大学教授を首班とする革命政府を樹立した。この政変を「33年革命」とも呼ぶ。革命政権は米国企業所有の一部砂糖工場を接収、農地の分配、キューバ人以外の労働者への規制、など、民族主義的な政策を実行した。米国の利害から大きく離れている。
フランクリン・ルーズベルト米政権は、先ず「独裁者」マチャードの退陣は歓迎した。だが翌34年1月、バティスタ(*3)司令官が率いた革命政権転覆のクーデターには米国政府による何らかの意向があった、と見るのが常識のようだ。同年5月、バティスタ支配下の新政権に対して、キューバの米国保護権を規定した「ブラット修正条項」の撤廃を認め、保護国地位からの脱却を実現させた。
1940年10月、新憲法が公布された。メキシコの1917年憲法をモデルとし、普通選挙や国民投票制度を規定、労働者保護条項も採り入れた、当時としてはかなり進歩的な憲法だった。バティスタは新憲法に基づき、亡命から帰国させた「キューバ真性革命党」(通称Autentico。34年に結成)のグラウ・サンマルティンを対抗馬に大統領選挙戦を制した。
1934年から44年までの、いわば第一次バティスタ時代に社会福祉、労働者住宅建設、公共事業、農村部での教育などが推進された。かかる政策には、共産党の意向も覗える。44年にはグラウ・サンマルティンが大統領に就任、以後8年にわたる「Autentico」政権が続く。こちらは反共路線だった。スキャンダルも起き、同党の「33年革命」からの落差の大きさに失望する国民も多かった、という。嫌気した党員チバス(*4)が47年に離党し、「キューバ人民党」(通称Ortodoxo)を結成、翌年の大統領選に出馬して破れた後、「Autentico」政権腐敗への批判を繰り返し、51年にはラジオ番組出演中に自殺するという衝撃的な経緯を辿った。
 
キューバは、1952段階で砂糖産業が国民総生産の3割、総輸出の8割を占める後進的な経済構造ではあっても、都市人口が全体の56%を占め、国民の識字率は80%を超え、給与所得が国内総生産の65%という先進国だった(History of Latin America、Williamson、1992、Penguin Book、P444)。砂糖生産に占める米系企業のシェアはこの頃までには50%を下回っていたとは言え、経済全般にわたる米国の圧倒的な存在感は変わらなかった。
 
1952年3月、総選挙を間近に控えた時点で、バティスタがクーデターで再び政権を掌握した。政情不安を憂えたためという。選挙は先送りされた。当時25歳の弁護士カストロ(*5)は「Ortodoxo」から国会議員に立候補していた。
1953年7月、カストロら165名の反政府グループがサンティアゴ市にあるモンカダ兵営を襲撃した。メンバーの多くが反撃の銃で死亡し、そうでないものは逮捕、収監された。もともと無茶な行動だったが、ここで逮捕され、裁判にかけられたカストロが、弁護士の資格で自らの弁護にあたり、キューバの政治腐敗を質し、国民の政治的自由の回復と経済の独立性確保を訴え、有罪判決後、「歴史が無罪を宣告する」と叫び、一躍有名になった。獄中、これに工業化、土地改革、完全雇用、教育近代化などを加筆して、仲間を通じて流布させた。これが以後のキューバ革命の理論的支柱になる。54年末、バティスタは、自らの正統性を確保するため大統領選挙を実施、無競争で選任された。55年5月、その恩赦によって、カストロらも釈放された。
彼は、弟ラウル(*6)らと共に、メキシコに亡命した。ここで「7月26日運動(便宜上、以下「7.26運動」で表記)」の活動を開始した。「7.26運動」に、アルゼンチン人医師のゲバラ(*7)が参加する。54年6月、1年ほど滞在したグァテマラでアルベンス政権が米国CIAの支援を受けた軍事クーデターによって崩壊した後、アルベンス同様、メキシコに逃れて来ていた。
 
1956年12月、カストロ兄弟やゲバラら82名の革命戦士が、「グランマ号」という名の船でキューバの南部の海岸に辿り着いた。裏切りにあって襲撃を受け、このうちの12名だけがシエラ・マエストラ山岳地帯に逃げ込んで、そこを拠点としてゲリラ活動を始めた。この時点では、「7.26運動」は、キューバ国内に幾つかあった反バティスタ運動の一つに過ぎない。勢力拡大も大した進展を見せなかった。有名になるのは、先ずは米国で、だった。57年、「7.26運動」のゲリラ活動の初期段階に、ヒューバート・マシューという米人ジャーナリストがシエラ・マエストラに入って、カストロにインタヴューを行い、「シエラからの報告」としてニューヨークタイムズ紙で連載した。カストロら「7.26運動」の若い指導者らが、「圧政者と戦うロマンティックな革命運動家たち」として米国民に知れ渡り、好感を呼んだ。58年3月、国内世論に配慮した米国政府は、バティスタ政府軍への武器禁輸を決めた。これは革命勢力や反政府武装組織にとっては、プラスだ。
同1958年5月、バティスタ政権が僅か300人程度の「7.26運動」の武装制圧に乗り出した。国民の政権からの離反を食い止めるには不可欠である、との判断だった。ところが逆に「7.26運動」は同年8月までにキューバ島の南東部全体を制圧、政権側は急速に求心力を失い、「7.26運動」はこの勢いで反バティスタ勢力を糾合していく。カストロが反バティスタ勢力の指導者として、全国的認知を得るようになる。同年12月末バティスタが、当時のラ米における有名な独裁者、トルヒーヨ支配下のドミニカ共和国に逃亡した。翌59年1月1日、「7.26運動」を中心とする反乱軍が首都入城を果たし、革命が成立した。
 
 1959年1月に発足した革命政府は、米国政府も承認した。態度を変化させたのは、59年5月に制定された「農地改革法」による。キューバ人所有者からは400f相当(63年に57f相当に改訂)を超える部分を、外人所有者からは全部を有償で接収し、共同農場に再編する、というものだ。米国企業所有の土地接収に対して、米国政府が抗議した。次に、バティスタ政権下の要人を「人民裁判」にかけ、処刑した。多くの国民が革命を嫌い米国などに亡命した。折角革命を好意的に見ていた米国世論も変わる。
 1960年2月、東西冷戦の真っ只中に、ソ連の副首相がキューバを訪問し石油輸出を含む二国間貿易協定を締結した。米国系石油会社がその原油精製を拒んだことから、これを接収した。米国はこの措置への報復として砂糖引取量を削減した。これへの報復として米企業所有の電力、電話、砂糖、ニッケルなどの企業を国有化した。米国は対キューバ貿易禁止で応じ、翌61年1月に国交を断絶した。同年4月、亡命キューバ人による武力侵攻作戦、「ピッグズ湾事件」でキューバ側の戦利品に中に撃墜した米軍機があった。対米勝利のイメージが膨らみ、弱冠35歳のカストロが、国内外の知名度を大きく高めることになる。翌5月、カストロがキューバ革命を「社会主義革命」とする旨の宣言を行い、同年12月、自らを「マルクス・レーニン主義者」と言明する。米国は、歴史的「裏庭」に、東西冷戦の仮想敵国、ソ連の軍事、経済影響力を扶植してしまった。
 
1962年1月、米国のイニシアティヴによって、米州機構(OAS)がキューバを除名した。同年9月、キューバがソ連と武器援助協定を締結した。翌10月、米国のスパイ衛星により、米国全土を射程に収めるソ連の核ミサイルがキューバに存在することが証明された。同月22日、ケネディ米大統領はキューバ向け武器輸送船全ての航路封鎖を命じ、ソ連にキューバのミサイル全てを撤去するよう要求した。実行しない場合は、核戦争を辞さない、とまで言い切る。世界を震撼させた、世界史上有名な「キューバ危機」である。時間的にも猶予の無い、一発触発の状況に至ったことから、こう呼ぶ。これはソ連のフルシチョフ首相がケネディとの交渉でミサイル撤去に応じたことで決着した。
 1964年4月、OASは、47年に締結した「米州相互援助条約(リオ条約)」に則った形でキューバ制裁を決めた。米州諸国の対キューバ断交が始まった。メキシコだけは国交を維持する。
 
 1965年4月のドミニカ内戦には、米国が直ちに反応した。海兵隊の派兵人数も3万人、と、非常に大きい。OASに諮って、ほどなく、ブラジル人を総司令官にする「OAS平和軍」に名を変え、ラ米数ヵ国が派兵をしたものの、駐留軍の95%が米海兵隊員だった。
 
 1966年9月、ゲバラがボリビアに赴いた。「第二、第三のベトナム」を作り上げるためのゲリラ活動を推進しよう、としたものだが、67年10月、射殺された。68年、メキシコで開催されるメキシコ五輪に反対する学生らが治安部隊の出動で流血を見る、いわゆる「トラテロルコ事件」が起きた。また軍政下にあったアルゼンチンでも翌69年、工業都市コルドバで「コルドバソ」と呼ばれる流血事件が起きている。全世界的にもこの時期学生運動が激かった。加えて;
 
  • 68年ベラスコ将軍の「ペルー革命」。左翼民族主義政権の発足(但し75年に崩壊)
  • 同、トリホス将軍の「パナマ革命」。対米強硬派政権の発足。キューバ革命に理解
  • 69年、チリで「人民連合」が発足。翌70年、アジェンデ社会主義政権成立
 
が成っている。ただチリのアジェンデ政権は、73年のピノチェト将軍によるクーデターで崩壊する。ゲバラ処刑後に相次いだこれらの動きは偶然ではなさそうだ。
 
 キューバの経済政策については、1965年よりの五ヵ年計画で進めた70年での砂糖生産1千万トンが未達に終ったあと、思い切った政策転換を図った。産業多角化と工業化の必要性が再認識され、その推進には社会主義諸国間の生産分担システムが最善と考え、72年6月、コメコン(社会主義経済相互援助会議)に加盟した。これを契機に、金属、機械、肥料などの工業の発展を見ていく。
 政治的にはソ連との関係が強化され、1975年12月、キューバ共産党第一回党大会が開催され、社会主義憲法草案を承認すると共にカストロを党の中央委員会政治局の第一書記に選び、翌76年12月、召集された「人民権力全国議会」が国家評議会議長(大統領に相当)に選出した。まさしく、ソ連型の共産党一党独裁による社会主義国家が、「米国の裏庭」に、こうして実現を見た。
 一方で、ラ米諸国が次々とキューバとの外交関係を復活させ、米国も制裁緩和に動いた。だが90年代初頭のソ連東欧圏崩壊で未曾有の経済危機にあたり米国の制裁は強化されたが、2001年から食料・医薬品の対キューバ輸出は認められるようになっている。国交は、断絶したままだ。
 
人名表
(*1)マチャード(Gerardo Machado y Morales 、1871-1939):独立革命世代最後の大統領(1925-33)。独裁化が進み、「1933年革命」で失脚
(*2)グラウ・サンマルティン(Ramon Grau San Martin、1887-1969):ハバナ大学教授から真性革命党(Autentico)指導者になる。大統領(1944-48)
(*3)バティスタ(Fulgencio Batista、1901-1973):「1933年革命」政権を転覆。1934-44年の最高権力者。52年、Autentico政権転覆、以後独裁を敷く。
(*4)チバス(Eduardo Chibas、1907-51):Autenticoから腐敗を理由に離れ人民党(Ortodoxo)を結成。ラジオ番組出演中に自殺
(*5)カストロ(Fidel Castro Ruz、1926-):革命指導者。1959年より76年まで首相、76年より2008年2月まで国家評議会議長(国家元首)
(*6)ラウル・カストロ(Raul Castro Ruz、1931-):カストロ実弟。革命に参加。2006年6月より08年2月までの代行期間を経て、現在国家評議会議長
(*7)チェ・ゲバラ(Ernesto Che Guevarra、1928-1967):アルゼンチン人。革命の英雄。彼の「ゲバラ日記」は1968年以降暫く、世界を風靡した。

 3   ニカラグア革命
更新日時:
2008/04/08 
 1936年に時の大統領を辞任に追い込む事実上のクーデターでニカラグアの最高権力者としての実権を掌握したソモサ(*2)は、56年9月に狙撃され死亡した。当時、彼の長男で国会議長だった34歳のルイス・ソモサ(*3)が彼の後任に指名され、ラ米史上珍しい親子間の政権引継ぎとなった。国家警備隊長官となっていた31歳の次男、ソモサ・デバイレ(*4。父と同名であり、区別するため父は「タチョ」、次男は「タチート」と呼ばれる)が兄を支えた。事実上のソモサ家支配体制で、「国民自由党」という政党が基盤だった。国家警備隊とは、駐留米軍が実質的にニカラグアを支配していた時代(1912-33年)に、米軍がニカラグア国軍を再編成したものだ。米軍撤退後も、幹部の多くが米国の士官学校、乃至は米軍によってパナマに設立されたラ米軍人の養成校、「アメリカ学校」で訓練を受けた。タチートも米国本土の士官学校を出ている。
 「タチョ」の時代から、「保守党」などが公認野党として存在した。「ラ・プレンサ」という新聞社がソモサ批判の論陣を張っていたが、その社主がチャモロ(*5)で、独立以来4人も大統領を出しているチャモロ一族が保守党の中核だった。チャモロは「タチョ」狙撃事件のあおりで逮捕され、脱走し、亡命し、帰国後再逮捕され、恩赦で釈放された後も反ソモサ家運動の先陣に立つ。
 キューバ革命成立後の1960年代始め、社会党の一部を中心に「サンディニスタ民族解放戦線(FSLN)」が結成された。駐留米軍が実質的にニカラグアを支配していた時代(1912-33年)の末期、反米ゲリラ活動を行っていたサンディーノ(*1)に因んだ名前だ。
 
 1967年に行われた大統領選挙で、保守党を中心として結成された「反対派国民連合(UNO)」が統一候補を立てることとなる。与党国民自由党からは「タチート」が立候補、UNOによる大規模抗議デモが国家警備隊出動で多くの流血をみたが、試みは頓挫した。FSLNの活動が目立つようになるのはこの頃だが、UNOとの共同戦線ではない。まだ規模も小さかった。
 1974年7月の大統領選で、これに出馬した「タチート」当選を阻止すべく、保守党は社会党に至る野党や労組までを糾合する「民主連合(UDEL)」で候補者を一本化した。72年12月、首都マナグアをマグニチュード6.3の大地震が襲い国際援助が寄せられたが、これにソモサ家収賄の疑惑がチャモロの「ラ・プレンサ」により追及されていた。それでもタチートは難なく再選された。同年12月、新閣僚主催の祝宴会場をFSLNが襲撃する。この時人質解放の交換条件として釈放されたオルテガ(*6)が、民主運動グループとの連携を唱える「テルセリスタ(第三の道派)」を率い、FSLN内で頭角を現すようになる。
 
 1977年10月、反ソモサ活動の指導者12人が亡命先のコスタリカで「ドセ(12人会)」を結成した。著名な学者、ビジネスマン、作家、聖職者がメンバーだが、この内3人がFSLNのシンパだった。翌78年1月、チャモロが暗殺された。抗議デモなど国内が騒然としてきた。同年5月、「拡大反対派戦線(FAO)」が結成される。上述のUDELに企業家評議会と「ドセ」が加わったものだ。FSLNが「ドセ」を通じ間接的にFAOに繋がった。
 1978年8月、「コマンダンテ・セロ」で知られるパストラ(*7)指揮下の「テルセリスタ」ゲリラが、国際的な注目を集めた国会議事堂占拠事件(議員、国会職員などを人質とする)を起こした。大司教の調停により3日ほどで決着したが、9月以降、FSLNによる内戦状態に突入する。
 1979年6月、内戦状態の中でFAOがゼネストを打った。コスタリカで、「国家再建評議会」が結成された。評議会は、多党制、普通選挙による民主主義、政治思想の自由を宣言する。チャモロの未亡人、ビオレタ(*8)とオルテガが、この5人から成る評議会メンバーに入り、FSLNがFAOと直接繋がった。「タチート」は同年7月退陣し亡命、翌年9月、パラグアイで暗殺された。
 1979年7月、国軍である国家警備隊が降伏し、FSLN軍が首都マナグア入城を果たした。「ニカラグア革命」が成立した。その2日後、オルテガを議長とする再建評議会政府が発足した。FSLNが革命の主役に躍り出たことから、「サンディニスタ革命」とも呼ぶ。国家警備隊は解体され、国軍としてはサンディニスタ人民軍がFSLN主導で編成された。
 
 初期の政策では、ソモサ系企業の接収、銀行国有化、主要輸出産品の輸出事業国営化、非同盟諸国会議への参加、などがある。またキューバとの国交を回復した。この時点でキューバと国交を持つラ米諸国は他にはメキシコなど7ヵ国のみで、中米はその内コスタリカ(但し2年後再断交)とパナマとだけだ。ソ連とも外交関係を樹立した。次第に左派、且つ親キューバ路線が強まってくる。80年4月、ビオレタは再建評議員を辞任した。7月の革命式典にキューバのカストロ議長が招かれ、キューバからの医師団、教師、軍事顧問団受け入れが始まる。米国が警戒を高める。
 1981年1月、エルサルバドルで「ファラブンド・マルティ解放戦線(FMLN)」が武力闘争を開始、内戦が始まった。同年2月、レーガン政権が発足したばかりの米国で、国務省が「エルサルバドル白書」を出した。エルサルバドル左翼ゲリラへのニカラグア政府関与を指摘するものだ。一年後の82年2月、グァテマラでも「グァテマラ国民革命連合(URNG)」による内戦が激化した。
 1982年3月、隣国ホンジュラスに反政府軍事拠点を築いていた旧国家警備隊軍人らニカラグアの「コントラ」(反革命組織)が武力行動を開始した。国防次官になっていたパストラが辞任し、コスタリカで反政府軍事組織を結成する。中米五ヵ国のうち3ヵ国が内戦状態に突入し、残りの2ヵ国が反政府勢力の拠点として巻き込まれる「中米危機」である。
 
 1983年1月、パナマのコンタドーラ島でメキシコ、コロンビア、ベネズエラ及びパナマ4ヵ国外相が集まり、「中米危機」の解決を求める、いわゆる「コンタドーラグループ」を結成、当事国の内戦停止と当事者間対話の開始、及び外国勢力の介入停止を訴えた。これが次第に国際的評価を獲得するようになっていく。84年11月、ニカラグアでは総選挙が行われた。最大の反政府勢力がボイコットしたが、FSLNは議会の7割を占め、オルテガも67%もの得票率で大統領に選出された。
1985年7月、民政移管を果たしたブラジル、アルゼンチン、ウルグアイ及びペルーの4ヵ国がコンタドーラグループを支持するグループを形成した。両グループは後に「リオグループ」へと発展する。またキューバも軍事顧問団(オルテガによれば85年3月時点で786名)を撤収した。
 米国のレーガン政権は、議会が禁止した人道的支援以外のコントラへの支援を、エルサルバドル白書を根拠として、事実上継続していた。1986年11月、よく知られる「イラン・コントラゲート」(レバノンのヒズボラによる米人人質解放実現のため、これも当時禁止されていた対イラン武器売却を行い、その収益をコントラに振り向けた、とするスキャンダル)も発覚する。だが、87年後半、ニカラグアでは大司教を含む「国民和解委員会」結成後、政府とコントラの停戦機運は高まる。
 
 1987年8月、中米危機解決を図るべくグァテマラのエスキプラスで中米首脳会議が開催され、内戦当事諸国における反政府勢力との対話と戦闘行為の停止に向けた和平への枠組みが「エスキプラスII」として発表された。特定の外国による介入の排除と国際的監視団の受け入れも取り決められる。
 1988年3月、ニカラグアでは政府・コントラ間「サポア停戦合意」が成り、事実上内戦は終った。翌89年8月の政府・反政府勢力間合意に基づき派遣された国連の選挙監視団が見守る中、90年2月に選挙が実施され、広範囲の政党が組成した新たな「反対派国民連合(UNO)」が推すビオレタが55%の得票で大統領に選出され、オルテガからの政権引継ぎはスムーズに行われている。
 
人名表
(*1)サンディーノ(Augusto Cesar Sandino、1895-1934):1926年の米軍再進駐に抗議し33年米軍撤退までゲリラ闘争を率いた。国家警備隊により暗殺
(*2)ソモサ「タチョ」(Anastasio Somoza Garcia、1896-56):国家警備隊長官として1936年に事実上のクーデター率いる。以後、自身暗殺まで最高権力者
(*3)ルイス・ソモサ(Luis Somoza Debayle、1922-67):「タチョ」長男。ソモサ家支配二代目
(*4)ソモサ「タチート」(Anastasio Somosa Debayle、1925-80):「タチョ」次男。ソモサ家支配三代目。革命後亡命先で暗殺される。
(*5)チャモロ(Pedro Joaquin Chamorro、1924-78):反ソモサ論陣を張った新聞社主。抵抗勢力の象徴的存在で、彼が暗殺されてから革命が急展開
(*6)オルテガ(Daniel Ortega Saavedra、1945〜):FSLN指導者。革命後1990年まで政権を担う。2007年より二度目の大統領
(*7)パストラ(Eden Atanacio Pastora Gomez、1937〜):オルテガとともに革命に参加、後にFSLNを離脱し反革命武力闘争に従事、通称「コマンダンテ・セロ」
(*8)ビオレタ・デ・チャモロ(Violeta Barrios de Chamorro、1929〜):暗殺された上記チャモロの未亡人。ラ米史上初めての民選女性大統領(1990-97)


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