1933年8月、学生、労働組合などによる大規模ゼネストが打たれ、独裁化していたマチャード(*1)大統領が退陣、亡命する。その後も砂糖工場などの占拠や、親マチャード派への襲撃などの暴動が頻発、翌9月、反政府勢力がグラウ・サンマルティン(*2)ハバナ大学教授を首班とする革命政府を樹立した。この政変を「33年革命」とも呼ぶ。革命政権は米国企業所有の一部砂糖工場を接収、農地の分配、キューバ人以外の労働者への規制、など、民族主義的な政策を実行した。米国の利害から大きく離れている。
フランクリン・ルーズベルト米政権は、先ず「独裁者」マチャードの退陣は歓迎した。だが翌34年1月、バティスタ(*3)司令官が率いた革命政権転覆のクーデターには米国政府による何らかの意向があった、と見るのが常識のようだ。同年5月、バティスタ支配下の新政権に対して、キューバの米国保護権を規定した「ブラット修正条項」の撤廃を認め、保護国地位からの脱却を実現させた。
1940年10月、新憲法が公布された。メキシコの1917年憲法をモデルとし、普通選挙や国民投票制度を規定、労働者保護条項も採り入れた、当時としてはかなり進歩的な憲法だった。バティスタは新憲法に基づき、亡命から帰国させた「キューバ真性革命党」(通称Autentico。34年に結成)のグラウ・サンマルティンを対抗馬に大統領選挙戦を制した。
1934年から44年までの、いわば第一次バティスタ時代に社会福祉、労働者住宅建設、公共事業、農村部での教育などが推進された。かかる政策には、共産党の意向も覗える。44年にはグラウ・サンマルティンが大統領に就任、以後8年にわたる「Autentico」政権が続く。こちらは反共路線だった。スキャンダルも起き、同党の「33年革命」からの落差の大きさに失望する国民も多かった、という。嫌気した党員チバス(*4)が47年に離党し、「キューバ人民党」(通称Ortodoxo)を結成、翌年の大統領選に出馬して破れた後、「Autentico」政権腐敗への批判を繰り返し、51年にはラジオ番組出演中に自殺するという衝撃的な経緯を辿った。
キューバは、1952段階で砂糖産業が国民総生産の3割、総輸出の8割を占める後進的な経済構造ではあっても、都市人口が全体の56%を占め、国民の識字率は80%を超え、給与所得が国内総生産の65%という先進国だった(History of Latin America、Williamson、1992、Penguin Book、P444)。砂糖生産に占める米系企業のシェアはこの頃までには50%を下回っていたとは言え、経済全般にわたる米国の圧倒的な存在感は変わらなかった。
1952年3月、総選挙を間近に控えた時点で、バティスタがクーデターで再び政権を掌握した。政情不安を憂えたためという。選挙は先送りされた。当時25歳の弁護士カストロ(*5)は「Ortodoxo」から国会議員に立候補していた。
1953年7月、カストロら165名の反政府グループがサンティアゴ市にあるモンカダ兵営を襲撃した。メンバーの多くが反撃の銃で死亡し、そうでないものは逮捕、収監された。もともと無茶な行動だったが、ここで逮捕され、裁判にかけられたカストロが、弁護士の資格で自らの弁護にあたり、キューバの政治腐敗を質し、国民の政治的自由の回復と経済の独立性確保を訴え、有罪判決後、「歴史が無罪を宣告する」と叫び、一躍有名になった。獄中、これに工業化、土地改革、完全雇用、教育近代化などを加筆して、仲間を通じて流布させた。これが以後のキューバ革命の理論的支柱になる。54年末、バティスタは、自らの正統性を確保するため大統領選挙を実施、無競争で選任された。55年5月、その恩赦によって、カストロらも釈放された。
彼は、弟ラウル(*6)らと共に、メキシコに亡命した。ここで「7月26日運動(便宜上、以下「7.26運動」で表記)」の活動を開始した。「7.26運動」に、アルゼンチン人医師のゲバラ(*7)が参加する。54年6月、1年ほど滞在したグァテマラでアルベンス政権が米国CIAの支援を受けた軍事クーデターによって崩壊した後、アルベンス同様、メキシコに逃れて来ていた。
1956年12月、カストロ兄弟やゲバラら82名の革命戦士が、「グランマ号」という名の船でキューバの南部の海岸に辿り着いた。裏切りにあって襲撃を受け、このうちの12名だけがシエラ・マエストラ山岳地帯に逃げ込んで、そこを拠点としてゲリラ活動を始めた。この時点では、「7.26運動」は、キューバ国内に幾つかあった反バティスタ運動の一つに過ぎない。勢力拡大も大した進展を見せなかった。有名になるのは、先ずは米国で、だった。57年、「7.26運動」のゲリラ活動の初期段階に、ヒューバート・マシューという米人ジャーナリストがシエラ・マエストラに入って、カストロにインタヴューを行い、「シエラからの報告」としてニューヨークタイムズ紙で連載した。カストロら「7.26運動」の若い指導者らが、「圧政者と戦うロマンティックな革命運動家たち」として米国民に知れ渡り、好感を呼んだ。58年3月、国内世論に配慮した米国政府は、バティスタ政府軍への武器禁輸を決めた。これは革命勢力や反政府武装組織にとっては、プラスだ。
同1958年5月、バティスタ政権が僅か300人程度の「7.26運動」の武装制圧に乗り出した。国民の政権からの離反を食い止めるには不可欠である、との判断だった。ところが逆に「7.26運動」は同年8月までにキューバ島の南東部全体を制圧、政権側は急速に求心力を失い、「7.26運動」はこの勢いで反バティスタ勢力を糾合していく。カストロが反バティスタ勢力の指導者として、全国的認知を得るようになる。同年12月末バティスタが、当時のラ米における有名な独裁者、トルヒーヨ支配下のドミニカ共和国に逃亡した。翌59年1月1日、「7.26運動」を中心とする反乱軍が首都入城を果たし、革命が成立した。
1959年1月に発足した革命政府は、米国政府も承認した。態度を変化させたのは、59年5月に制定された「農地改革法」による。キューバ人所有者からは400f相当(63年に57f相当に改訂)を超える部分を、外人所有者からは全部を有償で接収し、共同農場に再編する、というものだ。米国企業所有の土地接収に対して、米国政府が抗議した。次に、バティスタ政権下の要人を「人民裁判」にかけ、処刑した。多くの国民が革命を嫌い米国などに亡命した。折角革命を好意的に見ていた米国世論も変わる。
1960年2月、東西冷戦の真っ只中に、ソ連の副首相がキューバを訪問し石油輸出を含む二国間貿易協定を締結した。米国系石油会社がその原油精製を拒んだことから、これを接収した。米国はこの措置への報復として砂糖引取量を削減した。これへの報復として米企業所有の電力、電話、砂糖、ニッケルなどの企業を国有化した。米国は対キューバ貿易禁止で応じ、翌61年1月に国交を断絶した。同年4月、亡命キューバ人による武力侵攻作戦、「ピッグズ湾事件」でキューバ側の戦利品に中に撃墜した米軍機があった。対米勝利のイメージが膨らみ、弱冠35歳のカストロが、国内外の知名度を大きく高めることになる。翌5月、カストロがキューバ革命を「社会主義革命」とする旨の宣言を行い、同年12月、自らを「マルクス・レーニン主義者」と言明する。米国は、歴史的「裏庭」に、東西冷戦の仮想敵国、ソ連の軍事、経済影響力を扶植してしまった。
1962年1月、米国のイニシアティヴによって、米州機構(OAS)がキューバを除名した。同年9月、キューバがソ連と武器援助協定を締結した。翌10月、米国のスパイ衛星により、米国全土を射程に収めるソ連の核ミサイルがキューバに存在することが証明された。同月22日、ケネディ米大統領はキューバ向け武器輸送船全ての航路封鎖を命じ、ソ連にキューバのミサイル全てを撤去するよう要求した。実行しない場合は、核戦争を辞さない、とまで言い切る。世界を震撼させた、世界史上有名な「キューバ危機」である。時間的にも猶予の無い、一発触発の状況に至ったことから、こう呼ぶ。これはソ連のフルシチョフ首相がケネディとの交渉でミサイル撤去に応じたことで決着した。
1964年4月、OASは、47年に締結した「米州相互援助条約(リオ条約)」に則った形でキューバ制裁を決めた。米州諸国の対キューバ断交が始まった。メキシコだけは国交を維持する。
1965年4月のドミニカ内戦には、米国が直ちに反応した。海兵隊の派兵人数も3万人、と、非常に大きい。OASに諮って、ほどなく、ブラジル人を総司令官にする「OAS平和軍」に名を変え、ラ米数ヵ国が派兵をしたものの、駐留軍の95%が米海兵隊員だった。
1966年9月、ゲバラがボリビアに赴いた。「第二、第三のベトナム」を作り上げるためのゲリラ活動を推進しよう、としたものだが、67年10月、射殺された。68年、メキシコで開催されるメキシコ五輪に反対する学生らが治安部隊の出動で流血を見る、いわゆる「トラテロルコ事件」が起きた。また軍政下にあったアルゼンチンでも翌69年、工業都市コルドバで「コルドバソ」と呼ばれる流血事件が起きている。全世界的にもこの時期学生運動が激かった。加えて;
68年ベラスコ将軍の「ペルー革命」。左翼民族主義政権の発足(但し75年に崩壊)
同、トリホス将軍の「パナマ革命」。対米強硬派政権の発足。キューバ革命に理解
69年、チリで「人民連合」が発足。翌70年、アジェンデ社会主義政権成立
が成っている。ただチリのアジェンデ政権は、73年のピノチェト将軍によるクーデターで崩壊する。ゲバラ処刑後に相次いだこれらの動きは偶然ではなさそうだ。
キューバの経済政策については、1965年よりの五ヵ年計画で進めた70年での砂糖生産1千万トンが未達に終ったあと、思い切った政策転換を図った。産業多角化と工業化の必要性が再認識され、その推進には社会主義諸国間の生産分担システムが最善と考え、72年6月、コメコン(社会主義経済相互援助会議)に加盟した。これを契機に、金属、機械、肥料などの工業の発展を見ていく。
政治的にはソ連との関係が強化され、1975年12月、キューバ共産党第一回党大会が開催され、社会主義憲法草案を承認すると共にカストロを党の中央委員会政治局の第一書記に選び、翌76年12月、召集された「人民権力全国議会」が国家評議会議長(大統領に相当)に選出した。まさしく、ソ連型の共産党一党独裁による社会主義国家が、「米国の裏庭」に、こうして実現を見た。
一方で、ラ米諸国が次々とキューバとの外交関係を復活させ、米国も制裁緩和に動いた。だが90年代初頭のソ連東欧圏崩壊で未曾有の経済危機にあたり米国の制裁は強化されたが、2001年から食料・医薬品の対キューバ輸出は認められるようになっている。国交は、断絶したままだ。
人名表
(*1)マチャード(Gerardo Machado y Morales 、1871-1939):独立革命世代最後の大統領(1925-33)。独裁化が進み、「1933年革命」で失脚
(*2)グラウ・サンマルティン(Ramon Grau San Martin、1887-1969):ハバナ大学教授から真性革命党(Autentico)指導者になる。大統領(1944-48)
(*3)バティスタ(Fulgencio Batista、1901-1973):「1933年革命」政権を転覆。1934-44年の最高権力者。52年、Autentico政権転覆、以後独裁を敷く。
(*4)チバス(Eduardo Chibas、1907-51):Autenticoから腐敗を理由に離れ人民党(Ortodoxo)を結成。ラジオ番組出演中に自殺
(*5)カストロ(Fidel Castro Ruz、1926-):革命指導者。1959年より76年まで首相、76年より2008年2月まで国家評議会議長(国家元首)
(*6)ラウル・カストロ(Raul Castro Ruz、1931-):カストロ実弟。革命に参加。2006年6月より08年2月までの代行期間を経て、現在国家評議会議長
(*7)チェ・ゲバラ(Ernesto Che Guevarra、1928-1967):アルゼンチン人。革命の英雄。彼の「ゲバラ日記」は1968年以降暫く、世界を風靡した。
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