十九世紀央より暫くは基本的にカウディーリョ時代が続き内乱も起きてはいたが、幾らか安定してきた。欧米では産業革命が進み、国際交易はそれまでの帆船に代わり蒸気船が一般化し、ラ米でも鉄道が敷設され物流の大量・高速化が可能となる。終わりの四半世紀、概ねカウディーリョの時代は終った。殆どの国が自由主義政権を確立させた。経済については、保守派政権下でも貿易、投資への規制を排除する自由主義が一般的な時代となった。ここでは十九世紀後半の重要な戦争をみる。
(1)国民戦争(ウォーカー戦争)(1856年3月〜57年5月)
五ヵ国に分裂した中米諸国が社会秩序維持を叫ぶ保守派政権で足並みを揃えていた時代、ニカラグアでは自由主義勢力が保守派政権転覆に米人ウォーカー(William Walker、1824-60)が指揮する傭兵隊(米墨戦争にも従軍)を招請した。彼が国家としても纏まりがないニカラグア全土を制圧するのに時間は要しなかった。問題は、米人の彼が大統領を名乗るようになったことで、当然、これに中米各国が強く反発する。
モラ(*1)・コスタリカ大統領が総司令官となり、グァテマラ、ホンジュラス及びエルサルバドと中米連合軍を結成しニカラグアに侵攻、ウォーカーの指揮する軍との交戦に至る。最終的には米国の調停を受ける形で彼を追放し決着した。これを国民戦争と呼ぶが、実態は外人個人の部隊をニカラグアから追放するための中米諸国の軍事支援、といえる。彼はその後も2度にわたり中米侵攻を試み、最終的にホンジュラスで処刑された。
戦後15年の内に中米諸国は既得権益の排除を主張する自由主義勢力が政権を獲得するようになるが、ニカラグアでは1893年まで保守派政権が続く。
(2)メキシコ抗仏戦争(1862年4月〜67年3月)
1857年2月、フアレス(*2)を指導者とする自由主義派によるレフォルマ(改革)運動の集大成として憲法が公布された。これに保守派が抵抗、レフォルマ戦争(1858年1〜61年1月)という内戦に発展する。前者がこれを制しフアレスが先住民ながら大統領に選出された。敗れた保守派は、ヨーロッパから君主担ぎ出しを図る。
1861年2月、米国が南北戦争(〜65年4月)に突入した。同年11月、メキシコの債権問題を理由としてスペイン、イギリス、フランス軍がベラクルス上陸、フアレス政権との交渉結果、翌62年2月、スペイン、イギリス軍は撤収したがフランス軍は残った。皇帝のナポレオン三世は、上述のメキシコ保守派の運動に乗る形でオーストリアのマクシミリアン(*3)大公をメキシコ皇帝に推したてた。フランス軍のメキシコ展開は不可欠で、これが抗仏戦争の発端となる。米国がモンロー宣言を発動しようにもできないタイミングだった。
フランス軍の首都進撃開始後、フアレス政府は首都を脱出、代わってマクシミリアンがメキシコに到着しマクシミリアノ一世として即位する。ハプスブルグ家帝政(64年5月〜67年5月)である。その1年後、米国の南北戦争が終わった。同年8月、米国がフランスにメキシコ撤退を要求した。一方でフアレス側に武器及び志願兵を提供、これ以降抗仏戦争はフアレス側に有利に展開するようになる。時間が掛かったが、翌66年4月、ナポレオン三世がフランス軍のメキシコ撤収を表明、これは67年3月に終了した。同年6月、フアレス政府は残っていたマクシミリアンを処刑、翌月首都に帰還する。
ニカラグアとは逆に、メキシコではこうして保守派が政治から退場した。
(3)パラグアイ戦争(1864年12月〜70年3月)
ウルグアイで1863年に起きたコロラド党によるブランコ党政権に対する内戦が、国境地帯での両国農民同士の抗争を招き被害を蒙った、として、翌64年4月、ブラジル政府がウルグアイ政府に賠償請求を行い、両国間が緊張関係に入った。ウルグアイ政府が、同年8月、パラグアイのソラノ・ロペス(*4)大統領の仲介を要請、ブラジル側がこれを拒み同10月にはウルグアイ進撃を開始した。これはラプラタ水系の勢力均衡崩壊に繋がりパラグアイの国益を損なう、とみるパラグアイが、同12月、ペドロ二世(*5)治下のブラジル帝国に宣戦する。人口で20倍、圧倒的な大国を相手にするわけだが、パラグアイは富国強兵策により優れた兵力と先進的兵器を有する、当時では軍事大国に育っていた。
1865年2月、ウルグアイがブラジルに降伏、コロラド党が政権を奪還し、パラグアイ戦争ではブラジル側に付くことになる。65年5月以降、パラグアイに対するブラジル、アルゼンチン及びウルグアイ「三国同盟」の戦争に発展した。緒戦はパラグアイが制した。66年になると同盟軍が攻勢を強め、パラグアイ軍をアルゼンチン及びブラジル領内から撃退、今度はパラグアイ国内での戦争に移った。パラグアイ側の抵抗は激しく、アスンシオン陥落には69年1月までかかった。戦争自体の終結は、翌70年3月のソラノ・ロペス戦死によって、である。それまで山岳地帯で抵抗戦を続けていた。
この戦争の特徴はパラグアイの人口が半減した、といわれるその悲惨さにある。5年以上に亘る戦争で、三国同盟側でも数万人の戦死者を出した。ブラジルとアルゼンチンは合わせて十数万平方キロにも上る新たな領土を得て、後者はほぼ現在の領域を画定した。前者の領域は1903年のボリビアとの国境条約を経て画定される。
(4)太平洋戦争(1879年7月〜83年10月(対ペルー)、84年4月(対ボリビア))
1866年、ボリビアとチリが、南緯24度を国境とする太平洋岸地域の「国境条約」を締結した。この南北1度ずつを地下資源の共同開発地域と定めた。ボリビア領内にチリ資本が進出するきっかけとなる。翌67年、太平洋岸のボリビア領アントファガスタで、豊富な硝石資源が発見された。それまでチリ領北部地帯の硝石開発に携わっていたチリ資本がここにも進出した。ボリビア政府は、78年12月、チリ企業に対する硝石輸出増税を通告する。
1879年2月、チリ海軍がアントファガスタに上陸した。上記増税がそれまでに締結された二国間協定に違反する、との主張で、ボリビア当局による資源税徴収の執行妨害を目的とする。これに対して、翌3月、ボリビアがチリに、4月チリがボリビアとペルー(当時ボリビアと相互防衛条約を結んでいた)に宣戦布告した。チリは79年10月頃までには制海権を確保、地上戦でも80年6月頃から優位で進み、81年1月にはリマを陥落した。その後ペルー、ボリビア両国軍とも抵抗戦に入り、ペルーは1883年10月のアンコン講和条約、ボリビアは84年4月の休戦条約まで続いた。これらによりペルーは、やはり硝石産地であるタラパカ地方を失い、ボリビアは1904年の講和条約でアントファガスタを正式割譲、太平洋の出口を失い内陸国となる。チリは現領域をほぼ画定した。
大勝したチリは火薬や肥料の原料、硝石で潤うようになったが、7年後の1891年、「議会の乱」が起き、立法府の行政府に対する優越を決めたいわゆる「議会共和国」時代に入る。
人名表
(*1)モラ(Juan Rafael Mora、1814-60):コスタリカ。1849年にクーデターで政権掌握、1859年に追放されるまで10年間、大統領を務める。
(*2)フアレス(Benito Juarez、1806-72): メキシコ。先住民出身ながらレフォルマ(自由主義改革)指導者。1857年憲法制定。大統領(1858-61暫定、1861-72民選)
(*3)マクシミリアン(Maximiliano I、1832-67):オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ一世の実弟。フランス軍の後押しでメキシコ保守派がメキシコ皇帝に担ぎ出した。
(*4)ソラノ・ロペス(Francisco Solano Lopez、1827-70):パラグアイ。別掲「カウディーリョたち」の「建国期後期」を参照
(*5)ペドロ二世(Pedro II、1825-1891、在位1840-89):第二代ブラジル皇帝。父は1831年にポルトガル王位継承問題で退位したペドロ一世。
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