ラ米の域内・対外戦争


 1   独立黎明期(1820-50年代)の国家間戦争
更新日時:
H20年7月3日(木) 
 独立黎明期のカウディーリョの時代には、多くの新興国で内乱が頻発した。細かく見ればこれこそ枚挙に暇がない。国家間干渉や領土画定を巡る紛争は、隣国同士の戦争も呼び込んだ。ブラジルとアルゼンチン、ペルーとエクアドル、ペルーとボリビア及びチリ、分裂後の中米諸国、北の巨人、米国とメキシコ、などがある。ヨーロッパ列強によるメキシコやアルゼンチンなどへの軍艦外交もあった。ここではラ米史上有名な三つの国家間戦争を記す。
 
(1)ブラジル・アルゼンチン戦争(1825年10月〜28年8月)
 
 1816年に「ポルトガル・ブラジル連合王国(以下、連合王国。王都はリオデジャネイロ)」の国王に即位したジョアン六世の王妃はスペイン王室から出ており、その領地はスペインのラプラタ副王領を構成していたバンダオリエンタル(現ウルグアイ)とされていた。従って同年7月の「ラプラタ諸州連合(以下、諸州連合)独立宣言は見過ごせない。一方で、バンダオリエンタル独立革命の指導者アルティガス(*1)はこの独立宣言を採択した会議に参加していない。黎明期の諸州連合では国家統合を優先する「統合派(ウニオニスタ)」と地方分権を主張する「連邦派(フェデラリスタ)」の抗争が続き、独立宣言はウニオニスタが推進、彼と政治路線上は敵対関係にあった。翌17年1月、連合王国がモンテビデオを占領、アルティガスは追放された。諸州連合は、この動きを結果的に黙認した。
 8年後の1825年1月、諸州連合は「基本法」を制定、併せて連合大統領を選出し国家としての体裁を整える。同年8月、バンダオリエンタル独立派(それまでブエノスアイレスなどに避難)が帰還しブラジル帝国(22年にポルトガルより独立)からの独立を宣言した。ブラジルは領土保全を理由に、この背後にある諸州連合に対し、同年12月、宣戦する。
 戦争は、連合側が優勢だった、とされる。国力で遥かに勝るブラジルだが、遠隔地リオからの艦隊、兵隊の増派は困難だった。とりわけ、戦争突入後間もない26年3月、ポルトガル王ジョアン六世が死去し、その皇太子だったブラジル皇帝ペドロ一世(*2)のポルトガル王位継承問題が起きると、彼はこちらの方に没頭するようになり、士気は落ちる。ただ諸州連合も国家としての纏まりが途上で、厭戦気分が高まる。28年6月、連合大統領が辞任、以後上記基本法に則り、ブエノスアイレス州知事がこれを代行、同年8月、イギリスによる調停で講和し、両国間の緩衝国家としてのウルグアイ独立が決まった。
 「ラプラタ(銀)」と同意味の「アルゼンチン(銀の土地)」と呼ばれる諸州連合はバンダオリエンタルを失った。ブエノスアイレス州知事のロサス(*3)時代(1829-52)が始まる。ブラジルでもペドロ一世退位後の摂政時代(1831-41)に内乱が多発する。誕生したウルグアイではリベラ(*4)とオリベ(*5)という二人のカウディーリョによる抗争で国情が長期に亘って不安定だった。この戦争で、ブラジル・ウルグアイ・アルゼンチン現国境が画定した。
 
(2)連合戦争1836年12月〜39年4月)
 
 1829年2月、クエンカ(現エクアドル)地方領有権を巡るグランコロンビア(現ベネズエラ、コロンビア、エクアドルで構成)との紛争で、ペルー軍が越境攻撃に出た。戦場名を採ってポルテテ・イ・タルキ会戦と呼ぶ。前年にボリビアから帰還していたスクレ*6。ボリビア終身大統領の座から追われたもの)の指揮下、グランコロンビア軍がペルー軍を撃退、ペルーのクエンカ領有権主張は以後無くなった。
 後年、ボリビアのサンタクルス(*7)大統領がペルーへの影響度が強め、その大統領、ガマラ(*8)を追放、36年6月、「ペルー・ボリビア連合」(以下「連合」)を樹立した。ペルーに亡命していたチリ将軍のフレイレ(*9)元最高統領が「連合」を後ろ盾として、ペルー軍艦でチリ侵攻を図った。失敗したが、これがチリによる対「連合」宣戦に発展した。チリ軍は逆にガマラを味方として攻勢をかけ、39年1月のユンガイ会戦で「連合」軍を撃破、4月にリマ占領に至り、事実上決着した。ガマラが復権しサンタクルスは失脚、「連合」は解体した。今度はガマラが「連合」再建を図り、自らがペルー軍を率いてボリビアに侵攻、41年11月のインガビ会戦敗退で戦死している。以後、両国の連合構想は無くなったがカウディーリョ時代は続く。チリは戦勝で国民的プライドを高め、保守的「1833年憲法」下で一大統領が任期10年ずつの長期安定政権で、黎明期のラ米では異例の速さで国家統合が進む。
 
(3)米墨戦争(1846年7月〜48年2月)
 
 メキシコ独立後、1829年7月に独立を認めないスペインが軍艦を派遣した。38年11月にはフランス軍艦もベラクルスに襲来した。いずれもサンタアナ(*10)の努力で撃退したが、国内ではクーデターが相次ぎ、独立国家としての纏まりを欠いていた。
 1836年、テキサスの米人入植者がサンタアナ指揮下のメキシコ国軍にアラモ砦を全滅させられた(アラモの戦い)後、サンハシントの戦いでこれを撃退して分離独立した。テキサスが45年末に米国に併合された後、メキシコとの境界を巡る係争が起こった。米国はかつてのテキサスの州境であるヌエセス川を国境と認めず、それより南のリオグランデを主張した。メキシコの国境守備兵がリオグランデ以北から撤退しないことを我慢できない、として侵攻に踏み切ったものだ。当時米国で「マニフェスト・デスティニー」(野蛮な状態に置かれた地を米国に併合し文明を与えるのは、神が米国に与えた天命、とする主張)が喧伝されていた。
 1847年9月、侵攻開始から1年1年余りで、もう首都が陥落した。48年2月、メキシコが降伏し、現カリフォルニア、ネヴァダ、アリゾナ、コロラド、ユタ、ニューメキシコを米国に譲渡した。53年12月にもアリゾナ州と隣接する7.6万平方`を譲渡し、現在の国境が画定された。後年、首都陥落の折に殉死した少年兵の銅像がチャプルテペック公園入り口に建てられ、歴代大統領が訪れる慣わしになっている。メキシコ人の複雑で根深い反米感情の背景として指摘しておきたい。
 
人名表
 
(*1)アルティガス、(*2)ペドロ一世*6)スクレについては別掲の「ラ米の独立革命」
(*3)ロサス、(*4)リベラ、(*5)オリベ、(*7)サンタクルス、(*8)ガマラ及び(*10)サンタアナについては同「カウディーリョたち」の「建国期」参照
(*9)フレイレ(Ramon Freire Serrano、1787-1851):チリ第二代最高統領(1823-27)。独立革命指導者オヒギンス及びサンマルティン(いずれも「ラ米の独立革命」参照)旗下で革命戦争に参加するが、独立後は反オヒギンス(初代最高統領)の代表的人物

 2   十九世紀後半の戦争
更新日時:
H20年7月4日(金) 
 十九世紀央より暫くは基本的にカウディーリョ時代が続き内乱も起きてはいたが、幾らか安定してきた。欧米では産業革命が進み、国際交易はそれまでの帆船に代わり蒸気船が一般化し、ラ米でも鉄道が敷設され物流の大量・高速化が可能となる。終わりの四半世紀、概ねカウディーリョの時代は終った。殆どの国が自由主義政権を確立させた。経済については、保守派政権下でも貿易、投資への規制を排除する自由主義が一般的な時代となった。ここでは十九世紀後半の重要な戦争をみる。
 
(1)国民戦争(ウォーカー戦争)(1856年3月〜57年5月)
 
 五ヵ国に分裂した中米諸国が社会秩序維持を叫ぶ保守派政権で足並みを揃えていた時代、ニカラグアでは自由主義勢力が保守派政権転覆に米人ウォーカー(William Walker、1824-60)が指揮する傭兵隊(米墨戦争にも従軍)を招請した。彼が国家としても纏まりがないニカラグア全土を制圧するのに時間は要しなかった。問題は、米人の彼が大統領を名乗るようになったことで、当然、これに中米各国が強く反発する。
 モラ(*1)・コスタリカ大統領が総司令官となり、グァテマラ、ホンジュラス及びエルサルバドと中米連合軍を結成しニカラグアに侵攻、ウォーカーの指揮する軍との交戦に至る。最終的には米国の調停を受ける形で彼を追放し決着した。これを国民戦争と呼ぶが、実態は外人個人の部隊をニカラグアから追放するための中米諸国の軍事支援、といえる。彼はその後も2度にわたり中米侵攻を試み、最終的にホンジュラスで処刑された。
 戦後15年の内に中米諸国は既得権益の排除を主張する自由主義勢力が政権を獲得するようになるが、ニカラグアでは1893年まで保守派政権が続く。
 
(2)メキシコ抗仏戦争(1862年4月〜67年3月)
 
 1857年2月、フアレス(*2)を指導者とする自由主義派によるレフォルマ(改革)運動の集大成として憲法が公布された。これに保守派が抵抗、レフォルマ戦争(1858年1〜61年1月)という内戦に発展する。前者がこれを制しフアレスが先住民ながら大統領に選出された。敗れた保守派は、ヨーロッパから君主担ぎ出しを図る。
 1861年2月、米国が南北戦争(〜65年4月)に突入した。同年11月、メキシコの債権問題を理由としてスペイン、イギリス、フランス軍がベラクルス上陸、フアレス政権との交渉結果、翌62年2月、スペイン、イギリス軍は撤収したがフランス軍は残った。皇帝のナポレオン三世は、上述のメキシコ保守派の運動に乗る形でオーストリアのマクシミリアン(*3)大公をメキシコ皇帝に推したてた。フランス軍のメキシコ展開は不可欠で、これが抗仏戦争の発端となる。米国がモンロー宣言を発動しようにもできないタイミングだった。
 フランス軍の首都進撃開始後、フアレス政府は首都を脱出、代わってマクシミリアンがメキシコに到着しマクシミリアノ一世として即位する。ハプスブルグ家帝政(64年5月〜67年5月)である。その1年後、米国の南北戦争が終わった。同年8月、米国がフランスにメキシコ撤退を要求した。一方でフアレス側に武器及び志願兵を提供、これ以降抗仏戦争はフアレス側に有利に展開するようになる。時間が掛かったが、翌66年4月、ナポレオン三世がフランス軍のメキシコ撤収を表明、これは67年3月に終了した。同年6月、フアレス政府は残っていたマクシミリアンを処刑、翌月首都に帰還する。
ニカラグアとは逆に、メキシコではこうして保守派が政治から退場した。
 
(3)パラグアイ戦争(1864年12月〜70年3月)
 
 ウルグアイで1863年に起きたコロラド党によるブランコ党政権に対する内戦が、国境地帯での両国農民同士の抗争を招き被害を蒙った、として、翌64年4月、ブラジル政府がウルグアイ政府に賠償請求を行い、両国間が緊張関係に入った。ウルグアイ政府が、同年8月、パラグアイのソラノ・ロペス(*4)大統領の仲介を要請、ブラジル側がこれを拒み同10月にはウルグアイ進撃を開始した。これはラプラタ水系の勢力均衡崩壊に繋がりパラグアイの国益を損なう、とみるパラグアイが、同12月、ペドロ二世(*5)治下のブラジル帝国に宣戦する。人口で20倍、圧倒的な大国を相手にするわけだが、パラグアイは富国強兵策により優れた兵力と先進的兵器を有する、当時では軍事大国に育っていた。
 1865年2月、ウルグアイがブラジルに降伏、コロラド党が政権を奪還し、パラグアイ戦争ではブラジル側に付くことになる。65年5月以降、パラグアイに対するブラジル、アルゼンチン及びウルグアイ「三国同盟」の戦争に発展した。緒戦はパラグアイが制した。66年になると同盟軍が攻勢を強め、パラグアイ軍をアルゼンチン及びブラジル領内から撃退、今度はパラグアイ国内での戦争に移った。パラグアイ側の抵抗は激しく、アスンシオン陥落には69年1月までかかった。戦争自体の終結は、翌70年3月のソラノ・ロペス戦死によって、である。それまで山岳地帯で抵抗戦を続けていた。
 この戦争の特徴はパラグアイの人口が半減した、といわれるその悲惨さにある。5年以上に亘る戦争で、三国同盟側でも数万人の戦死者を出した。ブラジルとアルゼンチンは合わせて十数万平方キロにも上る新たな領土を得て、後者はほぼ現在の領域を画定した。前者の領域は1903年のボリビアとの国境条約を経て画定される。
 
(4)太平洋戦争(1879年7月〜83年10月(対ペルー)、84年4月(対ボリビア))
 
 1866年、ボリビアとチリが、南緯24度を国境とする太平洋岸地域の「国境条約」を締結した。この南北1度ずつを地下資源の共同開発地域と定めた。ボリビア領内にチリ資本が進出するきっかけとなる。翌67年、太平洋岸のボリビア領アントファガスタで、豊富な硝石資源が発見された。それまでチリ領北部地帯の硝石開発に携わっていたチリ資本がここにも進出した。ボリビア政府は、78年12月、チリ企業に対する硝石輸出増税を通告する。
 1879年2月、チリ海軍がアントファガスタに上陸した。上記増税がそれまでに締結された二国間協定に違反する、との主張で、ボリビア当局による資源税徴収の執行妨害を目的とする。これに対して、翌3月、ボリビアがチリに、4月チリがボリビアとペルー(当時ボリビアと相互防衛条約を結んでいた)に宣戦布告した。チリは79年10月頃までには制海権を確保、地上戦でも80年6月頃から優位で進み、81年1月にはリマを陥落した。その後ペルー、ボリビア両国軍とも抵抗戦に入り、ペルーは1883年10月のアンコン講和条約、ボリビアは84年4月の休戦条約まで続いた。これらによりペルーは、やはり硝石産地であるタラパカ地方を失い、ボリビアは1904年の講和条約でアントファガスタを正式割譲、太平洋の出口を失い内陸国となる。チリは現領域をほぼ画定した。
 大勝したチリは火薬や肥料の原料、硝石で潤うようになったが、7年後の1891年、「議会の乱」が起き、立法府の行政府に対する優越を決めたいわゆる「議会共和国」時代に入る。
 
人名表
 
(*1)モラ(Juan Rafael Mora、1814-60):コスタリカ。1849年にクーデターで政権掌握、1859年に追放されるまで10年間、大統領を務める。
(*2)フアレス(Benito Juarez、1806-72): メキシコ。先住民出身ながらレフォルマ(自由主義改革)指導者。1857年憲法制定。大統領(1858-61暫定、1861-72民選)
(*3)マクシミリアン(Maximiliano I、1832-67):オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ一世の実弟。フランス軍の後押しでメキシコ保守派がメキシコ皇帝に担ぎ出した。
(*4)ソラノ・ロペス(Francisco Solano Lopez、1827-70)パラグアイ。別掲「カウディーリョたち」の「建国期後期」を参照
(*5)ペドロ二世(Pedro II、1825-1891、在位1840-89):第二代ブラジル皇帝。父は1831年にポルトガル王位継承問題で退位したペドロ一世。

 3   二十世紀の国家間戦争
更新日時:
H20年7月3日(木) 
 前述の太平洋戦争後、ラ米では幾つかの中米紛争、ボリビア・パラグアイ及びペルー・エクアドル間戦争の例外を除き、域内国家間戦争は無くなった。
 十九世紀後半より、各国はドイツとフランスから軍事顧問団を招き、軍制の近代化に取り組んだ。或いは、米国が軍隊を派遣し内政をみる国が中米カリブ地域で幾つか出た。第一次世界大戦にはブラジルのみが連合側として参戦した。輸出牽引による発展を遂げた経済は、世界恐慌(大恐慌)で大きく収縮し、国情混乱の中で、今度は国軍の指導者、或いは若手将校とかがクーデターによって政治の表舞台に登場、強権政治を敷かれる国が現れる。
 第二次世界大戦にはブラジルとメキシコが連合側で参戦した。大戦後、東西冷戦時代を迎えた。ラ米諸国は1947年9月、米国の主導で、世界の集団安全保障条約の先駆けと言われる「米州相互援助条約(リオ条約)」を締結し、軍事システムを米国標準に統一する。軍人訓練は米国南方総司令部が設置されたパナマの訓練センター(63年に有名な「スクール・オブ・アメリカス」に発展する)で行われるようになる。だが、米国で原則となっている文民統制はラ米の多くで無視され、軍部が組織として国政の前面に現れる軍政時代を経験した(別掲の「ラ米の軍部」参照)。
 以上を念頭に、ここでは二十世紀におけるラ米の国家間戦争を取り上げる。
 
(1)チャコ戦争(1932年6月〜35年6月)
 
 パラグアイ川からアンデス東麓山までのチャコ地方の内、ピルコマヨ川北部一帯の約26万平方`がボリビア領とパラグアイ領に分かれ、一応の国境線は二十世紀初頭、アルゼンチンの調停で確立していた。それでも両国間で紛争が絶えず、1928年12月、ボリビア側の要塞をパラグアイ軍が襲撃する事件に発展する。これは米州諸国の調停で29年9月までに一旦収束したが、紛争は絶えず、31年7月、ボリビアがこれを理由にパラグアイとの断交に踏み切り、翌32年6月、宣戦を布告、侵攻に入る。チャコ戦争である。
 当時のボリビアは、チリとの太平洋戦争の敗戦で内陸国になっていたとは言え、国土面積でパラグアイの5倍、人口は3倍近かった上に、銀、錫、ゴムで経済力も比較できぬほど高かった。緒戦1年間は、パラグアイは劣勢に立たされた。しかし33年半ばから優勢に転じ、翌34年末より戦場はボリビア領内に移った。半年後の35年6月、近隣5ヵ国と米国から成る調停委員会との交渉で停戦条約に調印、マラリアによる死亡者を含め両国合わせて10万人と言われる犠牲者を出した戦争が終結した。
 これでパラグアイは半世紀前のパラグアイ戦争で失った領土面積以上を獲得、現在の領域を画定させた。ボリビアも領土を画定する。以後、両国とも政情流動化を経て、52年にはボリビア革命を、54年にパラグアイで35年も続くストロエスネル「ラ米の軍部」参照)将軍の超長期政権時代を、また64年からのボリビア軍政時代を経験することになる。
 
(2)ペルー・エクアドル戦争(第一次:1941年7月5〜31日、第二次:95年1月25〜2月17日
 
両国は独立以来お互いの境界線を巡った紛争を繰り返し、一応の国境線は時間を追って確立してきた。アマゾン地域の領有権について、1859-60年には武力衝突も起きていたが、エクアドルが内戦や対コロンビア侵攻、ペルーもスペイン軍艦来襲や太平洋戦争などで忙しく、この間旧宗主国スペインの国王仲介を要請するなど一定の動きはあったが、実質的に宙に浮いた状態が続き、実効支配国境線を取り決めるのに1936年までかかった。
 1941年7月5日、取り決めたはずの国境線をエクアドル軍が侵害した、として、ペルー側が大軍をエクアドル領内に派遣、交戦結果は事実上、ペルー側の勝利だった(第一次戦争)。西半球で軍隊を空輸した初めての戦争と言われる。
 1942年1月、米国の第二次世界大戦参戦を受けた米州外相会議がリオデジャネイロで開催され、対枢軸諸国断交を盛った「リオ宣言」が採択された。ここで両国は米国、ブラジル、アルゼンチン及びチリの四ヵ国を「保証者」として「リオ議定書」と呼ばれる和平協定に調印した。紛争地域のペルー帰属を確認するものだった。
 1960年、エクアドル大統領が、リオ議定書がペルー軍展開の中で締結されたことを理由に、無効を宣言、またしても領有権問題が宙に浮いた状態に陥った。81年以降、エクアドル軍による議定書上の国境侵犯が何度か起こり、95年1月26日、ペルー軍駐屯地が襲撃されたことで第二次戦争に発展した。戦争自体は一月後の「モンテビデオ宣言」で終結したが、最終的決着は98年10月の和平協定調印まで掛かっている。独立以来紛争の絶えなかった両国の現領域は、この時点で漸く画定した。
 
(3)ホンジュラス・エルサルバドル戦争(1969年7月14-18日)
 
1959年にキューバ革命が成立してから2年後、米国主導による「進歩のための同盟」が打ち出され、農地再分配を基本とする農地改革がラ米各国で進められていた。62年9月に制定されたホンジュラスの農地改革法は、公有農地の民間払い下げを実施するもので、対象はホンジュラス国民に限定された。当時在ホンジュラスのエルサルバドル人農民は10万人とも言われた。69年の同法施行で公共農地での職を失った彼らの大量帰国が始まる。
 1969年6月のサッカーワールドカップ北中米予選で、サンサルバドルにおいて両国チームが対戦した機会にホンジュラス人観客が暴力を受けた。ホンジュラスから帰国するエルサルバドル人農民がこの報復を受ける。隣国国民間の敵対感情が増幅し、ついにエルサルバドル軍によるホンジュラス侵攻に発展した。そのため、サッカー戦争と呼ばれる。両国とも事実上の軍政下にあった。
 OASの調停で戦闘は4日間で終ったが、80年5月まで両国間外交関係を絶つ。最終的和平協定締結は、同年10月である。前年ニカラグア革命が成立した。エルサルバドルとホンジュラスは民政移管を2年後に控えていた。一方で前者は左翼ゲリラによる内戦状態にあり、80年代の中米危機の一角を成した。ホンジュラスではニカラグア反革命勢力が基地を置きやはり中米危機に巻き込まれた。
 
(4)マルビナス戦争(1982年4〜6月。イギリス名ではフォークランド戦争)
 
マルビナス諸島は1832年にイギリスによって植民化されたと言う。アルゼンチンの歴代政府は領有権を主張し、英国政府に対し返還を訴え続け、1977年、英国政府はアルゼンチン軍侵攻の危険が差し迫っている、として軍艦を派遣していた。82年4月、人口1,800人、牧羊で支えられていた同地に、当時のアルゼンチン軍政が1万人もの大軍で侵攻、英国海軍の要塞を簡単に制圧してしまった。経済苦境に苛まれていた国民は、それまで抑圧的な軍政に苦しんでいたが、狂喜した。ラ米の他国民も熱狂的にこの軍事行動を支持した。米国が両国間調停に乗り出したが失敗、47年のリオ条約に反するが、対英ではなく対アルゼンチン制裁、即ち新規信用供与と武器援助の停止を表明する。
 イギリスから数千人規模の軍隊が派遣され、6月、アルゼンチンの現地守備隊が降伏してしまい、敗戦となった。軍政は、84年までの民政移管を約束することになる。敗戦したものの、アルゼンチンは民政復帰後の今日もなお、領有権を主張している。
 

 4   二十世紀の内戦
更新日時:
H20年7月3日(木) 
 内戦とは政権交代が可能な主義主張の異なる勢力間の武力闘争、を指すが、十九世紀にも頻発した。カウディーリョ間権力闘争の性格が強かったものも多かったが、各国で保守派・自由主義派間、軍人・文民間政権交代が内戦によりもたらされた。
 二十世紀の内戦は、ナショナリズムや社会主義イデオロギーを伴うものが多い。この内社会革命に発展した内戦(メキシコ、ボリビア、キューバ、ニカラグア)は、別掲の「ラ米の革命」を参照願いたい。ここではそれ以外の、ラ米史上意義深い内戦について述べる。
 
(1)コロンビア千日戦争(1899年10月〜1902年11月)
 
1830年にベネズエラとエクアドルが分離したグランコロンビアは、ヌエバグラナダ共和国として改めて建国された。その後建国の英雄、サンタンデルの流れを引く勢力と、独立革命の英雄でベネズエラ人のボリーバルの流れを引く勢力の抗争が続いた。1849年、前者が自由党を、後者が保守党を結成した。前者の政権時代、国名がグラナダ連合(1857年)、コロンビア合衆国(63年)と変り、地方分権の強化が図られた。また教会特権の廃止も進んだ。1880年に発足したヌニェス政権以降が保守党政権時代とされ、中央集権化と教会との和解が進み、86年の憲法がその集大成となった。国名も現在の国名、コロンビア共和国になった。自由党の反発は強く、1893年に第一回目の、95年に第二回目の武力蜂起に至る。いずれも短期で制圧されたが、99年の第三回目蜂起は3年にも及ぶ内戦となった。10万人もの犠牲者を出した、といわれる。これがラ米史上有名な「千日戦争」である。結果的に保守党政権側の勝利に終った。以後もさらに30年間(計50年間)の保守党時代をみるが、ラ米史上忘れられないのは、パナマという新たな国家誕生である。内戦終結1年後だったが、最北端の地峡州パナマの独立派が、米国の後押しで独立宣言に至った
 
(2)コスタリカ内戦(1948年3〜4月)
 
中米の小国コスタリカは、十九世紀央の国民戦争から15年経った1871年に新憲法が公布され民主化が進んだ。第一次世界大戦時の1917年、親独の軍人によるクーデターも起き大戦後に彼が失脚すると、21年、非武装国パナマのコト地方に領有権を主張して軍事侵攻を図り米国の介入を受ける事件もあったが、ラ米では平和国の筆頭、と言えたろう。世界恐慌の影響を受けた30年代にもラ米諸国の多くと異なり、クーデターは起きず、順当な政権交代が続いた。第二次世界大戦ではドイツ系移民の多いこの国が米国に先駆け対独宣戦を布告している。ところが大戦後間も無く行われた総選挙での不正問題を発端として、反乱軍による内戦が勃発、これは政府軍降伏により短期間で終った。2千人ほどの犠牲者が出た、とされる。ラ米史上の重要性は、ここで成立した革命政府の主導により49年2月に制定された平和憲法にある。有事には市民警察が国防に対応し、常備軍は廃止する、というものだ。
 
(3)ドミニカ内戦(1965年4月〜9月)
 
1930年から独裁体制を敷いていたトルヒーヨ(別掲「ラ米略史」参照。人名については、以下同)の暗殺事件を経て、62年に制定された新憲法に基づき、同年12月の選挙を経て翌63年2月に大統領に就任したボッシュが、同年9月、軍部により追放された。一応民間代表から構成される三頭政府が樹立されたものの、これを違憲とし、ボッシュ復帰を求める「立憲」運動が高まり、65年4月、軍部の一部も参加する内戦に発展する。これがドミニカ内戦である。第二のキューバ出現を危惧し2万人とも4万人とも言われる海兵隊を派遣した米国の事実上の介入に踏み切ったが、国際的非難を回避するため、ブラジル軍将軍を司令官とするOAS平和軍に衣替えしたことで、国際的に有名となる。終了後、66年に憲法改正し、改めて大統領選を実施、結果的にボッシュ復帰はならなかったが、以後長期政権を含め政治的安定が続いている。
 
(4)中米危機(1980年代):
 
1936年のソモサによる政権掌握からソモサ家支配下にあったニカラグアで、サンディニスタ民族解放戦線(FSLN)を中心とした反ソモサ勢力による革命が、79年7月に成立した(別掲「ラ米の革命」参照)。エルサルバドルとグァテマラでは30、31年以来、軍が政治を動かす構図が確立、60、70年代の反政府活動は専ら複数の左翼ゲリラ組織が行っていた。ニカラグア革命後、夫々ファラブンドマルティ民族解放戦線(FMLN)グァテマラ革命国民連合(URNG)として統合された。そして当のニカラグアでは反革命武装組織(コントラ)が組成された。これで三ヵ国の政府軍が、エルサルバドルとグァテマラは左翼ゲリラ統一組織と、ニカラグアは右派武装組織との内戦に突入する。ホンジュラス及びコスタリカが三ヵ国の反政府組織の拠点にもなったことで、「中米危機」と呼ばれる。和平のための米州諸国と国連の働きが注目され、90年にコントラ(ニカラグア)、92年FMLN(エルサルバドル)、96年URNG(グァテマラ)が停戦、武装解除に踏み切り危機は終了したが、犠牲者数は下記の通り大変な数に上った。
  • グァテマラ:  10万人(但し80年から)
  • エルサルバドル: 7.5万人(同)
  • ニカラグア:   5.5万人(革命成立後の10年間)
グァテマラ内戦は1961年11月のアルベンス派軍人らによる蜂起を起点にすることが多く、以後35年間でみると、自警団などによる先住民虐殺を含め、犠牲者数は20万人、と言われる。
 中米危機後、元々軍を持たないコスタリカ以外の4ヵ国では軍事力が大幅に削減され(別掲「ラ米の軍部」の「ラ米の軍事力」参照)、政治における軍部の影響力は殆どみられなくなった。国政面では現在、FSLNがニカラグア政権を奪還しているし、エルサルバドルではFMLNが議会で第一、ニ位の議席数を持つ政党に成長した。グァテマラのURNGは、合法政党とはなったが党勢は伸びず、代わってアルベンス思想を掲げて結成された全国希望同盟(UNE)が政権をとるまでになっている。
 



| Prev | Index | Next |


| ホーム | プロフィール | ラテンアメリカの政権地図 | ラ米略史 | ラ米の人種的多様性 | コンキスタドル(征服者)たち | ラ米の独立革命 | カウディーリョたち |
| ラ米の対外・域内戦争 | ラ米のポピュリズム | ラ米の革命 | ラ米の軍部―軍政時代を経て | ラ米の地域統合 | ラ米と米国 |


メールはこちらまで。