ラ米のポピュリズム


 1   ポプリスタたち
更新日時:
2008/03/11 
 
先ず、代表的ポプリスタを列記する。これ以外にもナショナリズムや労働運動の高まりでポプリスタと目される政治家が1930-50年代にかけて輩出している。
 
  • カルデナス(Lazaro Cardenas del Rio、1895-1979)。メキシコ。軍人。1934年、大統領就任。就任前に全国行脚。労組と農民組合を全国組織化して、政治基盤とする。創設以来2000年までの71年間、政権党を続けてきた「制度的革命党PRI」を磐石なものにした。
  • ヴァルガス(Getulio Vargas、1883-1954)。ブラジル。1930年、若手将校団と共にいわゆる「ヴァルガス革命」を率いる。「新国家」の推進、15年間に亘る第一次政権に加え、復活してさらに4年政権を担う。彼が創設したブラジル労働党は軍政期まで政権の中核
  • アヤデラトーレ(Victor Haya de la Torre 、1895-1979)。ペルー。1924年、メキシコで「アメリカ人民革命同盟(Alianza Popular Revolucionaria de America)」を旗揚げ、1930年、帰国後「アプラ党」を結成。現政権党。彼自身は一度も大統領になれず
  • ベラスコ・イバラ(Jose Maria Velasco Ibarra、1893-1979)。エクアドル。1934年、第一次政権立ち上げ後、追放と帰国復権を繰り返す。「偉大なる不在者」と呼ばれる。
  • ペロン(Juan Domingo Peron, 1895-1974)。アルゼンチン。軍人出身。軍政時代に労組との関係を構築、1946年から55年まで、及び73年から1年弱政権を担う。彼の支持者を「ペロニスタ」と呼び、その政党「正義党」の通称をペロン党と呼ぶ。現政権党
  • ベタンクール(Romuro Betancourt、1908-81)。ベネズエラ。現在も有力政党の一角にある民主行動党(AD)結成。1945年、民主化のための臨時政府樹立。一度失敗するが、58年民主化達成に貢献、ADは59年から94年まで、一時期を除き政権党
  • ガイタン(Jorge Eliecer Gaitan、1903-48)。コロンビア。自由党の左派グループ指導者。大衆的人気が高く、48年に彼が暗殺されたことが、「暴力の時代」を招来。
  • パス・エステンソロ(Victor Paz Estenssoro、1907-2001)。ボリビア。国民革命運動(MNR)結成。1952年の「ボリビア革命」指導者。断続的に大統領4回就任。MNRは革命後軍政期(64-82)を除き、2005年までの大半、政権党の座にあった。
 
 上記8名の内、下記5名が亡命経験者である。
  • 学生運動指導者として追放、国外脱出:アヤデラトーレ(1923-30)、ベタンクール(1928-36)
  • 政変による亡命:ベラスコ・イバラ(1935-44、47-52、72-79)、パス・エステンソロ(1946-52、64-71、74-78)、ペロン(1955-73)
亡命経験は無いが、ヴァルガスは自決、ガイタンは暗殺された。カルデナスは若くしてメキシコ革命に参加した人で、在任中の実績で国民の圧倒的支持を受けながら、退任後は国政から離れた。彼以降今日まで、メキシコ大統領の再任は無くなった。また1934年以降の大統領は、全員が6年間の任期を全うしている。
 
ポプリスタのイデオロギーがどうあれ、上記8ヵ国の現政権は、メキシコとコロンビアを除き全て左派ないし中道左派に位置づけられる。
 ガルシア(ペルー)及びクリスティナ・フェルナンデス(アルゼンチン)両大統領は、夫々アヤデラトーレ及びペロンが創設した政党から出ている。
 ルラ(ブラジル)大統領は自ら「労働者党」を創設したが、これはヴァルガスの労働党の流れを汲んだものではない。チャベス(ベネズエラ)大統領はベタンクールのAD、またモラレス(ボリビア)大統領はパス・エステンソロのMNRの流れを汲む政治勢力を、言ってみればアンチテーゼとする政党を自ら創設した。
 コレア(エクアドル)大統領とベラスコ・イバラには、接点は見られない。
 
 

 2   二十世紀前半のラ米社会構造
更新日時:
2008/03/11 
 ”La Poblacion en America Latina”, Alianza Universidad,1994,by ALbornoz によると、1900年のラ米人口は5,900万人だった。1825年時点から2.8倍ほどに増えた計算だ。同書ではさらにその30年後の人口を1億人と推定している。約1.7倍になった。1930年時点で全ラ米人口の79%を占める人口六大国の1900年、30年の人口を例示すると:
 
  • ブラジル:  1,800万人、3,350万人、1.9倍
  • メキシコ:  1,360万、  1,660万、 1.2倍
  • アルゼンチン:470万、  1,190万、 2.5倍
  • コロンビア:  380万、   745万、 1.9倍
  • ペルー:    380万、   565万、 1.5倍
  • キューバ:   160万、   380万、 2.4倍
 
ブラジル、アルゼンチン及びキューバの人口増は、ヨーロッパ人移民に負うところが大きい。鉄道延伸で奥地開拓が進み、コーヒー、穀物、畜産、砂糖などの生産急拡大で、雇用機会が膨れ上がっていた。鉄道建設、港湾整備とそれらの稼動でも同様だ。国内外の物流インフラが発達すると、商業や金融の中心となる都市整備も進む。ヨーロッパ移民の多くは農村部での契約就業期間を終了すると都市部に移住した。サービス部門や国内市場向けの小規模工業、建設部門などで新たな職を得た。移民でなくとも都市部に移住する人が増えた。移民が殆ど無かったメキシコを始めとする他のラ米諸国でも、同様の傾向は見られた。
 要するに、二十世紀初頭のラ米は、都市化が進んだ。メキシコの人口増が鈍いのは革命の影響と思われる。だが、都市化は進んだ。ある研究者によると、1900年と30年のラ米人口七大都市の人口は概ね下記の通りで、当時の域内先進国といえるアルゼンチン、チリ、ウルグアイ及びキューバ4カ国の首都が入っている。また、ブラジルの急速な発展ぶりも伺える。
 
  • ブエノスアイレス:66万人、220万人、3.3倍
  • リオデジャネイロ:40万、170万、4.3倍
  • メキシコ市:35万、105万、3倍
  • サンパウロ:24万、100万、4倍
  • サンティアゴ:25万、70万、2.7倍(チリ全国では1.5倍)
  • ハバナ:24万人、65万人、2.8倍
  • モンテビデオ:27万、57万、2.1倍(ウルグアイ全国では1.7倍)
 
都市化が進むと、都市中間層が増加する。ラ米社会では、二十世紀前半に大土地所有者、鉱山主、大商人の寡頭勢力が国政を支配し(寡頭支配=オリガキー)、これに反発する都市中間層がオリガキー打倒を叫ぶ抗争が続いていた。都市中間層が、イリゴージェン(アルゼンチン)やアレッサンドリ(チリ)のようにオリガキーに対抗する大統領を出すようになる。
 次に労働者層が急増していた。ラ米の労働運動は国によって大きく異なる。当時、域内先進国とされたチリとアルゼンチンには、ヨーロッパ諸国型の労働運動が伝わるのは早かった。これは隣国ペルーにも伝播した。当初軍隊による出動で弾圧を受けたことは、運動の始まるのが遅かった他地域と同じだ。指導するのは当初はアナーキスト、その後社会党や共産党が関るようになる。メキシコでは革命が起きた。メキシコなど一部を除くと、どこでも労働争議の都度、国家による弾圧を受けた。
 農村は一握りの富農や大農園主から僅かな農地を借り受ける貧農が圧倒的で、これは多くの移民についても同様だった。
 

 3   ナショナリズムと農地改革と
更新日時:
2008/03/11 
 労働運動で注目したいのは、彼らの雇用者の多くが、特に鉄道、金属鉱山、石油、砂糖、バナナなど大企業ほど、外資、ないしは外資との合弁ということだ。金融、電気・通信部門も同様だった。ナショナリズムが高揚するのに時間は掛からない。
 国政に現れるナショナリズムは、まず外資接収がある。国によって時間差や程度差はあるが、外資系電気・通信などのインフラ部門は次第に接収されていく。鉄道にしても同様である。アルゼンチンではイリゴージェン時代に国営石油会社が創設され一部油田開発を独占した。その他の産油国の多くでも、後年同様の動きが見られるようになる。資源ナショナリズムの発揚といえる。外資接収を完成させたのは国によって異なるが、概ねポプリスタたちだった。その中ではカルデナスペロンが有名だ。チリのアジェンデやペルーのベラスコ、キューバのカストロもいる。
もう一つ、輸入代替産業がある。二十世紀初頭のラ米自由主義経済は、比較優位の原則に乗ったものだ。しかしこれは先進国経済の動向に著しく依存する従属性をもたらす。さらに、ラ米が受け持つ一次産品は長期的には価格下落、先進国が受け持つ工業製品は上昇、という不利な交易条件を余儀なくされている。このような、いわゆる従属論がラ米の知識人から提示されるようになった。
 行き着くところは国家による経済分野への全面的な参加を前提とする産業振興が不可避である、という論理だ。ここに輸入代替産業の振興を求める声が高まる素地があった。やはり時間差や程度差こそあれ、ラ米全体で推進された。交易条件改善、工業技術の獲得というメリットに加え、増加する労働人口を吸収するもの、と期待された。インフラ整備、国内工業の保護(関税、補助金、通貨政策)、及び、非常に重要な点だが基幹産業への政府の直接進出が図られた。財源の不足分は先進工業国からの借入で賄われた。ポプリスタの中では、ヴァルガスが特に有名である。
輸入代替産業は、資本財と技術という巨額の輸入が生じ交易条件の改善にはなかなか繋がらない。輸入代替工業は分野としては資本集約型なので、労働需要も大きくは高まらない。加えて、対外債務が増え、返済が滞ると、IMFが当該国政府に対して構造調整の政策実行を迫ってくる。この中には国内産業保護策の撤廃(規制緩和)や公営企業の民営化が含まれる。市場主義経済の立場に立てば当たり前の話だが、ラ米の実情に照らし合わせ、これを疑問視する指導者は左派、中道左派に限らない。
 
 次に、農地改革をみる。農地改革に取り組んだポプリスタとして有名なのはカルデナスだが、彼より遅く表れたパス・エステンソロも知られる。ただこれだけをみればキューバ革命のカストロであり、ペルー左派軍政を率いたベラスコが目立つ。農地改革自体は、第二のキューバ誕生を回避すべくケネディによって打ち出された「進歩のための同盟」でも採り上げられ、1960年代前半のラ米文民政権はどこでも推進した。
 農地改革は、単位当たりの農地面積が小さくなり、輸出産品に限れば生産性を低下させる。結局、大規模なものは数ヵ国にとどまった。だが、大土地所有者と貧農の並存するラ米社会で、農地改革が難しくとも零細農民支援は政治的使命、との考え方をとる指導者は多い。
 
ラ米ナショナリズムと農地改革については、キューバ革命が無視できない。農地改革で米企業が所有する砂糖、果実などの大規模農園が接収された。以後、米国政府との抗議、制裁、これへのキューバ側の報復が繰り返され、ニッケル鉱山、石油生産、製造業など次々に国有化され、革命は社会主義体制へと進んで行った。ただこれを実行していくのは北の巨人、米国と対決することになる。その一点については、ラ米諸国の多くが喝采を送った。
 

 4   大恐慌期に台頭したポプリスタ
更新日時:
2008/03/11 
 1924年、アヤデラトーレ(以下アヤ)が、オブレゴン政権下で革命気分が残るメキシコでAPRAを立ち上げた。その綱領には、米国帝国主義への抵抗、ラ米の政治的団結、土地と産業の国有化などがうたわれた。ラ米ナショナリズムを端的に示したものだろう。30年、アヤを追放していたレギーア(*1)政権がクーデターで崩壊、この期に帰国し、「アプラ党」を立ち上げた。支持基盤は、彼の出身地、ペルー北部の砂糖産業労組から拡大していった。
 1931年11月、アヤが大統領選に出馬して軍人の候補に敗退した。アプラ党が不正選挙を理由に抗議し、32年7月には武装蜂起した。これは制圧されたが、党の過激派が33年4月、大統領を殺害した。これが軍部対アプラ党の敵対関係、ひいては以後ペルーで軍政が繰り返されることに繋がった。次にアヤが大統領選に出馬したのは62年だが、最大得票だった。67歳になっていた。軍部による介入で63年にやり直し選挙が行われ、その時は敗退した。
 アプラ党が初めて政権を担うのは彼の死後の85年、ガルシア第一次政権発足によってである。
 
 1930年3月、ブラジル大統領選にヴァルガスが出馬して、サンパウロ州知事に敗退した。これは、大統領は同州と隣のミナス州から出す、という、十九世紀末からの「ミルクコーヒー体制」の堅持を意味した。この体制は軍部の若手将校たちに不人気だった。同年10月、彼らがヴァルガスを担いで蜂起した。大統領が亡命した後の翌11月、ヴァルガスが首都入城し、いわゆる「ヴァルガス革命」が成立した。34年の制憲議会による大統領指名の後は、翌年の「共産党の暴動」を利用した戒厳令、次には戦時令、37年11月の有名な「新国家」宣言と続き、独裁権を握った。第二次世界大戦期に入ると、連合軍に対する基地供与と44年のイタリア戦線派兵で米国の信頼を獲得し、米国から近代兵器の供与を受け、ラ米随一の軍事大国化に繋げた。
 彼をポプリスタとするのは、ブラジルに輸入代替産業の推進による近代工業路線を敷いたことと、何より、労働者保護策を次々に打ち出したことによる。工業化にかかる資金、技術支援は米国から得た。ブラジルの労働運動は遅れていた。行政組織上も労働問題は州の権限にあった。彼は労働行政を中央政府に取り込んだ。その上で労働権を法制化し、進めた工業化政策で雇用増に努めたことから「労働者の父」と呼ばれる。
 彼は1945年末に制憲議会選挙と共に行われた大統領選には出馬せず、新憲法下の50年選挙に、自らの政党、労働党から出馬、当選した。だが54年8月に彼のボディーガードが彼の政敵を狙撃する事件が起き、その結果、とされるが軍部が彼から離反、彼自身はほどなく自殺している。
 
 1931年8月、エクアドルで6年前からの改革路線に反対するクーデターが起きた。これに基づき行われた32年の大統領選では保守党候補が当選したが、この選挙に不正があった、として、下院が新大統領の就任を拒否した。下院議長を務めていたのが、ベラスコ・イバラである。33年の再選挙では彼が立候補し、勝利した。80%の支持票を得たという。ところが、34年9月の就任から1年足らずで、彼も、今度は上院によって不信任を突きつけられ退陣する。その後、コロンビアから始まって、最も長期滞在したアルゼンチンに至る亡命生活を余儀なくされ、逆にこれが「偉大なる不在者」として、国内での声望の高まりに繋がっていった。
 1944年5月、保守党、社会党、共産党、及び与党の自由党の一部が結集して起こした反政府行動で、当時の政権が崩壊、彼が帰国し、臨時大統領となり、労働者擁護を含む国民の基本的人権や国家による経済参加を明記した憲法が制定された。しかし3年後、又しても追放され亡命、52年に復帰し第三次政権に就いた。一人おいた60年からの第四次政権は1年で潰え、68年に五度目の政権に就いたが、3年半後のクーデターで追放された。結局5度も政権を担いながら、任期を全うしたのは第三次政権の時だけだ。
 彼がエクアドル政界で活躍したのが1931年のクーデター後72年までの41年間、とすれば、この間一つの政権が無事任期満了を迎えたのは、彼の1回を含め僅か3回、12年間だけだ。
 
 1934年12月、メキシコでカルデナスが大統領に就任した。メキシコ革命の英雄、オブレゴンが28年7月に暗殺された当時の大統領だったカイェス(*2)による、いわゆる「マキシマート(最高権力者の期間)」の時代だった。カイェスもそうだが、カルデナスもオブレゴン同様、革命を戦った軍人である。29年、カイェスが現在の「制度的革命党(PRI)」の前身、「全国革命党(PNR)」を創設した。カルデナスは、事実上、カイェスの指名ではあっても、同党の大統領候補指名を正式に勝ち取って出馬、当選した。1年後、カイェスを追放し、実権を握った。
 メキシコ革命は農民運動の様相を強めつつも、その成果となる1917年憲法では労働基本権を明示した。労働運動はアナーキスト指導により進められてはいたが、カルデナスは36年の労組の全国組織たる「メキシコ労働総同盟CTM」結成を後押しし、且つ政権党に組み入れた。これが革命の制度化に繋がった。
 1938年3月、重大な対米緊張をもたらす危険な賭けだった英米系石油会社の接収をやり遂げた。事実、メキシコの石油輸出は、彼らのボイコットにより止まった。これ以前にも彼は鉄道の完全国有化(外資部分の買取り)も実現している。
 もう一つ有名な施策として農地改革がある。接収などを通じた分を含め、国有地をエヒードと呼ばれる農村共同体に再分配した。彼の政権時代の分配規模は1,800万fにも上る。この政策は、規模の大小はあるが、事実上1970年代までのメキシコ歴代政権に引き継がれた。
 1934年以来、この国では一度も政権崩壊が無い。カルデナスとアヤ、ヴァルガス、ベラスコ・イバラとの決定的な違いは、彼が軍人で、軍部に影響力を保持でき、結果として、軍部の政治力が減殺された制度を確立できた点であろう。
 
人名表(赤字で記したポプリスタと、別掲「ラ米略史」に記した人物を除く)
  • (*1)レギーア(Augusto Leguia、1864-1932):1908-12、19-30年のペルー大統領。強権政治で知られ、30年クーデターの結果投獄され獄死した。
  • (*2)カイェス(Plutarco Elias Calles、1877-1945):1924-28年、任期4年制の最後のメキシコ大統領。6年制になった28年からの6年間、事実上彼が最高権力者だった。

 5   第二次大戦後のポプリスタ
更新日時:
2008/06/03 
 第二次世界大戦の真っ最中の1943年3月、アルゼンチン軍若手将校グループによってGOU(「統一将校団」)が結成された。国家主義思想が強く、概して親独だったとされる。同年6月、11年間に亘る「協調政府」がクーデターで崩壊した。協調政府とは政治思想の異なる複数政党に寡頭勢力も加わった政治勢力が政権を担う体制を指す。ブラジル同様、アルゼンチンの若手将校は基本的に反寡頭支配の傾向が強かった。GOUがこのクーデターで重要な役割を担った。成立した軍政下で、彼らの多くが政権の要職に就いた、といわれる。その一人が、軍機次官に抜擢されたペロン陸軍中佐である。新設の労働局長、後に労働福祉長官を務め、労働界との接点が生まれた。また44年には副大統領にもなった。アルゼンチンが枢軸に対して宣戦布告したのは、45年3月、イタリアがとっくに降伏し、まもなくドイツが降伏するタイミングだ。
1946年2月、ペロンは大統領に選出された。支持基盤となったのが30年結成の労組全国組織、「アルゼンチン労働総同盟 CGT」で、以後、ペロニスタ(ペロン支持勢力。彼らによる政党が「正義党」、通称「ペロン党」)の中核を成すようになる。なお、大統領選の前に退役した。英系鉄道会社や外資に握られていた航空、海運、通信などの分野を国有化した。社会資本分野には国家が全面的に参画する姿勢を明確にしたが、殆どが外資の経営によるものだっただけに、国民は喝采した。また労働者擁護策や経済活動に関わる国家介入を実施した。食料輸出を国家独占とし、収益を賃上げや工業育成に充てた。
メキシコのカルデナスと異なり、彼は51年の大統領選に連続出馬し再選された。1954年に制定した離婚法などが背景にある、とされるが、翌55年9月、出身母体の軍部によるクーデターで国外追放された。ペルーのアプラ党同様、ペロン党は軍部との敵対関係に入り、合法、非合法が繰り返され、同党への毅然とした対応を迫る軍部は、66年から7年近く連続で政権を握った。73年ペロン党政権復帰を認めたが、76年、長期軍政を復活させた。
 
コロンビアのガイタンは、もともと自由党員だった。1928年に起こったバナナ農園労働争議(軍出動で死者100名を出す)の調査報告で、所有者の米社と当時の保守党との癒着関係を公表したことが知られる。これが30年の半世紀ぶりの自由党政権奪回に結びついた。ただ彼自身は自由党でもその左派に属し、一時除名されたこともある。
1945年、自由党のロペス・プマレホ(*1)が彼として二度目の政権から退陣、ガイタンはその後の臨時政権で労相を務めた。この時、労働権や社会権についての政見を打ち出し、大衆の人気を高める。46年の大統領選で、彼は自由党からではなく「ガイタニスタ」と呼ばれる左翼思想の民衆支持層に担がれ、立候補した。結果的に保守党候補が勝利したが47年3月の総選挙ではガイタン派の伸びにより自由党が圧勝した。これでガイタンが党首に選出された。
1948年3月末から、ボゴタで第9回汎米会議が開かれた。創設される米州機構(OAS)の憲章を採択する重要な会議である。このラ米史上重要な汎米会議の真っ最中、同年4月、ボゴタ市でガイタンが殺害された。政治的背景の無い殺人事件だったそうだが、これが彼を支持する民衆の、「ボゴタソ(Bogotazo)」と呼ばれる大暴動を生み、地方にも伝播して、以後20年近くも続く「ビオレンシア(暴力)」の内乱へと発展する。
 
 チャコ戦争でパラグアイに敗れてから5年後、ボリビアでパス・エステンソロ(以下、パス)らが「国民解放運動(MNR)」を結成した。労働者保護や鉱山国有化を主張していた。翌1942年12月、カタビという錫鉱山で労働者ストが起き、軍が出動、400人と言われる犠牲者が出た(「カタビ鉱山虐殺事件」)。MNRが一躍有名になったのはこれへの抗議行動を展開して後のことだ。軍内一部将校にもMNRの影響力を扶植した。彼が亡命を余儀なくされたのは、46年7月のラパス暴動で暴徒に公開処刑された軍人大統領との関係が緊密だったためだ。
 MNR創設者の一人でパスの同志、シレス・スアソ(*2)による1952年4月の「ボリビア革命」成立を受けてパスが帰国、以後64年11月の軍事クーデターで追放されるまで、政界の中軸となる。61年、第二、第三のキューバ革命を懸念したケネディ米大統領の提唱で、「進歩のための同盟」が動き出したが、この最大の受益者は国民一人当たりでみれば実はボリビアだった、といわれる。ボリビア革命の急進性(別掲の「ラ米の革命」参照)からすれば意外なことで、その分、右傾化していったことになろうか。彼を追放した司令官は彼の政権の副大統領でもあり、革命再建を呼びかけた。だが、この時始まった軍政自身も右傾化していく。
 MNRに飽き足らない勢力はその後「左翼革命運動(MIR)」を結成、民政移管に伴う大統領選ではMNR左派グループに擁立されたシレス・スアソを支持した。MNR正式候補だったパスはこの時敗れている。彼が復帰したのは85年で、77歳になっていた。
 
 1945年10月、ベネズエラで「愛国軍人同盟UPM」による軍事クーデターで、当時の軍人政権が崩壊した。10年前にラ米最後のカウディーリョといわれるビセンテ・ゴメスが死去した後も、「ゴメス無きゴメス体制」と揶揄される軍人政権が続いていた。発足した臨時革命評議会議長には、軍人ではなく、在野の文民で41年創設の「国民行動党(AD)」に合流していたベタンクールが就任した。この国始まって以来の普通選挙制度を導入、労働者及び農民運動の奨励や外国石油会社の国家に対する利潤配分比率引き上げを実行し、国民的任期を博した。47年12月、この評議会政権下で、ベネズエラ史上初めて大統領の直接選挙が実施された。ベタンクールは出馬していない。だが、翌48年11月には45年クーデターに参加したペレス・ヒメネスがクーデターでこの民選政権を転覆した。
 ベネズエラは、1950年代に石油生産量の増大のみならず、工業化も進んだ。ヨーロッパからの大量移民で、アルゼンチンやチリが30年代以降に辿った労働者層の膨張の道を、ベネズエラも辿り始めていた。58年1月、「反独裁愛国戦線」が組織した大規模なゼネストを受け、ペレス・ヒメネスが退陣、亡命した。同年末に行われた大統領選でベタンクールが選任され、キューバ革命成立直後の59年2月に就任した。51歳になる直前だ。彼も、農地改革法を公布し以後2年間で、150万ヘクタールを5.6万の農民に分配した、という。上記「進歩のための同盟」がこれを後押しした。加えて、60年9月、サウジアラビアなど4ヵ国と共に石油輸出国機構(OPEC)を立ち上げ、産油国として国際的な地位を高め、国庫の石油収入が増大するようになる。
 
人名表(赤字で記したポプリスタと、別掲「ラ米略史」に記した人物を除く)
  • (*1)ロペス・プマレホ(Alfonso Lopez Pumarejo、1886-1959)。コロンビア大統領(1934-38、42-45)。「前進する革命」で労働者保護などポプリズモ政策。大統領再選は半世紀ぶり
  • (*2)シレス・スアソ(Hernan Siles Suazo 1914-96):ボリビア大統領(1956-60、82-85)。ボリビア革命指導。77年、パスと袂を分かち、左派政党と自ら率いるMNR左派を合流

 6   ポプリスタの系譜
更新日時:
2008/03/12 
メキシコではカルデナスを引き継いだアビラ・カマチョ(*1)が対米関係修復を実現した。第二次世界大戦で対米協調は基本線となっていた。だがメキシコ革命の遺産も引き継ぐ、という基本路線はあった。メキシコは、1955年にカストロの亡命を引き受けキューバ革命準備活動を黙認し、1964年までに米州機構(OAS)決議を受けてラ米諸国がキューバとの断交に踏み切った後も同国との外交を唯一維持した。だが70年代には農地改革を断念し、80年代には公営企業の民営化を進め、90年代に米国との市場統合に向う。この流れの中で、党内左派グループが1989年に離脱して新たに民主革命党(PRD)を創設する。その中心人物が、カルデナスの息、当時55歳だったクァテモク・カルデナスである。2007年のメキシコ大統領選で、PANのカルデロン候補に歴史的接戦を演じたロペス・オブラドル前メキシコ市長はPRDから出ている。
 
ブラジルのヴァルガスが創設した労働党から大統領になった人に、30代前半で彼の労相を経験したグラール(*2)がいた。労働界との関係が深まり、大衆的知名度も上がり、ヴァルガス後の社会民主党(労働党の友党)政権で二代続けて副大統領を務め、61年8月、時の大統領辞任を受け、昇格したものだ。だが、ヴァルガスの正統後継者を自認する彼のポプリズモ政策は、議会に阻まれ殆ど実現しなかった。国民に直接立法を訴える文字通りの大衆政治行動に出たことに懸念を強めた軍が、64年4月、彼を追放した。以後ブラジルは21年間に及ぶ長期軍政時代を経験する。また労働党はほぼ消滅した。同党支持者層は、81年にルラが創設した労働者党を支持するようになる。
 
ベネズエラのUPMの結成はアルゼンチンのGOUに2年遅れ、クーデターも同様に2年遅れた。いずれもナショナリズムの強い若手将校団がクーデターを主導し、従来の権力構造を否定した。異なるのは、先ず前者では、成立した臨時政府をいきなり率いたのが文民のベタンクールで、後者のペロンは臨時政府の軍機次官、軍機相、副大統領と上り詰め、国民的人気が高まったところで軍を辞め、大統領選に出馬した点が一つある。ベタンクールが初めて民選大統領になったのは、ペロンのそれから13年遅れた。ベタンクールはペロンと異なり二期目を求めなかった。ベネズエラでは軍政は見なかったが、アルゼンチンでは55年のペロン失脚後短期軍政と短期民政を交互に経て、66年からの軍政に至っている。ペロンがベタンクールと決定的に違うのは、その支持層の裾野の広さと根の深さだろう。彼の真骨頂はその動員力だが、彼の妻エバ(*3。通称エビータ)の存在も無視できない
ペロンが失脚した後、ペロニスタは国の内外で抵抗運動を展開するようになった。党は軍部との敵対関係に入り、モントネロスと呼ばれるゲリラも出す。軍政は国情混乱を収束できず、ペロン復権を認め、73年、一旦民政移管した。同年、彼は78歳で、副大統領を妻(エビータではない。彼女は52年に死去)にして大統領に復帰した。翌年死亡し、副大統領が昇格する形で、結果的にラ米史上初めての女性大統領を出した。76年、軍政が復活し、ペロニスタは「汚い戦争」とまで表現される過酷な弾圧を受ける。
いかにも大衆迎合のポピュリズム、と切り捨てる人もいるアルゼンチンで、83年の民政移管後の政権の殆どがペロン党、という点は見逃せまい。ベネズエラのADは、最近でこそ反チャベスの立場で選挙ボイコットを続け、議会勢力はゼロとなっているが、59年以降チャベス大統領が登場する98年までの39年間で、4人、5期25年間の政権を担った。
 
1948年10月、ペルーでオドリーア(*4)将軍がクーデターを起こし、以後8年間の政権を担う。政見に国民の健康、教育、労働を掲げ、労働者層の利益擁護や公共事業を推進した。ペロンを意識していたためと言われる。55年、婦人参政権を認める選挙法改定にはオドリーア夫人が奔走した。エビータの奔走で47年に法制化されたアルゼンチンの婦人参政権と経緯が似ている。
オドリーア失脚で民政復帰して12年経った1968年10月、クーデターで政権を掌握したベラスコ将軍の軍政は、それまでのラ米軍政とは性格を異にした。石油及び鉱業、砂糖産業、銀行、通信部門の外系企業は国有化した。大土地所有者から接収した農地を協同組合に再配分する農地改革を推進した。重化学工業や大規模漁業を原則国営とした。アヤのポプリズモとの近似性がみられる。結果的には国民の所得上昇で消費が増えたが農業生産が追い着かずモノ不足とインフレを呼び込んだ。ベラスコ将軍は健康上の理由もあって75年に失脚、彼の施策は残りの軍政、それに続く民政下で変更されていく。2006年の大統領選でガルシア候補と接戦を演じ、またベネズエラのチャベス大統領が公然と支持していたオジャンタ候補がモデルにしたのが、ベラスコ軍政の政策である。
 
1953年6月、コロンビアでロハス・ピニリャ(*5)将軍によるクーデターが起きた。無血ではあったが、この国では、クーデターは異例だ。ガイタン殺害後のビオレンシア(暴力)と保守党政権の弾圧の応酬で続いていた国情混乱が背景にあった。ロハス・ピニリャ自身は4年間の政権時代に、社会復帰・救済局の立ち上げ、企業増税と輸出税徴収で所得再分配、婦人参政権推進など、多分にペロンを意識したポプリズモを志向した。ガイタンのポプリズモを彼が実現した、との皮肉な見方もあるようだ。彼を失脚に追い込んだ国民戦線(自由・保守両党が交互に大統領を出す仕組み)政権下で、現在なお続くコロンビア革命軍(FARC)民族解放軍(ELN)は、64年まで続いたビオレンシア時代を引き継ぐ形でゲリラ活動を開始した。
ウリベ(コロンビア)大統領はもともとガイタンが党首を務めた自由党の政治家だった。1946年のガイタン同様、独立系として立候補し、ガイタンと異なり当選して結果的に160年以上続いた自由・保守党政権時代に幕を下ろした。
 
1969年6月、ボリビアで軍内クーデターが起き、左派軍政を見る。1972年2月、エクアドルで軍部左派グループのクーデターでベラスコ・イバラ第五次政権を転覆した。
前者は、もともと64年にパス・エステンソロを追放した軍政は革命精神への回帰、を主張していたが、67年10月にキューバ革命の英雄ゲバラを処刑して、同国軍内左派の反発を強めていた。だが71年、軍政は右派に代わる。民政移管は82年だが、MNR左右両派、左派政党、右派政党が組み合わさった連立政権を担う構造が四半期間続いた。後者はそのまま79年の民政移管まで政権を担い続け、石油産業国営化、農地改革などを推進した。民政化の後、96年までは順調な政権交代を繰り返したが、その後は政変が続いている。
 
人名表(赤字で記したポプリスタと、別掲「ラ米略史」に記した人物を除く)
  • (*1)アビラ・カマチョ(Manuel Avila Camacho、1897-1955):メキシコ最後の軍人大統領(1940-46)。45年、米州共同防衛に関る「チャプルテペック宣言」を主宰、フィリピン派兵
  • (*2)グラール(Joao Belchior Marques Goulart、1919-76):ブラジル大統領(1961-64)。副大統領からの昇格で、権限が狭まれ挫折。ブラジル軍政の引き金を引く。
  • (*3)エビータ(Maria Eva Duarte、1919-52):アルゼンチンのペロン夫人。エバ・ペロン財団創設、貧困層救済事業を推進。歴史家には彼女を最大のポプリスタとする人もいる。
  • (*4)オドリーア(Manuel Apolinario Odria Amoretti 1897-1974):ペルー軍政首班後大統領(1948-56)。50年に高等軍事研究所(CAEM)創設、将校の政治意識レベルが向上
  • (*5)ロハス・ピニリャ(Gustavo Rojas Pinilla、1900-75):コロンビア史上十九世紀央以来のクーデター実行。失脚後、大衆政党のANAPO設立、自由・保守両党体制に挑む。


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