1924年、アヤデラトーレ(以下アヤ)が、オブレゴン政権下で革命気分が残るメキシコでAPRAを立ち上げた。その綱領には、米国帝国主義への抵抗、ラ米の政治的団結、土地と産業の国有化などがうたわれた。ラ米ナショナリズムを端的に示したものだろう。30年、アヤを追放していたレギーア(*1)政権がクーデターで崩壊、この期に帰国し、「アプラ党」を立ち上げた。支持基盤は、彼の出身地、ペルー北部の砂糖産業労組から拡大していった。
1931年11月、アヤが大統領選に出馬して軍人の候補に敗退した。アプラ党が不正選挙を理由に抗議し、32年7月には武装蜂起した。これは制圧されたが、党の過激派が33年4月、大統領を殺害した。これが軍部対アプラ党の敵対関係、ひいては以後ペルーで軍政が繰り返されることに繋がった。次にアヤが大統領選に出馬したのは62年だが、最大得票だった。67歳になっていた。軍部による介入で63年にやり直し選挙が行われ、その時は敗退した。
アプラ党が初めて政権を担うのは彼の死後の85年、ガルシア第一次政権発足によってである。
1930年3月、ブラジル大統領選にヴァルガスが出馬して、サンパウロ州知事に敗退した。これは、大統領は同州と隣のミナス州から出す、という、十九世紀末からの「ミルクコーヒー体制」の堅持を意味した。この体制は軍部の若手将校たちに不人気だった。同年10月、彼らがヴァルガスを担いで蜂起した。大統領が亡命した後の翌11月、ヴァルガスが首都入城し、いわゆる「ヴァルガス革命」が成立した。34年の制憲議会による大統領指名の後は、翌年の「共産党の暴動」を利用した戒厳令、次には戦時令、37年11月の有名な「新国家」宣言と続き、独裁権を握った。第二次世界大戦期に入ると、連合軍に対する基地供与と44年のイタリア戦線派兵で米国の信頼を獲得し、米国から近代兵器の供与を受け、ラ米随一の軍事大国化に繋げた。
彼をポプリスタとするのは、ブラジルに輸入代替産業の推進による近代工業路線を敷いたことと、何より、労働者保護策を次々に打ち出したことによる。工業化にかかる資金、技術支援は米国から得た。ブラジルの労働運動は遅れていた。行政組織上も労働問題は州の権限にあった。彼は労働行政を中央政府に取り込んだ。その上で労働権を法制化し、進めた工業化政策で雇用増に努めたことから「労働者の父」と呼ばれる。
彼は1945年末に制憲議会選挙と共に行われた大統領選には出馬せず、新憲法下の50年選挙に、自らの政党、労働党から出馬、当選した。だが54年8月に彼のボディーガードが彼の政敵を狙撃する事件が起き、その結果、とされるが軍部が彼から離反、彼自身はほどなく自殺している。
1931年8月、エクアドルで6年前からの改革路線に反対するクーデターが起きた。これに基づき行われた32年の大統領選では保守党候補が当選したが、この選挙に不正があった、として、下院が新大統領の就任を拒否した。下院議長を務めていたのが、ベラスコ・イバラである。33年の再選挙では彼が立候補し、勝利した。80%の支持票を得たという。ところが、34年9月の就任から1年足らずで、彼も、今度は上院によって不信任を突きつけられ退陣する。その後、コロンビアから始まって、最も長期滞在したアルゼンチンに至る亡命生活を余儀なくされ、逆にこれが「偉大なる不在者」として、国内での声望の高まりに繋がっていった。
1944年5月、保守党、社会党、共産党、及び与党の自由党の一部が結集して起こした反政府行動で、当時の政権が崩壊、彼が帰国し、臨時大統領となり、労働者擁護を含む国民の基本的人権や国家による経済参加を明記した憲法が制定された。しかし3年後、又しても追放され亡命、52年に復帰し第三次政権に就いた。一人おいた60年からの第四次政権は1年で潰え、68年に五度目の政権に就いたが、3年半後のクーデターで追放された。結局5度も政権を担いながら、任期を全うしたのは第三次政権の時だけだ。
彼がエクアドル政界で活躍したのが1931年のクーデター後72年までの41年間、とすれば、この間一つの政権が無事任期満了を迎えたのは、彼の1回を含め僅か3回、12年間だけだ。
1934年12月、メキシコでカルデナスが大統領に就任した。メキシコ革命の英雄、オブレゴンが28年7月に暗殺された当時の大統領だったカイェス(*2)による、いわゆる「マキシマート(最高権力者の期間)」の時代だった。カイェスもそうだが、カルデナスもオブレゴン同様、革命を戦った軍人である。29年、カイェスが現在の「制度的革命党(PRI)」の前身、「全国革命党(PNR)」を創設した。カルデナスは、事実上、カイェスの指名ではあっても、同党の大統領候補指名を正式に勝ち取って出馬、当選した。1年後、カイェスを追放し、実権を握った。
メキシコ革命は農民運動の様相を強めつつも、その成果となる1917年憲法では労働基本権を明示した。労働運動はアナーキスト指導により進められてはいたが、カルデナスは36年の労組の全国組織たる「メキシコ労働総同盟CTM」結成を後押しし、且つ政権党に組み入れた。これが革命の制度化に繋がった。
1938年3月、重大な対米緊張をもたらす危険な賭けだった英米系石油会社の接収をやり遂げた。事実、メキシコの石油輸出は、彼らのボイコットにより止まった。これ以前にも彼は鉄道の完全国有化(外資部分の買取り)も実現している。
もう一つ有名な施策として農地改革がある。接収などを通じた分を含め、国有地をエヒードと呼ばれる農村共同体に再分配した。彼の政権時代の分配規模は1,800万fにも上る。この政策は、規模の大小はあるが、事実上1970年代までのメキシコ歴代政権に引き継がれた。
1934年以来、この国では一度も政権崩壊が無い。カルデナスとアヤ、ヴァルガス、ベラスコ・イバラとの決定的な違いは、彼が軍人で、軍部に影響力を保持でき、結果として、軍部の政治力が減殺された制度を確立できた点であろう。
人名表(赤字で記したポプリスタと、別掲「ラ米略史」に記した人物を除く)
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