new ねころぐ (11)

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雑録より(1)
Contents:幻の人生/文学と人生/文学はカネくい虫?/焼津にて


2020年9月3日(木)
純粋相互性としての宇宙と自我の救済――根拠の原理をめぐって
現象の構造

 時間が存在しないということは、物理学における相対論や、時間の矢の存在しないことから、比較的容易に理解できるであろう。空間が存在しないということはどうか。これには大きな思考の抵抗があるであろう。数はまだしも、量ということはどう説明できるのか。数直線は量ではないが、量を表わすには空間的面積が必要である。2は1の二倍であるということは、どのように理解できるか。空間表象のないところで、どのようにしてこのような思考あるいは構造が可能なのか。空間は次元で表わすことが出来る。空間が存在しないということは、そも次元が存在しないということである。この世界が4次元であれ、11次元であれ、そのようなものは相互性の世界では存在しない。次元のない世界の思考とは、どのようなものであるか。それが可能だとすれば、人間にとっては、どのような能力が必要なのであるか。
 このような考察をする前に、まず人間は現象界においてどのような認識をしているかを、おさらいしておかねばならない。これを明快に解き明かしてくれたのが、ショーペンハウアーの根拠の原理(Der Satz vom Grunde)に関する著名の論文である。人間がなんらかの物事を認識したり考えたり、行為したりするさいに、意識的であるかぎり、なんらかの根拠(Grund)に基づいておこなうことは疑いないであろう。あるいは少なくとも、なんらかの探究をしたり、議論したりするときに、それぞれの場合に根拠付け(Begruendung)をおこなうことは、ごくふつうである。その根拠または根拠付けが正しいとされるには、なんらかの必然性がなければならない。この必然性を言い表わすものが<根拠の原理、または根拠命題>である。ショーペンハウアーによれば、それは四つの根(Wurzel)に分かれる。
 その1は、<生成根拠の原理>または因果律である。これは時間における変化と状態に関する原理であり、もっぱら感性的、経験的現象に当てはまる。これは自然科学において強力な原理であり、因果律なしには科学は成立しないといってよい。この原理を、ショーペンハウアーは、無機界における純粋な原因と、植物界での刺激と、動物・人間界での動機とに分けているが、基本は同じ原理である。動機に関しては、その内面性によって特別に根拠原理の一つとしている。
 その2は、<認識根拠の原理>である。ここで認識といっているのは伝統的な命名なのであろうが、抽象概念による思考の原理である。思考がその中でおこなわれる概念の関係や判断をあつかうものである。判断の行なわれる根拠には、4つの種類がある。
 a.一つは論理的、形式的判断において、他の判断を根拠とするものである。
 b.二つは質料的判断において、感覚によって媒介された直観において、経験を根拠とするものである。
 c.三つは、先天的(a priori)な判断、あるいは先験的な(transzendental)判断において、先天的に直観された時空の形式において、あるいは先天的に知られた因果律においてする、根拠付けである。純粋数学や純粋自然科学がこれにあたる。
 d.四つは、メタロジカルな判断において、理性にそなわっている、あらゆる思考の形式的条件(思考の法則)を根拠とするものである。
 さて次にくる三つ目の根拠の原理は、
 その3、<存在根拠の原理>とされるものである。経験的実在界における具体的対象の形式的部分である表象において、空間および時間の先天的直観を根拠とするものである。例えば、三角形の辺が等しいという判断は、因果律や認識根拠によって生じるものではなく、直観的に<そのようにあるSo-sein>という根拠に基づくのであるとされる。時間の継起もまた同様である。
 その4は、<行為の根拠の原理>または動機付けの法則である。これは内感あるいは自己意識において生じる表象である動機Motivを根拠とするものである。意志のはたらきや、決断や、行動において、原因となるものであり、厳密には因果律に属するが、これが内面的・直接的であり、かつ最終的動機にさかのぼることができるので、独自の根拠命題としたのである。

 さて、このように根拠命題をならべてみたのだが、一見たんなる認識理論に思われるかもしれない。根拠命題あるいは根拠の原理は、認識論としてみれば、現象界における人間の認識能力の限界を定めたもので、ショーペンハウアーの形而上学もこの範囲を極力出でないようにしている。しかし、これを客観的に対象の側から見るならば、この現象界の構造分析でもあり、あるいは、この現象界がどのような原理で構造化されているかの、マニュアルであるといえる。対象であるとは同時に主観の側から規定されているということであり、主観にそなわった能力を分析すれば、おのずと世界のとるべき姿が現われてくるのである。もし世界が今とは異なった姿で現われるならば、同時に主観もそれに応じてその能力を変化させているということである。もし時空を超えた世界を人間が認識できるものならば、それに応じた能力を、人間自身の中に探すことができるであろう。ショーペンハウアーが考えなかった、新たな根拠の原理を付加することができるであろう。
 とりあえず、彼の根拠の原理の中にその可能性を探ってみよう。

相対性と相互性

 根拠の原理自体は、何らの根拠にもとづくものでも、証明されうるものでもない。まさに根拠そのものであり、そこから証明のなされうるものであるから。ユークリッド幾何学の公理のようなものであるといえよう。この公理系に属するのは、根拠の原理の四つの根ばかりではなく、その前提となるいくつかのアプリオリな、あるいは先験的な原理がある。ひとつは主客の関係と、それによって生まれる表象もしくは対象の存在である。主観と客観とは相互に規定しあう、のっぴきならない関係にあり、表象あるいは対象であるとは、つねに主観との関係において、表象であり、対象であり、主観のない対象、あるいは対象のない主観は、原理的にありえない。対象そのもの、表象そのもの、主観そのもの、などは、現象世界においては意味のない言葉であることになる。まさに主客の関係が、現象の根底にあるからである。この主客の関係性は、さらに表象、対象間の関係性にまで及ぼされる。独立した表象、単独の対象は、現象界では存在せず、すべての表象、対象は、他の表象・対象との関係性において存在する。すなわちロックの言うような単純観念(simple idea)は、現象界では存在していない。すべての表象・対象は相対的(relativ)なのである。
 さらに公理系に属するものとして、時間・空間・因果律の先験的原理がある。実はこれらから根拠の原理も演繹されているのである。時間・空間・因果律の先天的性質が、人間の認識の性格を規定しており、客観世界の対象の現われ方を規定しているのである。それゆえに根拠の原理もアプリオリであり、先験的原理なのである。
 さて、主客の関係において発現する表象もしくは対象は、時空と因果律によって相対的に関係づけられ、この現象界を形成する。これはある種の相互性でもある。ここで相対性(relativity)と相互性(reciprocity)とを厳密に区別しておかねばならない。一般にほぼ同じ意味で使われることが多い。どちらも関係的であり、相互依存しており、独立した個としての存在を考慮されない。ここで相互性に関して、ショーペンハウアーが空間におけるAnalogon(類比物)と言っているものを考えてみる。一つの直線は他の直線を規定しているとも、また他の直線から規定されているとも言える。ここには規定に絶対的な基準はない。しかし、このことを時間の観念に及ぼして、原因と結果が相互に規定しあっていると考えることはできない。結果が原因に作用することはないからである。空間の規定は、時間の規定に当てはめることはできないのである。すると相対性と相互性とを分かつものは、時間における因果性にあることになる。
 相対論においても、時間が相対的であるのは、運動の関係において観察者が、他者の時間を観察するゆえに、時間のずれが生じるのである。これは一方から他方への相対的関係である。もし相互的であるならば、相互に規定しあうことによって、時間のずれは生じないはずである。いや、そもそも時間自体が存在していないはずである。自然界における相互性は、因果の一方的な関係においては成立しない。物理学において、時間が可逆的でありうるのは、力もしくはエネルギーの保存則が、時間の方向性とは無関係に成立するからである。
 空間的には相互性は現象界においても成立する。相互性が現象界を超えて成り立つのは、時間とは無関係に、その関係が成立するからである。時間が無いということは、それと連続する空間も無いということであり、本来の相互性は時空を超えた世界で成り立つということになる。これが現象界における相対性と、純粋相互性の根本的な区別である。
 時間性と無関係に成立しうる根拠命題は、認識根拠の原理である。これは四種に分かたれているが、そのうち経験に基づくbは別として、すべて概念間の関係における推論の根拠となるものである。三段論法を例にとれば、ソクラテスは死ぬ、という命題もしくは言表は、大前提、小前提との関係において、概念を操作することによって、はじめて推論として成立する。その際すべての人間は死ぬという大前提も、ソクラテスは人間であるという小前提も、必ずしも経験的事実である必要はなく、概念の関係が正しければ、すべて三段論法として成立するのである。内包や外延といった、ある種の空間的直観以外には、その相互的関係を知る必要はないのである。この推論の方向は一方的であるが、これは時間における因果性とはまったく別物である。しかし、ソクラテスは死ぬという個別の事象から、あらゆる個別のケースを枚挙すれば、すべての人間は死ぬという一般命題に<帰納的に>たどりつくことはできる。そのかぎりでは、この論法は相互的でありうる。
 概念自体は主観の対象であるかぎりは相対的であり、他の概念との関係においてのみ把握される。A=Aのような同一律においても、A以外の他の概念と区別されることによって、はじめて成立するのであり、その限りにおいて相対的である。矛盾律と排中律は、Aと非Aとが同時に成立しえないことによって、相互に規定しあっている。A=Aならば同時にA=非Aではありえないし、そのどちらかであるほかはないのである。その意味では相互的であって、〈思考の法則〉は単独では成立しない。ショーペンハウアーが言うように、排中律で代表できるのである。
 論理的・数理的関係が、この現象世界で最もよく相互性を現わしだすようである。そこから考えられることは、時空を超えた純粋相互性の世界においても、論理的・数理的関係が支配しているのではないかということである。時間・空間は経験の具体的世界を成立させる要件であるが、時間・空間の直観にもとづく<存在の根拠>が、純粋相互性をおおうことによって、この世界を時空によって形成される次元において発現する構造として把握させるのである。この現象的構造自体は、世界理解にとっては必要であるが、さらに世界の根底に向かっての探究を進めるときには、ある種の目くらましとなるのである。ピタゴラスは世界の根底を数もしくは数理と見たが、プラトン以後のアカデメイアでも、イデアを数と見なしている。今日の論理学においても、記号化や数理化がおこなわれており、論理的・数理的関係は、すべて数学に統一されるであろう。数学者の中には、世界は文字どおり数式から出来ていると、となえる人もいるようだ。時空を超えた世界を探究する唯一の方法は、数学なのであろう。もはや哲学や形而上学を超えてゆくか、あるいは数学そのものが形而上学であるというほかはないであろう。そうであるならば、純粋相互性の世界は、数理によってのみとらえられる、プラトンのイデア界そのものであるといえよう

)物自体と現象界とを媒介するものとしてのイデアとその認識についてのショーペンハウアーの考えは、別の論考であつかうこととする。

 この世界は、世界意志とイデアと自我の<三一体>からなるというのが、筆者の形而上学であるが、相互性の根底は、世界意志とイデアの融合した、根源の物自体の世界であるということになろう。すでに物自体の<叡知的>な世界において、この宇宙は相互的な連関において構造化されており、現象はただそれをあぶり出すに過ぎないのである。物自体の世界は、もはや根拠命題によっては、その実相をとらえることはできないが、その世界を垣間見させる現象については、すでにいくつかあげた。確率的事象や、音楽における知覚や、記憶の構造や、coincidenceやテレパシーなどの例によって、それを暗示したつもりである。さらに物理学における量子もつれや、トンネル効果なども、物自体の世界を垣間見させるであろう。それがどのような<根拠の原理>をもつものか、いまだ確実なことを言える人は少なかろう。しかし応用や実践がそれに先立っているのである。つぎに自我の救済との関連で、それを論じたい。

相互性と自我の救済

 純粋相互性から見た自我は、相互連関によってがんじがらめに縛られた、なんの独立性もない一個体である。これを仏教では<縁>と呼んでいるが、この縁に縛られて、個としての自我は、この世界で四苦八苦の生存を余儀なくされるのである。まずこの相互性の認識によって、世界の苦の根源を見抜いたのちに、解脱(liberation)への道が始まるのである。この相互性によって縛られた自我は、単なる経験的自我ではなく、世界意志の根源において、その世界構造の中に取り込まれているのであるから、そこから脱するためには、世界の根源に向かっての洞察と自己克服が必要なのである。この世界の根源が、全宇宙の個物の間の相互的<縁>からなること、そのモザイクのような連関から脱するためには、あらゆる縁からの離脱を図ること、さらに真に独立的な自己を探究すること、これが仏教の教えた修行の道である。その際相手は、時空における現象的な世界ではなく、時空を超越した物自体としての<世界意志>であるから、その困難は並大抵のものではない。たぶんそのことを徹底してなしとげたのは、釈迦や少数の修行者だけであったろう。
 たぶんこの困難さが、次善の策として、空の思想を生み出したのであろう。この空観は相互性(相依)としての世界よりも、その相互性のなかにある個の存在を、無化することによって、自我の相対的救済を図ったのである。相互連関の〈縁〉の中で、もはやもがくことをやめさえすれば、自我は全体的構造の中に相互依存的に埋没してしまうであろう。それが大乗の説く<無我>である。さらに空観をこの世界自体に及ぼせば、何一つ絶対な物はなく、すべてが相互依存的に相対的な存在であり、そこに時間表象が加われば、なにひとつ変化しないものはなく、世界そのものが空々漠漠として、自我もまた空でしかない。本来は現象界のみに当てはまる<無常観>である。
 凡愚の身として救済を願うならば、たしかに大乗の教えは大衆的であり、比較的容易な修行であろう。凡愚の身として解脱するには、唯一の可能性が残されていることを以前に論じた。それは死の瞬間における解脱の可能性である。生への意志を、死というネガティヴな出来事において、徹底的に克服する心構えを日ごろにおいて培うならば、いわば即席の解脱が可能なのではないかという、願望に近いものであろうか。いずれにしても自我の救済への道は困難にみちている。
2020年8月31日(月)
ヴィヴァルディー再入門
 パソコンを買いなおしたおかげで、Youtubeで音楽がまともに聴けるようになった。これまで聴いたこともないクラシック音楽が、ふんだんにあることが分かった。ある時、旅の宿で、ヴィヴァルディーの珍しいヴァイオリン協奏曲を聴いた。音はスマートフォンであったが、これまで彼の音楽として聴きなれていたものとは、どこか一風ちがった、近代的な音楽に思われた。まるでロマン派の作品に思われたのである。たぶん一般受けするには、あまりにも洗練されて、玄人好みの作品であろう。
 このヴァイオリン協奏曲E minor RV278は、以来毎日聴く曲になってしまった。聴けば聴くほど、不思議な魅力にとらえられる。メロディーもリズムも単純ではなく、変幻自在に躍動する。たぶん技法においても難曲なのであろう。近代作曲家では、パガニーニを思わせるものがある。形式的には、急緩急の三楽章で、総奏と独奏とがからみあう、典型的バロックであるが、この形式の中であらゆる試みをしたヴィヴァルディーが、究極においてたどりついた境地なのであろう。すでに時代を超え、ロマン派の自由な曲想にたどりついていると言ってもよかろうか。タルティーニの悪魔のトリルと共に、すでに近代なのである。
 Youtubeでヴィヴァルディーを聴くようになってから、最近のテンポの速い演奏に違和感を覚えたが、思えば、一昔前は、バロックと言えばしみじみとした、緩徐な演奏が多かった。アレグロをアレグロのテンポで演奏していないのである。昔のレコード盤でのヴァイオリンとオルガンのための協奏曲ニ短調と、ファビオ・ビオンディの演奏では、まったく別の曲に聞こえる。後者の歯切れのよさは、前者にはまったくなく、昔からしみじみと味わってきた耳には、こうもテンポによって音楽が変わるものかと、あっけにとられる。しかし、本来のテンポはアレグロなのであるから、ヴィヴァルディーが意図したのは、心地よいリズムなのである。後者が正しいとしなければならない。しかし、ヴィオラ・ダモーレ協奏曲A minor RV397に関しては、本来のアレグロも、やはり加減したほうがよさそうに思われる。アレグロを完全に無視すれば、なんとも暗い曲であって、深夜に聴いていると、すでに冥界にいるような気持になる。アレグロが利きすぎれば、まったく情緒が失われる。他方、カラヤンのように、まったく優美な「田園ふう a la rustica」を仕立ててしまうのも、一種の魔術ではある。
  Youtubeではまた、ヴィヴァルディーの宗教曲・賛美歌なども聴くことができる。中世の感情をおしころした聖歌とは違って、歌曲のようなメロディーである。まさに天上の音楽か。バッハの宗教曲と好一対である。

ヴァイオリン協奏曲RV278 (Youtube)
Laudate pueri Dominum (Psalm)
2020年8月27日(木)
永遠・無限・相互性
 相互性のはたらく場は物自体としての根源物質であるとした。根源物質においては、経験を構成する時空や因果律は成り立たない。すなわち、経験的世界とは、まったく原理を異にしている。とはいえ、その世界の存在は経験からの類推によって、場合によっては経験世界でのなんらかの現象によって知られるのである。物理学が探究する素粒子やクオークが、現象的存在であって、物自体ではないことは、それらが実験によって、経験的知識の範囲に属することから明らかである。クオークにいたっては、単なる概念といってもよいのであり、経験を説明する適切な理論に過ぎないのである。時空におけるなんらかの因果的作用をもたらす限りにおいて、それらは物自体ではない。それらの現象の根底にある、なんらかの存在根拠を<物自体>と呼んでいるのである。それは現象をafficierenしたり、なんらかの作用で物質を生みだすわけではない。現象を生みだすのは<主観>の側にあって、その根源におけるStoffが物自体であり、イオニア哲学で言うarcheであり、無限定者(ト・アペイロン)である。
 現象の根拠が主観の側にあるのであるから、もしその主観が変化するならば、現象の姿も変わる。この主観のはたらきは先験的であって、すなわち種において共通する一般性を有しており、そのかぎりでは、カントの言うように<自然に法則を押しつけている>のである。この押しつけられた法則は、しかし事情によっては通用しなくなる。時空や因果律が当てはまらない事態が生じるならば、自然界はまったく異なった様相で現われてくるのである。量子力学は、その限界的状況にゆきあたっていると言えよう。もはや主観の法則ではなく、物自体そのものと直面しなければならなくなっているのである。
 この物自体を表わす言葉として、カント以前の形而上学や神学は、永遠とか無限とかいう言葉を用いた。これはまた<神>を指示する言葉であったが、ここでは根源物質および相互性との関連で、永遠および無限の観念にふれてみたい。永遠は、これを絶対者に適用するとき、その意味は限定されてくる。時間的には変化なく持続することであり、すなわち時間は無いに等しく、無時間的存在者をあらわすことになる。変化することがないのであるから、運動や静止といったことのない、絶対的に完成された存在である。そこからは何ものも生まれないし、何ものも滅びることはない。絶対者は部分として存在するのではないゆえに、全体者であり、一者であり、それゆえに分割可能な空間的存在者ではない。根源物質がこのような絶対者であるならば、それの構成する宇宙はどのような構造でなければならないか。これを考えるには無限の観念が必要になってくる。
 無限とは基本的に数学的概念であり、単に限りがないという想像力の限界を表わす意味での無限は、心理的であり、ここであつかう問題ではない。ある直線を無限に分割して、極小にまでたっしたとしても、それは物理的極小であって、数理的にはどこまでも無限に分割が可能である。また数直線を無限に延ばしていくとき、物理的極大に達したとしても、数理的には極大はない。物理的極小や極大は、空間や時間における表象であり、そのものとして無限大や無限小がありえたとしても、どこかで果てを想像することが出来る。それに対して数理的無限は果てがないのである。宇宙はどちらの構造をとるのであろうか。無限もまた時空を超えた観念であるからには、当然後者の無限でなければならない。宇宙の相互連関における構造は、数理的無限において成立するのである。無限のものが無限において無限の構造を有するのが、根源物質における宇宙のあり方である。無限どうしは、一々対応において、等しく無限である。たとえ無限に<濃度>の違いがあるとはいえ、一つの無限は他のすべての無限に対応する。それが相互性の根本原理である。
 無限にして永遠の全体者である根源物質は、無限の組み合わせによる無限の可能性において、無限の宇宙を構造化しているのであり、たぶんその真の姿は無限の数学によって解かれるのであろう。すでに哲学的思弁の及ばない世界である。ピタゴラスやプラトンが数学を尊重したように、数学そのものが哲学であるのならば、数理が究極の形而上学であるのかもしれない。そうした無限の数学が存在しない今、思弁の範囲での永遠と無限と相互性について考えるほかはないが。
 この宇宙は無限者であることは、すでにスピノザが述べているが(deus sive natura神もしくは自然)、永遠にして無限の全体者が、この宇宙のあらゆる連関を無時間的、没空間的に、構成もしくは構造化しているのであり、そのことの洞察は<永遠の相 sub specie aeternitatis>においてはじめて可能となる。すなわち<神の眼>でもってこの宇宙を見なければならない。スピノザは永遠無限者の視点からこの宇宙の構造を説いたのであるが、逆に相互性の洞察から、永遠無限者にいたろうというのが、ここでの考察である。相互性が成立するのは、ゆいいつ物自体としての根源物質においてであること、根源物質が無時間的・没空間的に世界を構造化するにはどのような原理が必要であるか、そのような構造化をなしうる根源物質の本質とは何であるか、そこから永遠無限者に到達できるのである。
 じつはこの永遠無限者とは、ショーペンハウアーの形而上学の<世界意志>にあたるものであり、筆者もスピノザの理性的神ではなく、盲目的原動力としての世界の根源を頭においている。ショーペンハウアーの段階的な宇宙構造論は、前にも指摘したように、無時間的であって少しもさしつかえない。この点単なる自然科学ではないのである。低次のものが高次のものを支えるという関係(Stufenbau)は、単に構造的であって、必ずしも進化的である必要はない。それゆえに、意志の救済が成り立った暁には、全宇宙が一瞬にして消滅する可能性がありうるのである。
 相互性については、経験的世界においても、その例を求めることとが出来るのであるから、個々の具体例でもって論証するのが、さらに納得がいくであろう。それらについては、おいおい取り上げることとする。
2020年8月24日(月)
純粋相互性から見た物質・時間・空間・自我
 相互性における相互連関を誤解なく言い表わす言葉は、簡単には見つからない。そもそも時空を超越した関係であるものを表す言語は、存在しないのがふつうである。必ず時間か空間かの観念が、そこに介入してくるのである。<相依=相互依存〉という仏教語も、空間的関係はまだしも、因果や因縁といった時間性をまぬがれることは出来ないのである。そもそも、時空を超越した全体的連関を表わす言葉を、人類はもっていないのではないか。それならば、あらたに作るほかはない。
 無とか空は、相対的に使われることが多いので、誤解を招きやすい。無関係とか、空想などという言葉がそうである。無や空が絶対であることを、そのつど強調しなければならないのである。<相互性>そのものは、仮の命名であり、これも単なる時空における相互作用と誤解されやすいが、とりあえず相互連関を強調するために用いている。時空を超えた相互連関を表わすには、もっと適切な言葉が必要なのである。
 <永遠>は時間観念と結びつきやすい。スピノザが使う意味での<永遠の相>を理解する人は少ないであろう。<純粋>は、認識論的な意味あいが濃い。とりあえず、純粋相互性という言い方をすれば、純論理的関係となるであろうか。先験的かつ論理的関係は、無時間的であるからだ。そもそも、ここでいう相互性は、カントの用語を用いるならば、超越論的(transzendental)な認識なのだ。いわば全体的相互連関というカテゴリーによって、この世界の成立を論じるのである。そこでとりあえず、<純粋相互性>を用いることとする。
 純粋相互性から見た物質とは何であるか。作用(wirken)はすでに時間概念を伴うので、使うことができない。Wirken(またはエネルギー)は、物質の時間・空間における発現の相なのである。物理学では、物質とは質量であり、時空における<質点>とみなされる。質量の集まった、数学的な点なのである。それが空間および時間と連動もしくは連関し、この物質宇宙のあらゆる現象の基本となる。質量があれば時空が存在し、質量(物質)と時空とは切り離すことができないのである。これを逆に考えてみる。時空がなければ、質量すなわち物質は存在しない。少なくとも、時空との連関における物質は存在しないのである。それでは、そもそも時空がなければ物質は存在しないのか。そうならば、物質の無いところで、どのようにして相互性が成り立つのか。
 相互性の成り立つのは、物質においてではないと考えればよいであろう。すくなくとも、時空と連関する物質の世界においてではない。それはどのような世界か。古代の哲学者は、地水火風以前の存在として、無限定者(ト・アペイロン)のようなものを考えていた。物質以前の物質あるいは存在(ト・オン)である。質量や時空によって限定されていない、物質以前の物質を考えたのである。そこからこの現象的な物質界が発生したと考えたのであるが、じつは真に有るものは、この物質以前の物質であると考えてもよいのである。これをカントは、先験的認識論の立場からDing an sichとし、<叡知的な>すなわち単なる概念の存在であるとした。これをUr-materie(根源物質)と考えるならば、純粋相互性が成り立つのは、そこにおいてであると言ってよかろう。
 純粋相互性は、Ding an sich(物自体、根源物質)の世界で成り立つ。このように見るならば、自然界がまったくの無意識であることも、当然のこととして納得がいく。世界は時空の認識によって作られているのではない。全体的・相互的に時空を超えて構成されているのである。インフレーション=ビッグバンから、宇宙の暗黒の終末にいたるまで、宇宙はすでに相互に連関した全体として構成されているのである。これはある点で、人間がコンピュータにおいて仮想的に作り出す、完成された世界と似ていよう。ただ人間知性が、宇宙の模倣をしているにすぎないのであるが。
 それならば、時間・空間において発現しているこの物質宇宙は、そも何ものなのであるか。それは知性の発展と関連している。この世界を<理解>しようとする努力が、この世界が時空において展開されるものと見なすのである。この世界は、根本において全体における相互の連関からなるのであり、そこには何の理解の必要もない。その連関を時空において解きほぐすことが、この現象世界を発現させるのである。根源物質は、時空における素粒子として、波動として把握される。それらの因果的もしくは確率的連関が、この宇宙の理解にほかならない。この<理解>はしかし、単なる幻ではないであろう。イデア界の存在が、その根拠を与えているからである。この現象界は、ある種のイデア的構成物なのである。それ故にそこには、美と調和があるのである。本来無意識である、根源物質の相互連関の世界は、イデアという美の衣につつまれて、この世界をある程度住むに値するものとして見せかけるのである。
 しかし、時空における存在の認識は、苦としても現われてくる。世界は相互連関においては、ライプニッツが主張したように、窮極的に調和にみちていよう。しかし時空においては、闘争と苦痛の世界でもある。わざわざ調和にみちたものを、なにゆえに苦の世界として顕現しなければならないのか。相互性の認識によって、苦のない世界に帰ることができるのであるか。苦も楽も時間的現象であるならば、時空を超えた認識において、苦楽を超えることが出来るのであろうか。現象的に苦に見えるもの、破壊や死は、全体的相互性において、苦でも楽でもないものになるのか。そもそも根源物質が<善>であるという根拠はあるのだろうか。
 もし釈迦が<ニルヴァーナ>において、これらの懐疑を解消しなかったならば、永遠の逡巡があるばかりだろう。自我は根源物質に立ち返ることによって、単なる理解を超えて、宇宙の根本を洞察し、苦楽を超えた相互性の認識にいたるであろう。時空の認識を持つかぎり、苦痛からはまぬがれない。この宇宙との超越的連関において、自我は宇宙そのものとなる。時空を超越した、どのような粒子とも共鳴するであろう。さらに宇宙そのものをつつみこむことによって、宇宙をも超えてゆく。もはや根源物質をもこえ、根源物質とは異なったおのれ自身を見いだすであろう。
2020年8月15日(土)
相互性と自我
 この宇宙での自我のあり方、存在様式は、根本において無時間的な相互性の関係にあることを明らかにした。じつは日常的にだれもがこのことを感じているのだが、<現在>という時の圧倒的な印象にわざわいされて、この宇宙の根本的連関を意識的に認識することができずにいる。なによりも<実存 Dasein>という時間性の迷妄の中に、自我はとらわれているのである。自我は宇宙の中にある(in der Welt sein)のではなく、宇宙とともにある(mit der Welt sein)のである。この迷妄は自我そのものにいずるというよりも、世界意志の生命戦略であると言えよう。個体性を生みだすためには、個体は時間・空間的に孤立していなければならない。他と自との区別は、時間的・空間的におこなうほかはない。この自他の区別は、この世界に多様性を生みだし、知性を発達させ、意識を発現させる。世界意志が自己認識にいたるには、時空における存在様式と、認識の形式が必要なのである。その認識の頂点において、すなわち知的生命体において、世界意志はおのれの創造物を、初めておのれの目で、客観的に見ることが出来るのである。知的生命体は、言ってみれば、そのための生け贄にすぎないのである。ここに自我の救済の必然性がある。この世界にとどまる限り、自我は世界意志への捧げ物にすぎない。世界意志の道具なのである。しかし、自我はこの<宇宙的使命>を果たしてしまいさえすれば、世界意志から自由になる可能性を秘めている。それには、この宇宙の本質を見抜くことが必要なのである。
 それには段階があることは、すでになんども論じたし、仏教などの修行も、<悟り>までには、細かな手順をへることになっている。ここでは宇宙の相互性の自覚が、自我の救済にいたる道筋を述べてみたい。一言でいえば、相互性の自覚は、<実存>の克服である。実存とは時間性における存在であるから、その時間性を超えた認識である<相互性>において、すでに実存の克服の基礎がある。この世界での自我は、そこにある(da sein)のでも、投げ出されてある(geworfen sein) でもない。世界とともにある(Mit-Sein)のである。これを古代人は運命とか宿命と呼んだ。しかし古代人の運命観は、いまだ時間にとらわれており、因縁や因果といった、過現未での必然的連関にとどまっていた。そのかぎりでは、生への意志にあやつられた、世界観である。
 過現未は、今ここに、共にあるという洞察にいたったのは、修行者や神秘主義者である。中世神秘家の nunc stans はその例である。<とどまる今>とは永遠を意味しているが、それは時間的永遠ではなく、また運動する意味においての空間でもない。時空を超越したある状態なのである。もしそれが、この宇宙の永遠であるならば、この宇宙のあらゆる事象は無時間的であり、かつ無次元であることになる。それは相互性そのものである。仏教の<相依(そうえ)>は、あらゆる個別の事象は相互に依存しており、独立性を持たないという洞察である。この洞察を徹底するならば、空間的区別ばかりでなく、時間的区別も存在しないことになろう。何億光年先の事象と、今ここに存在する私とは、なんらかの時空を超えた連関でつながれている。数億年前の恐竜たちと、また数万年後の人類とも、今ここで私はなんらかの連関でつながっている。それは今私がここで食事をしたり、物事を考えたりするのと同じほど、リアルな現実なのである。この洞察によって、私は全宇宙と一体化することが出来るであろう。その苦悩と歓喜とを私のものとし、そして共に救済への道を歩むであろう。これが宇宙的な宗教としての、釈迦の説いた仏教であろう。
 相互性の洞察によって目覚めた自我は、もはや時空によって支配された自我ではない。私は生まれもしないし、死にもしない。私はただ<有る>。宇宙と共にある。しかし宇宙と共にあるかぎりは、私は宇宙の宿命から逃れられないのである。宇宙と私とは相互性によって、必然的に結びつけられているからである。しかし宇宙と私とは共に無時間的であり、時空を超越している。言ってみれば、宇宙と私とは、なんらの因果関係によって結びつけられているのではない。私と宇宙との相互関係は<自由>な関係なのだ。私はいつでもそれを解消することが出来る。宇宙と共にあるかぎりは、私は相互的に必然的であるが、宇宙からみずからを解放するならば、私は絶対的に自由なのだ。その解放にいたるプロセスを、<解脱>と呼んでいるのである。
 自我の究極にいたる状態は、無とも空とも称される。しかし、なんども述べたように、絶対の無は絶対の有なのだ。時空における相対的な無ではなく、時空そのものが克服された状態での、絶対無は、同時に絶対の有なのだ。世界意志がそれであり、純粋自我もまたそれである。表象や現象や、また意識ですらない状態において、無でない何ものがあるのか、と反論されよう。表象や現象や意識に対して相対的な無は、無以外の何ものでもないであろう。その無は単に否定でしかないからである。宇宙には無限に膨張させる力としての、ダークエネルギーなるものが仮定されており、宇宙の物質の70%近くを占める。この正体は空間の(量子ゆらぎの)エネルギーであるとされる。膨張のある段階で、空間のエネルギーが宇宙の全重力にまさり、宇宙は加速膨張を始めるのであるとされる。空間という何もない<無>であるものから、途方もないエネルギーが生まれるのである。この無はエネルギーを生むことにおいて、なんらかの<有>なのである。
 宇宙を生みだす<無>があるならば、それは同時に絶対の<有>である。自我がこの宇宙に発現するならば、それの根源である<無>は、同時にそれを生みだす絶対の<有>である。この無が、生死を超えた状態、輪廻を超えた状態とされるのも、この故である。宇宙も自我も根源においては、絶対の有であることによって、同等の立場において相互連関の関係に入りうるのである。それゆえに、それを解消する可能性が、いつでも与えられているのである。
2020年8月13日(木)
相互性・続
 たぶん日常的事象の中で、最もよく知られている相互性の例は、ギャンブルや投資などの確率的事象であろう。ただそれを<相互性>といった特別な原理において扱わないだけである。<ギャンブラーの誤謬>というものがある。コイン投げやルーレットの赤と黒の場合、個々の事象は独立しており、なんどトスしたあとでも各二分の一の確率である。ということは、表裏、赤黒は、原則としてなん連続でもつづきうるということである。しかし連続して出る確率は、二分の一の掛け算であるから、三度連続すれば、その現象は八分の一の確率で起こったことになる。次に四度連続するには十六分の一であるから、その反対に賭けるのが有利であるというのが、典型的な<ギャンブラーの誤謬>であるとされる。この世界での純粋にランダムな事象は、<独立的>であるため、じつはどこまでいっても、各出目は、確率50%である以上、二分の一を減りも増えもしない。たしかにそのとおりであろう。
 ちなみに、ここでたいていのギャンブラーの誤謬で触れられていない、ある確率事象について述べておく。じつは各事象が二分の一の確率であることは、実際のギャンブルや投資においては、たいして意味をなさない。問題は同じ目がなん連続、どれだけの確率で生じるかである。そうなると20数連続などということは、限りなくわずかな確率であり、それどころか、確率50%ならば、たいてい3回か、4回連続の範囲で、80%程度の確率で収まってしまうのである。ということは、4回まで同じ目で掛けつづければ、80%の勝率で的中するということである。うまく掛け金のマネージメントをすれば、ある種の必勝法である。4回を越えて外れたら、その先は決して手出ししないことである。どこまで同じ目が出てはずれ続けるとも、予想不能であるからだ。これは逆に考えると、賭けるのは四回以上同じ目が出て、次に目が変わったときに、初めて手を出せばよい。80%の確率でくるものが、二回連続して外れる確率は(かりに心理的であるとしても)少ないからである。晴れ予報80%が、突然雨になるようなものである。実際この方法で賭けてみると、不気味なくらいにぴたりと的中することに、驚かされることがある。
 さて、ここでギャンブラーの誤謬に触れたのは、ギャンブルや投資そのものの方法論よりも、そもそも確率的事象は、本質において<独立的>な事象なのかどうかという考察の入口とするためである。二分の一の確率で、ある事象が起こるということは、一方が起こった場合、他方は必ずその反対になるということである。確率自体は不変であっても、各二分の一の確率で起こる両事象の間には、抜き差しならない関係もしくは関連があるはずである。これはもちろん、時間空間的な因果関係とは別物である。単に一方が決まれば、他方もまた必然的に決まるという関係である。このことは、物理学における周知の現象を、ただちに思い起こさせるであろう。すなわち<量子もつれ>である。ただし、ここでは、あることが起こるということと、起こらないということが、ペアになっているのである。そうなるとすぐさま思い浮かぶのが、例の<シュレージンガーの猫>の思考実験である。この思考実験について考えてみる。
 自然界における最もランダムな現象である元素崩壊を用いて、特別な毒ガス発生装置を作り、密閉した箱の中に猫とともに入れる。元素の崩壊はランダムであるから、ある時間の後に猫が生きているか、死んでいるかは、箱を開けてみるまでは分からないというのである。箱を明けるまでは、猫は<半分死んで、半分生きている>ということになる。すなわちギャンブルでおなじみの、典型的な確率的事象なのである。ここで丁(生)に賭ける者と、半(死)に賭ける者とがいたとする。彼らの行なう判断は、まったく、ギャンブラーの確率的判断と同じである。決定していない未来の事象を、因果的にではなく、単なる相関的事象として、確率的に判断しているのである。確率的事象の判断は、いわば未来までの時間経過を存在しないものとみなすのと同様である。それまでの時間が存在しないのであるから、猫は死んでいるわけでも、生きているわけでもなく、端的に<存在していない>のである。箱の中の猫は、箱を開けて見るまでは、その存在を喪失しており、あるいはその存在を認識することはできない。これは時空を超越した<相互性>の連関そのものではないか。
 この相互的連関は、確率的事象が<非独立的>であることを意味している。箱を開けたときに、死んだ、または生きた、猫が現われるならば、猫の生死は確率的に二分の一であるとしても、箱に入る前の猫と、事象においてつながっている。確率が独立的であることは、単に数学的であり、事象としては、二つの現象は連続しているのである。しかしその間に因果関係を整合的に持ち込むことはできない。ある人が猫の死に賭けて、損失をこうむったならば、そこには彼が賭けた行為が、損失を生んだという、観察者の側の因果性があるばかりである。猫そのものにとってはどうか。猫そのものに意識があるならば、ラッシャン・ルーレットと同じであろう。自分が助かるか死ぬかは、二分の一という、不確かな偶然性に委ねられているのである。死をもたらすメカニズムについては因果的に理解できる。しかし結果との間には、確率以外にはなんの合理的連関もないのである。しかし結果は、必ずもたらされる。必然的な相互性の関係にあるからである。その間の時間がどのように長くてもである。時間は無関係なのである。
 <量子もつれ>は、一つの素粒子が、他の素粒子と、そのふるまいにおいて相互連関するということであるが、これは確率の介在なしに、直接に事象が時空を超えて連関しあうことの例である。じつはもっと日常的な例においても、似たようなことが起こっている。それは音楽鑑賞における知覚の働きである。もし知覚が単に瞬間のみの印象で成立していたならば、音楽のような連続的な印象の流れは、とても把握することが不可能であろう。音を音楽としてとらえるとき、知覚は時間的に過去と未来とを、現在と綜合して、全体的に把握しているのである。このような綜合的・全体的時間は、もはや通常の時間ではないであろう。現在と過去と未来とは、相互的に統一されているのである。この全体的時間は、過現未の物理的時間とはまったく異なるものである。音楽はこの全体的時間の相互性の中で、初めて成立するからである。そこに単なる現在印象を超えた、音楽の豊かさがあるのだ。
 さらに言えば、この時間の全体性は、生命そのものの持つ特性であると考えられよう。リスや熊などの野生動物は、意識せずして季節をおのれの中に取りこんでいる。動物にとって時間とは、おのれの全体的生命そのものなのである。その相互性があるために、自然界との調和がおのずと生まれてくる。生命進化もつねに、自然界との全体的相互性において、成し遂げられてきたであろう。自然選択が単なる因果関係でないことも、このことから理解されよう。鳥たちが一斉に飛び立ったり、魚たちが一斉にシンクロして行動するのも、この生命界の相互性があるゆえの現象であろう。人類もまた、その<全体への意志>において、よかれ悪しかれ相互性に支配されているのである。
  相互性と言葉が似ている物理原理に、相補性(complimentarity又はreciprocity))がある。相補性とは、「光や電子の粒子性と波動性や、古典論における因果的な運動の記述と量子論における確率的な運動の記述のように、互いに排他的な性質を統合する認識論的な性質であり、排他的な性質が相互に補うことで初めて系の完全な記述が得られるという考え」(Wikipedia)をいう。この定義からすると、相補性とは、ここでいう相互性を認識論の見地からとらえた原理であるといえよう。素粒子は波であると同時に粒子性をもつ。この両者を<同時に>見ることはできないのである。物体は波であるか粒子であるかのいずれかである。世界は無時間的構造をもつが、それを時空において認識するとき、波もしくは粒子の構造として現われるのである。因果的性質がまさる時は粒子として、確率的性質がまさる時は波として、この表象世界は発現するのであると考えてよかろう。どちらがより本質的であるか。相互性の見地に立てば、確率的事象が相互性そのものであることから、世界の根本は波動であるといってもよかろう。それを因果的認識が、時空における個物の世界として構造化するのである。

 この世界は、古典物理的に考えさえしなければ、その存在自体において時空を超越している。これが<相互性>の原理の根本命題であり、仏教の<相依>の考え方である。生命もまた、その根本において時空を超越しているのであり、あるいはその可能性を有しているのである。人類は近代において、あまりに深く因果性にとらわれてきたので、この世界の本質を見抜けなくなっている。あるいは、不都合を避けるために、見て見ぬふりをしている。ガリレオの望遠鏡をのぞくことを拒否した、頑迷な僧侶と同様である。しかし科学においては量子力学が、その突破口をなしているようだ。科学的真理は、物質界への応用にとどまるが、本来の<相互性>の認識は、人間の超越界への飛躍を可能にするものである。すなわち<救済>の原理であることは、すでに述べておいた。人間が自己自身を拡張し、超越界へと飛翔することを可能にする原理の一つが、ここでの<相互性>なのであることを、改めて強調しておく。
2020年8月8日(土)
相互性・再論
 以前に「死と救済」においてふれた相互性に関しては、類似した考え方があるので、さらに考察をつづけたい。相互性(または交互性 reciprocity)の基本は、時間・空間の概念の根本的転換である。現代ではアインシュタインの理論にもとづき、時空の四次元がこの世界の舞台であるとされる。さらに<ひも理論>によれば、11次元の時空であるとされる。時空が連続していることは、時間だけを独立して考えることが不可能であることからも分かる。時間にせよ空間にせよ、絶対の実在ではなく、運動や加速度と連動して、伸びちぢみする。すなわち相対的なのである。この相対的な時空が、運動や変化の舞台であり、因果律によって把握される事象の場である。さらにこの時空連続体の特徴としては、<観測者>の視点が、時空の相対性を生みだすということである。観測とは必ずしも主観すなわち意識である必要はなく、なんらかの作用があれば、作用と被作用の関係において、観測が成立するであろう。すなわち観測機械で充分なのである。それゆえに、時空の相対性は客観的現象であるといえる。
 以上の現代物理学での時空観を背景にして、相互性ということの根本的意味を考えてみる。まず同時性ということの正確な定義である。現代物理学では、絶対的同時性ということはありえない。観測者ごとに固有の時空があるのである。あるいは観測するごとに固有の時空が生まれるといってよいだろう。時空はいわば<ある>のではなく、<発生>するのである。ある時点の発生が、観測者ごとに違うということが、同時性を不可能にしている。観測者にとって観測の瞬間における時だけが存在している。その時は、独自の<今>でしかない。今は各観測者にとってのみ存在し、今と今を比較することは不可能であり、そのような同時性は存在しないのである。
 相互性を同時性としてとらえると、言葉の矛盾ばかりか、本質においても誤解が生じるであろう。相互性は時間における同時性(simultaneity)ではないのだ。似た言葉として<共時性 synchronicity>がある。共時性が同時性の意味ならば、やはり時間概念の混乱をもたらすであろう。共時性は、因果律とは異なった時空における作用の概念であるならば、その時空そのものが再定義されるべきであろう。そもそも時空における同時的作用ということは、言葉の矛盾であり、現実にもありえない。少なくとも観測者はそのように把握できないのである。
 ここで作用ということを、厳密に考えてみる。この概念が生じるには、因果律のカテゴリーがなければならない。作用とはすなわち原因と結果との関係である。この関係はたんに論理的ではなく、必ず時間の観念を伴う(作用が伝わる速度には、電磁波であれ重力であれ、光速という限界があるからである)。物理的実体においては、エネルギー保存則によって保証された関係である。この意味での作用は、ここで考察する相互性や、共時性においても成り立たない。相互性や共時性においては、時間の連続性がないために、因果的作用の関係は成立しないからである。それでは、相互性や共時性が主張する、作用でない作用、とはどのような関係ないし影響なのであるか。
 相互性の本質を探究するには、時空の根本を考え直さねばならないであろう。ひとまず時空が存在しないものと考えてみるのである。これを<神の視点>と呼んでみた。神の視点においては、時空は存在しないのであるから、宇宙の創造もない。宇宙はあるがままに完成してある。神はその宇宙をどのように把握するか。それを同時的といってはならないであろう。神は宇宙の全貌を、そのあらゆる連関において<相互的>にとらえる。神にとっては構造の把握がすべてなのであって、時間的連関などはどうでもよいのである。あるいは、時間的連関そのものも、神にとっては単なる構造なのである。この宇宙の構造的把握においては、すべては相関しており、個々の独立した事象というものは存在しない。仏教でいう<相依>の関係である。
 さて、この相互性が現実の宇宙においてどのように現われているかである。その片鱗が量子論に見られることはすでに述べた。アインシュタインが量子論の矛盾として思考実験した<量子もつれ>が、実験によって確かめられている。しかし量子もつれは、必ずしも絶対の同時性があるということではないであろう。絶対の同時性があるならば、それはもはや時間ではなく、また時間における作用ではないからである。ではどのような影響なのか。時空を超えた相互関係と言うほかはないであろう。時間がなければ作用はない。時間がなければ、空間的距離も存在しないのである。これは時空観の根本的転換である。その影響するところは大きいであろう。たぶんこの時空観の転換が、文明のnext stageへの入口となるであろう。
 とりあえず、先行する考察をするならば、未来も過去も実体としてはないのであるから、人間は<現在>に生きているわけではない。過現未をひとつのものとして生きているのである。人間は時間の迷妄にとらわれなければ、過去ばかりか未来も把握することが出来るのである。しかも一個の存在としての過去や未来ばかりではない。相互性(相依)の原理に基づき、あらゆる事象との時空を超えた相関を把握できるのである。テレパシー能力などが、その一つの例証である。子供たちの中には、前世なるものを記憶するケースがあるという。これは生まれ変わりというよりは、時空を超えた相依の一つの例なのであろう。ユングが取りあげているcoincidenceなども、ごくありふれた現象といえるだろう(co-incideとは相互性そのものである)。さらに、一見いかがわしい予知や預言なども、必ずしも原理的に不可能ではない。ただし人間的願望や欲望や絶望がまじるために、正しい<神の視点>とはなりえないのである。
 未開人は現代人よりも、万物の相互性をより多く感じ取っていたようである。それを生活の原理としていたのである。ひとくちに<呪術>として片づけられてしまうが、より効率的な世界把握である、時間的因果性の観念の発達する以前には、あるていど有効な認識であった。アマゾンの奥地には、時間観念のない部族も存在するというが、宇宙を全体的に把握するならば、時間観念は不要なのである。たいていの動物は、そうした自然の連関の中に、無時間的に生きているのであろう。人間のようにカレンダーなどは必要なく、季節そのものが動物の生命と一体化しているのである。
 宇宙全体は無時間的構造物であるから、相互性はどちらの方向へも働きうる。存在者が与えられた一点から、(神の視点で)宇宙を見まわすとき、次元の数だけの相互性が成立するであろう。この宇宙が四次元時空として発現しているならば、そのどの次元へも、相互性は及ぼされる。そして相互性を及ぼすことによって、その次元の特異性は消失するのである。すなわち相互性そのものは無次元なのである。このことを仏教では<空>と称している。宇宙全体を把握するには、宇宙を無化しなければならないのである。しかしこの無は相対的な無ではなく、絶対無であるゆえに、同時に絶対の有でもありうるのだ。相互性とは、宇宙を無化することによって、絶対の有に参与することなのである。
2020年8月6日(木)
自然vs人間
 今、人間が自然の産物であることを、ひとまずおき、人間と自然とを、その能力や資質において比較をおこなってみる。いくつかの項目を立て、10点評価とする。

1、大きさ= 自然10(無限):人間0(限りなく0に近い)
2、時間=  自然10(無限):人間0(同)
3、理性=  自然10(無限):人間5(半分程ありそうだ)
4、エネルギー= 自然10(無限):人間1(太陽系を支配する程度)
5、意志= 自然10(無限):人間1(生命を支配する程度)
6、感覚・感情= 自然1(生命界のみ):人間10
7、意識= 自然1(基本無意識、生命界のみ):人間10
8、自我= 自然0:人間10
9、創造性= 自然10:人間1
10、自律性= 自然10:人間1

 最後の自律性において、人間に一ポイント与えたのは、人間が自然界において自然と対抗しうる唯一の存在であるからだ。自然が自律的であると言うのは、自然以外のものを必要としないからである。人間の創造性をもっと高く考える人もあろうが、ほとんどが自然の模倣である。自然界にないものを創造する能力は限られていよう。人間には自然と共通する理性があるので(中世人はlumen naturale[自然の光]と呼んだ)、それだけが人間のよりどころといえるかもしれない。自我に関しては、生命の産物であるかぎりは、自然と対抗する原理とはなりえない(超越自我は、ここでは問題としないでおく。すでに人間を超えているからである)。
 人間は、感情や意識において、おのれや世界に理性的<反省>を加えることにより、自然に対して反抗的になりうる可能性を持っている。それが人間のわずかな自律性である。それもまた、ひょっとして自然の仕組んだプログラムかもしれないのだが。
 それにしても、このように比較するならば、人間が一本の葦であるというパスカルの嘆きがよく理解できよう。
2020年8月3日(月)
知覚の微積分
 感覚の性質、クオリアなるものがどのようにして生まれるか。これは意識の最大の謎とされる。これのヒントは、画像における画素、あるいはドット数における、イメージの出現に隠されているようである。画素の一つ一つは、極限にまで微細でありうる。かりに一個一個の素粒子を画素とした場合、素粒子自体は知覚において、何らのクオリアとしては現われてこないであろう(そもそも位置自体が不確定である)。色彩の感覚として見るならば、それは何らの色彩ではなく、透明に近いものであろう。画像をとことん拡大していくならば、画像がどんどん薄れてあいまいな色彩になっていくことからも、そのことが推論されよう。知覚が色彩のクオリアをとらえるには、ドット数(解像度)に限界があるのである。いわば一つ一つの微分された極小の画素は透明であって、そこには何らのクオリアも存在しない。それを知覚が逆に積分していくことによって、ある段階で色彩が出現し、クオリアが成立するのである。
 脳において画素に当たるものは、一つ一つの神経細胞である。クオリアを生成する神経細胞の数は、数億に達するであろうから、パソコンのモニターなどとは比較にならない。この世界の感覚を豊かにしているものは、神経細胞を統合する知覚の積分であるといえよう。自然界は人間が発見する以前に、このような無意識の微積分をおこなっているのである。それがいわゆるemergent evolution(創発的進化)の正体であろう。意識の発生もまた、このような知覚の微積分に基づくであろうからである。物質から意識が生まれるのも、一つ一つの神経細胞が極限にむけて積分されて、なめらかな曲線を作るからであろう。一個一個の細胞にはないものを、積分された全体が生みだすのである。この生み出されたものは極限である点において、一つの統合体である。これが自我を現わしだし、自我を中心としたクオリアの世界を生みだすのである。物質宇宙が生み出した、美しい幻である。
 このような幻にとり囲まれた自我は、神経細胞の集積によって生み出された、ある統合の意識であるから、神経細胞の死によって解体されるであろう。存在するものを微積分できても、微積分によって存在を生みだすことはできないからである。ゆえに、このような自我もまた幻である。このようなアートマンは宇宙の産物である。自我がおのれの本質を探究するにあたっては、アートマンを超えてゆかねばならないのである。アートマンを否定して、さらに残るものがあれば、それが真の自我の本質である。それを釈迦はニルヴァーナと名づけたのである。
 
 超えし人 沙羅双樹下に かたちなく

2020年7月31日(金)
死と救済
 死は有機体の崩壊であり、この身体を作っている何十兆もの細胞の分解であり、DNAという身体構成の究極メカニズムの瓦解である。身体とその機能が、細胞の化学工場の集積された全体であるかぎりは、そこで一個の存在としての生命体は、確率的無限に基づく<永劫回帰>でも起こらないかぎりは、永遠に消え去る。それよりも、そもそも身体とその機能は、すべて細胞の化学工場につきるのであるか、それを自我論の立場から検討してみる。
 自我は知情意にわたる精神機能であるとされるかぎりは、身体の範疇を出でない。生命そのものの、脳における活動に過ぎないからである。そのような知情意としての自我が死に直面するとき、限りない落胆や気分の落ちこみによって、死を無としてとらえていることが分かる。死は自我をめぐるあらゆるものの終末であり、全否定なのである。これは個の死ばかりではない。私が身体として死ぬことは、場合によっては準備しだいで我慢できる。私は死後に私や私のまわりのものの、なんらかの痕跡や影響を残しうるからである。私がほかの死者の記憶や遺物を保存しているように、私自身もなにがしか他者によって保存されるだろう。それはある程度のなぐさみである。しかし死が人類全体に及ぼされるとき、それらの配慮やなぐさみは、まったく意味をなさない。記録や記憶は、人類の<歴史>の本体であるが、人類そのものが滅びれば、歴史には何の意味もないのである。そして類の死滅は、あらゆる生命体の宿命なのである。私の死ばかりでなく、類そのものの死を考えるとき、<無>としての死は、耐えがたく知情意を落ちこませ、麻痺させてしまう。すべては無意味なのであり、時間の果てに待っているものは、宇宙の圧倒的虚無なのだ。
 人類がこのことに気づいたのは、ごく最近のことであろう。かつては宗教の慰めがあった。この生を終えれば、別の似たような生が待っていると、素朴に信じていたのだ。だからそうした類の死を、杞憂として笑っていられた。今現在の疫病の猛威、20世紀の大戦の悲惨、そして自滅的兵器開発など、さらに物質宇宙の生成と終末が明らかにされたことなどから、人類は類としての死を明白に見れるようになった。それは当然ながら、個としての死の意識にも、大いなる影響を及ぼしていよう。死そのものが、あらゆる価値の全否定として現われてくるのだ。類の死、宇宙そのものの死が、個人の死とかさなり、そこに究極のニヒリズムの深淵が現われるのである。これが物質宇宙の正体であり、その産物としての生命体、人間の本質なのである。そこにどのような救済があろうか。
 知情意として死に対処する限りは、この究極の落胆、究極のニヒリズムから逃れることはできない。自我は圧倒的に生命、すなわちその発現である知情意によって支配されており、そのかぎりでは、決して無としての死を克服することはできない。無とは知情意において、感じることも、共感することも、理解することもできない、ネガティヴななんらかの事態であるからだ。その無自体を体得しないかぎりは、無については何ひとつ知ることができないのである。しかも、その知ることは、知情意を越えた知ることでなければならないだろう。そのような本質が、生命体もしくは、この宇宙の中に存在するのだろうか。もし存在するならば、それがこの宇宙を超越し、生命を超越する、すなわち救済の原理となるであろう。その鍵は自我の探究にあるであろうことは、前回暗示しておいた。究極の自我は無もしくは空であると、以前に述べた。無は死以前に、すでに私の中に存在しているのである。その無はネガティヴな無ではなく、私が存在することにおいて存在する無なのであるから、それを絶対の有と置きかえてもよいのである。もしこの絶対の私に帰ることができるならば、もはや私には単なるネガティヴな無としての死はないのである。これが単なる思弁であるならば、知情意のたわむれに過ぎないであろうが、このことが<実践>に向かって開かれていることが、その真理性の検証となるであろう。その先達を釈迦に求めてよいであろう。
 通俗化されたニルヴァーナは、知情意の生命界を出でることはない。釈迦が説いたのは生命界の輪廻を超えることであり、その輪廻すら否定された現在、究極の虚無としての死を超えることである。それを原始仏典での<空観>において説いたのである。自我は究極において無である。それ故に自由である。生ばかりか死に囚われることもないのである。生くるも死ぬも、究極の自我にいっさいタッチすることはない。生も死も、究極の無としての自我にとっては、相対的な無でしかないのである。無としての自我は、同時に究極の有なのである。それ故に、唯我独尊なのである。ただ究極の自我のみが、この世界の究極の本質であり、この世界の価値の根源なのである。

 *    *    *

 このようなことを説いても、この無限の宇宙、無限の時間のなかで、一点にも満たない存在である人間や、そもそも生命が、いかにして宇宙の宿命を逃れえるのかと、たいていの人は考えるであろう。ましてや自我などという、脳の機能であるに過ぎないもの、一個の知的生命体の幻影であるに過ぎないものが、生命どころか、この宇宙そのものを克服できるのかと、一笑に付するむきも多いであろう。この懐疑論の根底にあるのは、時間に対する度し難い人類の思いこみであろう。その点を検討してみる。
 実は、過現未にわたる時間などというものは、存在しなくてもよいのである。このことを、交互作用、もしくは交互性(相互性)に関連して考えてみる。交互作用とは、作用であるかぎりは因果律に還元できる。すなわち時間における作用の継起として捉えなおすことができる。これも時間が流れるものと考えるからである。真に交互性が成り立つのは、<同時性>においてでなければならない。この同時性における交互作用を、ショーペンハウアーは批判しているが、たいていの科学者も同じ意見であろう。それでなくても、なにしろアインシュタインその人が、同時性そのものを否定しているのであるから。同時性とは、時間の存在を認める限りは、時間における同時性でなければならない。それゆえに、時間が相対的ならば、時間の同時性はありえないのである。
 同時性をもっと根本において考えてみるならば、そこにある神の視点を持ちこむことができよう。神にとっては時間はなくてもよいのである。神は一望のもとに、宇宙の全事象をとらえるであろう。その時すべては同一の平面に存在しており、時間とはその輪切りにされた平面の、無限のつらなりにすぎない。実は知的生命体も同じことをやっており、何億光年先の銀河をとらえるとき、それがそれだけの年数をへた現象であることを心得ている。すなわち幾億年の時間を越えて、同時性の視点に立つことができるのである。しかしそれは交互<作用>ではない。作用までには幾億年もかかるのである。時間を超えた交互性とは作用ではないのである。しかし同時性を把握することができるのだ。この交互性としての同時性は、相対的ではなく、まさに絶対の同時性である。そこには作用がないゆえに、相対論が働く余地がないからである。しかし、それは単に意識の問題ではないかと反論されよう。その意識、<自我>が問題なのである。
 意識、自我は、なんらかの作用であって、時間の中にあると主張されよう。かりに交互性が可能であるとしても、意識自体はそれに預かることがないと。はたしてそうであるか。自我は無時間的であると、何度も主張した。その根拠は、自我の意識における同一性に求められる。時間における持続は、それ自体としては、無時間的であるのと同一である。そこに変化がないならば、時間の経過を知ることができないからである。アリストテレスが時間の本質を変化に求めたように、変化のないところには時間はない。自我は変化するものの中に取りこまれていながら、それ自体変化しない。しかしそれは単なる形式や、認識主観ではなく、れっきとした<存在者>なのである。存在とは私の存在である。この私は、私を取り巻く事象のすべてを<同時性>において見る。私がベテルギウスを見るとき、私はその光と同時的である。そして、その本体が600光年先にあることを知れば、すでに超新星爆発を起こしているかもしれないその姿と、同時的でありうるのだ。それが真の意味での、時間を超越した相互性である。時間と同時に、私は600光年という空間をも超えているのである。
 この交互性は、時空のつづく限り、無限に適応することができる。時空に関するかぎり、私は全宇宙をカヴァーすることが出来るのだ。言ってみれば、相互性の視点に立つかぎり、<事象の地平>は存在しない。無限の宇宙は、ひとつぶの砂の中にあるのと同然なのである。宇宙は限りなく微小な一点から発生したと、現代の宇宙論は説く。その一点とも私は同時的でありうるし、限りなく時空において膨張した暗黒の宇宙とも、同時的でありうる。そもそも、この中心のない宇宙において、ただ私のみが真の中心であり、<一点>であり、同時に全宇宙でもありうるのだ。これが宇宙と私との相互性の、究極の根拠である。古代のインド人は、宇宙(ブラフマン)と自我(アートマン)が同一であることを説いた。すくなくとも、共通する本質を持つことは確かであろう。仏教の空観は、自我を含めた全事象の<相依(そうえ)>すなわち相互依存を説いた。宇宙の認識において、確かに私は時空を越えた相互性の関係にある

)この時空を越えた相互性の、物理学での例は、<量子もつれ>である。空間的にどれほど離れていても電子のスピンの向きは、相互的に<瞬時>に影響し合うのである。テレパシーについても、同じことが言えるかもしれない。

 ここでは、この宇宙からの救済において、自我の本質と価値が、宇宙の本質に劣らないものであることを、述べてみたが、生命体としての自我の死や、宇宙の死滅であってさえも、究極の自我にとって克服不可能ではないことの、理論的示唆にとどまる。 
2020年7月29日(水)
世界意志と快楽
 快楽はネガティヴで苦痛はポジティヴであると、ショーペンハウアーは言う。苦痛もしくは欠乏であるところの欲求があるからこそ、その除去ないし充足としての快があるという立場である。はたして生存の根本の状態はなんらかの欠乏なのであろうか。もちろん、あらゆる生命の欲求が満たされた状態でこそ、心身の平衡、安楽が得られることに間違いはないが、その安楽もしくは快楽そのものが、ポジティヴでないとは必ずしも言いえないであろう。
 快そのものはその心地よさを享受している限りにおいては、疑いようもない生存の積極的な状態である。それを欲求する欠乏を超えて、充足の状態に至ったときには、まさに最高の生の状態が達成されるのである。この主観的意識においては、まさに生への意志=世界意志とは快楽そのものではないかと思われるくらいである。世界意志は何ゆえに世界として発現するのか。その存在様式がまさに快楽そのものであるなら、快楽の追求こそが宇宙の根本原理であることになる。さらにいえば、快楽とは世界意志の純粋エネルギーそのものなのではないか。エンペドクレスは愛憎を宇宙原理としたが、それは単なる比喩ではなく、この宇宙そのものの根本原理を、主観的に認識するならば、まさにそのように言うほかはないであろう(*)。愛とは快楽もしくは快感であり、憎とはそれの否定である。

(*)逆に快を客観的にとらえるならば、快は物質の波動そのものであると言えよう。快を快感から切りはなして、純粋に把握するならば、単なるリズムであることがわかる。物質の究極は波であるから、波うつことは、そのまま主観的には快感なのである。宇宙は客観的には波動であり、主観的には快であると言ってよかろう。波動そのものである音楽が、そのまま快感であるのも、そのゆえである。

 この宇宙そのものが快楽原理によって発生し、存続しているならば、動植物に限らず、また人間も快楽を求めて存在していることに疑いはない。快楽主義は人間の本質なのである。哲学や叡知の発生段階においては、だれもこのことを疑うものはなかった。<楽>や幸福が人生の存在意義なのであった。それはどのような環境、社会状態においても同様であったろう。このような生命界の<常識>が、疑われるようになったのは、どのようなことが契機になったのか。何ゆえに快楽が不都合なこと、ひいては<悪>と見なされるようになったのか。これは人間社会の特殊な発展段階に由来するのであろう。すなわち階級と差別の発生が、特定の層の快楽の否定を生みだしたのである。たしかに動物界でも、性の快楽は特定の雄が独占して、あぶれた雄は禁欲を余儀なくされる。この事態を広く社会全般に及ぼすようになったのが、人間にとっての快楽の不平等の始まりである。王候は死以外の何らの不愉快を知らずに、一生を送ることが可能であったのだ。快楽主義は、社会の一部の者の独占とされたのである。しかし人間社会の栄枯盛衰がはげしくなると、王侯といえども快楽に安んじていることができなくなった。ここにペシミズムの萌芽が見られる。ギルガメシュや釈迦の伝承にそれを見ることができる。
 この宇宙は快ばかりでなく、それの否定である苦とのだき合わせでなっている。しかし快がなければ生命も、この宇宙も存在しない。そもそも存在とは<快>に向けての努力であるから。この根本の原理を、<苦>の立場から否定的に見るようになったのが、人間という知的生命体なのである。それの契機が、人間社会の、すなわち生命体の弱肉強食の生存競争であることは、生命にとっての根本の矛盾といえよう。快楽は競争によってかちとられるものであり、勝者には快が、敗者には苦が与えられる。そこに生命の発展があり、進化もある。もしそうならば、敗者の立場からは、苦が優位を占めるような生命は、虚妄であることになろう。進化とは無数の苦の犠牲の上におこなわれる。実際においても、生命の過去において、いくたびもの大量絶滅(自然界でのジェノサイド)によって、次の生物の進化がなしとげられたのである。生命自体は無意識であり、ひたすら存在の快を求める、無限のエネルギーにほかならない。そのかぎりでは、類が存続しているかぎりは、存在の快は保たれている。生命が存続するということは、快と苦の差し引きプラスであるということである。なぜなら、存在以前は、生命としてはもともと無であったのだから。しかし個の生命としては、そうはいかないのである。
 個の生命にとって、快苦の差し引きは、その生命体一個の存続時間に応じて計算されるであろう。長らく差別や病に苦しめば、圧倒的に苦が優位であり、そのような生命は呪うに値するであろう。類にとっての快苦の差し引きなどは、どうでもよいのである。みずからが不幸になるよりも、類全体の不幸を願うであろう。そうした個の生命が、快を求めて得られない生のあり方を、むしろ肯定的にとらえることによって、一つの逆転の発想が生まれる。<快>こそ否定すべき生のあり方なのである。積極的に苦を求め、あるいはせめて<諦観>によって苦を許容し、快でも苦でもない、よりよい存在のあり方を求めようとする生き方である。そこに快と苦とを離れた<善>の観念が生まれる。世界の四大聖人といわれる、ソクラテス(=プラトン)、孔子、釈迦、イエスは、この<善>の観念をめぐって、快と苦の生命原理を超えようとした人物たちである。とはいえ、人類の大半は生命の快楽原理を超えるなどは思いもよらず、意識・無意識にかかわらず、なんらかのレベルでの快楽主義者なのであるが。
 まず、この善の観念を、そのまま快そのものに当てはめたのは、唯物論者やエピクロスなどである。善き快を目指しさえすれば、幸福な人生は可能なのであるとした。適度な禁欲と中庸、これが持続的快楽の要諦である。いわば、人生の養生法である。しかしこのような穏やかな快楽主義であっても、現実の社会で実践することは難しいのである。それゆえに、古代では、エピクロスの園のようなコミュニティーでしか実践可能ではなかった。現代では、たいていの知識人は隠れたエピクロスの徒である。
 善を快楽から峻別したのはプラトンである。すでにソクラテスは、アテネの法を遵守して、自ら死の苦を選んだのであるが、善悪の基準は、孔子と同じように、社会的に与えられるものであった(悪法も法である)。イデア論を真理の基準とするプラトンにとっては、善は最高のイデアであって、それの認識はただ知性によってのみなされ、それの実践は快苦によって支配されてはならない。日常の徳である友情、勇敢、敬虔、思慮といった行為は、それが善のイデアとして認識されるがゆえに正しいのであり、なんらかの感覚や心情にもとづいているわけではない。善はそれ自体で存在し、この世界から超越している。善のイデアはまた、美のイデアのように、この世界に反映されているわけではなく、それの萌芽のようなものが見られるにすぎない。善は単なる観念ではなく<行為>であるはずだから、プラトンにとって善のイデアは、単にそれを眺めることで事足りるわけではあるまい。行為において、それが最高のイデアであり、最高善であるという意識だけが問題なのである。友情、勇敢、敬虔、思慮が、なんらかの快楽を伴うとしても、それらは善の根拠とはなりえないのである。むしろそれらの快感を、善のイデアが保証しているということになろう。善のイデアが保証しなければ、いかなる快楽も<悪>なのである。
 プラトンの善のイデアは、何をもって善のイデアとするかによって、ある恣意性にさらされるであろう。感覚と理性とを峻別する立場からは、あらゆる肉体の快楽は善のイデアとはなりえないであろう。これを防ぐには、善のイデアそのものが、なんらかの仕方で観照されねばならない。いわば、なんらかの知的な直観能力によっての実証を伴わねばならない。それはプラトン自身の言葉を、そのまま受け取るかどうかにかかっていよう。その点、釈迦とイエスは、間違いなく自身のなんらかの神秘体験から、広く<善>について語っているといえよう。<善>とはこの場合、人間にとって最も善いとされる行為のことである。釈迦はそれを<ニルヴァーナ>に集約した。イエスはそれを<神の国>の希求に見いだした。それぞれ、その究極の目標に向かっての行為が、善の範疇に属するのであり、それに反する行為が<悪>なのである。釈迦にとってもイエスにとっても、この生命界、その権化である肉体は、善に属してはいない。少なくとも、それの本質である快楽は、善に反するものとされる。とはいえ、弟子たちや、使徒たちとの会食や談話ににおいて、なんらかの<楽>があったことにまちがいはない。全面的に快を善から排除しているわけではない。これはプラトンにとっても同じことであったろう。善のイデアを求めることの快は(それを知的エロスと呼ぼうと)否定できないのである。
 要するに、善のイデアであれ、ニルヴァーナであれ(究極の<楽>とされる)、神の国での心の平安であれ、世界意志の本質である<快>をまぬがれてはいないのである。そうであるならば、これらの超越への願望は、すべて世界意志そのものから出でたものと考えてもよいのではないか。世界意志そのものが、自己超越への願いを秘めているのである。それに参与することが、知的生命体の、あるいは自我の、<宇宙的使命>ではなかろうか。もし宗教に何らかの意味があるとするならば、この宇宙的願望に応えることにほかなるまい。この宇宙はなんらかの錯誤の産物であって、幸いにもそのリセットの可能性が、知的生命体に委ねられているのである。生命現象は、この途方もない物質宇宙の時間の中で、瞬きほどの時もないという。その瞬間の瞬間の瞬間に、自我は解脱の可能性を与えられているのである。単に快にとどまるならば、この宇宙は暗黒にいたるまで、永遠につづくであろう。快をもって快を超えるという離れ業を、自我は要請されている。快を超えた自我の行く先は、ある種の<神の国>なのであろう。あるいは神そのものなのであろう。それは宇宙そのものが、神となろうとすることなのかもしれない。
2020年7月27日(月)
快楽・心情・理性・超越自我
 自我論の最終的帰結にして、窮極的実践

 生命はまず快楽をもって始まる。あるいは物質そのものが、快楽自体であるエネルギーの産物であるならば、宇宙そのものが快楽でもって始まる。ビッグバンという、とてつもない快の爆発によって宇宙は開闢し、その後余燼として、素粒子や分子や生命体の、個々のちまちました快のいとなみが残される。快以外に宇宙創生の意味はないのである。苦を求めて何かが存在をはじめることはないであろう。苦は快の結果として生まれるのである。快を求めなければ、それの充足されない、それの妨げられる苦は存在しないであろう。そのことを生命体が最もよく表わしている。
 生命体は快と苦の宇宙の本質を、心情において反映することによって、この世界を二重に表現する。快苦は物質においてはエネルギーそのものであり、生命現象においては感覚そのものである。快感が生命体を貫くことによって、生命体は無意識、無反省、無情において、宇宙の本質と一体化する。そのことは生殖行為において最も明らかである。生命とは快を継続させるプロセスなのである。感覚の快が反省的となることによって、あるいは意識に反映されることによって、心情が生じる。単なる快は無反省、無意識であるが、生命体の利害が反省されるとき、さまざまな心情的反応が生じる。ある場合には心情は、感覚の直接的快とは独立的になりうる。場合によっては、感覚的快に嫌悪をいだきさえするのである。そこには理知の働きがからんでくる。
 理知そのものは、根本において、その働きが快であることは、宇宙のあらゆる原理と同様である。頭がうまく働かなければ、苦が生じるのである。理知の働きはそれ自体快であることによって、感覚の快に敵対しうる。とはいえ、感覚の快の圧倒的なエネルギーに対して、理知の快は取るに足らない。それゆえに理性はつねに感覚に負ける。そこで理性は、感覚的快楽に対抗するために、つねに心情の援軍を頼まねばならない。良い心、清潔な心、希望、憧れ、理想などといった、<精神性>を頼りにするのである。しかしつねに敗北をくり返すほかはない。なぜならば、理知そのものが同じ快の原理に基づいているかぎりは、感覚に対して圧倒的に不利なのである。といって、ほかに理性のよって立つ基盤はなく、苦しむために理性を働かせるものはいないであろう。理性が苦しむならば、理性そのものが破綻する。
 快楽・心情・理性、これが宇宙のすべてであり、この手のひらを、あらゆる存在者・存在物は逃れることができない。感覚、心情ばかりでなく、理性もまた内在的であり、それらによっては、この世界を超越することはできないのである。あるいはプラトンが説くように、理性だけは超越的なのではないかと考えられよう。しかしかりに理性界があるとしても、理性だけがこの世界を超越してみたところで、いわば設計図を手にしただけで、内実がないのである。この宇宙自体が全体的に自己超越するわけではないのである。この自己超越の可能性について考えてみる。
 宇宙が快楽そのものであるならば、快自体に自足していれば、そこに存在することの何の不満もないわけである。しかし、この快には欠陥がある。つねに苦が影のように伴うからである。もし純粋に快を求めて宇宙が存在するならば、この宇宙は失敗作であるといえよう。それゆえに、心情を発展させ、理性を発展させねばならなかったのである。そしてそれらを統括する<自我>を生み出さねばならなかったのである。この自我の段階において、宇宙が自己救済を求めていることが明らかになる。それを痛切に表現するのが、単なる感覚や、単なる理性を離れた、心情の働きである。この心情を最も直接に、適切に表現するものが音楽である。単なる快楽でもなく理性でもない、ただひたすらに彼方へと赴かせる心情の働きが、最もよく宇宙の自己超越の願望を表わしだしているといえよう。そして、この自己超越の主体こそ<自我>なのである。
 この宇宙的自我を<超越自我>もしくは<純粋自我>と名づけておいた。自我は存在者であることによって、その存在において超越が可能になる。理性は内在化することによって、プラトンの言いまわしでは、この世界を影のようなものにしてしまうが、自我はれっきとした存在者であり、自我以外の何ものでもない。その実質に帰りさえすれば、ただちに超越が成り立つのである。いわば自我はこの世界をリセットする鍵なのである。しかしながらめったに気づかれない、秘められた鍵である。それを求めるには、自己自身の中に沈潜するほかはない。犀の角のように、ひとり内世界を歩みつづけるほかはない。内界をとおして全宇宙の秘奥にいたる道こそが、ウパニシャッドや釈迦の説いた、宇宙の自己救済の唯一の道である。心情はその出発点にすぎない。
2020年7月11日(土)
DNAとイデア
 生命体は、あるいは生命体を構成する単位である細胞は、自然の精緻でごく微細な化学工場である。細胞はわずかな狂いもなく自己増殖をつづけ、動植物の身体とその機能とをつくりだしてゆく。そこには当然設計図がなくてはならず、遺伝子すなわちその本体であるDNAが、生命体の設計図であることが明らかになっている。DNAがどのように形成されたかはひとまずおき、すでに形成されたDNAという生命の身体の設計図に従って、動植物の生成と発展の全過程が整然と行われる。すべては原子・分子・無機物・有機物の化学反応の法則と過程に従うのである。そのさい有機物が中心となって行われる化学反応が、生命現象を生みだすのである。
 この驚異的な生命体の発生と増殖のメカニズムは、基本的には工場生産の論理に従っており、それがごくミクロの世界で、自然発生的に行われていることに、一種畏怖に近い驚きを覚えるわけである。人間の工場でも、すでにロボットが生産に投入されており、行く行くは工場自体が生命と同じように自己増殖することが可能である。そのさいDNAにあたるプログラミングの複製も容易であろう。DNAもプログラミングも、単なるコピーの機能を与えられればよいからである。プログラム自体は、そこにコピー機能をしこめば、無数に自己生産することができよう。このプログラムを自己複製するプログラムを仕込むのは、製作者の人間である。DNAに関してはどうであろうか。同じことが、なんらかの作り手に関していえるであろうか。人間のすることからの類推を、自然界に及ぼすのはあやういであろう。
 DNAが細胞分裂や身体形成に至るまでの生命体の総設計図であることに疑いはなかろうが、そのプログラミングを仕込んだものは、すなわちDNA自体の生成はもちろん、DNAが機能しうるためのさまざまな付帯条件は、どのように成立するのであろうか。DNAがRNAに転写されること自体は、はたしてDNA自体のプログラムによるものなのか。DNAがヒストンというタンパク質に巻きつくことは、果たしてDNAに書き込まれているのか。もしそうでないならば、さらにDNA以前の設計図すなわちプログラミングが必要になるわけである。あるいは細胞自体の中に、そのようなプログラミングがひそんでいるのであるか。そうならば細胞自体を作る設計図がなければならないだろう。それはもちろんDNAではない。そのような設計図を見いだした科学者がいるであろうか。寡聞にして知らない(*)。

(*)生命の発生についてDNAが先か、タンパク質が先かという、卵と鶏の問題があり、最近ではRNAの役割が注目され、RNA・DNA・タンパク質という順に生命のメカニズムが誕生したと考えられている。RNAが生命の大本の設計図であるということになる。それがDNAに設計図の役を譲ったのであり、以後はもっぱらコピー役にまわったことになる。

 生命はそもそも、生命自体の設計図に従って発生したわけではなかろう。物質界の無機的・有機的反応の過程において、偶然に生命的過程が出来したに過ぎなかろう。そこには特にこれといった設計図はなかったであろう。一度発生した生命はむしろ自ら設計図を作り上げていったかもしれない。設計図自体が生命の産物なのである。それはロボットやオートメ工場が人間の製作物の延長であるのと同様である。このように見るならば、設計図自体に設計図がある必要はないであろう。設計図があると考えるのは、生命や人間が設計する存在であるからにすぎないであろう。となれば、生命そのものや、そもそも宇宙に、設計図などはなくてよいことになろう。
 生命体はミクロの世界の現象のマクロ的産物であるが、マクロの世界そのものについても、同じ論法が成り立つであろう。宇宙は四つの力(強い力、弱い力、電磁力、重力)という物理法則によって成り立っている。それが根本の設計図・プログラミングである。これらの力をめぐって、相対論、量子力学、ニュートン力学などの、理論的設計図によって、宇宙の構造や成り立ちが明らかにされている。宇宙はあたかもそれらの設計図に従って、自発的に発生し、発展し、自身を構成してゆく、とてつもなく巨大な工場と見なしうるかのようである。さらに生命と同じように、自己複製さえ可能であると見なされている(多元宇宙、孫宇宙など)。しかし、これらの宇宙論は、この宇宙において根源の法則とされているものから、推論された宇宙のあり方である。相対論や量子力学やは、たしかにこの宇宙のあり方を記述しうるが、はたして宇宙自体とその設計図を記述しうるであろうか。そもそも宇宙自体に法則と称される設計図やプログラミングがあるのであろうか。あるとしても、それは決して見えないであろう。それは生命を設計するものが見えないのと同様である。誰も宇宙以前について語ることはできないし、生命以前の設計図について語ることはできないであろう。生命があるから設計図(DNA)があるのであり、宇宙があるから、その設計図(四つの力)があるのである。

 ここまで不可知論のようなことを論じたのは、この問題の根本はすでにプラトンのイデア論に現われているからである。イデアは基本的にこの世界のものではない。その発想の起源において、概念の発見ということが伴ったために、感覚界との関係が考慮されねばならなかった。感覚・知覚がとらえるものは、形体であれ性質(質料またはクオリア)であれ、イデアを宿しているか、せいぜい影のようなものとされた。イデアは実質においては、パルメニデスの<有>と等しく、生成変化するこの感覚世界とは別の存在なのである。中世において、唯名論者がネガティヴな形で表現したように、普遍概念としてのイデアは、単なる風の音のように空虚なものである。事物の側からイデアを考えれば、そのような抽象物に過ぎないであろう。イデアは事物との関係において<発見>されはするものの、一たび発見されたイデアは、むしろ事物を根拠づける関係においてとらえられるのである。事物が知覚され認識されるのは、知性が事物に内在する、あるいは事物が分有する、イデアの影もしくは模造をとらえるからである。範型としてのイデアが論理的に先行する。イデアは本来事物ではなく、認識する知性の中に(想起として)、さらには個の知性を超えた<叡知界>に存在するのである。
 しかしイデア界は単なる超越的存在でも神でもない。あくまでもこの世界の範型なのであり、事物との関係において存在し、認識の根底となるものである。それ故に、抽象に抽象を重ねることにより、イデアのイデアというような考えも出される。このように概念の階梯として考えられたイデアは、最高のイデアという発想にいたり、ついにはそこから、この世界が<流出>するにいたるのである。
 このようなイデアは、宇宙および人間の設計図すなわちプログラムそのものと考えることができる。<四つの力>もDNAもその一貫である。この点で宇宙以前、生命以前の大本の設計図がイデア界として存在していることになる。しかし完全なる存在としてのイデアからすれば、宇宙も人間も、たとえイデアにしたがってプログラムされたとしても、不完全な存在である。その原因をプラトンやプロチノスは物質や感覚(ひいては生命体)に見いだしている。そこから二世界論が生じる。この世界はイデア界にしたがって設計されてはいても、イデアそのものではない。イデア界から授かった設計図によってこの世界は出来あがっていても、イデア界はまったく別世界であり、通常は不可視なのである。さらに言えば、この世界がある法則を持っているからといって、それがそのままイデア界には当てはまらないであろう(DNAでいえばコピーミスということもあるのである)。そうであるならば、この世界の設計図と法則はこの世界においてのみ意味と有効性を持つのである。無常迅速のこの世界とは異なり、イデア界は不変不滅である。ただ神々とのみ観照可能な、永遠の実在界なのであり、すなわち、それについて何一つ具体的に語ることは不可能な世界なのである。たとえ人間知性がそれを想起したり、影として見いだしたとしても、究極のところは不可知なのである。
 イデア論はこの世界の根源を問うことになったとき、原因であると同時に超越的な世界を確立せざるをえなかった。アリストテレスのような妥協は許されない。もしイデア界とこの世界の関係を絶対視すれば、ドグマと化してしまい、ドイツ観念論と同じ事態になるであろう。相対化すれば、不可知論に到達するほかはない。現代の宇宙論も同じジレンマに到達していよう。宇宙の究極を問うとき、<無からの創造>などということに逃れる他はないのである。イデア論は無ではなく、絶対の<有>を根源に置くことによって、この世界を相対化し、無化したのであるが。
2020年6月10日(水)
ヴァーチャル・リアリティーとしての世界
 コンピューターによって構成された仮想世界が、ある種の現実に近い構造を持っていることは、この世界を、コンピューターになぞらえることを可能にする。この世界は量子力学的に構成された量子コンピューターの生み出した、仮想現実であるとするものである。量子は粒子であると同時に波としても発現する。この現象の解釈については、オーソドックスなコペンハーゲン解釈や、パラレルワールドなどの、さまざまな理論がある。ヴァーチャル・リアリティーもその一つである。本来波としての量子は、観測という事態に応じて、粒子の姿をとる。それが最も効率的な世界の構成法だからである。観測が行われなければ、世界は曖昧模糊とした、確率的波動の状態でしかない。物質はいわば、誰にも見られていないときには、時間・空間的に漠然と広がった波でしかないのである。それが粒子性を帯びるのは、ある種の秩序化であり、構造化である。
 粒子として秩序づけられた物質は、もはや物質本来の姿ではないであろう。観測者がそれを見ていることによって、初めて現われる物質の姿であり、構造であるからだ。このような構造化は、コンピューターのソフトに等しいであろう。量子コンピューターとしてのこの世界は、物質を粒子として現わしだすソフトによって、個物の世界を生み出しているのである。しかも、観測者が世界を観測するという条件においてである。月はだれも見ていないときにも、月のままであると、アインシュタインは考えたようであるが、月は私が見ていないときには、まったく別の姿をとっているであろう。観測者がいなくても、世界はなくなりはしないが、その世界の様相は、まったく想像のつかないものであろう。
 われわれが見るような世界を現出させている、量子コンピューターのソフトは、一体どこから由来するのであろうか。それを文明が限りなく発展した、未来人のものと考えるむきもあるようだが、世界そのものにその起源を求めてよいであろう。この世界のあらゆる法則は、宇宙発生と同時に成立している。宇宙の開闢と同時に、このヴァーチャル・ワールドのソフトも仕組まれたのである。そもそもインフレーションやビッグバンも、ソフトがなければ起こりえないであろう。無慮無数の宇宙が、無慮無数の設計図に従ってビッグバンを起こし、たまたまこの宇宙では、量子コンピューターとしての世界が成立し、ヴァーチャル・ワールドを生み出したのである。
 人間の認識するこの世界が、ある種の幻であることは、古代の思想家がつとに見いだしたことである。自然科学は幻や錯覚ではない、確固とした現実を探究してきたのであるが、その究極の理論である量子論にいたって、古代人の洞察に帰ったといえよう。感性界であれ、表象界であれ、今日の用語では、仮想現実の世界なのであり、それ自体が世界の本質の現われであるのではない。とはいえ、この宇宙そのものが生み出したものは、この宇宙の本質に属するのである。この宇宙に知的生命体として生まれたからには、この仮想現実を相手にするほかはないのである。
 そもそもこの仮想現実を生みだすソフトは、どこから由来するのであろうか。古代の思想家は、その根源が理性界(イデア界)であると考えた。現実はたとえヴァーチャルであれ、理性的なのである。すなわちあるプログラムにしたがって作られているのである。宇宙にどのようなプログラムが仕組まれるかは、まったくの確率的偶然であって、この世界がたまたま整然とした論理をもつように見えるのも、そこになんらかの意図が働いているわけではない。言ってみれば、宇宙の創造者は、無慮無数の宇宙の創造を、純然たる偶然に委ねたのである。それが神の唯一の意図であるといえるかもしれない。そして、たまたま、ある程度うまくいったこの宇宙を、嘉したのであるかもしれない。少なくとも、知的生命体は、そのような幸運がなければ、生まれないのであるから。
 人間はみずからコンピューターを作りあげ、ソフトを工夫し、さらに人工頭脳(AI)を創造して、この宇宙の創造の真似事をしたことによって、あたかもこの宇宙そのものが、なんらかの知性体によって作られたかのような錯覚におちいる。人間の知性もソフトの産物なのである。世界の本質自体は、コンピューターでもソフトでもない。それは不可知の存在(The Unknowable)である。人間にとっては無に等しいのである。人間はこの宇宙しか知りえない限りにおいて、この宇宙の紡ぎだすヴァーチャルな世界を、決してのがれえないのである。
2020年5月26日(火)
DNAと自我の救済(2)
 (1)

 前回は結論を急ぎすぎて、純粋自我の弁明が不充分であり、ドグマのような印象を与えたであろう。この点をさらに究明する。
 遺伝的要因と環境要因が、人間の形質、すなわち心身にわたるあらゆる性質を形成し、個人の運命を決定するものならば、人間の一生は遺伝的に祖先の生活のコピーに過ぎないことになる。個人はどのように行動し、行為しようと、その動因である性格は、遺伝的に祖先のそれと同じであり、祖先が意欲し、感じ、考えたとおりに、与えられた環境の中で反応するしかないのである。それは遺伝子を、二親から半分ずつ受けとることとは無関係である。遺伝とは、全体であろうと、半分であろうと、すでに出来上がったDNAを継承することであるから。単に組み合わせによっては、いかに複雑多岐であろうとも、将棋のルールと同じように、遺伝のルールを越えることはできないのである。また、そこに突然変異が生じたとしても、例外的であって、遺伝子のほとんどすべては変化しない。突然変異は、個体にとっては遺伝子の欠陥もしくは特異性に過ぎないのである。それが意味を持つのは環境との関係において、有利であるか不利であるか、すなわち個体の適応の問題である。それが個体として新しい種を残すかどうかが、進化の要因となるのである。
 それよりも、環境的要因による、遺伝子との相互作用が個人の運命をより支配するであろう。すなわち獲得形質である。獲得形質自体は、生来の遺伝子の基礎の上に形成され、遺伝的要因が発現を促進され、あるいは阻害されることであり、それが最終的になんらかのメカニズムにより、遺伝子の中に組み込まれることである。その点では、やはり先祖代々の遺伝の基礎の上に成り立つのである。人間は、どのような素質を持ち、どのような環境・境遇に置かれようとも、やはり遺伝子のくぐつであり、祖先のコピーであり、祖先と同様の運命をたどるか、それを発展させるかの、他はないのである。これが人間の一生である。すなわち種としての生命体の運命から、のがれることはできないのである。
 もし生命体に個性というものがあるならば、単なる遺伝子の組み合わせのvarietyに過ぎなかろう。その組み合わせがいかに複雑で、無限に近く可能であるとしても、所詮多様性の問題に過ぎないのである。個性とは個体の多様性の謂いであり、いろいろあっても、結局は根源の要素の複合に過ぎないのである。その根源の要素は確固として動きようがない。もしそれが変われば、生命ではなくなるからである。それはチェスのルールが撤廃されれれば、チェスのゲームでなくなるのと同様である。チェスのゲームにおける指し手の個性とは、さまざまな手を工夫するだけである。しかもたいていは、すでにあるパターンの模倣である。生命のゲームにおいても同様である。

 遺伝子(DNA)というものをコンピューターのソフトにたとえるならば、生命という機械装置は、将来のロボットがそうなると予想されているように、遺伝子のソフトでもってハードそのものを再生産できるのであり、同時にその機能を決定するプログラムでもある。個々の生命体は、生命界というある種のコンピューターが自前で生み出した、再生可能なロボットなのだ。このように譬えるならば、人間をはじめとした、個々の生命体が遺伝子のくぐつであるということも、具体的に把握できるであろう。人間は、あらゆる生命体と同様、遺伝子というソフトなしには、いかなる行為もなしえないのである。生命の特異性は、このソフトを代々繁殖という行為によって、子孫に伝えていくことができることである。何億年も同じソフトで生き延びている生命体もあるであろう。今も太古も、同じソフトで同じ営みを続けているわけである。もし環境との相互作用において、あらたな行為の可能性が生まれたとしても、それは単にソフトの書き換えに過ぎないのである。その書き換えが進んでいくことを、進化とよんでいるのであるが、大本のソフトは何億年も変わらないのである。

(2)
 
 私がなにかを意欲し、なにかを感じ、なにかを考え、なにかの行為に走るならば、それは私の先祖がしたとおりのことをしているに過ぎない。これが身体的、遺伝的生命としての人間の運命なのだ。それならば、私はなにゆえに私の身体、肉体などにこだわるのか。それは私のもののようでいて、私のものでなく、祖先に共通のものなのだ。私が考えるのではなく、祖先が考え、私が欲情するのではなく、祖先が、生命が欲情しているのである。そのような私とは、一体何ものなのだろうか。私は私の身体とそのさまざまな現象を、私のものと思いこんでいるに過ぎないのだ。そのように身体と密着して現われる私は、また身体そのものではないのか。あるいは身体に隷属する、奴隷のようなものではないのか。奴隷は他人の身体に代わって労働するものであるが、私とは身体に使用されているなんらかの従順な、自発的道具なのであるか。私が私として機能するのも、なんらかの意欲と結びついているからである。意欲は身体的生命そのものであり、生命の根幹であり、その強弱は遺伝によって左右され、身体内部の心的形質、すなわち性質や性格をとおして、行為として発現する。私は一見その操縦者のように思われるが、実は単なる一連のプロセスの付随的現象に過ぎないのだ。私の行為をあやつっているのは、遺伝的要因と環境要因の相互作用の生命的プロセスそのものなのだ。だから私などというものは、私の生命活動にとっては、時に不必要なのであり、私はわれを忘れたり、無我であったり、無意識であったりするのだ。
 もし身体的生命そのものから離れることが可能な私があるならば、その私はどのような私でなければならないか。私が生命活動にとって不必要であるとき、私は単に消え去るのであるか。あるいは、そこにもなんらかの私が残されるのであるか。これは自我意識にとっての根本的な問題である。私が生命の陶酔や興奮に取りこまれているとき、私は全面的に無我夢中であるのか。その際、私の中、あるいは私の意識の中には、ある肉体的・生命的意欲とは別の原理が働いていることに気づくであろう。私は私自身の生命的・肉体的興奮に対して、冷静に、反省的に働いている、ある原理を見いだすのである。それが理知による反省(reflection)である。すなわち肉体の働きに対して反射的に反応する、ある上位の働きである。この理知そのものは、しかし私の意識とは別物である。行為する私があり、その私に気づいて、考え、反省する私がある。さらに、この考え、反省する私に気づいている私がある。このように理知もまた、ある種の身体の上位の機能であるが、私そのものではない。私の<頭>が考えるのである。私は私と生命的身体とを、通常は区別できないのと同様に、考える私と私自身とを区別し難い。しかし、理知によって反省することによって、私は私の存在に気づくのである。この反省的自我は、理知によって媒介され、理知によって発生するのであるが、やはり身体とむすびついている以上、身体の宿命からまぬがれない。私の思索は、身体から離れた私自身を認識するカテゴリーを持っていないのである。そのかぎりでは、私が見いだす私は、(意欲する私が、つねに情念や気分としての私でしかないように)、つねに考える私、すなわち身体的・生命的私でしかない。すなわち脳の<機能>でしかないのである。しかし私について前進するには、反省的私を経由するほかはない。
 思索自体は一個の意欲である。意欲である限り、生命の遺伝的くぐつであることをまぬがれない。それに対して、思索によって見いだされる自我、すなわち反省的自我は、反省そのものにおいて意欲であるが、反省の主体ではなく、純粋に客体としてみたときに、それ自体は思索でも意欲でもない私としてあるだろう。私が私であるという、単なる意識である。あるいは意識が主体と客体との両極分離を含むものならば、志向性が主体の側にあるとして、志向性を欠いた意識の客体の側であるといってよかろう()。すなわち純粋な自我意識とは、私であると同時に純粋な客体として、無欲、無意志でなければならないだろう。いわばこの世界の認識にいっさい関与することも、影響されることもなく、ただ虚空にあるとだけしか言いようのない、無色透明な存在である。あるいは形而上学的に言えば、この世界の成り行きには、いっさいタッチしない神霊のようなものである。この絶対の無関心、無関与の存在が、純粋自我であるといえよう。この神のような純粋自我が、何故に、いかにして生命的・身体的自我として、この生命的宇宙に取りこまれていくのか、これは永遠のミステリーであるが、少なくとも、その逆の過程である、純粋自我のこの宇宙からの解脱については、あらゆる神秘家が努力し、修行したところである。

)これを自同律(同一律)の問題として考えるならば、<私は私である(A=A)>ということは、<私が私である(A=A)>と認識するための、さらに私=Aがなければならない。純粋論理においてはA=Aでしかないが、自己意識においては、<私は私である私だ(A=(A=A))>が成り立つであろう。純粋自我とは、この二重もしくは多重の自同律において、自己自身をどこまでもとらえられないAとして客体化することであるといえよう。

 自我はしかし何故に解脱を望むのであるか。自我が身体的・生命的自我である限りは、これは自己矛盾というほかはない。この自我の<転向>をそそのかすものが、やはり理知なのである。理知は生命の産物でありながら、生命と対抗しうる原理でもある。これはこの宇宙そのものに根本的に仕組まれている矛盾の要素といえよう。生命は絶対的肯定であるが、すなわち種の存続と個体保存の他には、その本質を持たないのであるが、その道具である理知は、フィードバック機能である故に、生命に対してある種のコントロールの役目を与えられているのである。アリストテレスはそれを目的論的に表現したが、知性体においては、単なるフィードバック機能である理知は、目的論的に現われるのである。この理知が、この宇宙、この生命界そのものに反省を加えるとき、生命に対して抑制的にはたらき、あるいは生命に敵対的にふるまい、ひいては自我を内面へと向けさせる契機となるのである。頑迷な生命的自我が、理知の言葉に素直に従うことはこの上なく困難であるが、生命そのものが危殆に瀕するとき、自我が頼ることが出来るのは理知の他にはないのである。この救済者としての理知の働きこそが、反省的自我の出発点なのである。
 理知は本来、この生命、この生命界をより良くし、救うことを使命としているはずであるが、この世界の根本の矛盾に突き当たり、根本の悲惨を認識するとき、もはや理知そのものが、この世界を見放すことがあるといえよう。一つにはこのペシミズムが理性界や純粋自我の探究におもむかせるのであるが、さらには生命界とは異なった絶対の原理の探究が、超越的世界の希求へと生命そのものを駆り立てることがあろう。これは不思議な生命界の矛盾である。あたかも生命が自己自身の否定へと動くかのようである。生命がより良い生命を求めて、自己自身を否定するのである。たぶん生命はあまりにも多くの〈死〉を背後にしてきたために、自己自身の死以外には、自己自身の存続を考えられなくなっているのであろう。自己自身を否定することは、新たな生につながるのである。それ故に、生命は甘んじておのれ自身を否定する原理を肯定するばかりか、進んで協力するのである。それに対する<エロス>すら提供するのである。死によって<永遠の生命>を得るという宗教の発想もここに出でていよう。進んで命を犠牲にして、絶対の生命を得るのである。純粋自我、絶対の自我の探究もまた同様であろう。生命を超越しながら、実は絶対の生命を求めているのかもしれない。それ故に、それは単なる無ではないのである。この宇宙が求めるところを、私もまた求めているのである。私が救済されることは、この宇宙が救済されることでもあるのだ。それが真のニルヴァーナであろう。
 他方、純粋自我の探求において、ある恨みがましさ、反動が感じられるならば、それは自我自体の純粋性とはほど遠いものである。ある種のネガティヴな情念が、自我を自虐的な自己否定へとあやつっているのである。自我自体は無欲であり、あらゆる情念から解放されていなければならない。そこに生命への執着、ある恨みがましさが生じるならば、それは動物的、遺伝的自我のなせる業である。純粋自我の状態においては、もはやそこに何の意欲も働かないがゆえに、無の状態に到達しているはずである。もはや純粋自我を求めることすらないのである。そこにおいて自我の探究は究極の達成に至るのである。
2020年5月13日(水)
DNAと自我の救済(1)
 「あらゆる情念は遺伝的産物である(All emotions are inheritances.)」(from A Red Sunset [夕焼け考] by L.Hearn)
 「美しい夕焼けをながめているときに起こる、ふつうの美的感情の中にも、人類の歴史と同じだけ古い感情の要素がある。それとない憂鬱、それとない不安は、ひとびとが悲哀と予感の思いをもって日没の景をながめてきた長い年月にわたって、遺伝してきたのである。壮麗な夕焼けのあとには、太古以来の恐怖の時間が来る。闇と、夜の敵と、亡霊の恐れである。これらや、その他の不気味な感じは、日の失われたあとの身体のけだるさとは別に、日没の光景と情緒的に結びついて、遺伝したものであろう。そして、その原始的な恐怖は、ついには進化をとげて、現代人の崇高感の一要素となったものであろう。しかし壮麗な深紅(crimson)の夕焼けとなると、崇高感よりもさらに漠とした感情を惹き起こすようである。それは、まぎれもなく不吉な感情である。その色彩そのものが、火山の頂の赤光、溶岩の赤く燃える色、森林火災の猛威、戦禍の中で焼け落ちる都市の景、燃え残る廃墟、火葬の薪の炎など、単に畏怖すべき光景と結びつくがために、特殊な種類の遺伝的感情を呼び起こすのであろう。そして、この破壊者としての火の、ぎらつく人類の記憶の中には、北欧人の空想の中の<むさぼり食う亡霊>めいて、苦痛をともなう灼熱の祖先の体験から発展した、ある漠とした不安、ある有機的な恐怖が、入りまじっているのであろう。」(同上)

 *    *    *

 経験論の原則として、経験すなわち知覚のうちに無いものは、心の中に現われないとされる。経験はすべて個人的経験なのである。この経験の蓄積されたものが記憶なのであるが、当然ながらこの記憶も個人的な記憶であるとされる。経験以前には、心の状態は白紙(tabla rasa)なのである。このことは感覚のみならず、あらゆる心的働きについて言いうるとされる。思考・情念・意志もまた、白紙の状態から始まるのである。デカルトの言うような先天観念(innate ideas)などはない。カントの先験的認識論においても、内容のない概念は空虚なのであり、経験がなければ心の中は空(から)なのである。
 このような経験論の伝統的な考えに革新をもたらしたのが、進化論であり、その心理学・生理学・遺伝学への応用であった。人間の心自体が生物進化の産物であり、その進化の痕跡を心の内部深くにとどめているのである。この心的進化論の思想や文学における影響は大きかったと言えよう。経験の意味が新たに問い直されねばならなかったからである。人間の心的活動は個人の経験レベルにとどまるのではなく、先祖の経験、あるいは過去の生物進化の過程によって、強く影響されているのである。このことの洞察は、個人の魂に大いなる衝撃を与えるばかりでなく、そもそも個人とは、自我とはなにかの、本質的問題に甚大な影響を与えることであろう。
  今から百年以上も前に、L.Hearnはこうした進化論にもとづいた洞察を、夢の中の飛行や、超自然的恐怖や、闇のおそれといった特異な体験から導いている。それらの体験の内面的深さ、濃厚さが、思索を遠くまで運ぶのである。一見単なる文学者の詩的な思弁と思われることが、今日の遺伝学によってその根拠を与えられている。あらためて読み直されるべきであろう。ここではHearnの言う"有機的記憶(organic memory)(*)"に関連して、DNAと自我の関係を考察してみたい。

(*)もとはハーバート・スペンサーの用語。過去の生命体の遺伝的集積としての記憶をいう。cf.Victrian Philosophy in"On Art, Literature and Philosophy" by L.Hearn

 先祖の記憶、あるいは人間以前の段階の生命体の記憶が、そのままに遺伝するかどうかは、獲得形質(環境の影響)の遺伝の問題として、かつては論外とされてきた。キリンの首が伸びたのは、高いところにある葉に届くように意欲したためではなく、首の長い個体が生き延びた自然選択の結果である。個体の個としての経験(あるいは身体や器官の用不用)が遺伝することはないのであるとされた。最近の遺伝子の研究では、DNAの塩基配列の中で圧倒的に多くの部分が働いていないのであるが、その部分にスイッチが入ることによって、思いがけない過去の経験が開かれることが明らかにされつつある。過去の極めて具体的な経験が、DNAの中に保存されているのである。野鳥のヒナは、猛禽の影が空をよぎると、本能的に身をひらたくする。そのイメージと行動パターンが、遺伝的に伝えられているのである。こうした行動が自然選択によって起こったとは思われない。間違いなく獲得形質なのである。
 イメージとそれに対する反応が遺伝することは、情念や感情において、最も顕著に現われるであろう。物に対する好悪、愛着と嫌悪とは、その理由が説明できない場合が多い。なにゆえに蛇や蜘蛛が嫌われ、蝶や小鳥が好まれるか。なにゆえに闇が恐れられるか。なにゆえに青空は憧れをよびおこし、夕焼けは不安や不吉の念ををかきたてるか。これらは単純に個人の経験から説明できるものではない。またそれらの好悪が、自然選択の結果であるとは言いきれまい。黄色を好む個体が、よく木の実にありついたため、生存に有利であったと言うことではあるまい。環境に適応するパターンは、単に自然選択によるばかりではなく、なんらかの"有機的記憶"のメカニズムによるものなのであろう。個体の経験は、DNAに何らかの影響を与えるのであろう。それによって進化は加速されるのである。さもなければ、狼はわずか数万年で犬になることはなかったであろう。

 われわれの情念や思考や行動パターン、われわれのあらゆる心的・身体的活動が、"有機的記憶"すなわち遺伝的記憶によって支配されているならば、そもそもわれわれが個人の自由意志によって活動していると思っていることの大部分が、実は先祖の行動パターンをなぞっているのに過ぎないことになる。私の怒り、私の喜び、私の好み、私の憎しみ、私の愛情は、実のところ<わたし>のものではないのである。これらの感情のどこに、私の Self などというものがあるだろうか。それらはみな先祖の感情そのものなのである。すなわち私の感情のすべてが類的感情なのである。そしてそれらの感情や意欲に基づいて、私が行動することのすべてが、先祖がふるまったとおりの振る舞いなのである。同じことは私の思考についても言えるであろう。私が考えることはすでに先祖が考えたことである。どこに私の思考の独自性があるだろうか。私は類的に思考するほかはないのである。その端的な表われ、制約が言語であるといえる。
 人間の心的・身体的活動が、このような有機的記憶のバックグラウンドの中でしか行なわれえないならば、個としての存在、自我とはどのようなものなのか。生命は北欧神話での世界樹(ユグドラシル)にたとえることができよう。原始生命の根から進化という幹が生じ、類や種という枝を張り、個々の葉を茂らせ、個々の花を咲かせる。葉や花にとっては、世界樹という生命の根幹がなければ、その存在を保つことはできず、またその営み自体が世界樹の存続にとって欠かせないのである。この生命界全体の有機的関係が、個の存在において集約されているといえよう。個体とは生命現象の最先端にあって、生命の全進化を代表しているものといえよう。個としての人間も、その例にもれないのである。個人としての人間は、生命界の全進化を集約した存在なのである。それゆえに、人間はいかに自由自在にふるまおうと、生命がかつてそうであったように、また現にそうであるようにしか行為することは出来ないのである。花の種子が、その中に植物の全可能性を包含しているように、人間もまたおのれの中に生命の全過去を包含しているのである。そこにはSelfなどというものは幻でしかないのである。生命の領域では、いかにエゴイスティックにふるまおうと、それは少しも自我の独自性ではないのである。私が残虐にふるまうのも、愛情にとらわれるのも、いつくしむのも、憎むのも、怒るのも、笑うのも、それは私であって私ではないのだ。暗い深淵から、ほとんど無意識の記憶にあやつられた衝動が、あらゆる場合に私の行為を突き動かすのである。すべてが、<有機的記憶>のなせる業である。それがそもそも生命なのだ。
 もし一個の生命体に固有の個性というものがあるならば、遺伝子に新たに加わった獲得形質以外にないであろう。すなわち先祖から受け継いだDNAが個人的経験によって、なんらかの付加物を得て変様することにより、その個体特有の形質を得るということである。それが進化にとって有利か不利かは別の問題として、個々の体験はその個体特有の遺伝子を生みだすのである。とはいえ、それはあくまでも遺伝子という類のレベルにとどまるのであり、それが真の意味での個性であるとはいえない。遺伝子とその表現型を変えたからといって、それが私の個性になるわけではない。それは子孫にとって意味があることだからである。これは突然変異や遺伝子操作についてもいえることであり、新たな種が生まれたり、創造されたりしても、それが個性であるのではなく、再生産可能であることによって、類に貢献するものである。私の唯一無二性は、遺伝子のレベルでは存在しないのである。その意味では、自我は生命界には存在しない。ただ個体としての生命体があるだけである。

 そもそも遺伝子型とその表現型とは、どのようなことなのか。遺伝の最小単位であるDNAの塩基配列(ゲノム)そのものは化学物質であり、その化学反応によって生命体の身体の発生において、なんらかの特定の形質が現われることを、表現型としてよいであろう。その際、現われる形質は、単なる機能である場合と、感覚や知覚のように、ある質をもった表象である場合があるであろう。膵臓や腎臓の働きなどは、それ自体表象として現われるわけではなく、単に化学的プロセスとして表現されるだけである。すなわち単なる概念的メカニズムとしてとらえるほかはない。それに対して、感覚や情念や意識などは、それらがどのようなゲノムによって発現に至るかは定かでないとしても、表現型としては単なる働きやメカニズムではなく、具体的な質を持ったなんらかの現われなのである。すなわち表象としての世界がそこに現われてくるのである。特定の色彩、例えば黄色が、どのようなゲノムの表現型であるにせよ、それは単なる化学反応ではないのである。つまり、遺伝子とその表現型との間にも、基本的にパラレルな認識問題が生じてくるわけである。遺伝子の世界は物質界の出来事であり、充分に物理・化学的に扱うことができるが、ひとたびその表現型の世界になると、とりわけ脳内のプロセスである認識の領域では、表象としての独立の扱いが可能になるのである。
 問題は、物質と精神もしくは魂の、古来からのパラレリズムに引き戻されるのである。その中心にある自我もまた、この問題に取り込まれていく。自我はたしかに身体と結びつくかぎりは、身体の形質のすべてを支配する遺伝子の完全な支配下にある。知情意にわたって、自我は遺伝子の産物なのである。私が自由に感じ、意欲し、思索することは、すべて生命の発生以来、遺伝子にこめられてきた、あらゆる可能性の発現に過ぎないのである。生命現象は完全なる決定論の世界なのである。環境はその決定因子の集合にすぎない。自然選択とは自由な選択ではなく、遺伝子と環境因子との相互作用にすぎない。われわれがなにかを選択したり、決断するときも、遺伝子の命じるところを、環境因子に適応させているに過ぎないのである。そこには自由な自我などはなく、そもそも自我の名に値するものがないのである。
 この決定論的な生命界における、自我の自由の唯一の可能性は、自己意識に求めるほかはない。しかし意識そのものも、遺伝子型(ゲノム)の一つの表現型であるならば、そこのどこに自己意識の自律性があるのだろうか。身体現象には、つねに<わたしの>という意識が伴う。さもなければ、身体の自己保存は不可能になるであろう。この意識を欠く精神病者は、自己の身体を傷つけても、苦痛を覚えないであろう。この限りでは、<わたし>という意識は生命現象に特有な産物であり、特に高等な動物には欠かせないであろう。この<わたし>の意識はきわめて機能的であり、それ自体で何らの意味を持つものではない。動物は、あるいはたいていの人間も、<わたし>が<わたし>であることに、さしたる意味を覚えない。あくまでも私の<身体>が大事なのである。身体とは生命そのものであり、その真髄であり、生命進化の集約である。<わたし>とはそれに付随する、お守役にすぎない。
 私がこのような私であるかぎり、私には自由がなく、私は単に生命の、すなわち遺伝子の、くぐつにすぎない。そのような私を、ふとふりかえるとき、私は私自身の存在の不可解性に気づくことがある。いわば身体から遊離した私の存在に気づくのである。このような意識には、おそらく理知の働きがかかわっていよう。理知もまた、特定のゲノムの表現型とみなすことができるが、通常は認識のカテゴリーにしたがって、事象を判断する機能である。その理知がふとおのれの存在に目を向けるとき、そこに不可解な自我を見いだすのである。不可解ということは、理知の判断のカテゴリーに属さないということである。理知はおのれの身体に属することならば、私の感覚、私の情念、私の意志、、私の考え、それらのすべてを解明し、理解することが出来るであろう。遺伝子を解明するのも理知であり、理知自身がなんらかの遺伝子型の表現型であることを理解するのも、理知そのものである。その理知が自己意識に向かうとき、はじめて身体とは異なった異様な存在である、自己そのものに突き当るのである。理知は生命そのものについては、そのすべてを理解できるであろう。しかし、おのれの存在そのものだけは理解できないのである。おのれの存在について驚き、いぶかしみはしても、それ以上の何事についても知ることのできない、この<わたし>の存在が。
 ここに、あまりにもよく分かっていながら、しかも不可解である、純粋な私が見いだされる。生命の道具によっては、私そのものは理解できないのである。私はただ私の身体を理解するだけである。たとえ私がなんらかの遺伝子型によって発現するとしても、私は私そのものを理解する遺伝子型をもっていないのである。生命体にとって不可解な私が、私の本質なのである。そこに私の唯一無二性があり、私の自由・独立性がある。すなわち、唯我独尊なのである。純粋自我のみが、真に私の本質なのであり、絶対の価値を持つものである。
2020年4月28日(火)
花々と陽光
 陽光の明るい次の日曜日に、ツツジ山をふたたび訪れた。色とりどりのツツジに反射光がまばゆい。遠景も細部も、たしかに、ごくクリアーに見えるのだ。真昼の夢とでも言うべきだろうか。あまりに明るいと非現実感を覚えるのは、不思議なことである。夢と現実とは対極で一致するのであろうか。真昼の陽光は、あるけだるい憂鬱を覚えさせるものだが、人間の思考が内向的であるために、あまりの現実感は、かえって非現実に映るのであろう。それにしても、陽光そのものは心地よい。
 帰りに、山吹の公園による。大田道灌の、例の短歌のエピソードで名高い山吹である(*)。その地とされるところはあちこちにあるようだが、この里もそうである。一重と八重とが交互に咲いている。家では白山吹を咲かせているが、これは種が違う。しゃがも咲き始めている。

(*)七重八重花は咲けども山吹の実のひとつだになきぞ悲しき

   
 
2020年4月24日(金)
ツツジとコロナ
 桜が終わってツツジが盛りである。先日、曇りがちの午後遅く、隣町のツツジ山に出かける。ツツジ祭りが中止になったおかげで、またまた独占状態である。家内は日差しが無いのでつまらないと言う。花を見るのは日中、明るい日差しの下でなければ、少しもきれいではないと言うのである。美的に貪欲であると返すと、グルメにもブランドにも関心がないのに、どこが貪欲かと逆襲される。芸術家でもないのだから、花はいつ見ても、どのような条件でも楽しむことができる。そうでないから貪欲なのだ、といっても通用しない。黙って一人楽しむ。午後の曇天の沈んだ花の色が、私には日本画を思わせて、心にしっくりくる。気質の違いなのであろう。家内は、明るい日差しの下で、また来たいと言う。それも良いだろう。
 世間では、と言うよりも世界中で、コロナウイルスの騒動がつづいている。今日、アメリカからの報道では、抗体検査の結果、ニューヨーク州の人口の14%ほど(270万人)が、感染しているそうである。実際発表されている陽性の感染者は、その10%ほど(26万人)であるから、現実には10倍の人間がすでに新型コロナに感染し、その大部分が発症していないことになる。致死率も0.5%程度だという。これでは通常のウイルスと、さしたる違いは無いのではないか。それなのに、この騒動はなんなのであろう。
 日本で1万人以上の感染者が特定されているが、実際にはその10倍の人間がすでに感染者であり、大部分発症していないのであろう。日本では抗体検査はつい始まったばかりなので、アメリカと同じ結果が出ることであろう。新型コロナウイルスだけを、特別視する必要があるのだろうか。アメリカでは、通常のインフルエンザだけでも、相当な死者が出ている。カタストロフィーに怯える、人間の心理のほうが問題なのではないか。
 事に当たっての政治家の右往左往、たいした医学的根拠もなく、あてずっぽうな対策、ずさんなマスク配布などの茶番や、ただ単に不安を煽るだけの規制などは、さいわい諸外国のように強権を伴わないので、各個人の良識的判断と、行政の<お願い>にとどめられている。この点だけは、この国の美点と認めてよいだろう。しかし、それも度を越せば、すなわち異端排除までに進めば、これまた問題であるが。
 人間界の騒動とは無縁に、自然界は粛々と、四季の推移を彩る。生も死も、さほど騒ぎ立てることではないのである。わが家の角に立つモミジの樹は、カミキリムシの幼虫にやられて枯れてしまったようだ。モミジを枯らさなければ、カミキリムシも生きてゆけないのである。ウイルスも生命体に寄生しなければ、繁殖することができない。人間的視点だけがすべてではないのである。

(ちなみにニューズウイークに面白い記事があったので、参考までに「日本はコロナ危機ではなく人災だ」4.23小幡績)

   
2020年4月8日(水)
桜とコロナ
 今年は暖冬であったため、桜の開花が早かった。つい盛りをのがしてしまったかと思ったが、三月終わりごろに川辺の桜並木を散策すると、まだまだ見頃であった。レンギョウや雪柳も咲いている。急激に寒くなる日があり、雪模様の日もあったりして、意外と花が長つづきしているのである。四月になってからも、近隣の桜が持ちこたえているので、隣町の桜山へ出かけてみた。期待通りに、まだ満開のままに残っている木が何本もある。しかも、このところの新型コロナウイルス騒ぎのせいか、ほとんど独占状態である。山腹から見わたす、丘の柔らかな緑もよい。田舎町のおかげで、不要不急の外出も自由自在である。

 疫病(えやみ)して 里人まれに 花盛る

2020年4月2日(木)
死と滅亡―その2
 前回、同じテーマでコロナウイルスについて書いた時には、まだ蔓延初期であったのが、二週間ほどした現在、WHOの発表では感染者は100万人に迫り、死者は5万人を越えるという。このままの勢いでは、人類の半数が感染するというのも、あながち無いことではなかろう。スペイン風邪では5億人が感染し、5千万人以上の死者が出たそうである。当時の人口からすると、かなりの感染率である(約四分の一)。今現在70億の人口からして、100万人が感染しても、まだ感染初期といえるであろう。しかし単なる確率ですまないのが疫病である。
 今現在、発展途上国で毎年コレラに罹患する人の数は数百万とされ、十数万人が死亡する。しかしめったに話題になることも、恐怖を起こすこともない。それに較べれば、いまだ少ない感染率であるコロナウイルスが、これほどまでにパニックを引き起こすのは、もっぱら文明国の社会・経済上の都合であるといってもよかろう。ブラジルの大統領は、コロナ対策は無用であるとして反発をかっているが、たしかに<人はいつかは死ぬ>のである。トルクメニスタンでは、コロナウイルスの名を口にしたり、マスクをするものは逮捕されるという。かといって蔓延していないわけではない。中国やその他の国でも、感染者数をなるべく少なめに発表したりしている。
 伝染病が不安とパニックを引き起こすのは、単なる感染率と死亡率の問題ではないであろう。それは不幸の手紙と似ていて、誰かから受けとることによって広まるのである。インドでは、カーストの国だけあって、コロナウイルスに感染すること自体が、差別と迫害の対象となる。そうした国ではまともな医療も受けられないであろう。アメリカのような大国でも、感染者の急増によって、医療危機におちいっている。そもそも病気の率が抑えられているのが文明国であり、疫病の急速な蔓延は<想定外>なのである。こうした人類の日常的楽天観が、ふいのカタストロフィー(破局)に対する警戒を怠らせるのである。
 数日前に、富士山噴火についての被害の予想が出されたが、火山灰が首都圏を襲うと、交通・電力・水道他すべての日常的機能がまひするという。文明が文明なるがゆえに、暗黒におちいるのである。東北から関東を襲った大震災と津波の被害も<想定外>であったが、その教訓が今回のコロナ騒ぎでどこまで生かされるかである。中世におけるペストの世界的流行は、モンゴル帝国による世界的交通網の発展によるとされるが、現代文明の大動脈がまさにウイルス感染の危機を増大させているのである。それを泥縄式の隔離や都市封鎖によって対応しようとしているのが、<文明国>の現状である。もとから医療体制のととのわない国では、これまでどおりあらゆる疾病や疫病に対して、運命にゆだねる他はないのであろう。
 死と滅亡、人類のカタストロフィーはいつでも起こりうるのであり、その百年に一度の例をまのあたりに見ることになるのであろうか。このような事態に個人はどう対処したらよいのであるか。まず疫病感染の確率を見極めることから始まる。古代から中世の、さまざまな文明の衰退と滅亡をもたらした疫病は、まさに見えない悪魔であり、人類への鞭であったろうが、今日ではウイルスの正体はある程度知れている。衛生に気をつけさえすれば日常の対処はできる。そのうえで、人から人へと伝染する確率を頭において行動すれば良い。かりに世界の感染者が一千万人に達したとしても、0.14%、単純に千人に一人である。宝くじが当たるようなものである。組み合わせの問題としても、千人に一人の感染者に出遭うことはまずあるまい。感染者が一億に増えても、まだ1.4%、百人に一人二人である。とはいえ、そこまでいけば安閑としてはいられない。感染者が増えるほど、急速に感染者と接する確率は増す。しかも一度感染すれば、陰性に変わるか死亡するまでは、他者に感染するのであるから、単純な組み合わせではないのである。その期間をひと月と考えても、罹患する人が治癒する人よりも多いことになる。感染爆発ということになれば、まわりがほとんど感染者ということにもなりかねない。この際、隠遁者となることが一番である。

 死と滅亡は生命体にはつきものである。人類はなにかおのれに特別なプラスαが具わっているかのように思いこんでいる。それに文明や精神や理念などの名をつけている。生命体の中で<人生>などというものにこだわっているのは、人間だけであろう。猫にも犬にも鳥にも、猫生や犬生や鳥生などと言うものがあるわけではない。人間だけが特別に自己の人生や人類の生命や歴史にこだわる、もしくは価値をおくのである。もとから生命に無いものを、生命に求めることができるだろうか。すべてが人間の、人類の<妄念>なのである。精神も理念も文明も妄念に過ぎないのである。ただ生命ばかりが真実であり、実在である。あらゆる生命は生命そのままに生きている。<生まれ、生まれ、生まれ、死に、死に、死に>するのが生命である。それ以上でも、それ以下でもない。それだけでは<虚しい>と感じるのが人間であるが、その虚しさ自体が妄念を生みだす元なのである。その虚しさに徹するならば、そこに逆説的ではあるが、あらゆる妄念を超えた境地が生まれてくる。そのことを説いたのが釈迦であり、キリストであったろう。死も滅亡も、妄念から生まれる迷いである。死と滅亡は生命の属性であるといってもよいのであり、生命を超越した境地には、もはや死も滅亡もないのである。かといってあの世や天国や永生があるわけではない。釈迦やキリストが求めたのは絶対的存在であり、絶対的存在であるおのれである。あらゆる不安や恐怖やパニックから遠いところにある<空>としてのおのれである。その超越者の視点こそが、死と滅亡に冷静に対処するための、究極のGesinnung(心術)である。
2020年3月20日(金)
死と滅亡
 オリオン座の一等星の一つベテルギウスが、光度を下げて二等星になった。天界の歴史においては、一生の間でそうそうない現象であろう。この赤色超巨星が超新星爆発を起こすのではないかと、天文学ファンの中で話題になっている。800光年以上離れているので、その光や影響が届くまでにはそれだけの年数がかかるのであるが、すでに爆発を起こしていれば、いつ地球にその光が届いて、満月の半分程の明るさで輝きだしても不思議はないとされている。その際、星の極方向にガンマ線バーストなる強力な放射線が放たれて、地球生命に影響をもたらすのではないかという危惧もなされている。実際太陽系の過去において、近傍の超新星爆発が影響を及ぼした可能性も考えられているようだ。
 かと思うと、今年に入って得体の知れないコロナ・ウイルスが全世界に蔓延している。数ヶ月で罹患者が20万人を越え、死者も一万人にせまる。人類70億の人口に比べれば、確率的に微々たるものだが、日々罹患者の数が増えることで全世界の国々でパニックが起こっている。ドイツの首相は人類の6割が罹患するといっている。その根拠はともあれ、先の見えない不安が、あらゆる人々を滅亡の不安に駆り立てていることに違いはない。
 自然界は特に生命現象のために存在しているわけではない。とりわけ人類の存在などは歯牙にもかけていない。あらゆる自然的災厄や災害が人類と生命を襲ったにもかかわらず、生命そのものは根本において懲りることはない。災厄が去った後には、思い切り楽天的なのである。それが生命のしたたかさであり、しぶとさでもあるのだが、それを逆に考えると、死と滅亡はつねに目の前にぶら下がっているのに、それが見えずにいるのが生命であるといえる。
 見通しの立たない現象が起こると、人間に限らず生命体はパニックにおちいる。生命の根本の条件である自然環境への適応ということが不可能になったとき、ひたすら盲目的・衝動的になるのが生命である。蜂や蜘蛛に襲われたみみずは、ひたすらのたうつだけである。運良く危機から逃れるかもしれない。しかし衝動的行動は十中八九、失敗と破滅をもたらす。日々数十人の罹患者が出るからといって、極端に不安がることは、かえって危険を増すかもしれない。その失敗が豪華客船での隔離措置であった。国境を閉ざしたりすることがどれほどの効果を生むのか、かえってウイルスを培養することにならないのか、その結果は今のところ分からない。
 こうした災厄のもたらす意識への影響は、死と滅亡がつねに生命にとって隣り合わせに存在するということを、改めて思い起こされることである。私は明日どんなことがあって死ぬとも知れないし、人類もまたなんらかの天変地異によって滅びないとも限らない。そうした意識を常日頃いだいていることは、生命の根本的楽天性からして不可能に近いが、この機会に身辺整理ぐらいは心がけるようにしたいものである。天災だけではなく、ある日突然の熱線によって、影だけ残して瞬時に消えてしまった広島や長崎の人々の運命を思うと、死や滅亡はまさにひと事ではないのである。
2020年3月19日(木)
ラ・ストラヴァガンツァ
 生命体はある種の音楽を発する。昆虫はその典型であり、insekt musician などと言われたりする。昆虫はどちらかというと無機的な音楽であり、風や木々のざわめきに近い。場合によっては心臓に直接痛みのような印象を与える。昆虫どうしの間では単なるシグナルに過ぎないからであろう。鳥類になると、ずっと人間の感情に近いものが伝わってくる。ウグイスの華麗なさえずりは、こころを慰める。椋鳥でも、普段はジャージャーと騒々しいのだが、親が子を呼ぶときは、笛のような柔らかい音を出す。音楽は生命界普遍の現象であるといってよいのだろう。
 そのようなことを思わせるのは、ヴィヴァルディーのLa Stravaganza (風変わりな)という弦楽協奏曲集を聴いていると、繊細で超絶的ではあるが、やはりある種の鳥のさえずりと同じではないかと思われてくるからである。そこには何ら概念的意味はない。ひたすら心情や意欲に訴えてくるのである。それだけに概念のような思考を必要としない、世界の根本のあり方に密着した、共感と共鳴とが自ずと生まれてくるのである。生命とは音楽そのものであると思われてくるのである。
 イタリア合奏団の耳が痛いくらいの透明な高音部の演奏と相まって、生命の喜びと悲哀とが交互にあらわれる、他の音楽家にはまれであろう、ヴィヴァルディー独特のリズムとメロディーの交錯した明快な協奏曲の世界は、青年期にはじめて第2番を聞いた時以来、その魅力をほとんど失っていない。音楽も人の成長と共に成長・変化するものならば、青年期に熱中した音楽は、年を取るにつれて単なる懐メロと化してしまうものなのだが、クラッシクばかりは変わらないばかりか、成長しさえする。青年期にはつまらなかったブラームスやシューマンが中年期以後には落ち着いて聴けるようになる。シベリウスが分かるようになったのも最近のことである。それに対して「新世界」などは青年期の感動は甦るものの、あまりに大仰にすぎる。ドヴォルザークはむしろ関心のなかった第8番に引かれる。享受において全く変わっていないのがヴィヴァルディーの協奏曲なのである。あたかもウグイスのさえずりが今も昔も変わらずにいるように。
 さすがに狂熱的なストラヴァガンツァ第2番は、クルト・レーデルのレコード盤の名演奏以来あまりにくり返し聴いたので、他の曲を聴くようにしているが、生命の躍動そのもののようなリズムと、メロディーのせつなさとでは、第9番がそれに次ぐようである。ヴィヴァルディーの音楽は、バッハと違って宮廷の小数のエリートのために作曲されたのではなく、孤児院の少女達の演奏を一般市民が聴くためのものであったから、孤児たちの境遇を鼓舞すると同時に、民衆的な明るさを持っているのである。ヴィヴァルディーの生涯についてはほとんど知らないが、芸術がすべてを語っているようである。
2020年3月5日(木)
超越的人生と理知
 自我の発現の条件として、身体的生命がある限り、自我は単なる偶然や恣意によって、この世界に生まれたり、この世界を表象界として意のままに生みだすわけではない。生命的身体という制約の範囲内でのみ、自我のこの世界での発現は可能なのである。そうであるならば、この生命界がいかに地獄の様相を呈していようとも、まさにその生命同士あい食む、弱肉強食の生存競争こそが、生命を進化させ、知性の発展を促したのであるから、あながち生命現象を全否定するわけにはいかないのである。知性はいわば地獄の沼に咲く蓮の花のようなものであり、泥土でなければ生じ得ないのである。
 人間の身体はまさにこの生命界の根本原理の縮図のようなものである。汚わいな下半身と、知性の発生する頭脳との両極において、人間存在は分裂しているのである。一方では生殖器が類的生命のシンボルであり、他方では知性を宿す顔が、超越的原理のシンボルとなる。生殖器は、知性の目にはどのように観察しても醜いものであり、類的衝動すなわち繁殖行動へとただちに身体を駆り立て、生命体にとってとっておきの快楽を代償として与えることになっている。それは無意識的衝動であるから、その繁殖の目的を達するか達しないかとは、無関係に行為へといたりうる。動物で言えば、当て馬的行為であっても、性欲は充分に発現するのである。知性が働けば、むしろ繁殖を避け、快楽をのみ楽しむという、まさに人間ならではの行為が可能なのである。
 生殖器は醜いとしたが、身体のなかで特別性器が醜いのはどうしたわけであろうか。実のところ、知性の目から見れば、人間の身体はどの部分も醜い。いかに芸術的に美化しようとも、なまの肉体は醜いのである。それを忘れることが出来るのは、性欲が本能的に行為や意識をあやつるからである。美意識そのものが、性欲そのものとなるからである。男性にとっては女性器が、女性にとっては男根が、あたかも食欲の対象のように欲望されるのも、すべて性欲が美意識をあやつるからである。その証拠に、性欲を満たしたとたんに、性器の美的幻影は消え去るのである。
 身体のなかで顔だけは特別であると思われている。しかし個々の部分をとれば、顔ほど醜いものはない。とりわけ人間の口は、それだけ見ていると不気味さそのものである(*)。愛欲にかられない限りは、接吻など起こらないであろう。顔が崇高さを帯びるのは、そこに知性とりわけ理性の光が宿るからである。一般に身体が美感を与えるとすれば、それは黄金比のような幾何学的バランスが感じられるからである。整った顔も確かに美感を与えはする。それは人間に限らず、むしろ猫科の動物に顕著に見られる。人間の赤子と、子猫とでは、比較にならないほど子猫のほうが美的バランスにおいて勝っている。しかしそうした幾何学的美感は、たいてい心情的美感であって、必ずしも知性美を伴わないのである。

(*)口は性欲と共に生命の類的本質である食欲の器官の一部であるからだ。

 知性美が顕著に現われるのは、眼と額であろう。仏像においても、瞳を入れることが重要視され、額の狭い仏像はめったにないであろう。モナリザが美的であるのは、単に微笑の故であろうか。その広い額と、見すえてくる眼の光とが、ある種の畏怖の念をかもすのである。その知的冷厳さをやわらげてくれるのが微笑であると言える。こうした知性を象徴する顔は、世の中に多くはない。美術作品はいざ知らず、実際になまの顔が常に知的美を保っていることは、困難であるからだ。顔は鏡で試してみれば分かるとおり、いかなる形相をもとりうるのだ。常に知的状態でいることは不可能であるように、顔もまた一定の状態をとりつづけることはない。
 それにしても、顔は生殖器と対極にあるシンボルと考えてよいであろう。それは脳髄に最も近いところにあり、知性そのものを代表しているからである。それゆえに顔は冒とくの対象ともなりうるのである。イスラム教徒は必ず偶像や仏像の顔を落とすか削るのである。性行為においても、人間に限って、顔は欲情を駆り立て、欲情の対象となるのである。性欲は顔を征服することで、知性を沈黙させるのである。そもそも知性は性欲のような類的衝動の前では無力であるといってよい。むしろ積極的に道具として使われるであろう。それが本来の知性発生の理由であり、役目であったのだから。

 それならば、知性もしくは理知はどのようにして類的意志の権化のような身体を克服し、超越することが出来るのであるか。たいていの画家は自画像を描くことを好む。よほど官能的な画家でない限りは、ゴッホにせよムンクにせよ、ほとんど美感から遠い場合が多い。また、めったなことでは自己の下半身を描かないであろう。身体のなかで唯一理知を表現できるのが顔であることから、理知を芸術的に具体化するには、顔に頼るほかはないのである。それ以外の身体部分は、すべて類的意志に支配されているのである。手そのものを精緻にデッサンするならば、そこに現われてくるのは個としての手ではなく、独立した生命を与えられた類としての存在なのである。それ故にものとしての生命の不気味さをおびてくる。類的生命と闘うには、個を強調する他はないのである。その個がもっとも顕著に表われうるのが顔なのだ。理知にとって顔は無機的に醜いほど良い。皺や濃い陰翳、蒼白さ、さらに広い額と引き締まった口もと、その上に暗鬱な眼が加わることによって、知性の闘争精神が表われる。そのような自画像あるいは肖像はそうそうはないが、そうした顔にはある種の厳粛さまたは悲壮さをかき立てられるであろう。
 類のものは類へ。これが理知の闘争の合い言葉である。おのれの行為、おのれの意志や衝動が、はたして個にいずるものなのか、はたまた類的衝動に支配されたものなのか。つねにこの判断において行為することが、理知の生命界に対する超越の出発点である。もしある行為の動機が類的意志にいずるものであるならば、その判断の結果は二つの道をとるであろう。ひとつは完全なる拒否であり、ひとつは類の範囲を出でずに行為することである。トルストイが性行為を繁殖のためにのみ限ったのは、後者の例である。それ以外の性行為は、いわば類に奉仕するための報酬である快楽を個のために私服することであるから、それを潔しとしないならば、完全なる禁欲にいたるべきである。同様にして、あらゆる欲望、衝動、愛憎など、行為の原因を、類のためにか個のためにか、量りわけることによって、<則を超えない>ようにすることが、類の支配を脱するための、理知の作戦となるであろう。究極的には、類的意志の支配を脱した理知が、個の意志を生命界からの離脱へと導くことになろう。
 理知の芸術や行為や思索における生への意志との闘争は、ほぼそこまでであろう。それ以上の力を理知は持たないのである。いたずらに理知を働かせるだけでは、かえって生への意志や類的意志に取り込まれるだけであり、それならば初めから、<理知にたって角が立つ>よりも<情に掉さして流され>たほうがよいくらいである。理知は実践への道筋を立てるだけであり、これは古来あらゆる<解脱>の道について言えることであり、その先には意識の浄化へといたる日常の修行があるばかりである。
2020年3月2日(月)
超越的人生とは
 人間は身体的存在であるゆえに、両極に分離した生存を強いられている。一方では類的生命、他方では個の自律をめざす理知の働きが、互いに対立し、反目し、侵しあっている。身体的・類的生命の存在場所であるこの現実界は、物質的必然によって、個の自律を束縛し、抑圧し、服従させようとする。身体とその欲望・本能は世界内存在としての個の実存を規定しており、その限りにおいてはいかなる超越もありえないのである。この実存に対処する超越のあり方には、二種類が考えられる。一つは内在的超越であり、いま一つは文字どおりの、この世のほかへの超越、超越界への超越である。
 内在的超越は、身体的実存を規定しているこの世界そのものを、どのようにとらえるかによってなされる。実存そのものを全肯定する立場から、実存そのものを無化する立場まで、いくつかの段階が考えられる。すなわち唯物論から虚無主義まで、両極端において共通するのは、この世界が問題のすべてであるという立場である。唯物論は動物をはじめ、たいていの人間において、日常的行為として発現しているものであり、わざわざ思想とするまでもないのである。Der Mensch ist was er isst.(人間とは、彼が食べるところのものである。[フォイエルバッハ])という命題にすべてが表わされている。この唯物論を、方法的に普遍妥当化したのが科学主義である。物質の法則は全宇宙、すべての人に当てはまるのである。1+1=2であることや、地球・太陽間の距離が一億五千万キロであることが、誰にも否定出来ないように、物質的事実がこの世界の真理であり、すべてであるのだ。科学的唯物論は主体と客体の内在的関係の、客体へ向けての客観的超越であるといえよう。
 唯物論の対極に立つのが現象説である。日常考えるような確固とした物などというものはない。すべては観念もしくは幻影である。原子や素粒子などというものも、概念以外の何ものでもない。意識に現われている観念もしくは現象がすべてなのだ。その際、観念が単なる幻影ではなく、神や絶対者によって保証されているものとされれば、それは素朴実在論として、唯物論とさして違ったものではなくなる。すなわち現象説は、それがなんらかの本体や神などを背後に想定する限りは、超越的世界または超越的存在を前提することになる。この世界は実在そのものではなく、この実存的人生は幻であるかもしれないが、人間の中のなんらかの要素が、幻でない世界または存在者と関係しているかぎりは、この世界の存在は保証されるのである。その場合には、人間は世界内存在でありながら、同時に超越的なのである。
 純粋に内在的な幻影説は、懐疑論と虚無主義と仏教の空論であろう。懐疑論はあらゆる命題には、その反対の命題がたてられるという立場であり、結局判断停止(エポケー)におもむくことになる。判断停止自体が心の平静をもたらすならば、ある種の超越ともなりうるが、行為においては基本的に不可能であろう。せいぜい優柔不断におちいるだけである。虚無主義を定義するのはむずかしい。そもそも存在者がおのれの存在を無とすること自体が矛盾なのである。さらにおのれの存在が見いだすこの現実存在の世界を、どのように無とすることが出来るのであろうか。虚無的という場合、たいてい絶望や自暴自棄の形容に過ぎないのである。絶望とは、実存の本体である生命あるいは生への意志が、せき止められたり挫折した状態であり、決してそれ自体は無ではないのである。その証拠に、虚無的であることと極端な快楽主義や行動主義と相伴うことが多い。逆にあらゆる快楽や無謀な行動への意欲を失ったとしても、生の苦悩だけは存在しているのである。その意味でたいていの虚無主義は相対的なのである。絶対的な虚無主義は絶望でもまた希望でもないであろう。そもそも人間が存在者である限りは、不可能な立場なのである。存在自体はあくまでもポジティヴであって、それを行為において否定することは、絶望でもしないかぎりは不可能なのである。死へとおもむく意志自体は無ではないからである。
 虚無主義は単に価値判断の放棄であるといえるかも知れない。この世であれ、あの世であれ、いかなるものにも価値を置くことができないというならば、単なる投げやりな人生にすぎないであろう。もし積極的な意味があるならば、絶対的な価値を求めて、それをいずこにも求められないということであろう。それは絶望におもむかせるのであるから、先に述べた絶望の定義に当てはまる。ニーチェが説くような、「神の死」によるニヒリズム、すなわち絶対的価値の喪失もそれであるが、それは魂の〈死に至る病〉であるかもしれない。無としての死への憬れになるのである。しかし価値を求めることによって、絶望に至るならば、その求める心自体は無ではないのである。真の虚無主義は、もはや何を求めることもないであろう。
  その無に代わるものとして現われてくるのが<空>である。この現実世界はたしかに存在する。存在するばかりではなく、それが現実的な唯一の世界なのである。ただその世界のあり方が、何ら絶対的な、確固とした独立的実体・本質を保証するものではない。個々の事象が独立して存在すると思うことが虚妄であり、幻なのである。現象界の生成消滅をそのような相対的見地で達観するならば、少なくとも現象にとらわれて生きることからまぬがれるであろう。空とはすなわち内在的に超越されたこの世界なのである。すなわち世界の本質(実相)直観によって、この世界を相対的に変えてしまうことができるとされるのである。人間の苦悩は絶対を求めることからくるのであり、その執着から解き放たれるならば、心の真の自由が得られるであろう。そこには絶対の有も、絶対の無もないのである。

 以上見たように、内在的超越は、その原理からして必ずしも神や超越的存在や、超越的世界を前提しなくてもよい。しかし内在的超越においてもすでに神や絶対者や超越的世界が必要であったように、そもそも人類は古来からこの世界以外の世界を、何らかの形で要請してきたのである。それを時間的(死後の世界・あの世)または空間的(神界・天界)領域において、この世とは異なったものとしてきた。それは生命的現象と関係してくるのである。生命現象は空間的連関と時間的持続とを本質としている。個の生命もまたその本質を反映しているのであり、おのれの生命の永遠不滅を信じて疑わないのである。本来の超越、すなわち超越界への超越は、その起源において個の生命の自己肥大化にほかならなかった。その意味で個体の真の自律的超越とは異なったものであり、生への意志の範囲を出でないのである。個体の生命、生への意志そのものを克服・超越しようとするには、さらに別の原理が必要である。それが理性であることは、最初に述べた。
 理性による超越は、ソクラテス・プラトンによる概念(イデア)の発見に始まるであろう。生命界とは異なった、理知によってのみとらえられる世界があるとしたのである。しかしその世界とどのようにして関係しうるかは、理性のみによっては探究しえない。プラトンもエロスをその動力としなければならなかった。理性はかりに世界の本体であるとしても、人間自身は理性そのものではないのである。理性を兼ねそなえてはいても、理性とは本質をことにする存在である。それを古代インド思想にならって、自我(アートマン)としてよいであろう。アートマン自体は複合的であり、それを純化するプロセスにおいて究極の自我が見いだされる。ウパニシャッドもすでに、純化された自我において、生命界を超越する原理を見いだしたようであるが、インド思想にとりついているブラフマン=アートマン思想をふりきることはできなかった。梵我一如であるかぎりは、ブラフマンの生み出した生命界の輪廻転生からまぬがれないであろう。
 理性と理性によって見いだされる自我とは、身体的実存とは対峙する原理となりうるのである。その超越のあり方は、内面に向かうという意味ではむしろ内在的であり、しかもこの世界を超越する超越でもある。この世界を超克するには、この世界がまず内在化されていなければならない。おのれのものでないものを、おのれの支配下に置くことはできまい。内在化された世界において、その世界をさらに内部へと超越すること、それによって世界の本質も、おのれの本質も明らかになるのである。これはあらゆる神秘的宗教者の行ったことである。釈迦の言うニルヴァーナもこの境地と解したい。
 この内面における探求において、もし神や絶対者がいずこかに存在するならば、そこにこそ求めるほかはないであろう。「星空の彼方に必ずや創造者がいます」わけではないのだ。無限の宇宙に畏れおののくのは、生命としての人間の感性である。理性は無限や永遠におののくことはない。ひたすらおのれや宇宙の存在そのものの本質に、驚異の眼を向けて、探究するだけである。宇宙そのものの中に救済はないのである。救済はただおのれの存在そのものの中にある。それが超越の真のあり方であり、超越が可能であるゆえんでもあろう。