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2020年12月11日(金)
宇宙一代・人生一代
 宇宙の死と私の死が同一であるという洞察が真理であるならば、生きることにどのような意味があるのかという疑問が起ころう。生の目的が死であり、宇宙の同時消滅であるならば、なんとも消極的な、虚無的な人生を生きることになろう。宇宙には、生命には、そのようなネガティヴな、暗澹とした意味しかないのであろうか。そのような疑問に対して、生命肯定の立場から、この洞察のもたらすところを考察してみよう。
 仏教の無常観は、異なった宇宙観ではあるが、同様なネガティブな生命観であることはだれもが知っている。それが世界宗教となりえたのは、生の苦悩からの解脱や浄土といった、救済の世界を準備したからである。解脱が同時に宇宙の消滅であるならば、そこには一般大衆が望むような、生命のひそかな願望である永世への希望が断たれてしまう。釈迦の真意がどこにあったかは今問わないとして、たいていの人が仏教に求めるものは、生きながらの幸福であり、そのための来世への準備である。仏教徒にとっては、いわば生命は永遠に続くのである。
 その永遠の道を断たれたとき、あらゆる宗教者は絶望するであろう。一回限りの人生、一回限りの宇宙に、なんの意味があるであろうと。文字どおり、神も仏もないのである。このような人生観、宇宙観のもとでは、人は絶望し、投げやりな人生を生きるほかはないであろうと。しかし人は絶望し、投げやりにその日を生きるとしても、生命そのものはそのような生き方をしていない。かりに一代かぎりの宇宙であるとしても、自然は美しく、残酷で、雄大で、かつ卑小で、その日を生きられる限りに生きる。苦痛と苦悩の合い間には、快楽と安らぎもある。そのような自然のあり方は変わらないのである。じつは一代かぎりの宇宙、一代かぎりの人生であるゆえに、この自然はいとおしく、意味あるものとなりうるのである。人生は線香花火のようなものであり、宇宙は夜空にあがった花火のようなものであろう。それ故に人は花火にひかれ、人生にひかれ、宇宙にひかれる。たった一度であるからこそ、すべてがゆるせるのである。永遠の地獄も、天国も無い。私の一生がすべてなのである。私の生きる宇宙がすべてなのである。この宇宙は私の宇宙なのであるから。
 これは単なる自我の肥大、妄想なのであろうか。どこまでが形而上学であり、どこまでが空想なのか。この点はさらに考究と実践が必要であろう。少なくとも単なるペシミズムにとどまる必要はなさそうである。この一回限りの宇宙、一回限りの人生を、運命のままに生きることは、諦観をもたらすとともに、最終的救済を約束されていることにおいて、心の究極の安らぎをもたらすであろう。もし仏教などがいうように、輪廻転生があるとしても、次の人生もまた一回限りの宇宙、一回限りの生命であり、すでに救済は約束されているのである。そこには因果はないのである。転生は単なる確率的偶然である。私が今この宇宙に人間として存在しているのも、単なる偶然なのである。それゆえに、輪廻転生したとしても恐れるにたらない。
 究極の救済は、私がもはやなんらかの宇宙として発現しないことであるが、それをなしうるか、なしえないかも、運命のままであるから、そこまでこだわることには意味がないであろう。私は釈迦にはなれないからである。それよりも、宇宙即私というこの真理を、いかに日常において実践するかがだいじであろう。私の死、私の非在を、いかにして宇宙の消滅・非在として実感しうるか。死後を考えたり、生前に執着したり、身辺整理などというこだわりが、果たして必要であろうか。消滅するもののために、なんの配慮が必要であろうか。このことを洞察し、実践することは、ことのほか難しいであろう。私は前もって、太陽や星星を消しておく必要はないのであるから、まして私や私の人生にまつわるものを、整理などする必要があるであろうか。この執着・こだわりが私の心の安寧を損っているのである。無一物であることにこしたことはない。かりに多くのものに取り囲まれていたとしても、それらが私の人生とともに消え去る幻であることを思えば、無一物とさした違いはないのである。あとに残るものは何一つ無いということの、洞察に達しさえするならばである。私の死は宇宙の死である。つねにこの実感を持つようにしなければならない。たとえ私がこの宇宙においてどんな悲惨な生き方をしようと、車にはねられたり、テロや戦争で殺され、災害で命を失うとしても、私は宇宙とともに滅びるのであるという洞察に支えられるならば、そこにはつねに救済があるのである。
 もし存在が同時に救済の可能性を秘めていないならば、あらゆる存在は無意味であり、虚無である。自我もまた存在するからには、自己救済の可能性をその本質において秘めているのである。救済の究極の可能性とは、それ自身の本質に還ることである。宇宙はその本体である全一者としての世界意志に帰還することにより、その現象的存在を解消させる。自我は現象的・身体的存在から解消され、超越的な純粋自我としてのおのれに帰還する。それは同時的になされねばならないのであり、それが可能であるのは、この世界が三一体として発現し、三一体として成立するほかはないからである。そのどの一つもが欠ければ、この世界は解消され、消滅するのである。これが私の死が、宇宙の死であることの、形而上学的根拠である。
2020年12月6日(日)
私の死と宇宙の死
 相互性の世界では、個人の運命・生死は全体の運命に組みこまれており、その一部であると述べた。このことから、私の死とは、宇宙の全構造の中での取るに足りない一片の出来事であり、たいていの人が考えるように、死のあとに世界は残るが、私という自我・身体は消滅し、無に還るものとするであろう。この生命観はある意味で本能的であり、世界が時間的に現象していることに対する、生命的反応といってよかろう。これが無の悲哀であると前回述べた。死というものを、生と死の対立としてとらえるならば、死は恐れと悲哀以外の何ものでもない。
 しかしこの宇宙の根源においては、すなわち根源物質アルケーの世界では、生と死は全体の構造の中で連関しており、生だけ、死だけが、特別なのではない。生も死も、あるべくして全体の相互連関の中に取りこまれており、いわば全宇宙の生死と一体化しているのである。この宇宙は始まりと終末をもち、一回限りの創造であり、存在である。創造の瞬間にすでに、この宇宙も、個人も、開闢と終末、生と死は決定しており、消滅と死へいたる運命が刻印されているのである。時間はそれを運動・変化・発展・消滅としてつむぎだすに過ぎない。この宇宙が根源において存在しつづけるのは、世界意志が根源物質アルケーとして流出している限りにおいてである。この時間的現象界が存在しつづけるのは、生命体が世界認識において、自我を発現させているからである。身体としての自我は、時間内の存在としておのれをとらえるほかはない。死が無であるのは、現象自体が無であるからだ。
 私が死によって消滅しても、アルケーの世界での私は消滅していない。私はいわば生きていると同時に死んでもいる。私がある人の生から死までを描いた絵画を目にする時、生と死は同時にそこにあるのと同様である。アルケーの世界は、世界意志があるかぎりは不滅である。世界意志がもし流出をやめれば、その瞬間に世界そのものも、現象界も、消滅するであろう。これが究極の宇宙の死なのである。しかし宇宙の死は、宇宙がその存在の根源に還ることであり、無としての死ではない。<有るものは有り、無いということは無い。>このアルケーの消滅が、じつは私の真の死なのである。しかもそれは無としての私の死ではなく、私の根源への帰還であり、絶対の有としての私の発見なのである。
 知的生命体の宇宙的使命としての、世界意志の自己認識への参与によって、世界意志が滅却され、究極的にこの宇宙が消滅へともたらされるならば、この宇宙の消滅は私の死であり、私の死は同時にこの宇宙の消滅でもある。私が死ぬことは、同時にこの宇宙を死にいたらせることである。そこにはいかなる悲哀も恐れもないであろう。私は宇宙とともに死ぬのであるから。私はこの世に、この宇宙に何一つ残すことはないし、宇宙もまた何一つ残らず消え去るであろう。この究極の死の悟りに至ることが、ニルヴァーナなのであろう。死において私は宇宙の根源と一体化し、宇宙とともに救済されるのである。

 <われわれはむしろ率直に次のことを認める――意志を完全に廃棄した後に残るものは、だれでもいまだに意志にあふれている者にとっては、もちろん無である。しかし、その反対に、意志が転向し、自己否定を遂げた人にとっては、このわれわれのはなはだ実在的な世界が、無数の太陽や銀河と共に、――無に帰するのであると。
   ――アルトゥーア・ショーペンハウアー「意志と表象としての世界(第71節)」より
 Wir bekennen es vielmehr frei: was nach gaenzlicher Aufhebung des Willens uebrig bleibt, ist fuer alle Die, welche noch des Willens voll sind, allerdings Nichts. Aber auch umgekehrt ist Denen, in welchen der Wille sich gewendet und verneint hat, diese unsere so sehr reale Welt mit allen ihren Sonnen und Milchstrassen- Nichts.>
2020年12月2日(水)
無について・宇宙の創造について
無について

 老年期になると、仕事や雑事から解放されて、自由に時間を過ごせることが、だれもの抱く理想の生活であろうが、人生のせわしなさから解放されてみると、思いがけない気分の転換が生じることに気づくであろう。それまでの人生は、ひたすら前向きであった気分が、いわば行きどころを失って空転し始めるのである。その時になって、生きるということの基本的あり方が、情緒や気分に直接反映されて、ふだん気づかなかった心のネガティヴな状態があらわになるのである。
 老年期の気分は、基本的にsadnessである。日中活動している時には気がつかないでいるが、夜中に目覚めているときなどに、おのれの心を点検してみると、そこはかとないsadな気分が、通奏低音のように流れていることに気づく。その気分を明るい考えによって転じようとしても、そのバスの響きは鳴りやまないのである。ほとんど理由のない、かすかな悲哀なのであるが、あらゆる情念がそうであるように、それがなんらかの肉体からのサインであることは確かである。その気分のもとをたずねてみると、どうやら肉体自身が衰微と崩壊に向かっていることの、漠とした悲哀であることがわかってくる。つまり、肉体自身がいずれ死という事態の前で、無に帰することのsadnessであるらしい。気持ちをかき立てるための、肉体の条件がもはや失われかけていて、かりに刺激があったとしても、それに充分に応えられない気落ちが、そこに悲哀のGrundbassとして現われているのである。
 肉体は<無>を恐れている。これは間違いないことである。荒ぶる生への意志が、肉体の衰えによって、静まらざるを得ない、その諦めきれない思いが、肉体の死すなわち無への抵抗として現われてくるのである。死は肉体にとっての<無>以外の何ものでもないのである。死のあとに、肉体は残らない。これはまともな理解力の持主なら、だれにも分かる自然な認識である。これを教えているのが、肉体そのものだからである。この死の悲哀すなわち無への抵抗が、あらゆる形而上学や宗教の大本であろう。死をのり越えるものは、肉体であってはならない。かりに肉体の形をとっても、それは霊化されていなければならない。無に対する恐れ、sadnessをのり越えるには、なんらかの霊の存在が必要なのである。とはいえ、恐れや悲哀といった気分が明らかにするのは、たとえ霊が存在したとしても、もはや肉体は存在しないのであり、肉体に付属するあらゆる感覚、感情、情念、欲望、思考などは、肉体とともにすべて無に帰する。それらがすべて滅ぶべきものであるということが、人生の最大の悲哀なのであり、そのことを老年期の気分が、そこはかとなく暗示しているのである。無は人生に対してのみ無なのである。
 これに対して、死後にむしろ無を期待するというような無もある。<死んだら、なにも無いのがよい>と、多くの人は望むであろう。これは死そのものに対する恐れというよりは、<死後>にたいする迷信的恐れから出ているのである。宗教が吹きこんだ地獄やら、懲罰やらの、迷信的恐れが、いわば第二の死としての無を願わせるのである。その前提としては、死んでも肉体があるという迷妄がある。もし真に肉体があるとすれば、その本質は生への意志であるから、無を願うことは決してないであろう。
 老年期のそこはかとない悲哀は、生への意志が肉体の衰微を嘆くものと言ってよかろう。じつは、もし知的生命体の使命が、世界意志の自己認識にあずかり、その滅却への手助けをするものであるならば(ショーペンハウアーはそのように説いている)、この無に対する悲哀こそが、諦観を通じて生への意志の克服へといたる前段階であるといえるかもしれない。肉体ははかなく、それに基づく人生もはかない。このはかなさに乗じて、世界の無常を認識し、世界意志の否定へと導かれる。これは理屈では分かっていても、青年期や、中年期の、荒れ狂う生への意志を前にしては、手も足も出ないのである。しかし運命は、知的生命体の老衰期において、その機会をめぐらせている。生命体が有性生殖によって、死を選択したのも、この点で宇宙的意味を有するであろう。死がなければ、誰も生への意志を克服しようなどとは思わないであろうから。
 sadnessを克服する必要はない。sadnessそのものが生の克服へと導くからである。sadnessが消えたときには、それは喜びに変わるのではなく、静謐な諦観と、アタラクシアによって、人生最後の秘儀である死を迎える準備がなされるであろう。それは無としての死ではなく、存在することの究極の秘儀が明かされる瞬間である。

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宇宙の創造について
 
 宇宙がどのようにして創られたか、その物質的プロセスは、自然科学においてほぼ明らかにされている。インフレーション・ビッグバン理論がその代表であるが、そもそもの最初において特異点がある。それ以前には物理的にさかのぼれない、そもそもの根源である。物理法則が通用しない世界では、宇宙以前について語ることはできないのである。創造ということがあるならば、創造に先立つなんらかの原理がなければならない。そうした原理は自然科学の範囲を超えた、形而上学の課題である。
 宇宙以前の原理として、三つの不可知者を挙げておいた。世界意志とイデアと純粋自我である。それら三者以前にさかのぼる、なんらかの統一原理があるかどうか、ひとまず不問としておいた。少なくとも宇宙創造は、この三者が合一することによっておこなわれる。三者の合一は、無時間的、没空間的になされ、それゆえに、いわば一瞬にして、全宇宙に渡る世界創造がおこなわれたことになる。その根源の宇宙、それを古代哲学にならって<アルケー>と名づけておいたが、そこではすでにすべてが完成されているゆえに、いかなる時間的変化も、空間的運動もない。これを原創造(Urschoepfung, proto-creation)と呼んでおく。このアルケーの世界では、万物が相互依存的に、相互連関において構成されており、個物は独立的には存在しない。構造がすべてなのである。そのような無時間的、没空間的連関をどのように表象したらよいのであるか。人間知性はそれを表象する能力を持っていないが、アナロギーをもって言えば、時間と空間の要素を持たない数学や数式があるならば、それがアルケーの世界に近いであろう。
 このアルケーの世界、すなわち原創造の姿は、人間の認識ではとらえることができないが、なんらかの事態によって<時空>が発生することによって、二次的創造(the second creation)としての表象界が構成される。この時空の発生が、物理学でいう宇宙の開闢にあたるのである。時空と同時に物質が生まれ、変化と運動が生まれる。これがインフレーションであり、ビッグバンであり、その後の宇宙の発展である。
 原創造から二次的創造が、どのようにしてなされるのかは、アルケーと現象界との関係であるから、ふつうに因果的に考えるわけにはいかない。一つ考えられる具体的な比喩は、スクリーンに投影された映画と、映写機のフィルムとの関係である。フィルムそのものは無時間的であって、そこにはいかなる変化も運動もない。また空間もないのであるから、コマごとの区別もないのである。そこに光を当てて、回転を加えることによって、スクリーン上に、空間的広がりを持って、運動変化する映像が現われる。この現われた映像が、二次的創造であり、フィルムが原創造である。このようにいったん創られた宇宙を、時空によって映像化するはたらきは、ある種の認識の力であるといってよいだろう。この認識を生み出す力が宇宙にはあるのであり、それがこの宇宙が根源において三一体である所以なのだ。時空は認識者を生みだすためにあるのであり、あるいはそれがアリストテレス流の目的論であるならば、時空があるゆえに宇宙の認識が可能になるのである。もし単なる創造が、創造者にとっての目的であるならば、原創造であるアルケーの世界で自足したはずである。認識を欲することによって、第二の創造が必要となったのである。
 世界意志とイデアと純粋自我は、それぞれの本質において、この宇宙の創造に関与している。世界意志は絶大なる創造のエネルギーであり、それ自体としては認識を持たない。イデアは世界意志に設計図(アリストテレスの形相因)をもたらし、それらから無数の宇宙が構成される。自我は個物に宿ることにより、表象界において意識に到達する。自我はWeltauge(世界の眼)として世界意志の創造物を認識し判定する。世界創造は、たしかにアリストテレスの言うように、無意味になされたのではないといえよう。少なくとも、この宇宙においては、自我の発生により、意識的認識が可能になったことによって、この宇宙の意味を問うことが出来る知的生命体が発生したのであるから。
2020年11月29日(日)
類的運命の克服
 個の運命は徹頭徹尾、全体の運命の中に組み込まれていることを、すでに明らかにした。個人の運命と思うものは、すべて全体の運命の中で成就される、必然性の連関の一部にすぎないことを、相互性の見地から述べた。いわば宇宙全体のはめ込み絵画は、すでに完成しており、その一部たりとも、もはや動かすことはできないのである。運命とは、どのような運命であれ、類的運命であり、全体の運命そのものである。そのような運命を、個としての自我はどのように克服できるのであろうか。部分が全体を克服し、超越することなどが、そも可能なのであるか。このことを以下に考察する。
 個人の意志は行為においては必然であり、行為する限り、人間であれ動物であれ、意志の自由はないことを明らかにした。同時に、意志そのものは形而上的本体として、絶対的に自由であり、全能であることも述べた。この絶対的自由が個人において発現するのは、ただ単に行為に至らない<願い>においてだけであることも述べた。行為の結果ではなく、行為に先立つ心情の状態においては、どのようなことを願うのも自由である。その願いの発現は、ある心理的必然性の中にあるとしても、願いそのものは、なんら確固とした行為としての具体性を持たないのである。それは理念を実現しようとする意志の働きそのものであり、しかも現実化に至ることが不可能であるような心情の働きである。すなわち、純粋な意志の働きそのものである。それがなんらかの目的因としての対象に結びつくときは、すでに必然であり、対象を見いだした意志には、もはや自由はない。しかしそこにいたりつくまでの心情のはたらきの中には、ある種のあてどのない自由の意識がともなう。それが人間の意志が自由であるかのような、行為の自由の錯覚を生みだすのである。実際には、対象に導かれて行為にいたったとたんに、必然の結果に終わるのであるが。このあるともなき自由の感覚の根源は、個の意志の根底にある世界意志の絶対的自由である。この宇宙の創造者としての世界意志の、根源的自由に与っているのである。
 もし運命の克服ということが可能であるならば、唯一の可能性として、この世界意志の絶対的自由に与るほかはないであろう。とはいえ、行為すれば必ず必然性にとらわれ、全体的運命の中に組み込まれることに変わりはない。行為によっては決して運命を克服することは出来ないのである。唯一意志の自由が可能なのは、すでにくり返し論じたように、心情においてである。自由であるためには、心情において自由でなければならない。あるいは、自由を感じるということは、唯一心情において可能なのだ。それ以外のどこにも自由はないのである。心情の中でも、まさに自由でありたいという願いこそが、自由の根源であり、自由そのものなのである。何ものにもとらわれない心情、外的であれ内的であれ、いかなる目的や意図や思考や刺激や動機やによっても、動かされることのない心情、その自由の心情があるかぎりは、個人は絶対的に自由である。どのような行為をしようと、それらは自由の心情とは直接関係のないことである。単なる行為によっては、自由は満たされないばかりか、自由の心情を内に抱くかぎりは、それを少しも損ないえないのである。行為の自由は、単に動機によって決定された必然でしかないからである。このことを、社会的自由や、政治的自由において考察してみる。
 社会的・政治的自由とは、個人のあらゆる意欲が、他者からの干渉や妨害を受けることなく、なんらかの行為や振る舞いへといたるための、相互的な保障である。しかし、これは単なる、個人の行為における理想であって、実際にはさまざまな制限を社会や国家から受けている。ここでの自由は、それが身体的行動であれ、思想・信条の表現であれ、もっぱらなんらかの行為にかかわるものである。もし人が一人生きるものであったならば、彼はおのれの意のまま、思うままにふるまっても、自然的制約以外には、なんの妨害を受けることはないであろう。これが個人の行為の自由の自然的原則である。この段階においても、個人が意のまま、思いのままにふるまうということは、行為であるかぎりは、個人の内面および環境との関係において必然的に決定されている。動物でも同じように行為するであろうし、もし意識があるならば、自由だと思うであろう。このいわば動物的自由が社会的・政治的に制約されるとき、いわゆる法の下での自由が成立する。動物的自由が相互化されたものが、社会的・政治的自由なのである。社会における、あるいは国家の下での自由は、相互的に必然な自由である。ある行為を行うとき、それを行うことが自由であるかどうかは、他者との関係において決まるのであり、その意味では、強いられた自由なのである。行為に直結する自由は必然であり、さらにその行為自体が社会的に制約された自由は、二重に必然なのである。
  社会的、政治的に自由が保障されると考えるのは、錯誤にすぎない。社会的、政治的であるということは、すでに全体への意志に服従しており、そこには個人の絶対的自由はないのである。さらには、人は社会的であれ、動物的であれ、孤独者であれ、もとより行為するかぎりは、必然性から逃れることはできない。そこに絶対的自由の原理を求めることはできない。どのような自由であっても、二重に相対的なのである。<エゴイスト>の要求する絶対的自由も、絶対ではありえないのである。仮にその社会における完全な行為の自由が保障されたとしても、行為したとたんに、あるいは行為を決断したとたんに、それはなんらの障害に打ち当たるからである。すべての人間がエゴイストであるならば、各人の欲望、欲求はさまざまであり、homo homini lupus の状態になるであろう。そこに妥協としての社会契約は必然的に生まれてくる。しかしその契約の根底は、<一般意志>などではなく、あくまでも個人の意志でなければ、最大の自由は保障されないであろう。国家は無用である。シュティルナーのいうようなエゴイストのVerein(社交団体)が基本となるであろう。いわば気の向いたもの同士が社会を作れば良いのである。そうした社会でこそ、政治的<自由>にも意味があるのであろう。
 このような理想社会が、人類においては将来も実現不可能であろうから、現実問題として自由を探究するためには、まったく別の道を取らねばならない。個人は行為において、内的と外的と、両方面において必然的連関に取り込まれている。ここで運命の克服についての本題にもどると、人が通常自由と思っているものはすべて運命であり、しかも全体的運命の一部なのである。いかに社会的・政治的に<自由>が保障されようと、それ自体が全体的運命であり、個人がそこから逃れる自由はないのである。このことの認識が、絶対的自由の探究の出発点である。絶対的自由はただ、自由への願いの中にあると述べた。あらゆる行為がこの願いと共にあるならば、少なくとも必然性を必然と認めることによって、ある優位の立場に立つことが出来よう。私は私の行為が必然であることを知っているのである。なぜなら私は同時に自由でありたいと願っているからである。この願いは行為によっては実現できないが、わたし自身の本質が、絶対的に自由であることを、予感することが出来るのだ。私はこの予感とともに生きることが出来る。
 この自由への願いがあるかぎり、私は自由とはなんであるかを知っている。それは行為ではない。それは心の自由なのである。行為によっては決して満たされることのない、絶対の解放への願いであり、憧憬なのだ。この自由の願いは運命をも超えてゆく。単に外的に自由であるだけではなく、内的に自由でなければならない。内的・外的に運命を超えて、この宇宙を超えてゆく自由が、真の絶対の自由である。それをニルヴァーナと呼んでよいであろう。それは真の自我、真のわたしに帰ることである。究極の自由への帰還である。
2020年11月22日(日)
秋の花と紅葉狩り
 先月の終わりに、T市にあるS記念公園へ出かけた。秋の花盛りである。ダリアはじっくり見たことのない花だが、牡丹を小さくしたようで、いろいろな花の色と形がある。コスモスは一面の白一色や、薄紫や黄色と混ざり合った畑と、公園の奥にはいかにもコスモスにふさわしい、薄紫にうまった丘がある。民家のあるところでは、カイコ棚を見物し、のどかな尺八の演奏もあった。日本庭園では盆栽をながめた。本来巨木のケヤキや松などが、数百年経っても小さなままなのである。ちいさな空間に閉じこめられた自然が、人工の条件のもとで、うまく適応して生きつづけるものである。
  

 S公園では、紅葉にはまだ早かったが、今月中旬に、都の西方のI線の終点にあるA市まで行き、大きな公孫樹の木の黄葉で知られた廣徳寺まで歩いた。この終点駅MIは、ハイカーのメッカであるらしく、行きも帰りも、登山姿の男女であふれていた。駅周辺のウォーキングで甘んじる人は少ないようである。途中、石仏や神社などに寄り道しながら、のんびり歩く。寺では、公孫樹の黄葉した巨木が一本、山門の上にそびえている。山門のわきには、黄葉に気を取られて、だれもふり向くもののいない、地蔵さんが一体。風情のある本堂の裏手にまわると、池の周りのモミジが盛りである。光の加減と方向で、とりどりの姿を見せる。タラヨウの樹が一本あって、葉になにかを書いている人がいる。
 寺を出て、一日の時間の余りを、秋川沿いに駅の南の方面へまわり、尾根沿いに造られた小峰公園まで歩く。南方のH市へ出る昔の山道であったようだ。途中まで登って、きりがないので引き返す。白い野菊が目にやさしい。
  

  

 

(イニシャル解:T=立川、S=昭和、I=五日市、A=あきる野、MI=武蔵五日市、H=八王子)
2020年11月18日(水)
知的生命体の宇宙的使命
 「天文学者は天界の大を探り、物理学者は物質の本質を窮める。また化学者は元素反応の理を研究し、生物学者は生命現象の神秘を啓かんと努力し、而して、皆、それぞれ専門の領域に渉猟して大宇宙諸相の法則を確立せんとする。科学文明の進歩につれて、諸般の真相は次第に明らかになるであろうが、それ等の結果は綜合せられ、小範囲の法則はより大なる法則に統(まと)められて、遂には大宇宙を貫いた大法則の体系が確立されねばならぬ。かかる法則体系は、これを巨にしては星雲の後退運動より、これを微にしては電子原子核の世界に至る迄、或は亦生命現象の秘密も、人間の脳髄の微妙な活動も、悉くこれを貫いて矛盾撞着なきものでなければならぬ。
 この大目的を達成した時に科学の使命は終るのであるが、科学は結局現象界の認識に終始するもので、現象の背後に潜む実体までもこれを捕えることは出来ない。此の点は科学が忘れてはならぬ重要なことで、科学の目的は単に『科学的』宇宙観の完成にある。
 宇宙の実体を把捉して、真の人生観、真の死生観、はたまた真の倫理観を確立する為には、科学的宇宙観に立脚して、新しい哲学、新しい形而上学、而して新しい宗教の路を開拓せねばなるまい。そこには現象界を超越した宇宙の大法、全宇宙を統べる神秘の力があるであろう。」――荒木俊馬「天文学概観」結語より


 人間は目的のないことを苦しむ動物である。あるいは、目的があっても、それに向かって努力する意欲のわかないことに、苛だつ動物である。目的と意欲と努力とが、スムーズに進行していた少年期、青年期を回顧して、その純粋さをいくらかでも取り戻したいと、大人になってだれもが思うであろう。気晴らしなどは論外であって、遊びでさえ真剣であった。大人になって失うのが、まず純粋な目的である。生活や恋愛以外の目的などは、まずきれいに消えてなくなる。それというのも、たいていの若者にとっての目的は、競争社会によって与えられた目的にすぎないからである。それに成功し、または失敗すれば、そこで目的はやっかい払いされる。受験生は、試験に受かれば、参考書や教科書などはすべて捨て去るであろう。そうした競争社会の目的に、いつの間にか人生の本来の目的はすり替えられていくのである。
 目的というものが、真に何たるかをを知っているのは、人類の少数であろう。それは目的とは言わず、使命と言うべきなのである。使命はもとから知られてはいず、それ自体探究すべきものである。なぜなら、それはこの宇宙のどこかに与えられているものを、見いだすことであるから。狭くは、人類社会にそれを見いだそうとすることもあろう。日常の生活や社会関係のなかで、ささやかな<生きがい>を見いだすことから、権力欲や闘争にまみれた、野心にいたるまで、zoon politikon としての生き方の中に、なんらかの人生の意義を求めようとするものである。そうした動物的現在性を超えて、人類の歴史に人間の価値を求めることもできようが、人類の時間・空間的に限られたいとなみにとどまることなく、より広く、生命界・自然界の悠久の歴史にそれを求めるべきであろう。全自然史の中でこそ<人間の使命>も見えてくるであろう。そこに知的生命体としての人間が見いだしうる、究極の目的があるはずだ。
 たいていの人間にとって、人間の生活がすべてであり、時間的にもせいぜい人類の歴史の範囲以外には、知的好奇心がおよばないのは、そもそも生への意志が圧倒的に生そのものへの関心にとらわれているからである。そのことから、生への意欲が年齢とともに衰えるならば、知的好奇心どころか、あらゆる営みにおいても倦怠や反復への倦厭が生じてくるであろう。特に高齢になった人間は、動物と同じように、意欲の動かない時には眠りのモードに入るようである。ペットの動物は、おそらく一日の大半は眠っているであろう。人間は行動するときに、特に目的観念に動かされる。意欲が衰えた時に、動物のようにひたすら眠るのでなければ、意欲そのものがわかないことに、苛だちを覚えるであろう。その苛立ちの原因は、充分な意欲をかき立てるだけの、特別な目的が見つからないことである。結局、食欲やその他の生理的欲求や、単なる気晴らしによって、その日その日の意欲をなんとか掻きたててゆくほかはない。こうして、老人たちの日々の生活は、無為と無意味のうちに過ぎてゆく。
 これが高齢期における人類のたいていの運命であるならば、生命そのものの課題を超えないかぎりは、生によって与えられただけの目的では、動物的無意味におちいるほかはなくなる。生命を否定し、あるいは克服したあとにも、なおかつ残る目的があるのであろうか。それは生命としての人間自身を超えた目的でなけらばならないだろう。いいかえれば、 あらゆる意欲を失い、あらゆる生命の目的を失いはしても、なおかつ残る生きる意味があるならば、それが宇宙の究極の目的であることになろう。すなわち、最後まで残る生への意欲を掻き立てるものこそが、人間にとっての究極の使命なのである。それを神の探究といってもよいが(信仰ではない)、神の探究とはそもそも、この宇宙における究極の目的と使命の自覚のほかではない。あるいは少なくとも、そこにいたる探究である。その意欲さえも失われるならば、この宇宙はなにかの錯誤であるのか、あるいは人間自身が錯誤の産物であるということになろう。眠りと死すなわち無以外にはないことになる。

*   *   *

 天文学者の科学的使命について述べた文章を、冒頭に掲げたが、このような意気込みを持つ科学者は、今の世に少ないであろう。荒木博士は、戦前から戦後にかけて天文学の啓蒙書や、天文学事典などの学術書によって広く知られた、一級の理論天文学者であった。相当な文章家であって、「吾輩は水である」のような小説もどきの離れ業まである。文章で読ませる科学書の少ない今の世が嘆かわしいほどである。科学者の探究の究極において行きつく所を述べた上の文章は、同時に科学者の限界をも述べている。そこを超えて、哲学や形而上学や宗教に踏み込むことは、いかなる科学者もあえてしないであろうが、知的生命体の使命という点では、そこに区別はないであろう。宗教はいざ知らず、科学の成果によってたたない哲学や形而上学は、少なくも西洋哲学にはなさそうである。自然界を探究することが、同時に<自然における人間の位置>を自覚させるのである。自然界においては取るに足らない人間が、自然を探究し、おのれ自身を自覚することに、どのような意味があるのか、それはもはや自然科学の課題ではないが、自然科学なくしては成立しえない問いなのである。しかも自然科学によってはその問いに答えることができない。自然科学者の使命が、自然のメカニズム、その成り立ち、構造、組成の探究であるならば、いま一つの知的生命体の使命は、その自然界、全宇宙に対して、おのれの存在の意味を問うことである。その問いにおいては、自然科学とはまったく別の原理に基づかねばならない。
 概念をこととすることにおいては、自然科学者も哲学者も同様であろう。そればかりか、アリストテレスのように、両者をかねることも出来る。しかし自然科学者は、個々の事物から出発し、哲学者は個々の事物よりも、それらから抽象された概念を出発点とする。いわゆる、帰納法と演繹法の違いである。これは単なる観点の違いであり、決定的な違いではない。科学者もまた確立した法則や原理から、当然のごとく演繹をおこなうのである。概念のあつかい方そのものが、哲学者や形而上学者では、自然科学者と異なる。プラトンやヘーゲルでは概念は実在であるが、科学者では言語と同じように単なる思考の道具である。科学者が原子や素粒子について語るとき、あたかもそれらが物そのもののように語るのであるが、例えばヒモ理論においてそれがヒモであると言われたとき、ヒモという実体(ウシア)があるかのように想像するが、実は単なる概念なのである。プラトンがヒモのイデアということを言うならば、そのイデアはどこかに実在しており、現にみる実体としてのヒモは、実はその影でしかないのである。これは概念というものに対する、哲学と自然科学でのあつかい方の違いの一例であるが、この違いによって、自然科学では探究できないことが、哲学や形而上学では可能になるのである。
 自然科学と哲学・形而上学の方法の違いは、概念にとどまらない。自然科学は客観的学問であるという言いかたもそれである。哲学や形而上学は、客観的であると主観的であるとを問わない。ただ両派に分かれたり、折衷したりするだけである。自然科学が客観的であることは、大いにその強みである。しかし哲学や形而上学では、単に客観的であることはその弱点となりかねない。自然科学と同じ欠点を負うこととなるからである。自然科学と同じ対象を扱いながら、同時に批判的である立場を取る哲学もあろう。そうした科学論としての禁欲的な哲学もあろう。カントの純粋理性批判も、そうしたメタサイエンスとしての哲学でもあった。自然科学が学術の主流となることによって、哲学や形而上学がその庇護者の役を任じることは、時代の趨勢ではあったが、哲学や形而上学が立てるべき本来の問いは、もはや問いとして成立しなくなってきたのである。問いが成立しなければ、もはや問題は存在しないのであり、禅僧のように沈黙するだけである。自然科学者はもとより、自然科学に隋伴する哲学も、もはや形而上学などを目ざすべきではないと。
 こうして自然科学では扱えない、<自然における人間の位置>に関しては、もはや環境論などの生物学的問題以外には、問題としては存在しなくなったのである。だれひとり人間の宇宙的使命について問うものはいない。それを探究すること自体に、意味を見いだせなくなっているのである。自然科学が客観的学問である以上、この宇宙の物質的意味以外には、科学者が明らかに出来ることはないのである。その限りにおいては、自然と人間とは、単なる一連のプロセスに過ぎず、しかも人類はその微小な一部に過ぎず、宇宙自身も客観的には虚無から虚無へのプロセスに過ぎないのである。たまたま生命界の進化の頂点において、科学技術の狂騒にわきたつ時代に生まれあわせ、生命を謳歌する大部分の人類にとっては、疫病もテロもものかは、その日の充実以外には人生の意味を求める必要もないのである。これまで、地上のあらゆる生命体がそうしてきたように、生そのものを享楽する以外の生存の意味はないのである。
 それでは、形而上学は人間の宇宙的使命に関して、単なる宗教的ドグマではない、どのような探究の原理を持ちうるのであるか。いまさら霊魂や創造神でもあるまいが。自然科学の根本原理として、あるいは根本の要請として立てられるのは、自然の斉一性である。これは方法論としては、法則もしくは原理の普遍妥当性をいう。この宇宙のいたるところで、同じ原理が成立し、あるいは同じ法則が当てはまる。これは経験的には決して証明できないことであり、しかもこの前提がなければ、自然科学は成立しない。この良い例は、光の速度はこの宇宙のいたるところで、いかなる条件においても同一であるという、光速度不変の法則がある。だれも宇宙の果てまで行って、確かめた人はいないのであるが。自然科学的人間観もこれにもとづいている。宇宙に同じ法則がなければ、この地球も、生命も、人類も、孤立した、特殊な奇形物にすぎない。他の天体に生命や、知的生命体を求めるのはナンセンスであろう。この斉一性の要求は、宗教では神の創造の観念となるのである。
 形而上学において、この斉一性の要請に当たるものは、本質同一性である。プラトンがイデアの認識を想起に求めたのはその例である。人間の中に同一の本質がなければ、どのようにしてイデアのような超越的存在の認識が可能であろうか。プラトン以前にこのことを端的に述べたのが、エムペドクレースである。

<われわれの中の地によって、われわれは地を見、水によって水を見る。
 霊気(エーテル)をもって神的霊気を見、火をもって灼熱の火を見る。
 優しき愛は愛をひきおこし、憎しみは嘆かわしき憎しみを生む。>

 人間存在は自然あるいは万物と同一の原理によって貫かれているという、ある意味で本能的な認識、これが形而上学の根底にある要請であるといってよい。それゆえに、形而上学にとって最も重要な対象は、人間自身なのである。人間自身を探究すれば、そこから宇宙の本質も現われてくるのである。これに関連して、自然科学では扱えない問題の今ひとつは、意識もしくは自我の問題である。主観的であるとは、基本的に意識の立場に立つということである。意識の立場に立つとは、主観と客観の<関係>において事物もしくは事象をとらえることである。意識自身を考える場合にも、この関係が基本にあるのである。これは客観性を標榜する自然科学では、決してなしえないことである。自然科学の立場は、意識を無視したところに成り立つ<行動主義>であり、ここでは認識の主体としての自我は、いわば透明な神のごとき眼にすぎない。カント風に言えば、単なる機能としての<先験的統覚>である。意識は関係的直観であって、単なる機能ではないのであるが、機能ではないゆえに、科学では扱うことができないのである。
 この意識または自我に、本質同一性を適用するならば、この宇宙自体が意識もしくは自我と同一であることになる。ただし宇宙自体の本質は関係的ではないので、そこでの本質同一性は、意識自体または自我自体における同一性でなければならない。意識自体・自我自体が何であるかは、人間はいかなる直観も持たないので、そもそも認識を超えたものとして、不可知者または空としてとらえるほかはない。しかし自我の存在の根源はそこに基づくのであるから、宇宙自体が不可知であるのと同様に、不可知であることによって、その存在が否定されるわけではない。もし不可知者が否定されるならば、この世界は根底のない単なる幻に過ぎなくなり、存在自体が無意味であることになる。現象自体あるいは観念自体が唯一の実在であるという、バークレイのような観念論もないことはない。自然科学は少なくとも唯名論に立つので、このような素朴な観念実在論は否定するであろうが、概念によってとらえた世界の本体なる<物質>に関しては、その実在を主張しているに過ぎないのであり、やはり基本は現象界なのである。素粒子やヒモは、仮に実在でないとしても、充分にこの現象界を客観的に説明しうるのである。いわば不可知者を可知なものとして前提し、数理的概念の体系を組み立てているに過ぎないのである。その意味では、物体などはなくても、十分にこの世界を理解できるとしたバークレイと、相通ずるところがある。しかしバークレイは、物質にかわって<神>という不可知者をもちだしたのであるが、それは観念実在論の立場からすれば余計であった。神を保証人としたとたんに、この現象界、観念界は、幻となるからである。そのようなdeus ex machinaの存在を証明することは不可能であるから。
 自我の形而上学的本体は<不可知者>である。これが不可知者としての世界の本体を前提する限りにおいての、自我の形而上学の根本的要請となる。世界の本体が不可知であるかぎりは、本質同一性によって、自我の本体も不可知でなければならない。その不可知なものを<神>と呼ぶ限りにおいて、世界は神の顕現であり、私もまたこの世に顕現する限り、同様な<神>なのである。この究極の認識に至ることが、この宇宙に生まれた知的生命体の<宇宙的使命>であるといえよう。いわば神の自己認識に参与することが、自我の究極の使命なのである。この使命を自覚することによって、自我は不滅となる。自我は帰還すべき確固としたおのれを見いだすからである。この生死を超えた境地こそが、過去のあらゆる賢人・聖者が求めたところであろう。それを釈迦にならって<ニルヴァーナ>と呼びたい。 
2020年10月20日(火)
複合的霊魂または複合自我
 古代ギリシャ人にとって霊魂(プシュケpsyche)とは、生命界全般にわたる、ある種の生命原理であった。植物的や、動物的霊魂から、人間の精神にまでいたる、生命界の普遍的原理であった。古代インドのアートマンも、似たような生命原理であったようだ(*)。中世以来の超越的な霊魂観とは、一線を画している。今日意味のある霊魂観は、どちらかといえば、古代にさかのぼるそれであろう。遺伝子DNAの解明によって、生命界には共通した内的原理があることが明瞭になり、特に人間だけに特有の霊魂があるわけではないことが、解ってきたからである。

 (*)アートマンは身体のいたるところにあり、精液のなかにもあるとされる。

 霊魂(soul,Seele)という言葉自体古めかしいが、それを物質的・生命的に解するならば、まだまだ使える言葉である。人間に関しては、特に意識が重要であるから、霊魂を自我(self,atman,Das Selbst)と置きかえてよいであろう。すなわち生命的・身体的自我である。この自我以外に霊魂などはないのである。この身体的自我が複合的であることは、すでに論じた。この自我の複合性をより具体的に理解するためには、霊魂という言葉を使うのが便利かもしれない。通常、霊魂という言葉を使う場合、個人ばかりでなく、生命界に普遍的な、なんらかの共通の原理、あるいは本質を等しくする存在を想定している。霊的であるとは、たんに表面に現われた関係ばかりでなく、事物の深奥にある何ものかとつながっているという、ある種の直観にもとづいている。これの物質的根拠が生命界では遺伝子DNAである。つまり霊魂の正体はDNAなのである。
 自我が複合的であるということは、霊魂すなわちDNAが複合的であるということである。生命の根源である太古のDNA・RNAワールド以来、霊魂はさまざまな形態において進化してきたのである。その進化の先端にある人間の身体には、生命進化の全歴史が刻みこまれているのである。その意識における発現が自我、あるいは一般に霊魂と称されるものである。自我がそのような進化的産物、複合からなるとするならば、そもそも自我の自律性ということすら、あやうくなる。このことはすでに運命論で暗示しておいた。個人の運命と思うものは、実のところ全体的運命に組みこまれた、全体的運命の一つの部分にすぎないのではないか、と述べておいた。この点をさらに解明してゆく。
 人間の人格は何層かからなる。表面の意識的人格の下には、記憶をはじめとする半意識的な心理の層があり、その下には通常意識されない無意識の心理の層があり、さらにその下にはまったく生理的な身体的機能の層があり、そこからのはたらきが、上層のはたらきにエネルギーを送っている。この生理的な身体機能が生命の根幹であり、そこから現われる意欲が、自我の行為や決断を支配している。通常<意志>と称するものは、意識的な決断のことであるが、この決断自体、生命の根源から無意識にわきおこるものであり、意識はそのあとづけに過ぎないのである。このことは実験心理学において実証されている。無意識にわきおこるものは、意志によってはいかなるコントロールも不可能である。人間のあらゆる行為・決断は、それら以前に決定されているのである。
 それでは、人間のあらゆる行為・決断を決定している、無意識の生命的要素とは何であるか。それは人間の身体を構成する、根本的生命要素のほかではない。身体的生命の根本はDNAの設計図である。人間の行為の根源にさかのぼるならば、そこに見いだされるのはDNA以外にはないのである。それではそもそもDNAとは何であるか。ある種の化学物質であり、自己複製とタンパク質を使った身体の構成との、物質的反応の連鎖を、連綿としてつづけていく過程である。そのさいDNAの複雑化によって、低次の生命体から、高次の生命体へと進化していく。これはDNAの進化といってよいであろう。種とは同一のDNAが無数の個体に発現したものであり、同一のDNAをもつ個体は、種として同一の行為をするほかはない。ある個体の行為は、時間・空間的に、すなわち環境的に異なっていても、原則的にほかのすべての個体と同じ行為なのである。個体間の区別は、単にDNAの発現が完全であるか、不完全であるかの、程度の違いにすぎない。さらに環境的条件の違いが、個体間の行為の現われに影響を及ぼしても、同じ条件のもとでは同じ結果をもたらすとしてよいであろう。これは複雑な行為をする人間においても、基本は同じである。
 ちなみにDNAの発想は、すでにアリストテレスの形而上学に見られる。アリストテレスは、物質(ヒューレ)の運動・発展の原因を形相(エイドス)にもとめている。純粋な物質(質料)は単なる潜勢態(デュナミス)であり、それが運動・発展へといたるには、それの形相因もしくは目的因が物質とともになければならない。形相すなわち設計図が現勢態(エネルゲイアまたはエンテレケイア)として、物質を目的に向かって惹きつけることによって、この世界の生成消滅が成立する。生命体においては、このエンテレケイアは霊魂にあたる。このエンテレケイア=霊魂を生物学において物質的に体現しているのがDNAであるといえよう。
 人間はDNAの物質的基礎のうえに、<植物的霊魂>と<動物的霊魂>をもち、さらに意識的自我をもつ。植物的・動物的霊魂のレベルにおいては、動植物と何らの違いもないであろう。個体間には程度の違い以外には、何らの機能および行為の違いはないのである。意識のレベルにおいてはどうであろうか。私という人間の意志・心情・行為・思索は私固有のものであり、それが私の独自性ではないのか。私が身体的存在であるかぎりは、すなわち私が生命的霊魂であるかぎりは、やはり同じ生命原理が当てはまるであろう。すでに私の意志・行為には自由はないとした。私がなしていることはすべて、すでに数限りない祖先たちがなしてきたことである。私がなすのではなく、祖先がなすとしてもよい。そこには何ら私の固有性、独自性などはないのである。私の心情についてはどうか。私の悲しみ、喜び、怒り、悔いなどは、私固有のものではないのか。祖先たちもまたそのように感じ、そのように苦しみ、または喜んだのである。私が感じるのではなく、祖先が感じるのであると言ってよかろう。私の思考についてもまったく同じである。私は古人が考えたことをくり返し考えているに過ぎない。私の知性は祖先のものでもあり、私が愚鈍ならば、祖先も愚鈍であったのである。DNAは私だけのものではなく、祖先やあらゆる生命体に共通のものだからである。そこから発現するものは、あらゆる生命体に共通するものであるから。
 自我は多重的であると同時に、複合的でもある。その発現においては、いく重もの層を成しているが、その発現の根底に有るものは、世界意志あるいは生への意志の連綿とした連続である複合体なのである。私とは、そのようにして構成された自我の複合(Ich-Komplex)なのだ。私が一つの統一体として現われるのは、先験的統覚のはたらきによるものであり、そこに純粋自我も発現するのであるが、いま純粋自我についてはいわないこととする。個としての自我は複合的・多重的であり、いわば世界意志の片割れにすぎないものとしての、相互的全体性のなかの一部分に過ぎないのである。この複合自我の具体的あらわれが<身体>である。身体こそ、自我の生命界における共通性の、直接の表現であるからだ。私は身体であることによって、この世界の必然的連関、全体的運命から、逃れられないことを知るのである。これが運命の本質である。
 それゆえに、私はもはや私のあらゆる行為や、あらゆる感情や、あらゆる欲望を、私のものとする必要はないであろう。私は生命そのものの複雑な要求を生きているのであり、私はそのくぐつにすぎないからである。私はもはや私自身の人生を悔いることもない。私が私を悔いるならば、それは生命そのものを悔いることにほかならないから。私は運命のままに生きており、生きてきたからである。私の運命は生命の運命である。その運命を超えるか、超えないかも、また運命にゆだねるほかはない。そのような運命を愛することは、むずかしかろう。とはいえ、運命を運命として認識して行為することが、人間にとっての究極の生き方なのである。認識したからといって、運命が変わるわけではないが、運命を超えた原理の探究がそこから始まるであろう。自我の探究も、究極においてはそこにゆきつくのである。
2020年10月16日(金)
闇の力
 人間社会であれ、動物界であれ、常軌を逸した犯罪や残虐さに思いをいたすとき、心は暗く沈んでいく。あらゆる感情が麻痺し、ただ心の奥底にわだかまっている暗い力が、鬱勃とうごめいているのが分かるのである。このようなネガティヴな共鳴は、たぶんあらゆる生命体の根底にあるのであろう。つまりだれもが犯罪者になれ、だれもが残虐になれるのである。これを文学の世界では<闇の力>または<暗い力>と呼んでいる。

 <ああ、心から愛するナタネール、こう思いませんこと。陽気な、こだわりも、気苦労もない人々ですら、私たち自身の中で、私たちを滅ぼそうとして働いている敵対的な、ある暗い力の存在を予感しているのだということを。・・・
 もしそういう暗い力が存在するなら、その力というのは私たちの内心に敵対的な裏切りの糸を仕掛け、それに私たちをしっかりととらえてしまうと、さもなければ踏み迷うこともなかったような危険な、破滅への道へと私たちを引きこんでいくのですが、――もしそういう暗い力が存在するなら、その力は私たち自身の中で私たち自身のように形成されなければならないばかりか、私たち自身にならねばならないのです。というのは、そうであってこそ私たちはその力を信じ、ああいった秘密の作用を実現するために、その力が必要とする地歩を認めてしまうのですから。
    ――E・T・A ホフマン 「砂男」 より>
<「この老人は、」と私は遂に言った。「凶悪な犯罪の象徴であり権化であるのだ。彼は独りでいることが出来ない。彼は群集の人なのだ。後をつけて行っても無駄なことだろう。これ以上私は、彼についても、彼の行為についても、知ることはあるまいから。この世の最悪の心は、Hortulus Animae (魂の小園)などよりももっと気味の悪い書物だ。そして "es laesst sich nicht lesen"(「それはそれ自身を読ましめぬ。」)というのは、恐らく神の大きなお慈悲の一つなのであろう。」
   ――E・A・ポー 「群集の人」(佐々木直次郎訳)より>
<だれの心の奥底にも、一つの墓があり、一つの牢獄がある。ところが、上辺での照明とか、音楽とか、浮かれ騒ぎとかが、それらの存在と、それらが隠している死人や囚人を、忘れさせがちである。しかし、時には、よく真夜中にあることだが、それらの暗い穴ぐらの戸が、いっぱいに開かれる。このような時には、心は受身の感じやすい状態にあり、積極的な活動の力を持っていない。想像力は鏡となり、すべての観念を生き生きと映しだすが、観念を選んだり、統御する力を欠いているのである。そうした時には悲しみが眠りから覚めないよう、一団の悔いが鎖を断ったりしないように、祈るがよい。だが、もう遅い!葬式(とむらい)の行列が、寝台の傍らにただよってくるではないか。
   ――ナサニエル・ホーソーン 「夜半の幻」より>

 ロマン派の文学の穏やかな、暗示的な表現であっても、19世紀から特に20世紀において、人類のあらゆる暗黒の面がさらけだされたのちにも、いまだに目ざまない人類にとっては、少しも古びを感じさせない。むしろ象徴的であるだけに、トルストイの「闇の力」よりも、深く浸透するのである。基本的には<闇の力>は狂気として扱われる。狂気に対抗するのは理性なのであるが、その理性の光の及ばない心の闇の中にうごめく力を、狂気としてしか把握できないのである。その狂気が最も直接的に発現する心の状態が<怒り>であると言えよう。「砂男」のナタネールも、狂気のWutにかられる。「黒猫」の主人公が妻を殺すのも、瞬間のangerである。暗い力が狂気として噴出するとき、怒りがあらゆる感情を圧倒してしまう。表現派の詩人ゲオルク・ハイムの「狂人」も、理由のわからない怒りのままに、殺戮をつづける。理解できない心の奥底の暗い力は、他者からは狂気でしかないのである。しかし「黒猫」の主人公は実に冷静に死体を処理する。怒りそのものを悔いることはない。ある意味で、怒りはごく自然な力なのだ。
 闇の力は、理由のない怒りであると言ってもよかろう。単なる感情であるならば、たいていの場合、その動機となる理由をさぐることが出来る。心が沈みこんでいくとき、あらゆる感情が麻痺し、ただ鬱勃たる暗い力のうごめきを感じるとき、それには心の否定的反応以外には、明確に定まった動機がないのである。理性の反撥は、それに対して決定的な役割を果たしえない。理性よりもさらに深い領域において、いわば無感動な力が、感情をも思考をも麻痺させるのである。このような状態においては、あらゆる行為が善悪を超越している。そこになんらかの動機が加われば、たとえどんなにささいな動機であれ、途方もない怒りとなって噴出するのである。「怒りを語れ」とホメロスは言う。怒りは一つの文明を亡ぼしたばかりでなく、その根源はとてつもなく深いのである。
 人間は、あるいは生命体は、無機界から精神界にまで及ぶ、世界の階層構造において成立している存在物である。精神の根底には生命があり、生命の根底には無機物がある。無機物はこの世界すべての根底である。そこに働く力は、基本的に暗黒の力であり、意識以前、生命以前の、この宇宙の根源のエネルギーのうねりである。生命体はこのエネルギーのうねりによって生かされているのであり、本源において盲目的なのである。盲目的なエネルギーには理由はない。なんらかの原因、機会がありさえすれば、力学的に発現する。その生命体における盲目のelan vitalが、まさに暗い力であり、盲目の怒りなのであると言えよう。暗い力が怒りとして現われるのは、生命現象のストレスに原因があるであろう。ストレスとは、生のエネルギーすなわちelan vitalが、なんらかの環境的原因によってせき止められたり、抑圧されたりすることによる、鬱積である。鬱積した盲目的エネルギーは、あらゆる障害物を破壊してやまないであろう。人類がことのほか残虐で、罪深いのは、そこに理由があるであろう。動物は食欲をみたす以外に、残虐であることはあまりない。動物もしかし、残虐である時は、少しの感情的猶予もない。徹底して無感動なのである。つまり、無機的世界に帰るのである。人間もまた、ある場合には無機的に残虐となりうる。暗い力に身を委ねさえすれば、あらゆる行為が可能となるのである。
 この世界の根源のエネルギーは善悪の彼岸にある。暗い力におののくのは、人間がそれに対して何一つなしえないからである。それを絶対悪としてみたところで、絶対の善があるわけではない。悪魔は自然界そのものであり、その産物である人間には何一つ抵抗しえないのである。生命は究極の生存の選択に迫られたときには、まさに<自然に帰って>、無機的に、無慈悲になるほかはないのである。この宇宙の物質の95%は、暗黒物質と暗黒のエネルギーからなるという。根本において、暗い力の本体が、宇宙の本質から出でるものであるならば、人間の本質の95%は、暗い力であるといえるかもしれない。この暗い力の存在に、ふだんは気づいていないとしても、銀河を引きとめている力がダークマターであり、宇宙を加速膨張させているものがダークエネルギーであるように、人間を生かしているものもまた、闇の力であると言えるかもしれない。
2020年10月13日(火)
個の運命と全体の運命
 もし過去に帰れるものなら、青年期の誤りを正したり、少なくとも過去のおのれになんらかのアドヴァイスをして、もっとまともな人生を歩めるように導きたいと思う人は多いであろう。単に想像であってもよいが、悔やまれる過去の時点に遡って、おのれがどのような別の行動や決断を取りえたであろうかと考えるとき、いまいましいことに、過去のおのれ自身に戻るならば、やはりその時のようにしか行為できなかったことに、どうしようもなく気づくであろう。その絶望感は、今のおのれ自身とつながっていて、今でもやはりそのように行動しかねないおのれがあることを、思い知らされるのである。
 人間の行為や決断は、先天的な素質(身体的条件や気質など)と、環境的に形成された性格(経験的性格)と、その環境そのもの(自然環境や社会制度など)によって、どうしようもなく決定されていて、特に先天的な素質は、すずめ百まで踊り忘れずとか、三つ子の魂百までというように、一生変わらないのである。変わらぬ素質をもってしては、いかに環境が変わり、賢くなったとて、過去の時点に身をおけば、やはり同じ行為に走るほかはないのである。単なる反省によっては、過去の行為まで変えることはできない。そればかりか、今現在もその素質にえてして動かされるのであるから、せいぜい今および未来において、同じ行為をくりかえさないように、心して生きるだけである。
 個人の運命とはこのようなものであるならば、おのれ固有の人生と思うものは、すべて運命すなわち、先天的素質と、経験的に形成された人格と、環境(特に社会環境)によって作られたものだといえよう。そうであるとしかありえなかった人生なのである。そこにはなんの自律性も自由もない。むしろその必然性を、おのれの人生としていつくしみ、あるいは憎みしているのである。そもそも先天的素質なるものも、祖先から、あるいは生命界から受けつがれた遺伝子DNAの産物なのであるから、そこに何らの自律性などあるはずがないのである。いわば私自身の先天的性質は、祖霊によってあやつられているようなものである。環境によって形成される性格や、環境そのものにいたっては、私自身のどうすることのできないものである。私がいじめにあえば、私の性格がゆがむであろうし、兵隊に取られれば、人殺しをなんとも思わなくなるであろう。実は、個の運命と思っているものも、全体の運命によって支配され、コントロールされたものにすぎないのである。

 個人の運命がその中に取りこまれている全体の運命とは、そもどのようなものなのか。それを知るには、この世界、この宇宙の構造そのものを知らねばならない。この世界では、何一つ単独で存在するものはない。いわばはめ込み細工のように、すべての個物が相互に連関しあって、一つの宇宙の全体の構造を作り上げている。これの形而上学的根源である無時間的、没空間的構造を、仏教にならって<相互性>と名づけておいた。それの空間的・時間的発現が、運命と呼ばれるものである。私が個人として、何かの行為をするということは、全宇宙の構造と連関しているのであり、あるいは全宇宙の連関の中で決定されていることであり、いわば宇宙そのものの行為と言ってもよいのである。これはバタフライ効果と呼ばれることもあるが、その根源が無時間的・没空間的であることによって、本来の運命としてよいであろう。私の運命は全体の運命でもある。私が私の運命を、私の人生を変えることができないのは、それが同時に宇宙全体の運命でもあるからだ。私は宇宙の運命を生きているのである。
 しかし、全体の運命は通常、過酷な運命を個人の上に課するものである。これについては<全体への意志>もしくは類的意志として、すでに論じたところである。これはとりわけ生命界に特有の、個人の意志の全体的運命への、盲目的服従をいう。個人の運命が集団の運命の中に埋没し、集団の欲望のままに、個人の意志があやつられ、時として破壊と破滅へと向かう衝動を生みだすのである。先天的素質はもちろんのこと、経験的性格や環境の影響も、ほとんどこの全体への意志・類的意志からなる。それゆえに運命は盲目なものとされるのである。
 それに対して、自己意識において、個人の運命と全体の運命とが、宇宙的に一体化するとき、知的生命体の宇宙的使命が自覚される。私が宇宙の運命を生きているがゆえに、私は宇宙を理解し、宇宙に対して否定・肯定の立場を取りうるのである。私自身が宇宙であるがゆえに、私は宇宙に対して反省を加える権利を有するのである。この限りにおいて、全体の運命は、個の運命をよき方向に導くであろう。運命は全体への意志を超えて、積極的に個人の人生を導くものとなる。この段階において、はじめてニーチェとともに amor fati(運命愛) と言いうるであろう。私が私として自覚するためには、運命の手引きが必要なのである。私は運命によって運命を超えるほかはないのである。そうでしかありえなかった人生が、私を自覚へともたらしたのであるから、あらゆる悪や悲惨や恥辱にもかかわらず、私は私の人生を嘉しなければならないのである。 
2020年10月10日(土)
自我の純粋直観
 世界意志が主客の関係において、客観態として自らの姿を現わしだす認識能力を、純粋感性に求めたショーペンハウアーに従うならば、自我の認識もまた、なんらかの純粋感性の能力に求められるであろう。世界意志が十全なる客観態として主観の前に現われるには、主観自体があらゆる意志の働きを脱した状態(willenlos)である、純粋主観でなければならないが、それに対応して、物自体と融合したイデアの姿が純粋な普遍者として現われるのである。この能力が純粋感性もしくは純粋直観である。あらゆる意志の働きを脱した純粋主観とは、どのようなものであるか。主観が客体に向かうはたらき、あるいは主客の関係そのものを生みだすはたらきは、なんらかの能動的力であり、これ自体は意志の普遍的はたらき、あるいは先験的機能であるといえよう。このアプリオリな機能のみが主客の間に存在するとき、主体は純粋であり、客体もまた純粋な現われ方をすると考えてよいであろう。しかし、この段階では主客の関係そのものは、のり越えられてはおらず、いかにadequatな認識といえども、それがイデアそのものを根源において、とらえたものとは言えないであろう。あくまでも現象なのである。あくまでも世界意志の客観態としてのadequatな認識なのである。
 主観が主観自体に向かう、自己意識においてはどうであろうか。ここでも主観はアプリオリな機能としての純粋主観でなければならない。主観が主観自体に向かうには、客体との関係における主体をとらえるほかはない。主客の関係そのものを、純粋な客体としてとらえ、さらに主体そのものに注意を向けるとき、純粋な自己意識が成立する。そのさい客体が物であれ、身体であれ、なんらかの意志のはたらきや、想像や、思考であれ、客体の種類にはかかわりがない。そこに現われてくる<わたし>という純粋直観が肝要なのである。この<わたし>という純粋直観は、いわゆる内感において成立し、客体にまでおよんで、主客全体におよんでいるといってよい。内感そのものは自己意識と置きかえてもよいのである。内感においては<わたし>の意識はあらゆる表象に伴っている。私の感情は私の対象であると同時に、私自身でもある。この主客両者におよぶ<わたし>の意識を現わしだしているのが、純粋感性もしくは純粋直観であるといえよう。
 この自我の純粋直観はアプリオリであるゆえに、それ自体に根拠を求めることはできない。因果性そのものが表象としては存在しないように、純粋自我は、すなわち純粋直観においてとらえられる<わたし>は、ヒュームが述べているように、表象としては存在しないのである。表象として存在しない<わたし>について考えることはできない。これが自我の不可解性の、根本的理由である。自我は不可解ではあるが、純粋直観において確固として与えられている。イデアが純粋直観において発現するように、自我もまた純粋直観において発現するのである。イデアと同様に、自我もまたそれを十全な姿でとらえるためには、単なる世界内での対象認識においてではなく、純粋直観に現われた純粋な姿においてのみとらえねばならない。イデアも自我も、willenlosな心的状態でのみ、その本質が開示されるのである。
 自我はたとえ純粋直観において、その存在が保証されたとしても、やはり主客の関係そのものを離れられないかぎりは、純粋な姿で発現しているとは言いきれないであろう。現象界でのイデアの発現が、イデアの本体そのものではないように、身体的存在における主客の相互関係にまつわられている自我が、自我の本体そのものである保証はない。自我の本体そのものも不可知なのである。それゆえに究極の自我は、空とか、無とかとして、言い表わすほかはないのである。少なくとも、主客の関係にとらわれた、〈意識〉ではないであろう。究極の自我は、もはや自己意識など必要ではないのである。そうであるならば、実を言うと、無意識界などは存在しないことになろう。究極の自我にとっては、この世界は意識・無意識の関係などではなく、自我そのものなのである。あるいは、自我と世界意志とイデアの<三一体>なのである。この世界が現象として発現するためには、自我は必要な要素ではあるが、現象界での自我は、世界意志が現象界とは異なった物自体であるように、自我自体とは異なっていよう。その純粋自我をとらえるには、もはやいかなる能力も人間には備わっていない。ただ、実践によって純粋自我に帰還する道が、可能性として残されているばかりである。
2020年10月8日(木)
死と快楽
 死は有性生殖とともに始まるとされる。遺伝子が分割されることによって、多様性が生じ、種の保存に有利に働くようになる。その代償として、個体の死が遺伝子にプログラムされたのであると。種の保存に対する代償としては、すでに個体に強力な快感が与えられている。こちらはポジティヴであるが、死の代償はネガティヴである。この両者は一見相容れないようである。しかし生命界を広く見渡せば、必ずしも矛盾対立してはいない。死を覚悟で、生殖の快楽を求める生物は、いくらもあるだろうからだ。果たして死は、単にネガティヴな代償なのか。
 個にとって、たしかに死はネガティヴである。しかし死そのものは、単に個にとっての問題なのか。じつは、死はたんに個体にとっての問題でないことは、細胞のアポトーシス一つをとっても明らかである。生命体としての全体が、個々の細胞の自殺を指令するのである。生物界の集団の中での個体も、同様にして、死が集団の問題であることがあるであろう。とりわけ人間社会が、このことを明瞭に現わしているのである。そのような集団によって命じられた死は、あるいは集団を意識した死は、ポジティヴでありうるのである。そのような死は快楽に昇華しうるのである。日本人は、忠臣蔵の志士たちの切腹において、彼らの晴れ晴れとした死に様において、このことをよく知っている。誰もそれを悲惨だとは思わないのである。
 であるならば、そのような死は、種の保存に対するいま一つの代償(もしくは報償)である、性の快楽と、本質においては一致するであろう。性の快楽は、じつは個人のものでないかも知れないのである。快楽は快楽と対応することによって集団性、社会性を帯びる。男女の交わりは、お互いの快楽の交歓でもあるからだ。快楽を感じない対象、岩や木と交接することは虚しいであろう。それに命を吹き込みたいと思うのは、ピグマリオンばかりではないであろう。性の快楽は、種の命じるところに踊らされているに過ぎなかろう。種が死を命じるならば、それは同時に性の快楽をもよびおこすであろう。個の死は、種の存続によって保障されるのである。このことは戦争における掠奪と陵辱とに、最もよく例証される。
 サケはその生の最後に、雄も雌も繁殖の乱舞の果てに、すべて死ぬ。死と性欲という、種の保存の代償が見事に一致しているのである。この場合にはしかし、子孫が卵として残される。人間の場合はどうか。集団における死と性欲の乱舞は、女を奪うというかつての戦争においては、種の保存に有効であったろう。男は皆殺しにされ、女と子供が奪われた。ジンギスカンの子孫は数千万人いるという。今日でも、アフリカではそのような戦争がおこなわれている。しかし近代の戦争では、たいていは大虐殺で終わっている。南京で日本人の子が生まれたという話は聞かない。ナチスにとってユダヤ人の子を産ませるなどは論外であったろう。ここでは死と性の快楽とは、種の要請から乖離しているのである。それゆえに非生産的であり、不毛である。
 集団的死の快感と、性の快楽との本質的一致を、種の論理から見たわけであるが、この生命体の論理を個の論理によって置きかえたのが、近代人であった。死はもはやポジティヴではなく、もっぱらネガティヴな個人の死であり、性の快楽は種とは別の次元での肉体の快楽にすぎない。それゆえに両者が結びつくことはない。死が性欲を高めることはなく、性欲が死をも恐れさせないということもない。もし両者が結びつくならば、それは特殊な快感の領域においてである。快楽はそれに全存在を委ねるときに最高度に達するが、死もまた全存在がそれによって飲みこまれるのであり、そこにある種の同一の心理が生まれる。死に対する不安や抵抗が、快楽の拡大に転化されることによって、あたかも死が望ましい刺激に思われてくるのである。これは自己の死であれ、相手の死であれ同様である。究極のマゾヒズムであり、サディズムである。

 人類は死を克服することに汲々としている。しかし性の快楽に対してはあまりに寛大である。どちらも種としての宿命であるが、かりに死を克服するならば、同時に性の快楽をも克服すべきであろう。種の存続には、個体の数はそれほど重要ではなかろう。むしろ繁殖の過剰な増大は種の存続に不利でさえある。もし自然選択が働くならば、種の危機を回避するために、より快楽を感じない個体が有利となるであろう。実は人類は、人為的にそのことをやって来た。イスラム圏では、女性はその快楽器官であるクリトリスを切除される。繁殖をよりコントロールできるようになるのであろう。男性はある種の快楽部分であるペニスの包皮を切除される。不必要な性感を覚えなくてすむうえに、衛生的でもある。これらはある種の人為的なbirth controlであるといえようか。
 今日の医療技術、遺伝子DNAの操作をもってすれば、性欲のコントロールは比較的容易であろう。去勢や不妊手術などといった野蛮な方法を用いなくても、薬によるコントロール、ホルモンの操作、遺伝子改変などによって、性欲の発現を自由に変えられるはずである。動物は本来、鳩のような例外はあるが、必要なとき、必要な時期に発情するというメカニズムを持っている。人間もそのように、医学的に発情をコントロールできるはずである。強制であってはならないが、より高い精神性を目ざすためには、性欲のコントロールが鍵となるであろう。
 性の快楽を人為的、あるいは自然選択によって減らすことは、理性性的存在である人類の未来にとっての重要な課題であろう。人類は繁殖するに当たって、もはや快楽を必要としないと言ってもよいのである。動物の段階では、たしかに快楽がなければ、交尾などということは起こらないし、やっかいな子育てに精を出すこともないであろう。人間はいったん子が出来てしまえば、母性愛、父性愛によって育てることが可能なのだ。交接などという快楽行為はなくてもよいのである。それでなくても、性の快感は人間の理性的発展にとって、はなはだ邪魔であり、不利である。そのことは青年期において、だれもが知っていよう。未来の人類にとって、理性的発展を願うならば、性欲の減退・除去に比例するであろう(*)。それがミチオ・カクのいう文明の第二、第三のステージへの前提となるであろう。

)将来、人類にとって代わるとされるAIは、性欲も性感も持たない。知能ばかりでなく、その点で、人類よりもはるかに有利なのである。
2020年10月2日(金)
自由の本質
 自我は行為において必然であるが、自由を願う心情において絶対的に自由であると述べた。この自由を願う心情とはどのようなものであるか、考察をつづける。心はあまりにも多くのことにとらわれている。この反省はふだんめったに起こることはない。心は生への意志によってせわしなく突き動かされており、行為の必然へと向かって、自我をせきたてるからである。これは動物も人間も同じである。人間が理知的であることは、この運命を免れさせるものではない。理知的であるほど、たえず思索の衝動に駆られるのである。思索したからといって、心の自由が得られるものではない。ただ心情を比較的穏やかな方面へ導くだけである。そして思索にも、いずれ疲れるであろう。倦んだ心は、他の快楽を求めるであろう。あるいは思索もまた虚栄心や、競争心によって煽られるであろう。つねに向上したいという欲望が、理知をも安らげさせないのである。知識や認識の高みに至りたいという欲望が、理知をもあやつり、心のやすらぎを得させないのである。
 人間は根本的に、何も知らずにいるのが一番良いのかもしれない。アマゾンの未開人の中には、言語的に未来という観念をもたない部族があるという。たいていの動物もまた未来の観念を持たない。そうした人々や動物は、少なくとも心情的には、比較的安定した生き方をしているであろう。自然界で生きるための必要最小限な知識によって、最小限な欲望によって生きることが、心の安定をもたらすのである。たしかに死は突然に襲って、生存の安定を壊すであろう。しかし、死はまた生の一環なのである。死を恐れなければ、死は数瞬の苦痛にすぎない。生命は生死の連関であり、その連関の中で、動物も人間も、生命であるかぎり、心のやすらぎを求めるほかはないのである。
 生命自体が、単なる闘争や欲求の連続であるわけでなく、そこにやすらぎの時があるということから、自由を願う心は、生命そのものに本質的な世界意志の発現であることが分かる。欲求や欲望が起こらないかぎり、あるいはそれらが充足されるならば、意志は平安へと還るのである。この絶対的自由への帰還への意志が、この時空によって支配された現象界においては、たまさかのやすらぎの時となるのである。世界意志は流出によって、ある意味でおのれを見失うことになる。その保障としてイデア界との融合体であるアルケーの世界が成立し、その純粋相互性の世界によって、おのれ自身をせき止めるのであろう。それの時空や因果性における反映である現象界においても、この世界意志の<自己保存>は心情の自由として発現するのである。自我は時空や因果性によって、その行為は必然的とならざるを得ないが、意志そのものの反映である心情においては、絶対的に自由なのである。
 自然界は、実のところ、この自由を発現させる表象に満ちている。イデアそのものが、世界意志の自由の保障なのであるから、イデアの無機界における反映である、自然美の中に、ショーペンハウアーが言うように、ある種の救済があるのである。とりわけ空間の無限は、心を自由に向かって羽ばたかせる。大空や山岳の景観は、心が何を求めているかを、明瞭に告知するのである。それは解放と自由である。そして青空や夕焼けなどの色彩は、無限に向かっての憧憬と郷愁をもたらすのである。それは、いたるところにあって、どこにもない、窮極的自由の世界への願いであって、時空によって制約されたこの現象界の彼方への希求である。しかし自然美による心の解放は数瞬であって、生への意志がかもしだす<現実>の圧力によって、心はふたたび肉体の牢獄に引き戻されていく。 
2020年9月29日(火)
イデアと相互性
 生命体において世界意志とイデアとの類比を求めるならば、高等動物における生殖器と頭脳とがそれであろう。人間の身体において見るならば、生殖器は生への意志を代表し、脳は概念としてのイデアの座である。この両者が身体において両極に位置するということは、意志とイデアとの根本原理における対峙を示唆していよう。頭脳と性器との間には、食欲に代表される生への意志が、口腔から内臓へとつらなっている。身体は食と性という圧倒的な生への意志に占められており、イデアを代表する部分は、たいていの動物においては、かつがつ頭部において貧弱な営みをなすにすぎない。人間もまた例外ではない。顔の中心部は、鼻口といった、生の営みによって占められており、せいぜい耳や目において、なんらかの精神の働きが行われるにすぎない。おまけに、目や耳の主要な働きは、やはり生命維持に圧倒的に奉仕している。デカルトは、精神は松果体に宿るとしたが、なんとも貧弱な部分にしか、精神の居場所はないものか。
 この世界はイデアの設計図から造られている。それにしても、世界意志とイデアの産物である動物や人間は、圧倒的に意志によって支配されているのである。イデアについて思索したり、反省したりすることは、実は生命界全体ではまれなことなのである。そのことが、生命にとってなんらメリットをもたらさないからである。思索や反省によって、この世界の根源を変えることができるわけではないからである。思索はたしかに生命にとって有利な条件をもたらす。しかし道具としての思索は、すでにイデアによって設計されており、イデアの設計図そのものを変えることはできないのである。思索はイデアそのものを対象とするものではないからである。
 知的生命体、すなわち理知が対象とする現象界におけるイデアは、すでに述べたように単なる<概念>である。概念の正体は、言葉(記号)によってつつまれた、単なる抽象物にすぎない。この抽象物の世界において成立するのは、論理と数理である。人間の理知は、この論理と数理によってイデアをとらえるほかはないのである。そのようにとらえられたイデアは、イデアそのものであるという保証はない。単に根源物質アルケーの世界が、数理もしくは論理によって表わされうるというに過ぎないのである。もしイデアの真の姿が、ショーペンハウアーの言うように、感性直観(reine Sinnlichkeit)においてとらえられるものとするならば、それは概念とは別のものと言わねばならない。それは全体的相互性の世界である。それは時空を超えた直観においてのみ現われる、全宇宙のなんらかの根源的イメージ(あるいはイメージとして現象可能なもの)である。それが世界意志とイデアとの、根源において融合した姿であるといえよう。そこではイデアは純粋相互性そのものである。
 イデアによって相互性の世界に発現する世界意志は、単なる可能性にすぎないイデアに、現実性を与える。あるいは世界意志は、イデアの設計図を実現する、(アリストテレス風にいえば)動力因および質料因をなしている。イデアは形相因として意志と合体し、全宇宙が無時間的、没空間的に構成される。この根源物質アルケーにおいては、両者は同等の現実性を持っている。イデアは世界意志とともに実在(das Reale)であり、ともにこの世界における唯一の現実(Aktualitaet)をになっている。この根源的実在界が、時空において現象するとき、イデアは全体的相互性の世界としては現われず、単なる概念としての姿をとるのであることは、すでに論じた。いわばイデアの影であるこの現象界では、イデアはお忍びで、概念として表象界に紛れこむのである。その概念の場が、生命体においては脳なのである。身体の片隅で、ひっそりと、意志によって実現されたおのれの姿を、思索によってとらえるのである。同時にそれは意志にとっての反省の機会であり、さらに言えば、自我にとっての反省の機会でもある。この反省において<三一体>が出合うことによって、いわば宇宙的なコムニオンが可能になる。これの媒介をなすものが理知、すなわちイデア界の脳における反映である思索にほかならないのである。
2020年9月24日(木)
自由について
 自我は、根源物質(アルケー)における意志とイデアとの融合した相互性の世界においては、徹底した必然性の中にとらわれており、そこでは厳密な意味ではいかなる意志の自由もない。たいていの哲学体系、宗教においても、また自然科学においても、決定論が主流であり、意志の自由を主張しているのは、キリスト教などの、ドクマとの整合性をはかるための、都合のよいこじつけにすぎないのである。善悪の行為の判断や、<審判>において、行為における意志の自由がなければ、そもそも善悪や、その審判も成り立たないのである。宗教や道徳論の説く、そうした絶対的な善悪の基準や、善悪の審判は、この物質世界、現象界では存在しない。仏教では、あらゆる悪は因縁に還元される。善も悪も、個体ひとつのものではなく、全宇宙の連綿とつらなる相互性の網の中で、初めて判定が可能なのであり、しかもその関係は相対的であり、善と悪とは見方によっては逆転しうる。かりに社会的範囲内で、悪または悪人と見なされても、まさに<悪人正機>であって、救済への道からは善となりうるのである。アウグスチヌスも、親鸞も、悪人であるがゆえに、真理が見えてくるのである。
 それならば、意志の自由の無いところに、いかにして救済の願いは生まれてくるのであろうか。それも必然であると、前には運命論の見地から述べた。この点をさらに検討してみる。世界の根底である〈意志〉から流出したイデアとの融合体である根源物質が、主客の関係のもとに現象界として発現するかぎりでは、その中にとらわれている自我には、意志の自由の余地はない。しかし、この相互性の世界にせよ、その現象的反映である表象界にせよ、根本において〈意志〉からの流出であるかぎりは、根源においてそれとつらなっているのである。意志がそれらの世界と異なるのは、一方はイデアとの融合体であり、他方は自我(この場合では主観)との融合体であるがためである。流出したものは、本質においてもとに還る意志を持つであろう。いわば還元的意志において、ふたたび本源へともどろうとするであろう。意志そのものは絶対的自由である。流出によって制約された姿、すなわちあらゆる宇宙構造は、意志の自由によって支えられていながら、同時にその宇宙原理は偶然的、確率的であり、意志そのものから生まれたのではない。このイデアによる他律性が、これらの宇宙における必然として現われるのである。このイデアとの関係を解消する意志は、絶対的自由によって保証されている。いわばこれらの宇宙は、無くてもよいのである。自我は、もし意志の自由を持ちうるとするならば、まさにこの世界意志の絶対的自由に与るほかはないであろう。
 自我は根源物質において、世界意志とイデアとの融合体におのれを参与させることにより、一方ではイデアの純粋観照が可能になり、他方では世界意志の絶対的自由に与ることが可能になろう。根源へと還ろうとする世界意志の自由に、おのれ自身を委ねて、まさに自己自身の自由への願いとして、意志の自由を感じとるのである。この意味で、自我は物質的、現象的に必然であるが、形而上学的に自由である。この絶対的自由があるゆえに、自我の自己救済も可能になるのである。自由の意識は、まさに救済の始まりであり、救済の根源でもあり、救済の究極目標でもあるのだ。

 人間の行為は、行為の動機と、遺伝的素質(ショーペンハウアーのいう先天的な叡知的性格)と、環境の事情および契機によって、ほとんど無意識的に、必然的に発現する。そのかぎりではいかなる意志の自由もない。行為の動機はなんらかの表象であり、それが目的意識となって、あたかも意図にしたがって行為しているかのように錯覚するのである。意のままに行為するかのように思うのは、単に意にあやつられて行為しているのである。意のままに行為することは、たしかに社会的、政治的に見た自由であるが、その〈意志〉と称するものは、実は素質と動機と、社会環境によって形成され、決定されているのである。すなわちそのような意志のはたらきは、世界の相互連関の中にとらわれ、形成された、必然的行為のはたらきに過ぎないのである。
 それに対して、形而上学的自由は、どのような現われ方をするのであるか。それが自由であるかぎりは、いかなる行為としても現われてはならないであろう。行為であるかぎりは必然である。行為でない自由とはどのような自由なのか。ここで、いまだ行為としては現われない意志に注目すべきであろう。それは<心情>である。あらゆる情念は、いまだはっきりとした行為の形を取らない意志の姿であるといってよいだろう。その心情の中でも、最も解放された、最も高尚な思いが、<自由への願い>であるといえよう。願いはあらゆる心情の中でも、最も行為から遠いゆえに、最も意志の根源に近いであろう。意志の根源からわきおこる、いまだ行為とならない、すなわちこの世界ではいまだ現象として実現されない、あるいはこの世界では永遠に実現されることのない、理想への意欲である。プラトンやプロチノスが、精神的エロスやアフロディーテとよぶ、超越界への憧憬である。ここに形而上学的自由の源があろう。自我は行為においては必然であるが、<自由への願い>において絶対的に自由なのである。

 *    *    *

 もし行為には意志の自由はなくて、願いのような心理的なものに自由があるとしても、そのような行為でない自由などに、どんな意味があるのかと反論されるであろう。行為として現実化するからこそ、自由に意味があるのであり、たんに願ったりするだけのことであるなら、だれにでもできるし、そこにとどまったままであるならば、単なる空想に近いであろうと。
 願いは、あるいは広く言って願望は、それが現象的になんらかの形となって現われるならば、すでに必然である。それは空想と現実とを問わない。それを実現する能力または条件がなければ、それは空想として現われ、少しでも可能性があれば現実化へ向かうであろう。このようなプロセスにおいては、あらゆる願いは、現象化に向かい、現象にとらわれているといえよう。これは世界意志のポジティヴな面である。この限りにおける願望には、いかなる自由もない。動機と、素質(遺伝条件)と、環境条件によって、因果的に決定されている。それでは、そのような必然性とは別の、願いにおける自由とは何なのであるか。
 単に願うことによって、それが絶対的に自由であるということは、それが行為以外の領域において成立するということである。すなわち行為の自由ではないのである。世界意志は、それが意志的に<行為>することによって、この世界、この宇宙を生み出したのではないであろう。それをプロチノスにならって<流出>としたが、それは必然的ではなく、絶対的に豊饒な世界意志のエネルギーが、自ずとあふれだす姿である。それによって生まれる宇宙は確率的に偶然である。宇宙創生のプロセスは<自由>なのである。アリストテレスや神学はそれを究極因もしくは第一原因と呼んでいるが、それはいわゆる必然的原因ではなく、神はこの宇宙を造り出すも、造り出さないも、自由なのである。これが根本的、根源的な〈意志の自由〉である。生み出された宇宙そのもの(natura naturata[所産的自然])は、必然性によって支配されているが、宇宙の根源は、すなわちnatura naturans(能産的自然)は、絶対的に自由なのである。
 自由への願いが自由であるためには、この根源的世界意志にあずかる願いでなければならないであろう。単なる願い、願望は、この現象界での世界意志の発現にすぎない。そのかぎりでは、必然性にのっとった願望である。それは<ラプラスの悪魔>にとっては、天体の運行と同様に精密に計算できる、行為のプロセスに過ぎないのである。しかし願望そのものは、根源において世界意志から流出しているのであるから、願うことそのものは世界意志の絶対的自由にあずかっているはずである。これが行為の必然にもかかわらず、意識においておのれの行為が自由であるように感じる、そもそもの根拠であろう。あえて言えば、行為において必然であるものは、意志において自由である。おのれの行為が世界意志から流出していると感じることによって、その意志そのものは絶対的に自由であると感じるのである。しかしその発現の結果においては、現象的に必然なのである。したがって、現象的に発現する意志は、必然性に縛られる方向へと向かう意志であるから、現象にとらわれた意志であり、ある種の迷妄をそこに含むであろう。その迷妄の根源は意志自体にはなく、意志そのものは無垢なのであり、純粋なる流出なのであるが、この現象界に発現するにあたって、アナクシマンドロスの言うなんらかのSchuld(負債、罪)あるいは<原罪>をこうむるのである。あるいはプロチノスの言うように、根源の<一者>から遠ざかることによって、いわば世界が<劣化>するのである。いずれにせよ、この世界は仏教で言う<無明>におちいるのである。
 意志の根源的自由を感じるとともに、この無明を洞察し、根源的自由への帰還の願いをいだくことが、ここでいう真の意志の自由なのである。もしこの願いにおける根源的自由がなければ、いかなる救済も原理的に不可能であり、不条理な<恩寵>以外に救済の望みはないであろう。願うならば救済はあるというのが、たいていの宗教の説くところであり、その形而上学的根拠をここで述べているのである。意志が現象的世界、いわゆる現実界に向かうならば、再生復活や、輪廻転生へと向かうであろう。自我は永遠の無明の中で、四苦八苦をくりかえすであろう。意志が絶対の自己への帰還を願うならば、自我もまた根源の存在へと飛翔するであろう。純粋意志と、純粋自我とは、生死界を超えて、ともに根源の世界へと帰還し、永遠の平安を見いだすであろう。そこへといたる道は、形而上学にとっての究極の実践でもある。 
2020年9月22日(火)
夢と相互性
 夢の表象は、覚醒時の表象と違って、時空における連続性を保証されていない。夢はいわばcut upされた表象の世界である。時空の連関から解き放たれて、コラージュもしくは切り貼りされた表象が、それぞれ一見独立した時空をしめている。一連の表象と表象の間には、統覚の先験的統一、すなわち同一の自我の意識の連続が失われているのである。このように曖昧な自我意識の中では、覚醒時のような確固とした現実感が失われるのがふつうである。しかし、このことがかえって好都合な場合がある。
 相互性の世界は時空を超越しているのであるから、時空の観念が曖昧であればあるほど、相互性は意識を超えて、あるいは意識の背後において、発現しやすくなるはずである。夢の世界は表象の世界と、相互性の世界とが、渾沌と入りまじった世界なのである。ネルヴァルはそれを<第二の世界>であるとしたが、表象界と相互性とを媒介する<第三の世界>であるとしてよいであろう。第一の世界である純粋相互性の世界は、世界意志とイデアとが融合した<根源物質Arche>の世界であり、第二の世界はその客観態である表象の世界すなわち、いわゆる現象界もしくは経験界である。
 第一の世界に到達するためには、内的経験いがいにないことは、(自然科学者はいざ知らず)あらゆる哲学者、神秘家の同意するところであろう。たとえ概念であっても、概念を理解するには、内的経験いがいにないのである。哲学者は、少なくとも形而上学をこととする哲学者は、内的に知られる、概念や<意志>をもって、世界の究極の本体に迫ろうとする。しかし通常の経験の中で見落とされている、もっとも手近な、世界の根源にせまる現象がある。それが夢の世界である。ネルヴァルの言葉を引用しよう。

<夢は第二の人生である。目に見えない世界からわれわれを分かっている、この象牙や角の門口をくぐりぬける時、私は身震いを覚えずにはいない。眠りの最初の数瞬は、死に似ている。ぼんやりとした無感覚な状態がわれわれの思考をとらえ、われわれは、自己がいまひとつの形態のもとに存在のいとなみを始める、正確な瞬間を決定できないのである。それはわずかずつ明るみを増す地下の空洞である。そこでは暗闇と夜とから、地獄の辺土に住む蒼白い亡者が、いかめしくも身を固くしてたち現われる。それから場面が開ける。新たな光が照らし、これらの奇怪な幻影を演じさせる。つまり、我々のために精霊の世界が開けるのである。
     ――ジェラール・ド・ネルヴァル「オーレリア」>

 ここでネルヴァルが<精霊の世界>と言っているのが、根源物質(Arche)の世界からのさまざまな影響が、夢の表象の中に潜み現われるものである。それについて若干の例をあげてみたい。夢においては意識の幅が狭まる。通常は夢の意識は漠然としているが、ある場合に意識の集中が起こり、空間の範囲が狭まると同時に、急激に知覚の明るさが増していく。いわゆるvivid dream(明瞭夢)である。場合によっては現実以上に現実感を覚える。むしろこの現実を超えた現実感が、これは夢ではないかという疑念を起こさせるのである。この明瞭夢においては不思議な出来事が多々起こるのである。夢における浮揚がその一つである。
 この夢中浮揚についてはラフカディオ・ハーンのエッセイに詳しいが、若干つけ加えると、どうもこの夢中浮揚はエロスとの結びつきが強いようである。飛翔している最中に、だんだん体が重くなってくる。心臓に痛みを覚え、ふと目が醒めると、たいていは性感を覚えている。どうやら夢中飛行は男性器との結びつき強いようである。性エネルギーが浮揚感をあやつっているのであり、それが飛行の夢となるのである。魔女が箒にまたがって飛行するというのも、男根に代わる箒が、性エネルギーを象徴しているからである。性衝動は、世界の根源から発現するのであるから、夢の表象をあやつる最大の力であるといってもよいのである。
 この浮揚感はまた、身体感覚の曖昧さを知らしめる。特に就眠時において、身体が異様にふくれあがって感じられる。知覚が身体のオリエンティーリングを失って、どこまでが身体の限界であるかを明瞭にとらえられなくなっているのである。これがいわゆる幽体離脱の正体である。この状態において浮揚しているとき、あえて眼をあけてみると、普通に布団に寝ているおのれを見いだすであろう。
 夢ではしばしば幽霊が現われる。幽霊であると分かるのは、押しころされた恐怖感がどこかに漂っているからである。死者の霊が夢において現われるのは、当然ながら、死者はすでに根源物質アルケーの世界に葬られているのであり、それの一番発現しやすいのは夢においてであるからだ。それが幻覚にまで高まるのはまれであり、あるいは病的な状態においてである。幽霊とは何であるか。それを考えるには、そもそも死者とは何であるかを考えねばならない。死とは現象的な出来事であり、根源物質の世界では、生も死も出来事としては存在しない。すべては相互的連関のなかでの、世界構造の一部にすぎないのであり、そこでは生きることも死ぬことも、個々の現象としてはないのである。死者は死なないといってもよい。一個の人生としては、生も死もないのである。それゆえに、アルケーの世界では、死者も生者もない。夢の世界ではそのことを反映して、死者が現われても、通常は死者として扱うことはないのである()。死者であることに気づくときは、すでに醒めている。

 )亡くなった親しいものが夢の中に現われるとき、たいていは若返っていたり、あるいは病気が回復して、以前のような状態で活動しているものである。ただし、ふと居なくなったり、行方が分からなくなり、一体どこへ出かけたのだろうと、いぶかしさと不安にとらわれはする。未開人は、死者の行く先として、祖霊の世界を考えた。生者の立場から、行く先を定めたのである。現代人も時として、祖霊の世界(いわば霊化されたアルケーである)に思いをいたすとき、不気味さとともに、そこに親しい者たちがいるという思いに、あるゆかしさと安堵を覚えるであろう。

 幽霊は特別な死者である。死者を死者として扱わないのが、通常の死者の夢であるが、幽霊はほぼ明瞭に死者であることがわかっている。その背後には特別に強力な情念が働いている。その愛憎が死者を幽霊として選別するのである。憎しみや恐怖は、自ずと幽霊を呼び出す。子供のころ、夜ごとお岩さんの幽霊に悩まされたのは、恐怖そのものが生み出した幻影であった。その恐怖の根源には、自己自身の内的世界に無雑作にふみいってくるものとしての死者の怨念に対する、深い憎しみがあったろう。いまだひよわな自我のバリアーが破られることに対する、深い恐れである。
 転じて、死者になんらかの愛を抱けば、やはり幽霊として発現するであろう。ある女の幽霊と数年つき合ったことがある。たいていは、言葉として、寝ても醒めても語りかけてくるのであるが、あるとき自分の正体について詳細に語り始めたとき、極力耳をかたむけないようにした。聞き知ったとしても、彼女に何一つしてやれる自信がなかったからである。一度だけ、布団の中に入ってきたことがある。うつぶせになって、その黒髪を右手で撫でていた。直接見ることが怖かったのであるが、撫でていると、その手の先から髑髏が浮かび上がってきた。目覚めると、うつぶせに防禦の姿勢を取っていたと思ったのが、仰向けに寝ていた。夢のなかでは気づかなかったが、胸がはげしく鼓動して、恐怖がわだかまっていた。
 死者の夢も、幽霊の夢も、夢の世界が相互性の世界の影響を強く受けることから理解できる。夢の世界は時空を超越した世界を垣間見せるのである。いわば相互性の世界は、一冊のとてつもなく厖大な書物であり、その書物を読むには、夢の書を読むしかないのである。そこには死者も生者もない。書物そのものは永遠だからである。人生そのものは、永遠にその書の中に封じられているのである。さいわいにも、それが一度限りの人生であることが、救いといえよう。あらゆる幽霊、亡霊も、二度同じ人生をくりかえすことはない。これが宇宙の慈悲であろう。

 夢における、より直接的な恩恵は、夢において発現する特殊な能力である。これらも相互性において解明できるであろう。予知夢がその例である。予知能力はテレパシーや透視と深く関連しているが、ひとまず別の能力としておく。夢の中で未来の出来事が象徴的に現われることは、夢が相互性の世界を反映した表象であることから、当然ありうべきことである。具体例をあげても、個人的な意識内の出来事であるから、いたずらに不信を招くだけである。しかし、こんな風なものだということだけは述べておく。ある夜明け方の夢に、よくあることだが、火事の夢を見ていた。一つの大きな町が、いたるところ燃えているのである。その日は一日テレビを見ずにいたが、夕方、テレビニュースをつけたとたん、町じゅうに火の手の上がっている映像が飛び込んだ。神戸の市街であった。朝方襲った震災で、二次火災が起きたのであった。そのこと自体夢に思われた。これなどは単なるコインシデンスで片づけられるであろう。しかも、遠く離れているとはいえ、地震を感じているであろうから、その連想で火事の夢を見たのであろう、ということになるかもしれない。もっと直接的な例をあげることが出来るが、控えておく。
 実のところ、夢の予知には実利的な面があるとはいえ、そもそもすでに決まっている未来を知ったところで、これといったメリットはないのである。たとえ災害を予知できたとしても、それを阻止できるわけでもなく、良い未来を予知しても、それを知ろうと知るまいと、良い未来は来るのである。予知ということ自体が、すでに必然の中に組み込まれているからである。
 テレパシーは、夢の中で他者の想念が、言葉やイメージとなって伝達されることで、超心理学の統計的な実験よりも、具体的に納得しやすいであろう。その逆に、他者の夢におのれの想念を送ることもできるのだが、これを意図的にすればいわゆる<呪術>となってしまい、めったにするべきことではない。通常は、他者の想念は無意識に送られてくるものであり、相手は気づいていないであろう。<生霊>という幽霊現象があるが、これの正体が、無意識におけるテレパシーのはたらきで、相手を呪うことである。相互性の世界においては、個と個の区別は存在しないのであるから、スエーデンボルグがいみじくも述べているように、彼のいう霊界、すなわちアルケーの世界では、どのような個人の想念も相互に伝わりあい、どのような隠しだても不可能なのである。この相互性の世界を介して、この時空によって制約された世界においても、直接想念の伝達が、時として無意識に、あるいは呪詛によって生じるのである。これがテレパシーの正体である。
 夢とは離れるが、透視に関してふれておくと、透視はテレパシーと区別しがたい場合も多いであろうが、五感以外での事物の認識の可能性である。他者の表象による感応が排除される場合にも、物との純粋な感応が起こりうるであろう。この場合、なんらかの意志の働きが、物へとほとんど無意識に知覚をひきつけてゆくのである。そのさい五感もまた同時にとぎすまされてゆき、普通以上の鋭敏さで物をとらえるのである。たとえば、ものを探す場合に、五感いがいにある種の<かん>に頼るのは、そのケースである。さらには触覚(指先)でもって文字をとらえることが可能になる。物を見るのは単に視覚だけではなく、最新の脳科学では、脳自体が物を見ているのである。その場合に、五感のように間接的な器官ではなく、脳神経そのものが物をとらえるのであるから、はるかに相互性の世界に近いであろう。これはテレパシーや予知の能力についても同じことなのであるが、脳の機能そのものが、直接根源物質にかかわることによって、これらのいわゆる超能力が可能になるのである。

 純粋相互性の世界においては、万物が相互に連関して、一つのモザイク画を作っており、一個のパートは他のすべてのパートと相互に依存しあっているのであるから、情報の伝達などというまどろこしいこと(光速という限界がある)はないであろう。あえて時空の用語を用いれば、一つは全体と瞬時にして、無限の時間と、無限のへだたりにおいて、感応しあうのである。予知もテレパシーも透視も、この相互性の世界に同じ根を持っている。知的生命体は、このような宇宙の無限の感応を、時空に翻訳して認識し、理解するほかはないのである。人間は実のところ、無意識に予知やテレパシーを働かせ、おのれの宿命そのものをたどっているのだといえなくもない。人間はあらゆる生命と同様、その根源においては無時間的であり、没空間的である。それを時間・空間的に躍動させて生きることが、生命に課せられた宿命であり、使命であるといえるかもしれない。それが究極において宇宙を理解することにつながるからである。宇宙を理解することによって、そこから救済への道が開かれるのである。
2020年9月20日(日)
運命について
 人生はなるべくしてなり、あるべくしてある。相互性の見地からは、すなわち永遠の相のもとにおいては、過去も現在も未来もすべて決定されており、宇宙の万物、万象は、なるべくしてなり、あるべくしてある。一個の素粒子も、一個の宇宙も、極微のものから、最大のものまで、いや無限の極小から、無限の極大にいたるまで、無限の時にわたって、宇宙はあるがままにあるのである。そうであるならば、この人生を生きることは、そうある以外にはない人生を生きることである。おのれの意志で決定するかに思われることも、すべて決定されているのである。やすんじておのれの運命を生きるべきである。何をしようと、何を考えようと、何を感じようと、そうなるべくしてなるのであり、そうであるほかはない。苦しもうと喜ぼうと、期待しようと悔いようと、成功しようと失敗しようと、すべては決定されており、すべてはあるがまま、なるがままである。自由であることもまた運命である。
 この人生は、一回かぎりであり、そこから脱け出すことも、取り消すこともできない。生まれたとたんに死ぬことも、長生きすることも、なんの違いもない。すべての事象は一回かぎりなのである。循環や繰り返しに思われるのは、時間による錯誤である。永劫回帰なども、この宇宙が一回かぎりである以上、不可能である。この宇宙は発端から終末まで、すでに完成しているのであり、そこに繰り返される余地はない。無限に存在する多様な宇宙は、それぞれに一回かぎり存在する。その点では、個々の宇宙は有限である。もし私がふたたび生まれるならば、どこかほかの宇宙であろう。無限の宇宙で、私は生まれ変わる無限の可能性を持っているからである。そのたびに私は必然性の中に、運命の中に、取り込まれるであろう。私が今ここで、この宇宙で生きている必然性とは、そのようなものである。私は宇宙から宇宙へと、転々と輪廻してしまうだろう。私がどの宇宙に生まれるかは、ひょっとして私の素質の中にあるのかもしれない。私は私の素質に従って、スエーデンボルグが考えたように、地獄の宇宙へも、天国の宇宙へも転生するであろう。今この地獄に近い宇宙にいるのも、私自身の素質のなすところであるかもしれない。
 あるいはまた、この宇宙にいる私が必然の存在であるように、私が次のどの宇宙に行くかは、やはりある必然性によって定められているのであろう。それはカルヴァンのいうように、すでに予定されているのである。私がいくらあがこうと、私がこの先に行く宇宙は、すでに決定されているのかもしれない。私が運命によって行動する以外にないかぎりは、私の救済の可能性ですら、私は意のままにできないのである。救済はカルヴィニストの言うように、<恩寵>による他はないのであるか。この運命を超えることができたのは、たぶん釈迦だけであろう。自我がこの世界の相互性、すなわち運命によってがんじがらめに縛られていること、そのことの洞察から、相互性の宇宙を超越するまでの道のりは、途方もなく遠いであろう。後世になって作られた釈迦の前世譚は、そのことを教えている。私がこの宇宙に生まれてきただけでも、まずまずよしとしなければならないのかもしれない。それにしても人間として生まれたことは、残念である。小泉八雲ではないが、次回はトンボに生まれたくなると思いもするであろう。

 *   *   *

 人間として生まれなければ認識も超越もないではないか、と反論されよう。はたしてそうだろうか。超越と解脱を目ざすのは、この宇宙もまた同じなのではないか。認識のない闇雲な世界の本体が、イデアを媒介としてこの宇宙を確率的に構成すること自体が、ある種の救済への願望によってなされてはいないか。自我の救済願望は、同時に世界意志の願望でもあるのだ。相互性によってがんじがらめの運命によって縛られた自我が、なおかつ救済への自由をもつとするならば、この世界意志の力に頼るほかはないのではないか。世界意志こそ、絶対の自由の根源であるからだ。世界意志は、みずからの生み出した宇宙そのものによっては縛られないからである。そうであるならば、救済の根源は単なる認識ではなく、意志そのもののなかにある。意志は意志の生み出した世界そのものを超えていこうとするのである。たぶん意志は、プロチノスの言うように、おのれ自身の豊饒さのゆえに、意図せずしてこの無限の宇宙を<流出>させるのであろう。流出したものはその本源に帰ろうとする意志に満たされている。それは精神ばかりでなく物質も同じであろう。とりわけ生命物質は、その安定性を目指す構造から、エントロピー(すなわち本体からの流出)に逆らう傾向によって、本源の意志の自由を希求するのである。人間が動物や自然によって<いやされる>ことからも、救済は、単に知性によるものではないことが明らかだ。
 しかし物質や生命は、基本的に内在的であり、超越的に見える場合も、たんに調和的、安定的であることが、この無常の世界において、そのように見えるのである。その調和や安定は、つねに変動し、破壊される運命にある。万物に通有の<生老病死>である。一時の安定や調和を、世界意志はこの現象界で実現することはあっても、究極のニルヴァーナは、この世界そのものにおいては実現されえないのである。そこへ至るにはなんとしても<自我>の認識がなければならない。そこに<わたし>が存在する必然性があるのである。世界意志は自我を発現させることによって、究極の自己救済へと至るのである。世界意志は自我の眼によっておのれを眺めることにより、おのれ自身の生み出した世界を客体化する。それを善しとするか、善からずとするかは、自我の判断に委ねられる。自我がおのれのおかれた運命的状況の中で、世界を善しとするならば、世界意志もおのれに安んじるであろう。世界を悪しとするならば、そこに超越への願望が自我をとおしてわきおこるであろう。基本的には、本源から流出して、本源から遠ざかったこの世界は、悪なのである。自我は世界を客体化することによって、内在的視点を脱して、超越論的視点に立つことが出来る。そこから超越的存在であるおのれへといたり、単に内在的安定ではなく、超越界への飛翔への願望を抱くようになる。その<神の視点>において、世界の本源が洞察され、この宇宙、現象界は、<三一体>としての世界の本源へと解消されてゆく。それが究極のニルヴァーナのありどころであると言ってよいだろう。
 それにしても、この自我による窮極的超越の困難さから、世界内での安定や調和を求めることが、まずもって自己救済の発端となるのである。アタラクシアや無我や、梵我一如や、無為自然や、はては幸福論などが、内在的救済の題目となる。こうした内在的な心の安定は、動物や自然界にその類比物を求める。しかしこの無常の世界においてそれを求めることは、つねに挫折を余儀なくされる運命にある。この宇宙はそのような構造に作られているのである。運命そのものを脱することはできない。いかに努力しようと、あがこうと、内在的にこの宇宙の宿命を逃れることはできないのだ。そのことに自然と従っているのが、動物であり、全自然界なのだ。運命に従うことによって、かつがつ安定と調和を得ているのである。人間はこの運命を時々忘れることによって、自然から逸脱する。自然に帰ることは、運命に帰ることである。すなわち生命体として、あらゆる動物と同じ生を生きることが、人間のときたまの内在的幸福につながるのである。
 このような人生には、<自我>は時として邪魔者にうつるであろう。あるいは無用ですらある。動物には自我はいらないのである。自我は超越のための、いわば無用の用をなすものであり、この世界で活用できるものではない。普通にエゴと呼んでいるものは、この世界での個と個の間の関係、相互作用にすぎない。それは超越には、なんの役にもたたないのである。相互性を超えた自我でなければ、当然ながら、この相互性の世界を超えることなどおぼつかない。そのような自我に気づくものは、まれなのである。それに気づくか気づかないかも、やはり運命であろう。気づいたからといって、ただちに解脱できるわけでもない。それに気づくこと自体がまれだからである。解脱にはやはり、いくつもの宇宙を転生しなければならないのであろう。
2020年9月18日(金)
相互性各論(空間・数・意識〉
空間とはなにか―空間の時間化

 空間を言葉で定義することはむずかしい。とりあえず数学的に次元と考えておく。次元とは、ユークリッド幾何学で定義されている、点や線や面と考えればよかろう。ユークリッドの定義によれば、

1) 点とは,部分をもたないものである.
2) 線とは,幅のない長さである.
3) 線の端は点である.
4) 直線とは,その上にある点について,一様に横たわる線である.
5) 面とは,長さと幅のみをもつものである.
6) 面の端は線である.
7) 平面とは,その上にある直線について,一様に横たわる面である.

 部分(大きさ)を持たない点とは、ゼロ次元と考えればよいであろう。部分を持たないということは、原子でないかぎりは、空間以前といえよう。線は一次元を構成する。線の端が点であるということは、線とはゼロ次元の点から構成されていると考えてよかろう。空間的でない点から構成されているのであるから、幅がないのであり、線自体も実体的な長さを持たないと考えてよいであろう。面は二次元を構成するが、その構成要素は線であり、線が無限に増殖したものが二次元平面なのであろう。線自体が実体がないのであるから、面もまた物理的物体でないかぎりは、実体としては存在しない。さらに面に面が広がって、無限に増殖したものが、三次元の立体空間であろう。面そのものが実体がないのであるから、三次元空間も実体がない。このように考えると、空間とは実体のない構成物であることになる。
 それでは相対論における四次元時空とは、何なのであるか。空間的四次元は、三次元空間の延長であるから、それ自体実体のない、なんらかの構成物である。空間的次元は、どこまで行っても、同様なものと考えればよかろう。そこに時間の次元が加わるとは、どういうことなのか。時間は一次元であるということは、空間に一次元足せば時空間となることから、ほぼ確かであろう。この一次元としての時間は、空間の一次元である線と、どのように異なるのか。はたして区別できるのであろうか。
 空間の一次元、すなわち線を時間として考えるためには、空間には存在しない<順序>がなければならない。空間はどの次元であっても、相互規定的であるから、そこに前後や左右や上下などの絶対的順序はない。この順序を与えるものは、基本的に運動であって、運動は時間軸に沿っておこなわれる。ごく広い意味での運動は、変化と置きかえてもよいであろう。私がキーボードの上で指を動かす時は、私の指の位置が変わるのである。そこで相対的であった空間は、変化に応じてなんらかの方向性、すなわち順序を与えられるのである。これが空間に対する時間の影響である。時間とは変化のいいであり、変化の順序を定めるものだからである。
 すると、一次元の線とは、私がそれを想像したり、実際に平面に描いてみるときは、同時に時間表象であるといってよかろう。時間的な方向性を加えなければ、私は線を想像することも、描くこともできないのである。それでは、二次元の平面や、三次元の空間についてはどうか。やはり同じことが言えるのではないか。これらの平面や、立体空間は運動と変化によって、すなわち時間表象によって作られているのではないか。ヴァークレイは、三次元の空間は単に視覚によってではなく、触覚や運動感覚によって成立していると説いたが(「視覚新論」)、これを時間表象によって成立していると考えてもよいであろう。
 すべての次元、すなわちすべての空間表象は、時間の表象によって成立する。もしこのことが正しいならば、次元はすべて時間によって説明できるということである。ここからさらに言うならば、もし時間が実体として存在していないならば、この空間的宇宙も、実体としては存在しなくなるであろう。時間は相対的であり、その相対的時間によって成立する空間もまた相対的である。それゆえに空間は、実体的大きさも幅も持たなくてすむのである。
 それならば、唯一時間において現象するこの宇宙は、なにものであるか。単に時間によって順序と構造を与えられた、幻に過ぎないのか。この現象界の構造が時間からなるということは、その根源は変化と運動であるということになる。この変化と運動、すなわちWerdenをもたらすものは、さらにその根源にあるなんらかの原理、筆者のいう<根源物質>であるということになる。その根源における構造が、表象として発現するのが、この時間によって秩序づけられた宇宙なのである。時間も、その派生物である空間も、この宇宙原理の産物である。それゆえに、時間がなければこの現象界は無に帰する。この時間の無い世界において、なおも成立する物理学や形而上学があるならば、それらが宇宙の究極の真理であるといえよう。

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数と相互性

 数は時間において成立する。自然数において、どんな数も前後の数によって規定されている。3が成立するためには、その前に2がなければならず、4が成立するのは、前に3があるからである。この基礎になっているものが、一次元としての時間の継起である。数を数えるとは、記憶において時間の継起をなぞることにほかならない。未来へ進むほど数は大きくなり、過去へ遡るほど小さくなる。しかしこの大小の比較は、すでに単に数えることではない。空間的量がここに入ってきている。これを単なる数列と、その数列の上に碁石を並べた場合とで比べてみる。1から10までの数列は、単に時間的継起に過ぎないが、10個並んだ碁石は一個の碁石と比べて10倍の量を表わしている。単なる数を数えることが、量の表象と化しているのである。しかし単に碁石が空間にあるだけでは、それを数量としてとらえることはできない。数列が基本となっているのである。数は空間において、なんらかの量をもった個物を表象させるのである。いわば、時間における数が空間において量化したものが、個物であるといえる。Individuationが時空からなるという、ショーペンハウアーの洞察も、この辺から出ていよう。この量を持った個物が、時間的規定および空間的規定において、相互に連関して、全体的表象界を形成しているのである。
 数の数え方には、さまざまな方式がある。通常の十進法、十二進法、六十進法など、自然数であるかぎり、すべて時間表象を基礎としている。一つだけ例外なのは二進法である。これは0と1からなり、零という自然界では表わせない数からなる。零とは何であるか。これは本来計算上の都合で作られた記号にすぎない。現実界では表わす対象がないのである。量が無いということは、表象としては存在しないということである。しかしこの0を用いた二進法において、この現象界のすべてを、数理的にあらわすことができるのである。すなわち、量を捨象して、単にあるかないかの計算だけで、この世界の現象を記述できるのである。物理現象としては、電流が流れるか、流れないか、作用するか、しないかの、二者択一によって、現象界のすべてが記述できるのである。ここでは時間がすべてである。ということは、量としての個物が存在していないことになる。0と1との関係は、ホワイトヘッドの用語を用いれば、単なるeventである。世界は個物ではなく、個々のeventからなるのである。このeventの相互連関が、この宇宙を構成していることになる。
 この宇宙を記述するのに、空間が必要ないことになれば、空間は時間に還元でき、さらに時間もまた、無時間的相互性の中に還元されて、時空なるものはもはや存在しなくなるであろう。無時間的相互性の物理学または数理がどのようなものになるか、数理に暗い筆者にはなんともいえない。少なくとも人類の知識の根底をくつがえす、画期的な発見となるであろう。形而上学の見地からは、実践においてそれに先んじることが出来るであろう。時空が無いということは、宇宙は完成された構造として存在しているということであり、このことを前提として、これまで不可能視されていた、さまざまな神秘現象が現実となるであろう。物理的にも精神的にも、<超人>への道が開かれてくるのである。

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意識と純粋相互性

 私が<今ここに>存在しているということの、根本的意味とはなんであろうか。それを相互性の見地から考えてみたい。根源物質においては時間も空間もなく、今ここということは、なんらの意味をもたないのであるから、私が今ここにあるということも、同様に無意味であるはずである。それにもかかわらず、今ここにある私は、間違いようのない確信をもって、今ここに存在している。何ゆえであるか。
 ここで、<今ここ>ということは、根源物質においてばかりか、私自身においても、意味がないということを、よく考えてみるべきであろう。私にとって今とは何であるか、私が本質において無時間的であるなら、この今という言葉は私自身に適用できないはずである。私は<いま>存在しているのではないのである。私はただ、端的に存在しているにすぎない。<ここ>についてはどうか。<ここ>とはどこなのか、私は知らない。私は<ここ>には存在していないのである。わたしは<いつどこに>存在するというような存在ではないのである。相互性について、深く思いをいたせば、私が無時間的かつ没空間的存在であることが実感できてくる。
 私が今ここにあるということは、少しの謎でもない。なぜなら私は存在すべくして存在しているからである。それは宇宙が存在すべくして存在しているのと同様である。私の存在以外には存在はなく、私の存在が同時に宇宙の存在なのである。これが純粋相互性における、私の存在の唯一の意味である。私は私であることによって、全宇宙でもあるからだ。これはある意味で私が神に等しい存在であるということだが、この言い方が不遜であるならば、私は時空を超越した存在であるということだ。私がどの時点、どの空間に、現象的に現われようと、私が全宇宙であることに違いはない。この認識へといたることが、ある種の超越なのであり、ニルヴァーナなのである。
 私が純粋相互性において全宇宙をカヴァーし、全宇宙と一体化しているという洞察に達したとき、はじめて私の存在の本質が開けてくる。 この宇宙と共に苦悩することによって、この宇宙の本質を洞察し、宇宙と共に自己自身の救済へと向かう意志が開けるのである。この宇宙を解消する鍵を、ひょっとして私は握っているかもしれないのである。少なくともそのような可能性を、聖人たちは説いたのである。
 見神といったような特別な意識状態が必要というわけではない。自我の存在そのものが根源において、相互性の世界に深く取りこまれていることが、すでにして自我の無時間性と没空間性を前提としており、自我が自己自身を意識することが、すでにある種の見神なのであるから。自我の存在自体が神秘なのであり、その神秘性に気づくことが、見神そのものなのである。それ故に神秘家は<私が神である>と言いうるのである。
2020年9月17日(木)
ショーペンハウアーのイデア論をめぐって
 イデアはどのようにして認識されるのか、ショーペンハウアーの学説に従って考察する。まず概念(der Begriff)とイデア(die Idee)とはどのようにして区別されるか。どちらも普遍者(universalia)であり、個物もしくは個物の概念とは別物である。この違いは一般化のプロセスに求められる。概念は個物から抽象によって普遍者へと進むのに対して、イデアはまず普遍者として存在し、それが個物に反映されるものとされる。プラトンにおいては、この両者は厳密には区別されていなかったであろう。そこでイデア論には二通りの解釈が生じるわけである。一方は唯名論に傾き、他方は実在論の立場を取る。概念の抽象化をとことん進めるならば、単なる内容のない言葉になってしまい、普遍者が最初から実在しなければ、その反映も、それの分有もありえないわけである。概念とイデアは、同じ普遍者でありながら、性質をことにするのである。しかし普遍者が、現われ方によっては、二つの相を持つということは、考えられないことではない。光が粒子であると同時に、波動であるように、両者は必ずしも異なったものではないかもしれない。このことを考えるには、概念とイデアとが認識されるのは、どのような能力によってであるかを考慮する必要がある。
 概念をあつかう能力は、ショーペンハウアーによれば理性(Venunft)である(カントでは理性は理念をあつかう特別な能力であり、悟性[Verstand]が概念の能力であるとされる)。理性は個物から抽象によって概念を生みだす。それに対してイデアを認識する能力は、純粋感性(reine Sinnlichkeit)にあるものとされる。すなわち経験の素材を生みだす感性直観の中に、イデアを認識する能力もひそんでいるのである。それゆえに、イデアは個物において反映されうる。感性界は個物の世界であるからだ。
 このように見るならば、普遍者としてのイデアは、理性においては概念として、感性界での純粋直観においては、そのままイデアの反映として現われるとしてもよいわけである。しかし理性によって把握される概念は、現象界の把握であって、<根拠の原理>に厳密に従うのである。それに対してイデアは、現象界に対してさらに積極的な働きかけをする。現象界の最初の根本的形式は、主客の関係であって、現象とは主観に対して対象となることと同義である。この形式の中にイデアが介入することによって、物自体(世界意志)が客観態(Objektitaet)となることが出来るというのが、ショーペンハウアーの形而上学における世界構造の要である。いわばイデアは物自体と現象との媒介者なのである。
 ここでイデアが意志の完全なる(adequat)客観態として発現しえない事態の理由として、根拠の原理の存在がある。人間の認識を制限しているこの原理によって、イデアは個別化され、限定され、相対化され、曖昧化されるのである。この事態はもっぱら人間の認識能力の側にあるのである。逆に、もし主観の側において何らかの変化、純化が生じるならば、イデアはその純粋な姿において、意志の完全なる客観態を現わすであろう。あらゆる個人的な意志の束縛を脱して(willenlos)、主観そのものが客観を純粋にとらえることができるならば、そこにイデアの純粋観照(reine Anschauung)が生じるわけである。しかしそれはまれな瞬間においてである。
 人間の純粋な感性直観において、イデアの認識能力がひそんでいるということは、現象の認識能力の形式である根拠の原理とは別に、ある種の認識原理を立てることをゆるすであろう。根拠の原理が現象という普遍的なものをあつかい、人間精神全般に適用の利くものであるのに対して、<イデアの認識の原理>は特殊であり、だれにも可能性としてはそなわっているとしても、だれもに発揮できるわけではない。いわば未来の人類の原理である。あるいは永遠に人類は、その境地に達することはないのかもしれない。プラトン以来、人類は精神的に少しも進歩していないからである。
 個別化されたイデアが、現象として根拠の原理によって把握されるとき、イデアは概念として現われるといってよかろう。個物は抽象化によって普遍者としての姿を取りもどすことができるが、それはもはや物自体の十全なる発現ではないのである。それは関係的、相関的な思考の姿であり、それ自体としてはもはやリアリティを持たないのである。唯一のリアリティは物自体と、それを現象界に媒介するイデアのほかにはないのである。この物自体とイデアとの融合した姿は、ただ純粋直観によってのみとらえられる。この主客の形式以前の世界のあり方は、もはや根拠の原理の範囲外であり、新たな原理が発見されないかぎりは、不可知の世界である。その不可知の世界において、世界は根本的に構成されているのであるから、その認識の原理を発見することが、科学もしくは形而上学の究極の課題となるであろう。その世界のadequatな認識が、この宇宙のあらゆる謎を解き明かすのであるから。