ゲリラ戦争 |
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(1)中米諸国 よく知られるゲリラが生まれた中米3ヵ国の内、ニカラグアのFLN及びグァテマラのMR-13が誕生したのは、1961年4月のピッグズ湾事件(反カストロ革命の亡命キューバ人が、米国のCIAによる支援キューバ侵攻し失敗。別掲「ラ米の革命」参照)からほどない時期だ。事件を起こした亡命キューバ人の訓練場所がグァテマラだった。攻撃はニカラグアからも繰り出された。そもそもこの2ヵ国は60年、米国に先行してキューバと断交していた。エルサルバドルのFPL誕生自体はキューバ革命とは直接関係は無く、69年7月のホンジュラスとの「サッカー戦争」後、失業急増による社会不安、がその背景だ。 フォンセカを中心とするニカラグア社会党の活動家が立ち上げたFSLがFSLNとして、革命を結実させる過程については、別掲「ラ米の革命」を参照願いたい。 グァテマラには54年6月に追放されたアルベンス(*1)の影響を受けていた将校が残っており、彼らが61年11月13日に反乱を起こした。直ぐに制圧されたが、将校団の生き残りがMR-13を結成した。62年に他の武装グループとFAR(抵抗軍)を発足させ、ゲリラ活動を本格化させ、政府軍やそれに繋がる自警団組織との戦闘を繰り返し、60、70年代、特に農民(大半が先住民)など、巻き添えになった人を含め10万人とも言われる犠牲者を出した、という。 エルサルバドルのFPLは誘拐や政府施設、大使館占拠などの都市ゲリラが特徴で、75年に結成されたFARN(国民抵抗軍)も同様だ。日本では合弁企業インシンカの幹部誘拐、殺害事件を起こしたことで後者の方がよく知られる。 1979年7月のニカラグア革命成立は、エルサルバドルとグァテマラに飛び火した。いずれでも既存ゲリラが統合しエルサルバドルでFMLNが、グァテマラでもURNGが誕生、前者は81年1月、後者は82年2月に内戦を本格化させた。同年3月、ニカラグアの反FSLNの「コントラ」も武力行動を開始した。中米五ヵ国のうち3ヵ国が内戦状態に突入し、残りの2ヵ国が反政府勢力の拠点として巻き込まれる「中米危機」である。 (2)南米軍政諸国 キューバ革命成立前の1958年、ペルーではウーゴ・ブランコの農民運動(先住民失地回復運動)が起きていた。ペルーがキューバとの断交に踏み切ったのは60年10月、グァテマラとニカラグアに次ぐ早さで、米国に先行していた。農民運動を支援する旨のキューバからの書簡が見つかったため、とされ、事実、運動は先鋭化しゲリラ活動を行っていた。翌61年には、ブラジルでジュリアンの指揮する農民同盟が活動を開始した。61年1月にキューバと外交を断絶した米国が全面禁輸に踏み切った64年5月、なお国交を維持していたのは、ブラジル、ボリビア、チリ及びウルグアイの南米南部4ヵ国のみだったが、同年9月までに全て断交する。よく知られるゲリラ組織が発足するのは、62年に対キューバ断交のアルゼンチンを含め、この後のことだ。一般的に要人誘拐、政府機関襲撃などの都市ゲリラ活動が特徴だ。 チリ、アルゼンチン、ボリビア及びブラジルの軍政諸国とパラグアイの南米南部5ヵ国がゲリラ制圧を支援しあう、いわゆる「コンドル作戦」の存在が近年になって確認されている。南米南部のゲリラの多くが、70年代に壊滅した。 ボリビアのELNは、同国におけるゲバラのゲリラ活動を物語り、短期間で消滅した。南米南部諸国のゲリラとは異なり、都市ゲリラは行っていない。 ブラジルのALNは、1969年にその指導者マリゲーラが暗殺された後は逆に活動を過激化させ、73年までに壊滅した。 ウルグアイのトゥパマロスは、1973年6月の軍政発足の口実にされた。だが創設者のセンディックが投獄された72年以降、ゲリラ組織としては既に弱体化していた。 チリのMIRは上記3ゲリラよりも早く結成された。1970年11月に発足したアジェンデ社会主義政権よりも急進的だった。ピノチェト軍政は、アジェンデ政権に繋がる政党幹部、労働運動家、支援団体メンバーなどを逮捕し、国立競技場などに集め拷問を加え、3千人と言われる犠牲者を出したことが知られるが、MIRメンバーの多くは上述のコンドル作戦の犠牲になったようだ。 アルゼンチンでERPが結成されたのは第一次軍政発足前のことだ。よく語られるのは、軍政発足後に結成されたモントネロスの方だろう。1969年の「コルドバソ」と呼ばれる労働争議から発展した流血事件の尾を引き、反軍政活動を過激化させ、軍政がそれを押さえきれず73年5月の民政移管に至った。行方不明者(desaparecidos。(モントネロスなど反政府ゲリラやその共鳴者、親族を主に強制連行後、生還しなかった人たち)を出し犠牲者3万人を超えるといわれる悪名高い「汚い戦争」は、76年3月発足の第二次軍政による。モントネロスやERPなどゲリラのみならず、労組幹部、さらにはその関係者に対する弾圧だ。73年の民政移管時に復活した対キューバ国交は、この第二次軍政下でも維持された(大使は引揚げ)。この時期ラ米13ヵ国に上った軍政諸国で対キューバ国交があったのは、他にはペルーとパナマのみだ。 (3)南米民政諸国(別掲「ポプリスタたち」参照)のゲリラ ベネズエラでベタンクール政権が進めていた左翼グループへの弾圧に反発して結成されたFALNは、軍の基地や刑務所への襲撃、航空機のハイジャック事件などで知られる。彼の政権が、キューバがFALNに武器を供与した、として、米州機構(OAS)に訴え、OASから除名(62年1月)されていたキューバへの米州諸国の外交・通商断絶(64年7月)に繋げたことは有名だ(メキシコのみが国交維持)。民政国でも政府軍が強力だったのか、長続きしなかった。 コロンビアでは1948年のガイタン暗殺後64年まで続いた「ビオレンシア」は20万人の犠牲者を出した、と言われる。その生き残りが結成したのがFARC である。コロンビアELN結成の背景はニカラグアのFSLNと経緯が似ている。FARCもELNも地方部に解放区を作り政府軍や自警団(パラミリタリー)との戦争遂行が主体で、著名人の誘拐や暗殺(現ウリベ大統領の父親もFARCの犠牲者の一人)も繰り返してきた。M-19は53年にクーデターを起こしたロハス・ピニリャが後年「全国人民同盟(ANAPO)」を立ち上げ、70年4月19日の大統領選に出馬、敗退した日に因んだ名前だ。都市ゲリラ活動に特徴があった。以上は全て、ゲリラとして(FARC、 ELN)、また合法政党として(M-19)残っている。 (4)軍政期終了後のゲリラ ラ米軍政期には活動していないペルーとメキシコのゲリラについて述べる。両国に共通するのは、人口面で先住民が多く、彼らの祖先が築き上げた高度文明社会をコンキスタドルに破壊された歴史を持つ点だ。 ペルーのベラスコ軍政(別掲「ラ米の革命」参照)は、他南米軍政とは性格を異にする。ウーゴ・ブランコの農民ゲリラ掃討に駆り出された軍は、逆に農民ゲリラに親近感を抱き、当時の文民為政者に反感を深めた、という。クーデターの切っ掛けは政治スキャンダルだが、ペルーモデルの軍政は社会革命的だった。この軍政下の70年、共産党から分離した急進派の学者、グスマンらがセンデロ・ルミノソ(輝ける道)を結成した。ゲリラ活動自体は軍政後に本格化させた。駐在していた日本人にも犠牲者が出た。MRTA(トゥパクアマルー革命運動)は民政移管後の83年、非共産党の左翼政党急進派が結成したもので、96年12月〜97年4月の日本大使公邸人質事件で有名になった。当時のフジモリ大統領はMRTAをテロリストと呼び、ゲリラと見做すことを拒んだ。2009年に彼が懲役25年の判決を受けた罪状に、ゲリラ制圧過程で行われた虐殺も入っている。 メキシコでは1991年12月、「エヒード」(共同体農場)所有の農地売買を認める憲法修正を行った。1917年憲法で成立したメキシコ革命(別掲「ラ米の革命」参照)は、遊休地を「エヒード」に分配し、結果的に農民の自活機会をもたらした。その土地を売買できるとなれば、構成員(農民)に購入資金がなければ、結果的に事実上の土地無し農民に逆戻りする。翌92年、チアパス州農民を中心とする抗議運動が展開されるようになり、サパティスタ民族解放軍(EZLN)が結成される。94年1月のNAFTA発効にあわせた武力蜂起が知られる。この時は政府軍1万人が投入され10日ほどで制圧された。だがゲリラ組織としては残った。
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