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 1492年にコロンブスに率いられたスペイン人が、彼らが呼んだところの「ヌエボムンド(新世界。日本の教科書では新大陸と表現)」に到来した時点の米州先住民の人口は、研究者によって1千万人台から1億人強まで推計値の幅が異常に大きい。マドリードの国立アメリカ博物館は1,200万としている。推計値では最も少ない部類だろう。彼らは1万1千〜1万2千年も昔から生活を営んで来た。メキシコ高原地帯やペルーを中心としたアンデス地域では、紀元前1,000頃には、もう神殿を中心とした文明が興っていた。
 ここではコロンブス船団の到着以後の歴史をラテンアメリカ史、としたい。それ以前のいわゆる「コロンブス前史(プレ・コロンブス期)」についても多くの書籍が出ており、ご一読をお奨めしたい。

スペイン人の歴史的大罪として言われるのは;

  • 高度文明を誇るアステカ王国とインカ帝国が築いた都市と文化財を破壊した
  • 先住民征服(別掲のコンキスタドル(征服者)たち参照)、それに続く使役の過程で先住民を激減させた

2点だろう。前者は弁解の余地は無い。だが後者に就いては、スペインより事実上半世紀近く遅れてブラジル植民を開始したポルトガル、そのさらに半世紀後に北米植民を開始したイギリスも、奴隷化(ポルトガル)や一方的追放(イギリス)同罪だ。スペインは先住民の社会構造が確立した首長制を伴い、人口集中が進んでいただけに非常に目立った。

最初の植民地建設から独立革命まで、イギリス植民地は170年を要したのに対し、スペイン植民地は310年もかかった。この違いは地勢、政治、社会、経済面でも説明できよう。

  • 北米は東部十三州、総面積で現メキシコ一ヵ国程度、南北東西の距離が長大、熱帯雨林、山岳に阻まれ交通不便のスペイン植民地に比し、全体として平野部にあり交通利便性が高い。独立派のヨコの連絡も得やすい。
  • 北米は、ヨーロッパで最も議会の伝統が根付いたイギリスの影響で、自治権が強かった。ラ米では植民地統治体制が副王を頂点として堅固、自治形態はエリートの名誉職的性格
  • 北米は先住民を追放し、ヨーロッパ人社会を形成。スペイン植民地は、先住民、及び、後年輸入した黒人奴隷も加わった、混血化を含む民族間共存のエスニック社会として発展(別掲ラ米の人種的多様性参照
  • 北米は移民自身による開拓により経済基盤を作り出した。労働力を先住民、黒人、及び混血者に依存するスペイン植民地に比し、独立志向が醸成しやすい。

砂糖産業に依存したブラジルは、植民地の性格がスペイン植民地と異なる。労働力を、当初は先住民、次にはアフリカから輸入した黒人の奴隷に求めた。後者は、北米の南部に似ている。スペイン植民地の独立革命期、王室がブラジルに移ったことで、独立の性格もスペイン植民地とは異なる。
 独立革命に就いては別掲ラ米の独立革命を参照願いたい。独立後、米国では大統領選挙の結果が尊重され、クーデターは起きていない。奴隷問題を争点として内戦(我が国では南北戦争と言う名で知られる)はあった。ラ米では、独立国家として米国の後輩でありながら、クーデターは枚挙にいとまが無い。特に独立革命を経た建国期では頻発している。堅固な植民地統治時代の反動もあろう。この点については、やはり別掲のカウディーリョたち参照願いたい。 

独立革命が各地で起こった十九世紀初頭、ラ米人口は約2千万人だった、と推定されている。恐るべき過疎地域だ。地域的には大きく異なるが、全体として白人は20%を占め、大陸部のスペイン植民地では先住民が、カリブ諸島とブラジルでは黒人が過半数を占めた、とされる。残りが混血者となる。この人口が、一世紀を経て五倍増になる。産業革命下の欧州先進国がラ米の資源に着目し、巨額資金と共に、大勢の移住者を送り込んで来た。米国企業も十九世紀末からラ米投資を本格化させ、第一次世界大戦後には最大の投資国となった。
 この頃の投資は資源及びインフラ分野が主である。その後も、奥地開発、人口移動が本格化、都市基盤も整備される。米国のラ米諸国への政治・軍事介入が目立つのは、概ね同大戦前後からだ。 

欧米諸国が進める産業革命の思想は、経済の自由主義だ。ラ米もこれに従った上で、欧米工業国に対する資源輸出と、彼らからの工業品輸入を基本とする経済構造を確立させた。1929年のニューヨーク発世界大恐慌は、ラ米では従来の自由主義経済は欧米従属を招いている、との意識が高まり、国家主導による経済政策が叫ばれるようになった。ラ米独自のポピュリストの輩出の背景として記憶したい(別掲のラ米のポピュリスト参照)。
 第二次世界大戦後、米州相互援助条約下で、ラ米諸国は米国の軍事システムに組み入れられた。ラ米諸国が国家主導型経済政策の中で、米国企業の製造業投資が進んだ。
 1959年のキューバ革命は、ラ米の反体制派勢力を勢いづけ、ラ米諸国の多くで民主国家米国の軍事システムが機能する中で、その軍部が組織として政権を担う軍政という非民主政権時代を招来したのは歴史の皮肉と言ってよい。一方で、民政、軍政いずれの体制であれ、ラ米諸国の産業振興は対外債務増大を来たした。これが1980年代からの対外債務危機を呼ぶ。軍政が終わり、ラ米は経済統合の時代を迎える。市場主義経済がもてはやされ、規制緩和と民営化がどこの国でも進められた。人口は6億人時代に入った。一向に縮小しないばかりか、開く一方の貧富格差という現実の中、近年政治勢力では左派ないしは中道左派が増え、既に過半数のラ米諸国で政権を担うようになった。

ここでは植民地時代から今日までのラ米の動きを大急ぎで見て行くことにする。登場人物の氏名を生没年と共にローマ字表記した人命表を各項目の最後に入れるが、別掲と重複する場合、省略する




植民地時代
形成期
確立期
世界恐慌前夜
ポプリスタたちの時代
革命と軍政の時代
対外債務と地域統合
 

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