一般的にラテンアメリカ(以下、ラ米)では、アメリカ合衆国(以下、米国)の評判は好ましくない。先ず軍事的側面がある。歴史的に、米国から直接軍事侵攻を受けた国は1846年のメキシコと1989年のパナマだけだが、米軍統治を受けた国に、キューバ、ドミニカ共和国、及びニカラグアがある(他にはハイチも長期間米軍統治下にあった)。治安回復のための内戦介入などによる。パナマは独立後長い間自国軍を持たされず、国防は運河地帯の米軍が担った。ラ米諸国に当該国の要請や米人保護を理由に米軍が出動した事件は多い。メキシコとドミニカ共和国が代表例だ。軍事的側面で関わりを持ったのはメキシコ・中米・カリブ地域(狭義の「米国の裏庭(Backyard)」)に限定されるのだが、しかし国民レベルでの好ましくない対米感情は、ラ米全体に共通している。

 ラ米にとって米国は、植民支配から独立し、当時の世界では稀有な共和政国家を建設した、と言う意味で、仲間であった。米国の独立革命はラ米のそれに数十年先駆けており、且つ成功したことから、建国後の国家運営のモデルでもあった。

1823年、米国のモンロー大統領が「ヨーロッパ諸国は、独立したアメリカ諸国を植民地支配の対象と見做してはならない」とする「モンロー宣言」を発した。世界史上、民主主義国家米国の「非干渉主義」として広く知られる。今でこそ、ラ米については米国に任せよ、という宣言、即ち、米国のラ米に対する野心、との解釈をする人もいるが、ボリーバル1826年に主催した「パナマ会議(メキシコ、当時の中米諸州連合、同じくグランコロンビア、及びペルーが参加。現在に置き直せば11ヵ国)」では、同宣言を好意的に捉えていた。別掲のラ米の独立革命を参照願うが、この時点でキューバを除くラ米全域がスペイン及びポルトガルからの独立を果たしていた。

当時の米国の領域は、当時のメキシコとほぼ同じだ。1812年の対英戦争で互角の勝負をして自信を付け、交通網が整備され肥沃な国土に農業が栄え、工業も発展に向い、エネルギーに溢れていた。独立した共和国というだけではなく、ラ米の新興諸国が一目置く存在だった。
 米国が、ラ米の反感を受けるようになる最初の動きは、「米墨戦争」によって領土の半分以上を米国に持っていかれたメキシコにおいて、である。そして反感は中米・カリブ一帯に、次には南米にまで拡大していく。



マニフェスト・デスティニー
中米カリブと」棍棒政策
善隣政策
冷戦と米州イニシアティヴ
「進歩のための同盟」
東西緊張緩和の時代
米国一極化の中で