1930~33年の間にラ米十九ヵ国の内十ヵ国でクーデターが起きた。ヴァルガスが15年間の長期強権政治を敷いたブラジルも、その一つである。同時代に登場したカルデナスのメキシコは、クーデターを免れた。当時ラ米全体で1億人だった人口の半分を占めるこの二大国に、背景と経緯を異にしながら、ラ米史上代表的なポプリスタである二人が登場した。
(1)ヴァルガス
1889年に漸く共和制に移行したブラジルは、十九世紀末からの「ミルクコーヒー体制」(サンパウロとミナスジェライスからほぼ交互に大統領を出し合う各州有力者間の取り決め)という典型的なオリガキー体制にあり、且つ中央政府の実質的な権限は限定的で、未開発地や地下資源の開発や、労働者問題は地方政府が管轄していた。1922年から各地で、いわゆるテネンテス(尉官)の反乱が相次ぐ。第一次世界大戦にラ米で唯一出兵した連邦軍への、時の大統領による評価の低さがその理由だ。一つがプレステス(*1)部隊で、内陸部でゲリラ活動にも携わった。
1930年3月の大統領選で、リオグランデ州統領(知事)だった当時47歳のヴァルガスが、現職大統領が推すサンパウロ州統領に敗れた。半年後の10月3日、新大統領就任前、連邦軍リオグランデ駐屯部隊が、また後日これに呼応する形でミナス、パライバ両州の駐屯部隊も蜂起した。現職大統領は軍事評議会に政権を移譲し亡命した。11月3日、軍人出身でもなく軍隊経験も無い、弁護士出身の単なる文民政治家、ヴァルガスが評議会の要請で暫定大統領に就任する。いわゆる「ヴァルガス革命」だ。憲法が停止され、国権は大統領に集中し、地方自治も著しく制限された。
1934年7月、中央集権強化と政治結社の自由を定めた新憲法を公布した。州に属していた権限の多くが中央政府管轄となった。彼は議会指名の形で立憲大統領となる。翌35年11月、ナタール駐屯部隊が反乱を起こした。国民解放同盟(ALN) (10年前に反乱部隊を率いていたプレステスが、共産党、社会党などを糾合して結成)を非合法化したことに抗議したものだ。ヴァルガスはこれを「共産党の暴動」とし、戒厳令(続いて戦時令)を敷き独裁権を確保、大統領選直前の37年11月、有名な「新国家Estado Nôvo」宣言を発して議会を解散、独裁を強化した。
結局、45年10月に一旦退くまで一度も民選されず15年間もの長期政権を担うことになる。第二次世界大戦では、連合軍に対する基地供与と44年のイタリア戦線派兵で米国の信頼と近代兵器の供与を得てラ米随一の軍事大国化に繋いだ。
一方で、1934年憲法で中央政府に管轄権が移行した国土開発と労働者問題では、「国家経済評議会」を通じた殖産振興と、労働者保護策(八時間労働制、最低賃金制、有給休暇制、最低賃金)の実施に取り組んだ。前者は、雇用増をもたらし、44年に完成したヴォルタレドンダ製鉄所の如く、工業化も進んだ。このことが、彼自身を「労働者の父」と呼ばれ、またブラジル近代化の功労者と評価されることに繋がる。同製鉄所もそうだが、工業化では資金、技術支援の多くを、大戦での対応で信頼を深めた米国から得た。
1950年の選挙に、自らの政党、労働党(PTB)から出馬、当選した。だが54年8月に彼のボディーガードによる政敵狙撃事件で軍部が離反、彼自身はほどなく自殺している。彼の後に同党から大統領になったのはグラール(*2)だけだ。だがグラールの政策は、議会に阻まれ殆ど実現しなかった。64年4月の軍事クーデターは、彼が国民に直接訴える文字通りの大衆政治行動に出たことに懸念を強めた結果、ともいわれる。PTBはその時点で消滅した。
(2)カルデナス
メキシコでは、世界恐慌期にクーデターは起きなかった。1928年7月、メキシコ革命の英雄で大衆的人気が高かったオブレゴン(*3)が暗殺されていた。当時の大統領、カイェス(*4)が名実ともに最高権力者となり、同年12月の退任の後もいわゆる「マキシマート(最高権力者の期間)」を敷いた。29年に現在の「制度的革命党(PRI)」の前身、「全国革命党(PNR)」を創設、これに君臨する形で国政に影響力を行使した。彼自身も革命を戦った軍人であり、クーデターに遭った国の文民政権とは異なり、軍部に強い影響力を持つ。一方で26年の憲法改正で大統領任期は6年、となっていたが、33年にはいかなる形の再選も禁じられた。
1934年、「マキシマート」下でPNRにより大統領選候補に指名されたのがカイェス同様革命を戦った軍人で、知事時代に行政手腕も発揮してきた実力者、39歳のカルデナスだった。カルデナス政権には、当初カイェス派の有力者が入閣していた。メキシコ革命は農民運動の様相を強めつつも、その成果となる「1917年憲法」では労働基本権を明示しており、労働運動は次第に活発化してきた。1935年央、カイェスがこれを批判すると、これに抗議する大衆行動が起きた。カルデナスはカイェス派閣僚を追放することでこれに応え、事実上の「マキシマート」を終わらせる。これ以降、矢継ぎ早に以下のような政策を実施する。
- 労組の全国組織たる「メキシコ労働総同盟CTM」結成を後押し(36年2月)
- 農地改革。接収分を含め国有地をエヒード(農村共同体)に再分配。実施した農地面積は1,850万㌶、革命後実施されてきた面積の二倍という。この政策は1970年代までのメキシコ歴代政権に引き継がれた(規模の大小はある)。
- 鉄道国有化(37.6月)。それまでは国家が50%の株主でも経営権は外資
- 石油国有化(38.3月)。実施日たる3月18日はメキシコの「経済独立記念日」
- PNRを「メキシコ革命党、PRM」に改編(38.3月)。CTM、「全国農民総同盟、CNC」(38年8月結成)、軍人代表、及び大衆(実際上は公務員)代表を党に組み入れ、中核となる労働、農業、軍、市民の四部会を組成
上記の内、石油国有化は当時としては非常に危険な賭けだった。事実、メキシコの石油輸出は、彼らのボイコットにより止まった。だが、丁度第二次世界大戦を目前にした世界情勢の中で、米国のフランクリン・ルーズベルト大統領がこれを黙認した。他も6年間だけの一政権には途方もなく規模の大きい政策であり、カウディーリョ的な強権行使を伴った。
カルデナスを引き継いだアビラ・カマチョ(*5)は、第二次世界大戦中米国にブラセロ(Braceros)と呼ばれる労働者を派遣、徴兵による労働力不足を埋める協力を行い、1942年、早々と対枢軸国宣戦を布告、1945年には、米州共同防衛に関る「チャプルテペック宣言」を主宰、フィリピン派兵の対米協調路線を敷く。これで対米関係修復は成った。
人名表:
(*1)プレステス(Luis Carlos Prestes、1898-1990):ブラジル。
1920年代に反乱を起こした代表的若手将校で後の共産党指導者
(*2)グラール(Joāo Belchior Marques Goulart、1919-76):ブラジル。
大統領(1961-64)。副大統領からの昇進。同時に敷かれた議会優位制の
もと、越権行為で軍部が追放
(*3)オブレゴン(Álvaro Obregón、1880-1928):メキシコ革命の英雄。
大統領(1920-24)。暗殺されたのは任期が6年に変わった際に再立候補、
勝利した後
(*4)カイェス(Plutarco Elías Calles、1877-1945。在任1924-28):メキシコ。
大統領(在任1924-28)。オブレゴン後の最高実力者で、任期終了後も実
権をふるう。
(*5)アビラ・カマチョ(Manuel Ávila Camacho、1897-1955):メキシコ。
大統領(在任1940-46)。在任中に政党名をPRIに変更、党内軍事部会を
廃止、文民統制を確立
|