ペロンとベタンクール |
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(1)ペロン アルゼンチンは二十世紀初頭まで、ヨーロッパからの移民を多く受け入れ、肥沃なパンパに広範に鉄道を通し、農牧業と都市文化が栄える、世界的にも裕福な国に発展していた。それでも基幹産業はインフラ部門を含め多くが外資、とりわけイギリス資本の支配下にあった。南米最初の都市中間層政権を発足させたイリゴージェン(*1)が1922年にYPF(国営石油会社)を設立したのは、ナショナリズムの発揚でもある。 大恐慌で1930年9月に軍事クーデターが起きた。短期軍政を経て32年に誕生したフスト(*2)政権は、政治思想の異なる複数政党に寡頭勢力も加わったものだったため、「協調政府」と呼ばれた。33年5月、不況対策としてイギリス連邦内(アルゼンチン産品)特恵と、その見返りとしての、国内にある英企業への特権待遇を取り決める、対英「ロカ・ランシマン条約」を締結する。国民にはアルゼンチンの対英従属と映り、不満が燻ぶった。 ペロンは、社会資本分野には、国家が全面的に参画する姿勢を明確にした。英系鉄道会社や外資に握られていた航空、海運、通信などの分野は国有化された。また労働者擁護策や経済活動に関わる国家介入を実施した。食料輸出を国家独占とし、収益を賃上げや工業育成に充てた。かかる政策実現には強権が不可欠、と考えたためか、ヴァルガス同様の長期政権を模索、憲法を強引に変更して連続再選に道を開き、1951年の大統領選で連続再選された。これには大新聞を接収、CGTの機関紙とし、彼の政策に関る宣伝紙の役割を担わせる手も打っていた。 (2)ベタンクール ラ米最後のカウディーリョといわれるビセンテ・ゴメス(*3)独裁下の1914年にマラカイボで大規模油田が発見され、ベネズエラが産油国として発展するようになった。南米南部やキューバのような移民増こそ無かったが、カラカスが1900年からの30年間で人口を三倍増とした如く都市化は進み、都市中間層は増えた。その中で28年、反ゴメス独裁の学生運動が起きた。ベタンクールはこの指導者で、ほどなく国外追放になる。ペルーのアヤと似た経歴だ。事実、ベタンクールはAPRA綱領に激しく影響を受けたことが知られる。メキシコやコロンビア同様、ベネズエラでも大恐慌期のクーデターは起きていない。 1935年のビセンテ・ゴメス死後、「ゴメス無きゴメス体制」と揶揄される軍人政権が続いた。ただ政治結社は認められ、恩赦で帰国したベタンクールが創設した政党は、41年創設の「国民行動党(AD)」に合流する。45年10月、若手将校団の結社「愛国軍人同盟UPM」によるクーデターで、軍人政権が崩壊した。アルゼンチンのGOUに似た動きだ。ただ、発足した臨時革命評議会の議長には、在野の文民でたる37歳のベタンクールが就いた。この臨時評議会政権下、政治改革が行われ、この国としては初めて普通選挙制度を導入、労働者及び農民運動が奨励され、外国石油会社の国家に対する利潤配分比率引き上げも実施された。 1958年1月、国内の多岐に亘る階層から成る「反独裁愛国戦線」が、大規模なゼネストを敢行した。これがペレス・ヒメネス軍政の終焉に繋がった。帰国した50歳のベタンクールが大統領に選出され、59年2月に就任した。この国がサウジアラビアなど4ヵ国と共に石油輸出国機構(OPEC)を立ち上げたのは、それから1年半の後のことだ。メキシコのカルデナス同様、彼も再選を求めなかった。ADは1992年までの大半を政権党であり続けた。 人名表 (*1)イリゴージェン(Hipólito
Yrigoyen、1852-1933):アルゼンチン
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