ペロンとベタンクール


 ヴァルガスが「新国家」体制で独裁をふるっていた時代に、当時人口でラ米第三位の隣国アルゼンチンで頭角を現してきたのがペロンだ。その頃、人口では第八位と中規模なベネズエラでは、同国初めての民主政治を求めてベタンクールが活動していた。

(1)ペロン

アルゼンチンは二十世紀初頭まで、ヨーロッパからの移民を多く受け入れ、肥沃なパンパに広範に鉄道を通し、農牧業と都市文化が栄える、世界的にも裕福な国に発展していた。それでも基幹産業はインフラ部門を含め多くが外資、とりわけイギリス資本の支配下にあった。南米最初の都市中間層政権を発足させたイリゴージェン*1)が1922年にYPF(国営石油会社)を設立したのは、ナショナリズムの発揚でもある。

大恐慌で19309月に軍事クーデターが起きた。短期軍政を経て32年に誕生したフスト*2)政権は、政治思想の異なる複数政党に寡頭勢力も加わったものだったため、「協調政府」と呼ばれた。335月、不況対策としてイギリス連邦内(アルゼンチン産品)特恵と、その見返りとしての、国内にある英企業への特権待遇を取り決める、対英「ロカ・ランシマン条約」を締結する。国民にはアルゼンチンの対英従属と映り、不満が燻ぶった。
 19433月、軍内若手将校グループによって「統一将校団」(GOUが結成された。国家主義思想が強く、概して親独だったとされる。同年6月、「協調政府」がクーデターで崩壊した。GOUが重要な役割を担った、とされ、成立した軍政下で、彼らの多くが政権の要職に就いた。ペロン陸軍中佐もその一人で、軍機次官に抜擢された。新設の労働局長、後に労働福祉長官を務め、労働界との接点が生まれた。44年には副大統領にもなった。
 第二次大戦でアルゼンチンの
枢軸に対する宣戦布告は、イタリアがとっくに降伏し、まもなくドイツが降伏するタイミングの45年3月まで遅らせた。46年2月、退役した50歳のペロンが大統領に選出された。支持基盤となったのが「デスカミサードス(descamisados)」(貧しくて着るシャツを持たない人たち、転じて労働者大衆)、及び30年結成の「アルゼンチン労働総同盟(CGT)」で、ペロニスタ(ペロン支持勢力。彼らによる政党が「正義党」、通称「ペロン党」)の中核を成すようになる。

ペロンは、社会資本分野には、国家が全面的に参画する姿勢を明確にした。英系鉄道会社や外資に握られていた航空、海運、通信などの分野は国有化された。また労働者擁護策や経済活動に関わる国家介入を実施した。食料輸出を国家独占とし、収益を賃上げや工業育成に充てた。かかる政策実現には強権が不可欠、と考えたためか、ヴァルガス同様の長期政権を模索、憲法を強引に変更して連続再選に道を開き、1951年の大統領選で連続再選された。これには大新聞を接収、CGTの機関紙とし、彼の政策に関る宣伝紙の役割を担わせる手も打っていた。
 19559月、出身母体の軍部によるクーデターで国外追放された。54年に制定した離婚法などが背景にある、とされる。ペロニスタはペルーのアプラ党同様、軍部との敵対関係に入り、以後軍部が政治に全面介入、ペロン党は合法、非合法が繰り返され、ついには人権侵害で国際的に悪名高い軍政(第一次1964-73、第二次1976-83)を経験する。

(2)ベタンクール

ラ米最後のカウディーリョといわれるビセンテ・ゴメス*3)独裁下の1914年にマラカイボで大規模油田が発見され、ベネズエラが産油国として発展するようになった。南米南部やキューバのような移民増こそ無かったが、カラカスが1900年からの30年間で人口を三倍増とした如く都市化は進み、都市中間層は増えた。その中で28年、反ゴメス独裁の学生運動が起きた。ベタンクールはこの指導者で、ほどなく国外追放になる。ペルーのアヤと似た経歴だ。事実、ベタンクールはAPRA綱領に激しく影響を受けたことが知られる。メキシコやコロンビア同様、ベネズエラでも大恐慌期のクーデターは起きていない。

1935年のビセンテ・ゴメス死後、「ゴメス無きゴメス体制」と揶揄される軍人政権が続いた。ただ政治結社は認められ、恩赦で帰国したベタンクールが創設した政党は、41年創設の「国民行動党(AD)」に合流する。4510月、若手将校団の結社「愛国軍人同盟UPMによるクーデターで、軍人政権が崩壊した。アルゼンチンのGOUに似た動きだ。ただ、発足した臨時革命評議会の議長には、在野の文民でたる37歳のベタンクールが就いた。この臨時評議会政権下、政治改革が行われ、この国としては初めて普通選挙制度を導入、労働者及び農民運動が奨励され、外国石油会社の国家に対する利潤配分比率引き上げも実施された。
 194712月、ベネズエラ史上初めての大統領の直接選挙が実施された。これにはベタンクールは出馬していない。その結果成立した民主政権は、しかし、翌4811月、ペレス・ヒメネス*4)によるクーデターで崩壊する。ベタンクールは、亡命した。50年代、この国はヨーロッパからの大量移民で人口増の道を辿り始め、人口はラ米第七位に上がった。

19581月、国内の多岐に亘る階層から成る「反独裁愛国戦線」が、大規模なゼネストを敢行した。これがペレス・ヒメネス軍政の終焉に繋がった。帰国した50歳のベタンクールが大統領に選出され、592月に就任した。この国がサウジアラビアなど4ヵ国と共に石油輸出国機構(OPECを立ち上げたのは、それから1年半の後のことだ。メキシコのカルデナス同様、彼も再選を求めなかった。AD1992年までの大半を政権党であり続けた。

人名表

*1イリゴージェンHipólito Yrigoyen1852-1933):アルゼンチン
   大統領(在任
1916-2228-30)。叔父による1891年の急進党創設に参加

*2フストAgustín Pedro Justo1878-1943):アルゼンチン
   
1930年クーデター指導者とは一線を画した軍内穏健派、といわれる将軍。
   大統領(在任
1932-38

*3ビセンテ・ゴメスJuan Vicente Gómez1859-1935):ベネズエラ
   
1898年のクーデターに参加。1908年に大統領を追放し、実権掌握。大統
   領(在任
1908-35

*4ペレス・ヒメネスMarcos Pérez Jiménez1914-2001)ベネズエラ
   
1945年のUPMクーデターに大佐として参加。1948年に実権掌握、大統
   領(
1953-58

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