アヤ、ガイタン、及びベラスコ・イバラ


 ペルーのアヤデラトーレは、1910年代から20年代にかけて活発化した学生運動の指導者だった。コロンビアのガイタンは政治家として当時の政界と米企業の癒着を世論に訴えた。二人とも大統領にはなれなかった点で共通している。ただ、前者は天寿を全うし自ら創設したアプラ党を残し、後者は暗殺されている。そしてエクアドルのベラスコ・イバラは1931年クーデターの後に政界入りした。以後5回も大統領となったが、任期を全うできたのは一度だけだ。この三ヵ国の1930年の人口は、合わせて1,500万人だった。

(1)アヤデラトーレ

19197月にレギーア*1)第二次政権が発足すると間もなく、前年のアルゼンチンで実施された大学改革のペルー版を要求する学生運動が始まった。このリーダーがアヤデラトーレ(以下アヤ)だった。レギーアは憲法改定により連続再選の道を確保すると、23年、アヤを国外亡命に追いやった。翌24年、彼は革命の雰囲気の残るオブレゴン政権下のメキシコで「アメリカ人民革命同盟(APRA)」立ち上げた。米国帝国主義への抵抗、ラ米の政治的団結、土地と産業の国有化などがうたわれた。ラ米ナショナリズムを端的に示したものだろう。

大恐慌に入った19308月、前述のヴァルガス革命に3カ月先行して、サンチェス・セロ*2)大佐による軍事クーデターが起きた。ラ米他国のクーデターと異なり、大統領は逮捕され2年後獄死している。この期にアヤが帰国し、「アプラ党」を立ち上げた。支持基盤は、彼の出身地、ペルー北部の砂糖産業労組から拡大していったもので、当初より労働者層との繋がりが強かった。翌3110月の大統領選に出馬して、クーデター後の軍事評議会首班に就いていたサンチェス・セロに挑んだが敗退した。この選挙に不正があった、として、アプラ党が抗議運動を展開、327月、支持基盤のあるトルヒーヨで武装蜂起した。軍が出動し、1,000人とも6,000人も言われる犠牲者が出た(「トルヒーヨの虐殺」)。
 1933年4月、アプラ党の過激派がサンチェス・セロを殺害した。これが軍部対アプラ党の敵対関係、ひいては以後ペルーで軍政が繰り返されることに繋がる。アヤ自身は釈放され、39年の民政復帰を機に党も合法化された。党は労働者層に加え、学生や先住民に影響力を伸ばし始める。ペルー唯一の民衆政党、を標榜した。だがその後も非合法化(一時期アヤが亡命)、合法化(一時は与党の一角に入る)を繰り返し、次第に政党としての現実路線を敷くようになっていく。62年にアヤが大統領選で第一位になるとクーデターで短期軍政が敷かれ、翌年やり直し、今度は敗退した。アプラ党を忌避する軍部が介入した例として述べておきたい。

アヤは結局、一度も大統領に就けなかった。ペルー政界には大きな影響力を及ぼし続け、彼の死後の85年、秘蔵っ子といわれたガルシアが大統領に就いた。

(2)ガイタン

1914年、コロンビアは米国と「トンプソン・ウルティア条約」を締結した。パナマ独立を承認と、その見返りに米国から賠償金2,500万jを得る、とするものだ。米国側の議会承認が遅れ、批准自体は214月まで延びた。米国から得たのは賠償金に加え、借款もあった。資本導入も一気に進んだ。2326年の間だけで石油、バナナ産業を中心に2億ドルの直接投資があった。流入する資本及び借款を原資に、インフラ整備や産業開発が加速、労働者層が急増し労働争議が頻発化する。
 192812月、米企業ユナイティッド・フルーツ社に所属するバナナ労組による争議で、労働者側に100名の死者が出た。同国史上「バナナ農園虐殺事件」として記憶される。自由党代議士ガイタンが、291月、この労働争議弾圧の背景を調査、保守党政治家と外資との癒着を明るみにした。保守党政権のダメージは大きい。コロンビアではメキシコ同様、世界恐慌時にクーデターは発生していないが、308月、実に半世紀ぶりで政権が保守党から自由党に代わった。ただ彼自身が政権に入ったのは、4310月、ロペス・プマレホ*3第二次政権が一時的に崩壊して発足した臨時政府の労相が初めてで、僅か8ヶ月間だけだ。この時、労働権や社会権についての政見を打ち出し、大衆人気を高める。

1946年の大統領選で、彼は自由党からではなく独立候補として出馬した。支えたのは「ガイタニスタ」と呼ばれる民衆支持層で、結果的には保守党候補が勝利したものの、473月の総選挙ではガイタン派の伸びにより自由党が圧勝した。これでガイタンが党首に選出された。議会で、いわゆるガイタン法案と呼ばれる一連の政治改革法案を提出したが無視される。これを政治迫害ととった結果のようだが、翌482月、彼の呼び掛けによる「無言の行進」といわれる大規模デモが首都ボゴタで行われた。ここで、伝統的政党の党首らしからぬことだが、大衆動員力を見せつけた。労働者層を中心に10万人が集まった、と言う。
 19484月、ガイタンが殺害された。おりしも、前月からボゴタで第9回汎米会議が開かれていた。米州機構(OAS)憲章を採択する重要な会議だ。誰しも政治的暗殺を疑うところだが、単なる殺人事件に過ぎなかった、といわれる。だが、これが彼を支持する民衆の「ボゴタソ(Bogotazo)」と呼ばれる大暴動を呼び、さらに全国規模の内乱に発展する。「ビオレンシア(暴力)」と呼ばれ、最終的に制圧できたのは64年、と見るのが一般的なようだが、犠牲者は20万人にも達した、とされる。これで終わらなかった。その後結成されたゲリラ組織やパラミリタリー(自警団)、さらには麻薬組織の活動で、暴力は今日も未だ続いている。

(3)ベラスコ・イバラ

19257月、エクアドルで若手将校を中核とし、これに都市中間層と労働者層が加わり時の自由党政権を転覆する、反寡頭支配(オリガキー)のいわゆる7月革命」が起きた。成立した軍事評議会が医師のアヨラ*4)を大統領に指名する。29年、彼の政権下で、ラ米で初めて婦人参政権を規定する憲法が制定され、加えて各種労働立法も実現した。ところが、アヨラ政権も任期満了を待たずに、318月の軍事クーデターで崩壊する。大恐慌による経済後退が理由だ。

19325月、短期軍政下で大統領選が行われた。これに不正があった、として、当選した候補者の就任を、ベラスコ・イバラを中心人物とする下院が拒否、33年のやり直し選挙で、彼が立候補し当選した。労組の全国組織を基盤にし、80%の支持票を得たという。40歳の若さだった。だが、358月、就任から1年足らずで、彼も、今度はアロヨ*5)を中心とする上院によって不信任を突きつけられ退陣、コロンビアから始まって、最も長期滞在したアルゼンチンに至る亡命生活を余儀なくされ、逆にこれが「偉大なる不在者」として、国内でのさらなる声望の高まりに繋がっていった。
 19417月、そのアロヨの政権下、ペルー軍が侵攻、二週間の交戦を経て、翌421月、周辺国会議でペルー側に有利な「リオ議定書」が採択された。エクアドル議会も同年3月にこれを批准しているが、不満は燻ぶっていた。

 19445月、保守党、社会党、共産党、及び与党の自由党の一部が結集して起こした反アロヨ行動で彼の政権は崩壊した。いわゆる「五月革命」である。ベラスコ・イバラが帰国し、大統領に就いた。だが、憲法制定を巡る混乱や経済政策の失敗を理由に、彼自身の国防相から追放され、また亡命を余儀なくされている。
 彼はその後も三度に亘り大統領になった。任期を全うできたのは1952-56年の第三次だけで、60年に発足させた第四次政権は1年余りで辞任を余儀なくされ、637月からの第一次軍政(1963-68)に発展した。その民政復帰により689月、75歳で第五次政権を発足させた。だが722月の第二次軍政成立(1972-78)で、最終的に失脚した。

エクアドルと言えば政情不安が指摘される。カリスマ的政治家が歴史的に少ないことが理由だが、その意味でベラスコ・イバラは例外だ。大衆的支持を持ち続けた点でエクアドルを代表するポプリスタとされるが、却って政治混乱を深めた。

人名表

*1レギーアAugusto Leguia1864-1932):ペルー
   文民大統領(在任1908-1219-30)。第二次政権下、連続再選禁止を撤廃、   11年間の長期政権を担う。

*2サンチェス・セロLuis Miguel Sanchez Cerro1894-1933):ペルー
   大佐でレギーア政権転覆のクーデター主導。大統領(在任
1931-33

*3ロペス・プマレホAlfonso Lopez Pumarejo1886-1959: コロンビア
   半世紀ぶりの自由党政権回復、「進行する革命」。大統領(在任1934-38   42-45

*4アヨラIsidro Ayora Cueva1879-1978):エクアドル
   大統領(在任
1926-31)。婦人参政権の立法化実現(ラ米最初)

*5アロヨCarlos Alberto Arroyo del Rio1893-1969):エクアドル
     193040年代の政界実力者。大統領(在任1939-44、臨時を含む)





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