アヤ、ガイタン、及びベラスコ・イバラ |
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(1)アヤデラトーレ 1919年7月にレギーア(*1)第二次政権が発足すると間もなく、前年のアルゼンチンで実施された大学改革のペルー版を要求する学生運動が始まった。このリーダーがアヤデラトーレ(以下アヤ)だった。レギーアは憲法改定により連続再選の道を確保すると、23年、アヤを国外亡命に追いやった。翌24年、彼は革命の雰囲気の残るオブレゴン政権下のメキシコで「アメリカ人民革命同盟(APRA)」立ち上げた。米国帝国主義への抵抗、ラ米の政治的団結、土地と産業の国有化などがうたわれた。ラ米ナショナリズムを端的に示したものだろう。 大恐慌に入った1930年8月、前述のヴァルガス革命に3カ月先行して、サンチェス・セロ(*2)大佐による軍事クーデターが起きた。ラ米他国のクーデターと異なり、大統領は逮捕され2年後獄死している。この期にアヤが帰国し、「アプラ党」を立ち上げた。支持基盤は、彼の出身地、ペルー北部の砂糖産業労組から拡大していったもので、当初より労働者層との繋がりが強かった。翌31年10月の大統領選に出馬して、クーデター後の軍事評議会首班に就いていたサンチェス・セロに挑んだが敗退した。この選挙に不正があった、として、アプラ党が抗議運動を展開、32年7月、支持基盤のあるトルヒーヨで武装蜂起した。軍が出動し、1,000人とも6,000人も言われる犠牲者が出た(「トルヒーヨの虐殺」)。 アヤは結局、一度も大統領に就けなかった。ペルー政界には大きな影響力を及ぼし続け、彼の死後の85年、秘蔵っ子といわれたガルシアが大統領に就いた。 (2)ガイタン 1914年、コロンビアは米国と「トンプソン・ウルティア条約」を締結した。パナマ独立を承認と、その見返りに米国から賠償金2,500万jを得る、とするものだ。米国側の議会承認が遅れ、批准自体は21年4月まで延びた。米国から得たのは賠償金に加え、借款もあった。資本導入も一気に進んだ。23〜26年の間だけで石油、バナナ産業を中心に2億ドルの直接投資があった。流入する資本及び借款を原資に、インフラ整備や産業開発が加速、労働者層が急増し労働争議が頻発化する。 1946年の大統領選で、彼は自由党からではなく独立候補として出馬した。支えたのは「ガイタニスタ」と呼ばれる民衆支持層で、結果的には保守党候補が勝利したものの、47年3月の総選挙ではガイタン派の伸びにより自由党が圧勝した。これでガイタンが党首に選出された。議会で、いわゆるガイタン法案と呼ばれる一連の政治改革法案を提出したが無視される。これを政治迫害ととった結果のようだが、翌48年2月、彼の呼び掛けによる「無言の行進」といわれる大規模デモが首都ボゴタで行われた。ここで、伝統的政党の党首らしからぬことだが、大衆動員力を見せつけた。労働者層を中心に10万人が集まった、と言う。 (3)ベラスコ・イバラ 1925年7月、エクアドルで若手将校を中核とし、これに都市中間層と労働者層が加わり時の自由党政権を転覆する、反寡頭支配(オリガキー)のいわゆる「7月革命」が起きた。成立した軍事評議会が医師のアヨラ(*4)を大統領に指名する。29年、彼の政権下で、ラ米で初めて婦人参政権を規定する憲法が制定され、加えて各種労働立法も実現した。ところが、アヨラ政権も任期満了を待たずに、31年8月の軍事クーデターで崩壊する。大恐慌による経済後退が理由だ。 1932年5月、短期軍政下で大統領選が行われた。これに不正があった、として、当選した候補者の就任を、ベラスコ・イバラを中心人物とする下院が拒否、33年のやり直し選挙で、彼が立候補し当選した。労組の全国組織を基盤にし、80%の支持票を得たという。40歳の若さだった。だが、35年8月、就任から1年足らずで、彼も、今度はアロヨ(*5)を中心とする上院によって不信任を突きつけられ退陣、コロンビアから始まって、最も長期滞在したアルゼンチンに至る亡命生活を余儀なくされ、逆にこれが「偉大なる不在者」として、国内でのさらなる声望の高まりに繋がっていった。 エクアドルと言えば政情不安が指摘される。カリスマ的政治家が歴史的に少ないことが理由だが、その意味でベラスコ・イバラは例外だ。大衆的支持を持ち続けた点でエクアドルを代表するポプリスタとされるが、却って政治混乱を深めた。 人名表 (*1)レギーア(Augusto Leguia、1864-1932):ペルー
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