独立前夜


 南米ではブラジルがバンデイラ(私的奥地探検隊)の活動などで、1494年のトルデシリャス条約で決められた境界線を遥かに越えて西方に拡大した実効支配領域を、友好国イギリスの後押しを受けて、スペインにポルトガル領と認めさせてきた。
 
1777年、ポルトガル・スペイン間で締結された「サンイルデフォンソ条約」で、最終的にブラジルのスペイン植民地に対する境界線がほぼ現在の姿になった。それでも領域はブラジルに倍した。人口は四倍だ。加えて、スペイン領(現米国テキサス州以西)北端の北緯43度からチリ南端まで、最大12千キロの長大さである。フロリダもスペイン領だった。現ドミニカ共和国の領域は1795年から1814年までフランス領だった。

(1)スペイン植民地を統治する勅任役職者

@ 副王:言うなれば、スペイン国王を代行する在地高位貴族。4人が夫々下記を管掌

  • ヌエバイスパニア(メキシコ、中米・カリブ、フィリピン、現米国の半分)
  • ヌエバグラナダ(概ね現コロンビア、ベネズエラ及びエクアドル)
  • ペルー(同、現ペルー、チリ)
  • ラプラタ(同、現ボリビア、アルゼンチン、ウルグアイ及びパラグアイ)
A軍務総監(以下、総監):副王支配地域で、下記4箇所に配置
  • グァテマラ(ヌエバイスパニア副王管掌。現メキシコのチアパスから現コスタリカまでを分掌)
  • ハバナ(同、分掌領域は1795年以降、現キューバ、フロリダ及びプエルトリコ)
  • カラカス(ヌエバグラナダ副王管掌。概ね現ベネズエラを分掌)
  • サンティアゴ(ペルー副王管掌。概ね現チリを分掌)    
Bアウディエンシア(王立審問院。聴訴院という邦訳もある)長官:いわば行政司法
 長官。この時期マニラ以外で
11都市に配置され、上記4副王、4総監以外の3都市

  • キト(概ね現エクアドルを管轄)
  • チュキサカ(同、現ボリビアのスクレ)
  • グァダラハラ(同、メキシコ北部)
Cインテンデンテ(勅任監察官):いわば地方知事。28ヵ所に派遣された。

現地人で就ける公職は、上記役職者指揮下の行政官、司法官、軍人などで、就いたのは殆どクリオーリョ(現地生まれのヨーロッパ人種、白人)だが、スペイン人への対抗心が深層にあったという。有力クリオーリョらはカビルド(市会)を通じ発言機会を得ていた。

(2)ブラジルの植民地統治体制

ポルトガル領アメリカの植民地統治体制にスペイン領のそれと近い副王制が導入されたのは、1720年のことだ。スペイン領に185年も遅れた。副王府はブラジル東北部の現バイア州サルヴァドルに置かれた。1549年に初めて総督府が開かれた場所だ。1763年にリオデジャネイロに移された。スペイン領と異なり、政庁の要職は現地人(ブラジル人)にも開放され、実質的な支配階層は現地生まれの白人には、スペイン領でいう「クリオーリョ意識」は希薄で、本国人との一体感が強く、自らは地方のポルトガル人、という意識だったという。

(3)北米独立革命とその直後の動き

17767月、イギリスのアメリカ植民地の一つ、北米13州による独立宣言が発せられた。直接の切っ掛けは宗主国イギリスが植民地に課した税と交易規制によるが、それには当時フランスを中心に広まっていた自由、平等を説く啓蒙思想があった。フランスは独立軍を支援した。同じブルボン家を王室に抱くスペインも一緒だった。スペイン領アメリカのクリオーリョを中心とする知識層にも啓蒙思想は伝播したし、北米独立軍支援にスペイン軍人として参戦したクリオーリョも多かった。一方ブラジルは、この影響で繊維工場の原料となる綿花の重要な供給源を失ったイギリスへの重要供給者となり、農業部門が発展しそれまでの金依存型経済から脱却、経済繁栄に向う。

この時期に、下記のような事件が続いた(現国名を赤字で表示、以下、同)。

  • 「トゥパク・アマルー二世の反乱」ペルー178011月〜815月。メスティソのコンドルカンキ*1)率いる先住民を中心とした反乱。一部が暴徒化し、農園略奪、白人層の虐殺、に発展。ペルー副王軍が増強され、最終的に鎮圧される。
  • 「トゥパク・カタリの反乱」ボリビア1781-82年。上記の別働隊、先住民のアパサがトゥパク・カタリを自称し抵抗運動展開。ラプラタ副王軍が制圧
  • 「コムネロスの乱」コロンビア1781-82年。増税に抗議し、民衆自治会の形でクリオーリョが組織。ヌエバグラナダ副王が増税撤廃で解決
  • 「ミナス人の陰謀」ブラジル1788-89年。ミナスジェライスの上流層、弁護士や聖職者らが参加、共和国樹立の蜂起を企画。見せしめのため処刑された首謀者の一人、シルバ・シャヴィエル*2)が抜歯技師(Tiradentes)だったため、「ティラデンテスの反乱」とも言う。

ペルー及びボリビアの事件はラ米支配階級の一角を成すクリオーリョ層の先住民への警戒を高め、コロンビアの事件は現地人に対する宥和的政策への変化をもたらした。

(4)フランス革命後の動き 

17897月、フランス革命が起こる。自由、平等、博愛を前面に出した人権宣言も、ラ米の知識層に伝播した。これは、1791年にはフランス領の現ハイチで奴隷の大暴動に繋がる。スペイン領、及びブラジルでは下記が特筆出来よう。

  • 「コロの反乱」ベネズエラ1795年。沿岸部の町コロで黒人及びムラトが独自の共和国建設を図り蜂起。ハイチの暴動に連鎖。短期で鎮圧
  • 「バイアの陰謀」ブラジル1798年。サルヴァドルで、職人、兵士、小商人などが、フランス革命のスローガンを受けた民主的共和制を掲げて蜂起、自由黒人や奴隷も参加。食料品店の略奪、といった暴動に発展。鎮圧され、首謀者は絞首刑の上、公衆に晒し首に処された。職人たちが独立計画の企てたということから、「仕立屋の陰謀」とも言う。
  • 「マチェテの陰謀」メキシコ1799年。徴税者、衛士ら下級官吏や職人らが本国人への反感から、独立を叫んで、山刀(machete)などで武装蜂起。簡単に制圧されるが、独立への動き自体を秘匿するため、裁判は行わず、参加者を収監しただけに終わる。

ベネズエラの事件は、ハイチの暴動と共に、奴隷に対する警戒を高めた。前述のペルー、ボリビア、コロンビアの事件同様、独立革命へのクリオーリョ層の意欲を殺ぐ事件だった、といえよう。ブラジルやメキシコの事件は、独立を志向する勢力はまだ一部に過ぎなかったことを示す。 

(5)ハイチ独立後の動き

18041月、ハイチが独立した。同年12月、ナポレオンがフランス人皇帝になり、欧州制覇を本格化させる。スペインはこれに追随し、ポルトガルはフランスの宿敵イギリスの友好国のままだった。これが、スペイン植民地とブラジルの夫々の独立革命の性格に大きな違いをもたらす。ともあれ、スペイン領ではクリオーリョ支配層に独立志向を促す下記事件が起きている。

  • イギリス海軍の来襲:アルゼンチン18066-8月。ブエノスアイレスを支配(副王軍は退去)。現地人民兵が撃退
  • ミランダ*3。亡命ベネズエラ人)がイギリス艦隊の提督の支援を受け、トリニダードで義勇軍編成、コロ侵攻。ベネズエラ18068月。失敗し活動拠点のロンドンに退去。
  • イギリス海軍の再来襲:ウルグアイ及びアルゼンチン18072月、モンテビデオ占領。6月、ブエノスアイレス攻撃、民兵の抵抗で7月に撤収 

アルゼンチンとウルグアイの事件では、現地人が対列強防衛を自力で成し遂げたことで自立への自信を高めた。ミランダの事件では、独立革命には、北米の場合と同様に、列強支援が期待できることを教えた。いずれも、イギリスが関わった点を記憶したい。

人名表:

(*1)コンドルカンキJose G. Condorcanqui1741-1781):ペルーインカ王室の末裔と
  して
トゥパク・アマルー二世を名乗り、クリオーリョ支配層を震撼させる反乱を
  起こす。

(*2)シルバ・シャヴィエルJoaquim Silva Xavier1748-92):ブラジル独立運動
  の先駆者

(*3)ミランダFrancisco de Miranda1750-1816):ベネズエラ1779年、スペイ
  ンが参戦した北米独立戦争にスペイン軍人として、ハバナから独立軍支援活動。
  
1783年から1年半ほど、独立後の米国を回り、84年末にロンドンに向けて出発、
  ヨーロッパ各地に出向きフランス革命にも参加。彼のロンドンの拠点に、ラ米独
  立の志士が多く訪れるようになり、後にベネズエラ独立にも参加。南米スペイン
  領独立革命の先駆者


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