1822年7月、解放者の両巨頭、ボリーバルとサンマルティンがグァヤキルで会談した。中身はつまびらかではないが、独立後のラ米体制について、前者が共和制志向なのに対し、後者が君主制を容認していた、とされ、この後暫くして、サンマルティンはラ米から退場する。
1823年12月、モンロー米国大統領が、アメリカ問題に欧州列強は介入すべからず、との、いわゆる「モンロー宣言」を発した。この時点でスペイン植民地として残っていたのは、現ペルー、現ボリビア、及びキューバの3ヵ所のみだった。現ドミニカ共和国は1795年に支配権がフランスに譲渡され、1814年にスペイン領に復帰したものの、1822年2月、同じイスパニオラ島の西部に位置するハイチに併合された。
(1)ペルーとボリビアの解放
1821年7月の独立宣言後も、ペルー副王軍は各地に展開、サンマルティンは現ボリビア奪還どころか、ペルーの最終的解放も実現できないでいた。一方でボリーバルは翌22年5月までに現エクアドルを解放、勢いがあった。冒頭のグァヤキル会談後、サンマルティンに後事を託されたボリーバルは1823年9月までにペルー入りする。
- 1824年8月、「フニンの戦い」。ボリーバルを総指揮者とし、ペルー独立派が結集、スクレ指揮下、勝利、同年12月の「アヤクチョの戦い」で副王軍を最終的に撃破(ペルーの解放)
- 1825年3月、スクレ軍が現ボリビアのペルー副王軍残党を最終的に撃滅(ボリビアの解放)。サンマルティン構想のラプラタ帰属、ボリーバル構想のペルー帰属いずれも拒否した支配層が、同年8月(6日、ボリビア独立記念日)、ボリーバルの名に因む「ボリビア」の国名で、スクレを終身大統領として、独立を宣言する。
(2)独立国家からの分離
1826年6月、ボリーバルの提唱で「パナマ会議」が招集された。各国の共存とモンロー宣言への支持などが決議されたが、本来はラ米統合を目的としていた。旧スペイン領独立国は、この時点でメキシコ、中米連邦、グランコロンビア、ペルー、チリ、ボリビア、アルゼンチン、パラグアイの8ヵ国だったが、グランコロンビアと中米連邦が解体していく。
- 1825年8月(25日。ウルグアイ独立記念日)、ブエノスアイレス避難中だった現ウルグアイの独立派の、いわゆる「不死身の33人衆」が帰還し、対ブラジル独立を宣言した。これを容認できないブラジルが、彼らを支援している、として、同年末、対アルゼンチン宣戦を行う「ブラジル・アルゼンチン戦争」(別掲「ラ米の戦争と軍部」独立黎明期の戦争参照)に発展、結果、イギリスの調停でリオ講和条約締結(ウルグアイの誕生)、1828年8月、独立
- 1829年12月、ベネズエラが、翌1830年5月、エクアドルが、グランコロンビアから分離独立を宣言(別掲「カウディーリョたち」建国期のカウディーリョたち参照)。同年12月、ボリーバルは失意のうちに病死している。残る現コロンビアは翌31年に「ヌエバグラナダ共和国」として再発足した。
- 1838年4月、グァテマラ及びニカラグア、10月、ホンジュラス及び12月、コスタリカが中米連邦から分離独立。1830年9月、38歳で中米連邦大統領に就任したモラサン(*1)が連邦維持に努めたことが知られるが、彼の自由主義路線に各州の保守勢力が反発した結果、とされる。1841年2月、連邦首府が所在するエルサルバドルが発足
以上により、ブラジルを含むラ米独立国は、1841年までに16ヵ国に達した。
(3)ドミニカ共和国の独立
1838年7月、サントドミンゴでドゥアルテ(*2。25歳)らがハイチからの独立を掲げる「トリニタリア運動」を開始した。彼自身は当局の迫害を受け亡命するが、1844年2月(27日。ドミニカ共和国独立記念日)、残党がハイチ軍を撃退し独立を宣言、ラ米で17番目の国家が誕生する。
ハイチはその後も脅威だった。1861年3月、保護を求める形で39年ぶりにスペイン植民地に再復帰する。翌4月、米国が南北戦争に入ると、5月にはスペイン本国軍がドミニカ共和国に進駐するが、逆にハイチの支援を受ける抵抗勢力による反乱軍に手を焼き、4年後の1865年3月、スペインは再植民化を無効、とし、軍の撤収を決めた。米国の南北戦争終結の一月前だった。5月にドミニカ共和国が回復(再独立)する。
(4)キューバの独立
1820年代、ラ米でスペイン植民地のまま残っていたのがキューバである。大陸部から追われた王党派の多くが集まり、独立の機運が乏しかったことと、米国という大市場を独自に享受できるだけの自治権が付与されていたことを、背景として挙げておきたい。
- 1868年10月(10日。キューバでの独立記念日に準じた扱い)、武力独立闘争を呼びかけるセスペデス(*3。49歳)の「ヤラの叫び」で、第一次独立戦争が勃発、独立派軍が降伏する1878年5月まで10年間続いたため、「十年戦争」とも言う。独立派の多くが国外に散った。彼らの最重要拠点がニューヨークだった。
- 1892年、マルティ(*4。39歳)がニューヨークで「キューバ革命党」を結成し、「祖国Patria」と言う機関紙を発行、その上で1895年3月、独立宣言を発し、翌4月、第二次独立戦争を開始した。
- 1898年2月の米国軍艦メイン号がハバナ港で爆破し、260名の犠牲者が出た(「メイン号事件」)ことで米国がスペインに宣戦(米西戦争)、米軍が独立派軍とともにスペイン軍との戦闘に及んだ。1899年1月1日が独立の日だが、米国の保護国としてのスタートだった。
(5)パナマの独立
ヌエバグラナダ副王領にあって、独立後のコロンビアに組み入れられたパナマには、もともと独立機運が高かった。コロンビアが内戦の最中だった1840年11月から翌12年まで「パナマ地峡共和国」として事実上独立していた時期もある。実際の独立は、米国のパナマ運河権益に絡んで実現したことが、1903年の事態推移をみればよく分かる。
- 1903年1月:「ヘイ・エラン条約」締結(米国対コロンビア。運河建設、操業に関わる米国の権益を明記したもの)
- 1903年10月:コロンビア議会、上記条約の批准を否決
- 1903年11月(3日。パナマ独立記念日):同年5月に結成されていた「パナマ革命委員会」がコロンビアからの独立を宣言。米国が独立を承認。ボゴタ政府は、パナマ沖に出動中だった米艦隊との交戦に至るリスク回避のため、軍を撤収
- 1903年11月18日:具体的には独立宣言から15日後には、もう「ヘイ・ブラウバリリャ条約」締結(米国対パナマ。内容は上記「ヘイ・エラン条約」と同様)
人名表:
(*1)モラサン(Francisco Morazán、1792-1842)、ホンジュラス人。
中米連邦大統領(1830-40)。連邦解体後も再建に尽力。「中米の父」として
今も敬われる。
(*2)ドゥアルテ(Juan Pablo Duarte、1813-76):ドミニカ人。「ドミニカ共和
国の独立の父」。早々と独立闘争からの退場を余儀なくされる。
(*3)セスペデス(Carlos Manuel de Céspedes 1819-1874):キューバ独立革命開
始、1874年に戦死している。
(*4)ホセ・マルティ(José Martí、1853-1895):キューバ革命党結成。詩人で
も知られる。「キューバ独立の父」
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