コロンビアとベネズエラの最初の独立革命が挫折した1816年央、ラプラタでは新たな動きが始まっていた。またボリーバルがジャマイカから戻ってきた。
(1)ラプラタの独立宣言とチリ及びコロンビアの解放
1810年に勃発した独立革命から6年、実際に独立を果たしていたのはパラグアイだけだった。1819年までにアルゼンチン、チリ及びコロンビアの3ヵ国が続いた。チリとコロンビアの解放は、夫々の独立革命軍を率いるサンマルティンとボリーバルのいずれも、アンデス東麓から高峰を経て西麓側に布陣した副王軍の背後を突く、いわば「アンデス越え」作戦で成功した。
ラプラタ |
1816年7月(9日。アルゼンチン独立記念日)、アンデス東麓の町トゥクマンでラプラタ諸州連合が独立宣言。ラプラタ水系諸州がボイコットする。1817年1月、ブラジルがモンテビデオを占領、現ウルグアイを併合し、アルティガスが独立革命から退場、ラプラタ中央政府はこの間黙認、サンマルティンが企画する現ボリビア奪還作戦を優先した。 |
チリ |
1817年2月、「チャカブコの戦い」。サンマルティン率いるラプラタ軍(「アンデスの軍隊」)がオヒギンスらと共にチリ駐留副王軍を急襲、勝利。サンテァゴ入城実現。翌1818年2月、改めてチリ独立宣言、4月、「マイプの戦い」で副王軍撃退。現ボリビア奪還を最終目的とした「アンデスの軍隊」の任務の第一段階であるチリ解放が成功 |
コロンビア |
1816年12月、帰還したボリーバルが、オリノコ河岸の町アンゴストゥーラ(現ボリーバル市)に革命拠点を設営、1818年にアンデス東麓でサンタンデル(*1。26歳)と合流し、独立革命軍を再編成した上で、翌1819年8月、副王軍を急襲(「ボヤカの戦い」)、これに勝利したことでコロンビア解放実現 |
(2)ベネズエラ、エクアドルの解放とペルー、メキシコ及び中米の独立
1820年3月、スペインのフェルナンド七世が彼の不在中に制定された、いわゆる「カディス憲法」(議会制政治体制を決めたもの)順守を宣言、このような状況下で、ボリーバルとサンマルティンが新たな展開を始め、またメキシコにも大きな動きが出る。
ベネズエラ |
1821年6月、「カラボボの戦い」。パエス(*2。31歳)を中心としたボリーバル軍、スペイン軍撃破(ベネズエラの解放)。同年9月、サンタンデル拠点のククタで「コロンビア共和国」発足宣言。現コロンビア、ベネズエラ、当時未解放のエクアドルを含むので、ラ米史上グランコロンビアと呼ぶ。ボリーバル大統領、サンタンデル副大統領。 |
エクアドル |
1822年5月、「ピチンチャの戦い」。スクレ(*3。27歳)指揮下のコロンビア軍が、王党軍撃破(エクアドルの解放) |
ペルー |
1820年9月、サンマルティン率いる「ペルー解放軍」(「アンデスの軍隊」、チリ兵、イギリス義勇軍で構成)が海路ペルー上陸。サンマルティン、ラセルナ・ペルー副王代行(1821年2月、正規副王は追放されていた)との休戦協定でリマ退去させ、リマに無血入城し、1821年7月(28日、ペルー独立記念日)、護国官の立場でペルー独立を宣言 |
メキシコ |
1921年2月、クリオーリョ(現地生まれの白人)で副王軍司令官のイトゥルビデ(*4。38歳)が独立派指導者と共に「イグアラ綱領」。君主制国家としてのメキシコ独立を明示。同年8月、彼はオドノフー副王との間で、同綱領を基にした「コルドバ協定」締結。事実上のメキシコの独立達成(無血革命)。翌9月28日、独立宣言。1822年5月からのイトゥルビデ帝政を経て、1823年3月、共和制移行 |
中米 |
1921年9月(15日。中米五ヵ国≪グァテマラ、ホンジュラス、エルサルバドル、ニカラグア、コスタリカ≫独立記念日)グァテマラ総監領(現中米五ヵ国及びメキシコのユカタン)、メキシコ独立が副王管轄下の総監領に及ぶことを懸念し、中米独自の独立を宣言。結果的には翌22年1月から1年半、併合されている。1823年7月、ユカタン(残留)以外が分離独立 |
(3)ブラジルの独立
1820年8月、リスボンで軍と市民による立憲君主政への移行を求める革命が起きた。「ポルトガル・ブラジル連合王国」の国王となっていたジョアン六世が、翌21年4月、リスボンに帰還した。前3月に発布された憲法で、立法府に当たる王国議会の議員数は、本国130議席、ブラジル70議席とされた。ブラジル側は、これを植民地に引き戻すもの、ととった。しかしブラジルが植民地ではなく、ポルトガル王国の重要な一部であることを示すため、国王はペドロ皇太子(*5)をリオに残した。だが、ポルトガルの議会が、国王の意思に反し、同年10月、皇太子召還令を出す。
1822年1月、皇太子はポルトガル不帰還を宣言した。これはブラジル政庁の宰相、アンドラダ・エ・シルヴァ(*6)が、各地での独立運動の動きを見て懇請したもの、という。同年9月(7日。ブラジル独立記念日)、皇太子は独立派の拠点の一つ、サンパウロの郊外にあるイピランガで、ブラジル帝国の建国を宣言した(「イピランガの叫び」)。12月、ペドロ一世(在位1822-31年)として即位、ブラジルの独立は成った。無血革命だった。
人名表:
(*1)サンタンデル(Francisco de Paula Santander、1792-1840):コロンビア。
同国の独立革命家。グランコロンビア副大統領としてボリーバルの南米解放事
業を支える。
(*2)パエス(Jose Antonio
Paez、1790-1873):ベネズエラ。ボリーバル副官。
別掲「カウディーリョたち」建国期のカウディーリョたち参照
(*3)スクレ(Antonio Jose Sucre、1795-1830):ベネズエラ人。エクアドル、ペ
ルー及びボリビア解放の司令官。「アヤクチョの元帥」
(*4)イトゥルビデ(Agustin de Iturbide、1783-1824):メキシコ。メキシコ副王
軍司令官の立場で独立派と共に独立達成に貢献。メキシコ皇帝となったが、1年
弱で追放される。
(*5)ペドロ皇太子、(Dom Pedro、1798-1834):ブラジル。ポルトガル王国の
皇太子でありながら、ブラジル独立を指導し初代皇帝となる。
(*6)アンドラダ・エ・シルヴァ(Binifacio Andrade e Silva、1765-1835):
ブラジル。独立を挟み、ブラジル政庁の宰相。ペドロ皇太子を独立に動かす。
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