スペイン領独立革命の勃発


 180711月、ポルトガルにナポレオンを皇帝に抱くフランス・スペイン合同軍が侵攻した。宿敵イギリスのヨーロッパ内孤立戦略にはその同盟国ポルトガルを屈服させる必要があった。ポルトガル王室は、女王マリア一世以下が、イギリス艦隊の護衛で、廷臣らともどもブラジルに移動した。翌08年3月、リオデジャネイロが王府となる。総勢1万人以上とされる政府官僚も移ってきた。「ポルトガル・ブラジル王国」がこうして成立した。つまり、ブラジルの地位は植民地ではなく、本国そのものになる。ブラジルにとって、少なくとも経済実利面では、独立の必要性はなくなった。

ナポレオンは、18086月、同盟国スペインの王位を当時のフェルナンド七世から簒奪する。スペイン植民地の独立革命は、18086月、フランスのナポレオンがスペイン王位を簒奪したことで、本来の国王の復位を求めて、スペイン人が各地に「フンタ(自治評議会)」(以下、フンタ)を成立させ、対仏武力抵抗闘争(スペイン史では「独立戦争」と呼ぶ)に入ったことが直接の契機になっている。植民地が忠誠を尽くすべきは国王たるナポレオンの実兄か、抗仏のフンタか。この理論は、植民地である続けることへの疑問に発展していく。

(1)独立革命の勃発

1809年、つまりスペイン本国でナポレオンがスペイン王位を簒奪した1年後、現ボリビアとエクアドルで、相互無関係で、重要な事件が相次いだ。ただ短期で革命は潰えた。

  • 7月。チュキサカ(現スクレ)で自治権を求める学生運動。ボリビア。後日、アウディエンシア長官に就任したヌエバグラナダ副王軍司令官が制圧
  • 8月(10日。エクアドル独立記念日)、キトで市民によるフンタ結成、アウディエンシア長官を追放。ヌエバグラナダ及びペルー両副王軍が出動、解散させられる。
  • 10月、ラパス(インテンデンテ任地)のカビルド(市会)がインテンデンテ追放、フンタ結成。ボリビア。ラプラタ副王軍出動、フンタを解散させる。

1810年になると、植民地人の自治権獲得への動きが急速に高まってきていた。この年だけで副王が2名、軍務総監も2名、カビルドによって罷免される事件が起きる。カビルドを構成する参事は、自治権が大きく規制されたスペイン植民地では、現地人名士のいわば名誉職に過ぎず都市ごとに数人しかいない。それがいきなり社会秩序の頂点にある副王、総監罷免に出た。さすがに参事だけではなく、かなりの数の有力者を動員する「公開カビルド」で決議した。非常に重要なこれらの事件は、4月から9月までの短い間に相次いだ。道路は未発達、海路はまだ帆船の時代で、夫々の植民地人が相互に示し合わす時間的余裕は無い。広大且つ長大なスペイン植民地で、一斉に、ともいえる短期間で起きたことに驚く人は多い。この4人の復権は無かった。

  • 4月、カラカス(軍務総監府)で総監罷免。7月に召集された議会がイギリスに使節団派遣。ボリーバル*127歳)も参加、ミランダ(60歳)の故国復帰実現
  • 5月、ブエノスアイレス(副王府)でラプラタ副王罷免、自治政府樹立
  • 7月(20日。コロンビアの独立記念日)、ボゴタ(副王府)でヌエバグラナダ副王罷免。ナリーニョ*245歳)を指導者とする「クンディナマルカ共和国」独立宣言
  • 9月(16日。メキシコ独立記念日)、イダルゴ*357歳)が教区のドロレス村でスペインの圧政に抗議しメキシコ独立を呼びかけ(「ドロレスの叫び」)、反乱
  • 9月(18日。チリ独立記念日)、サンティアゴ(軍務総監府)で総監罷免、自治政府樹立

上記でメキシコだけが特異なことを見て頂きたい。副王罷免などの手順を踏まず、植民地人が民衆レベルで、ペルーのトゥパク・アマルー二世の乱にも似た動きで、武力独立革命をいきなり開始した。そのペルー共々、副王罷免の動きは起きなかった。

(2)最初の挫折

副王、総監追放後に樹立された自治政府自体は、ナポレオンに王位を簒奪されたフェルナンド七世に対し忠誠を示した上で、自治権を主張した。だが挫折する。その一つは副王領を版図とする管轄領域の分裂だ(ラプラタ、現コロンビア)。さらに、王党軍が攻撃を開始(ベネズエラ)した。まして、エリート植民地人の動きに繋がらなかったメキシコでの挫折はもっと早かった。1811の動きを基に3年間の動きを下記する。

① メキシコ18111月、副王軍がイダルゴ率いる反乱軍を撃破、彼は7月に処刑さ
  れる。独立闘争自体は、バヤドリード(現モレリア)のモレロス
*445歳)が
  引き継ぐ。
181311月、独立派代表をチルパンシンゴに招集し、独立を宣言。

② ラプラタ
  • 18115月(15日。パラグアイ独立記念日)、アスンシオンのカビルドがブエノスアイレス自治政府からの独立を宣言。自治政府(管轄は副王領全体)、現パラグアイへの実効支配喪失
  • 18115月、ウルグアイ。モンテビデオはラプラタ副王軍(王党軍)拠点。アルティガス*546歳)、「ピエドラの戦い」で副王軍を撃退、14年までに全ウルグアイ制圧
  • 18123月、サンマルティン*634歳)が参加、現アルゼンチンの王党派壊滅
  • 181311月、ボリビア。ペルー副王軍出動で、自治政府軍が撤収

③ ベネズエラ18117月(5日。ベネズエラ独立記念日)、独立(共和国樹立)宣
  言、これに対してプエルトリコ駐屯の本国軍が反独立派も含めた王党軍を組織、
  翌
127月までにミランダ指揮下の共和国軍を撃退。いわゆる第一次共和国、崩
  壊。ミランダはスペインに移送(後、獄死)、ボリーバルはキュラソー経由現コ
  ロンビア
のカリブ沿岸の町、カルタヘナに移動。18138月、カラカスに凱旋し
  いわゆる第二次共和国樹立

④ コロンビア181111月、ボゴタ地方を除く「ヌエバグラナダ諸州連合」結成。
  カリブ沿岸部を含む地方部が、クンディナマルカ共和国不参加を決定。諸州連合
  軍は上記ボリーバルのカラカス凱旋を支援

(3)第一回目の革命崩壊 

ヨーロッパにおける1814年のナポレオン失脚とフェルナンド七世のスペイン王位復帰で、1816年央までにラ米の独立革命は、ラプラタ(1814年にモンテビデオ副王軍壊滅)以外は、一旦全て崩壊する。一方で、フェルナンデス七世への忠誠は消滅した。

① ベネズエラ18146月、王党軍増強で第二次共和国は僅か1年足らずで崩壊

 コロンビア1814年、クンディナマルカ共和国の南部征討軍が王党軍に敗退しナ
  リーニョはスペイン移送。ベネズエラを脱出したボリーバルが、
181412月、諸
  州連合軍を率いボゴタ入城。事実上、クンディナマルカを諸州連合に統合させた
  が、翌
153月、1万人規模のスペイン本国軍が到来、彼はジャマイカに逃れる。  翌165月までに諸州連合は瓦解した。この間の18159月、彼は有名なジャマイ
  カからの手紙
を著す。独立後のラ米は、米国型ではなく立憲君主制に近い共和制
  を採用する構想を披瀝したものだ。


③ チリ181410月、「ランカグアの戦い」。ペルー副王軍が組織した王党軍がサ
  ンティアゴ制圧。独立派軍最高司令官、
オヒギンス
*736歳)らはラプラタに
  避難


④ メキシコ181410月。モレロスが「アパツィンガン憲法」(代表制、三権分立、
  全人種の法の前の平等)。だが翌
181511月、副王軍により逮捕され、翌12月に
  処刑された。以後独立革命は敗残部隊によるゲリラ戦に移る。


人名表:

*1ボリーバルSimón Bolívar1783-1830):ベネズエラ人。現コロンビア、ベ
   ネズエラ、エクアドル、ペルー及びボリビアを解放。南米の解放者として敬わ
   れる。

*2ナリーニョNariño, Antonio1765-1823):コロンビア。人権宣言をラ米に広
   めた。
1814年、王党軍に逮捕され、コロンビア解放時スペインで服役中だった。
*3イダルゴMiguel Hidalgo1753-1811):メキシコ。教区司祭。独立蜂起を呼
   びかけ、自ら武力闘争を指導。人種間戦争の色合いを強めるが、本人はクリオ
   ーリョ(白人)

*4モレロスJosé María Morelos1765-1815):メキシコ。メスティソの教区司
   祭。イダルゴ死後の独立闘争の指導者。独立後の国家形態を示した。

*5アルティガスJosé Gervasio Artigas1764-1850):ウルグアイ人。1814年、
   モンテビデオ開城を実現、翌年ラプラタ水域諸州及びコルドバとで彼を保護者
   とする「自由連邦同盟」として独立宣言。ブラジルに併合された後、
1820年に
   退場。「ウルグアイ独立の父」

*6サンマルティンJosé de San Martín1778-1850):スペイン人(アルゼンチ
   ン生まれ)。職業軍人で対ラプラタ副王軍戦に軍功。チリ解放。ペルー護国官
   として独立宣言

*7オヒギンスBernardo O’Higgins1778-1842):チリ人。父親はペルー副王に
   上り詰めたアイルランド系スペイン人。チリ独立革命の指導者

 
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