北米の独立革命の達成を1781年10月(ヨークタウンの戦いでの勝利)、として、ラ米のそれを年代順に纏めると;パラグアイ(1811年)、アルゼンチン(1816年)、チリ(1818年)、メキシコ及び中米連邦(1821年)、グランコロンビア及びブラジル(1822年)、ペルー(1824年)、ボリビア(1825年)となる。早いパラグアイですら北米から29年半遅れた。ボリビアは43年余りの遅れだ。キューバに至っては117年も遅れた。植民地支配体制も違えば先住民との関わり、更に国際環境も違う。アングロアメリカとラテンアメリカの違いを強調する必要は無い。性格が異なるのだ。
(1)ベクトルが正反対
前者は13州が結束して達成し、結束して一国家発展に進んだ。後者は副王領(ラプラタ、グランコロンビア、メキシコ、)、副王直轄領(ペルー)、総監領(チリ、中米連邦、キューバ)ごとに分かれて達成した。ここまでは植民地支配体制の違い、領域の規模の違い(前者は後者の一副王直轄領程度)、前者には無い後者の峻険な山岳や熱帯雨林(領域内交通を阻む)、前者では「保護区」に追放された先住民が、後者では重要な社会構成員で、混血も進んだこと、などで説明できよう。ところが、ラプラタはパラグアイ、ボリビア、そしてブラジルから独立したウルグアイに分かれ、残ったアルゼンチンを含め4ヵ国にもなった。グランコロンビアも3ヵ国に、中米連邦は5ヵ国に分かれた。これについては、個々の検証が必要だ。
(2)北米には存在しなかった「解放者」の活躍
- ボリーバル:ベネズエラ独立に留まらず、1819年8月(コロンビア)から1825年4月(ボリビア)までの5年半で、400万平方キロの領域を解放。1776年の独立宣言時の米国(東海岸の、フロリダを除く13州のみ)の面積に比べると倍以上で、足と馬と小船で駆け抜けた距離は、1819年だけで4千キロはあったそうだ。1810年4月のカラカス市会による軍務総監罷免と自治政府樹立にも関っており、独立革命への参加歴は15年にも及ぶ。
- サンマルティン:アルゼンチンでの貢献に留まらず、1818年4月にチリを解放、1821年7月、ペルーに独立宣言をもたらした(これがボリーバルによる1824年のペルー、及び1825年のボリビア解放に繋がった)。これは、ラプラタ領内のボリビア回復のためペルー副王領とサンティアゴ総監領をも解放する、という彼自身の壮大な構想に依った。1812年3月にアルゼンチン入りから、南米から退場する1823年まで、独立革命の参加期間は11年間
(3)独立を支援した二つの国
北米の独立革命には、イギリスの宿敵、フランスが国家として援軍を送った。王室が同じブルボン朝のスペインも協力した。ラ米独立革命の先駆者、ミランダも、スペイン軍で参加している。これに対し、スペイン植民地独立には二ヵ国が、異なった形で支援を行った。
- イギリス人が義勇兵として参加。つまり、国家としての支援ではない。ラ米独立革命史上、有名なコクラン(Thomas Alexander Cochrane、1775-1860)は、チリ独立革命家のオヒギンスがイギリス海軍での軍歴を評価、チリ海軍司令官として招請した人だが、実際にはサンマルティンのペルー進撃支援と、その後、ブラジル海軍を指揮、ペドロ一世によってマラニョン侯爵に列せられたことが知られる。帰国後父親の伯爵位を相続したイギリス貴族でもある。
- 米国が国家として介入。キューバは1868年からの第一次独立戦争(〜1878年)後、独立派の多くが、ニューヨークを拠点とした活動を行っており、マルティがキューバ革命党を結成したのも同地である。1895年に彼が始めた第二次独立戦争の3年目で、米国が「米西戦争」の形で、国家として参入した結果、その保護国の形で独立した。キューバに「ラフライダーズ」を率いて参戦し軍功を挙げたセオドア・ルーズベルト(Theodore Roosevelt、1858-1919)は、大統領になった。彼の政権時代、パナマのコロンビアからの分離独立を支援、米国は運河権益を得た。
(4)カウディーリョの輩出
スペイン植民地の独立戦争は、休戦期間まで含めると、チリで8年、コロンビアで9年、ベネズエラで11年続いた。独立派軍と副王軍との戦争、というよりも、後者も大半は植民地人であり、要するに内戦だ。夥しい犠牲者を出し、国土は荒廃した。また、兵卒は被支配層である。彼らを統率する頭目的な指導者、カウディーリョが輩出、アルゼンチンやアンデス諸国では、彼ら同士の権力闘争が国家統合を遅らせている。北米でも独立のための戦争は、1775年4月(レキシントンとコンコードの戦い)から始めて6年半も続いているが、一旦独立すると国家統合は早かった。
(5)一旦植民地に戻った国の存在
ドミニカ共和国の独立は数奇な経緯を辿る。先ず、1804年に同じイスパニオラ島でフランス領の西側四分の一がハイチとして誕生、これのスペイン領への波及を防いだのはフランス軍で、スペインによる直接統治が再開されたのは、まさしくナポレオンによるスペイン王位簒奪直後のことだ。1821年、つまりベネズエラ解放の年、ボリーバルに付きたい独立派が反乱を起こし、これに乗じた形でハイチが併合した。1844年にハイチから独立したが、四半世紀も経たぬうちに、自ら(現実には当時の政権によって)請う形でスペイン植民地に戻った。独立した宗主国と、再植民地化の宗主国は異なるものの、独立→再植民地→再独立の例は、世界的に見ても極めて珍しい。
(6)大国ながら他とは異なる独立革命を行ったブラジルとメキシコ
十九世紀初頭、ラ米人口の半分を占めた二大国の独立革命は、かなりユニークだ。
- メキシコ:1810年9月にイダルゴが「ドロレスの叫び」で始めた大衆闘争を、モレロスが組織化し、理論化して引き継いだ。彼らはいずれも聖職者だが教会組織全体への影響力も無く、南米でのボリーバルの如く植民地人としてエリート層に属するわけでもなく、サンマルティンの如く軍事ノウハウも持っていない。副王軍に処刑され、早々と退場を余儀なくされた点も南米の二人と異なる。他国義勇兵などの独立支援もない。彼らの死後は独立派のゲリラ戦に移ったが、1821年の独立はクリオーリョ(植民地生まれの白人)の副王軍司令官、イトゥルビデが独立派との合意の上、無血で果たした。メキシコとは別に独立を宣言した中米を一旦吸収したが、直ぐ離脱された。独立後のカウディーリョ同士の権力闘争による混乱、は、他のラ米諸国と共通している。
- ブラジル:「ポルトガルからの独立」というよりも「ポルトガル・ブラジル連合王国からの分離」と言った方が正確だろう。ただ、この連合王国は、ナポレオン侵攻を背景とした避難措置でもあった。王室のブラジル移転は、イギリスが国家として支援した。ナポレオン失脚により国家体制を復活させたポルトガル王国は、ブラジルの再植民化に動いた。これがペドロ皇太子の「イピランガの叫び」に繋がった。上述のコクランが個人として独立を支援した。領域は、南米のほぼ半分に近い。旧スペイン領の南米は9ヵ国になったが、ブラジルは一ヵ国で纏まった。独立後も君主国として継続したことが、政権の正統性を巡る問題回避にも繋がった。
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