ラ米の白人


 ラテンアメリカとは、繰り返すが、アングロアメリカと比較した地理上の表現だ。だから、何もヨーロッパからの移住者が全てラテン民族、というわけではない。イギリス系もいればドイツ系、東欧系、中東系も多い。メスティソもムラートも、ラテン民族以外との混血であっても、立派にラテンアメリカ人である。別掲
ラ米の政権地図に現れる現在のラテン諸国大統領の殆どがラテン系だが、ラ米史を読むと、指導者の祖先の出身が多岐に亘ることに気がつく。
 ラ米の白人は、180年前は僅かに4百万(但し、キューバとドミニカ共和国を除く。アメリカ博物館)だった。今日約1.9億人、45倍にまで増えた計算になる。先住民が8倍増なので、その急増ぶりには目を瞠らされる。だが、メキシコ、ボリビア、ペルーは、全ラ米の先住民増加率と同じ8倍増だ。一方で、アルゼンチン(142倍)、ブラジル(117倍)の伸びは物凄い。ラ米は植民地時代と独立後とでは、地域的に劇的な社会変化をみたことが分かる。

(1) スペイン人とポルトガル人の到来

1494年の「トルデシリャス条約(別掲ラ米略史植民地時代参照)は、アフリカ西方約2,000キロの子午線をスペインとポルトガルの境界線と定めた。ローマ教皇の裁断である。概ね新世界(新大陸)アマゾン川河口から引かれた子午線に相当する。スペイン人はこの西側を、ポルトガル人は東側を植民化し、そして定住した。 

スペインの征服期は十五世紀末から十六世紀央にかかっている。この時期、イダルゴhidalgo。郷士と訳される)と、聖職者たちが到来した。先住民をスペイン国王の臣下に加え、キリスト教化するのが表向きの目的だった。イダルゴたちは征服後、エンコミエンダ制で事実上小領主化して定住し、自らも大農園を営み(労働力は先住民徴用や雇用による)、故国より一族郎党を呼び寄せた。その後行政、司法官僚が送り込まれた。いずれも多くが定住した。十六世紀では9割方が男性で、現地生まれの白人、クリオーリョcriollo)が急速に増えるのは十七世紀以降のことだ。本国から穀物などの種、ブドウなどの苗木、牛、馬、羊、鶏などを持ち込み農園、牧場を営む他、鉱山に出資した。先住民労働力が得られる地域に集中したのは自然だった。また、本国との交易ルート、カリブ地域には軍隊が派遣された。
 ブラジルは征服事業自体が無かった。植民も当初は大西洋沿岸部程度だった。ポルトガル王室が新領土を高位貴族に配分するカピタニア制を見直し、先住民教化を含め、直接植民地統治体制を整えたのは十六世紀央のことだ。砂糖生産を基幹産業に据え、労働力は奴隷化した先住民と黒人奴隷に依存し、自らは砂糖プランテーション主人として、また大土地所有者として、一族郎党を伴い定住した。十七世紀にオランダに東北部を占領された経験から、軍隊も充実した。

アメリカ博物館では1570年の白人人口を30万人とみる。この内、ブラジルは12万程度ではなかろうか。

(2) 植民地末期のクリオーリョたち

2.5世紀過ぎて、スペイン植民地の白人は320万、10倍強増えた。銀産地のメキシコ、ボリビア、ペルーだけで200万を超えたようだ。鉱山都市自体にインフラ整備のビジネスがあり、その周辺には大農園(アシエンダ)が広がり、軽工業も発達、運輸業も展開する。経済規模の拡大そのものがヨーロッパ人を呼び寄せ、クリオーリョに新たな機会をもたらした。労働力を提供するメスティソ、黒人奴隷、ムラート(後述)の増加がこれを支えた。クリオーリョには官職が開放され、軍隊にも登用されるようになっていた。
 
 ブラジルは、少なくとも
50倍増の90万にまでなった。バンデイラにより奥地踏査が進み、実効支配地域が、トルデシリャス条約による境界線を越え奥地に拡大したこと、金の発見、その後のコーヒー景気などが大きい。十八世紀に入ると、カリブ海域に出張るイギリス(ポルトガルとは同盟関係)への物資供給地にもなり、ブラジルの経済規模が拡大した。官職はクリオーリョに開放されていたが、十九世紀初頭に王室自体が官僚ごとリスボンからリオデジャネイロに移り、軍隊も一層強化されたことも影響した。

 なお、ブラジル南部からアルゼンチン、ウルグアイへと続く広大で肥沃、且つ気候が温暖な大草原、パンパは、米国のプレイリー同様、穀物と畜産に適している。だがスペイン人には先住民も過小で、鉱山も無い、宗主国からは遠隔の地だから魅力も少なかった。ポルトガル人にも同じだったようだ。

 
(3)ヨーロッパ産業革命とラ米への白人移住者の急増

独立革命後、ヨーロッパ先進国を見ると、産業革命による工業資材、及び国内農業停滞と需要増に対する食糧の供給先を求めていた。ラ米も注目された。鉄道と蒸気船による大量高速輸送の実現で、遠隔地にも可能性が高まった。海上交通の向上で、人的移動が容易になったことで、一大穀倉、牧畜地帯となり得るパンパを抱えた南米南部は移住希望者を引き付けた。だが、独立後の建国期はカウディーリョ(別掲カウディーリョたち参照)時代に当たり、落ち着かない状況では、移民は来たがらない。

ラ米新興国が安定を見る十九世紀後半に入ると、南米南部での鉄道敷設が始まった。農牧畜地帯は一気に広がった。それへの直接労働力だけでなく、港湾、建設、次には関連商業部門にも需要は一気に高まってきた。それまでのアングロアメリカ同様、年季労働者として先ず入り、契約完了後、新たな職を得て定住するヨーロッパ人移民が本格化した。アルゼンチンの場合、ロカ将軍(後の大統領)による「荒野の征服」(先住民を居留区に追放)など、アングロアメリカとよく似た展開もあった。冷凍技術の確立で牛肉輸出も可能となった。
 勿論、産業革命は南米南部(食糧、綿花、羊毛、皮革への需要)だけでなく、ラ米のもつ金属資源にも着目した。特にメキシコ、ペルー、ボリビア、チリの非鉄金属資源には欧米企業からの投資が急増した。だが、ヨーロッパ移民には繋がらなかった。独立が遅れたキューバには、砂糖の大市場たる米国を背後に抱える地理的メリットに引き寄せられ、二十世紀に入って殺到した。 

移民が殺到したのは寡頭勢力(大農園主や大商人のファミリー。概ね植民地時代に到来した)による、いわゆる寡頭支配(オリガキー)の時代だ。ところが、十九世紀終盤から新大陸に渡ったヨーロッパ移民は、労働者の権利意識をも持ち込んだ。ラ米全体として、後年、労組を支持基盤とし寡頭支配に対抗したポプリスタ(別掲ラ米のポピュリスト参照)の輩出を招くようになる。

 

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