ラ米の白人 |
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1494年の「トルデシリャス条約」(別掲ラ米略史の植民地時代参照)は、アフリカ西方約2,000キロの子午線をスペインとポルトガルの境界線と定めた。ローマ教皇の裁断である。概ね新世界(新大陸)アマゾン川河口から引かれた子午線に相当する。スペイン人はこの西側を、ポルトガル人は東側を植民化し、そして定住した。 スペインの征服期は十五世紀末から十六世紀央にかかっている。この時期、イダルゴ(hidalgo。郷士と訳される)と、聖職者たちが到来した。先住民をスペイン国王の臣下に加え、キリスト教化するのが表向きの目的だった。イダルゴたちは征服後、エンコミエンダ制で事実上小領主化して定住し、自らも大農園を営み(労働力は先住民徴用や雇用による)、故国より一族郎党を呼び寄せた。その後行政、司法官僚が送り込まれた。いずれも多くが定住した。十六世紀では9割方が男性で、現地生まれの白人、クリオーリョ(criollo)が急速に増えるのは十七世紀以降のことだ。本国から穀物などの種、ブドウなどの苗木、牛、馬、羊、鶏などを持ち込み農園、牧場を営む他、鉱山に出資した。先住民労働力が得られる地域に集中したのは自然だった。また、本国との交易ルート、カリブ地域には軍隊が派遣された。 アメリカ博物館では1570年の白人人口を30万人とみる。この内、ブラジルは1、2万程度ではなかろうか。 2.5世紀過ぎて、スペイン植民地の白人は320万、10倍強増えた。銀産地のメキシコ、ボリビア、ペルーだけで200万を超えたようだ。鉱山都市自体にインフラ整備のビジネスがあり、その周辺には大農園(アシエンダ)が広がり、軽工業も発達、運輸業も展開する。経済規模の拡大そのものがヨーロッパ人を呼び寄せ、クリオーリョに新たな機会をもたらした。労働力を提供するメスティソ、黒人奴隷、ムラート(後述)の増加がこれを支えた。クリオーリョには官職が開放され、軍隊にも登用されるようになっていた。 独立革命後、ヨーロッパ先進国を見ると、産業革命による工業資材、及び国内農業停滞と需要増に対する食糧の供給先を求めていた。ラ米も注目された。鉄道と蒸気船による大量高速輸送の実現で、遠隔地にも可能性が高まった。海上交通の向上で、人的移動が容易になったことで、一大穀倉、牧畜地帯となり得るパンパを抱えた南米南部は移住希望者を引き付けた。だが、独立後の建国期はカウディーリョ(別掲カウディーリョたち参照)時代に当たり、落ち着かない状況では、移民は来たがらない。 ラ米新興国が安定を見る十九世紀後半に入ると、南米南部での鉄道敷設が始まった。農牧畜地帯は一気に広がった。それへの直接労働力だけでなく、港湾、建設、次には関連商業部門にも需要は一気に高まってきた。それまでのアングロアメリカ同様、年季労働者として先ず入り、契約完了後、新たな職を得て定住するヨーロッパ人移民が本格化した。アルゼンチンの場合、ロカ将軍(後の大統領)による「荒野の征服」(先住民を居留区に追放)など、アングロアメリカとよく似た展開もあった。冷凍技術の確立で牛肉輸出も可能となった。 移民が殺到したのは寡頭勢力(大農園主や大商人のファミリー。概ね植民地時代に到来した)による、いわゆる寡頭支配(オリガキー)の時代だ。ところが、十九世紀終盤から新大陸に渡ったヨーロッパ移民は、労働者の権利意識をも持ち込んだ。ラ米全体として、後年、労組を支持基盤とし寡頭支配に対抗したポプリスタ(別掲ラ米のポピュリスト参照)の輩出を招くようになる。
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