1968年10月のペルーのベラスコ(*1)将軍によるクーデターと、70年10月のチリ大統領選のアジェンデ(*2)勝利は、実施された政策が社会革命に匹敵するものだった。いずれも内戦を経ていないが、背景や政策内容、及び結末を述べておきたい。
米国のケネディ大統領が提唱した「進歩のための同盟」に関しては、ペルーのベラウンデ・テリー(*3)、チリのフレイ(*4)両政権でも農地改革に臨んだ。前者は1964年5月に制定した農地改革法で、対象を山岳部、高地に限定した。そこは先住民による農園不法占拠が活発化しておりいるところであり、その反乱抑圧から始めねばならなかった。軍隊が投入され、約8千人の農民が死亡した、とされる。後者の農地改革法制定は67年7月、と遅れ、且つ規模が小さかった。
(1)ペルーのベラスコ軍政
1968年8月、ベラウンデ・テリー政権は米国の石油会社、IPC社と「タララ協定」を締結した。大雑把に言えば下記のような内容だ。
- 国営製油会社Petroperuの鉱区所有権と経営権を認める。
- 但し、アマゾン地域の新油田開発権を付与する。
- Petroperuは原油を全てIPCのペルー国内タララ製油所に売却する。
この協定では原油取引価格の部分が隠されており、その中身は売国的である、との非難が高まる。ペルー国民の資源ナショナリズムを刺激する事件だった。実は、この当時石油及び鉄鋼原料(100%)、銅(80%)、銀行(60%)など、主要産業への外資比率が極端に高く、外国資本による経済支配、乃至外国依存型経済を余儀なくされていた。同年10月、ベラスコ将軍指揮下の軍部が、ベラウンデ政権打倒に立ち上がった。クーデターの背景には、先住民の農民反乱で抑圧に駆り出された兵士らの反発もあった、とされる。その後のベラスコ政治は、極めて革命的である。
- 1969年2月、IPCの資産を接収、Petroperuに吸収(外資系石油会社の国有化)
- 69年6月、新たな農地改革法を公布、大規模農地を接収し協同組合に再分配。寡頭勢力を解体させた、と言われるほどで、接収面積は900万㌶という。
- 70年9月、工業一般法公布、金属、化学、資本財製造は国営企業を原則化
- 70年12月、国営鉱山会社Mineroperuを設立。鉱業の国営化を推進
- 71年3月、漁業一般法公布、大規模漁業は国営化を原則化
- 71年6月、「SINAMOS(国家動員機構)」発足。政府と農民・労働者・一般民衆との直結を図る。一種の協同組合国家化を志向
- 72年6月、対キューバ復交(下記アジェンデ政権下のチリの70年11月に次ぐ)
砂糖産業、銀行、通信部門の外資も接収された。ただ米企業については、1974年までに賠償額での合意をみたことで、米国政府は国際金融機関(世銀、米州開発銀行)による対ペルー支援への拒否発動は控えた。ベラスコ政権は自らを、「社会主義ではなく社会民主主義」政権と性格づけていた。ただ社会主義圏との関係改善を進めたことで米国の不快感は高かった。また軍政で一般的な言論界への統制強化(新聞、TV・ラジオ局が政府管轄に置く)は、ベラスコ政権も例外ではなかった。一方で、後年のチリやアルゼンチンなどのような人権侵害は、報告されていない。
ベラスコ政権の施策は、結果的には国民の所得上昇で消費が増えたが農業生産はこれに追い着かずモノ不足とインフレを呼び込んだ。1975年2月、首都警察が給与改善を求めストに入った。これはリマ市内の暴動に発展、制圧に軍を出動させたこともあり、流血を見た。同年8月ベラスコが失脚、ペルーは民政復帰に動き出し、80年、ベラウンデ・テリーが復権を果たす。
(2)チリのアジェンデ政権
1956年、アジェンデが指導する社会党と、当時非合法だった共産党が「人民同盟革命戦線(FRAP、以下同)」を結成した。翌57年、フレイにより中道右派傾向の強い「キリスト教民主党PDC」が創設された。いずれも58年の大統領選に出馬し二人とも敗退したが、フレイは次の64年で勝利した。
1969年、FRAPにPDCの一部などが合流して「人民連合(Unión Popular、UP)」(以下UP)が結成され、アジェンデを70年の大統領選に担ぎ出した。第一次選挙で自党候補が三位だったPDCが、決選ではアジェンデ支持に回り、彼が当選した。世界は、「民主的手続きを採った社会主義政権の誕生」、とも、「チリの実験」とも呼び、この結果に注目した。彼の実施した政策を見ると;
- キューバとの国交回復(即時)。国交を維持していたメキシコを除くと、ラ米諸国で複交第一号となる。
- 最低賃金引き上げと必要物資の価格凍結、医療費減免などの社会福祉政策(即時)
- 企業国有化政策の推進。70年、繊維、金属分野を1社ずつ、71年、銀行の大半、繊維5社、セメント、石炭、硝石、銅鉱山(無償接収)
- 農地改革の深化(71年末までの1年間で、フレイ前政権6年分を超す)
と、確かに社会主義的ではあるが、説明を要しよう。
農地改革は、単にフレイ前政権下の法律の運用を厳格化しただけだ。外資系資源産業の国有化自体は資源ナショナリズムが強かった当時のラ米では目新しくはない。銅産業については、前政権も「チリ化」対象として試みており、アジェンデ政権もUPが少数与党の議会の承認を得ている。ただそれまでの利潤を補償価格から差し引く「利潤調整」の結果、無償接収としたことが、対象企業のみならず米国政府から強硬な反発を受け、以後米輸銀の対チリ信用供与を停止し、加えて、米国の要請で米州開発銀行(IDB)と世銀の借款も止まった。
必要物資の価格凍結は、必然的に物資欠乏をもたらす。小売業者や運輸業のストがこれを加速させた。経済はマヒ状態に陥った。労働者優遇政策は財政赤字を膨張させる。結果は、この国では前代未聞と言われた三桁インフレだ。当然、社会不安が高まる。
1973年9月11日、ピノチェト(*5)総司令官率いる軍部が、アジェンデ政権転覆のクーデターを決行した。空軍機が大統領官邸を襲撃、この中でアジェンデは自殺している。ピノチェトは当時既に59歳、陸軍の中で順調に昇進を重ねてきた円熟した軍人であり、アジェンデ政権最後の1ヵ月は国防相、つまり政権内部の人だった。
直ちに発足した軍政の課題は、先ず国内秩序回復だ。憲法を停止し、戒厳令を敷き、政党活動を禁止、議会を解散させた。UP政権側の主要人物と見做された人、その支援団体のメンバー、左翼運動家や武装労働者組織のメンバーなどを逮捕、追放、投獄、或いは拷問にかけた。2006年に大統領になったバチェレもその内の一人だ。国立競技場など即席の強制収容所で拷問を受けたり虐殺されたりした。アジェンデ政権の施策は殆どが否定された。だが、銅産業国営化は引き継がれた。対キューバ国交を再び断絶した。
経済立て直しも重要課題だった。ピノチェト軍政は社会主義とは対極にある市場主義経済(米国シカゴ大学のフリードマンが唱え、シカゴ学派と呼ばれ、世界的にはまだ経済理論としては黎明期にあった)を志向、経済官僚として同理論の信奉者(「シカゴ・ボーイズと呼んだ」)を任用する。ショック療法で一時恐慌を来たしたが、社会不安は強権で押さえた。その内に順調な経済成長をみるようになり、民政移管後発足し、その後20年間続いた中道左派政権も、経済政策はピノチェト路線を引き継いでいる。
人名表
(*1) ベラスコ(Juan Velasco Alvarado、1910-77):1968年のペルー・クーデタ
ー指導者。ラ米軍政で左派路線を採った初めての最高権力者として知られる。
(*2) アジェンデ(Salvador Allende、1908-73):チリ社会党創設に参加。大統領
(1970-73)。選挙で社会主義政権を発足させた人、として世界の注目を集めた。
(*3) ベラウンデ・テリー(Fernando
Belaúnde Terry、1912-2002):ペルー。大統
領(1963-68、80-85)
(*4) フレイ(Eduardo Frei、1911-82):チリ。キリスト教民主党創設者。大統
領(1964-70)。死後、息フレイ・モンタルバも大統領(1994-2000)になった。
(*5) ピノチェト(Augusto Pinochet、1915-2006):1973年のチリ・クーデター指
導者で、16年間に及ぶ軍政の唯一の最高権力者。市場主義経済を根付かせる。
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