1979年7月に成立したニカラグア革命を「サンディニスタ革命」と呼ぶことがある。ゲリラ組織、「サンディニスタ民族解放戦線(FSLN)」による革命、との性格付けからだ。だが実態は、同じくゲリラ闘争の末に成立したキューバ革命とは、反独裁、と言う点を除くと似て非なるものだ。
(1) ソモサ家支配の流れ
1936年の事実上のクーデターを成し遂げたソモサ(*1)は、狙撃され死去するまでの20年間、ニカラグアの最高権力者だった。彼の死後、長男ルイス・ソモサ(*2)が彼を引き継ぎ、長男を次男のソモサ・デバイレ(*3。父と同名であり、区別するため、父は「タチョ」、次男は「タチート」と呼ばれる)が引き継いだ。革命成立までの43年もの間、ニカラグアはソモサ家支配体制下にあった。
タチョとタチートは二人とも国家警備隊総司令官を務めた。国家警備隊とは、駐留米軍がニカラグアを実質的に統治していた時代(1912-33年)に、米軍により再編成された国軍だ。米軍統治時代の末期、反米ゲリラ闘争を率いていた人がサンディーノ(*4)である。
(2) 反ソモサの二つの流れ
タチョの時代から、「保守党」などが公認野党として存在した。「ラ・プレンサ」という新聞社がソモサ批判の論陣を張っていたが、その社主がチャモロ(*5)で、独立以来4人も大統領を出しているチャモロ一族が保守党の中核だった。
1956年9月21日の「タチョ」狙撃(その後死去)事件のあおりで、チャモロが逮捕された。学生運動家で社会党員だったフォンセカ(*6)らも逮捕された。チャモロは自宅軟禁の刑を受けたが翌年亡命した。フォンセカは50日間の収監で釈放され、翌57年党訪ソ団の一員としてモスクワを訪れ、帰国時再び逮捕され、さらにその翌58年、恩赦で釈放される。チャモロは59年に帰国して一旦逮捕されたが、翌60年、恩赦で釈放されラ・プレンサ誌に復帰した。
フォンセカはその後も逮捕や国外追放処分を繰り返す。社会党からの除名後、1961年6月、「民族解放戦線(FLN)」という組織を立ち上げた。これがサンディーノに因んだ名称、FSLNに発展、63年ごろから小規模ながらゲリラ活動を開始、オルテガ(*7)らも参加するようになった。
1966年9月、反ソモサ家支配を訴える保守党から社会党までの政治勢力が「反対派国民連合(UNO)」を結成した。非合法ゲリラのFSLNは参加していない。
翌1967年1月、UNOがタチートに対抗する大統領選統一候補への支持を訴える大規模抗議デモを打った。これが国家警備隊出動、流血、指導者逮捕、UNO崩壊へと進む。その中に、チャモロと、この頃左派政治勢力の中で頭角を現しつつあったパストラ(*8)らがいた。夫々、タチートの大統領選勝利の恩赦で釈放され、パストラはFSLNに参加した。FSLNの活動が目立つようになるのはこの頃で、オルテガは逮捕された。
(3) 革命前夜
1972年12月、首都マナグアをマグニチュード6.3の大地震が襲った。国際援助が寄せられたが、チャモロはラ・プレンサ誌で、これに関わるソモサ家収賄疑惑を追及した。その後、チャモロの主導で、保守党から社会党に至る野党や労組までを糾合する政治団体、「自由民主連合(UDEL)」が結成された。FSLNは参加していない。74年7月の大統領選でUDEL候補者を一本化した。だが、これに出馬したタチートは、難なく再選される。半年後、FSLNが新閣僚主催の祝宴会場を襲撃した。その際に取った人質の解放による交換条件として釈放されたオルテガが、以後民主運動グループとの連携を唱える「テルセリスタ(第三の道派)」を率い、頭角を現すようになる。
1976年8月、FSLN創設者のフォンセカが戦死した。翌77年10月、反ソモサ活動の指導者12人が亡命先のコスタリカで「ドセ(12人会)」を結成した。著名な学者、ビジネスマン、作家、聖職者がメンバーだった。「ドセ」は、反ソモサ運動におけるFSLNとの連携を模索した。
1978年1月、チャモロが暗殺された。抗議デモなど国内が騒然としてきた。この頃よりFSLNが各地で武力行動を活発化させ、内戦状態に入る。前年に発足した米国のカーター政権は、対ニカラグア政府武力支援を凍結した。
同1978年5月、「反対派拡大戦線(FAO)」が結成された。上述のUDELに企業家評議会と「ドセ」が加わったものだ。FSLNが「ドセ」を通じ間接的にFAOに繋がった。78年8月、「コマンダンテ・セロ」ことパストラ指揮下の「テルセリスタ」ゲリラが、国会議事堂占拠事件(議員、国会職員などを人質とする)を起こし、国際的耳目を集めた。大司教の調停により3日ほどで決着したが、内戦状態は続く。
(4) 革命の成立
1979年6月、国内ではFAOがゼネストを打ち、コスタリカでは5人から成る「国家再建評議会」が結成された。評議会は、多党制、普通選挙による民主主義、政治思想の自由を宣言する。チャモロの未亡人、ビオレタ(*9)とオルテガが評議会メンバーに入りFSLNがFAOと直接繋がった。翌7月、「タチート」らの出国、国家警備隊の降伏、FSLN軍の首都入城を以て「ニカラグア革命」が成立した。発足した再建評議会議長にオルテガが就任した。国家警備隊は解体され、国軍としてはサンディニスタ人民軍がFSLN主導で編成された。初期の政策では;
- ソモサ系企業の接収
- 銀行国有化と主要輸出産品の輸出事業国営化
- 非同盟諸国会議への参加
- キューバとの国交回復。この時点で対キューバ国交を持つのは、ラ米諸国は他にはメキシコなど7ヵ国、内中米はコスタリカ(但し2年後再断交)とパナマのみ
などがある。ソ連とも外交関係を樹立した。次第に左傾化し親キューバ路線が強まってくる。80年4月、ビオレタは再建評議員を辞任した。7月の革命式典にキューバのカストロ議長が招かれ、同国からの医師団、教師、軍事顧問団受け入れが始まる。米国が警戒を高める。
(5) 中米危機を経て
1982年3月、隣国ホンジュラスに反政府軍事拠点を築いていた旧国家警備隊軍人らニカラグアの「コントラ」(反革命組織)が、武力行動を開始した。一方で、革命政府側からも、国防次官になっていたパストラが辞任し、コスタリカで反政府軍事組織を結成する。こうして攻守を変えた内戦に突入した。
エルサルバドルとグァテマラも内戦に入っており、これにホンジュラスとコスタリカが巻き込まれる「中米危機」(別掲「軍政とゲリラ戦争」のゲリラ戦争参照)を来たした。だがいわゆる混合経済では、それまで社会革命を起こした他ラ米諸国と比べ、農地改革は遥かに緩やかであり、外資系企業の接収もなく且つ複数政党制は尊重され、1984年11月には総選挙も行われた。それでも、内戦は総選挙後も続いた。
1987年後半、ニカラグア国内で大司教を含む「国民和解委員会」が結成され、翌88年3月、政府・コントラ間「サポア停戦合意」が成り、事実上内戦は終った。90年2月、国連の選挙監視団が見守る中、総選挙が実施され、広範囲の政党が組成した新たな「反対派国民連合(UNO)」が推すビオレタが55%の得票でオルテガを破った。政権引継ぎはスムーズに行われた。
人名表
(*1)サンディーノ(Augusto César Sandino、1895-1934):1926年の米軍再進駐
に抗議し33年米軍撤退までゲリラ闘争を率いた。国家警備隊により暗殺
(*2)ソモサ「タチョ」(Anastasio Somoza García、1896-56):国家警備隊長官
として1936年に事実上のクーデター率いる。以後、自身暗殺まで最高権力者
(*3)ルイス・ソモサ(Luis Somoza Debayle、1922-67):「タチョ」長男。ソモ
サ家支配二代目
(*4)ソモサ「タチート」(Anastasio Somosa Debayle、1925-80):「タチョ」次
男。ソモサ家支配三代目。革命後亡命先パラグアイで暗殺される。
(*5)チャモロ(Pedro Joaquín Chamorro、1924-78):反ソモサ論陣を張った新
聞社主。抵抗勢力の象徴的存在で、彼が暗殺されてから革命が急展開
(*6)フォンセカ(Carlos Fonseca Amador、1936-76):左翼運動家。FSLN創設者
(*7)オルテガ(Daniel Ortega Saavedra、1945~):FSLN指導者。革命後1990
年まで政権を担う。2007年より二度目の大統領
(*8)パストラ(Edén
Atanacio Pastora Gómez、1937~):オルテガと共に革命に
参加、後にFSLNを離脱し反革命武力闘争に従事、通称「コマンダンテ・セロ」
(*9)ビオレタ・デ・チャモロ(Violeta Barrios de
Chamorro、1929~):暗殺さ
れた上記チャモロの未亡人。ラ米史上初めての民選女性大統領(1990-97)
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