キューバ革命

 
 19537月、カストロ*1ら、165名の反バティスタ*2)独裁を訴えるグループが、サンティアゴ市にあるモンカダ兵営を襲撃した。メンバーの多くが反撃の銃で死亡し、そうでないものは逮捕、収監された。これが革命勃発日となる。メキシコ革命はマデロの「サンルイスポトシ綱領」から始まったが、キューバではいきなり武力攻撃だった。逮捕され、裁判にかけられたカストロが、弁護士の資格で自らの弁護にあたり、政治腐敗を質し、国民の政治的自由の回復と経済の独立性確保を訴え、同年10月の有罪判決後、「歴史が無罪を宣告する」と叫び、一躍有名になった。獄中、これに工業化、土地改革、完全雇用、教育近代化などを加筆、体系化し、仲間を通じて流布させた。以後のキューバ革命の理論的支柱になる。54年末、バティスタは、自らの正統性を確保するため大統領選挙を実施、無競争で選任された。555月、その恩赦によって釈放されたカストロは、ほどなくして弟ラウル*3)らと共にメキシコに亡命、ここで726日運動(以下M7.26)」の活動を開始した。上記の兵営襲撃日に因んだものだ。


(1) 革命前夜

ここに至った直接の原因は、19523月、バティスタによる再クーデターだ。第一回目は18年余り前の341月だった。前338月のゼネストでマチャード(*4)大統領が退陣、亡命、翌9月、グラウ・サンマルティン*5ハバナ大学教授を首班とする革命政府が樹立される。「33年革命」とも呼ぶ。革命政権は米国企業所有の一部砂糖工場を接収、農地の分配、キューバ人以外の労働者への規制、など、民族主義的な政策を実行した。これを転覆したものだ。同年5月、フランクリン・ルーズベルト米政権は、バティスタ支配下の新政権に対して、キューバの米国保護権を規定した「ブラット修正条項」の撤廃を認め、保護国地位からの脱却を実現させた。1月のクーデターには米国政府による何らかの意向があった、と見るのが常識のようだ。

 194010月、新憲法が公布された。メキシコの1917年憲法をモデルとし、普通選挙や国民投票制度を規定、労働者保護条項も採り入れた、当時としてはかなり進歩的な憲法だった。グラウ・サンマルティンが亡命から帰国し、「キューバ真正革命党」(通称Auténtico34年に結成)から大統領選に臨み、40年はバティスタに敗れたものの、44年には勝利する。48年にも同党から出馬した候補が勝ち、8年間にわたる「Auténtico」政権時代をみた。スキャンダルも起き、「33年革命」からの落差の大きさに失望する国民も多かった、という。嫌気した党員チバス*6)が47年に離党し「キューバ人民党」(通称Ortodoxo)を結成、翌年の大統領選に出馬して破れた後、「Auténtico」政権腐敗への批判を繰り返し、51年にはラジオ番組出演中に自殺するという衝撃的な経緯を辿った。バティスタの再クーデターが起きたのはその翌年の、総選挙を間近に控えた時点のことだ。当時25歳の弁護士カストロはそのチバスの「Ortodoxo」から国会議員に立候補していた。

キューバは、1952段階で砂糖産業が国民総生産の3割、総輸出の8割を占める後進的な経済構造ではあっても、革命時のメキシコやボリビアと異なり、都市人口が全体の56%を占め、国民の識字率は80%を超え、給与所得が国内総生産の65%、という先進国だった(History of Latin AmericaWilliamson1992Penguin BookP444)。経済全般に亘って米国の影響力は強大で、一方では政治意識の高い都市中間層が多く、ハバナ大学で民族主義傾向の強い学生が政治運動に突き進んでいた。34年からの10年間独裁を敷いた軍人バティスタの復権は、容認できるものではなかった。

(2) 「7.26運動」ゲリラの活動

 195612月、カストロ兄弟やチェ・ゲバラ*7)ら82名の革命戦士が、メキシコから「グランマ号」という名の船でキューバの南部の海岸に辿り着いた。裏切りにあって襲撃を受け、このうちの12名だけがシエラ・マエストラ山岳地帯に逃げ込んで、そこを拠点としてゲリラ活動を始めた。ボリビア革命のMNRと異なり、M7.26はゲリラとして革命運動を遂行した。この時点ではキューバ国内に幾つかあった反バティスタ運動の一つに過ぎない。ゲリラとしての勢力拡大も大した進展を見せない。有名になるのは、先ずは米国で、だった。
 1957年、M7.26ゲリラの初期段階に、米人ジャーナリストのヒューバート・マシューがシエラ・マエストラに入ってカストロにインタヴューを行い、「シエラからの報告」としてニューヨークタイムズ紙で連載した。カストロらM7.26の若い指導者らが、「圧政者と戦うロマンティックな革命運動家たち」として米国民に知れ渡り、好感を得た。583月、国内世論に配慮した米国政府は、バティスタ政府への武器禁輸を決めた。同年8月までにキューバ島の南東部全体を制圧、この勢いで反バティスタ勢力を糾合し一大反乱軍を築き上げる。カストロが反バティスタ勢力の指導者として、全国的認知を得るようになる。同年12月末、バティスタがトルヒーヨ支配下のドミニカ共和国に逃亡した。翌5911日、反乱軍が首都入城を果たし、革命が成立した。

(3)革命政府の政策と対米軋轢

 発足した革命政府を、米国政府も承認した。態度を変化させたのは下記施策による。

  • 「農地改革法」595月)。キューバ人所有者からは400㌶相当(63年に57㌶相当に改訂)を超える部分を、外人所有者からは全部を有償接収し、共同農場に再編する、というもの。米国企業所有の土地接収に対して、米国政府が抗議
  • バティスタ政権下の要人を「人民裁判」にかけ、処刑。非人道性が非難される。
  • 対ソ二国間貿易協定を締結(602月、キューバ訪問のソ連副首相による)。ソ連産原油精製を拒む米系石油会社を接収。米国はこの措置への報復として砂糖引取量を削減
  • 米企業所有の電力、電話、砂糖、ニッケルなどの企業を国有化。上記への報復

 19613月、米国のケネディ新大統領が提唱した「進歩のための同盟」は、ラ米の貧困解消を狙ったものだ。キューバ革命を惹き起こした深層部分には貧困が有る、との発想が元にあり、革命が他のラ米諸国に伝播するのを防ぐための施策だった。具体的には巨額資金を要する社会インフラ整備に取り組もう、とするもので、その一環として農地改革も提起された。

 同年翌4月、亡命キューバ人による武力侵攻作戦、「ピッグズ湾事件」でキューバ側の戦利品に中に撃墜した米軍機があった。対米勝利のイメージが膨らみ、弱冠35歳のカストロが、国内外の知名度を大きく高めることになる。翌5月、カストロがキューバ革命を「社会主義革命」とする旨の宣言を行い、同年12月、自らを「マルクス・レーニン主義者」と言明する。米国は、歴史的「裏庭」に、東西冷戦の仮想敵国、ソ連の軍事、経済影響力を扶植してしまった。ラ米各地でキューバ革命に共鳴する左翼ゲリラ組織が誕生するのも、概ねこの事件の後だ。

(4) 米州内孤立化を経て

 19621月、米国のイニシアティヴによって、米州機構(OAS)がキューバを除名した。同年9月、キューバがソ連と武器援助協定を締結した。翌10月、米国のスパイ衛星により、米国全土を射程に収めるソ連の核ミサイルがキューバに存在することが証明された。同月22日、ケネディ米大統領はキューバ向け武器輸送船全ての航路封鎖を命じ、ソ連にキューバのミサイル全てを撤去するよう要求した。実行しない場合は、核戦争を辞さない、とまで言い切る。世界を震撼させた、世界史上有名な「キューバ危機」である。時間的にも猶予の無い、一発触発の状況に至ったことから、こう呼ぶ。

キューバ革命がラ米にもたらしたインパクトについては、別掲「ラ米略史」革命と軍政の時代及び「軍政とゲリラ戦争」ラ米の軍政時代を参照願うが、キューバ自身は1965年にM7.26が旧共産党を合併する形で現キューバ共産党を誕生させ、カストロが党の中央委員会政治局の第一書記に選ばれ、今日に至っている。
 経済政策面では、
1960年代はソ連・東欧圏とは一線を画した政策を推進していたが、70年代に産業多角化と工業化の必要性が再認識され、社会主義諸国間の生産分担システムが最善とし、726月、コメコン(社会主義経済相互援助会議)に加盟した。
 政治的には、
197512月になって初めてキューバ共産党の党大会が開催され、社会主義憲法草案を承認すると共に、カストロを、翌7612月、召集された「人民権力全国議会」が国家評議会議長(大統領に相当)に選出、漸くソ連型の共産党一党独裁による社会主義国家が誕生した。
 ラ米諸国はメキシコを除き
1965年までにキューバと断交していたが、70年代央になって主要国が軒並み国交を回復し始めた。米国はこの頃カーター政権下で制裁緩和措置も見られたが、2010年になっても国交は断絶したままである。キューバは91年にソ連が解体し資本主義化を進める中、ソ連型体制を維持し続ける。

 

人名表

*1カストロFidel Castro Ruz1926-):革命指導者。1959年より76年まで首
   相、76年より20082月まで国家評議会議長(国家元首)

*2バティスタFulgencio Batista1901-1973):「1933年革命」政権を転覆。
   1934-44
年の最高権力者。52年クーデターで
Auténtico政権転覆、以後独裁。

*3ラウル・カストロRaúl Castro Ruz1931-):カストロ実弟。革命に参加。
   2006
6月より082月までの代行期間を経て、現在国家評議会議長

*4マチャードGerardo Machado y Morales 1871-1939):独立革命世代最後
   の大統領(1925-33)。独裁化が進み、「1933年革命」で失脚

*5グラウ・サンマルティンRamón Grau San Martín1887-1969):ハバナ大
   学教授から真性革命党(
Auténtico)指導者になる。大統領(1944-48

*6チバスEduardo Chibás1907-51):Auténticoから腐敗を理由に離れ人民
   党(
Ortodoxo)を結成。ラジオ番組出演中に自殺

*7チェ・ゲバラErnesto Che Guevarra1928-1967):アルゼンチン人。革
   命の英雄。彼の「ゲバラ日記」は
1968年以降暫く、世界的に読まれていた。


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