1952年4月に成立したボリビア革命を担ったのは、その11年前に、パス・エステンソロ(*1。以下、パス)やシレス・スアソ(*2。上記シレス・レイェスの息)らが結成した政治団体、国民革命運動(MNR)と、8年前にレチン(*3)らが結成したボリビア鉱山労組連合(FSTMB)で、これに、MNRに同調する一部の国軍反政府グループと武器配給を受けた労働者、農民及び首都ラパスと鉱山都市のオルーロの一部市民勢力から成る民兵団が正規軍との市街戦に突入し正規軍を下して達成したものだ。
メキシコ革命と異なり実質3日間という短期内戦だった。正規軍が降伏したのは民兵団に呼応した国軍反政府グループ勢力が大きかったためだろう。パティーニョ、ホシルト及びアラマヨという三大錫財閥(「ロスカ(Rosca)」と呼ばれた)と大土地所有者層が、言うなればメキシコにおけるディアスであり、彼らが実質的に支配する社会構造の転覆が革命の目的、と考えれば分かり易い。
(1) 革命前のボリビアの状況
1904年10月、チリとの講和条約締結で、ボリビアは正式に内陸国になった。「太平洋戦争」(1879-84。別掲「ラ米の軍部と戦争」のラ米確立期の戦争参照)の結果、チリは硝石産地だった太平洋岸をボリビアから獲得していたが、それを正式に認めたものだ。前年の03年11月、ブラジルとの間でマデイラ川とパラグアイ川流域の領有権と引き換えに、ゴム産地のアクレ地方を割譲する「ペトロポリス条約」を締結していたが、これによって大西洋へのアクセス権は得ていた。以後錫輸出が急速に伸び、第一次世界大戦時には輸出全体に占めるシェアは6割にもなったといわれる。
1930年5月、世界恐慌(大恐慌)による国情不安でシレス・レイェス(*4。上記シレス・スアソの父)政権が、任期を半年残し、軍事クーデターで崩壊した。短期軍政を経て31年3月に発足したサラマンカ(*5)政権は、翌32年6月、チャコ地方を巡る領土紛争を理由にパラグアイに対して宣戦を布告、同国領への侵攻を開始した。「チャコ戦争」である(別掲「ラ米の軍部と戦争」の二十世紀の国家間戦争参照)。しかし事実上の敗北を喫し、国土はさらに縮小した。敗戦は既成政治支配層の無能と腐敗にあり、とした軍部による36年5月の新たなクーデターの後も、政情は混沌とした状況が続いた。
こんな中でMNRが結成された。綱領は英米資本との結託を理由にロスカを標的とする「反帝国主義」と、封建的、且つ半植民地的ラティフンディオ(大土地所有制)の打破を基本とした。鉱山国有化、及び労働者と農民の結集を呼び掛けたことで、結成時第二次世界大戦に参戦する米国は、これを協同組合国家志向のファシスト政党、と断定するようになった、と言われる。
MNRは、1942年12月にカタビ鉱山虐殺事件(カタビ鉱山の労働ストライキに警備兵が発砲、数百人が犠牲となる)への抗議行動で一躍有名になった。
1943年12月、ビジャロエル(*6)少佐の指揮する「祖国の大義(RADEPA)」と言う軍内グループがクーデターで政権を奪取した。MNRの影響を受けた彼の政権は、労働関連の法整備に注力した。レチンがFSTMBを結成するのもこの流れで見ることができる。第二次世界大戦後の金属価格低迷でボリビアは経済不況に見舞われ、政府への抗議運動が高まる。46年7月、ラパスで抗議行動が暴動に発展、武装した暴徒が大統領府を襲撃しビジャロエルを捕え公開処刑された。軍は出動しなかった。彼に近いパスは、亡命を余儀なくされた。
(2) 革命の勃発から成立まで
1951年5月、総選挙が行われた。亡命中のパスが当時の臨時大統領を下して大統領に当選した。だがほどなくして起きた事実上のクーデターにより、選挙結果そのものが無効となった。以後、シレス・スアソ、レチンらによる革命への工作が始まった。これに呼応する勢力に、軍事評議会の一部メンバーも加わった。これが翌52年4月9日の一斉蜂起に繋がり革命を成立させた。
1952年4月の革命成立後間もなく、アルゼンチンにいたパス(前年選挙で当選)が帰国し大統領に就任した。一気に実行された下記施策により、ラ米で同革命に次ぐ社会革命となる。
- 軍隊の解体的再編。旧国防軍幹部の粛清、規模縮小と新編成の民兵組織を活用
- 52年7月、普通選挙法制定。資産・識字要件を除外し且つ女性にも選挙権を付与
- 52年10月、三大錫財閥(ロスカ)の事業を国有化。鉱山経営に労働者が参加、また中央監督機関として鉱山省が創設され、鉱山労働者の代表が配置された。
- 労働省に工場労働者、公共事業省に鉄道労働者の代表を配置
- 強力な「ボリビア労働者連合(COB)」組成。レチンがCOB委員長のまま入閣
- 53年8月、農民への農地分配を定める農業改革法の制定
メキシコではマデロ政権発足後、温存されていた国軍のウエルタ司令官が政権を奪取した。その後大規模な内戦を来たし、異常な数の犠牲者を生んだ。MNRの革命では先ず軍隊を解体したことが革命後の不満勢力による内戦を封じた。
(3) 革命後の経済危機とクーデター
上記MNR政府施策実現には、COBの強い要求が反映されている。この傘下のFSTMBが革命成立に果たした役割の大きさを物語る。政府機関への労働者代表取り込みや鉱山国有化、及び農地改革は、明らかにメキシコ革命に倣ったもの、と言える。一方で、複数政党制による民主主義体制を保証する。なお婦人参政権を明文化したが、これはメキシコ(53年)に1年先行した。
革命後、鉱山も農地再分配後の農業も生産性が低下し経済そのものが悪化、貿易収支の大幅赤字と労働賃金引き上げによるハイパーインフレの進行などを来たした。
シレス・スアソ政権(1956-60)下、財政及び経済開発面での対米依存を高め、IMFの指導もあって緊縮財政に取り組み、労働者への補助も中止した。そうなると民兵組織による反政府行動が懸念される。政府としてはその対抗策として、軍部再建が避けられない。パス第二次政権(1960-64。憲法規定通り連続再選を求めず、第一次政権終了後退陣していた)は、国営企業の人員整理と賃金引き下げも断行した。かつ、国軍司令官のバリエントス(*7)を副大統領に起用した。
1964年11月、バリエントス副大統領自らの軍事クーデターでMNR政権が崩壊し軍政を来たす。18年後の民政復帰後、パス第三次政権(1985-89)を含め何度かMNR政権をみるが、革命政権の面影は亡くなった。この国の革命を「ボリビア革命1952-64」と呼ぶ人もいる。
人名表
(*1) パス・エステンソロ(Víctor Paz Estenssoro、1907-2001):MNR創設者。
革命家と言うよりもポプリスタとして知られる。大統領(1952-56、1960-64、
1985-89)
(*2) シレス・スアソ(Hernán Siles Suazo、1914-96):パスの同志。亡命中のパスに
代わり、52年内戦を指導。大統領(1956-60、1982-85)
(*3) レチン(Juan Lechín Oquendo、(1914 –2001):ボリビア労働運動のカリスマ的指
導者
(*4) シレス・レイェス(Hernando
Siles Reyes、1882-1942):1920年から16年間政
権を担った共和党創設者の一人。先住民保護で知られる。シレス・スアソの父。
大統領(1926-30)
(*5)
ビジャロエル(Gualberto Villarroel、1908-46):軍内民族主義グループの指
導者
(*6) サラマンカ(Daniel Salamanca、1863-35):チャコ戦争(1932-35)時の大統領
(*7) バリエントス(René Barientos、1919-69):1964年のクーデター実行者。暫
定大統領を経て民選大統領(1966-69)。農民層に人気有り
|