メキシコ革命 |
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メキシコ革命の発端は、1910年6月の大統領選にある。抗仏戦争(1862-67年)の英雄で79歳のディアス(*1。別掲「カウディーリョたち」の十九世紀末以降のカウディーリョ参照)に、36歳の大農園主マデロ(*2)が挑んだ。もともとメキシコ憲法では大統領の連続再選を禁じていた。ディアスは第一次政権(1876-80年)終了後は憲法に従い退任した。ところが1884年に再び大統領に当選すると憲法を改正し、以後連続再選を繰り返していた。マデロの立候補は、単に新旧交代を求めるものではなく、長期独裁の元になる連続再選の阻止にあった。これがディアス側には動乱煽動と捉えられ、マデロは選挙前に逮捕され、サンルイスポトシ市の刑務所に収監され、選挙でのディアス当選後、釈放された。「恩赦」による。 (1) 革命の勃発 マデロはテキサスに亡命し、1810年11月、同地で「サンルイスポトシ綱領」を発表した。ディアスを選出した大統領選挙は不正が有ったので無効、当面自分が臨時大統領に就き、反ディアス武装闘争に入る、というものだ。この日が革命勃発日になる。 1911年5月、彼はチワワ州の米国との国境の町、フアレス市に入り、ここに臨時政府を作った。これより前、米国が2万人の兵力を国境地帯に配備していた。実質的に臨時政府を後押しする行動といえる。ディアス政権を支えてきた勢力も彼に見切りをつけ、マデロ臨時政府と「フアレス協定」を結び、ディアス辞任と、やり直し選挙を取り決めた。その結果、同年10月、マデロが当選した。ディアスは辞任後、フランスに亡命し、4年後、85歳で死去した。 (2) マデロ政権 マデロ政権は、ディアス時代から変わっていない議会、行政府及び軍の上に成立していた。打ち出す政策は彼らにとっては急進的過ぎるし、一気に社会革命を目指す勢力にすれば物足りない。 1911年11月、先住民の多いモレロス州で強力な農民軍を組織し、マデロ革命の一翼を担ってきていたサパタ(*3)が、先住民への農地返還実施を求める「アヤラ綱領」を発し、反マデロ活動に踏み切った。革命当初よりマデロに従っていたビヤ(*4)は反乱軍追討に参加していたが、12年、連邦軍への命令不服従を理由に死刑宣告を受け、マデロにより禁固刑に減刑され、同年末に脱獄した。また、ディアスの甥を始め、ディアス政権時代の要人による反乱も起きる。 1913年2月、軍のメキシコ市駐屯部隊が決起し、収監されていた反乱軍指導者らを解放、以後軍司令官のウエルタ(*5)将軍自身がこれに合流し、最後にはマデロ大統領を逮捕、密殺する、という、メキシコ史上「悲劇の10日間」として知られるクーデターが起きた。メキシコ革命の特徴の一つが犠牲者の異常な多さ(人口1,500万人ほどの国で、150万、という、まともには信じられない数字が語られる)だが、血生臭い内戦はここから始まった、と言える。 (3)ウエルタ軍対護憲軍の内戦 1913年3月、マデロ密殺の翌月、彼の出身地、コアウイラ州知事を務めていたカランサ(*6)が「グァダルーペ綱領」を発し、「護憲軍」と名付けた反乱軍を組織した。ウエルタ政権は違憲である、これを廃することで、合憲政権に復帰しよう、という、単純なものだ。オブレゴン(*7)や、逃亡していたビヤらが呼応した。マデロと決別していたサパタも、反革命のウエルタ政権とは対立する。メキシコがほぼ全域にわたり、内乱状態になった。 1914年2月、後世に「タンピコ事件」として知られる事態が起きる。石油生産地で米人が多いタンピコに上陸した米軍の水兵が逮捕された。釈放はされたが、その際、米軍艦長が「星条旗への敬礼」をメキシコ当局に強要した、という事件だ。次に米国はベラクルスに大西洋艦隊を派遣、港と税関を占領した(14年4月~11月)。当時米国はメキシコへの武器禁輸政策を採っていたが、その監視を目的としたもの、という。この際に砲撃が加えられ数百人の死者が出た。当然、ウエルタ側のみならず、護憲軍側も米国を非難する。ただ結果としては、これが護憲軍への側面支援になる。関税収入と武器補給の道を閉ざされたウエルタ側には、大きなダメージだった。1914年7月、彼は政権を放棄し、国外に亡命した。翌8月、カランサがメキシコ市入城を果たした。 (4) 護憲軍内の抗争と内戦 1914年10月、アグアスカリエンテス市に護憲軍の司令官らが集合、会議を主導したビヤが、欠席していたサパタの「アヤラ綱領」の採択とカランサ政権の否認に動いた。オブレゴンは会議には出席したが、カランサ側に付いた。ビヤは12月早々サパタを首都に引き入れた。カランサはこれに先立ち、危険回避のため、米軍が撤退したばかりのベラクルスに暫定政府を移した。翌15年1月、その暫定政府が、未利用地の農地分配を記した農地改革を公表、続いて2月、労働立法を提示する。圧倒的多数の農民、労働者勢力を惹きつけるもので、ビヤとサパタの勢力は首都から撤収、同年5月、カランサ政府が首都に再入城、政治秩序を回復させた。なお、その前月、メキシコ市近くのセラヤというところで、オブレゴン軍とビヤ軍が交戦し、後者は潰走(セラヤの戦い)、その後米領域に逃れている。16年3月から17年1月にかけての米軍によるメキシコ展開は、米領内侵犯を理由としたビヤ軍掃討が目的だった、という。 1916年9月、カランサは制憲議会を招集した。結果、新憲法が、翌17年2月に公布された。同年3月、これに基づいた大統領選挙が実施され、カランサが新憲法下の初代大統領として選任された。この憲法では以下の項目が注目される。
彼の政権は、資源問題で、先ず対米関係で躓いた。米国投資家は、非鉄金属開発や、この頃急速に重要性を高めていた石油開発に投資していた。ところが、憲法は資源の国家帰属を明示した。米国投資家の権益問題が起きる。米国は憲法公布直前にメキシコに展開していた軍を撤収させていたが、資源問題を理由に対メキシコ断交に踏み切った。
1923年7月、ビヤが暗殺された。革命の英雄では、オブレゴンだけが残った。1923年8月、彼は米国と「ブカレリ合意」(米人所有地の国家接収に関わる補償、及び「1917年憲法」公布以前に取得した石油採掘権認定を記したもの)を取り決め対米国交回復も実現する。 1924年12月、オブレゴン政権で内相を務めていたカイェス(*8)に大統領を交代した。26年7月、宗教教育などに関わる犯罪への罰則や、聖職者の登録制などを定めた、いわゆる「カイェス法」が制定された。教会側の反発は強い。翌27年1月、「クリステロス」と呼ぶ信徒の一部がゲリラ戦に入った。28年3月、米国のカトリック教会による仲介で一旦収束したが、同年7月、オブレゴンが彼らの一人に殺害されている。なおカイェスも任期を全うした。 人名表 (*1)ディアス(Porfirio Díaz 1830-1915):35年間(1876-1911)最高権力者と
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