アドリブな日々 Back Number 2008
 

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  2008.12.15    僕は機械関係に疎いので未だにサッパリわかんないんですが、ケイタイ電話ありますよね。あれの電波っていったいどのようになってるんですかね。

 いや、理屈はわかります、なんとなく。電波塔とかから電波飛ぶんですよね。要はその電波ですよ、デンパ!

 家にある固定電話なら話は分かるんですー。市外局番からピポパすればそのエリア内の誰ソレさん家に一直線に電線を伝って呼び出しに行く訳でいわば行き先は一カ所ですよ。何の苦労もしてないです。

 でもケイタイの場合、例えばナベが友達に電話かけるとするじゃないですか。するとですよ、なんとナベ電波はご苦労様なことに日本全国を一気に友達探しの旅に出る訳ですよ。 

 四国の山の中とか、京都の清水寺とか、北海道の民家の裏側とか一気に日本中を旅するわけですな。しかもきっと電波は一本だけじゃないと思うので、電波友達を総動員しての大捜索です。

 よー、なあナンぺー、今度久しぶりに酒飲まへん〜?程度のどーでもいい用事の為に、福岡の下水管の中までナンぺーとやらを探しにいく電波君はなんかとっても誠実なイイ奴ではないですか。しかも一瞬ではありますが見知らぬ土地を旅する訳ですからなんか電波君の毎日は楽しそうですね。

 そう、こないだケイタイから電話をかけた時、相手が捕まる前のプップップッを聞きながら、ああ今俺の電波はご苦労さんにも日本中を駆けずり回ってるんたなあ、と思いましてね。無心に頑張っている目に見えない電波に対し、キミタチ、ありがとう!て気持ちになりましたね。

 さて、今年もあとわずかになって参りましたが、2008年は皆様にとってどのような一年でしたでしょうか。私にとっては今年も皆様に支えられて無事一年を過ごせましたことに、感謝の気持ちで一杯でございます。また来年も元気に楽しく皆様とともに歩んでまいりたいと思っております。

 今年も一年ありがとうございました!来年も皆様にとって、より素晴らしい年になりますよう心より願っております。 どうぞ良いお年を!!
 
     
 
  2008.12.01    わたしの思うオヤジの定義。

  ※ コンビニのレジのお姉ちゃんに心のハードルを感じる事なく親しげに話しかけられる。

  ※ 掃除のオバチャンや新聞の集金のオバチャンに話しかけられても動じる事なくゆるゆるの会話ができる。 

  ※ ちいさい子に話す時、「どら、おじちゃんが小遣いあげるわ」と嬉しそうに言える。 

  ※ 大相撲で小さい力士が大きい力士を負かした時、テレビの前で興奮して拍手する。 

  ※ 意味なく会話のあとに「ダッハッハッ」と笑いをつける。 

  ※ 男同士で群れる。

  ※ アンビリバボーのいい話編で涙ぐむ。

  ※ 比較論でよく「まだアナタは若いから〜」の前置詞がつく。

  ※ 女の子に対して「おっ、髪切った?可愛いね〜」と臆面もなく言えるのだが「切ってません」と切り返される。

  ※ お天気の良い日にお散歩することに生きてる幸せを実感する事ができる。

  ※ 農作業番組を見るのが好き。

  ※ NHKのど自慢をほほえましく見れるようになった。

  ※ イケメン、チョベリグ等々ハヤり言葉の使用期間が10年単位と長過ぎる。

  
 とまあいろいろと考えられるんですが、最近は自分でもオヤジ化が進んだなーとよく思いますね。いまのとこ全項目当てハマってます。あと

  ※ 一年過ぎるのがとてもとても早くなった、

 というのもあるのですが(だってもう12月ですよ!夏って今年ありましたかね?)これはどうもオヤジ限定ではなさそうなので。あとは、

 ※ 刺激的な生き方より平穏な暮らしより全般的にを好むようになりましたかね。あ、でも刺激物は好きですよ。カレーとか、キムチとか。(あーーーしょうもなしょうもなしょうもな!!!)

 という具合にこういうレベルEクラスの腐敗ギャグを大切な日記にワザワザ書いてしまい、しかも割に後悔してないあたりもヤバいですね。オヤジへと変態を遂げつつあるサナギ状態でしょうか?みなさんあんまり見たくないですよね。わざわざカラを破ってオヤジが誕生する瞬間なんかは。


 今回実はコワイ話を書く予定(実話)だったのですが、あまりの恐怖ゆえかその文章を下書きしている間、身辺にロクなことが起きなかったので、これはホンマにやばいのかな、と反省いたしまして、ほがらかにいこうと思い真逆のおハナシをしてしまいました。そうしたら今度は別の意味でコワい話になってしまいましたね。特に最後のオヤジギャグあたり、師走で身も心も大変な皆さんの心にダメージを残さなけれがよいのですが。頑張ってくださいね。
 
     
 
  2008.11.15    こないだ面白い本を買いました。その本とは「酷道を行く」。

 一般的に国道とは、交通量の多い何車線もある広い道を想像しますが、実は狭いニッポン以外に奥が深い!これって国道なの?と首を傾げたくなるような酷い道も実は国道として存在するんです。

 階段国道。。。だんだん狭くなってきたアヤシイ道が途中でイキナリ階段に変化! もちろんクルマはその先はいけません。国道というより登山道ですね。

 海上国道。。。海の上に国道のラインがありまして当然、地図上の国道なのですが、でも国の定める一級道です。見えない幻の道が海の上に延びてるようでちょっとフシギな道ですね。国道フェリーというネーミングがやっと解りました。

 あとは
 ※ 途中でトイレの建物の中を通過するトイレ国道(これもほぼ登山道)

 ※ イキナリ川が道の真ん中を横切る水没国道

 ※ 【堕ちたら死ぬ!】との標識が掲げられたガードレールも何もない死にたい人向けの崖っぷち必殺国道。。。。これみんな林道なんかでなく立派な国道です。


 ビックリしましたね。こんなにもバラエティー豊かなテキトー国道が先進国ニッポンに山ほどあるとは!しかもさらにグレードアップした【廃道をゆく】という新しい趣味のジャンルもあるらしい。

 アウトドアオタク派なべとしては廃線巡り以外に老後の楽しみができて嬉しい限りです。興味のある方、遭難覚悟でツアー組んで行きましょうよ!よろしくです〜。
 
     
 
  2008.11.01    こないだ久しぶりに渋谷から電車に乗りました。この路線は郊外に出るまでずっと地下鉄状態で
ひたすらトンネルなので、座れない時は先頭車両に乗って一番前に陣取り、前方のトンネルのうねり具合を見ながらの鉄男君状態で気を紛らわす事にしています。でも今回はとてもツラかった。。。

 今回も先頭車両に乗りはしたんですがでも残念ながら鉄男君ポジションはゲットできなかったので、仕方なく満員の人混みの中で揺られながら電車がトンネルを抜けるのをじっと待っていました。すると駅を通過するごとに壁を隔てて運転台の方から何やら叫び声が聞こえます。

 『◯▲◎♩◉ ーーッ!!ナンタラー!!』

 多分駅員さんがよくやってる指差し確認だと思われます。ただフツーの声の大きさで言えばいいのにその日の運転手さんは駅通過ごとにあまりに絶叫するんでなんて言ってるのか気になってきました。そうこうしてるうちにまわりのお客も気にする人が出てきて、となりのおにいさん二人連れがなんかボソボソと言い始めました。

 男A「なあ、なんか今日えらく気合入ってるよね!」  男B「おう、なんて言ってんの?」 男A「それがよく聞こえねーんだよ」

 駅通過。運転手『♪◯⇒▲◎□♩℃◉※ ーーッ!!ナントカー!!』

 男B「なあ、聞こえた?」男A「いや、わかんねー」 男B「なんて言ってんだろ」 男A「敵が現れた!!つったんじゃない?」

 またまた駅通過。運転手『ホンダラカンダラーーッ!!ウンタラー!!』

 男A「なあ、ホラ!きっと敵が多すぎて本部に救援要請したんじゃない?」  男B「ふうん。そうか、敵の攻撃をかわしつつ進んでるんだ。」 

 またまたまた駅通過。運転手『ホニャララフンダラーーッ!!ハラヒレー!!!!』

 男B「今のは?」 男A「今のは、もうやるっきゃない、て言ったんだよ」男B「いや。じゃなくて、オレならできる!って自分に対して気合入れたんじゃねーの?」

 そうしてるうちに電車は地上に出ました。お兄さん達も電車を降り、運転手も交代し、車内はホッと一息です。でもツラかったーー。なにがツラいって、満員電車のなかで、へんな話をむりやり聞かされグッと笑いをコラえるつらさときたら。運転手の絶叫がこれまたあまりに絶叫で。

 気を抜くと、ブブッて吹き出してしまうから、ニマッと笑いそうになる口元を強引にねじまげ、目はカッと見開き、眉間にシワをよせて、押し寄せる爆笑の大波に耐えるのってもう死にそうですよ。周りみんなシンとしてますからね。でも自分は腹筋はもうすでに笑ってますから揺れてますわねー。なんでカオは機嫌の悪い人みたいにして、ともすれば爆笑のツボに入ろう入ろうとする精神をグッと押さえつけるのって、もうツラいのなんの。。。

 東京の人ってアホくさい話をする人が多いような気がします。お笑いは関西とよく言うけれど関東もそれなりに奥が深いですな。

 PS, 前回の『串心』ですが、答えは『患』者専用のパーキングでした。みなさんも『串心』を探してみてくださいね。
 
     
 
  2008.10.15    最近、夏のイベント関係が一段落したせいか、すっかりゆるゆるのずるずるになってしまって、もう身も心もダルダルの感覚で日常をすごしております。そんなゆる〜い私なので、今回特記事項は特にないんですが、まあ最近ちょっと目にしたことは。。。

 こないだ休日に、ずるずると外出から帰ってきた時、ふと足下にとっても頭のでっかいアリさんがいました。あとで調べたらクロオオアリというお方らしいのですが、なんだかそいつもやたら疲れている様でのったらした歩みでした。今年の夏は暑かったもんね。

 で、あまりに目立ってたので踏まないように用心してそのコの横をゆっくり通ったら、そいつよほどぼんやりしていたらしく急にこちらの存在に気付いてビックリして、首をビクッてすくめました。いやー、初めて見ましたね。アリが首をすくめるの。なんか面白かったですよ。頭の動きが。キバがやたらでかいクセに実のところ、性格的には相当ビビリみたいで。まあ、他の住人に踏まれたら可哀想なので、ちかくの植木に誘導してあげましたが、なかなか動きに味のある奴で、また会いたいですね。あの、ビクーッがいい。

 ほかでは、最近あるものを見てビックリしたというか不思議に思いました。それは、ある焼き鳥屋チェーンらしいのですが、みなさん『くししん』てご存知ですか?漢字でクシのこころと書いて『串心』というのですが、この焼き鳥屋はなんと公道を自分とこの駐車場代わりにしているのです。一般に公道上の公認駐車場というと、道の端っこの白枠スペースがそうですが、この串心チェーンはそれを真似して自分とこ専用の白枠を勝手に作っています。一般のと違うのは白枠内にでっかく{ 串心 } とペイントしてあるのです。

 いや〜、初めこれをみた時、ビックリしましたね。裏通りの目立たないとこなら勝手に自分とこ用のをつくっていいんだなーなんて思いましたね。その後注意してみてると都内で結構この『串心パーキング』をあちこちで目撃しました。なんだか全国に躍進する串心チェーン!!てな感じでしょうか。そんなんなら自分もホームセンターでペンキを買ってきてその辺の道ばたに { ナベ } て書こうかなーなんて思いましたけど、一つだけ不思議なのは肝心の串心の店がどこにも見当たらないんですよね。

 お客の便宜をはかってそうやって勝手にやったんなら目の前に串心チェーンの炭火焼の店があってもいいのに大抵あるのは、救急病院とかナンタラクリニックとか、そんなんばっかりです。焼き鳥食いには誰も来ないですよね、そういうとこは。緊急で急患の人とかは来るでしょうがね。

 不思議ですね〜おかしいですね〜これもよくある都市伝説というやつでしょうか?誰もまだ見たことも入ったこともない、幻の焼き鳥屋『くししん』!!!  な〜んてね、もう皆さんおわかりですよね。アホなお話に最後までお付き合いくださいまして、いつもいつもありがとうございます。イマイチぴんと来ない方はメールくださいね。
 
     
 
  2008.10.01   どうも皆さん、コンチハ。すっかり涼しくなってきましたがいかがお過ごしでしょうかね。今回は身近なエコのお話です。

 今年は食料品その他の物価が上がってきてなかなかいろいろと大変ですが、なかでもガソリンの値上がりが凄まじいですよね〜。生活がかかっている物流関係のお仕事の方には深刻な問題だと思います。地球環境的には化石燃料の使用量が総量で減るのはイイことなんですがね。

 で、なべ的にもなんかエコができないかね、と思いましてここんとこずっと続けているのが愛車ナベ号のアイドリングストップ運動です。基本的になべ号はクーラーをかけないので(自然の風好きです)夏場は信号待ちでエンジンを止めても夏の暑さは変わりません。数少ない趣味であるダイエットも兼ねているので汗をかくのは全然オッケーなんですね。なので制汗デオドラント収集家でもあります。

 で、街なかでクルマのエンジンを切るとどんな感じかというと、急に自分の周りだけ静寂が訪れていろんな音が聞こえてきて結構楽しいですよ。鳥の声とかおかあちゃんの怒鳴り声とか。で、実際アイドリングストップでどんだけの効果があるかといえば、燃費にして1リッターあたり500メートルくらいの節約でしょうかね。信号待ちのたびのエンジンストップの手間の割にはほんのちょこっとの節約なんですが、まあやんないよりはマシです。少しずつですがこのアイドリングストップは他でもたまに見受けられます。そっかーアンタもやってるんだね、とお友達的な気分になりますね。でもこないだビックラこいちゃう節約法を編み出しました。

 それは、「必殺もみじマーク走行法」。ご存知のようにクルマというのは一つのエンジンで低速から高速まで車体をひっぱるわけですが、その原理はチャリンコと一緒です。急ぐ時には始めに立ち乗りでグーンとペダルを漕いで勢いをつけてビュンビュン飛ばしますよね。普通にのったらのったら行く時はラクチンに漕いで進みますよね。もみじ走法とはまさにその、のったらのったら極力アクセルを踏まずに前に進む走り方でありまして、カッコ良く言えばアイドリング走法、わかりやすくいえばジーチャン走法です。

 なんせちょっとクルマが動いたらスグにセコンドギア、さらに数メートルでサードギア、結局トップギアに至るまでに時速40キロに満たないというエンジンノッキング寸前走法ですから、でんっでん前に進まんデスよ〜。でもね、しばらくするとこっからヒューっと走り出すんですね。アクセルはほとんど踏んでいないにもかかわらず。これが楽しい。お待たせしました〜今からようやく加速いたします、後ろにせっかちな人いたらゴメンナサイ〜て感じです。

 でもおもしろいことに日本の信号はどうやらジーチャンの味方ですよ。こっちが苦労してのたくた加速してるじゃないですか。で後ろのが業を煮やしてビューンと追い越して行っちゃうんですが、すぐその先で信号に捕まっちゃったり先がつかえたりしてるんですね。で、その信号が青になる頃、ナベ号が空いた車線をスーッとすり抜けていくからハラ立つと思いますよ〜、相手の方。で、そんな感じで所要時間も特に変わんないし、なにより飛ばさないので心は平穏そのもの。すっかりこのやり方が気に入っちゃいまして。

 で、ビックラこいたのがジーチャン走法の燃費です。前述のアイドイングストップでもせいぜいリッター15キロだったんですが(軽なんでもともと燃費は良好です)今回のジーチャンは市街地走行にもかかわらず、な、な、なんとリッター18.7キロ!!!1リッターあたり3.7キロ余計に走れました。クルマの乗られる方ならお分かりと思いますが新車に乗り換えでもしない限りこんなに良い記録は出ないんです。もう家計は助かる、心静かにドライブできる、追い越されても抜きかえせる、といいことずくめのナベ式エコドライブでした。みなさんもいっぺん試してみてくださいね。
 
     
 
  2008.9.15    昨日コンビニでミートスパデティを買ったら、レジがピーと反応し、レジのお姉ちゃんが「お客様、申し訳ございません。期限切れの商品が残っていましたようでこれはお売りできませんので、べつの商品をお選び頂けますでしょうか?」と言われました。聞くと一時間前に賞味期限が終わった様で、大丈夫だとは思われますがお売りできないんですよ、と再度言われました。この時こないだのちょっとしたことを思い出しました。

 ナベ式ダイエットを再開して、ココ最近常にカロリーと共に生きている私ですが、そのナベ式ダイエット理論によると、極度の空腹はドカ食いへの道しるべとなるので、低カロリーの栄養あるおやつでの乗り切りを奨励しております。で、よくコンビニでおやつを買うナベが目撃されるわけですが、なじみのおやつに『ランチパック。たまごサラダ』というたまごパンがあります。

 このたまごパンは栄養満点、しかも適度の満腹感が手軽に得られてそして2個入りなのに200キロちょいの低カロリーとまさにナベ理論に基ずいて開発されたかのごとくこれいかにといったおやつです。

 で、あんまししょっちゅう買うもんですから、たまに買ったことを忘れて控え室に置きっぱなしになっちゃうんですよね。で、次そこの会場に登場するのは一週間後ですから、その間に誰か食べてくれてたらタマゴパンも本望なのですが、タマゴパン=所有者ナベ、なのを皆さんご存知なもんですから誰も手出ししないんですよね〜。で、一週間後にまた新しいたまごパンを買って現れたナベがショックで愕然とするわけです。

 で、またこないだそういうことがありまして、朝からあまりにもショックだったので、しばらくの間たまごパンを手にボーゼンとしてたのですが、心の中に浮かんでくるのはタマゴパンに対する申し訳ない気持ちでした。

 何かの縁があってココまで来てくれたのにこのままお別れになるのかあ、と思ったら可哀想で可哀想で、みなさんそういう気持って判ります?もったいない、というより、ホントゴメンネ、という気持です。

 で仕方なくゴミ箱に捨てようと思ったのですが、そういう気持だったもんですからなかなか吹っ切ることができず、とりあえず踏ん切りをつけるために、とんでもない匂いがするでしょうが封を開けてタマゴパンに対する気持ちを断ち切ろうとしたわけです。

 控え室は夜間は常温、しかもそこんとこ最近は蒸し暑かったので、ですから気合をいれて封をあけました。

 おそるおそる、クンクン、あれ?匂いがしない。もう一度しっかり。。クンクンクン。あれ、無臭だ!タマゴパンのかぐわしい香りこそ薄らいではいるが、腐敗臭はしないなあ。中はどうだろう。割ってみました。中からは黄色のタマゴが出てきましたが、匂いはなんかタマゴの匂いです。

 あれ、まさか食える?いやいやそうやっていつか食中毒になったのはどこのどいつだ?だいいち食中毒の匂いって匂いしないからなあ。腐敗臭とは別だし。う〜ん、でもあまりにもフツーすぎる。

 で、勇気を持ってちょっとだけ端っこを口に入れてみました。口中に広がる味覚は疑いながら食べているせいか、イマイチよく判りません。で、さらにかじってみました。うーん、わからん。で、思い切って一口ガブリといきました。うーん、味が薄い。でもうまくはないがでも醗酵はしてないタマゴパンかな。

 結局2つとも食っちまいました。以前の経験から食中毒は4.5時間過ぎるとドカンとくるのはわかっているのでイザとなったら近くの順天堂に直行かなーなんて思いながらまあこれは賭けなので仕方ない、と諦めました。

 そしてひと月近くが経ちいまだにピンピンしているので結局はセーフでした。この事件を思い返すと、まあまああそこで勇気を持ってタマゴパンを見捨てなかったナベも大したもんだったとは思いますが、一番偉かったのは日本の製パン工場のその徹底した品質管理ぶりです。

 完璧なる無菌状態で製品を作り上げるクリーンな製造ラインと薄いビニール内部を無酸素状態にキープして外部の雑菌からそのパンを守る包装技術の高さ。ほんのみじかにあるなんの変哲もないタマゴパンではありますが、そこに関わったさまざまな人達の愛情を感じましたねー。ささいなところに食の安全に対するいろんな経験の蓄積が2重3重の防護柵としてあるんですね。でもまさか期限切れ一週間がまだセーフとは恐れ入りました。すごすぎる!

 前述のミートスパ君も食べることはできませんでしたがそういう意味で心の中で、ありがとうね、ごくろうさまでしたという気持でした。ので、今後も食べ物は今まで以上に大切にいただいていきたいと思います。でも良い子のみなさんはこういうチャレンジはあまりマネしないようにしましょうね。しないか。
 
     
 
  2008.09.01    皆さんはご自分の家系図とかご先祖様の来歴とかご存知でしょうか?なべはですね〜、子供のころになんとなく聞いていたじーちゃんばーちゃんの話の記憶とかが、40ちゃいを過ぎてここ最近ようやく大人になれたせいかとても興味深く思い出されます。

 なべ家も2世代3世代前は昔の例にもれず沢山の兄弟姉妹で構成されていたようです。ただ現代に比べると昔の不安定不衛生な生活環境や食料事情とかでやはり若くして数名お亡くなりになってますね。医療も今では入院数週間あるいは投薬のみで済むような病気も当時は不治の病というのが多くて、えーっ、そんなんで死んじゃったの?なんて思う病気だったりするから、現代だったら、と思うとかなりじれったいです。

 そういうことがあった、そんなんだった、と聞いた記憶に想いを馳せると、頭の中に当時の情景とそこに息づく人々の姿が、あくまで想像でですが蘇ってきたりします。田舎は宮崎なんで、特に父方母方の実家はさらに田舎なんで、割りにそう著しくは変化してなく想像するのが比較的容易なのです。ですからセピアな映像としてじーちゃん若かりし頃〜とかナイスにキメてる図〜とかばーちゃんツンデレしてる〜とかがリアルに再現できたりして(あくまで想像ですが)余生はこれで過ごそうと思うくらいにナゼか楽しいです。。

 で、まあトピックはいろいろあるんですが、いちばんビックラこいたのが自分ちのおかあちゃんが上海うまれ上海育ちだったことですかね。この年になるまで知りませんでしたがな。あやうく知らないまま終わっちゃうとこでしたね。久しぶりに帰省した時に、そう、不思議な写真が一枚、というか一葉出てまいりましてね、古写真ですから3センチ4センチ角の小さいやつですっかり色褪せてはいるんですが、なんかどっかで見たことのある人が赤ちゃん連れてるんですわ。なんかこんな知り合いおったで、なんで思っていたら、上海でのばーちゃんとかーちゃんでした。

 もう、ヒョエ〜ですよ! ばーちゃん美人!! じーちゃんウマいことやりやがったなーですよ。それを皮切りにナゼか出てくる出てくる、もうじーちゃんの妖艶なる爽やかなフンドシ姿(ワイルドォ〜)とかおかあちゃんの高校時代のツンデレショットとか(やはり遺伝だったのか)興味深い懐かしい写真が山のようでした。しばらくの間家に帰ると、曲も作らんと飯も食わんと、すぐパソコンに保存したなべ家古写真集を広げてはぼんやり眺めてあちらの世界に行っちゃってた時期があったぐらいです。

 あとは、沢山の兄弟姉妹の中でかなりヤリ手の大伯母さんがおってですね、このオバチャンは地元で男食いとしてかなり名を馳せたようです。でも今と違って当時の部落はコミュニティーの結びつきはかなり強い、というかやっぱ超狭い世界ですから、そのなかで女性でそこまで勇名をあげるというのは、逆にバイタリティがあって勇敢であって大したもんですね、とボクは感心しました。もちろん今はもうおられませんが、昔も皆がそうやってエネルギッシュに生きていたんだなあ、と思うと忘れ去られつつある昔の営みの断片がなぜかリアルに思い起こされて、興味のつきることがありません。

 そして特筆なのは従軍記者だった大伯父さんですね。この方は日中戦争の折り、脇坂部隊の従軍記者として大陸に渡り、無錫という地(後世のいう無錫入城)にて部隊長と間違われて(隊長も記者も軽装なのでそれと間違われた)狙撃され名誉の戦死を遂げました。当時はこの戦死の報が地元新聞に大々的に取り上げられ実家にも当時の宮崎日々新聞がボロボロになって保管されてました(もうちょっとちゃんとしようや)。そして国からは勲8等というのを授与されて、いまだにナベ家の墓の中ではオジチャンのが一番デカくて墓石肌もツヤツヤとしています。そしていまだに年にいくばくかの下賜金がなべ家に支給され、それで買ったデジカメがなぜかナベのものとなって家にあります。長い間欲しかったから大伯父さんありがとうですね。

 ほんとうはもっと昔に家系を辿っていって、もっといろいろ知りたいのですが、ここから先は100年以上も前の話になってしまい、歴史の霞がかかり過ぎてなんともしようがありません。そういうのって調べるの得意な人だれかいませんかね?
 
     
 
  2008.08.15    5月にいとこの結婚式に行った時、ナント昔買ったスーツが全く入らなくなっており、でもおめでたい席では必ず母上殿の形見のそのスーツを着ることに決めているので、その時は根性でなんとかはききってベルトのみで式を乗り越えました。
 実はそれに先立つこと一ヶ月前、イベントで司会をやっていたらそれを見に来ていた元生徒さんが、終わった後控えにやってきて「きてますねー」とポーンと腹を叩いて去っていったのですが、その時はその生徒さんの見間違いということにして気にしないようにしていたのです。でも今回の【入らなくなったスーツ】というのは、やっぱりなんともやっぱり厳しいですね。

 ので2度目のダイエット作戦を決意しました。といっても前回のダイエットとやり方は同じで、ただ毎朝のウェイトチェックをすることにより毎日の成果の確認をするようにしました。あとは今回はじめてキャンペーンソングというものを導入することにしたのです。わたくし一応作曲もやるもんですから、この熱い思いがノッてきた日に早速、曲作りに入り一日で作りました。タイトルは『夏バテを利用して』。。。

 一見ふざけたタイトルですがなかなか緊迫感のあるいい曲に仕上りました。逆に緊迫感がありすぎて初見ではまったく吹けないくらい難しい曲になりました。いつかライヴで吹きますね。で、一応これで自分向けの応援ソングは出来たので、あとは強い決意のもと、シッカリとカロリーを気にしながらじわじわと痩せるだけです。

 このカロリーを気にしながらの毎朝の体重チェックによるダイエット法は実はあるお医者さんが実践されたやり方で、そのお医者さんはメタボ検診のからみで説得力をつけるためにまずご自分がダイエットすることにしたそうです。ので久しぶりにお会いした時はあまりの激変ぶりにビックラこいちゃいましたね。15キロ以上のマイナスともなるともう別人ですね〜。5.6ヶ月程度での成果らしいですので月3キロ弱ですか。

 そのやり方で私ナベも頑張りましてですね、今ひと月と5日たった時点で3キロの減量に成功しております。減量というのは面白いもんで、ある時ガクンと落ちるんですね。なんか最近落ちないなあ〜、気にしてやってんだけどなあ〜、もー止めちゃおっかなあーなんて思ってたらある時なんの脈絡もなくストンて落ちるから不思議です。

 でもね〜、やっぱり暑い夜にはアイス食いたいですよ。コーラをガブ飲みしたいですなあ、うなぎでガツンと精力つけたいです。【入らなくなったスーツ】の決意も揺らぎそうな蒸し暑い日々です。みなさんも他に実際やってみて良かったダイエット法なぞございましたらひとつ教えてください。その際、何
キロ痩せて今何キロなのかをちゃんと明記してメールくださいね。お待ちしとります。じゃ、暑いのでコンビニ行ってきま〜す。
 
     
 
  2008.08.01    もうすっかり大人になってしまった今では修学旅行を体験することはできないですが、小中高と3回あった修学旅行の中で一番楽しかったのが小学校の時の旅行です。

 小学校の修学旅行は行き先は隣の鹿児島県でした。なので朝出発してお昼には鹿児島県内に入りどっかのでっかいホテルかなんかでお昼をとりその後城山公園を見学し、メインの谷山小学校との交歓会は次の日だったので、もうその日は宿泊先のホテルに向かいました。

 いやあみんなで食べるご飯てオイシイですね〜、なんかワクワクして。小学生の子供にとってみんなでどっかに集団で一泊するということ自体かなりの異常事態でしてテンションは上がりまくりです。先生なんかもビールとかでもう真っ赤になっちゃってて、(ああ、ただの酔っぱらいや)と子供心におもったのを覚えてます。

 で、夜ですよ。先生達は9時消灯、早く寝ろというんですが当然寝れるワケないですね。で、一応部屋の電気を消すんですが先生のスリッパの音が遠ざかると、コソーッとドアを開けます。スキマからは薄暗い廊下がぼんやりと見え、先生の姿はありません。そこで有志2.3名で探検が始まります。

 当時ウチの大淀小学校は1000人を越えるマンモス校だったので(今じゃ信じられないですね)6年だけでも200名は越えておりました。ですからその人数を収容するホテルというのはけっこう規模がデカくて、もう探検のしがいがあるわけですよ。

 ホテルというのは独特のニオイがありますね。シミのしみ込んだ古いカーペットや沈殿した空気のにおいの中で、薄暗い不気味な窓やボっと浮かび上がっている非常口のあかりの横を通り過ぎながら、探検隊は広い館内をくまなく捜索します。

 そして危険な箇所は階段の角とか先生達の酒盛り部屋のフロアーです。敵は交代で見回りをしているらしいので、いつ何時廊下にイキナリ現われるか判りません。なので不審な足音がないかを耳を澄まして確認し、異常ナシとなれば前進します。でも前述のようにデカいホテルなので、そうそう敵に遭遇しません。子供なのでそこはすっかり油断して、アト少しで自分らの部屋だ、というとこまで帰ってきました。その時、なんと不意に背後から追いかけてくるようにスリッパの音が聞こえてくではありませんか!

 きえーっ!探検隊はパニックです!それまで声も忍ばせて用心してたのですが、もうそうなるとアワ食っちゃってて言葉にならない声を発しながら部屋へ向かってドタドタと脱兎のごとく駆けだしました。昔からナベは逃げ足だけはむちゃくちゃ早いのです。それまで苦楽を共にした仲間達をナベははるか後方にブッチぎりにして、それでも声だけは「早よ来んね!早よ来んね!」と言いながらなんとか自分達の部屋に辿り着きました。そして最後の味方が飛び込むようにドアを閉めたのと敵が最後の角を曲がってきたのがほぼ同時でした。その直後、恐怖のスリッパの音がパツパツパツパツと接近してきて部屋の前でピタッと止まると、バン!とドアが開きました。

 部屋の中は真っ暗です。われわれはさっと布団をかぶり死んだフリをしながら薄目でドアの方をそう〜っ見てみると、そこには薄暗い電灯に浮かび上がった敵が真っ黒なシルエットとなって部屋の中をジっと睨んでいるのが見えました。ひえ〜っ。

 しばらくすると末恐ろしい低音で「今、誰かこの部屋に逃げたヤツがおったじゃロウ。誰かわからんが先生にはちゃんと見えちょったぞ。ちゃんとわかっちょるからな!」それはとても恐ろしい地獄からの声のようでした。地獄の使者はそうしてしばらくそこで部屋の中を睨みまわすように威嚇して、去っていきました。

 必殺の恐怖体験でした。敵が去るとにわかにまたみんなムクっと起きだしお互いの無事を讃えあったのですがその晩はそれ以上はさすがに出歩くことはせず、というよりナベはすっかりこのスリルに味を占め「ね、ね、もう一回行こや。」としきりにみんなを誘ったのですが他のメンバーはなんだかおねむになってきていつの間にか寝てしまいナベもいつの間にか沈没してしまい、気がついたら爽やかな朝になっていました。

 楽しい楽しい修学旅行はこうして終わりました。そして数十年たった今でもこの時の旅行はナベの心に、桜島をバックに飛ぶウミネコたちの美しい姿と暗闇に立ちはだかる恐怖の先生を彷彿とさせてくれる懐かしい思い出になりました。とりあえずメチャメチャスリル満点でした。これで病み付きになって中学高校の修学旅行も同様に深夜ホテル探検をするのですが2回とも逃げ足のナベは現行犯で捕まってしまい、小学校の時ほど楽しい思い出にはなりませんでした。でもあの頃って多分人生の一つの黄金期だと思います。もう一回みんなと修学旅行行きたいなあ〜。
 
     
 
  2008.07.15    こないだちょこっと時間ができたので久しぶりにキャロル君をメンテナンスしてきました。前回はたしか、このキャロル君のオイル交換の待ち時間にヒマだったのでダテメガネを買い、そこから遠近ショックな出来事が展開したんですよね〜。もういらんものは買うまいぞ、と心に誓いオートバックスに向かいました。

 まあでも基本的にこの近所のオートバックスとナベは相性はいいようです。この日は店内もスカスカでゆったりと気分良くお買い物をしてレジに向かいました。レジではやたら声の高い年上の女性が「渡辺さん、スタンプがいっぱいになったのでフラッシング (エンジン洗浄) が2000円引きになりますが、いかがなさいますか?」と聞いてきました。

 なんかやっぱりこの店入るとついつい予定外のコトをしちゃうんですよね〜。本好きが本屋に入ると一日出てこなくて結局山ほど本を買って出てくるのと一緒です。クルマ好きには、足回り強化!とかエンジン洗浄!とかいった言葉は猫にマタタビなんですよ。で、結局オイル交換ついでにエンジンフラッシングをしてもらうことになりました。

 で、いざピットに入ると今度は整備士のオニーチャンが「渡辺さん、コレどれぐらい乗られてます?」と聞いてきました。きっと古いクルマなので珍しいんでしょう。「今、27万5千キロですねえ。」と答えると一瞬絶句して「じゃあ、燃焼室の洗浄もやられた方がよろしいですよ。」と言ってきました。

 「それってやった方がいいんですか。」不安になって聞いてみると「はい、もう27万も走られてると燃焼室はカーボン、ススで真っ黒ですよ。それを溶剤を注入して一掃しますから。走りがだいぶ生き返りますよ。通常は1万円のところ今回はフラッシングをされるので割り引いて7千円になります。」クルマの心臓部、燃焼室の洗浄ですよー!ほぼオーバーホールにちかい感じ。サックスでオーバーホールといったら新品へのよみがえり大修理です。まさに究極禁断の修理といった感じでしょうか。

 「ハイ、それでお願いします。」魂を抜かれたようになべはフラフラと答えていました。そして待つこと一時間、修理を終えたキャロル君が、魂も財布もスッカラカンになったナベの元へふたたび帰ってきました。

 27万キロ分の蓄積されたエンジン内部の汚れがいかなるものであったか。整備士のオニーチャンによると洗浄液によりすごい黒煙がもうもうと出たらしいです。見たかった〜。で、こんなにもこのクルマって軽かった?ていうくらいにエンジンが軽やかになりました。加速がスイ〜ッといく感じ。もうびっくりですねえ。以前のガコガコした加速がウソのようです。

 自分なりに結構メンテしてた自信はあったのですが所詮素人のできる範囲は限られてます。イザとなったらやっぱプロは違うわ。人間でいったらピンクの小粒コーラックで身も心もスッキリ爽やか〜といったとこでしょうか、良かったね、キャロル君。
 
     
 
  2008.07.01   皆さん最近ショックを受けてブルーになったことはありますか?なべはちょっとブルー続きだったのでこれ読んで同情してもらえましたらメールください。

 1. ナベ日記でもおなじみだったナベ家近くのスーパー共栄がですね、、、、、閉店になってしまったのですよ。お買い得なより良い商品で地元民に愛されたスーパーで、ナベが東京に引っ越してきて最初にお買い物をした思い出深いお店でもあり、家族経営のアットホームないいお店でありましたですが、ある日張り紙がしてあって、閉店のお知らせが実に淡々としたためられてありました。

 もう衝撃ですよ!じつに30年にわたって地元と共に歩んできた(ナベとは12年共に歩んできました)お店がなくなるなんて実に信じられなかったです。でも日を追うごとに店内の陳列棚から商品が徐々に無くなっていき、活気のあった店内がだんだんと寂しくなっていくのを見て閉店前のお店ということをようやく実感しました。すでに仕入れがないのでお店の在庫がなくなったところから棚がむきだしになっていくんですね。最終日は閉店に間に合うように早く仕事を終え、お店にいったのですがもう店内のすべての棚はスッカラカン〜で、ああやっぱり終わっていくお店ナンダなーとしみじみ思いました。

 でナベはラスト蛍の光を聞きながら有終の店内の模様をデジカメで写しまくり、ラストの消灯の様子を外からまたまたデジカメで写しまくってたのですが、ナベと似たようなヤツがもう一人いて、そいつもデジカメでお店を写しまくっておりました。やっぱりこういう寂しい現象に興味を持つ変なマニアは世の中にいるんですね。でも暗い夜道で二度とあかりの点くことのないお店を独り眺めていたらなんか心にグッとくるものがありましたねえ〜。べつに泣きはしませんでしたけど。

 2. こないだレッスンをしていたら自分の汗臭いのがやたら気になった瞬間がありました。幸い生徒さんたちとは距離があったので大丈夫だったのですが、そのときナベは自分のアセ臭さにナゼかやたらハラが立ちました。

 ので、右手でピアノを弾きながら左手でバッグの中の制汗スプレーをまさぐってTシャツの中でブシュ〜!とやったんですが、なぜかいつものエイトフォーと違って凄い強い香料の匂いが香ってきました。しかもいつものサラサラパウダーの感じがなく自分の脇の下とか胸の上とかでやたらボヨンボヨンしています。

 おっかしいなー、ガスが足りんくなってパウダーの調子が悪いんか なーと思ったのですが、そのままピアノを弾きながらふと思い出したのは、ナベは最近メガネを新調してー、そういやそのメガネのケアのためにレンズクリーナースプレーをわざわざ買ってバッグに入れてたんですよねー。

 それをハッと思い出した瞬間(!)もう一気にやる気なくしました。この丸いアワはそれかー!もう〜なんなんすかね、いい大人なのにわざわざレンズクリーナーをしかも仕事中に盛大に自分にふりかけるなんざ。。。。情けないですわ。今は立ち直りましたがその時はかなりへこみました。

 と、こんな感じで他にもあるんですがだんだん悲しくなってきたのでもうやめます。ほなさいなら。
 

  2008.06.15    最近、労働者のワーキングプア問題やニートなどの社会問 題などがよく巷で取り沙汰されていますが、かくいう私も昔は多種多様なアルバイトをしてなんとか食いつないでおりました。

 そんな数多くの仕事の中には一週間でクビになったバーテンダーの仕事とか、冬の雨の中の工事現場での交通整理とか、なんか思い出したくない仕事の思い出が山ほどありますが、自分が一機械、ロボットになった仕事というのがあります。

 その仕事もかなりハードな思い出なのですが、同時にようやったなあと感心する思い出でもあります。それはすっかりカネのなかった若い時分、日刊アルバイトニュース略してanがわたしの愛読書だった時、目に飛び込んできた仕事でした。ダイハツ工場にてクルマの組み立て、昼勤7時から5時と夜勤7時から朝5時、各8時間勤務を隔週交代で、メシフロ付き、送迎バスあり、2ヶ月限定の期間工で月給38万円というものでした。

 それは20年ほど前の大阪の話ですから今の東京だと月50万くらいでしょうか。これはオイシイ!やっと生活苦から解放される、2ヶ月くらいはサックスサボってもいいや、との思いから募集に応じました。そして予想もつかない地獄の日々が始まったのです。

 まず8時間勤務とはいっても、ライン上でアリのように働く時間が8時間キッチリあるわけで、その前準備、後始末は労働時間には入っておらず、実際は一時間も前に前乗りして準備をし、ラジオ体操に参加して(必須でした。サボったら怒られました)仕事をしないといけませんでした。

 しかも一度ラインが動き出したら2時間は止まりません。その間、休むことなく自分のエリアに流れてきたクルマに次々と部品を取り付けるわけです。たしか自分のエリア内の作業時間は15秒か20秒ほどしかなく、それをオーバーするとクルマは次の人のところに行ってしまうわけでネジのハマってないドアだとかが次々にラインを通過して大問題になったりもしました。全部ナベのせいです。

 いちおう緊急用に天井にはワイヤーが張ってあり、それを引っ張るとラインがとまる仕掛けにはなっていましたが、間に合わずにそれをひくと『バカヤロー!それぐらいで止めるなー!』と主任に怒られ、ああオレはきっとここで死ぬ!と思いましたね。

 で、2時間たつとやっと休憩なのですがそれはたった5分間でした。ナベはこの5分間に、遥かかなたに流れて行ったクルマを追ってネジ締めにいくわけですが、やっと戻ったらもうラインがガコンと動き始め、もうその時の絶望感たら、ああやっぱりオレは絶対ここで死ぬんだ、と思いましたよ。

 そうやって、ああ死ぬもう死ぬと思いながらも、だんだんといつの間にかナベはダイハツのネジ締めマシーンに化していったんですね。仕事を始めて2週間も経つと自分の受け持つラインではナベはノーミスになりました。それどころか10秒以内で手早く機敏に作業を終わらせ、残り時間5秒ででからだをゆっくりほぐし、貴重な5分休憩では缶コーヒー1本&タバコ2本をきっちり根元まで吸い、定時になると後片付けをして、食堂でどんぶりメシをモリモリ食って、みんなでフロ入ってみんなでバス(護送車)に乗って家に帰る、という出稼ぎ労働者みたいな生活になってました。

 まあ若さゆえに勢いでやり始めた仕事でしたが、高い報酬にはそれなりのハードな要求があるわけで、でも慣れるとこの機械油にまみれた仕事は、自分の体を張ってカネを叩き出してる、といった誇りを感じることができました。確かにキツかったですがその分、オトコの仕事!っていったプライドムンムンの体験でしたね。そして2ヶ月が終了するころ人事担当者に「渡辺さん、よかったらこのままこちらでお仕事を続けませんか?」とのお誘いをいただきました。

 あのままあの仕事を続けていたら今頃どうなっていたでしょうね?京都ダイハツ山崎工場のホームページで今週のダイハツだよりとか称してナベ日記とか出してたんでしょうかね?2ヶ月間の短い期間でしたが、日本の自動車産業界の一歯車として働き抜いたなつかしい思い出です。
 
     
 
2008.06.01

 スカイネットアジア(SNA) の飛行機はえらく小振りでした。宮崎にいとこの結婚式で帰るのに、そこのおじちゃんがわざわざ航空券をとってくれたのには大感謝でしたが、駐機場に止まっているその飛行機は周りのANAとかJALとかの飛行機に比べるとふたまわりほども小さくその姿はなんだかまわりに対して肩身の狭い思いをしているようでした。

 さて、乗り込んでみると座席はほぼイイ感じに埋まっていて、まあまあの盛況ぶりを思わせます。ですが機体が狭いせいか人が多いせいか、なんだかモワッと暑く感じたので客室乗務員さんに「なんか暑いです。」というと「エンジンがかかってきましたらだんだん冷えてまいりますので。」とにこやかに言われました。

 そっか、飛行機とはそういうもんかー、と思って荷物を頭上の荷物入れに入れようとしましたが今度はボタンをいくらプッシュプッシュしても扉が開きません。ので、またもや客室乗務員さんに「これ、開かないんですが、、。」というと、客室乗務員さんは何も言わずフンッと気合一発、一回で扉を開けてくれました。

 そうこうしてるうちにシートベルト着用サインが出たので、座席に座ってベルトをしたのですがなんか狭い。よくよく観察してみると、この機はどの席もなんだか座席の間隔が狭いのです。座席自体もよく見るとなんだか簡素な作りの座席でしかもシートの布がえらく擦り切れていて所々中身部分が垣間見えています。備え付けのテーブルを出してみるとお腹にググッと食い込んでくるような距離で身動きがとれなくなるので、しまいました。

 でも腐ってもジェット機ですね、小さい分 加速感はとても軽快でふわりと空に飛び立ちました。でも窓の位置が中途半端に低くてしかも前後にズレてて、窓自体も小さいので外を眺めようとすると妙に姿勢が悪くなってしまい富士山とかも十分楽しめませんでした。

 あとで調べてみたところ、このSNAという航空会社の保有する機体は7機ありそれらはすべて自社発注などではなく、外国路線で使われた飛行機(中国、ロシアなどでしこたま使用された古い機体)をリース会社から安く借りて調達しているようです。路線は羽田から九州の各都市の間を専門とし、就航開始は今から6年前みたいですがその2年後には早くも力尽きて倒産し、その後いろいろと頑張ってコストを押さえてようやく現在はビミョ〜に黒字転換できたというなかなかファンキーな航空会社のようです。

 ので座席ポケットに入っていたなんかのパンフとか緊急脱出案内のガイドペーパーとかはもう可哀想なぐらいシワクチャのヘロヘロでしたね。フレッシュなのは客室乗務員さんとパイロットぐらいなもんで(ANAとの共同運行なので人員は天下のANA。多分。)それ以外のハード面ははなんか全てが老体にムチ打ってる感じがあってイイ味を出しておりました。

 そういえば昔ある人から聞いた話ですが、じつは飛行機というものは、それに乗っているすべての人達が心の底から( 飛べ!)と思わないと絶対飛ばないものなのだそうです。ですから一人でも( 落ちる!)と思ったらその瞬間にその飛行機は落ちてしまうらしいです。前回の帰省の時は私は飛行機の中で(あーもしかして落ちるー!)と思った瞬間がありましたが、その時は着陸寸前だったのできっと助かったのでしょう。ですから今回は私は心の奥底からこの飛行機を応援しました。

 そして機は無事に宮崎空港上空に差しかかりました。応援したせいか定刻よりもすこし早く到着したくらいです。で、風の関係で飛行機は前回同様、墜落コースをたどって無事滑走路に着陸しました。着陸時に衝撃でお腹の肉がブルルンと揺れたのがなんともこのくたびれた飛行機と相まって印象的でした。でもなかなか頑張ってますね、SNA。これは地元宮崎が誇る航空会社なので今後も応援していきたいと思います。なんせ宮崎に片道一万一千円で帰れちゃうんだもんなあ。びっくりのお値段ですよ、これは! 皆さんも是非九州にお立ち寄りの際には是非SNAをご利用くださいね。でもまた倒産が心配だなあ。


  2008.05.15  

 大人になった今は、リラックスしたい時はタバコやらコーヒーやらで頭をフワーッと休めることができますが、子供の頃(といっても高校生くらい)は、音楽やら広々とした風景を見ることで気分をスカッとさせてました。私の現在のリラックスタイムはただボーッとした文字通りの休憩ですが、昔の夢見る男子のころは、リラックスできる時間は音楽やら風景やらに接しながらすぐに現実逃避の妄想に入ってましたね。

 高校生の頃は、好きな音楽を聞きながらいつも自分勝手な素晴らしい未来を想像して一人でトリップしていい気分になっておりました。で、その頃は九州の宮崎でしたから、いつかは東京に出るんだ、という輝かしい思いでいつも北の空を見上げておりました。ですから、いつのまにか刷り込みの法則で、方角的に北方面の風景はナゼだかすべてキラキラと明るい希望に満ちあふれたものに見えておりました。逆に南方面は東京に向かうのの逆ですからなんだかなんの未来も無い寂しい風景に思えて仕方がなかったでした。北=東京⇒ 希望。 南=宮崎⇒ 絶望。こういう図式が頭の中に当時なんとなくあったように思います。

 高校時代は学校きらいでしたし、好きなコもいなかったのでその頃のナベの唯一の現実逃避のお楽しみは休日のチャリンコドライブでした。以前にもお話しましたがソニーのウォークマンを聴いて北の空を見上げながら自転車こいでるだけで(もうそれだけでアドレナリン最高潮!)勝手に想像した輝かしい未来の世界に入っていました。脳内麻薬出まくりです。

 変な話ですよね。でも心理学的にはこの不思議な心の感じ方は説明がつくと思うのですよ、きっと。未来に向けたポジティブな精神と現実から逃げたいというネガティブな精神との相反する葛藤が、いつかは東京に行く、という、なんというか漠然とした方角的なもので解決していたのではないかと。ですから、物理的に北方面に進んでいる時は心の平安度が高かったですね。逆に少しでも北上が東西にズレると、なんだかソワソワしてました。

 宮崎の場合、国道10号線が県内を南北に貫いておりましたから、いつもチャリドラのコースは10号線北上からはじまりました。ですからしょっぱなは、北に向かって常にハイな気分でスタートです。そうやってさわやかな風に吹かれながらイイ気分でこぎ進むんですがいつかは、来た道を南下しないとお家に帰れません。ので、どこかでUターンをするんですが、その南下の瞬間はとてもいやでしたね。で、出来るだけその絶望的な南下をしたくないので帰りは西に東にいつもジグザグに道を折れ進みながら戻っていました。なので、帰路は来る時の倍、時間がかかってました。そうしていつも最後に、おそい帰宅をオヤジサンに怒鳴られて楽しい休日が終了しておりました。
 
 なんとも後ろ向きの話ですいませんでしたねえ。それで、まあ念願かなって現在は東京に住んでいる訳ですが不思議なもので、今は北の空を見上げても何の気持ちの高揚も感じられないんですよ。逆になんだか寂しい気分になるんですな。今は北の空を見上げてもむこうにあるのはロシアですから、今度はロシアに行こう!て気にはどうしてもなれませんし、テンションがどうにも上がらんのですよ。かえって今は南方面の風景にとても惹かれます。単に故郷が懐かしいというだけでなく、きっと希望を感じていた懐かしい時代に心が惹かれているのでしょう。結局は心は青春時代に戻っていくもんなんでしょうかね。なんか結論としてはドラマ『俺たちの旅』みたいなお話でした。あ〜、知ってる人少ないだろうなあ〜。『俺たちの旅』! 知ってる人はメールください。よろぴこ。

 
     
 
  2008.05.01  

 先日オートバックスにオイル交換にいった時、時間待ちでヒマだったので店内をウロウロしていたら、グラサンコーナーでいいメガネを見つけました。最近フチありのセルロイドのメガネが流行ってるでしょ、あれです。東京に住んでるからには(神奈川だが)やっぱすこしは垢抜けないとね。ということで2つも買ってしまいました。

 でもなべは基本的に実用的ではないおしゃれが苦手なので(遊び心が足んないのかなあ)、早速最寄りのメガネチェーン店で度付きレンズを入れてもらう事にしました。ところが、店員さんによると、こういった安いダテメガネはフレームが案外弱く、レンズを入れる際に割れてしまう事があるそうです。まあ、むこうさんもこういう持ち込み依頼は商売にならないので基本的にお断りモードなんでしょうね。

 でもこちらさんとしてもせっかく久しぶりにカッコいいメガネモードになってたのでなかなか諦めきれず、せめて似たようなのが無いかと店内を探してみたらなんといいのがありました。先に買ったダテメガネに比べるとデザイン的にちょっと劣るが、それでもなかなか垢抜けて見えます。きっと春だしナベ的には垢抜けたい気分だったんでしょう。のでそいつを購入する事にし、早速度数を測る事にしたんですが、いままでかけてたメガネの度数では最近文字がチラつくので、その旨を言うと「じゃあ、今回は遠近両用にします?」と言われました。

 ナニ!なんじゃとて!遠近両用じゃと!失礼な!誰に向かって言っとるんじゃい!!とあまりの怒りでなべは黙り込んでしまいました。でも店員さんはそんななべの心の雄叫びを知る由もなく遠近両用の線で話しを進めよう進めようとして「30代後半から老眼は入ってきますからね。」と、さらりとのたまいました。 

 ナニィー!ついに言ってはいけないことをいうたなあ!!老眼じゃと!こんな若者を捕まえて失礼な!失礼な!失礼な!となべはすっかり我を忘れてしまいましたがようやく言えたのは「イエ、今回は度数を少し落とすだけでいいデす。。。」だけでした。その時ふと店内の鏡に映り込んだ自分の姿が、なーんかすっかりショボショボに見えたのがとても印象的でした。

 そんな悲しいイキサツがあったんですがなんとか頑張って気を取り直し、老人性トラウマは自分の心の奥の奥の奥に封印し、一週間後にはさっそうと新しいメガネでなべは各地に登場しました。たいていの人はなんの反応も返してはくれませんでしたが、ごく一部の人は「メガネかえたんですね」と言ってくれました。さらにその中の礼儀をわきまえた感受性や人間性の豊かな方は、ちゃんと「似合ってますね」とホメてくれました。

 でも不意のボディブローを食らった気分でしたね。知らず知らずのうちに自分があちらの領域に入ってるなんて。。。なかなかすぐには立ち直れないくらい強力ですよ!エンキンという響きは。

 
     
 
  2008.04.15  

 なべはケータイの前はピッチを長い間使っておりました。ナイナイが宣伝してて今は消滅してしまったアステルという会社が路上でキャンペーンをやっていて、基本的になべはキャッチセールスに捕まりやすい体質なのでその時も、ただでピッチが手に入るというだけでアッサリ契約してしまいました。でもこのピッチは最高にアンテナ感度が悪く実に使えない代物で、しかもいつの間にかアンテナどころか会社が消えてしまっていました。

 で、そのピッチがなくなる寸前に近くのスーパー共栄でガラガラ回しの福引きキャンペーンをやっていて、なんとなべに一等が出てその景品がケータイでした。あとで考えるとガラガラの中身はほとんど一等でして、要するに携帯会社の『ケータイただでやるから契約してくれませんか?』のキャンペーンだったのです。またもやキャッチですね。

 でも、なべはピッチの感度の悪さ(ただしアステルのだけが超最低だったみたいです)にうんざりしていたので、ピッチからケータイに乗り換える事にしました。で、使ってみるとさすがはケータイですね。移動中でも通話が切れない!メールというものもできる!しかもカラー表示(赤と緑のどちらか、ナベは緑を常としていました)というので長い間、その福引きケータイ(サンヨー製 T S 0 1 型。名機らしいです)を愛用しておりました。

 そしてその福引きケータイを使い続けること8年、その間ケータイもだんだん画面がでかくなっていって、折り畳み式になり、メール文字数も50文字とかじゃなく沢山打てるようになっていって、インターネットもできるようになっていき、カメラも付くようになり、着メロもなんかいろいろ出て、カラーもちゃんと赤緑2色なんかでなくフルカラー画面で、テレビは見れるわ動画は撮れるわ、実にすさまじい進化を遂げました。そして、福引きケータイ会社もいつの間にか大手携帯会社AUに合併吸収されてしまい、老舗ケータイブランドとしてだけ辛うじて存在しておりました。

 そんな中、進化を遂げるAUは高速度データ通信、テレビ電話を可能にする第三世代と呼ばれる通信方式へ、吸収したなべの福引きケータイ会社(こっちのは第二世代と呼ばれる初期のテジタル通信方式らしいです。ちなみに第一世代はアナログ通信方式で日本では今はないそうです。)を移行させるかどうか検討したらしいのですが、一昔前のなべ福引きケータイ方式は、結局じいちゃんばあちゃん層獲得用に回され、進化することなく時代に取り残される事に決まりました。で、打ち出されたのが『カンタンケータイ』というやつですがでもそれもじっちゃんばっちゃんの大きな反響を得る事も無く(好評は好評だったらしいですが、買ってくれなかったらしいです)最終的には2008年3月31日をもって終了、ようするに打ち切り!ブランド名が消えることに決まりました。。

 サービス終了期日が迫ってくると契約変更のAUからの電話攻勢やら自宅訪問やら特典満載の案内やらが凄かったですね。しかも締め切り近くになるに従って、当初の、AUに契約変更さしたってんで〜みたいなタカビーな態度から一転して低姿勢、超腰が低くなって、しかも特典が日を追うごとにドンドンお得になっていくのが面白く、「う〜ん、今考え中なんだがねえ〜。ま、検討しときますわ。」なんてジラすのが実におもろかったです。

 そして最終日3月31日、月曜日の夜、その日私は電車で帰途についておりました。関係ないのですが、途中車内で若い女のコとおっちゃんが言い争っていて、思わす参戦しようかな、と思ったのですが結局女のコがオヤジに文句言い倒すだけ言い倒し最終的には車掌に言いつけ、おっさんは電車から降ろされた様子(痴漢騒ぎではなかったみたいだが女のコつおい。あ〜あ、おっさん情けないなあ)なので参戦は取りやめ、大事な晩なのでなべはおだやかに自分の駅にて降りました。そして雨の降りしきる中、時計は12時を回り、1分、2分とすぎていきました。

 長年愛用していたなべのツーカーケータイは、時刻表示が12時4分を過ぎた時、アンテナの感度を示す三本の棒が突如一斉に消えました。立っていたアンテナが消えたり点いたりする事はよくありますが、この晩はすこし事情が違います。その消えた3本の棒は1分後にはなぜかふたたび回復しましたが、しばらく経つとまた一斉に消えてしまいました。そしてそのまましばらく経ちましたが、その3本の棒は二度と再び現れることはなく、今度はかわりに『圏外』の文字がふっと浮かび上がりました。2008年4月1日、午前12時7分停波、ケータイの歴史においてあざやかな光芒を放っていた『 TU-KA 』が世の中からひっそりと消えた瞬間でした。

 翌日、タダでもらったAUの新携帯の操作がわからず、取り説みてもわからず、メール打つのに30分くらいかかっているなべがそこにいました。操作方法のわけのわからん最新機種のせいでしばらくは気が紛れそうですが、見慣れたあのなじみの小さい緑色の画面、横に置いてある使い慣れたツーカーケータイが、まだ使えたのに今はもう二度と光ることもなくなって、いろいろあった8年の歳月と共に、静かにただ沈黙しているのがかなりさみしいですね。

 でもふとなべは恐ろしい事に気付きました。前述のアステルにしろツーカーにしろ、どうもなべがユーザーになった電話会社というのは必ず消える運命にあるらしいという事です。どうやら危険な男らしいです、私は。でも、ということは数年後にはAUもソフト◯ンクとかに吸われてなくなるかもしれないということで、ということはまた消滅する際にはじらすだけじらせば最新ケータイがなんとタダで手に入るということです。AU加入者に朗報!!AU関係者に凶報!!!なんてね。。。。。

 
     
 
  2008.04.01  

 はー、今年もバレンタインデーが無事終わってひと月以上経ちましたね。またもや昔のはなしですが、中学生ともナルとすっかり自意識過剰かつ色気づいてくるもんですが、中学一年の時、好きなコができまして、なんとかそのコがチョコくれないかなあ〜なんて淡い期待を抱いて本番当日を迎えたのですが、朝下駄箱を見てみてもナ〜ンもなく、まあ朝っぱらからはさすがにないよ、なんて自分をなぐさめて、休憩時間かな、もしくれるとしたら、なあんてソワソワしてたんですがいっこうに何の音沙汰もなく、多分昼休みだよ、きっと、「渡辺くん、ちょっといい?』なんて呼び出されたりしてさ、なあんてちょっと妄想入ってみたりして、で、お昼を終えて気持ちの準備は整っているのにまたもやナベの周辺にはなんの気配もなく、ついに放課後になりました。

 さあ、いよいよくるとしたらこれからですよ〜なんて、気持ちが自然に高まってくるのですが、おめあてのコはいっこうにナベのもとへは来てくれません。教室はそれぞれお目当てのコからチョコをもらいたい男子と本命にチョコをあげたい女子でごったがえしておりました。誰一人帰ろうとしません。ナベも,俺今日はちょっと用事があるから居残ってるねんみたいな顔をしておりましたがいつまでもこっち来てくれないので、さてはみんながいると按配悪いんかな、なんて気をまわし、そのコに判るようにさりげなく席をはずし外に出たのですが、これまた何時までたっても背後から「渡辺くうん、ちょっといい?」なんて声は掛かってきません。

 正味10分くらいでしたでしょうか、しびれを切らしてナベは教室に帰ると、な、な、なんとそのコは帰ってしまっておりました。ガビョ〜〜ン!!目の前が真っ暗になりましたね。ああ俺の人生の全てが終わってしまった、と心の底から思いました。

 肩をがっくり落として家に帰り着くと遊びにきていた隣りの気のいいオバチャンが「じゅんちゃんは今日は沢山女の子からチョコレート貰ったやろうけどオバチャンもいっこあげるね。」なんて言われて気分はさらにどん底に落ち込みました。(オバちゃん、そうやないんよ。オバちゃんのが一個目やねん!)

 自分のあまりのもてなさぶりに愕然としたバレンタインデーの思い出です。この日女子における自分の存在感のなさというのが判った気がしました。どーせ俺なんか、、てな気持ちですね。それからしばらくは世の中に対して斜に構えて生活してたような気がします。すっかりスネちゃったんですね。

 30年以上たった今でもあの日の敗北感は忘れる事はできないですな。これはトラウマというやつですね。女の子って残酷ですわ、ホンマに。。。

 
     
 
  2008.03.15  

 僕は自分では食いしん坊の方だと思います。食べ物はとっても好きですね。食べる時は黙ってモクモクと食べます。私にはお友達とお喋りを楽しみながらゆっくりお食事をする、気の置けない友人と楽しい会話と楽しいランチ〜〜なんて、ハイレベルすぎて論外です。友達と食べにいくのはそら楽しくていいんですが、ハラ減ってるからメシ食うわけでイザ食う時は思わず真剣に食べてしまいます。私語禁止です。目の前のご馳走が気になって気になって真剣にならざるをえないんです。私にはゆっくりじっくりお食事することは非常に困難です。で、今回は食べ物に関するお話。

 大阪時代、仕事の打ち合わせでファミレスに行った時、相手の方が「すいません、私食べるのが遅いんです。」とおっしゃったので、「いえ、どぞどぞ、ごゆっくり召し上がってください。ま、打ち合わせしながらボチボチやりましょう。」と迂闊にお答えしたのですが、その人はホンマに遅かった。よく見ると一口分の箸ですくう分量がとっても少ないんですね。しかもその方女性だったんですが、話の合間によく脱線する人だったもんで、打ち合わせも食事も一向に先に進まんのですわ。予定では40分くらいで済むミーティングのハズが40分経過時にその人の皿はまだ2合目付近でした。

 終いにはもう話の内容よりもその人の一口分の分量がとっても気になりだしまして、「その一回あたりの量、限界ですか?増やすことって可能ですか?」と言いたい衝動に何度かられた事か。それほどまでにじれったい分量を口に運んでは脱線を繰り返しなさるんですよ。一回あたりのごはんの摂取量よりそのお喋りのカロリー消費量の方が上なような気がしました。その割には小皿をいっぱい注文されてたんでその方の周りには花が咲いたようにまだ手つかずのお料理が並んでましたね。フルマラソンでちょうど10キロ付近をへとへとで通過した時に感じる絶望感とでもいいましょうか、結局2時間ぐらいかかって本編の食事が終わりました。(その人の食事がです。ナベは開始10分でメシ終了してました。)つらかった〜、すっかり暗澹とした気持ちにさせられました。逆にお店を出た時にはこっちが早くもお腹すいてきてました。

 次は食べそびれたシリーズなのですが、話は古いんですが小学校の家庭訪問の時のお話です。先生が家を出られる時に母親が出したブルボンホワイトロリータがなんと手つかずだったので、先生を次の子の家に案内した後大急ぎで帰ったらもうすでに跡形も無くなっていたのがすごいショックでした。母親が食っちまったんですね。もう半泣きで抗議しましたが、なぜか逆ギレされて悔しかったのを憶えてます。

 そういやこないだ一流ホテルでサックス講師大集合みたいなシンポジウムがありその日は研修終了後に夕食会がある、と聞いていたのでとってもとっても楽しみにしていました。で、研修も無事終わり楽しい夕食会が始まったのですが、お皿を持ってご馳走をよそいに行こうとしたらスタッフに捕まって「渡辺さん、何か一曲吹いてください。」と言われて、じゃあ吹いてからゆっくり食べよう〜なんて思っていたらなんだか演奏の段取りがとっても悪く無駄に時間がかかり、無事吹き終わってさあ、食べるぞー!!ていう時に司会が「それでは宴もたけなわではございますが、皆様そろそろお開きとさせていただきたいと思います。」なんて言われて、気を失うほどのショックを受けました。今でもこうして思い出していると涙が出てきます。あまりにもかわいそうすぎる。。。

 皆さんはなんかこういう食べそびれた悲しいご経験てないですか。自分が哀れでなりませんよね。メールくださいね。

 
     
 
  2008.03.01  

 この時、ようやく足の下に何も無い、という状況が伝わってきました。墜落という想像を絶する恐怖というものを初めて感じた瞬間でした。墜落というものは地面で見上げている程悠長なものじゃないですよ。とんでもない加速をして離陸したあとですから飛んでいる早さはさらに速く、ひろい滑走路に着陸する分には速度感が判りませんが実際墜落するとなって民家とか建物とかがありえない速度で眼下を通り抜けるのを見て、しかもあの中に墜落するんだ!と思った瞬間はただ、こわいこわいこわい!です。墜落する恐怖とは、狭い箱の中で確実に死ぬと判っている恐怖であり、しかもその瞬間まで時間的余裕がありそしてその間何も出来ないというひたすらな恐怖でもあります。

 飛行機はさらにガコン、ガコンといった妙な感じで高度を下げています。もちろん空港の影は見当たりません。いったいもうどれくらい空港から離れたでしょう。海上に出ればなんとかいつもの滑走路口にたどり着ける可能性もあるのでしょうが海の影は見当たりません。そして機は山あいをはずれ、住宅もちらほらと点在している田園地帯に差しかかってきました。機長はいったいこの状況をどうしようとしているのでしょうか?飛行機のエンジン音は相変わらずキィーンと甲高い音をたてています。すでに窓の下40メートルほど下の民家の瓦屋根が飛ぶよう
に後ろに流れていきます。かなりの絶体絶命な状況になってきました。客席からは見えませんがどうやら飛行機は前方に田んぼなどの不時着地を探しているようです。ですが肝心のエンジンが、もはや機を持ち上げられなくなってきています。

 「大空のサムライ」の中でとても印象的だったのが飛行機の失速についての記述です。『飛行機が最小半径で旋回するにはどうすればよいか?一般には最小のスピードで最大の舵をきればよい、と考えられている。実はまったくその通りなのであるが、飛行機の場合は失速という致命的なハンデがある。これは飛行機が快適に飛び続けるにはある一定の速度が必要であり飛行機がその速度を切った瞬間、突如この失速というのがおとずれるのである。この失速というのはコントロールのきかない墜落であり不時着とはまったく違うのである。』 ということはこれ以上この機のエンジンの出力が下がってしまうと不時着地にすべりこむ前に飛行機は失速⇒墜落してしまうことになってしまいます。

 機はしばらくこの高度をなんとか維持しているようでした。ですが、突如、ウイーンというモーター音が聞こえてきたかと思うとなんと、主翼の後ろ側から収納してあった着陸用の予備の羽根が伸びてきました。もう、エンジンだけでは浮力を維持する事ができずフラップを一杯に出して揚力を得ようとしているようです。車輪はどうやら出ていないようなのでいよいよ不時着しかも危険きわまりない胴体着陸が迫ってきました。なべは自然に足の指に力が入ってきました。下の地面は相変わらず田園風景が広がっています。もう高度は15メートルほどでしょうか。おぞましいほどの接近の仕方です。エンジンはもうパワーを出せていないようです。相変わらずあの変なガクン、ガコンといった下がり方で飛行機は10メートル、7メートル、5メートル。

 とイキナリここで真っ白なアスファルトが窓の下に一気に広がりました。オオッ!!と思っているといつものドーンといった着陸時の軽い衝撃とゴロゴロゴローという車輪の響きと直後にグオオオ〜といったエンジンのパワフルな逆噴射によるマイナスGが体にかかってきました。飛行機はなんと宮崎空港に逆方向から無事着陸したのです。うおお〜、びっくりしたあ〜、あせったよお〜、こんなんありかいなー、とひとりで内心汗びっしょりでした。

 どうやらいままで経験がなかったのですが、宮崎空港は海風と陸風の違いで飛行機の離着陸の向きが海方向、山方向と変わるらしいです(その日乗ったタクシーの運ちゃん談)。なべが乗る時はなぜかいつも海専門だったので、それに滑走路も海側に伸びたしー、おやじさんの恐怖の逸話もあるので渡辺家では宮崎空港は必ず海方向と思いこんでたんですね。いやあ知らんかったですわ。例のゴンゴンという異音も実はあれが車輪を出す音だったらしく機は正常にいつもの着陸手順を踏んでいただけだったんですな。機がふらついたりスウーッと落ちるような感じがしたのはなべが一人で勝手に墜落モードに入っていたせいでそう感じただけであり、あれも正常なフツーの着陸前の減速と降下飛行だったようです。エンジンがパワーがなくなっていたのはパワーを絞っていただけなんですね。でもそれらすべてを墜落じゃ−!と考えてしまうこのなべの妄想力も大したもんだと思いました。

 でも乗っていた時に一瞬感じたあの墜落の恐怖!あれはマジでリアルにすんごい超こわい!!浅草花やしきのジェットコースター(マニアック〜)が、きゃあ〜!いや〜ん、なら全日本空輸のこれはウギャアアー!だれか助けてくれ〜ですよ。もう近年まれに見る超絶ド迫力でした。はー今回はまんまと一杯喰わされましたよ宮崎空港に。でも振り返ってみると渡辺さんたらほんのちょっとしたキッカケで、あーもう完全に墜落すると思いこんでしまうんですからねえ、アホですねえおなべさんたら。まいったまいった。でもこの妄想による仮想不時着体験は
ハッキリ言って楽しめましたよ。次回からこの妄想はクセになるかもねえ。ふふふ、なんちて。

 
     
 
  2008.02.14  

 前回の三股リポートの時の帰省は当然ながら飛行機で帰ったのですが、飛行機自体なべは超久しぶりに乗ったですね。なべは飛行機は乗るのがとても好きで何が気に入ってるかといえば、離陸時のあの急激なる加速がとっても気に入ってます。子供のころ初めての乗った時はもうびっくりしましたよ。当時我が家のマイカーであったパブリカの加速とは比べ物にならないくらいの強烈なダッシュ。シートにお尻がグググッとめりこんでいってもまだまだ容赦しないあのありえないくらいの加速の仕方が信じられなかったですね。で、それ以来なべは飛行機の加速萌えになったのですが、今回はそのあとの話で着陸時の墜落萌えのお話です。

 久しぶりの宮崎空港は滑走路が2500メートルに延伸され各種設備も充実し今や「日本一のローカル空港』なんて言われているようですが昔は当然ながら一地方の鄙びた空港でした。子供の頃、おやじさんから聞いた話ですが、おやじさんが福岡に出張で行きその帰りの飛行機でのこと。宮崎空港の滑走路は海に面しているために海上にガスが発生すると着陸がとても困難になるらしく、その時もかなりの濃霧だったそうです。で、おやじさんの飛行機は果敢にもそのガスの合間を抜けてどうにか着陸しようとしてたらしいのですが、なかなか陸地の視認ができず何度もやり直しをしてたらしいです。で、ようやく最終アプローチまでこぎつけてイザ、着陸!となった時、霧を抜けてようやく見えた滑走路がなんとまっすぐになってなくて斜めに走っていたらしいです。真っ直ぐのつもりが斜めに着陸しようとしてたんですね。当時は進入管制システム自体が現在のように発達していなかったので、最終段階ではまだまだ現場のパイロットの目視に頼る部分が多かったみたいです。

 結局、飛行機は着陸不可能ということで再び福岡空港に戻ったらしいですが、またそこから福岡まで戻れるというのもスゴイですね。で、ナベはそんな話を聞いていたもんですから、宮崎に飛行機で帰るたび着陸の時、ちゃんとまっすぐに飛行機が滑走路に進入しているか気にする癖がついていました。2回の帰省のうち前回の時は、なんとなく眼下に見える日向灘の白波が大きく見えて来たと思ったらアッという間に海上に延伸された滑走路が真下に見えてそのままドーンと着陸したのでヨシヨシと思っていたのですが、今回はなぜか様子が違いました。

 海岸線が見えるようになっても機は一向に高度が下がりません。それどころかエンジンのうなりが一段と大きくなったと思ったらふわりと上昇を始めました。これはおかしい。下を見るとすでに宮崎空港とおぼしきものはだんだんと小さくなっています。どうやら飛行機は進入に失敗したみたいです。でもなぜなんだろう?といいますのは、その時の天候は快晴で視界は良好、海に立つ波の様子からもさほど風が出ている訳でもなさそうでした。ですから天候の影響が着陸に出ているとはどうも考えにくいのでした。そういえば、着陸のアナウンスがあった後いつもは
車輪の出るウイイ〜ン、ガコーンという音がするのですが、今回はまだその音を聞いてません。と、いうことは、もしかしたら降輪装置に不具合が出て着陸できず急遽上昇して旋回しながら善後策を管制塔と協議しているのでしょうか?

 そういえば最近よく車輪が出ない胴体着陸のニュースを耳にします。さあ、大変なことになってきました。そう考えると先ほどの急上昇も話が合います。ふとここで、なべの愛読書である「大空のサムライ」の一節を思い出しました。この本は日本の誇るゼロ戦のパイロット酒井三郎氏の著書で飛行機の特性から人生における生き方まで多岐にわたってわかりやすく書いてある名著です。その中にパイロットの心理についてこう書かれてありました。

 『飛行機乗りにとって飛行中のトラブルはもっとも考えたくないことである。だがもし、飛んでいる最中にトラブルが起こってしまった時、一般には高度が低ければ安心と考えられがちであるが実はまったく逆であって高度が高ければ高いほどパイロットは安心できるのである。なぜならば高度が低ければ地面との距離が近いために不時着のための時間的余裕が無く少しのミスが命取りになりかねないが逆に高度が高ければ心を落ち着ける時間的余裕もあり安全な降着地点を探したり、その間に不都合の対処もできる訳である。』
 ということは、降輪装置がもし本当に動かなくなってしまったとしたら、そしてそのために海側の滑走路進入口から離れ、機首を山側に向け上昇したのであればこの機は万一の墜落にそなえ人口密集地を避けたと推測されるわけです。どうやら万に一つも出くわさないだろうと思っていた飛行機事故がだんだんと身に迫ってきたようです。そうこうしている間にも飛行機は微妙に角度を変えつつドンドンと空港から離れ、山間部上空を飛んでいきます。やはり明らかにいつもとルートが違います。
 それに先程からどうにも微妙な揺れ具合です。これはもっと他の箇所のトラブルなのではないでしょうか?すると飛行機は何かを避けるように急旋回をはじめエンジン音が非常に高い金切り音になりました。と急に飛行機がストンと落ちたような感じがあり、その直後ゴンガゴンという何かが軽い衝撃が客席に伝わってきました。これはもしかしてエンジン自体に何かトラブルが発生したのでしょうか。

 先述の「大空のサムライ」の中に旋回中の飛行機は失速速度が大きくなるので墜落しやすくなると書かれてありましたが、もしかしてエンジントラブルで出力が足りずに失速速度寸前まできているのでしょうか。外の景色はと見てみますとよく晴れてますから真下の風景がくっきりと見えます。そしてその高さはなんと以外にも先程までのいわゆる{ 余裕ある高度 } ではまったくありませんでした。あろうことかナベ機はいつのまにか見た事も無い山あいの新興住宅地上空をかなりの低空でフラフラさまよっているではありませんか。後編に続く。。

 
     
 
  2008.02.01  

 川沿いには野菜畑が広がっていて道は歩きにくいぬかるんだ農道になっています。記憶を辿ってそのドロの中を歩きながらなんとか幼いころトンネルを見た地点とおぼしきあたりまで行ってみようと試みました。そして背丈を軽く越えている草ぼうぼうをなんとかかき分けながら川に向かっているとふと鉄橋付近で放置された古い橋台(橋を乗せる土台)を発見しました。これこそ例の消えたトンネルの謎を解くカギでした!

 現在の鉄橋の橋台はこざっぱりとした白いコンクリート製で、その廃棄になった古い橋台の真横に仲良く並んでいます。問題の古い橋台は大正時代を彷彿とさせるような赤レンガの扇形デザインで(調べてみたらやはり大正3年開通らしいです。すごい年代物ですね)竣工年月日の銘版はみつけることができませんでした。ただ現役の鉄橋には銘版がありそれによると竣工されたのが約40年前になっていて、ちょうどチビなべのいた頃はまだできていなかっただろうと思われます。ということはチビナベの見たトンネルと鉄橋の風景は今の電化された鉄橋ではなく大正時代からの古い橋の晩年の姿で、その先にあったであろう古いトンネルは口径が小さく天井に架線を張れない等の理由で、何年か後に電化完了したであろう現在線の全線開通の際に旧線と共に放棄されたのではないか、と推測されるわけです。

 とりあえず仮説が立ったので裏付けをとるために鉄橋につながる築堤に這い上がってみました(もう汗まみれ、ドロまみれ、草まみれですJR職員に見つかったらまず間違いなくコラーッ!言われます)。するとやはり現在線の真横に草ぼうぼうになった旧線の土盛りが少しずつ角度をズラして走っていました! チビナベの頃の線路の路盤は多分こちらでしょう。見るとその先に先ほどの古い橋台があり現在線と微妙に角度が山側に向いているので、多分川を越えた延長上にきっとまだあの思い出のトンネルが草の中に埋もれているのではないかと思われます。ただそこに近づくにはここからだと川を泳いで渡らないといけないので、やめにしました。しかも接近できたとしてもかなり自然に還っている状態であろうと思われるので、とりあえず今日の所は謎も解けたのでトンネル探索はここまでにして、次回バッチリとそれなりの装備をして面会にいくことにし、思い出の川を後にしました。

 盆地のお天気はメチャクチャです。晴れたり大雨になったり、しかも十分な食料も携帯していなかったのでさすがにフラフラです。ので最後にもう一回だけ思い出の塚原団地をぐるりと回って帰途につく事にしました。この頃になると夕飯の準備とかで廃墟の町にも人がちらほら見うけられます。こうしてみてみると田舎の建物とか町並みはどことなく古い田舎の匂いを残しているのですがそこに住む人はあんまり都会も田舎も変わらない気がしました。自分がハタチぐらいの頃は田舎ファッションと都会ファッションはハッキリ違いがありましたが、今は日本全国情報がゆきわたっているせいかここらに住んでいる人達も都会となんら変わらず、とても洗練された感じです。なべ vs 三股住人の本日のファッション対決はなべの完敗でしたね。

 遅い昼食は都城まで電車で一旦出てとりました。結局三股にはご飯どころが全くなかったです。わが人生のルーツの地ではありながらも、山登りと同じで迂闊にこの町に踏み込むと遭難しますね。都城でも駅前ですら食べ物屋さんはなく、ようやく今開店したばかりの白木屋に入って食事にありつけたくらいです。前述の小2の旅行の時にはここ都城駅に隣接していたデパートのレストランでお母さんとカレーを食べた記憶があったのですが(おいしかったなあ)そのデパートはすでになくなっていました。さすがに寂しかったですね。遅い昼食のあと駅に戻ると宮崎行きとは別のプラットフォームに吉松行きのディーゼルカーが止まっていました。熊本に抜けるこの山岳路線はまだ電化されてなく将来的にも電化はされないでしょうから昔ながらのディーゼル車です。時間があったので戯れに乗り込んでみたら車内は子供の頃に嗅いだことのある木のぬくもりの匂いがしました。この匂いはすっかり忘れていましたね。一瞬あたまがクラクラッとしたくらいです。

 ここ都城駅も駅構内には使われなくなった貨物用の広大な敷地があり昔の繁栄がうかがえます。以前はもうひとつこの駅から遥か80キロ彼方の日南の海にむかって志布志線というローカル線が発着していたのですが国鉄再建法の前にあえなく廃線となり、40年前、白い夏の日射しの中でちびなべの降り立った志布志線乗り場は消滅していました。志布志線の路盤は構内にはうっすらと残っているもののその先の線路跡は更地になっていてあとかたもありません。乗り場案内の矢印の志布志線の欄だけが消されて不自然な空欄になっていて往時を偲ばせてくれます。例の小2の思い出の旅行は志布志線経由でまわってきたのでもう二度とその旅行の跡を辿る事はできなくなりました。頭の中にはハッキリ実像として当時のいろんな記憶があるのでそれが物理的にすでにナイ!という状況がなんとなく不思議ですね。

 今回の旅は時空が頭の中で飛びまくってかなりシュールな旅でした。帰りの電車の中、今日の長い一日をゆっくりと反芻しながらゆっくりと沈んでいく夕日を眺めていましたが時が経つのって本当にアッという間なんですね。今日一日は長かったけど今日までの40数年間はなんだか短かかったなーと、いうのが正直な感想でした。でもきっとこういうふうにたまにじっくりと人生を振り返ることができたのって多分とっても幸せなことなんじゃないのかな、とも思いました。

 
     
 
 

2008.01.15

 

 2両編成のローカル列車は三股駅に到着しました。車内は割に満席状態でしたが駅で降りた乗客はなべひとりでした。盆地に位置するこの土地はまわりをぐるっと山に囲まれていて快晴のこの日は青い山並みと白い夏の雲が夏の日差しに美しく映えています。降りると電車はすぐ発車し夏の陽光の中になべはひとり取り残されました。あたりをぐるりと見渡してみても人は一人もいません。プラットフォームは割合手入れがされているようですがペンペン草がちらほらと生い茂っていて無人駅の哀愁がなんとはなく漂っております。40年前には貨物取り扱い駅として大いに賑わったこの三股駅は今では草ぼうぼうの広い敷地にその繁栄の後をしのぶことができるのみです。

 駅を出てみるとさびれた駅前ロータリーにも人はひとりとしていません。駅前からのびる道の両側には商店が一軒と大衆食堂兼旅館の『一富士』がありましたが両方とも営業を廃止して数十年は経つのでしょうか。普通なら駅前の一等地なのにシャッターはさびれ、ひさしは破れはててボロボロの状態です。本当にあたりに人気がまったくないのがとても不思議でまるで人のいなくなった世界に迷い込んだ気分でした。そうやってぼんやりしているうちにも体はジリジリと熱くなってきます。帽子が家になかったので傘を持参したのですが宮崎の日射しは油断ならないのでなべは用心して早速傘を差して歩くことにしました。ファッション的にはイマイチで納得いきませんがアヤしい格好の人ってどこ行ってもいるので今日はそんな人のフリすればいいかあ、なんて思いながら、目的地の塚原団地方向にトコトコ歩いていきました。

 思い出の塚原団地は以外にもこざっぱりとしたさびれ具合でした。前回の訪問は深夜だったので闇に浮かび上がる廃墟群がとてもナイスな怨霊っぽさを醸し出していてあろうことか夏の夜の恐怖のふるさと訪問シリーズとなってしまったのですが、こうして昼間来てみると団地群は人が住んでいないというだけで沢山ある空き家はある程度ちゃんと戸締まりおよび手入れがなされていました。なべが女の子に突き飛ばされて骨折したゴミ焼き場跡もちゃんとゴミ用のケージが設置されていて今でも居住者用に(全戸数の5パーセントくらいはまだ住んでらっしゃるようです)利用されているみたいです。こぎれいに手入れされたお庭のある家からはガンガンのロケンロールが流れていて以外にも残っている人達は隣近所に気を遣わなくていい塚原団地廃墟生活を楽しんでいるみたいです。

 いよいよなつかしの我が家に到着しました。前回は明かりのない深夜、怨念感が漂いまくってるなかでの訪問だったので場所が全く確定できなかったのですが今回は号棟をちゃんと確認して来たのですぐわかりました。三股24号。我が家はすでに空き家になって久しいらしく釘で打ち付けられている戸板のくたびれ具合がその歳月を物語っています。どうにかして中をのぞいてみたいのですが戸板はビクともしません。ただ古くなった木目の穴からなんとか中をのぞく事ができたので、持って来たデジカメで穴に向かって激写しまくりました。中の様子は割に綺麗でした。口を歪めながら小さな穴を覘いていると幼い頃家族で過ごしたセピア色の時間が心のなかになんとなくよみがえってきます。40年前への時間旅行でしょうか、ささやかな幸せの時間でした。ただ誰かにこの様子を見られたら雨戸にへばりつく不審人物がいる、ということで宮崎県警にしょっぴかれてしまうので、あたりを見回しては雨戸にへばりつき、サッと離れては又上から下からのぞきまくる、と不審な行動をしばらく繰り返しました。

 そうやって夢中になっていると急激にお腹が空いてきました。計画では三股でどっかのファミレスかコンビニで腹ごしらえをするつもりだったのですがすでにその計画はあっさりナシになりました。そんなものはどこにもナイです。のでとりあえず休憩用に南宮崎駅で買っていたウィンナー入りちくわを仮の昼食代わりにしてしばらく休憩です。いや、ホント人がおらんですわ。さっきミニバイクのお姉ちゃんとすれ違ったのが久しぶり3時間ぶりの人との遭遇で向こうも向こうで、アラ、こんなトコに人がいるわ、みたいな不審な目をしてました。ほんと人がいなくなったんですねえ、この集落は。昔は賑わっていたのに。栄枯盛衰、今は昔、といった感じの思い出の場所です。

 そういえば、ふとここで先ほどの消えたトンネルのことを思い出しました。どうしてなかったんだろう。ここからも鉄橋を越えていく電車は見えるのですが橋を渡り終えてスグのところに見えていたトンネルはどうしても見当たりません。この謎をそのままにしておくとまた寝られなくなっちゃうのでかなりヘトヘトでしたが頑張ってこれまた思い出の川に向かう事にしました。そして遂にそこで消えたトンネルの謎が解明されたのです。(おおげさ?)続く。。。。

 
     
 
 

2008.01.03

 

 去年の夏のことですが、久しぶりに田舎に帰ってきました。以前塚原団地シリーズで田舎宮崎のことを書かせてもらいましたが実はあのあともう一度、用事があって里帰りしてまして、これはその時の話です。

 やはりなべ人生のルーツである塚原団地との衝撃の再会はあまりにも強烈で、もう一度しっかりとこの目で見ておかないとどうにもなべ心が落ち着きません。で、今回の滞在は少し余裕があったので中日丸一日を使ってじっくりと三股町を散策する事にしました。

 前回の教訓で南国の強烈な日差しとあっという間に変わる雲行きを十分警戒し傘を一本持って行く事にしました。これは日傘兼雨傘。やはり10年以上留守にしていると宮崎事情を忘れてしまいますね。あとデジカメとポカリスエットを持って、いざ出発、懐かしの南宮崎駅より日豊線下りで一路心のふるさと三股町へ。そういやこの南宮崎駅もなべ人生の幼少時における重要施設でさまざまな思い出がここを発着点としています。はじめてSLを見たのもこの駅だったなあ、もうその鉄の車輪の超バカでかいこと。昔はとてもおおらかで機関車のスグ近くまで子供でも接近できたんですね。もうこども心にビックリしましたよ。とまあこんな感じで尽きないお話がいろいろあるのでまたこの駅を題材にシリーズを一席設けますね。で今回はその南宮崎駅からまたしても思い出の旅に出発です。

 昔の列車はディーゼルカーで窓が開くタイプでしたから汽車に乗るとなべは必ず窓を開けて外の景色とにおいを顔全体で楽しんでおりましたが、今は路線が電化され車内の空調システムが完璧になったせいで汽車(すでに電車ですが)の窓は永遠に開かなくなりました。ので、山間部を走る汽車の記憶を辿るのはガラス越しに見える風景だけです。それでも相変わらす南国宮崎の山の中は爆発的な成長エネルギーがありましてぼんやり車内から進行方向を見てますと、まるで電車が無理矢理ジャングルをかき分けて進んでいってるような錯覚が起きるくらい緑のチューブの中を列車は走ってます。都会の近郊路線のような整然さはまったくなくあくまでおおらかに大自然と共存しているような所が宮崎ならではで面白いですね。

 電車はどんどんタイムスリップの旅に誘ってくれます。清武、田野、日向沓掛(ひゅうがくつかけ、と読みます)、山ノ口と懐かしい駅名が次々に登場です。途中、青井岳(あおいだけ)という山間部ならではの名前の駅があります。面白い事に今回この駅の手前に架かる鉄橋からはるか下に流れる渓流がとても青い色をしていることに気づきました。駅名と何か関係があるのでしょうか?そういえばここは昔ナベが小2くらいの頃、お母さんに連れられて汽車旅行をした時にこの駅で列車が信号待ちで止まった記憶があります。その時に宮崎方面から入ってきたすれ違い列車に学校の顔見知りの上級生が乗っていて列車ごしに手を振って挨拶をしたのを憶えてます。いくら宮崎が狭いからといってそんな山の中で知り合いに合うとは思っていませんでしたからびっくりしましたね。たしかその時はこっちも向こうも車内は満員で青井岳駅構内も広くたくさんの側線をかかえ、多くの駅員さんで賑わっていたような気がするのですが、それから30年ちかくが経ち、かつてはこの地区にあった小中学校も廃止されて久しく、今は蝉時雨のなかにポツンと簡易駅舎が佇むだけの無人駅になってしまいました。

 さて、だんだんと列車は三股町に近づいてまいります。で皆さんに聞いてみたいのですが、ポッキーとかプリッツとか食べる時、プリッツを指でスーと押し込みながら前歯でカシカシ食べた経験ってないですか?この先の三股町には沖水川というこれまた思い出深い川があるのですがなべは子供の頃、汽車がガタンゴトンいいながら鉄橋を渡ったところでトンネルにスーッと入っていくのを見て、よくプリッツを汽車に見立ててマネをしてました。男の子ですから汽車とかが無条件に好きだったのでそんな思い出があるのですが、実はそのトンネルの風景というのが今回心の中で一枚の思い出のクリップになっていて、久しぶりにそのトンネルに出会うのをとても楽しみにしていました。

 で、前回車で迷った山間部あたりを電車が通過したのでそのトンネルを今か今かとワクワクしながら待っていたのですが、な、な、なんと、電車はトンネルに入ることなくアッサリと沖水川の鉄橋に進入してしまいました。あれ?これだともう塚原団地の横を通り過ぎる?あれ、トンネルなかったじゃん!!これはおかしい。でっかい山の中は今通ってきたよなあ。で、その山の真ん中にトンネルがあってそこを線路が走っていた記憶が確かにあるのだが。これはいったいどういうことなんでしょうか?次回に続く。。。

 
     
 
   
 

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