中米とは、植民地時代のグァテマラ軍務総監領からメキシコに参加したチアパス州を除く範囲を指す。1823年7月、中米諸州連合として建国された。領域は概ね日本の1.2倍、当時のラ米独立国家の中ではメキシコ、アルゼンチン、グランコロンビア(現コロンビア、ベネズエラ、エクアドル)より遥かに小さい。概ね南米パラグアイ位の広さだった。それが分裂して出来たグァテマラ、ホンジュラス、エルサルバドル、ニカラグア及びコスタリカの五ヵ国は、独立記念日も国旗のデザイン(色の配分は異なる)も同じで、住所も国名の後「中米」を意味するCAが付く。
(1) モラサンの中米再統合の夢
前出のホンジュラス人、モラサンは、今も中米の父として敬愛される。独立後の国家統合に精力を傾けた。1842年にコスタリカ指導者となった彼は、4年前に崩壊した中米諸州連合の回復を図り軍事行動を起こすが失敗、処刑された。だが彼の夢はその1842年を含め、よく知られるものでは、十九世紀だけで3度試みられた。
表1
年
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月
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再統合への動き
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1842
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9月
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中米連邦結成(エルサルバドル、ホンジュラス、ニカラグア)、挫折
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1885
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2月
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バリオス(1835-85)・グァテマラ大統領、中米統合宣言、挫折
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1895
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6月
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大中米共和国結成(~1898。エルサルバドル、ホンジュラス、ニカラグア)
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1842年の中米連邦、95年の大中米共和国いずれの構想も、域内大国のグァテマラと、モラサンを処刑したコスタリカが参加せず、前者は加盟国間の戦争で、後者はエルサルバドルでのクーデターにより、いずれも僅か3年で崩壊している。
前者については、挫折後もこの三国間で統合に向けた交渉は続き、1852年には憲法草案まで出されたが実現に至らなかった。3年後、ニカラグア大統領の座を簒奪した米人ウォーカー(1824-60)追放に中米諸国が結束して当たる(「国民戦争」(別掲「ラ米の軍部と戦争」の独立黎明期の戦争参照)。これはしかし、再統合の動きには繋がっていない。後者は、そのニカラグアで国民戦争後初めて政権を取ったセラヤ(1853-1919))大統領が主導し、挫折後はグァテマラも加わった域内戦争時代に入った。
1885年、バリオスの中米統合宣言にはエルサルバドルとホンジュラスが応じた。メキシコが、これを事実上のグァテマラへの併合、と注意を喚起した後、エルサルバドルが翻意、ニカラグア及びコスタリカと軍事同盟を結ぶ。彼はエルサルバドル侵攻作戦に出たが戦死、構想は結実しなかった。だが、中米統合を主導した結果、悲壮な最期を遂げたことで、彼は、42年のモラサンと並べられることもある。
(2)中米諸国機構(ODECA)から中米統合機構(SICA)へ
1907年、域内戦争状態にあった中米五ヵ国の代表がワシントンに集まり、和平条約に調印した。米国とメキシコがこの調停者となっている。条約に中米司法裁判所の設立が盛り込まれ、翌年、10年間の期限付きではあれ共通の組織が初めて開設された。だが中米再統合への試みが本格化するのは、第二次世界大戦後のことだ。
表2
年
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月
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地域統合への動き
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1951
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10月
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中米諸国機構(Organización de Estados Centroamericanos、ODECA)創設
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1960
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12月
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中米共同市場(Mercado Común
Centroamericano、MCCA)創設のための「中米経済統合一般条約(マナグア条約)」調印。
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1991
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10月
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中米議会(本部グァテマラ市)発足
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12月
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中米統合機構(同サンサルバドル。Sistema de la Integración
Centroamericana、SICA)、ODECAを改組して創設
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1993
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10月
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中米経済統合事務局(MCCA本部。SIECA)(同、グァテマラ市)SICA事務総局の下部機構として創設
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1994
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10月
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中米司法裁判所(同、マナグア)再開
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2004
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8月
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米国・中米・ドミニカ共和国自由貿易協定(CAFTA-DR)創設
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1951年10月14日、ODECAを創設した日は後年「中米統合記念日」と呼ばれる。2年後、解散していた中米司法裁判所の再開も謳われた。1960年12月のMCCA創設条約締結による中米経済統合銀行(Banco
Centroamericano de Integración Económica 、BCIE)設立で、中米統合は順調に進展しよう、と見られた。この時点で加盟を留保したコスタリカも62年7月に参加する。だが、実体実現には、長い時間を要した。
その理由の一つとして指摘しておきたいのが、キューバ革命(下記ニカラグア革命共に、別掲ラ米の革命参照)の影響を受けた左翼勢力の動きだ。1979年のニカラグア革命、80年代のいわゆる「中米危機」、と激動の時代が続く。その中でも統合への努力は続いた。
1991年12月、中米諸国機構(ODECA)が、パナマも参加して、SICAに改組された。発足時、グァテマラは内戦終結に至っておらず、テグシガルパ議定書に、「目的として和平」が盛り込まれるのは、80年代の「中米危機」を反映したものだ。 2001年、旧イギリス領のベリーズ、13年6月にはドミニカ共和国も加盟し、原中米五ヵ国を超えた動きを示してきている。
機構面では、一応下記の通りとされている。
- 首脳会合(議長は輪番制):最高決定機関
- 中米議会:各国から派遣される民選議員20名ずつで構成
- 中米司法裁判所:加入国はMCCA加盟国に限定されているようで、且つ、コスタリカが参加していない。
- SICAの事務総局(SG-SICA):MCCA本部(SIECA)、中米経済統合銀行(BCIE)を含む、社会統合、環境開発などなど、多くの分野別事務局及び機関を統轄する
首脳会合の両翼に中米議会と司法裁判所が位置し、恰も三権分立体制に見える。前者は、SICA自体の創設の2ヵ月先行してスタートした。コスタリカ及びベリーズは加入せず、パナマが加入する(一時的脱退期はあった)。SICAに準加盟だったドミニカ共和国も、2010年、これに加盟した。後者は、ODECAで再開を謳われてスタートするまで41年を要した。SICA機構の筈が、加入国はコスタリカを除くCMMA加盟4ヵ国のみだ。
SICAの事務総局の下部組織としてMCCA本部(SIECA)が創設されたのは、1993年のことだ。それまでの本部機能は、本来インフラ整備への融資事業を行う目的で創設されたBCIEが代行していた。
そのBCIEには現在、ベリーズ(受益国)以外のSICA加盟7ヵ国、及びスペイン、メキシコ、アルゼンチン、コロンビア、並びに台湾が正式加入しているが、目的は中米の経済社会発展及び統合を推進としている。
SICAの土台はあくまでMCCAだ。EUと同様の関税同盟を築いたMCCAだが、SICA創設に自由貿易国のパナマが入った。関税同盟は成り立たない。ベリーズにしても同様だ。2004年1月、MCCAとして米国との自由貿易協定(CAFTA)が成った。同年8月、それにドミニカ共和国も参加するCAFTA-DRに進んだ。発効は09年1月だ。同国はその翌年に中米議会にも加入、13年には、SICA加盟国となった。SICAとしてもモデルは、規模的に圧倒的に異なるEUだが、関税同盟としては、その機構内のMCCAに限定される。
(3)統合機構における中米五カ国の分担
モラサンの夢である本来の中米統合は、実質的にMCCAとして結実したかのようだ。だが、前述の通り、コスタリカは非経済部門では中米議会にも司法裁判所にも入らず、独立独歩の道を進み、原中米五ヵ国から肌合いが異なる同国を外した「中米4ヵ国(CA-4)」との呼び方が一般化しつつある。CA-4では、旅券の共通仕様(国名と共に中米の地図を入れたデザイン)に加え、2006年6月には、域内航空便を国内交通同様の扱いにすることを決めた。
MCCA全体として関税同盟の実現もほぼ完成し、域内関税が砂糖、小麦、小麦粉及びエチルアルコールを例外として既に撤廃されている。加盟国の現状は下表の通り、多様である。
表3
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国名
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中米統合への関与
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①
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グァテマラ
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MCCA本部たる中米経済統合事務局(SIECA)及び中米議会所在国。右派のペレス・モリーナ大統領は軍人出身
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②
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コスタリカ
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中米議会、司法裁判所いずれにも不参加。域内随一の高所得国。右派のチンチーヤ大統領は同国では初めての女性
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③
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エルサルバドル
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SICA事務総局所在国。域内では唯一米㌦を国内通貨とする。中道左派のフネス政権与党は元左翼ゲリラのFMLNだが、現実路線
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④
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ホンジュラス
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BCIE所在国。ニカラグアと並ぶ域内貧困国。ロボ中道右派政権は、クーデターで追放された前大統領の帰国まで、正統性で苦しんだ。
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⑤
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ニカラグア
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中米司法裁判所所在地。ラ米最貧国。左派のオルテガ大統領は79年革命の指導者。2007年1月に復権し、現在連続第二期目
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オルテガ政権下のニカラグアが域内左派政権との繋がりを深め、軍隊を持たないコスタリカとの領土紛争が懸念材料と言える。コスタリカは、メキシコ、コロンビア、ペルー及びチリから成る別掲の太平洋同盟への加盟に向け動いている。
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